桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

一年の垢落とし

2009年12月31日 23時48分07秒 | 日録

 今日大晦日。
 一年の垢を落としに湯楽の里(ゆらのさと)というスーパー銭湯に行ってきました。
 我が庵は古いマンションの一室で、しかも六階のせいか、水量が乏しいので、お風呂の湯が溜まるまで半端でない時間がかかります。
 休日ならともかく、勤めから帰ってきてお風呂に入ろうと思っても、湯を張り終えるまで待つ時間を考えると苛々するだけなので、シャワーで汚れを落とすだけ、ということになりがちです。そのシャワーも水量が乏しい。
 というわけで、湯船に浸かって身体を温める、という極楽には長らくご無沙汰でした。



 新松戸の隣駅・新八柱で新京成電鉄に乗り換えて一つ目、みのり台という駅で降りました。



 スーパー銭湯はみのり台駅からおよそ1キロ。歩いて十数分と、いささか距離があります。
 強い向かい風に吹きっさらしになりながら、身体が冷えてしまったころにようやく到着しました。



 これまで利用したこともないのに、見ずてんで十枚綴り4900円也の回数券を買いました。
 入浴料は平日だと620円、今日大晦日と正月三が日は特定日とやらで750円になるところ、回数券があれば一回490円で入れるのです。
 お買い得、と思って衝動買いしてしまいましたが、行きたくもないのに、券を無駄にしたくないばかりに行くハメになるのか、電車賃を使ってまで行くのは莫迦らしいと棄ててしまうことになるのか。入ってみないことには決まりません。

 私と同じように、帰ろうにも帰る故郷のない人が多いのか、ロビーの長椅子は空席のない情況でした。
 浴室に入ると、入口に近いほうから、高温のサウナ、低温のサウナの二つ。浴槽は水風呂、薬湯、普通の湯(白湯)、ジャグジーの四つ。窓の外には露天、と並んでいますが、想像していた以上に狭く、狭いのは我慢するとしても、江戸ッ子には湯温の低いのが物足りない。

 とはいえ、私はそろそろ一か月が経とうとはいうものの、退院直後ではあるし、輸血後でもあります。のぼせがくるようなら即座に上がるべし、と自分に言い聞かせて、恐る恐る湯船に身体を沈めました。
 しばらく浸かっていると、ほんわかとした気分になってきました。子どもたちもいましたが、騒いだりはしゃいだりする子がいないのがいい。ゆったりと身体を伸ばしてリラックスできました。

 普通の湯に浸かったあと、身体と髪を洗って、今度はジャグジーに……。
 西伊豆、草津、四万、箱根、湯河原、熱海、房総と近場ばかりながらも、温泉体験は豊富なほうですが、血の巡りが悪い体質なのか、身体の芯から温まったという思い出はほとんどありません。その上、せっかちという気質なので、腰湯で長時間入浴するのも苦手です。
 草津でも熱海の駅前でも、足湯だけで身体がポカポカ温まる、という人がいますが、私にはそういう体質の人がいる、ということが信じられません。

 熱い湯にザブッと浸かって、実際は身体の芯まで温まっているのかどうかわからないけれども、肌だけは真っ赤にして出てくる、という風呂の入り方が理想なのですが、ジャグジーもぬるめでした。

 それでも脚を伸ばして入れる風呂はさすがにリラックスします。
 お湯の中で自転車を漕ぐ真似をしたり、エイエイッと身体をひねってみたり……。お風呂、とくに寒い季節のお風呂は極楽です。



 胃潰瘍をやっていなければ、湯上がりはビールというところですが、子どものころを思い出して、コーヒー牛乳を飲みました。
 いつの間にかガラス瓶ではなく、プラスチックの容器に変わっています。蓋も専用の針をブチュッと刺して開けるタイプではなく、プルトップ型に変わっていました。
 何よりも変わったのは量が少なくなっていること。
 売っているのは自販機です。自分で冷蔵ケースから取り出し、番台にお金を払って飲む、というシステムが懐かしい。

 一度上がって休憩し、もう一度入ろうと思っていましたが、さすがに湯中りしたものか、疲れてしまったので、三十分強で帰ることにしました。

 往きは強い風が吹いていましたが、帰りは風も収まって、それほど寒いとは感じません。
 新松戸まで戻って、明日元旦の雑煮用に小松菜と鶏肉を買おうとダイエーに行きました。が、小松菜のコーナーだけ空っぽでした。
 師走のどん詰まりとはいえ、まだ七時前という早い時間です。ほうれん草と青梗菜はたっぷりとありましたが、青菜であればいいというものぢゃあ、お雑煮はない。
 何も買わずにさっさと退散して、近くにある地元スーパーに行ってみました。見落としたのかもしれませんが、ここには小松菜のコーナーがなかった。仕方がないので、野菜類は買わないと決めている新松戸駅前の某スーパーに戻る形になりました。
 この店は、たとえば私の好物のじゃが芋を買うと、一袋に一つか二つは芯の部分が腐ったものが混じっています。ほかには取り立てて不具合(見た目の)はないので、駅前という便利さもあってちょくちょく買い物をしますが、野菜だけは買わないと決めているのです。

 行ってみると、案の定というか、ありがたいというか、小松菜は払底していました。これで、明日雑煮をつくるのはサッパリと諦めがつきました。しかし、普段なら絶対にしない無駄歩きをしたせいで、身体はすっかり冷え切ってしまって、折角温まったあとだったのに、くしゃみをしながら帰ることとなりました。

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鰤(三浦)大根

2009年12月29日 23時57分58秒 | 料理

 清閑寺(せいがんじ)のブログで頭を悩ませています。

 最初はサラリと書いて終わりにするつもりでしたが、小督局のことを思い、その小督の運命を狂わせる端緒となった建礼門院徳子(平清盛の娘であり、高倉天皇の后)のことを考えるにつけ、おいそれとはまとまらない感じになってきたのです。
 世間の人の多くはもう正月休みに入っているのであろうに、私はまだ勤めがあって、思索に耽る時間がないというのも、清閑寺のブログに結末をつけられぬ原因です。

