≪私≫の基にヌミノースがあるのですから、人間の基本は、飛び上るほどの、心からの悦び、ということになります。まるで ”子ども” でしょ。それができていないとすれば、それは基本の「き」ができていない証拠です。
あなたはどうですか?
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p45の下から5行目途中から。
宗教や芸術は、「我こそはヌミノースを養うものなり」と、伝統的に一番強く主張してきた組織です。ヌミノースの輝きを養うことは、ヌミノースの輝きは、ヌミノースが、まとまりになって一つとなった多くの≪私≫達、と分かち合う、いくつもの礼拝の細部に宿るものであるように、全ての人が、全てを包み込む神「私は今ここにいる」と言う名の神・ヤハウェ、と分かち合う儀式の細部に宿るものなのです(エリクソン,1981,「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」)。
ヌミノースは、1人の≪私≫が、集団の多くのメンバーの≪私≫達と分かち合うものなのですが、それは同時に、人智を超える神の≪私≫とも分かち合うものなんですね。
じゃぁ、人智を超える神の≪私≫と分かち合うことは省略して、集団の多くのメンバーの≪私≫達、とだけ分かち合うことになるとどうなるのでしょうか? それは、非常に集団志向的なものになり、熱狂、ファナティズムから生み出される、あらゆるケダモノに変質する危険がいつでもあります。日本の集団主義的組織は、いつもその危険にさらされていますよね。
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