エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人間が自由になる場

2013-08-26 03:20:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 夢はその聴き手のヴィジョンに影響されることがある、勝手気ままに見ていると思われる夢にさえ、この様な秩序があるというのも、実に不思議なことです。

 

 

 

 

 

 それで、私どもの事例が力強く示しているのは、私どもがあまりハッキリしない文脈の中で解決しなくてはならないかもしれないことです。つまり、この「古典的」な精神分析の場がいつも最大にするものです。すなわち、意識する新しいゆとりを伴う、話し言葉にする自由無意識のテーマに気付くこと自分の過去を取り戻すこと です。しかし、私どもがさらに分かることは、直立する姿勢を取ることで無視していることです。なかでも、お互いにやり取りをして、ピチピチ、キラキラ生きている場で、顔と顔を向い合せにすること自発的に移動すること歩み寄ることができるゆとり、です。そして、もし実際に、観察する実験室が、観察する際に特有の「考慮すべき諸要素」、観察対象のデータや到達した多種多様な概念に対して、観察することがもたらす影響という点で、調べられなくてはならないとしたら、私どもがこの文脈において、結論を出さなくてはならないのは、精神分析の場がほとんど体系的に「支配的な」行動を最小限にし、そのようにして、(ずっと昔に、アルフレッド・アドラーが抗議したことですが)人間が人間を支配する側面も最小にしている、ということです。この人類の支配的側面はそこから、マルクスが、歴史的対立によって労働者が大げさに分裂したときに、(フロイトと)同じ世紀に、世界に対する物質的な物の見方(唯物論)に練り上げたものでした。

 

 

 

 

 精神分析の場が、 人間が自由になるための場です。人間が支配されるものは、少なくとも2つあります。それは、無意識他者(権力)です。精神分析(心理療法)は、クライアントに、自分で自分をコントロールする自由・ゆとりを持つ場を提供することによって、クライアント自らが、無意識に支配されている状態から自由になるものなのです。

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夢はウソを申しません

2013-08-25 03:28:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 約束光のヴィジョンになる、それは実に清々しいことではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 私どもの事例が教えてくれているのは、でさえヴィジョン、あるいは、やり取り(遊び「合う」こと)を分かち合える、ということです。私どもが他の人の夢を知るのは、「夢を見た」と言われる時だけですが、その夢は、実際に自分が見たかのように感じることが多いのです。しかし、自分自身の夢以外では、人に伝えることができない1つの夢と、私どもが話したくてたまらない夢やら、話すことを期待される夢やらと、どこが違うのか、私どもには決してわからないでしょう。さらに申し上げれば、いったん自分自身の夢について研究し始めると、研究するために夢を見るようになるでしょう。すなわち、ある期待が本物であることを証明するためですし、その期待を(誰かに)伝えるためなのです。フロイトは大々的に夢を研究しました。患者は、その代りに、自分の夢を報告することになりますし、自分の夢を報告すべきだと知っているのです。しかも、これをセラピーの文脈で行うのです。ですから、ユング派の患者とフロイト派の患者は、彼らのハッキリしている夢のイメージにおいて、根っから異なるように感じます。実際、これらのは、それぞれの「学派」のヴィジョンを反映しているように見える場合があります。それで、セラピーの業界は、ちょっとおせっかいな「駆け引き(政治)」で味付けされているのでしょうか? しかし、このような、夢と夢を聴く者のヴィジョンとの関連性は、いったん理解されれば、はウソを言わない、ということを裏付けてくれるばかりです。

 

 

 

 

 夢でさえ、その夢を語ろうとしている相手(の集団)のヴィジョンの影響を受けているというのも、実に不思議です。実際、寝ている人のそばで、ラッパを吹いたりすると、その寝ている人はラッパの夢を見ることがある、などという話を聴いたことがありませんか? それ以上に、夢も個人的であると同時に、人とのやり取りの中にあるものだ、ということでしょう。

 夢は、意識的な操作ができませんから、その夢のメッセージを、虚心に受け取ることができれば、そこにウソがないことが分かるのでしょうね。

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光の約束

2013-08-24 02:05:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 イメージ、視覚的な記憶が癒しを試みるも同然だということは、グッドニュースでしたね。視覚、見る力は、いろいろな感覚情報や概念、理念を統合する力があるようですね。

 今日はそういった議論の続きです。

 

 

 

 