 勤め先そのものは二十七日から正月休みです。
 しかし私には、二週間の入院と、その前後に休んだのを合わせると、二十日近くも休んでしまったツケが回っていて、年内に終えておくべき仕事が終わっていません。
 それほど重要な仕事を任されているわけではないのですが、私がまとめを出さないと、いささか支障も出るので、今年のうちに終わるか終わらないかわかりませんが、休み中の二日か三日は仕事に出るのです。
 その代わり、サービス残業のようなものですから、朝はゆっくりめに出ます。ゆっくり出たついでに、最近、朝は滅多に歩かなくなった大野城趾下の小径を歩きました。

 目的は一つ。
 下見です。
 何の下見かというと、崖に小さな石蕗(ツワブキ)があるのを見つけていて、帰る時間には暗くなっているのを幸いに、失敬しようか、と企んでいたのです。

 月曜日の朝、何食わぬ顔をして歩きました。
 ところが、見当をつけておいた場所には目的のものがありません。見過ごしたかと思って、あと戻りしようと思いましたが、普段はあまり人と行き交うこともない径なのに、こういうときに限って人が歩いてきます。やり過ごして戻ろうかと思った途端、また人影が向かってくるのが見えました。諦めることにしました。

 夜七時。仕事が一段落したので帰ることにして、石蕗のある場所を目指しました。幸い人通りはありません。二度行きつ戻りつしました。が、やはり、ない !!
 とんでもないヤツがいるもんだ。
 自分のことを棚に上げて怒っています。
 ない、と思うと、無性にほしくてたまらない。

 前に満開の花を写真に撮った石蕗がある径に向かうことにしました。
 満開だった花に気を取られていたので、周辺をじっくりとは見ていませんが、小さめの石蕗が何株かあったような気がしていました。
 薄暗がりの中で見ると、手ごろな一株が見えました。こちらも人通りはない。近くに黒っぽいものがある、と思えば、猫殿がいるだけでした。うすぼんやりと見えるだけの根元をまさぐって、グイと力を入れました。
 抜けた、と思いました。
 この瞬間に備えて、昼に弁当を買ったときのスーパーのレジ袋を棄てずに、鞄に入れていました。「ウッシッシ」と大橋巨泉ばりにほくそ笑んで、手を広げてみると、そこにあったのは根元からきれいに剥がれた葉っぱだけ。
 オー、なんてこったい、オリーブ! と思ったとき、背後に人が近づいたような気配を感じました。

 が、人ではありませんでした。私の脹ら脛のあたりに、猫殿が脇腹をすり寄せていたのです。

 その径はフキやツワノたちオフグ一家が住んでいる径です。彼女たちの縄張りからは数百メートル離れた場所でしたが……。
 入院前からしばらく会っていなかったので、退院後何度か通りましたが、寒かったせいか、一度も姿を見ていませんでした。私の鞄の中にはいつ会ってもいいように、ミオが入れてあります。
 石蕗の番をしていた猫殿には、その匂いがわかったのでしょう。取り出そうと鞄をまさぐっていると、立ち上がって膝にまとわりついてきました。

 オフグ一族ではないけれど、ミオを与えました。
 石蕗のある土手下は二十八日の雨で湿っていたので、「向こうへ行こうか」と反対側のU字溝に誘うと、私のいうことをちゃんと理解して、ついてきました。
 おなかを空かせていたのでしょう。一心不乱に食べてくれました。私にはほほえましくてうれしい光景です。石蕗を取り損ねたことはすっかり忘れていました。
                        
 クリスマスの夜、鰤大根をつくりました。あらかた食べてしまいました。
 煮汁が残っているので、そこに新しい大根と鰤を買ってきて継ぎ足します。これが私流の鰤大根です。



 猫殿と会った帰りに寄ったスーパーで三浦大根を見つけました。とっさに鰤大根に使ってみようと思って買いました。
 普通の大根の二~三倍の重さがありそうです。勤め帰りに重いものを買うなど、普段なら決してあり得ないことなのに、ウキウキしていました。これも予期せず猫殿に出会ったおかげ……。

 一昨日もうれしいことがあったのが影響しています。
 全国大学ラグビー選手権(2回戦)で、ひょっとしたら負けるかもしれないと、
諦めも先行していたメイジが関西大学王者・関西学院を力任せにねじ伏せたこと、トップリーグではトヨタ自動車の4位以内が確定して、二季ぶりのプレーオフ進出を決めたことです。

 メイジトヨタの対戦が実現したら、どちらを応援したらよいのかと、いまから頭を悩ませています。

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京都東山清閑寺

2009年12月23日 22時07分52秒 | 歴史

 年の瀬も押し詰まってきました。
 永年考えていて、今年こそ果たそうとして果たせなかったことがあります。再訪してみたいお寺があったのですが、とうとう行く機会がありませんでした。
 それは京都東山にある清閑寺(せいがんじ)というお寺です。有名な清水寺から近いのですが、京都の人でもこんなお寺があると知っている人は少なく、訪れる人はほとんどありません。
 私が行けなかった代わり、京都で仕事をしている友人に代参してもらいました。ここで使った写真は友人が撮って送ってくれたものです。

 私が清閑寺を知ったのはまったくの偶然でした。
 もう十年以上も前ですが、私的旅行で京都へ行ったときのことです。真夏の二日をかけて、高山寺、広隆寺、清水寺、銀閣寺、金戒(こんかい)光明寺と巡りました。
 金戒光明寺を除けば、観光寺院として著名なところばかりです。
 広隆寺の弥勒菩薩を見てあまり感動せず、なぜに感動しなかったのだろうと首を傾げながら清水の舞台にやってきましたが、こちらも人ばかりで、うんざりしていました。
 舞台から南の方角を眺め下ろすと、木立に囲まれた子安塔が見え、こちらは人影もなく、静かそうです。一緒にいた相棒に「行ってみないか」と誘われ、人混みから逃れたい一心で舞台の下に降りました。

 鄙びた山蔭の径という風情の小径を歩きました。いまは墓地の造成工事の最中みたいですが、当時はただただ静まり返っていて、人の姿もありませんでした。子安塔への入口を通過し、その先に何があるとも知らずに歩を進めました。



 分かれ道にきました。この道標は記憶にあります。
 左が清水寺から清閑寺に到る、昔からの山径です。ここで初めて清閑寺というお寺がこの先にあることを知りましたが、どんなお寺なのかはまだ知りません。

 
 


