今日は、一つのパレーシアの実物を、お目にかけたいとおもいます。日本の教育現場批判を、学校でやったサンプルです。
タイトル:「自分の頭で考える」ことを諦めていませんか?
「自分の頭で考える」ということは、民主主義社会の基本です。そして、民主主義教育の基本とならなければならない課題のはずです。
では、日本の教育においてはどうでしょうか?さまざまな見方が可能なのかも分かりません。授業中にだって、いろんな課題が示されて、それを児童生徒たちは、「自分の頭で考えるように」言われます。勉強の課題を自分で解くということは、「自分の頭で考える」ということの一つではないのか?しかし、「自分の頭で考える」ということは、果たして、勉強の課題を解くことなのでしょうか?
「自分の頭で考える」ということは、勉強の課題を解く時のように、決まった答えを出すというよりも、自由にものを考えて、自分なりの答えを探す、ということではないでしょうか? しかし、日本人は、この自由にものを考えるという意味で、
「『自分の頭で考える』ということが苦手である」と言われます。
なぜか?
それは、自分の頭で考えるといえば、「どっちが得か、あるいは、損か?」、「どっちが勝ち(上)か、あるいは、負け(下)か?」という、「人間を上下二つに分けるウソ」に毒されていることがほとんどだからです。
しかも、このことが、ある特徴と不可分に結びついている、というところに、日本人の大きな特色があるからです。それは「多数派に同調する」(長いものには巻かれろ)ということです。ですから、先の二元的思考は、「多数派の考えはどうだろうか?」ということに集中します。多数派にいち早く合わせた方が「得」ですし、そうした方が「楽」だからです。逆に多数派の考えの逆をやったり、同調するのが遅れたりすれば、「損」することになりやすいし、「村八分」などの不当な不利益「損」を押し付けられることにもなってしまって・・・。
こうして、「多数派」に与することが大事になると、「自分の頭で考える」ことが、むしろ、邪魔になるのです。なぜなら、考えたことが多数派と相容れない場合が出てくるからです。「自分の頭で考える」ということはいつでも括弧に入れて、「多数派」に同調することが、日常生活の習慣になります。なぜなら、日本人には、多数派と異なる意見を持つ自由がないからです。それは、自由に「自分の頭で考える」ことを止めることと直結します。
「自分の頭で考える」ことは、自由と不可分に結びついたものです。自由は「民主主義」の最も根源的な権利であると同時に、最も重要な徳目でもあるのです。つまり、人間らしい暮らしのために、自由を確保し、拡大することは、「自分の頭で考える」ことによってもたらされますし、また、自由がなければ、「自分の頭で考える」ことも難しくなるものです。
ですから、「自分の頭で考える」ことを諦めた時、まるで映画「小さいおうち」のセリフのような世界がうまれるのです。すなわち、「不本意な選択を強いられ、不本意な選択を強いられているということに気づきさえしない」、そんな毎日です。
学校現場での、一つのパレーシアの試みです。
この国が、少しでも澄んだ国になるように、私どもも、アリでありたいものです。あの大雪の翌日、透き通るように澄んだ青空を見たときに、私はそう感じましたよ。
鉱山は、私どもに息苦しさを感じさせるような壁にできた突破口の一つでしたし、15世紀に、お金や耐久消費財のように、長持ちする富として発展しました。鉱山業は、成功したのにも関わらず、富の配分における極端な格差をも反映していました。また、鉱山労働者も、大きな社会階層の人々(大部分の聖職者たちも含まれます)が当時直面していたのと同じ危険に晒されていました。社会単位は自らを組織立てて、いっそうガッチリと時代変化を抑えました。地方守備の王子たちは自分たちの境界線を主張しますし、自由都市は自分たちの城壁と貿易路の交差点を主張しますし、自分たちが経済活動を独占することを、組織立てました。国土によって自分を確かにする道(国土に対するアイデンティティ)や系統だった法体系によってますます守られた自律性を人は求めようと語ります。ただし、世界を司っていた体系的なローマ法と自分を確かにする道はすでにグズグズに朽ちていたのですが。
新たに生まれたエネルギーを組織するためには、体系的な法と自分を確かにする道が必要です。しかし、そんな時には今までの法体系や自分を確かにする道(ローマ法とローマ人としてのアイデンティティ)は使い物にならないのが常なのですね。新しい、澄み渡った道が必要なのです。あの大雪の翌日の青空が澄んでいたみたいに、ね!