 

 結局、私どもの関心を引き付けずにおかないのは、この夢が2枚の「壁にかかったヴィジョン」に、特に、私どもが見てきた「受胎告知」と同じ宗教的文脈に属する1枚の絵に導いてくれたことです。この2つの絵は、どこか同じ美術館に展示されれば、とても良いでしょうね。夢が導いてくれた2つのヴィジョンの中に、私どもが見て知ることができるのは、ここで私どもの関心を引き付ける、自我にある特別な傾向が働いている、ということです。つまり、それは、世の中に対するものの見方とやり取りするなかで、自分を自分の時空の中に方向付ける力です。この力があればこそ、様々な経験を組立て、意味付けることができるのです。まぎれもなく明らかなことですが、この患者が「割礼」の絵という極端なイメージに対して、トラウマ反応を示したことは、この女性が子どものキリストに自分を一体化しがちなことを同時に示す、ということです。しかも、それは、キリストの子どもの頃の苦境においてと、それから実際に、キリストが生と死によって示された、苦難に対する完全なヴィジョンとにおいて、彼女は子どものキリストと一体化しがちだったことになります。この女性が不安障害になったことも、この一体化が、不合理な面を持ちながらも、ひどく自分を痛めつけるヴィジョンになっていた、という事実を同時に示していたのです。彼女は、青年期も終わりになるころ、このヴィジョンパリ市民の雰囲気に開花したもう1つのヴィジョンと強烈にぶつかり合ったのです。つまり、性的に誘惑することに、体を露わにし、体をのぞき見して、満足するヴィジョンとの葛藤が強くなったのでした。こういった共存するヴィジョンが、代わり番こに、2つの相容れない自分を確かにする道(アイデンティティ)を示すことによって、彼女の混乱を強めていたのです。彼女の広場恐怖症は、彼女を患者にすることによって、この葛藤を解消していたのです。しかし、精神分析の治療を約束することによって、第3のヴィジョン、すなわち、の約束に、性と魂を取り持つものとして、道を開くことになったのでした。この夢のスクリーンの上でこのように遊んだことに含まれたユーモアと芸術的効果によって明らかになったことは、無意識の手強い力だけではなくて、この夢を見た人が特別に豊かに言語能力を持っていることでしたし、また、ハッキリ示させたのは、この新しい女性が、子どもの頃に縛られていたものから、精神分析によって、自由になって、誕生するでしょう(を見るでしょう)ということですし、自由に行動して、自分の周りを見ることができるようになって、自分のいろいろな才能を活用できるでしょう、ということです。このようにして、古くからのキリスト教のヴィジョンと現代的なフランスのヴィジョンに、さらにフロイト版の光が付け加えられたのでした。

 

 

 

 

 ほんの短い夢から、これだけのことが明らかになるのですから、心理面接は実に奥が深いといわねばならないでしょう。この女性の患者は、自分が幼いときに、小児科医の父親から尿道にカテーテルを入れられたことがトラウマになっていただけではなかったのでした。それがトラウマになったことには、キリスト教の苦難の神義論(苦しみを受けるのは、単なる罰を受けるのではなくて、人の価値を認めることに繋がるものと見なす、物の見方)のイメージと結びつけばこそ、トラウマになった、と考えられるのでした。また、女性性を開放するパリ市民のヴィジョンが、この患者の夢に読み取れました。彼女はこの2つのヴィジョンが矛盾しているように見えたので、無意識裏に広場恐怖症になって、この葛藤があらわになりやすいところには、出かけられなくなったわけです。精神分析をする約束が、まさに、この葛藤していたヴィジョンを統合する、光の役割を果たしたのでした。

 約束こそ、ヴィジョンなのです。

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よく見ることは癒すこと 生き(生かされ)てるって素晴らしい!

