桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

紅花と西陣

2010年05月31日 16時42分33秒 | つぶやき

 曇のち雨、という天気予報が外れて、気温は低いけれども、朝から陽射しが出ました。
 朝日を浴びながらベランダに置いた植木類に水遣りをしました。
 ダイエーで買った鉢植えの桔梗二鉢のうちの一鉢に、一つだけですが、第二陣の蕾が出たのを見て、ちょっとうれしくなりました。

 鉢植えで売られている花はおおむね早生につくられているので、自然の気候に慣れるのに時間がかかったり、結局慣れることがなかったりします。



 桔梗の蕾に気をとられていたので、昼を過ぎるまでまったく気づかなかったのですが、紅花がいまにも花を開こうとしていました。
 種を播いたのは去年十一月八日。芽を出したのは前のブログにも書いたように、私が入院することになった二十日の朝です。
 それから一週間後に短時間の小外出が許されて庵に帰るまで、水遣りができなかったのにもかかわらず、健気にもほとんどない水分を幾本かの芽で分け合いつつ育ってくれました。
 種を播いて半年でようやく花を咲かせようとしています。



 もう一つうれしいこと。
 正月明けに斑(ふ)入りと一緒に送ってもらった斑なしのツワブキ(石蕗)がちゃんと根づいていてくれたのです。枯れたと諦めて顧みなかった間に、いつの間にか小さな葉が六つも顔を覗かせていました。
 送られてきたとき、斑入りのほうの根には土がついていましたが、この斑なしのほうは送ってくれた友が力任せに引っこ抜いたようで、根が剥き出しになっていたのです。
 すぐ鉢に植え替えましたが、三本あった茎のうち、二本はやがて枯れ、辛うじて緑色を残していた一本もずっと項垂れたままの状態だったので、私には縁がなかったのだと諦めていたのでした。それでも抜いて棄ててしまわなかったのはいまとなっては賢明でした。物臭のお陰です。



 これは斑の入ったほう。
 葉がデカイだけに水分摂取も貪欲なようで、たっぷりと水を与えても、小さなプランターでは土は一日で乾いてしまいます。

 いつごろからか、私が死んだらベランダの鉢植えはどうなるのだろうと考えるようになりました。考えても致し方のないことなのですが……。
 そのときのために、近辺の公園か江戸川の堤に持って行って、こっそりと植えて逃げてこようかとも思っているのですが、なかなか実行に移せず、一方では紅花やムクロジ(無患子)の種を播いたり、鉢植えの桔梗を買ったりと、減らすどころか増やすばかりの有様です。

 今後に備えて不要不急なものは順次棄てて行こう、と少しずつ荷物の整理を始めました。
 半透明の衣装ケースに入れたまま、もう何年も使ったことのない毛布やタオルケットがありました。
 物持ちがよいのではないのです。
 浅草から市川へ引っ越すときは時間がなかったので、処分するものとそうでないものを仕分ける余裕がありませんでした。引っ越した先は一間きりのアパートだったので、当時は三千冊ほどもあった蔵書を含めてとても納まる道理がなく、トランクルームを借りたのを幸いに、要不要の区別をつけず、すべてそこへ突っ込んだままにしてありました。
 新松戸へきてから蔵書のほとんどは処分しましたが、衣装ケースは押入に突っ込んで、上に荷物を載せたので、手つかずで放っておかれたのです。

 押し込まれたままの毛布やタオルケットは、もう使うこともないと思われるので、今度の資源ごみの日に処分しようとしたら、昔使っていた薄い座布団などがその下に隠れていて、衣装ケースが丸々二つ空になりました。
 衣装ケースは資源ごみとして出せるのか、粗大ごみになるのかと考えているうち、片づけ作業は途中放棄という形になりました。
 文庫本の短編集を見つけて、オヤ、懐かしや、と読み始めてしまったからです。



 水上勉さんの「醍醐の櫻」という短編集です。
 小説や雑誌のたぐいは全部処分したつもりだったのに、雑然と置いたままになっていたいろいろなものの下に紛れて残っていたのでした。

 表題作の「醍醐の櫻」には豊臣秀吉が最晩年に催した醍醐の花見のことが出てきます。
 北の政所(ねね)を先頭に、女たちが六丁の輿を連ねて醍醐寺に向かうくだりには、三番目の輿に松之丸殿が乗り、その輿の警備を担当したのが朽木元綱、とあったので、今度は「太閤記」を捜して……。

