桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

前ヶ崎城址から東福寺へ

2009年11月14日 12時54分35秒 | 城址探訪



 勤め先近くにある欅(ケヤキ)の高木です。五年見ていますが、こんなふうにきれいに色づいたのは初めて。

 十月なかばに行きそびれていた前ヶ崎城址を訪ねました。
 プリンタの具合は恢復せず、相変わらず地図はないままですが、今回は我が庵から直接出向くので、方角をたがえる心配はなさそうです。
 通い慣れた道を大谷口城址に向かって歩きます。最初の目印は廣徳寺入口にあるセブンイレブンです。ここで煙草とビタミンウォーター、それにキャラメルを仕込みました。

 方向をたがえる心配はないと思いましたが、セブンイレブンを出たところで早くも失敗を犯しています。
 庵で詳細に検討し、頭に叩き込んできた地図では、北東に向かって真っ直ぐに伸びる道があるはずでした。

 確かに北東に向かう道はありました。
 が、覗き見たところ、真っ直ぐとはいいがたい。次の角かと思って歩くと、そこは細い路地で、どうやらやり過ごした道を曲がるのが正解だったようです。
 しかし、わずか一本先を曲がるだけ、と軽んじたのも失敗の上塗り。一本それただけのはずの道が「ヘ」の字型に弧を描いていたとは思いもせず、気づきもせず……。

 見たような場所に出た、と思ったら、本土寺の参道でした。
 本来なら本土寺の遙か後方を歩いていなければならなかったはず。仁王門前を左折して本土寺を半周、ようやく所期の道に出ました。



 中央分離帯があり、平坦な道を歩くこと約二十分、やがて下り坂に差しかかりました。広かった道路が坂を下ったところで、T字路になってしまいます。
 千葉県ならではの道路のつくり方です。せっかく広々とした道路をつくりながら、それをまっとうさせる、ということがない。
 やむを得ぬ事情はあるのだろうと思いますが、途中で道が狭くなったり、ここのように、突如農道に毛の生えたような道路に変わるので、渋滞が起きるのです。


 
 前ヶ崎城址遠景。
 馬の背中を思わせるような細長い台地の左先端にあります。回り道をしたので、ここまでの所要時間は一時間。

 


 公園入口と土塁の上から見下ろした本郭跡です。
 遺されているのは入口の階段部分と本郭跡、その背後の土塁部分だけ。 
 前ヶ崎城址については、大谷口(小金)城主だった高城氏関連の城だったのだろうと推測される以外、築城の歴史も城主もはっきりしていません。私が城址探訪のバイブルのようにしている「東葛の中世城郭」にも明確な記載がありません。

 前ヶ崎城の天然の要害にもなっていた富士川を遡ること300メートルで坂川との合流点に出ました。



 そこからおよそ1キロのところに野々下水辺公園がありました。夏は賑わっていそうですが、いまの季節は人影もまばらです。
 ここには坂川の水源となる水の湧き出し口があります。その源は28・5キロ先の利根川。北千葉導水路で導かれています。



 野々下水辺公園に建てられている北千葉導水路の導管を輪切りにしたモニュメント。内径は4メートル。



 坂川の最上流で見つけたダイサギとアオサギのツーショットです。

 前ヶ崎城址隣の流山運転免許センター前から南流山駅へバス便があったので、帰りはバスに乗ることにして、終点の一つ手前で下車。東福寺を訪ねました。



 通い慣れた(?)はずの東福寺。それなのに、気づかぬことがたくさんありました。
 一つは裏手の奥の院にはすでに千仏堂はなかったということです。どこに移されたかというと、本堂左手にありました。



 もう一つは、関東の地にありながら、平將門が征伐されたことを悦ぶ人たちがいたということです。
 文久三年(1863年)に奉納された俵藤太(藤原秀郷)の絵馬があることを示す掲示板。
 近辺では一番雰囲気のあるお寺だと気に入っているのですが、將門贔屓になりかけている私としてはちょっと残念……。



