日曜礼拝に行って、聖書の御言葉を聴いてきても、礼拝から戻ってきた後は、その御言葉を、大事にしまって使わない、ということがありがちです。何故なんでしょうか?
Young Man Luther 『青年ルター』p209の第2パラグラフの7行目途中から。
人は、最も深いところでの尊敬と絶望から生まれた、いろんな言葉や身振りでさえ、形ばかりのものになりがちです。すなわち、心理学的に言えば、「考えもなければ、感じることもなしに、自動化」しがち、というわけですね。しかしながら、1つの気持ちが最深欲求との繋がり続け、いつでも実感が伴うためには、ルターなら、affecionalis とか、moralisとか言いそうですが、その気持ちが圧倒的と言えるほどでなくてはならないし、その気持ちが、同様に、「ホントだなぁ」だとか、ほとんど「私だけの気持ち」だとか、感じられなくてはなりませんね。すなわち、1つの気持ちを本気で感じるのは、その気持ちは、何か特別大事なことを示し、意義深いものを示すことになります。
最初の人が絶望から希望に至った、天にも昇るほどの悦びの体験を、言葉や身振りで示しても、その言葉や身振りが、人から人へと、繰り返し真似られている内に、最初の人が感じていた感動や、天にも昇る悦びもなくなっちゃう。ですから、大事なのは、この言葉や身振りを繰り返すことじゃぁない。その最初の人が感じていた希望と、天にも昇る悦びを日々感じることです。エリクソンは、大体そんなことを言ってるみたい。
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