 もどかしい思いで、読みにくい文字を拾って行くと、「御こしぞひがしら」として石田木工頭(正澄=三成の兄)とともに確かに朽木河内守の名がありました。
 この人は私が手に入れた「朽木村史」の近江朽木谷二万石の領主です。当時、ちょうど五十歳。

 元綱が警備に当たった松之丸殿の本名は京極龍子。京極高次(大津六万石)の妹で、母は淀殿らの父・浅井長政の姉(京極マリア)ですから、淀殿とは従姉妹になります。

 水上さんは触れていませんが、この花見の宴では秀吉から盃を受ける順番を巡って、女たちの間にひと悶着あったようです。

 最初に盃を受けたのは北の政所。これは誰にも異論はないでしょう。
 問題は二番目です。
 輿の順番からいえば、淀殿ですが、龍子の家・京極家はかつては浅井家の主筋に当たる名門ですから、龍
子には淀殿などより自分のほうが貴種であるというプライドがあったようです。
 ところが、すでに誕生していた淀殿の子・秀頼はこのとき七歳。豊臣家を継ぐのは間違いなかったので、そういうことへの嫉妬もあったかもしれません。
 どちらが先に盃を受けるか。二人の間でいがみあいが起きました。これを取りなしたのが前田利家夫人のまつだった、
といわれています。ただ、結局はどちらが先に盃を受けることになったのか、私にはわかりません。

 トランクルームに搬入したとき、数本あった本箱は処分してしまっていたので、残された本は部屋の隅三方に積み上げてあります。ヨッコラショと坐り込めば、主題であった荷物の片づけは完全に忘れ去られています。

   

「太閤記」を確認したあとは岩満重孝著「百魚歳時記」三冊と続編の全四冊をパラパラ。
 水上さんにも醍醐の花見にも関係のない本です。坐り込んだところから手の届くところにあった、というだけの話。この本も文庫本ですが、これはずっと手許に置いておこうと思った本です。

 いつの間にか畳の上に寝っ転がっています。取っ替え引っ替えしながら読んでいるうち、取り留めもないことを考えたり、ポツポツと昔のことを思い出したりしました。

 ふと西陣での生活を思い出しました。
 水上さんが京都とは縁の深い人だったからか、紅花が最上川を下って京へ運ばれ、西陣で友禅染めに使われたからか。

 わずか三か月ですから、生活した、といえるかどうかわかりませんが、まだ若きころ、真夏の京都に滞在して仕事をしたことがあります。

 仕事場は西陣。
 四条西洞院にあったビジネスホテルに泊まり、仕事場に近い今出川浄福寺までバスで通っていました。
 京都市から依頼された仕事だったので、市関係の施設を提供されたはずですが、部屋は一人には広過ぎる、確か二階の会議室だったというだけで、施設の名前も記憶には残っていません。

 憶えているのは、毎朝仕事に入る前、今出川通りに面した喫茶店に寄って朝食を取ったこと。そこで供される水の強烈な味と臭いでした。
 夏の京都の水は琵琶湖の藻の味と臭いが際立つのです。浄水器も、お金を出して水を買うという考えも普及していなかった時代でした。
 京都に初めて地下鉄が開通した年で、そのことに多少なりとも関連のある仕事でしたから、昭和五十六年のことです。

 西陣といえば、それより十年ほど前、週刊誌の記者になったばかりのころ、永山則夫に殺された被害者の遺族を訪ねて歩いたところでもあります。ひと口に西陣といっても広いので、どのあたりであったか、もう記憶にはありませんが、結局遺族を訪ねることはできず、忸怩たる思いで帰京しました。
 私の勤めの順序からいえば、こちらのほうが確かに先、それも遥か十年という隔たりがあるのに、いまの私の中ではどちらも遠く霞んで、どちらが先だったか、前後がわからなくなっています。