 清閑寺に到る直前、木立に覆われていた山径が開豁として開け、二つの天皇陵がありました。清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)と後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)です。
 清閑寺陵は第七十九代六条天皇(1164年-76年)、後清閑寺陵は第八十代高倉天皇(1161年-86年)を祀っています。

 この陵は元々は清閑寺の寺域で、法華三昧堂という御堂があったそうです。
 高倉天皇が通称池殿と呼ばれた平頼盛(清盛の異母弟)の館で亡くなったとき、遺体は六波羅から程近いこの法華三昧堂に葬られ、その縁からここに陵が造成されたようです。
 その十年前に亡くなった六条天皇も御堂の名は未詳ながら、清閑寺の小堂に葬られた、と記録にあります。

 六条天皇の父は二条天皇、祖父は後白河天皇です。
 わずか二歳で即位。二歳といっても当時は数えですから、実際は生後七か月。在位三年(1165年-68年)足らずで、高倉天皇に譲位。
 高倉天皇の父は後白河天皇。二条天皇の弟に当たります。六条天皇にとっては叔父です。年下の甥から叔父に譲位されたという、ちょっと妙なことになります。

 二歳で即位した天皇が五歳で退位。そのあとの天皇も、退位したときこそ二十歳になっていましたが、即位したのはわずか八歳のときです。
 このあたりを見るだけで、キナ臭さがプンプンと漂ってきます。

 背後でうごめいている二つの影があります。後白河と平清盛です。
 清盛は天皇の外戚たらんと欲し、後白河は武力という後ろ盾がほしかった。本心では互いに毛嫌いしながら、見出された妥協点が清盛の娘・徳子を高倉天皇の中宮に迎えることでした。
 当然皇子の誕生が期待されたわけですから、皇子誕生と同時に、高倉天皇の命脈も尽きる……という手筈です。
 このとき、徳子は十七歳、高倉天皇は十一歳でした。
 六つも年上の姐さん女房です。徳子は政略結婚だということは充分に承知していたのでしょう。父の期待に応えて、入内後七年、二十四歳で安徳天皇の母となりますが、仲睦まじい夫婦生活などは最初から諦めていたフシがあります。それは高倉天皇も同じ。

 


 ここに小督(こごう)という女性が登場します。二つの画像は清閑寺内にある小督の供養塔と掲示板です。供養塔はレプリカで、お墓は高倉天皇の陵内にあるそうです。

 小督(1157年-?年)は桜町中納言と呼ばれた藤原成範(1135年-87年)の娘です。本名は不詳。
 たぐい稀なる美貌の持ち主で、琴の名手でもあったそうです。高倉天皇に見初められ、その寵姫となりますが、自分が天皇の祖父にならんとしていた清盛にとって、こんな忌々しい存在はありません。

 清盛の怒りを恐れて、一度は出奔して嵯峨野に身を隠します。しかし、高倉帝の命を受けた北面の武士・源仲国に捜し出され、再び宮中に連れ戻されます。
 小督にも帝の寵愛がひとかたならぬものとわかったのでしょう。めでたく懐妊。坊門院範子内親王(第二皇女)を出産します。
 この出産が清盛の杞憂を現実的なものとさせ、ますます怒りを募らせることになります。小督の子が皇女であったからよかったものの、皇子を産まれてはたまらないからです。産後、無理矢理髪を下ろされ、出家させられてしまうのです。清盛の怒りを怖れて、みずから出家したとも。

 ところが、小督を帝に薦めたのは、誰あろう后の徳子だという説があるのです。

 高倉天皇には先に葵の前という女童がおりました。「平家物語」によると、徳子についてきた女房に仕える少女だったということです。天皇は頭越しの徳子の入内に反発して徳子を避けること甚だしく、逆に葵の前への傾倒は深くなって行きます。

 葵の前がどのような女性であったのか明らかではありません。身分が違う、と記録にはあるので、公家の娘でなかったことはもちろん、武家出身でもなかったのでしょう。
 身分が違っていることが要因となって宮中を去り、やがて死んだと伝えられています。高倉天皇の落胆はいかばかりであったでしょうか。
 それを見かねた徳子が帝を慰めようと小督を召し出したというのですが……。
〈つづく〉

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有朋自遠方来 亦不楽(3)

2009年12月20日 09時28分37秒 | つぶやき

 入院して無聊をかこつようになってから、何より愉しみに待っていたのは、関西在住の友が見舞いにきてくれることでした。十一月二十八日に東京に所用があって、その前日にくることは前々から決まっていたのです。

 くることが決まったころ、自分ではすこぶる体調が悪いと思っていただけですが、実際は胃潰瘍の前兆に悩まされていたので、「病院で会うということにならなければいいけれど……」と冗談交じりに話をしていました。まさか正夢になろうとは思いませんでしたが……。

 入院八日目の十一月二十七日。
 友が到着したのは夕暮れ時でした。病院のすぐ近くにホテルをとっていましたが、チェックインをあと回しにして、先に訪ねてきてくれました。
 私の夕食の時間が迫っていたので、コンビニでお握りを買ってきた友と私のベッドに腰かけて一緒に食事。



 その夕食です。病人食で、味のほうは致し方なしと思えた食事が関西育ちの友人には、結構塩気が強いと感じられたそうです。



 友が見舞いに持ってきてくれたキイロトリの縫いぐるみです。
 手前は京都鴨川べりで拾ってきてくれた公孫樹(イチョウ)の葉だそうです。その他、盛りだくさんの見舞いの品々をもらいました。

 
 


 翌九日目は土曜日。友人は所用で東京行。朝、見舞いにきてくれたその足で東京に行き、戻ってきたのはまた夕暮れ時でした。

 その日の朝食から夕食です。ようやくお粥を脱して普通の米飯となりました。おかずも食材の形がはっきりして、見た目だけはもう病人食ではありません。



 十日目の朝食はパンでした。
 この日は日曜日。入院していなければ、とタラレバの話をしても詮方ないことですが、海を見に城ヶ島へ行き、新幹線で帰る友を新横浜か品川で
見送るはずでした。