2013-08-23 02:07:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 肉体的な女性性を肯定するような女神の絵。この若い女性の患者がその絵を見てショックを受けたのは、自分の肉体的な女性性を肯定して、そういう自分を見せたい気持ちもあるのですが、それを見せても大丈夫か、不安に思う気持ちもある、そういう矛盾した気持ちを併せ持っていたのですね。それを、エリクソンの力を借りて、精神分析の場で、まとまりのあるものとして生きなおしていくのですね。

 

 

 

 

 

 そこで、私どもは、露骨なくらい「古典的な」ケースの初回夢の中に、赤ちゃんの頃と青年期になってからのトラウマを、精神分析の場とやり取りする中で、見て分かることができました。こんなにすぐに明かされる明確さが並び立つことは、もちろん、稀です。初回夢は、長い治療期間にわたって、多くのはっきりしない細部から、組み立て直なくてはならない方が、普通です。この例によって、「なるほど本当だな」と感じるかもしれないことがあるとすれば、それは、これまで述べてきたように、この患者が次々に湧き出すイメージに集中してもらう時、この治療が強調するのは、1つの「自然な」自己治癒の過程である、ということです。それをバートラム・レヴィンは次のように定式化しました。

絵のある過去を再体験することであればすべてその再体験は、その絵のある過去が、夢の絵でも、映画の記憶でも、抑圧してきた人生の足跡に対する新たな記憶などでも、それだけハッキリと、願いが実現し、防衛反応が形成されることに加えて、説明して直そうと試みるのも同然です。

フロイトは、さらに次の様にさえ主張しました。

患者たちのいろんな幻想は、私にとっても、解釈も同然です。この解釈は、私どもが精神分析の治療をしているときに作り上げるものですが、説明し直そうと試みることなのです。

 

 

 

 

 受身で経験したことを能動的に再体験することって、実に素晴らしいことですね。なぜって、その能動的再体験が治療そのものになるからです。さらには、イメージ、絵のある記憶、幻想でさえ、治療を試みるのも同然と言います。これは、「見ること」がいかに治療的かを物語ることでしょう!赤ちゃんの時、視覚様々な感覚を統合する主要な感覚器官であったのと同様に、生き切れなかった過去を今の人生と統合するのにも「見ること」・イメージが主要な役割を果たすのです。つまり、 「よく見ること」が、生き切れなかった過去と、今、そして未来を繋ぐ自己治癒の過程をもたらしてくれるのです。なぜなんでしょう?

 じつに、人生は不思議(wonder)に満ちて(full)いますね。ですから、♪ 生きて(生かされて)るって素晴らしい! What a wonderful world ♪ とルイ・アームストロングは歌うのですね。

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第2の見方 生き直し

2013-08-22 01:29:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 能動的再体験が、激しい怒りと恥も笑に変えてしまう、なんと素晴らしいことでしょうか!エリクソンの夢解きが続きます。

 

 

 

 

 しかし、私が辿ってきたのは、この患者が多言語の夢のパズルで示した思いの、主な傾向の1つでしかありません。フランス語を話せる方なら、少なくとも自由連想によって、seinという「乳房」を示す言葉を参照するのを見逃していることに、お気づき気でしょう。そして、実際、彼女は、衝撃を受けたもう1枚の絵を、最終的に思い出したのでした。その絵はルーベンスの手になるものでしたが、彼女は、6つの胸のある女神を思い出しました。それは、「割礼」の絵とは対立的な絵であることは明らかです。というのも、この絵は、最高の豊かさというテーマを新たにもたらしたからですが、このテーマは、割礼の絵のテーマが著しく減じるものでした。しかし、このテーマは、この若い女性をあまりに肉体的に肯定するものでしたから、女性のドレスを性的に強調すること(décolleté 胸の谷間)と、パリジャンの暮らしにあった、人を誘惑する男性的な習慣は、魅力を感じると同時に、不安も感じるものだったのです。それで、最初の絵が特別な赤ちゃんの時期に苦しんだ、赤ちゃんのトラウマを指し示していたのですが、他方で、第2の絵は、文化的な雰囲気を象徴していました。その文化的雰囲気は、青年期の女性にあっては、のぞき見をしてみたいような、自分をあらわにして見せたいような気持を呼び起こすものでしたし、全体的にトラウマになるような、いわば、繰り返し抑圧される経験に本能的な基調をもたらすものでした。いまや、それは、精神分析の場で生きなおされることになったのです。

 

 

 

 

 

 第2の絵は肉体的な女性性を肯定する絵です。若い女性の患者が魅力を感じると同時に、不安になるのも、今よりもお堅い時代だったことを考え合わせれば、うなずけます。しかし、彼女が暮らしていたパリは、そのお堅さを打ち破る方向に文化が動いていたのですね。この第2の絵が示す、女性性に対する肯定とその抑圧という、アンビバレントな心も、精神分析の場によって、生き直すことが可能になります。 何故なんでしょうか?

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