 山門の仁王像のうち、吽形。
 阿形のほうは防護ネットに引っかかって撮せませんでした。運慶作と言い伝える人がいますが、運慶にしては力感が乏しい。
 さすがにお寺が掲げている紹介では運慶には触れておらず、流山市内では最大の像だと紹介するのにとどめています。

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立冬も過ぎました

2009年11月09日 23時48分03秒 | のんびり散策

 一昨日は立冬でした。
 第一土曜日だったので仕事は休み。たっぷりと眠れたので、快調とは程遠い状態ながら、めでたさも中ぐらいなり、という体調です。
 午前中、先日まで使っていたタオルケットやシーツを洗濯して、洗濯機を回すこと三度。
 洗濯機を回している間、衣替えと部屋の模様替えを試みましたが、右の荷物を左に移し、左の荷物を右に移し……と、賽の河原の石積み繰り返すだけの状態で、ほとんど片づきもしないまま、約束があったので、外出。
 出かけるついでに、立冬でも花を咲かせているであろう朝顔を写真に撮ろうと思っていましたのに、すっかり忘れて帰ってきてしまいました。

 前後しますが、昨日曜日は眼鏡をコートの内ポケットに入れたまま洗ってしまい、弦をグニャグニャにしてしまいました。
 衣替えを思い立ったのは、その薄手のコートを着るためでした。衣服の大半を入れ替えたのに、どこにしまい込んだのか見つかりません。
 昼ごろになって部屋の片隅、夏物の下になっているのを見つけました。
 春先に脱いだまま、洗うのを忘れたまま置いてあって、襟ぐりがかすかに汚れています。小外出に用いたら、洗濯をしようと思っていて、帰ってすぐに洗濯機に突っ込んだのでした。眼鏡を入れたまま……。
 注意力が散漫になってきています。

 昨日は歩いて三十分ほどかかるホームセンターへ行って、桔梗と紅花の種を買いました。
 小腹が空いたので、マクドナルドに寄ってハンバーガーとコーヒーを持ち帰りにしてもらい、近くの蘇羽鷹(そばたか)神社境内のベンチに腰かけて頬張りました。

 

 蘇羽鷹神社の狛犬。
 左の吽形の狛犬は手水舎の屋根が近過ぎて真正面には行けない上に、私が訪れた午後の時間は陽光が遮られて、上手く撮影できませんでした。
 カメラにはフラッシュを強制発光させるボタンがあるのですが、どこをどう押せばそこに到るのかよくわかりません。そのくせ用のないときに強制発光のメッセージが出たりします。



 ハンバーガーをパクつくのに境内を借りるつもりだったので、志ばかりのお賽銭を、と思ったら、社殿の扉が開いていて、中に人のいる気配があったので、近づくことなく前を素通り。
 立派な石碑が二枚あって、ざっと飛ばし読みしたところ、昭和五十一年に不審火で燃えたが、五十五年に再建された、とあります。

 蘇羽鷹というのは変わった社号ですが、元々は曽場鷹、あるいは側高、素羽鷹とも表記し、千葉県北部を中心に十八社があるそうです。いまの千葉県一帯に勢力をふるった千葉一族の守護神でもありました。



 私が坐ったベンチの前はこんな光景です。何に使うためにこんな空き地があるのかわかりません。
 ここからほぼ真西の方角、徒歩十分のところに千葉氏所縁の三日月(みこぜ)神社があります。
 鎌倉中期の千葉宗家当主だった千葉介頼胤(1239年-75年)が館を構えた地に建立されたという言い伝えが遺されていますが、戦国期に消滅することになる千葉氏も、この時代はまだまだ勢力があって、本拠としていた現在の千葉市を離れる理由は考えられません。
 それに、蘇羽鷹神社が千葉氏所縁の神社だとしたら、城や館の北方(鬼門)に蘇羽鷹神社を祀るのが通例です。真西の方角に建立するとは考えにくい。

 この神社の創建は天正四年(1576年)といいますから、織田・徳川連合軍と武田軍との間で長篠の戦いのあった翌年です。
 千葉家の勢力はすでに衰えています。最後の当主・千葉介邦胤(1557年-85年)の時代で、このころ、本拠にしていたのは佐倉です。