 相変わらず食欲は乏しいままです。
 それでも、先週テレビの料理番組で視ていた空豆のかきあげをつくってみようと小買い物に出ました。



 我ながら味は美味く仕上がりました。しかし、見てくれがドテッとしてみっともなかったので、画像はkusudamaというレシピサイトから拝借しました。
 料理番組では先生が「五~六粒を目安にスプーンですくって、油に静かに入れる」といっていましたが、欲張りな私はガバッとすくって、大きく見てくれの悪いかきあげをつくってしまうのです。
 このレシピには二人分で調理時間三十分とありましたが、莢の中のさらに内側の皮を剥くのにことのほか手間取り、一・五人前分をつくるのに五十分もかかりました。

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食禄という星

2010年05月28日 05時53分48秒 | つぶやき

 よくわからぬままに書いています。
 確か九星学で「食禄」という星があるそうです。
「確か」というのは、それを聞かされたのはもう三十年近くも前のことで、あとで触れますが、聞いたときは悪い気はしなかったものの、所詮(と私は思います)占いのことですから、頭から信じることはせず、詳しく調べてみようという気にもならなかったので、九星学と言い切ってよいものかどうか、自信がないのです。
 胃潰瘍で入院するまで、四十年以上も自分の血液型を間違っていた私ですから、九星学ではないのに九星学だと思い込んでいるのかもしれません。現にウェブで調べてみましたが、食禄というのは人相学で用いる語のようで、いまのところは九星学と一致する記述には出会えていません。

 三十代なかばのころ、私は商業雑誌の編集責任者をしていて、ある人物を執拗に追いかけていました。
 その人の名は三浦和義……。いわずと知れたロス疑惑の人です。
 当時は再婚した夫人とロンドンにいましたが、ロスで殺された前夫人の前に二度結婚して離婚していたことを掴んだのです。前夫人と違って、その二人は死んではいませんでしたが……。つまりロンドンに同行していたのは四人目の妻。

 ほぼ同じころ、占いのページを設けようという案が出て、私は九星学(?)と姓名判断をしている先生と帝国ホテルで面談することになりました。
 先生は私の名刺を受け取るなり、「ほう」といって唇をすぼめました。私の姓名の総画数は二十三画。姓名判断では最も好ましいとされている画数の一つだからです。
 画数の佳い名前ということは人づてに聞いて知っていましたが、三十代なかばまで、それほど佳いことがあったわけでもないので、私自身は佳い運勢だとは信じてはいなかったのです。
 初対面の挨拶もそこそこに、次に生年月日を訊かれました。答えたときにくだんの「食禄」という星が私についていることを教えられました。
 私と同じ年、同じ月、同じ日に生まれた人には、この星がいっぱいついていて、死ぬまで食うのに困らないというのです。

 その先生が即座に答えることに、私は感心しきりでした。

 人の姓名は無数にあるといっても、使われる漢字は限られているのですから、専門家であれば、間髪を置かず画数を当てるのはそれほど不思議ではない。
 しかし、それぞれの年月日にどんな星がついているのか。仮に当時八十歳ぐらいまでの人が運勢判断を仰ぎにくるとしたら、三百六十五日×八十年を全部暗記しているのか。
 いま、生きている人だけでは済まず、赤ちゃんの名前をつけるときに姓名判断を重んじる人もいるから、未来永劫諳んじていなければならぬ。そういう並外れた暗記力をどのようにして身に着けたのか。

 三十年近く前の話ですから記憶は曖昧模糊としていますが、先生答えて曰く、「そんなもん、憶えられません。たまたまあなたと同じ日に生まれた人の運勢を最近見たからですよ」と。
 私と同年同月同日生まれの人―。
 それが三浦さんであったのです。

 その後、三浦さんは逮捕されて収監されました。
 先生、鼻を高くして曰く、
「ほらね、食禄がついているから、死ぬまで刑務所で面倒を見てもらえる。食うのに困らない」
「ほほう、なるほど」と私。
 食うのに困らないはずの三浦さんも何に困ったのか、自殺してしまいました。
 私の食禄の星も風前の灯火なのかもしれません。

 


 月曜日、またハローワークへ出かけました。月曜日は雨でした。
 手続きが終わったあと、近くにある松戸神社へ散策。ハローワークでの職捜しは例によって不首尾でありました。しかし、私の心はかなり恬淡としていました。仕事にありつけそうな気配はてんでないのに、雨の神社もなかなかいいものですな、と思う余裕のような気持ちがありました。
 翌火曜日は市役所へ行きました。

