火事に遭遇して転居を余儀なくされてから半年が過ぎました。
毎月八日の薬師詣ででちょっとした遠出をするほかは、毎日の買い物で近隣を歩く以外、どこかに何かを見に行こうという気が起きませんでした。しかし、自分では鬱屈していたとは感じていませんでしたが、ふと花-ハナショウブ(花菖蒲)-を見に行こうという気になって、実際に出かけてみると、三時間足らずの小旅行、しかも肝心の花はほとんど空振り、というようなことでも、わずかながらも気分が霽れ、気づかぬうちに鬱屈した気分で過ごしていたのだということを知りました。
ハナショウブを見に出かけたのは江戸川区の小岩です。常磐線を金町で降りて、京成金町駅から京成線に乗ります。
京成高砂で京成本線に乗り換え。二つ目の江戸川で降りました。改札を出ると、目の前に案内表示がありました。英語表記を見て、アイリスがハナショウブであったのかと思いを新たにしました。
駅を出ると、江戸川の堤防は目の前でした。
いまから五十年近く前、私は雑誌記者として初めて社会に出ました。当時棲んでいたのは千葉県の船橋。総武線で飯田橋まで通っていました。この菖蒲園が開設されたのは昭和五十七年六月だそうですから、五十年前というと、まだなかったのです。
そのころ、通勤の途中にある小岩は、ちょっとした縁から仕事帰りに立ち寄るようになり、やがて住居があるわけでもないのに、なかば住んでいるのと同然というふうになりました。
ただ、一口に小岩といっても、私が根城のようにしていたのは、小岩菖蒲園からは江戸川の1キロほど下流、歩くと十二~三分かかる、総武線の小岩駅周辺で、菖蒲園が開園する前、この地には何があったのかわかりません。
この菖蒲園の広さは4万9千平方メートルといいますから、東京ドームと同じ広さです。そこに五万本もの花菖蒲が植えられています。
堤防を上り、てっぺんから見下ろした景色です。彼方に見えている建物はすべて江戸川の流れを挟んだ隣県・千葉県市川市の建築物です。
視界は360度と広々としているので、さほどのことはないと思える石段ですが、実際に降りようとすると、視界を遮るもののない三十三段は、高所恐怖症持ちの私には手すりがあっても決死の覚悟を固めなくてはなりません。
堤防から見下ろしたときはただただだだっ広い草原があるだけのように見えました。入ってみると、時期的に少し早過ぎたと思い知らされました。
植えられているという五万本もの花が一斉に咲いたとしたら、一体どんな光景だろうかと考えさせられますが、現実はほとんど花のない光景を眺めるばかりでした。
花を見る代わりに名札を見て行くと、「邪馬台国」と書かれたものがあり、一体どんな花で、命名のいわれはどんなことかと興味を掻き立てられたりしますが、解説してくれているようなものは見当たりません。
咲いているところでも花はチラホラとしかありません。
このへんだとまるで稲刈りが終わり、再び伸び始めた稲を見ているようです。
数尠い花を捜して歩きます。
小さな池があり、睡蓮が咲いていました。肝心のハナショウブがないので、腰を下ろしてこちらに見入ったりします。
完全な夏空でした。
咲いていた花(これから咲くと思われる花も)はショウブなのかハナショウブなのか。見頃はまだだとすれば、いつなのか。スマートフォンは持っていましたが、検索してみようとしても、強烈な陽射しの許では画面がまったく見えません。
数尠ない木陰が気持ちよさそうな日和ではありました。
帰りは一駅先の国府台へ行くと、松戸駅へ行くバス便があるので、里見公園のバラでも観て行こうかと思っていましたが、アテが外れてしまったので疲労感は倍増。
くるとき、高砂駅のコンコースに鯖ずしを売る臨時売店が出ているのを見かけていました。里見公園へ行くのはやめにして、友人への土産に買って帰ろうという気にもなったので、同じ経路で帰ることにしましたが、高砂駅に着くと、踏切の鳴る音(金町線は電車の発車ベルが踏切の警報音なのです)に釣られて、ついつい小走りになってしまって、鯖ずしのことを思い出したのは乗った電車が発車してしまってからでした。