 現在では宅地化されて遺構はありませんが、付近に馬橋城という城があったのは確かなようです。その城と関連づける人もいますが、詳細は不明というのが大方の説です。

 頼胤から十四代あとの孝胤(のりたね・1459年-1521年)の代-文明十年(1478年)の境根原(いまの柏市酒井根)合戦で太田道灌に敗れ、そのころに馬橋城も廃城になったという説もありますが、史料の裏づけがありません。城郭があったと確認できる史料が出てくるのはもう少し後代のものです。



 我が庵の近くで「将門」という名前の店を見つけました。滅多に足を運ばない方角なので、今日の今日までこんな店があるとは知りませんでした。
 前を通りかかったのが午後三時ごろと早かったため、店内は暗く、人の気配はありませんでした。いつか訪問して、店の名の由来ぐらいは聞いておかなければなりません。



 ホームセンターからの帰り、懸案の朝顔をカメラに収めて家に戻り、自分でもめっきり丸くなったと感じられる背に夕陽を浴びながら桔梗と紅花の種を播きました。
 背を丸くしたのは寄る年波だけではありません。

 関東大学ラグビー対抗戦八日の結果。メイジは24対43と筑波大に完敗。明慶戦につづいて2連敗です。
 再建途上ながらも、着々と……と思っておりましたが、筑波にも負けるとは……。道は限りなく遠いようです。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map59928.html

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有朋自遠方来 不亦楽(2)

2009年11月04日 19時47分38秒 | つぶやき

 すでに半月が経過してしまったというのに、宙ぶらりんになったままのブログがあります。関西から友が訪ねてきてくれたときのブログです。
 ボヤボヤしているうち、その友に東京での所用ができ、くるついでにまた訪ねてきてくれるというので、急ぎ結末をつけておかなくてはなりません。

 初日は病み上がりの私に危惧したほどの不調は出ず、二日目。
 前日(すなわち友人の来訪当日)、私がホテルを出たのは午前三時でした。庵に帰って眠りに就いたのは三時半。なのに、昂奮状態だったのか、八時には目覚めてしまいました。
 友に電話を入れると、もう起きていて朝食も済ませたという返辞です。早速ホテルへ行って、私も朝食をとりました。
 前夜は三日ぶりに酒を呑み、夜更かし&午前様で、寝不足のわりには身体が軋んでいません。

 この日の計画は、まず大町自然観察園というところへ行き、水族館が好きだという友の意向を尊重して葛西水族園。そのあと水上バスで浜松町へ出て、どこかで食事、一献傾けたあと、新松戸へ戻るというものです。



 満開の尾花。
 桜や金木犀(キンモクセイ)の花とは違って、尾花の満開 ― という表現はちょっとしっくりしないところがありますが、満開というほかはありません。
 ホテルに向かう途中、武蔵野貨物線の土手を見上げると、朝日を受けて美しく輝いていました。しかし、写真に撮ると、思ったほどの感動はない。カメラのせいか、撮し手の腕のせいか。



 東松戸で北総鉄道に乗り換えて、大町駅で降りました。
 私が食事を終えたのは九時半ごろでしたが、食事が終わっても話し込んでいたので、着いたときは昼を過ぎていました。



 自然観察園までは500メートル足らず。ここで前日の無理が祟ってきたのか、身体が軋み始めました。入園してしばらく歩いたところで東屋を見つけて、早くも
小休止です。



 しばらく休んだら、ちょっと元気を恢復したので、園内を散策。カラスウリを見つけました。
 手の届きそうな場所にありますが、私のコンパクトカメラではこういうふうには撮れません。友のちゃんとした一眼レフで撮った写真をもらい受けました。 



 完全に爆ぜた蒲の穂。駱駝を思わせます。
 この時期、花はほとんどありませんでしたが、園内にはマヤラン、キンランという野生のラン科の植物があるそうです。しかし、年々数が減少しているらしい。二酸化炭素の増大が原因ではなく、泥棒が増加しているからなのだそうです。
 昔から花盗っ人は罪にあらず、といいますが、山野草を根こそぎ持って行くというのは花盗っ人という風流の範疇ではない。周囲を慮ることを考えてもみぬ先天性のデコ助、ポン助、田舎者の仕業であり、泥棒です。

