エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#支配 と  #シャローム平和

2019-10-06 07:56:48 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 #1人豊か #声
   マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。その声が聞こえることは幸せだと思っております ...
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia
 
  をご参照ください。
  
 
  実に不可思議な声が,今朝、またまたまた聴こえましたので,identity and the life cycle  『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』  を,少し戻って少し戻って,p.101 9行目から。
 
 今朝は,p.102の,第3パラグラフ,14行目から。
 
 
 
 
 しかしながら,毎日聖書の神様と一心同体になる,賢い心の習慣が,体得底で身に付いて,初めて,心の底から(訳注:最深欲求と結び付いた)異性と,毎日礼拝の中で,親友になることが出来るんですからね(ついでながら,異性とばかりではなくて、どなたとでも,あるいは,自分自身とさえ,親友になれますから)。異性とセックスするのは、私が思っていることの,ほんの一部でしかありません。と言いますのも、相手と互いに真実で、互いに息を合わせて、互いに大切にする聖書の神様が認める唯一無二の関係を育てる力がなくても、異性とセックスはできますでしょ。(聖書の神様や誰かと)一心同体になれたと確信できない若者は,人と本音で関わることを避けるようになりますね。逆に,人って,自分自身(訳注:の実感・体感)に腑に落ちれば落ちるほど,それだけ,互いに大切に思い合ってピッタリ息の合う2者関係,本音のぶつかり合い,見本となる生き方と勇気を与えること,聖書の神様の心からの優しさを体現すること,魂に息吹を感じて心燃えること,という生き方に,最深の(訳注:本音の)親しみを求めるようになりますから。そこでは,一心同体になるためにある,心から優しい,大人になるために,男の子の女の子が,ピッタリとくっつくということが出てきます。男の子と女の子がピッタリとくっつくと、単にセックスするためだ,とか、単に大好きだからだ,だのと、誤解されます。シキタリによって,異性が自分に相応しいピッタリの振舞い形を,徹頭徹尾思い通りに自由にできる場合以外には、このように男の子と女の子がくっ付くことは,自分が相手と一心同体になろうとする唯一無二の最深欲求に役立てようとする場合が実に多いんですからね。一心同体になりたい最深欲求は、いつまでもいろんなことをおしゃべりしたり,自分が実感して至らない点やほかの人が実感している足りない所について,2人で素直に話し言葉にしてみたり,様々な計画や願いや期待を論じ合ったり,することによって、満たそうとします。1人の若者が,このように,一心同体になりたいと願う最深欲求に基づく関係が完全に満ち足りたものにならない限り,ただし,自分自身の中に隠されている心の泉との関係が完全に満ち足りたものにならない限り,それから,私是非とも付け加えたいのですが,思春期の終わりころ,あるいは,年齢的に大人のなりたての頃に,完全に満ち足りた関係に,アーメン,なるほど本当だね、と実感できずにいる,心満たされずに来た人は,自分自身をズタズタに切り裂いて,生き生きとした実感のない,形ばかりで中身のない,口先だけのおしゃべりを見つけるのが、関の山です(口先ばかりで中身がない,というのは,歓んで生きられないし,温もりもなく,それから,互いに一体感を分かち合うこともない,という意味です)。あるいはまた,一心同体になりたいという最深欲求に基づく関わり合いを,繰り返し見付けようとして、繰り返し失敗するのが,関の山です。残念ながら,自分自身をズタズタに切り裂いて,生き生きとした実感のない,形ばかりで中身のない,口先だけのおしゃべりを見つけるのが、関の山となる心満たされずに来ている中で,結婚する若者が実に多いんですね。