今日十五日は阿弥陀如来の縁日です。阿弥陀様は私の干支の守り本尊なので、毎月十五日は阿弥陀様を本尊としてお祀りしている東漸寺参拝を欠かさずつづけてきました。しかし、去年十一月十五日を最後に東漸寺参拝は中断せざるを得なくなっていました。
十一月十五日というのは、私が火事のもらい火に遭った三日後です。火事で追い出され、新居を定めるまで、仮の宿としていた旅館がたまたま東漸寺の近くだったので、これから決めようという新居の場所によっては再びお参りすることがあるかどうかわからない状態だったわけですが、そのようなことは考えもせず、ただただ無心の状態-いまになって思うと、無心だったのではなく、空疎な心で出かけました。
その後、新松戸に移ることになったので、東漸寺は歩いて行けるところではなくなってしまいました。近くには阿弥陀様をお祀りしているお寺がありません。
昨日のことです。明日は十五日か、とふと思い、阿弥陀様の縁日かと思い、そういえば何か月もご無沙汰したままだなと思いました。
火事から半年が経ち、新しく居を定めてからも半年近くが経とうとしています。身の周りも落ち著いてきたので、そろそろ阿弥陀様参りを再開しなければならないと思いました。されど、東漸寺は遠い。そして改めて考えるまでもなく、近くには阿弥陀様をお祀りしているお寺がない。
何か閃くものがあったわけではありませんが、グーグルマップを視たり、寺院関係のWebページを視たりしていました。
馬橋にある萬満寺は新しい我が庵から一番近いお寺の一つです。臨済宗大徳寺派のお寺で、中風除け不動や仁王の股くぐりなどで有名です。私も一年最後の終い不動の日に参拝に行ったことがあります。そして何メートルも離れたところからだったので、しっかり見たとは言い切れませんが、不動明王を見る機会に恵まれました。本尊は不動明王なのであろうと思い込んでいました。ところが、阿弥陀様だったのです。
今日十五日 ― 。
阿弥陀様にお参りしようと腰を上げましたが、冬が舞い戻ってきたか、と感じるような寒さでした。
直前に暑い日がやってきて、あわてて購入した半袖ポロシャツの上に、多少の雨なら雨具代わりになるウインドブレーカー兼パーカを着ました。この服装では肌寒いかなと思いましたが、歩き出せばちょうどよくなるだろうと思いました。暑い日がやってきていたので、火事のあと、すべて新調した冬服は箪笥に眠らせてしまったところでした。火事に遭う前なら、こういう気候に合うような、なにがしかの服はあったのですが……。
スマートフォンを取り出して、温度計を開いてみると、17・6度でした。17度台ってこんなに寒かったっけ? と思うような肌寒さの中を歩き始めました。
近くの公園ではユリノキの花がほころび始めていましたが、例年であれば、とっくに花開いている時期です。毎年毎年思うことなのかもしれませんが、今年の春はとりわけ天候不順。
新坂川沿いに出て、桜通りを歩いて行きます。とうに桜も終わってしまったいまはハルジオンとかヒメジョオンという野の花しかありません。
この日行き合った流鉄の電車は下りの流星号。
そういえばそろそろアジサイ(紫陽花)の季節です。
出発して二十分、三村跨線人道橋で常磐線を越えて行きます。階段は幅が3メートルほどもあるので、高所恐怖症持ちの私でも、上っても大丈夫かな、という気にさせ、実際に上ることができます。
しかし、こんな眺めを見てみようとするのは禁物。スーッと薄荷を口に含んだときのような感覚が襲ってきて、下に吸い込まれそうになります。
この画像の奥が柏方面。橋の真ん中で、大体このへんだろうというあたりにカメラを構え、柵まで何歩ぐらい歩くかを頭に入れてから、目を閉じたまま歩いて、シャッターを切ったものです。結果、変なアングルで写ってしまったら、使わなければいいのだから、と思いながら……。
三十二分かけて萬満寺に着きました。
事前にグーグルマップで確認したときは所要二十五分でした。