 興醒めしてしまったので、早々に引き揚げ。
 
スタートが遅かったので、水族園に着いたのは三時過ぎになってしまいました。この日の第一の目的は水族館ではなく、水上バスに乗ることでした。
 水族園に入る前に出船時間をチェック。四十分ほどの余裕しかなく、水族園は足早に駆け抜けて船上の人となりました。



 出発するとすぐ船は荒川の河口を横切ります。
 なかなかくる機会はありませんが、船から眺めるこの眺めは私のもっとも好きな風景の一つです。
 橋や土手から見下ろすのと違って、船からの眺めは視点が低いというのがいい。秩父の奥からさまざまな流れを集めて、水がドウドウと押し寄せてくるのが肌に感じられるようです。
 この日はあまり揺れませんでしたが、たまたま雨の降ったあとだったりすると、川から流れ出す水量に押されて、船がグラグラと揺れることもあります。

 私は都会で生まれ、都会で育ったので、川といえば、両岸をコンクリートで固めたような川しか知りません。海といわれて眼に浮かぶのは、白い砂浜や岩に砕ける波ではなく、埠頭のような岸壁です。
 豊かな自然に恵まれて育った人には味気ないかもしれませんが、私は草に覆われて青々とした川の土手、岩に砕ける波の見える海岸 ― そういうところで育ってみたかったと思ったことはありません。
 むしろ、河原のない川である代わり、コンクリートの堤防ギリギリまで水が押し寄せ、ヒタヒタと波打つ川を見るほうが、自然の圧倒的な力を感じるように思えるのです。 



 レインボーブリッジの下をくぐり抜けました。
 東京には馴染みも少なく、この船に乗るのはもちろん初めてという友はおおいに愉しんでくれたようです。

 お台場に着くころには日没を迎えていました。
 暗くなり始めると、屋形船がゾロゾロと現われました。何を眺めんとして集まってくるのか不明ですが、一艘二艘と集まってきました

 一方で、私の体調は非常に悪くなっていました。しかし、アルコールを入れると、麻痺するのでしょうか、持ち直すことがあるので、缶ビールを買って呑みましたが、前日の夜更かしと寝不足が祟って、一向に持ち直す気配がありません。
 明るい時間だったら、私が我慢しているのを悟られてしまったかもしれませんが、幸い暗闇なので、友は気づかぬ様子です。
 もともと口数が少ないという私の性向も幸いしたようで、あまり喋らなくても、不審には思われなかったのでしょう。

 ゆりかもめで新橋駅に出ました。新橋に着くころにはようやく缶ビールが効いてきたのか、体調は少しよくなっていました。
 しかし、ここで方向感覚を失うという失敗。

 銀座方向に歩いて、どこかで軽く食事。軽く一献傾けたあと、日比谷で千代田線に乗って新松戸に戻ろうと考えていたのですが、かつて根城のようにしていたニュー新橋ビルを通り抜けたのが方向感覚を失った原因です。
 ビルそのものは変わっていませんが、かつての根城とはいっても、思い返してみれば、根城にしていたのは十年以上も前の話です。
 テナントはすっかり変わっているし、土曜日なので開いている店がない。通り抜けて、銀座のほうに向かっているつもりが、まったく
方向違いを目指していました。

 変だゾ、と気づいたのは、右側に愛宕神社の薄明かりを見たときです。銀座・日比谷方面に向かっていると思い込んでいるときに、予想もしなかった光景が眼に飛び込んできたので、動転して右も左もわからなくなってしまいました。
 すでに宵闇に包まれているとはいえ、野中の田圃道で迷ったわけではなし、そんなに慌てなくてもよかったのですが、東京のことなど知らぬ我が友は、頭から私を信じてかたわらを歩いています。
 幸い勤め人ふうの男性が信号待ちをしていたので、神谷町の駅を訊ねました。東京で道を訊ねるなど、私にとっては前代未聞のことです。
 教えられるままに歩くと、馴染みのある愛宕山のトンネルに出ました。こうして神谷町の駅に辿り着き、無事新松戸に戻ることができましたが、すっかり動転したせいで、一献傾けようと思っていた気持ちも、ちょっと悪くなっていた体調のことも、すっかり忘れていました。