 血色素量と赤血球数が基準値に満たないのを除けば、ほとんど恢復しています。病室で膝突き合わせていても芸がないので、また外出許可をもらって、散歩に出ることにしました。
 といっても、遠くへは行けません。かといって、近辺には遠来の客をもてなすような名所もありません。大谷口(小金)城址のある歴史公園を案内することにしました。
 病院からは約1キロの距離。普段なら十分少々で歩いてしまいますが、ソローリソロリとしか歩けないので、倍ほどの時間がかかりました。

 好天ではありましたが、冷たい風があって、薄ら寒い陽気でした。貧血のせいで血の巡りが悪いのか、時間が経つのにつれて、指先も冷たくなってきます。コートのポケットに突っ込んでも、一向に温かさが戻りません。



 大谷口城址で見上げた空。
 ときおりクルクルと回りながら欅(ケヤキ)の落ち葉が舞い落ちてきます。のんびりと眺めていたいところですが、一週間の温室育ちに慣れてしまった私にはちょっと厳しい冷気でした。

 城址は小高い丘になっていて、20メートルほどの高低差があります。
 上り下りしても息の切れることはなかったので、大勝院を訪ねることにしました。大谷口城を築いた高城胤吉が一族の祈願所として建立した真言宗豊山派の寺院です。

 城址をあとにして新松戸駅のほうに少し戻ると、傾斜30度ほどの急な上り坂があります。その坂を上り切ったところに大勝院があります。足慣らしならぬ心臓慣らしを兼ねて坂を上りました。
 坂の左側には崖を背にして建つ家が並んでいます。どの家も一階部分はガレージだけ。階段を上って家に辿り着くという設計になっています。
 西伊豆の山を背に家を建てるとしたら、やはりこんな設計になるのだろうかと思いながら、温泉付きの家を持ち、地元の漁師さんたちとコミュニティを立ち上げて……と、友と他愛ない話。



 大勝院境内にある樹齢五百年(推定)といわれる公孫樹の老木です。
 新松戸の公孫樹はほとんど散ってしまったのに、この樹はまだ沢山の葉をつけていました。根元のあたりは大人三人が両手を拡げてやっと届くか、という太さ。幹に手のひらを当てると、ほんのりと温かさが伝わってきます。



 近いので、これまでに何度か訪ねていますが、久しぶりに訪ねてみると、新たな発見がありました。
 本堂前の灯籠に桔梗の紋が刻まれているのを見つけたのです。対になった右側もそうかと思えば、こちらは違い鷹の羽でした。
 なにゆえに桔梗紋か。
 真言宗智山派の寺院なら、総本山・智積院の寺紋が桔梗ですから、わからないでもありませんが、ここは豊山派……。

 北小金駅から柏に出て、昼は高島屋のレストラン街で鴨汁そばを食べました。数日前、テレビで視ていて無性に食べたくなっていたものの一つでした。
 退院したらいろんな料理をつくってみたい。新しい料理には新しい皿を……高島屋の食器売場を歩いて、山中塗のきれいな汁椀を見つけました。なんと一つで6500円也といい値段がついていたので、とても手は出ませんが、手にとって見るだけで眼福というものでした。



 その夜の夕食。左上の緑色に囲まれたような白いものは好物のじゃが芋かと思ったら、蕪でした。

 食事を終えると、友の帰る時間が迫っていました。今度はいつ会えるのかわかりません。せめて駅まで送りたいところですが、私が行けるのは病院の玄関まで……。
 冬の夕暮れなので、外はすでに真っ暗ですが、時間はまだ七時過ぎ。そんな時間に松戸をあとにしても、友が自宅に着けるのは深夜なのです。
 そんな遠い距離を厭いもせず、私を励ましにきてくれた……。私は思わず涙が滲むのを覚えました。
 振り返り振り返りしながら、暗闇に友の姿が消えると、また独りきりになりました。
 いつ退院できるのかわからないこともあり、この世に独りだけ取り残されたような気がして、身体がふか~い虚脱感に包まれて行くのをいかんともしがたい。

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入院一週間目の小外出

2009年12月14日 21時33分56秒 | つぶやき

 十一月二十七日 ― 入院八日目。
 午前中、再び内視鏡検査があって、出血も見られなかった上、血液検査では赤血球数は三日前の253から261、血色素数は7・6から7・9、ヘマトクリットは22・8から24・0へ。

 
まだまだ基準値には程遠い数値ですが、少しずつ改善されてきている、という医師の話でした。
 ただ、血色素数は9・0以上にならないと、退院許可が出る見込みはない。また三日後に予定されている検査結果を待たないと、いつごろなら9・0以上になりそうかという予測は立てられず、少なくとも十一月中の退院は望みなし、とのこと。

 それはそれで諦めがつきましたが、問題は下着類やタオルなどは差し入れてもらっていたものの、その他身の回りのもの(たとえば携帯電話の充電器)が何もないということでした。取り立てて連絡を取らねばならぬ人はいませんが、私にとっては携帯電話だけが外界と繋がる唯一の手段です。そろそろ電池切れも近い。
 月末も近いので、いろんな支払いもしなければなりません。

 ナースの長(おさ)に相談を持ちかけると、短時間なら外出してもよいという許可が出ました。あとになってみると、それほど仰々しいものではなかったのですが、外出に当たって、外出申請書という書類を出さなければなりません。
 申請書には外出の目的と所要時間、付き添い人などの欄があって、私の場合は貧血で倒れる心配があるので、付き添いのあるのが望ましいとのこと。急なことなので、付き添いを頼める人などいません。急でなくとも、多分いません。
 付き添いの件をどうしようかと考えながら、自宅に帰ったら、入院中の垢を落とし、髪を洗おうと思いました。
 それからクリーニング店、銀行、コンビニ、携帯電話ショップと、その日、行くべきところをリストアップして、病室のある四階フロアをひと巡りしました。足慣らしのつもりでした。



 内視鏡検査を控えていたので、前日の夜九時以降、絶食でした。もちろん朝食も抜きだったので、昼食は一気に平らげました。
 内視鏡検査の結果がわかっていたはずはありませんが、何かのお祝いのつもりか、デザート代わりの「もみじまんじゅう」と「もみじを彩る秋の夕陽」と印刷されたカードがついていました。

 昼食後、衣服を着替えて一階に降りると、新型インフルエンザのせいもあって、外来待合は人で溢れていました。受付はてんてこ舞いの様子で、私に付き添いがあるかどうか、見咎める人もいません。
 玄関の自動ドアを二つ抜けると、久しぶりの外気です。



