#真正の合一 #自分を空っぽにする聖域 #聖書の神様の命が一巡する場
#一致の叡智 #日常生活を礼拝にすること と #ウソの一致 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : ≪私≫は,非常に脆くて,強い 圧倒的に大事なのは、やり......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。
p.49の第2パラグラフから。
今朝は,p.51の,9行目から。
そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分のことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。自分から人に関われず、助けてももらえないのでなく,自分から人を大切にする関わりができて,それを遂げることができます。自分だけ特別に見守られているのであって,感覚過敏になったり,無感覚になったりするんじゃない。中でも,試練を乗り越えて,生かされている実感が漲って生きるんであって,見て見ぬふりをされて,見捨てられるんじゃぁありません。これら全ての兆しは,あの生かされている実感が漲る意識の,朧げな始まりです。あの生かされている実感が漲る意識は,どの言葉でも,《私》と呼ぶようになりますし,あらゆる宗教では,神様から「とても善いよ」と言われる,いのちが一巡するど真ん中(訳注:救い主,キリスト)を求めることにもなります。ですからね,顔と顔を合わせることが,ルネ・スピッツやジョアン・エリクソンが指摘している様に,宗教的なイメージ(聖母マリアが首を傾げて、幼子のキリストと一心同体に成った光みたいに)を思い出させるものであるのならば,顔と顔を合わせることそのものが,聖書の神様を信頼する自分が創造される基になる,と言えますよね。聖書の神様を信頼するとは,唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みで,こころの中心軸にある本当の自分が「とても善い」と認められることを信頼することです。唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みは,人がカリスマ的な指導者を求める源にもなりますし,運命を左右することにもなります。
2人の魂が一心同体に成る点から申し上げて,私が自明のことと考えていることを申し上げれば,希望の根っこは,赤ちゃんの時期に,あ母さんを信頼する根源的信頼と,お母さんが当てにできない根源的不信の間で,2人が根源的な苦労をすることからしか生まれませんよ、ということなんです。それから,この苦労は,その後の苦労全てと同様に,生涯を通して繰り返し,自分を心から自由にすることになる,ということです。それじゃあ,ピアジェが言う「死」って,一体何なんでしょうね? 馴染めないことは根っから信頼できないこと,ソッポを向くお母さんの顔に身も凍る思いをすること,子どもを避けるお母さんやウソつきのお母さんを怖がったり,腹が煮えくり返るほど激しく怒ったりすること,それに,繰り返し生きている実感があって安心している,ということがなくて不安で不安でたまらない,って,一体何なんでしょうか? スピッツは著作の中で早期に主張したのは,「8か月不安」でしたね,「8か月不安」とは,赤ちゃんが,見知らぬ人に「不安で眉をしかめたり」,「大泣きしたり」して応じることです。それに対して,私どもは「おバカさんね」と言って笑って,繰り返し赤ちゃんに元気・陽気を上げますでしょ。でもね,このように8か月の赤ちゃんが馴染めてない相手を愚かにも怖がることって,馴染めない相手に対する唯一の初体験ですし,それは不安と激しい怒りが混ざったもので,しかも,一生続いてしまいますし,様々な人を激しく怒ることに広がっていきますでしょ。それに,この激しい怒りが混ざった不安は,大人になったとき,大人になるから,馴染みになったことに見捨てられて,押しつぶされる力の犠牲になるかもしれないという不安になります。邪悪な眼を怖がり,心からの優しさがある聖書の神様の見守られることもなく,宇宙の中で一人ぼっちになるのを怖がる不安です。
私ども臨床家が,あの「死」が始まるのは,ここだ,と体得的で分かって,「なるほど本当だねぇ」と思うのは,ここで申し上げたように,赤ちゃんが8か月不安になったときにお母さんから元気と陽気をあまりもらえないことから,本当の自分を自由に生かす(泳がせる)試練(訳注:本物の洗礼はこれ)に耐えるだけの元気と陽気が欠けた子どもに出会う時です。私ども臨床家が「死」と出会うのは,毎日毎日,毎時間毎時間,繰り返し安心することを求めてくる心の病(訳注:発達トラウマ障害)に脅かされた子どもの患者に出会う時です。それは,勇気をもって互いに大切にし合っても,大事な人を殺しちゃわないからね,大事な人に殺されないからね,と安心することです。このようにして身に染みて分かるのは,「生きている実感」は実に脆いということです。中心軸になる「本当の自分(訳注:視座)」(ドイツ人は「顔の眼」と呼びます)から話すからこそ,自分から声をかけてたくさん関わりを始めるようになります。この中心軸になる「本当の自分(視座)」があれば,確かめられる事実の合計以上に広くて深い見通しを不動になりますし,私どもの気高い志を1つにするのに必ずお役に立つ,一心同体に成る関わりを(訳注:自ずから)引き付けることになります。
翻訳のし直し。
楽しいおしゃべりには、霊的な意味があることには,変化がありません。
一心同体に成ること,2人は1つの初めは,たいてい、楽しいおしゃべりでしょ。
本当の自分があると,不思議に,一心同体に成ることを望む子どもが,スッと近づいてきて,…一心同体に成る結界ができて生きます。