 そして昨日は矢切にある社会福祉協議会というところへ行きました。ここは松戸駅から少し距離があるので、バスを利用しなくてはなりません。
 所要を済ませたあと、帰りのバス停へ歩いていたら、背後でブーッと音がしてバスが追い抜いて行きました。市川駅と松戸駅を結ぶ路線で、結構便数はあるのですが、体調を崩したあともせっかちという病は治らないようです。次の待ち切れず、松戸駅まで歩くことにしました。

 途中、こんもりと樹の繁った丘が見えたので寄り道をしたら、浅間神社でした。祭神は木花咲耶姫と源義家公。



 見上げるほどの高さの石段です。百十七段ありましたが、上りも下りも数を数えながら、途中でオヤ? と思うこともあり、段数は自信を持って「百十七段で間違いない」とは言い切れません。が、わざわざ行って、もう一度挑戦しようと思うだけの体力気力がいまの私にはない。

 鬱蒼としたこの森は「極相林」といって千葉県の天然記念物に指定されています。
 森林は長い年月の中で、樹木の交替が行なわれ、最後にこれ以上は樹木の交替が行なわれないだろうという安定した状態になります。生態学ではそれを極相林と呼ぶのだそうです。
 雨雲が出たせいもあり、夕方を思わせるような暗さになりました。



 石段の途中に狛犬ならぬ狛猿がありました。一対ではなく向かって右だけ。多分以前は一対になっていたのでしょう。
 私は初めて見たような気がしますが、全国津々浦々にある浅間神社では狛猿はとくに珍しいものではないようです。

 この森は昼なお暗い樹々の多さがいい。真夏でも涼しそうです。偶然きたわりには結構気に入りました。社会福祉協議会はまた訪ねることもあるので、今度はもう少しゆっくり巡ってみようと思います。



 一度跨いだ常磐線をもう一度跨いで台地を上りかけると、戸定邸の案内が目に入りました。このあたりにあることは知っていましたが、まさにその道に出るとは思いませんでした。
 徳川慶喜の弟・徳川昭武の別邸跡ですから、会津贔屓の私には、会津を裏切った慶喜の係累は無縁のところと決めていましたが、こうして偶然出くわすことになったのも縁。頭から毛嫌いせず覗いてみるか、と思い直して坂を上りました。



 ところが、結構急で長い坂でした。
 先に浅間神社の石段を上ったツケも出たようです。入口に到ると、さらにスロープが見えたので、いくらなんでもコリャア敵わんと思いました。一度上がった雨がまたパラパラときたこともあり、少し先にあった門だけカメラに収めて退散と決めました。



 雨雲が去ったあとはすっかり夏の空です。
 真夏生まれの私にとっては血湧き肉躍る季節の到来のはずです。本来なら寿がなくてはならぬのに、病身のいまの我はただただ堪えるのみです。

↓この日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map69496.html

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久しぶりの散策(2)

2010年05月27日 12時12分44秒 | のんびり散策

 久しぶりに散策に出ました。
 といっても、十日以上も前、十六日の話です。
 ブログを更新しようという気がなかなか起きず、更新は今日まで延ばし延ばしになっていました。
 前の散策(五日)からその日まで、二度ハローワークへ出かけたのを除いて、また家に引きこもっていました。
 何日も引きこもったままで、ときおりパソコンに向かう以外は何もしないのに、いつの間にか日が暮れて、愉しい夢とは無縁の夜がやってきます。
 もうダメかもしれぬと思う日と、なんとなく希望が湧いてくるような日の繰り返しで、大波小波に揺られながら、一週間や十日はあっという間に過ぎるのです。

 散策に出ようという気になったのは、翌月曜日に面接を控えていたので、足慣らしをしておこうと考えたからです。どこを目指すという目標もありませんでしたが、足は自然と北に向かいました。
 ずっと歩いていなかったので、脚にガタがきているのではないかという予断に反して、歩き始めると、結構快調です。
 少し風の強い日でした。
 ふと、風薫る五月という言葉が浮かびましたが、私の気持ちは遙か遠いところをぼんやりと眺めているだけで、そういう風流とは縁遠いところにあります。

 いつものように大谷口歴史公園前を通り、廣徳寺前を通過。道は徐々に上りになり、やがて下って、また上りになります。二つ目の坂を上り切ったところが松戸七福神の一つ弁財天の祀られている華厳寺です。