 いつも私が眺めていたのは、病室から見える武蔵野貨物線と渡り廊下にあるこの窓からの景色だけです。左手少し先が新松戸駅。道路に面して左右に馴染みの店がありますが、ここからは見えません。

 それが、今日は籠から放たれた小鳥のような気分です。天気もよかったので、晴れがましいような、照れ臭いような気持ちでもありました。
 一歩道路に踏み出したとき、頭がクラクラとしました。太陽の光を浴びた瞬間のことです。

 足取りを確かめながらゆっくりと歩き、いつも通勤時に通る流鉄の線路際に出ました。見慣れたはずの風景がすごく新鮮に感じられます。

 入院している間に、季節も晩秋から初冬へと移り変わっていました。
 私は暖かい病室でぬくぬくと過ごしていたので気づかぬ日もありましたが、わずか一週間のうちに、小雨の降った日が三日もあり、最高気温が10度に届かぬ日もあったのです。
 我が庵のあるマンション前の通りが妙に明るく感じられると思ったら、欅や公孫樹の葉がすっかり散っていたのでした。

 庵に帰って、病室に持って行くものをショッピングバッグに詰め、植木類に水をやって腰を上げました。



 本は何を持って行こうかと逡巡した挙げ句、読み差しのままだった車谷長吉さんの「灘の男」を持って行くことにしました。
 何より気にかかっていたのは、その夜に訪ねてきてくれる友人に用意しておいた手土産を庵に置いたままにしていることでした。すぐ取り出せるように、一番最後にバッグに収めました。

 所用を済ませたあと、近くのダイエーに行きました。昼は済ませていたのに、小腹が空いています。
 病院では私のような患者が外出に乗じて何をしたくなるのかを先刻承知なのでしょう。間食は取ってもよいが、消化のよくないものと過度な刺激物は禁物というほか、とくに注意はありませんでした。
 分厚いハムステーキも食いたい、パスタも食いたいと、触手を動かされるものはたくさんありましたが、一度には食べられません。
 一つだけなら何を食べるかとつらつら考えてみるに、ケンタッキーフライドチキンしかないだろうとの結論が導かれました。

 店に入り、メニューを見上げると、小さな子が初めて独りでお使いに出たときのような気持ちです。喉がカラカラに乾くような思いを味わいながら、チキン1ピースと薄めのコーヒーを注文。食べ物を注文するのに、こんな緊張感を覚えたのは初めてです。
 1ピースはあっという間に食べ終えてしまいました。骨もバリバリ噛み砕いて食べたいという誘惑に駆られましたが、せっかく治りかけている胃の腑に傷をつけてはいけないと思って我慢。コーヒーも何十年ぶりかで砂糖を入れました。
 フライドポテトも食べたかったけれど、油+油はさすがにいかんと、これも自制。あと1ピースは食べられそうに思えましたが、腹八分目と言い聞かせて店を出ました。

 フライドチキンをわずか1ピース食べただけで、非常に満ち足りた幸せな気分でした。
 その夜はもう一つうれしいことが待っていたからでもありますが、それは次のブログで……。

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一大事、であるはずが……

2009年12月09日 22時48分23秒 | つぶやき

 入院当日、病院に向かう直前に煙草を吸いました。残っていた最後の一本でした。体調はすこぶる悪かったのに、惰性で吸いました。その一本を吸ったのは、午後二時ごろだったと思います。
 そのまま入院という事態になるとは思ってもいなかったので、診察を受けた帰りに煙草を買うつもりで、ライターも携帯灰皿も持って出かけています。

 担当医師によると、入院当夜は胃癌の可能性も疑われるような病状だったので、私も極度に衰弱していて、喫煙など考えるような状態ではありませんでした。
 再び煙草を意識するようになったのは入院二日目の昼ごろ。そういえば、そろそろ丸一日になるな、と思ったときでした。

 煙草を吸わない人の家を雑誌の取材で訪問したときなど、数時間喫煙しない、ということはたびたびありましたが、息を止めて水の中に潜っているような気分で、息苦しくて仕方がなかったことを思い出していました。

 しかし、今回は病院にいる、という無意識の意識があるのか、居ても立ってもいられないということはありません。自由に煙草を吸える環境だったら吸っているだろう、と思うことはありましたが、そう思ったことはすぐに忘れています。
 かつてなんらかの事情で煙草をやめなければならないとしたら、と想像したとき、禁断症状が出て、喉を掻きむしりたくなるような枯渇感に見舞われるのではないか、と思ったことがありますが、幸いにして禁断症状はありません。
 何かで気を紛らせないと我慢できないというものでもない。

 私のいた四階は病室専用のフロアでした。
 だから当たり前、と考えるのか、「禁煙」という表示があるのは見舞客も利用するエレベーター前だけです。前は喫煙場所があったらしく、病院敷地内全域を禁煙にしたという但し書きがついていました。

 高校二年生の二月一日、通称ロングピースが発売された日以来、四十五年の長きにわたって、一日も欠かさず、ほとんど銘柄を変えることもなく、不断に紫煙をくゆらせてきました。
 そんな私にとって、今回の入院による断煙は一大事のはずですが、吸いたくて吸いたくて七転八倒する、というようなイベントもなく、淡々と時は過ぎて行きます。

 入院中に小外出したとき、禁煙パイポを買いました。口寂しさを紛らそうと思ったのですが、こんなものをくわえていると、かえって煙草を思い出してしまいます。

 退院して今日で六日。
 今週から仕事にも復帰して、ときおり通院するほかはほぼ前の生活に戻りましたが、煙草は吸わず、アルコールも呑んでいません。
 ときどき吸いたいなァと思うことはあります。吸いたいというより、目の前にお菓子類があれば、つい手を伸ばしてしまうように、無意識の裡に手が伸びるのだろうと思います。
 酒は気が向いたら呑めばよいと思っていますが、いまのところ呑む気にはなりません。急に体調の悪さを感じた入院二日前の十一月十八日から呑んでいませんので、今日で丸二十日ということになります。
 前は焼酎の一升瓶を一週間で空にしていましたが、入院して留守にしていたこともあり、一か月前に買った焼酎瓶にいまだに残りがあります。



