政治の愉しみ:嗤い
「共に見る」ことのないイメージと現実は、薄っぺら。そこでは、目には見えないこと、すなわち、やさしさ、ぬくもり、よろこび、そして、生命、基本的人権、人間らしい暮らしなどが、必ず疎か...
境界線の内側と外側。
この、一見何気ない、境界線が、実に様々な働きをするんですね。
例えば、子どもの遊び。鬼ごっこでも、かくれんぼでも、野球でも、サッカーでも、かならず、遊びには、境界線があります。あそび、プレイは、必ず境界線の内側でやらなくちゃなりません。境界線の外側に出るのは、ルール違反。「⚪️⚪️ちゃん、ズルイ!」と言われます。
親子関係や学校でも、この境界線が、ルール、校則になります。ここでは、この境界線は、主に、子ども達の行動を規制することなります。大人達は、勝手に、いろんな例外を作って、自分達には、甘いルール運用をするのが、残念ながら、日本の親子関係、学校教育の限界です。子ども達は、「お母さん(先生)、ズルイ!」と、少なくとも、心の中で叫んでいるはずです。
心の中にも境界線があります。それは、良心です。その境界線が、広く、ハッキリしていれば、その人が、大人でも、子どもでも、自分にも、他の子にも、優しく、大らかで、しかも、鷹揚です。その境界線が狭い場合は、どうでしょう?その場合は、自分にも、他の子にも、厳しくて、自分にも、他の子にも、すぐに「ダメ」を連発します。一番厄介なのが、その境界線がアイマイな場合です。悪質な、心が捻じ曲がった横暴な子どもです。この場合は、時と場に応じて、境界線を勝手気儘に変更します。この時、「ズルイ!」は、マックスに達します。
この境界線が眼に見える形になったのが、法律、ないしは、慣習法です。この境界線が広ければ、ノルウェーのように、市民が寛容な社会になります。「罪を裁いても、罪人は裁かず」、「罪を犯した人で、モンスターに出会ったことなど一度もありません」とそこでは言われます。逆に、その境界線が狭ければ、今の日本の様な、厳罰主義の国になってしまいます。「もっと、厳しい罰(×)しろ」、「はやく刑務所に送れ」。一番厄介なのが、この境界線がアイマイな場合です。この場合、権力、時の政府、安倍晋三首相の「ズルイ!」が、マックスに達します。微罪の人や原発事故の被害者や水俣病患者、子どもやお年寄りには、厳しく、大罪を 犯した東電や天下り法人や時の政府自身、お金持ちや大企業には、大甘だからですね。境界線がブレマクリです。
自由は、この境界線が広くて、ハッキリしていること。ブレたりなどしません。問題なのは、その自由をどのように使うのか? です。弱い立場の人と連帯することもできれば、裏切り、見捨てる場合もあります。
時の政府が、安倍晋三首相のように、勝手気儘に、境界線を使うときには、厳しく批判し、また、政府を嗤ってやりましょうや!
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