途中で何度か立ち止まって写真を撮ったりしていますが、それぞれほんの数十秒ずつ。毎月の薬師詣でのときは事前にグーグルマップで所要時間をシミュレーションをしておくのが常ですが、年々歳々シミュレーションと実際との時間差が開くようになってきています。
中門に当たる仁王門です。曇り空で暗く、ガラスに境内の景色が反射するばかりで、仁王様が見えません。
提げられた大提灯には確かに阿彌陀佛と書かれています。
お賽銭をあげたてあと、本堂前から眺め下ろした境内。
萬満寺の本尊が阿弥陀如来だったと知ったのは、私にとっては瓢箪から駒のようなことでしたが、もう一つ同じようなことがありました。萬満寺が建立される前、この地には大日寺という別のお寺があったそうなのです。
その大日寺はいまでは千葉市に移転していますが、薬師如来を祀る寺院なので、来月の薬師詣でで訪ねようと考えていたところでした。訪ねようと思ったときはいささかなりとも萬満寺と縁のある寺だとは知らなかったのです。
今日は薬師如来の縁日ではありませんが、お薬師さんを祀る中根寺が近いので、お参りして帰ろうと思います。
萬満寺前を走るのは旧水戸街道です。奥に見えるのが萬満寺の楼門。
萬満寺前から二分、馬橋駅からだと三分ちょっとのところ。細い路地に入ります。突き当りに御堂の屋根が見えています。
中根寺参拝は今日が三度目に過ぎないので、入口にこんな石柱があったのに初めて気づきました。
右の石柱に刻まれているのは「新四國五十六番 豫州泰山寺模」。「新四國」とは、流山にある東福寺を第一番とする新四国相馬霊場のことです。
左の石柱は上部が折れてしまっていますが、かつてそれが折れたまま転がっている画像を見たことがあります。そこには「南無阿彌」と彫ってありました。いまも残っている下半分には「陀佛」の二文字。
いまの中根寺は無住で、薬師堂があるだけですが、かつては阿弥陀様をお祀りしていたのでしょう。
鉄扉が閉ざされていました。納められている薬師如来像は弘法大師が一本の木から三体の像を彫ったものの一つとされています。
帰りは馬橋駅からひと駅だけ電車に乗ります。
新たに移った新居近くにも「とちのき通り」という名の街路があります。
「近くにも」というのは、火事に遭って転居を余儀なくされる前に棲んでいた旧居近くにも同じ名の通りがあったからです。ともに街路樹にトチノキが植えられているのでつけられた名前というわけで、二本の通りはまったくの別物、繋がっているわけでもなく、関連があるのでもありません。
ただ、新しく知ったとちのき通りのほうは、新坂川右岸から坂川左岸を一直線に結ぶ全長1・3キロほどの道路ですが、買い物とか散策とかで足を向けるような用向きのある方角ではないので、地図で名前を知って、そのうちに、などと思いながら、最近まで歩いてみたことがありませんでした。
で、日々の散歩のついでに、少し足を延ばして歩いてみようかというわけです。
私にはすっかり馴染みとなっている栃の樹影と葉です。
のんびりと歩いているうちに、オヤ(?)と思うものを見つけました。一本だけ赤い花をつけた樹が混じっていたのです。
居並んでいる栃の樹々と較べると、丈も低いし、幹も細くて貧弱です。栃は桜や杏などとは違って、花を目当てに見に行くような樹ではないし、ときどき歩いていた前のとちのき通りも、たまたま花の季節には歩かなかったのか、実物を見たことはありませんが、樹木図鑑で花の色は白だと知っていました。そこに異例の紅い花……。しかも樹高、樹影から見て、絶対に栃ではない。
なぜにとちのき通りに栃ではない樹が……と首を傾げながら、さらに歩くと、もう一本ありました。花は別として、葉っぱを見ると、いささか小ぶりではありますが、栃に似ています。
庵に帰り、手持ちの樹木図鑑を紐解いてみると、ベニバナトチノキ(紅花栃の木)という項目があって、北米原産のアカバナトチノキとヨーロッパ原産のセイヨウトチノキ(フランスでの呼称・マロニエといったほうがとおりがよいかもしれません)との交雑種だということがわかりました。