変化が悪とされる時代、いつの世も「変化=悪」と見なすのが、多数派です。変化を求めるものは、最初は少数派に甘んじなくてはなりませんね。
その村の上に、より大きな、もっと特権的な、バラと呼ばれた村があり、高原地方や峡谷地方から見れば、バラとギルドの一味は、異質な悪となってきました。この2つ以上に、民族主義がゆっくりと起こり始めました。民族主義は、政治的事実である前に、経済力であったのです。その男がフローレンス人だとか皇帝の部下だということが、経済の競争相手をイライラさせるのに十分な理由になったのでした。倉庫のある特権的な植民地は、ハンザ同盟の竿秤、南ドイツのドイツ商館、イギリス貿易商の工場、は、経済的排他性という壁の中にある、ほんの小さな突破口でした。貿易は、現代のトルコや中国においてと同様、治外法権化で行われていました。
この狭い組織が基地でした。15世紀においては、この狭い基地は牢獄でした。拡大するエネルギーは、壁に圧力を加えました。飽くなき食欲は、ガツガツとし、イライラとするのは、どこでも、表面の裂け目が、浸食に対して余地がもたらす、その場においてなのですね。
ジャブが効いてくると、次第に巨大な壁にも、裂け目ができますね。その裂け目が、いわゆる「アリの一穴(いっけつ)」です。でもここでは、悪い意味というよりは、変化を歓迎する感じですね。
私どもも、世の中を少しでも澄んだものにするために、積極的、攻撃的に アリになりましょう。
イオンは、アテネに赴いた際の自分の将来に悲観的です。
この心配におかげで、長期にわたる発達に余地が生まれることになります。最初その長期にわたる発達は、退行に見えるのですが、アテネの政治生活に対してエウリピデスが加えた批判的描写に現れます。アテネの政治生活とは、民主主義的生活においてと、一人の君主の政治生活に関することの両方です。
イオンが説明するのは、民主主義においては、3つの範疇の市民がある、ということです。(1)アテネの市民で、権力も富もない者、自分より優れた者すべてを憎む者。(2)善良なアテネ人で、権力を行使できる人、なぜなら、この種の人は学があるからですし、沈黙を守れるからですし、アテネの政治には関心がないのです。(3)評判がいいアテネ人で、地位が高く、話し合いと理性とを、公の政治生活に参加するために用いる人です。この3グループが、イオンが、外国人として、私生児として、アテネに来た時の反応を心に描くとき、イオンは「第一グループは、自分のことを憎むでしょう。第二グループ、賢者たちは、若造がアテネの第一市民面したいと思えば、笑いものにするでしょう。最後のグルーブ、政治家たちは、新たな競争相手に嫉妬するでしょうし、追放しようとするでしょう」と言います。ですから、民主的なアテネに来ることは、イオンにとっては陽気な展望が持てるものではありません。
イオンは、アテネ人は、どの階層の人も自分に対して否定的な行動に出るように、予想を立てます。さて、実際はどうなのでしょうか?
ルターの時代は、科学技術などが発展していたのですが、そういった時代の変化には、ルターは全くと言っていいほど無関心です。
伝説を作り出し、宣伝をする、まさにそのやり方によって、ニュースを伝えることは、世界的なニュースは個人にとっては、リアリティーを感じにくいものになりがちです。それも、世界的な変化が経済市場に衝撃を与えないうちのことです。この衝撃が加わるのは、国の経済市場と一家の経済市場の両方です。普通の人であれば、住んでいる地域の雰囲気でシックリくることや、日常の些事でなにがしかのことをすることに信頼感を持っているものです。これは、比較的ささやかで、昔ながらのものを求める源なのですが、それが世界をまとまりあるもの、価値を感じ続けられるもの、活動をやりがいのあるものにするのです。ハンス・リューダーが暮らした中世後期の世界について、トーニーは述べています。
「中世後期の世界の核になる単位は、村でした。また、村、すなわち、慣習によって強化された農業株主の共同体は、道徳的に一致した怒りで、無秩序な食欲を抑圧してきました。食欲は、当時の伝統的な日常を、「変化」という悪によって脅かしたのです。
中世世界も、その保守性によって守られていました。変化は「悪」だったのでした。