 二か月近く前、杏(アンズ)の花を見に行ったときはこのあたりで右に折れて、帰りの行程に入りましたが、この日はとくに疲れも覚えていなかったので、さらに足を延ばすと、小公園の中に幸田(こうで)貝塚跡という説明板がありました。



 六千年前、縄文時代前期の遺跡だそうです。といっても、説明板が一枚建てられているだけで、遺跡らしきものは何もありません。
 家に帰って調べてみると、結構大規模な集落(百六十軒の竪穴式住居を発掘)で、縄文時代の土器研究上きわめて重要な資料になるという関山式土器群も多数出土したようです。
 出土品は松戸市立博物館に所蔵されているのですが、なぜか常設展示はしていないので、簡単には見られないものらしい。松戸市自慢の所蔵品のはずなのに、市民が気やすく見られないとは……。

 公園の少し先は斜面になっていました。
 斜面を降りて右手に歩くと、前に訪れた前ヶ崎城址に出ます。

 


 途中に幸田湧水を見つけました。
 一応池になっていますが、前に見た宮ノ下湧水と比較すると、淀んでいて水量も乏しく、清涼感はイマイチです。



 前ヶ崎城址へは行かないことにして、富士川に架かる橋の上で少し涼んでUターンしました。



 ラベンダーかと思って近づいたら違いました。畑一面に咲いていましたが、何の花か。

 六千歩……。
 一時間強歩いたところで、久しぶりに頭がスッと涼しくなるような感覚を覚えました。ほんの刹那的な貧血症状です。
 家にこもっているときは静かにしているので、こういう感覚を覚えることはありません。先に下った台地を上っているときでもありました。立ち止まって様子をみましたが、それっきりなんでもないようです。

 帰路も廣徳寺脇を通ったので、やっぱり参拝して行くことにしました。
 先日、偶然開山忌の賑わいを見たのが夢のようで、この日はまた無人の境内です。
 お賽銭を上げたあと、本堂左にある不昧軒という集会所の裏手へ……。開山忌のときはここで茶菓の接待があったようですが、この日は入口も閉じられていて、もちろん無人。
 裏手には高台があり、石段を上ると、歴代住職の墓碑(歴住碑)がありました。



 開山は大路一遵大和尚と読めました。「遵」の音読みは「ジュン」もしくは「シュン」ですから、「いちじゅん」か「いっしゅん」か。
 開山忌に出会ったときから、誰が開山であったのか気になっていましたが、「廣徳寺&松戸」をキーワードにWebで捜しても、行き当たりませんでした。
 裏に回ると、このお寺は寛政十二年、明治二十二年、大正十二年と三度の火災に遭って全焼しています。そのため第十一世から第二十四世までの住職の名がわからないという旨が彫ってあります。

 名前がわかったので、再度検索してみたら、ヒットしました。
「たいろいちじゅん」と読むのです。ただし、Webでは僧侶としての事跡が取り上げられているのではなく、長寿の人としてでした。
 なんと! 生まれたのは応永六年(1399年)、示寂は永正十五年(1518年)というのですから、百二十歳まで生きたことになります。
 時は室町時代。驚くべき長寿の人です。

 廣徳寺が開かれたのは寛正三年(1462年)です。大和尚六十四歳のとき。
 普通ならすでに隠棲している年齢です。住職を務めても、精々十年がいいところ……と思われるのに、なんと五十年以上も寺を守ったことになるのですから、恐るべきことです。

 静岡県袋井市に可睡斎というお寺があります。曹洞宗の専門僧堂がある古刹で、東海一の禅道場といわれるところです。
 袋井市のホームページを視ると、このお寺の開山(1394年)が大路一遵、と紹介されていますが、大路大和尚の生年と開山の年の辻褄が合いません。
 伊藤正士さん(故人)という方がつくられた「遠州史跡めぐり」というホームページによれば、開山は如仲天ぎん(にょちゅうてんぎん)大和尚で、大路大和尚は五世に当たると記載されています。肝心の可睡斎のホームページには開山のことは何も記されていません。 