 入院する直前に吸って、空のまま残されたパッケージです。
 退院してからも、そのまま机の上に残されています。四十五年間も親しんだパッケージだと思うと、棄てるのは忍びない。未練があるわけではないのですが、しばらくこのまま置いておこうかと思います。

 
 


 入院六日目の朝食~夕食です。三分粥から五分粥になりました。

 
 


 入院七日目の朝食~夕食。七分粥になりました。

 

 
 入院八日目の昼食と夕食。全粥になりました。この日の朝は内視鏡検査があったので、絶食でした。
 翌九日目からは普通の米飯になりました。

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新・仰臥漫録

2009年12月07日 22時49分10秒 | つぶやき

 入院後四日間は何も食べさせてもらえず、点滴だけで過ごしました。
 動くといえば、トイレに行ったり、一階にある売店に新聞や雑誌を買いに行くだけですから、リンゲルの点滴だけでも腹が減るようなことはありません。
 しかし、三日目ごろから妙に嗅覚が過敏になり、同室の人たちの食事が気になって仕方がないようになっていました。

 毎朝六時になると部屋の明かりが灯され、ナースが薬を持ってきて、血圧測定と検温をして行きます。
 私の場合は加えてリンゲル液の交換、鉄剤の注射と採血があります。
 血圧測定と検温を終えると、洗顔や歯磨きに立つ人、隠れて煙草を吸いに行く人……。
 周囲が少しずつ騒がしくなってきたと思ったら、八時になっていて、朝食の時間です。
「○○さーん、お食事でーす」という声が前後左右で聞こえ、パタパタとスリッパを鳴らしながら歩き廻るナースの足音がしますが、むろん私のところには誰もきません。

 三日目の朝、シャカシャカと何かをかき混ぜるような音につられて目を挙げると、隣のベッドで寝ているオヤジが何かをかき混ぜている姿がカーテン越しにシルエットとなって見えました。

 六人部屋で、ベッドとベッドの間は厚めのカーテンで仕切られているだけですから、各自のベッドに備え付けのランプを灯すと、おぼろげながらその人の姿が見えるのです。
 やがてズルッズルッという音が聞こえました。「あ、納豆を食っているな」とわかりました。
 私は格別納豆が好きだというわけではありません。しかし、この朝ばかりは無性に食べたくて仕方がない。
 昼時にはトマトスープらしい匂いが漂ってきました。もうたまらん、という感じです。

 私がいる病室の隣に談話室があって、そこには無償の小冊子が何冊か置かれています。主にサプリメント会社の広告で成り立っている冊子で、健康や病気に関する記事に混じって、特定の病気によいと謳う病人食のレシピなども載っています。
 私が見た一冊には、焼いた秋刀魚を載せたパスタが紹介されていました。滅茶苦茶美味そうに見えました。

 めでたく退院の暁には是非つくろうと思いました。
 すでにパスタ皿は持っていますが、もう少し深めのものがほしい。模様の目立たない、真っ白な皿がいい。これも退院の暁には探しに行こう。
 希望が湧いてきました。

 点滴中(最初の数日は500ミリリットルのリンゲルを一日四本打ちましたので、ほぼ二十四時間、腕に針を刺したままの状態です)は点滴スタンドを引きずりながら歩くこともできますが、煩わしいのでベッドに横になっていることが多くなります。することもないので、テレビを視るか新聞を読んで暇を潰すことになります。

 朝五時半ごろになると、一階の新聞販売機に朝刊が届きます。売っているのは朝日、讀賣、サンケイスポーツの三紙。130円也を入れて朝日新聞を買います。
 ベッドで胡座をかいて、隅から隅まで目を通し終わるころには朝食の時間。一階では売店が店を開くころです。

 朝食を終えると売店に行って毎日新聞を買います。余計なことながら、私は讀賣は決して読みません。
 
私の好物のポテトチップスが売られているのを横目でチラリ。
 水分をとることは許されていますが、さすがに缶コーヒーは駄目です。コーヒーのCMに出ている高田純次の顔を思い浮かべながら、それも横目でチラリと眺めて、買うのはミネラルウォーターです。
 部屋に戻って、水を飲みながら毎日新聞も隅から隅まで目を通しますが、読み終わるころはまだ十時です。
 なが~い一日はなかなか時間が経過しません。



 テレビを視るためには、この販売機でテレビカードというものを買わなければなりません。一枚1000円で十二時間視ることができます。

 四日目。二度目の血液検査の結果が出ました。
 懸案の赤血球数は215から208へダウン。血色素量も6・5から6・4へダウン。ヘマトクリットも19・6から18・へと、軒並みダウンでした。しかし、潰瘍による出血はもうないとのことです。



 五日目にしてようやく食事が出ました。リンゲルを脱し、初めて供された朝食です。
 重湯であろうと想像していたら、三分粥でした。味噌汁 ― と、いうより具が何もない味噌スープ ― に、クッキングチョッパーで粉々に砕いたような、得体の知れないおかず二品とヨーグルト。

 おかずはかつて食べたことのある味ですが、新生児の離乳食のようで、見ただけでは原型がなんなのかまったく見当がつきません。口に入れて噛む、というより胃の腑に流し込みながら、これは元々はなんなのだろうと考えました。間違いなく食べたことのある味なのですが、結局わかりませんでした。



 毎食前、胃酸を中和するタイメックという液状の薬(左・ヨーグルトのような味がします)を服み、食後はプロマック(手前)とガストロームという顆粒状の薬を服みます。
 プロマックは胃粘膜を保護する薬。ガストロームは消化管粘膜全体を保護し、壊れた組織を修復する薬だそうです。



 昼食。三分粥に依然として得体の知れないおかず。プラス牛乳200ミリリットル。



 夕食も三分粥。ようやく麻婆豆腐らしいとわかるおかずにグレープジュースがつきました。麻婆豆腐はそれらしいとわかっても、もちろん香辛料は抜きです。

 翌六日目は五分粥、七日目は七分粥、八日目は全粥となって、九日目にして普通の米飯に戻りました。

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大出血

2009年12月06日 18時39分40秒 | つぶやき

 十一月二十一日、入院二日目です。
 無事二日目の朝を迎えてしまうと、いかにもオーバーな表現になってしまいますが、前夜はこのまま目覚めを迎えないかもしれないと考えました。
 私は「日録」と題して日記をつけています。パソコンでつけているのですが、毎月月が変わるころになると、翌月一か月分の日付と曜日、二十四節気、両親の祥月命日、月命日などを入力しておくことにしています。