 その夜は直接友の部屋に行って、手土産に持ってきてくれたオールドパー18年をチビリチビリ、と。
 引き揚げたのはまた午前様で、二時半。

 最終日の日曜は小田原の最乗寺を訪ね、海を見て、魚を食って、なおかつ時間があれば、湯河原で温泉に入って……最後は小田原駅で別れるつもりでしたが、突発的な仕事が発生して、私はまたまた日曜出勤。友人を四時間ほど独りにさせてしまいました。
 結局その日はどこにも行けず、私が仕事から戻ってからはホテルの喫茶ルームで過ごすことになりました。
 私が計画していた半分しか消化できなかったのにもかかわらず、心優しい友は私の身体のことばかり気遣ってくれました。

 まだ若いころ、友達など要らぬ、惚れた女がそばにいてくれればよい、と粋がっていたものですが、寄る年波、かつ惚れた女もいないとなると、つくづく持つべきは友、との思いを新たにします。

 二十時三十分発の「のぞみ」で帰る友を東京駅に見送って、私は京葉線乗り場へ。
 無事勅使接待を終えた浅野内匠頭という心境で家路に着きました。



 これは友からのお土産第二弾。
数々あった中でも特筆すべきお土産です。
 正体はコースターです。キイロトリという人気キャラクターらしいのですが、私には詳細はまだ不明。メインキャラではなく、サブらしいというのがよい。
 ほかにも盛りだくさんなお土産がありましたが、ものによっては友人がどんな人物か特定できてしまう可能性もあり、そのことへの許可も得ていないので、ご開帳はここまでとします。

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ツワブキ(石蕗)

2009年11月02日 12時58分46秒 | 

 十月三十一日は最終土曜日だったので、出勤。
 毎月末日は営業の棚卸し日となっているので、いつもなら外に出ている営業マンが終日社内にいました。普段でも狭く感じる仕事場がいっそう窮屈になります。

 朝から苛々していたのかもしれません。夕方になって、取り返しのつかないような大失敗を犯してしまいました。
 金製品に細工しようとして失敗したのです。純度99・数%といいますから、ほぼ純金です。おまけに予備はありません。
 確かな金額はわかりませんが、非常に高価なものだという認識はありました。失敗は許されぬという緊張感と、朝からつづいていた苛立ち……。
 それぞれが逆方向に働いたものと思われます。そして結果は大失敗。
 失敗はもちろん反省しなければなりません。しかし、私がいたく傷つき、残念に思ったのは、失敗という報告をしたときに、高価であることだけを理由に責められたことでした。

 愚痴のようなことを書き連ねるために始めたブログではありません(ですから、後日、削除するか、書き換えるかもしれません)が、若いころなら悔し涙に暮れていたと思います。
 失敗を犯した者に弁解は許されないのですが、私がその立場であれば、違う叱責の仕方をしただろうと思えるのが残念きわまりないことでした。

 縁があっていまの勤務先で働き始めたころから、私には鼻について仕方のないことが多いので、辞めよう辞めたいと思いながら今日に到っています。
 とはいっても、辞めたあとのことを考えると暗澹たる気持ちになるので、自分をなだめすかしながら毎日を過ごしてきました。

 毎週月曜日がくると、登校拒否症ならぬ出社拒否症が起きそうになります。日々の鬱屈が沈潜して行くのか、次第次第に重症になってくるような気もする。
 自分だけが辛いのではないとわかってはいるけれど、辛さに耐えることも修行だと思い、朝、庵を出るときは「これから托鉢に出るのだ」と自分に言い聞かせてきました。
 しかし、もう我慢ならぬ……。
 翌日曜日(十一月一日)、予備の素材が手に入りそうだということになったので、出勤して、今度は間違いなく完成させた上で、戦争の火蓋を切ろうと決心して帰途に着きました。