 この日はもう一つ初めての場所に足を向けました。大谷口城を築いた高城胤吉所縁の弁財天が祀られた弁天台です。
 参道入口の隣にあって、道路から微かながらも見えるのですが、境内を経由しないと行けません。

 


 石の扉で閉じられていて中を見ることはできませんが、ご神体の大きさはわずか一寸八分(約4センチ)の高さといわれています。
 石塔左側に、根木内から大谷口に城を移したとき、弁財天もここに移したという銘が刻まれているらしいのですが、風化しているのと場所が暗いのとでまったく読めません。

 ちょっと疲れて帰宅。
 翌日出向いた面接は不採用。履歴書を郵送しておいたところからも面接はしない、という連絡があって、また鬱ぎ込みました。
 気の持ちよう一つ、とは考えるものの、身体の調子もどんどん悪くなって行くようです。

↓この日歩いた場所の地図をつけました。
http://chizuz.com/map/map69495.html

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履歴書

2010年05月07日 19時36分16秒 | 日録

 何年ぶりになるのか、履歴書を書きました。
 書く、といっても、手書きではなくパソコンを使い、Excelの
テンプレートをダウンロードして、テキトーに打ち込んだだけですが……。
 テキトーというのは学歴や最初の就職先は憶えていなくても逆算すれば年月がわかりますが、転職(三度)のときなどはすでに記憶になく、逆算しようにも逆算できないので、テキトーという意味です。

 あらかじめわかっていたことですが、この歳になって新たな職を探すのは非常にむずかしい。昔取った杵柄の仕事があれば、私もまだまだ充分戦力になるという自信はあり、慣れているという意味で私自身も楽なのですが……。
 ところが、そういう仕事は、ない!! の一言なのです。
 背に腹は替えられないので、職種は二の次にして、とにかく「年齢不問」という仕事を探さなければなりません。
 で、某社に連絡を入れたら、とりあえずは会ってくれるというので、履歴書を持って、行きがけに写真を撮って行くために、何年ぶりかでネクタイも締めて……。

 前の勤務先は入院の前後を含めて三週間ほど休んだ上に、月二回とはいえ、通院で半日は休まなければならないというと、あからさまに迷惑顔をされて、自分の身体を取るか、勤務をつづけるほうを取るか、という二者択一を迫られました。
 ここにいたのではまた胃潰瘍になると思うと、辞める以外に方法がありませんでした。

 今日の面接では病気のことは隠していましたが、顔色が優れないようだが、と探りを入れられたのを、テキトーに笑って誤魔化しました。
「一応やってみますか」と一発回答をもらいましたが、私がこれまでに経験したことのない仕事であり、私の気持ち(以上に体力)がつづくかどうかという問題と、先方の辛抱がつづくかどうかといういう問題を孕んでいるので、まだ仕事の内容は書きません。
 とりあえず明日から仕事です。

 面接に行ったのが南流山駅近くだったので、無患子(ムクロジ)のある観音寺へ足を延ばしました。



 流山市木(き)を示す歩道橋です。



 観音寺の本堂を望む。

 昨日から強い風です。前に訪れたときも強い風の日でしたが、このあたりまでくると、ピタリと熄みました。霊験あらたか也と思って、お賽銭を100円。今回は熄みませんでした。で、お賽銭は50円。
 ナニ、本当は100円硬貨の持ち合わせがなかっただけです。10円を併せれば100円にはなりましたが、それでは小銭を整理するような後ろめたさもあったので、50円だけ。
 強い風に煽られて卒塔婆がカタカタと鳴っています。

 門の左手前に掲げてあった標語は真言宗でいうところの菩薩十善戒の一つ「不両舌」。
 直訳すれば「二枚舌を使わない」という意味ですが、本当に意味するところは、思いやりのある言葉を使って話す、ということではないのか。

 思いやりのない言葉を浴びせられて
傷ついた、と思っている私が別の人には知らず知らずのうちに不両舌を使っているのではないか、としばし反省。



 無患子(ムクロジ)の若葉が出始めていました。
 樹下にはまだ無数の実が落ちたままになっていました
。前回、十四個もの実を獲得したので、今日は拾いません。



 境内に咲いていた大手鞠(オオデマリ)。
 我がベランダの小手毬(コデマリ)は私が鬱々としている間、水遣りを忘れておりました。慌てて水を与え、樹そのものは間に合いましたが、せっかく咲いていた花はすでに茶変してしまっていました。