 そういうことに関して、ときおりふとこんなことを考えます。
 それはある日を境に、残りの日付は埋められないままの日録が遺される、ということなのです。
 入院当夜、日付と曜日だけが記され、あとは何も記述のないパソコンの画面を見ている、という夢を見ました。

 朝九時、医師の巡回があって、「検査時系列報告書」というプリントを渡されました。二時間前に採血された血液検査の結果です。31の検査項目があって、基準値と私の値が記されています。

 医師の説明によると、私の場合、とくに問題なのは赤血球数と血色素(ヘモグロビン)数とヘマトクリットで、それぞれ2086・418・8
 これだけではなんのことかわかりません。もらった当人も最初はなんのこっちゃ? と思いましたが、男性の基準値はそれぞれ415~55013・5~17・539~51だと聞かされると、軽いショックに見舞われました。三項目とも基準値の半分以下しかないのですから……。
 ことに6・4という血色素数はあまりにも少な過ぎて、せめて9・0にならなければ、退院は覚束ないというのです。

 いつ9・0になるか ― 。
 それは神のみぞ知ることです。

 パソコンがないので、ノートにボールペンで備忘録をつけることにしました。
 二十年以上も前、ワープロを使うようになってこの方、手書きで文字を書くことはほとんどなくなりました。漢字が出てこないのではないかと思いましたが、意外にすらすらと書き進めることができました。

「非常に大きな潰瘍が見つかりましたが、手術の必要はないようです。ただ、出血がひどいので、輸血をしますが、血液型は何型ですか」
 入院当夜、胃カメラの結果が出たあと、医師に訊かれて私は躊躇することなく、「B型です」と答えました。 

 大学一年生のとき、入部したばかりのラグビー部で、いきなり献血に駆り出されたことがありました。四年生の母親の手術に輸血が必要になって、部員全員が協力したのです。そのとき、B型だと知らされました(と、いう思い込みがありました)。
 以来、献血をしたこともなく、輸血を受けることもなく今日まできました。検診で血糖値などを調べるために採血されたことはありますが、改めて血液型を知らされることはありませんでした。よって、今日まで自分はB型であると信じ込んでいたわけです。

 ところが、ところが……私の血液型はA型でした。
 またまた軽いショックを受けました。
 私は血液型や星座による性格判断とか運勢占いを信じるわけではありませんが、まったく気にしないというのでもありません。
 亥年に生まれ、星座は獅子座で、B型だと思えば、走り出してから考え、そのときにはおおむね間違った方向に走り出していて、後悔ばかりしてきた、という猪突猛進の人生が、いかにもB型らしいと、苦笑しながらも愛おしいと思ってきたのです。

 私の血液型と水分以外は「絶食」を示す札。血液型のほうは退院するまでベッドに掲げられていました。

 輸血承諾書です。
 入院当夜は口頭による説明(というより宣告)だけだったので、翌日サインしました。もう輸血も済んだあとです。
 500ミリリットルの輸血を受けました。私の体重から推計すると、およそ九分の一に当たる新しい血液が入ったことになります。気のせいか、人格も変わったような気になりました。
 が、あくまでも気のせいです。

 入院当日、普段なら歩いて四~五分で行けるはずの病院まで三十分もかかったのは、多量の出血による貧血のせいで、休み休み歩かねばならなかったからでした。
 担当医から「よく一人で歩いてこられましたね」と褒められたのかあきれられたのか。そのあと、「お歳なんですから無理は禁物です。こういうときは救急車を呼んでください」と釘を刺されました。

 そうか。いつの間にか私も「お歳」だったのです。
 そのためでもないでしょうが、三日目の朝までは歩行禁止でした。トイレに行くときは「ナースを呼んでください」といわれましたが、気が引けるので、溲瓶をもらいました。

 生まれて初めて経験する入院生活です。息苦しさや不便さを感じるより、なんとなく愉しいような気分です。

 五日目までは食事代わりのリンゲル液を毎日四本。一袋が空っぽになるまでの所要時間は大体三時間。

 私の両腕は一日交替で交互に針を差し込まれます。これに採血の注射針とヘモグロビンを増加させるための鉄剤注入の注射針が加わって、腕は穴だらけ。

※今日(十二月六日)の関東大学ラグビー戦。
 先日(十一月二十二日)の帝京大戦(0
対56)の完敗を考えると、メイジはよくやったといえるかもしれないが、善戦と見るのは、相撲でいうなら、平幕力士が横綱を苦しめたけれども、結局は勝てなかったという話。
 再建の先はまだまだ遠い。

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青天の霹靂

2009年12月05日 13時07分09秒 | つぶやき

 先月の二十日、突如入院、ということになりました。
 原因は胃潰瘍と出血過多による貧血で、ちょうど二週間の入院生活を送って、十二月三日に退院。

 兆候は遙か以前に現われていたのでしょうが、現実に現われたのは十一月十八日のことでした。朝、目覚めたときからなんともいえない妙な感じだったのです。
 前日は充分に眠っていて、疲労も残っていないはずなのに、無性に眠いのです。とはいえ、いつまでも眠っているわけにもいかないので、いつもどおり出勤に及びました。

 変調はすぐに現われました。マンションを出た途端に胸焼けのような症状に見舞われて、何歩も歩かないうちに息が切れ、坐り込まずにはいられなくなったのです。
 20メートルほど歩いて隣のマンションの石組みに腰を下ろし、立ち上がって20メートルほど歩くとまた腰を下ろし……。
 こうして休み休み行くので、いつもなら九分ほどで歩いてしまう駅まで、なんと二十分も要してしまいました。

 勤務先までは電車を降りてからまた十五分ほど歩かなくてはなりません。とても歩く気力はなく、バスを利用することにしました。
 バスがくるのを待っている間も、立っていることが苦痛で、しゃがみ込んでいました。

 勤務中は坐っていることが多く、坐っているぶんには格別の変調は感じないのです。ただ、食欲はまったく沸かなかったので、昼食は食べませんでした。第一、外に出ようという気力が湧かない。それなのに、夕方になっても空腹を覚えません。

