男っぽい性が足りないと、男は、実力行使(「集団的自衛権」という看板のもとでの武力行使)のサドやドンファンになりやすい。
女っぽい性が足りないと、女は、隠然たる力を行使する、マゾかお局様になりやすい。
今日はp35の第二パラグラフから。
フロイトはセックスを過剰に評価しすぎだと批判されてきました。この批判は、フロイト理論から、お堅い人たちの中から批判や敵意が生じてくるような要素をあらかじめ取り除いておきたい、とする願望からなされる場合が多いんです。フロイトもその動機を鋭く嗅ぎ付けて、まさに同じ理由から、フロイトの性理論に変更を加えようとするあらゆる試みと闘いました。実際、当時は、フロイト理論は、挑戦的でしたし、革命の匂いがするものでした。しかしながら、1900年あたりに妥当したことが、50年も経過した後に必ず妥当するわけじゃあ、ありません。性に関する社会的習慣も大きく変化しましたから、フロイト理論は西洋の中産階級の人々に、もはや衝撃を与えるものではありません。正当な精神分析家たちが、フロイトの性理論を定義するときに大胆でラディカルだと自分たちのことを考えるならば、それは荒唐無稽でしょう。実際、精神分析派は、「長い物には巻かれろ」主義でして、現代社会を批判するような精神分析家的な問いを問おうなどとはもはや思いません。
「鼻つまみ者」、「異端児」、「問題児」などと言えば、「困ったな」と愚痴る困惑顔が見えてくるようです。フロイトの性理論は、当時は、その手のものだったのでしょうね。紳士淑女は、公の場では「性」の話などしないのが「常識」だった当時にあっては、フロイトのことを話すことさえ「恥」と感じる時代だったでしょう。しかし、社会を変革するためには、人々が「抵抗」を感じるくらいの理論やヴィジョンでなければ、なりません。そういう意味では、社会を、より人間らしい暮らしのできるものに変革したいと願っている私どもは、「鼻つまみ者」と言う「汚名」に甘んじることをよしとしなくてはなりません。
しかし、「鼻つまみ者」ながら、美しい、見事な「花」が咲く日を覚えたいものですね。
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