今月の薬師詣では武蔵野線で北朝霞まで行き、東武東上線に乗り換えて成増まで行って帰ってくる行程です。
武蔵野線は六年前、2016年十一月の薬師詣でで北朝霞の一駅手前の西浦和まで利用していますが、それより先(府中本町寄り)は私にとって処女地です。今月は西浦和~北朝霞とわずか一駅だけですが、処女地開拓と相成りました。
北朝霞駅と接続する東武東上線の朝霞台駅。隣同士なのに武蔵野線の駅名は北朝霞、東武は朝霞台です。
最初に向かうのは成増です。ちなみに成増では東武線の駅名は成増、接続している地下鉄有楽町線は北朝霞と朝霞台の距離より断然遠いので、さすがに同名にするわけにはいかなかったとみえて「地下鉄」とつきますが、地下鉄成増です。
成増駅北口に出ました。
住宅街の中に果樹園などがあって、へえなどと感心しながら歩いて行きます。
二枚の画像の間には谷が形成されていて、結構起伏に富んでいます。
道を間違えてしまったので、事前のシミュレーションより数分余分にかかって、今日最初の目的地・青蓮寺に着きました。
この日はたまたま新しいご住職の晋山式が行なわれているところでした。後ろに見える本堂まで行くのは遠慮して、少し離れたところで合掌。お賽銭はあげられませんでした。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗上石神井村三寶寺末本尊薬師」と記されています。開基開山については詳らかではありませんが、当初は現在地から2キロほど離れた場所(現・高島平四丁目)に建てられていました。水害に遭って、いつの時代にか現在地に移転したということです。
本尊薬師如来が室町時代の作風を持つので、寺の創建もおよそその時代だろうと推定されています。文政年間(1818年-30年)末期から大正初期までの約百年間は無住であったそうで、この間に文書什器等が散逸してしまったようです。
成増駅に戻って東上線を逆戻り。次に降りたのは和光市駅です。
和光市駅前。なんとなく馬橋の駅前を思い起こさせます。
このあたりも起伏に飛んでいます。この坂を下り終えたとき、また道を間違えているのに気づきました。
しかし、間違えたおかげでこんなところに出ました。
新倉ふるさと民家園です。五月の節句は三日前に過ぎたのに、まだ鯉のぼりが立てられていました。
実際は十四~五分ほどで着けたはずですが、道を間違えた上に、新倉ふるさと民家園を覗き見したりしていたので、二十分以上かかって東林寺に到着。
「新編武蔵風土記稿」には「是も三宝寺の末なり、医王山と云、本堂五間に六間、本尊薬師如来弘法大師の作を安ず、小名峯にある故峯の薬師如来と云(中略)当寺の開山等詳かならざれども、石碑に元禄八乙亥天九月などえりたるもあれば、元禄前の開基なるべし」と記されています。
帰りは正しいと思われる道を歩いたら、地蔵堂のかたわらを通り過ぎました。
いまはこのような更地になっていますが、グーグルストリートビューを視ると、御堂が写っていて、漆台足洗地蔵堂という名称が記されています。撮影年は2018年となっていました。
東京外環自動車道(道路の下をトンネルでくぐっているので見えません)を越えると、このような掲示(柿の木坂湧水公園)が目に入ったので、寄って行くことにしました。
行き止まりは窪地になっていて、清水が湧き出していました。それ以外は特段のことはない公園でしたが、暇人の私以外無人。
柿ノ木坂湧水公園をあとに徒歩七分。和光市駅に戻って、また東上線に乗り、今日の小旅行の出発点(朝霞台駅)に戻りました。
朝霞台駅から武蔵野線に沿って歩くこと九分。右手に寺院らしき建物が目に入ったので、回り込んでみると、三光院でした。
真言宗智山派の寺院です。慶長十三年(1608年)の創建と伝えられています。
三光院から足を延ばして三分。今日最後にお参りする東薬師堂は元禄五年(1692年)の創建とされています。「朝霞市史」には東薬師堂には池田イッケの墓地があり、本家の屋号(東)から東薬師堂と称されるようになった、と記されているのですが、池田イッケとは何者か、「東」という屋号は「ひがし」と読むのか「あずま」なのか、いろいろ当たってみたのですが、いまのところは何も解明できません。