 すでに暗くなった道をトボトボと歩き、傷ついた心を癒そうと「オフグ」一家を訪ねました。
「オフグ」とは、九月二十日のブログに画像を載せた野良猫たちの母親の名前です。呼び名は私が勝手につけました。
 瞼が腫れ上がったような、一種奇っ怪な面相をした茶色猫で、最初は「フク」と名づけようかと思ったのですが、膨れ上がったところが河豚を聯想させたので、濁った名前になってしまった、というわけです。
 ついでにいうと、新松戸の通勤路で出会うのは「コツブ」一家で、こちらの命名者は私の友人です。
「オフグ」の仔猫たちには何度か会って、ミオを与えていますが、「オフグ」は警戒して姿を現わすことがないので、まだ写真を撮るチャンスがありません。



「オフグ」と同じような毛並みの仔猫(左)がおりました。ミオを出そうとしゃがみ込んで鞄の中をまさぐっていると、黒っぽい仔猫も現われました。
 九月に写真を撮ったときは五匹いました。十月は三匹。いまはこの二匹以外にはいないようです。「オフグ」も姿を見せません。



 満開のツワブキ(石蕗)の花に出会いました。
「オフグ」一家に出会った少し先で、夜目にも真っ白な花の塊を見つけたのです。ほとんど真っ暗闇に近い中で、ハッと息を呑むような白さでした。
 白と見えたのは夜のせいで、近づくのに従ってスックと伸びた茎の先に、菊を思わせるような黄色い花が咲き誇っているのだとわかりました。
 数日前、インターネット上で偶然ツワブキの花を見ていて、いまの季節に咲くと知ったばかりでしたが、実際に見たのは初めてです。

 ツワブキを知ったのは十年ほど前のことです。
 当時、私には親しい相方がいて、毎年夏になると二人で西伊豆へ海水浴に出かけていました。
 松崎の町のところどころで光沢のよい緑の葉っぱを見かけて、それがツワブキであると知りました。同じ西伊豆の戸田(へだ)というところには、その名を冠したホテルもあったので、てっきり海岸地方特有の植物だと思い込んでいました。夏のツワブキしか見ていないので、花を咲かせるとは知りませんでした。
 まさか通勤路にあって、しかもこんなにたくさんの花を咲かせているとは思ってもみませんでした。
 眼にした瞬間、ほんの一瞬ですが、翌日に控えている戦争のことを忘れていました。

 カメラを構えたのですが、ストロボが発光しません。シャッターは降りるのですが、モニタは真っ黒です。ほんの数分前に仔猫たちを撮ったばかりなのに……。
 普段なら「ええい、糞っ」と癇癪を起こしかねないところですが、私の心は不思議と穏やかでした。翌日の出勤が決定的だったので、明日、朝の明るい光の中で撮り直したほうがよいと思ったのです。



 ツワブキの右手に赤い小さな花もありましたが、こちらの名前はまったくわかりません。右下に写っているツワブキはまた別のもの。

 そして翌日曜日。
 出陣するとき……頭の中にあったのはツワブキを写真に撮ることだけでした。愉しいことだけを考えようと自分を誤魔化したのでありません。ひょっとしたら切って落とされるかもしれぬ戦争の火蓋のことは、頭からスッポリと抜け落ちていたのです。
 ツワブキを撮り終えて出陣した結果、予備が手に入るのは月曜早朝ということになって、戦争は一日延期。



 帰りはもう一度ツワブキの花を見て帰ろうとしたら、また仔猫がいました。再びミオを出す私。
 前の晩とは位置が替わっていて、左が「フキ」、右が「ツワノ」です。これも私が勝手につけた名前。
 昨晩は「もう、なし」といって空になったミオの袋を振って見せると、さっさと立ち去りましたが、この夜は同じことをしても立ち去らず、私が10メートルほど歩いて振り返ると、二匹揃って見送ってくれていました。

 そして今朝月曜日の結果……。
 まだ雨の残る中を出勤して予備の純金に細工。無事終わって、細工物は得意先に旅立って行きました。
 戦争は起きず、いまのところは休戦状態です。ホッとしている私がいます。


 昨日、明慶戦。メイジは5対39と大敗。依然道は険しい。 

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