 昼過ぎに家に帰ってインターネットをさまよっていたら、PR誌の編集という求人がありました。「年齢制限あり」というチェックがあったので、ああ、ここもダメかと思えば、募集年齢はなんと六十歳から百歳という。ちょっとふざけていると取るか、面白いと取るか。
 六十歳以上を狙うというのは、別の目論見があるのではないか、という気もしないではありません。
 電話を入れてみると、ハローワーク経由の情報なので、紹介状が必要だといわれ、昼飯も食わずに慌てて松戸のハローワークまで出向きました。

 まあ、じつにじつに不況です。
 待ち人がいっぱい。
 数的にはまだ若い人が多いけれども、私とおっつかっつの人もちらほら。
 長椅子に腰かけて自分の順番を待っていると、ときどき係官と面談している内容が
漏れ聞こえてくることがあります。年齢の高い人はどうも不首尾の人ばかりのようです。
 気のせいか肩を落として帰って行く人を見ながら、この年齢では大変だろうな、と我が身も切実なのを忘れて同情しています。

 前にハローワーク(そのころは職安)に行ったのは、最初の勤めを辞めたときでしたから、二十九歳のとき。三十三年も前のことです。
 東京の上石神井というところに住んでいたので、管轄の職安は池袋にありました。小さな公園がそばにあったというほのかな記憶だけあって、あとはまったく憶えがありません。職安のシステムもすっかり変わっています。

 今日の私は仕事を探す相談で訪れているのではなく、すでにターゲットが決まっているのですが、求職相談と同じところで待たされること二時間でした。
 あまりにも世の中を知らない私が莫迦なのでありますが、すぐに終わると思って、久しぶりに歩いたせいで減っていた腹具合をなだめすかすのは、終わってからにしようと我慢していました。

 いつになるのかわからないそのときを、簡易な長椅子に坐って待っていると、つい入院初日のことを思い出してしまいます。
 ようやく私の番がきましたが、求人票とやらを渡されてみると、書類選考の上、面接日を指定となっていたので、そそくさと家に帰り、またパソコンに向かって履歴書をつくりました。

 ハローワークからの帰りは風が熄んだと思ったら雨です。ずっと「0」つづきだった万歩計が今日はいきなり一万歩を超えてしまいました。

 昨日のブログにつづいて一部不愉快になるようなことを書いてしまいました。八代目桂文楽師匠ではありませんが、もう一度勉強して出直して参ります、といわなければなりません。

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久しぶりの散策

2010年05月06日 23時38分00秒 | のんびり散策

 こどもの日。久しぶりに外に出ました。
 何日ぶりの外出になるのだろう。
 体調が思わしくないといっても、出かけられないほどひどくはなかったのですが、なんか嫌だな、面倒だな、と感じているうちに一週間が過ぎ、十日が過ぎると、何もかもが本当に嫌になってきたのです。
 家にはろくな食べ物もないのですが、買い物にも行きません。
 通院の約束があった一日、気が進まないながらも、行かねばならぬと嫌々ながら出かけただけで、約束がないのを幸いに、あとはずっと家に引きこもっていました。

 辛うじて外と繋がっているといえば、私が気鬱になっていることを心配してくれたメル友の一人が、私を励ますメールを送ってくれていたことだけでした。
 新聞と電気は自動引き落としにしてありますが、水道、ガス、電話、携帯電話はコンビニに払いに行かなければなりません。携帯電話はすでに支払期限がきていて、通じなくなりました。電話をくれる人もいないので、そのまま放ってあります。

 気鬱ですからじっと坐ったまま、思いを巡らせるしかありません。すると、先には何一つ愉しみもないように思え、もうそろそろイイカナ、とも思いかけました。
 イイカナと思えば、やり残してしまった痛恨事が甦ってきます。

 その一つは浅草から市川に移り住むとき、家庭菜園を借りてジャガイモを栽培をしようと思っていたところ、毎晩帰宅が遅い上に、いつ日曜出勤のお呼びがかかるかわからないという勤め先だったので、何もできなかったということです。
 以前の仕事で知り合った人(農業)がたまたま近くにいて、百坪ぐらい貸すといってくれていたのですが、三~四年家庭菜園で肩慣らしをしてから、と考えたので借りるのは先送りにしていました。
 百坪耕し、一応セミプロといえるぐらいになってから、種芋を持ってアイルランドに渡るという夢も断たれた、と思うと涙が滲んできます。
 何歳になろうと夢を諦めるな、というものの、この夢に関してはそろそろ年貢の納め時がきていると思います。

