七月の薬師詣では茨城県の牛久へ行ってきました。
電車の時間に余裕があったので、地元の慶林寺に参拝してから牛久に向かうことにしました。
このお寺への参拝は毎日欠かしませんが、毎月八日と十二日(十二日も薬師如来の縁日)だけお賽銭をあげることにしています。※毎日お賽銭をあげたのでは私の身代が保ちません。
我孫子で常磐線の快速に乗り換えるつもりだったのに、このところ遅延が常態化している常磐緩行線が三分も遅れていたので、我孫子まで行ったのでは乗り遅れると判断して、柏で乗り換えることにしました。プラットホームが別なのに、乗り換え時間は二分しかなく、タプタプと揺れる腹を押さえ、ほとんど走れなくなった脚を懸命に走らせて階段を上り下り、ギリギリセーフでした。
牛久駅に降り立つのは三度目になりますが、最初に降り立ったのはもう二十二年も前になります。
故・住井すゑさんのインタビューでやってきたのです。仕事ゆえ、駅前でタクシーを拾い、帰りもタクシーを呼んでもらうという直行直帰、何も見ていません。
インタビューを終えたあとの余談のとき、住井さんから日本画家・小川芋銭のことを聞かされ、帰りに河童の碑や小川芋銭記念館を見て行くようにと勧められたのですが、先の予定も詰まっていたので、何も見ることなく帰ったのでした。
牛久駅の西口を国道6号線が走っています。
二十二年前もこんな感じだったかなぁと思いつつも、まったく記憶にはないので、なんともいえません。
国道6号線を東京方面に向かって350メートルほど歩いたところで、旧水戸街道が右に分かれて行きます。私は旧街道を進みます。
我が地方なら、悠に千円以上するものが七百五十円で売られていました。
国道6号線の分岐点から二十分以上歩いたところで牛久城大手門跡という石碑を見つけました。
この日の天気予報は、曇ところによりにわか雨。
雨、ということであれば折り畳み傘を持たなければなりませんが、荷物に折り畳み傘を一つ加えるだけで、トートバッグはズンと重くなるので、もし雨に遭ったら、アテなどないけれども、どこかで雨宿りをすればいい、と傘は持たず。曇ということなら帽子も不要でしょうと、極力身軽に徹して出かけています。
ところが、牛久駅から歩き出してしばらくすると、陽射しが出て、最初の目的地・得月院に着くころはカンカン照りになりました。
牛久駅から延々三十分歩いて着きました。
妙印尼輝子の隠居所があったところです。
妙印尼とは上野国金山(群馬県太田市)城主・由良国繋の母で、俗名は輝子。天正十二年(1584年)、国繋を捕えて当主不在の金山城を攻める北条氏に対抗し、家臣をまとめ、当時七十一歳にして籠城戦を指揮したという女傑です。
六年後、豊臣秀吉の小田原征伐では、国繁が北条方の小田原城に篭城する一方、嫡孫を後見して豊臣方へ参陣。由良家はその功により秀吉から常陸牛久五千四百石を与えられることになりました。家名存続という大役を見事果たし、八十一歳という長寿を全うしました。
境内のそこここで家紋(大中黒)を目にすることができます。妙印尼輝子が命を賭して守り通した由良家(新田氏)の家名への思いが連綿と伝えられているような気がします。
山門を入ってすぐ左側にあった閻魔堂。
本堂です。
右手に庫裏があり、、子供用の自転車が置いてありましたが、人がいる気配はありませんでした。
小川芋銭(1868年-1938年)の墓です。
本堂の左に案内板があったので、すぐ見つけることができました。
曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所を捜して参拝。
得月院五輪塔です。牛久市の指定文化財です。牛久城は関ヶ原の合戦後、元和九年(1623年)に廃城となりました。
妙印尼は永正11年(1514)、当時の館林城(群馬県館林市)の城主赤井重秀の娘として生まれ由良成繁の正室として由良家に輿入れし由良国繁、渡瀬繁詮、長尾顕長の子供を得ています。
得月院をあとにして牛久駅方面へ戻ります。
得月院を訪ねたのは、もちろん薬師如来が祀られているからですが、そう思ったのは私の勘違いでした。目的の薬師堂は得月院からさらに200メートルほど進まなければならない、城中区民会館のかたわらにあったのです。地図で下調べをしていたときに、勘違いを起こしていたのです。
200メートルといえば、往復五分もかかりません。また訪れる機会がくるかどうかわかりませんし、たった五分と思えば、返す返すも残念です。
もちろん勘違いだったと気づくのは帰ってからのこと。そんなこととは露知らず、一つ目の薬師詣でを終えたと思いながら、行きは素通りした八坂神社に参拝します。
ここも行きは素通りした正源寺。
天正二十年(1592年)年の開創。山門(左)と旧観音堂。
曹洞宗のお寺です。
由良国繁が建立した七観音八薬師の一つで、馬頭観音が祀られています。当初、久宝山という山号でしたが、江戸時代、牛久藩二代藩主、山口弘隆の時代に瑞雲山に改められました。 もともとの本尊は馬頭厄除観音でしたが、江戸時代に釈迦如来坐像を本尊としました。
山門右に歴住の墓所がありましたが、ちょっとないがしろにされているように感じられました。
行きに歩いた旧水戸街道を戻り、牛久駅前を通り過ぎて、薬師寺に着きました。長い参道です。
弘仁七年(816年)、徳一和尚の開基と伝えられていますが、幕末のころから百年以上も無住の寺となって、荒廃していたそうです。悲願・心願を祈るお目覚めの「お願い薬師寺」と崇敬されているそうです。