しかし、あぁぁ、赤ちゃんの頃に身に着けた,仲間みたいに,親みたいに,ある決まった関わり方で(訳注:無意識裏に)関わらざるを得ない縛りがあるために,自分自身を磨く努力をして,歓んで生きて、人の心に火を点ける温もりを生きて、互いに一体感を実感して生きることが、「できた」とはなりません。明らかなのは,相手をコロコロ変えても,正解に至らないのがほとんどで,むしろ,本当に2人が一心同体になる条件は,自分がまず本当の自分(訳注:大我)に必ずなるあの聖域に気付く,とても賢い生き方を見通す視座(訳注:正見)だけが,正解です。
 親友になることの対は,「本音を隠す」ことです。すなわち,「本音を隠す」ことって,自分にとって危険に見える,様々な力や様々な人を,見捨てることですし,村八分にすることですし,必要ならば,皆殺しにしてしまうことです。このように,相手を,手が込んだやり方で,上手に見捨てることは,光が見えないままに,赤ちゃんの頃に身に負った,心身の傷から生じた(訳注:悲しき)果実なんですね。心身に危害を受けたままだと、一心同体になろうとする中にあっても,馴染みとよそ者とをクッキリ,残忍に差別することになってしまいます。そもそも,親友になるのも、張り合うのも,すぐに喧嘩になるのも,同じ相手でしょ。しだいしだいに2人がバラバラになるのは,張り合い,セックス,様々な諍いの仲からです。
 フロイトさんがかつて問うたのは,ただの人が,善く生きるためにできることって、何なのか? ということでしたね。その問いを問うたご当人,フロイトさんが期待したと思われる答えは,難解な「深い」答えだったかもしれませんね。しかし,フロイトさんの答えは、単純です。「自分と人を大切になさいな,働きなさいな」でしたね。この単純なお祈りの大事さに思い至ることですね。考えれば考えれるほど,意味深でしょ。と言いますのも,フロイントさんが「人と自分を大事にする」と言う時,性愛が育つだけではなくて,気高い大きな心が育つことを意味していたわけです。つまり,フロイトさんが「自分と人をご大切になさい,働きなさい」と言う時にフロイトさんが本気で思っているのは,いのちを生み出す働きには,いのちを耕し,気高い大きな心を育てることも入る,ということでしたね。いのちを耕し,気高い大きな心を育てれば,バラバラに2分され敵対してきた者たちが,互いに大切にし合う生き方をする正義と能力を失うまで,真っ当な大人が無我夢中になることはないでしょう。
 魂が自由な者は,「陽気で楽しい歓び」を,真っ当な人格の一番星として,光輝かせます。陽気で楽しい歓びを歓ぶことは,対立して2分され敵対してきた者たち同士が一組の大切にし合うパートナーになる関係に中で,イキイキと生きるキリスト(本当の自分の,大我)を育てる,キリストご自身の力です。いまここでイキイキと生きるキリストとは,キンゼイが言う「はけ口」の意味で,性液を出すことじゃなくて,敵対する相手と互いに大切にし合うことです、発達という創造にアンテナを高くして,真っ当な身体からストレスを全て解放して。これは,私ども夫婦も体得しているとは真実には言い難い,唯一の(訳注:真っ当な)生き方について大事なことを,かなり具体的にお話したことになります。いまここでキリストをイキイキと生きることが,キラリと煌めく聖書の神様の御心なのは,互いの響き合いを大切にし合うことがますます豊かになることを体験すると,相手にピッリタと噛み合う雛形を互いに極める最高の生き方になりますよ、ということですし,ピタリと一心同体になる生き方をする中で,男と女の諍い,夢と現実のずれ,愛憎のぶつかり合い,やらなくてはならないことと夢中になることの鬩ぎ合いが日々溢れていることから生じる激しい怒りを宥めますよ,ということです。諍い合う罪を贖う関係があれば,バラバラに分からた敵同士が,敵を攻め立て,残忍にコントロールせずに済みます。
 
 
 暗号解読。本当に不思議ですね。
 諍いを解消するシャローム平和は,敵を責め立てたり、残忍にコントロールしたりしなくてもいい関係を生みます。

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