 こんな鬱屈した状態に陥ったのにはもちろん理由があるのですが、理由を書けば、人の悪口になるだけなので、一文の得にもならない。ただただ自分のひ弱さを知った、ということです。

 五月に入って急に暑くなっていました。場違いに感じるような強い陽射しです。おっかなびっくり外に出ました。
 散策に出るといっても、とくに行きたいところがあるわけではなし。ぬうぼうと出て、人から見れば夢遊病者が迷い出たような足取りで歩きました。
 動かないので腹が減らず、ほとんど食事をしていません。一日にポタージュスープ(それもインスタントの)二杯だけという日もありました。十九年間つけていた日記もつけなくなっていたので、どんな食生活を送ってきたのか、記憶もあやふやです。

 足は自然に廣徳寺という曹洞宗のお寺に向いていました。
 途中に大谷口城趾があります。
 早いものでもう半年近く経ってしまいましたが、大谷口城趾は胃潰瘍で入院していたとき、見舞いにきてくれた友を案内したところです。
 当時、私はヨタヨタとしか歩けませんでした。パジャマ代わりのジャージの上下にコートを羽織って出ていたので、まるで介護老人を連れて歩いているようだ、と友が冗談をいっていたのを思い出します。

 わずか半年前のことに過ぎぬのに、私にはずっと昔のことのように思えます。
 その日は私にとっては風の冷たく感じられる日で、貧血のせいもあり、手が氷のようでした。友がその手を包み込んで、自分のコートのポケットに導いてくれた、その温かさが懐かしい。
 当時に比すれば私の元気は恢復していて、さすがにヨタヨタとはしていませんが、その代わり、一緒に歩いてくれる人もない。

 何があったのか、その友とは連絡が少しずつ間遠になり、完全に途絶えて一か月になろうとしています。
 私のかたくなな性格がいよいよ疎んじられたのか、あるいは電話もできないような重大な病気に罹っているのか。気鬱なので、いろいろよからぬことも考えてしまいます。
 眼もいちだんと悪くなったように思えます。樹々はいつの間にか青々と葉を茂らせて、躑躅(ツツジ)も満開だというのに、何を見ても感動が薄い。

 蹌踉と歩くうち、廣徳寺の門前に到っていました。
 いつ訪れても無人だった境内に、この日は人の気配がありました。そればかりか、ときおり太鼓と鉦の音が聞こえてくるようです。
 幻聴か。
 ついにそっちもきたか。
 一瞬そう思ってしまいました。

 


 参道にある香椿(チャンチン)の樹。別名唐変木。
 中国の中北部原産の落葉高木で,若葉が赤いという妙な樹です。この若葉は中国では食用。香椿炒鶏蛋といって、いまごろまでの若葉を摘み取り、卵と絡めて炒めるのだ、と私の勤め先にいた中国人が教えてくれました。



 参道を進んで行くと、太鼓や鉦の音の正体がわかりました。

 

 
 いつもは閉じられている本堂の扉が開かれ、大勢の人がいると思ったら、偶然開山忌だったのです。唱えられていた般若心経を聴きながら賽銭箱へ。
 みな前を向いていて、私には気づきません。私だけが場違いなところへきている、と思ったり……。



 境内に咲いていた石楠花(シャクナゲ)。石楠花は私にとって悲しい思い出を思い出すだけの花です。

 歩けるものなら廣徳寺よりもっと先を目指そうと思っていました。杏(アンズ)の花を見に行った少し先に幸田(こうで)湧水という湧き水があるのです。
 しかし、久しぶりの外出は廣徳寺までのわずか二十分で疲れ果ててしまいました。

 昨日、重曹を使って台所のシンクをピカピカに磨き上げました。床もトイレも洗濯機や冷蔵庫の後ろも、掃除するところはいっぱいあるのですが、とりあえずはシンクだけ。

 あ、そうそう。私、先月で前の勤め先を辞めました。明日、次の仕事の面接に行きます。

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