閉ざされた扉の上半分はガラス張りの格子窓になっていましたが、ほんの一部だけガラスが張られていませんでした。すわ、と思い、カメラのレンズを突っ込んでシャッターを押し、モニタを見たものの、残念ながら厨子の扉は閉ざされていました。
帰りは行きに降りた武蔵野線の北朝霞から。
坂川は流山市から市川市まで16キロ。昔は逆川といって、文字どおり逆流することがあったので、その名がつけられたそうです。
北小金に棲んでいたときに比べて、散歩に出ることが尠なくなりました。新しく引っ越した新松戸の街は、田畑や野原の多かった北小金とは違い、マンションばかりで、歩いていても味気ないからです。自然に触れようとすると、坂川まで行かなくてはなりません。
我が庵から一番近い坂川河畔は関の橋という橋が架かっているあたりです。我が庵からは800メートルほど、歩いて八分で着きますが、その間は住宅街なので、刺激が乏しい。
坂川周辺を中心に歩いていたら、これまで特段気にしなかったことが気になるようになりました。それは橋名板=橋の名や渡る川や鉄道などに一定の決まりがあるということでした。そこで関の橋を渡って河口まで橋名板をチェックしながら、坂川放水路の右岸を歩いてみることにしました。
スタート地点・橋を渡る前の関の橋の橋名板=上流側(画像上)と下流側です。
橋を渡ると、下流側に橋の名(漢字表記)と橋が架けられた年月(上流側)。
必ずしも決まりはないようですが、その道路の起点に当たる側の左に橋名(漢字表記)、右に交差する河川や鉄道、道路など。橋を渡ると(道路の終点側から見ることになります)、左に竣工年月、右にひらがな表記の橋名、というのが多いようです。
関の橋の場合は、漢字表記とひらがな表記の橋名が逆でした。
中央に見えるのは排水機場。川の流れは変わりませんが、坂川本流はこの排水機場で左手に曲がり、川自体はゆるくカーヴを描くだけで、何一つ変わりはないのに、坂川放水路と名を変えます。
正面から眺めた排水機場です。
排水機場を過ぎると、かねぎりばし(金切橋)。
なかみちばし(仲道橋)。
いなりおおはし(稲荷大橋)。
十六日前に訪れた金蔵院を再訪。今日は境内にはお邪魔せず、山門前で拝礼するだけで通り過ぎます。
金蔵院の西側を流れ、坂川放水路に注ぐ神明堀の水門としんめいおおはし(神明大橋)の橋名板。金切橋から十分。
雨の降る心配はなさそうなものの、青空が顔を覗かせているのは一か所だけで、あとは分厚い雲に覆われていました。
神明大橋から二分。流山街道を横切ります。橋はもんとおおはし(主水大橋)。
流山街道はこの地域一番の主要道路なので、交通量が多い。にもかかわらず信号がないので、渡るチャンスはなかなかやってきません。
流山街道を渡り終えると二分。もんとなかはし(主水中橋)です。
河口が近づいてきて、松戸排水機場も大きく見えるようになってきました。
坂川と坂川放水路の水を江戸川に排水する施設です。最大排水量は毎秒100立方メートル。平均的な25メートルプール(600立方メートル換算)を六秒で満たしてしまう計算になりますが、この計算でいいのでしょうか。
水門です。
主水中橋から二分。もんとはし(主水橋)。この橋までくると、川沿いの径は突き当りになってなくなります。
ほとんど人も通らないようなところに自販機がありました。素人目には売れそうもないと思えますが、撤去されないところをみれば、それなりに売れるのでしょう。
江戸川堤防に上がることのできる道がありました。
堤防を上り切ったところに河畔へと下る径がありました。その先に先ほどは後ろから見た水門。
画像の右手から左手に流れ下って行く江戸川と坂川放水路が合流するところです。坂川放水路はここでおしまい。
こういう標識があるのに、バイクを走らせるスットコドッコイがいました。
東京湾の江戸川河口から25キロ地点。遠望できる鉄橋はつくばエクスプレスです。