 帰りは勤め先を出た途端にギブアップです。
 タクシーがきたら拾おうと思いながら歩きましたが、こういうときに限ってタクシーはこないものです。背後を振り返りながら腰を下ろし、諦めて歩き出してはまたすぐ腰を下ろし……。
 そういう繰り返しで、いつもだったら十五分ほどで歩くところを、四十分ほどかけてようやく駅に到達。
 朝に較べると、息のつづく距離が俄然短くなっているし、腰を下ろしている時間も長くなっています。夜になって冷え込んで、風も出てきていたのに、ところ構わず腰を下ろさずにはいられない。

 帰りの武蔵野線はそこそこのラッシュです。空席なぞありません。坐っている人たちを恨めしげに眺めながら、吊り革にぶら下がるようにして、下車駅の新松戸へ。
 プラットホームに硝子張りで、暖かそうな待合室ができていたので、ヨッコラショと腰を下ろしたら、ついウトウトとして、十~十二分に一本しかない電車を二本もやり過ごしていました。

 歩いては休み、休んでは歩きして、ようやく自宅前に辿り着きました。
 我がマンション入口には五段ほどの上り階段があるのですが、目の前にするとヤレヤレと思うばかりで、そのわずかな段差を上ろうという気力が沸かない。
 夜の冷気の中で、冷たい階段に腰を下ろしたまま、身体が冷え切るのに任せていました。

 気力を振り絞ってなんとか帰り着いたときには、100%精も根も尽き果てた感じでした。衣服はもちろんコートも着たまま布団にもぐり込んで、十二時間眠りこけました。
 目覚めたときは治ったかと思ったのですが、トイレに行こうと立ち上がると、足取りが覚束ない。調子は少しもよくなっていません。

 結局、翌日は勤めを休んでウトウトと眠りつづけ、二十日の朝を迎えました。
 前夜、近くの病院に電話を入れ、朝九時に内科を訪ねるようにいわれていました。
 しかし、目覚めたのは九時半でした。いけない、と思いましたが、枕許に置いた携帯電話すら手に取る気力がなく、また眠りこけました。

 病院を訪ねたのは午後三時前でした。普通なら四~五分で歩ける近さなのですが、例によって休み休み歩くので、三十分もかかりました。

 総合受付→内科と受付を済ませましたが、なかなか順番がきません。
 やっと名前を呼ばれたのは四時半。
 ようやくと思えば、診察室前に長椅子があって、まだ待たされました。
 前は坐ってさえいれば耐えられたのですが、ここに到って、どうにも眠くてたまらなくなっていました。通りがかった看護師に「お行儀が悪いが横にならせてもらう」と宣言して、返辞も聞かず、長椅子に身体を横たえました。そうして何分待ったか、意識が朦朧としていたので記憶がありません。

 医師と遣り取りした記憶までなくしてはいませんでしたが、たったいま、交わした会話ではなかったようにも思えました。
 診察を終えて改めて気がつくと、私を診てくれた医師(♀)が慌てふためいています。ナースが飛んできて、あちこち電話をかけ始めました。「緊急! 緊急!」と叫んでいるのも聞こえます。
「○○先生は?」
「先ほどお帰りになられたそうです」
「じゃあ、××先生は?」
「まだいらっしゃるはずですが、どこにいらっしゃるのか……」
「とりあえず急いで車椅子を持ってきてッ!」
 私は診察用のベッドに腰かけたまま、慌ただしい診察室の様子をぼんやりと眺めていました。まさか自分のためにみんなが騒いでいるのだとは考えてもみずに……。

 車椅子がきて、やっと自分のための騒ぎだったのだと事情が飲み込めましたが、私は二十七歳か八歳のころ、ひどい風邪をひいて以来、検診を除けば三十年以上、医者にかかったことがありませんでした。もちろん入院などしたことがないので、すべてが狐に摘まれたようです。
 車椅子の行き着いた先で寝間着に着替えさせられ、ストレッチャーに乗せられて、心電図、腹部レントゲン、胸部レントゲンと部屋を巡り、最後は内視鏡の部屋に運び込まれました。

 胃カメラも初めての体験です。
 喉の麻酔薬を服んだあと、横向きにさせられ、口を閉じないように丸い輪っかを嵌められて、ナースに頭を押さえつけられました。
「唾は飲み込まないで、垂れ流しでも気にしない。遠くをぼんやりと見ましょう」などといわれますが、胃カメラなど飲んだ経験がないのですから、具体的にはどうしたらいいのかわからない。

 やがて部屋が薄暗くなり、シューシューという音とともに、目の前にキラキラと光る「蛇」のようなものが現われました。
 これが噂の胃カメラか、と思う間もなく喉が圧迫され、胃のあたりへ移って行き、グルグルと回っているのが感じられます。
 私にはカメラを操作する医師(技師か)の手許と、その背後で何やら企んでいるように思われる助手の動きが見えるだけです。それも、苦しさで流れ落ちる涙で次第に曇り、何もかもどうでもいいような気分になって行きました。
 蛇は目と鼻の先で怪しげな光を放ちながら、ときおりシュッシュッと音を立てて私の内臓にピストルを撃ち込んでいるようです。ははあ、と思い出したのは「スターウォーズ」に出てくるダースベーダーでした。

 夢のような十数分間が過ぎました。

 出血がひどいので、輸血をしなければならないが、輸血によって肝炎に罹る可能性がないとはいえない。検査の結果次第(あとで胃癌の疑いがあったと知らされました)では手術という事態になるかもしれないが、意識が戻ったときには手術も終わっている。

 そういうもろもろのことを矢継ぎ早にいわれ、「承諾しますか」と訊かれましたが、まだ喉の麻酔が醒めず、口をこわばらせていた上に、半分ぐらい失った意識で聞いている私には承諾もへったくれもありません。

「四階の430号室」
 ナースがいっているのが聞こえ、初めてコリャえらいこっちゃと思いました。
 注射を打つか、薬をもらって、ちょうど煙草も切らしていたので、帰りに買って……と思って出てきているので、なんの準備もしていない。
 それでもまさか……。
 我に返ると、ぼんやりとベッドに腰かけている私がいました。それから二週間も入院することになるとは想像もしていなかった私です。

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