桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

立冬間近

2009年10月30日 12時51分14秒 | 風物詩

 今年は十一月七日が立冬。去年もこの時期まで咲いていた朝顔が今年も健在。
 立冬まであと十日足らず。今年も充分に保ちそうです。



 通勤途上で見かける恵光寺というお寺の壁際に花を咲かせています。壁際といっても、このお寺はマンションの中にあります。

 
 
 
 
 


 久しぶりに大野緑地下の小径を歩きました。この季節は花が乏しいと思っていましたが、よくよく見れば、結構咲いています。さすがに百花繚乱とはいかず、10~20メートル置きにポツリポツリとですが……。

 よく見れば 薺花咲く 垣根かな はせを

 これまで山野草には関心がなかったので、名前がわかるのは白粉花(オシロイバナ)ぐらいしかありません。
 これらが本来の山野草なのか、沿道に住む誰かが手植えて野草化したものか、私にはその区別すらつきませんが……。
 子どものころ、白粉花の花の根元を折って蕊を出し、鼻にくっつけて「天狗」の真似事をした記憶が甦りました。



 大野緑地(かつての大野城)にあった旧本将寺参道入口に遺されている石塔です。
 夏の間、私が通りかかるころは陽も当たらなかったのですが、太陽の位置が低くなって、彫られた文字もハッキリと読み取れるようになりました。
「大聖人(日蓮)直授法之人也。當寺開基権大僧都日寶聖人。正應壬生辰(1292年)八月朔日寂」


嵐の横浜行

2009年10月27日 23時49分08秒 | つぶやき

 昨二十六日月曜日は初冬のような陽気。加えて、ときおり横殴りの暴風雨。そんな悪天候の中を、横浜へ行かなくてはなりませんでした。
 横浜というと、いつも厄日だの、そうではないだの、と考えさせられてしまいます。
 毎日のように通っているのであれば、愉しいこともあり、不愉快なこともあって当然ですが、一か月に一度か二度しか行かないのに、私が行くときは必ず何かよからぬことがあるというのが不思議です。

 台風20号が小笠原諸島に接近中というので、勤め先を出るときから何かあって当然と覚悟していましたが、西船橋で武蔵野線から総武線に乗り換えようとすると、プラットホームは黒山の人でした。
 聞けば、中野駅で車両点検があったので、遅れているというアナウンス。
 理由を聞かされたところで仕方がないが、何もないのに車両点検をする必要はないはず。何かがあったから車両点検しなければならなかったのではないか。その何かがなんであるかをいわないのがJRの常套手段。JRは正しい日本語の使い方を勉強せい、と心の中でぶつくさ唱えながら、横浜とは逆方向の船橋へ。
 西船橋には停まらない横須賀線直通の電車で、横浜駅まで直行しました。
 この日は貨物の引き取りではなく、引き取るために必要な書類をもらいに行くのが仕事です。

 私の勤め先の最寄り駅から横浜へ行く方法は三つ。
 1、東京駅直通の電車があれば、東京駅で東海道線か京浜東北線に乗り換える。ただ東京駅での乗り換えはとんでもない距離を歩かなければならない。
 2、西船橋で総武線に乗って、秋葉原で京浜東北線に乗り換える。
 3、西船橋で総武線に乗って、市川か船橋で横須賀線直通に乗り換える。

 東海道線と横須賀線を利用したときは横浜で京浜東北線に乗り換えなくてはなりません。

 で、昨日は3を選択。横浜まで横須賀線を選んだのは正解でしたが、横浜に着くと、何があったのか京浜東北線も遅れていました。すでに十一時が迫っていました。この日の目的地は桜木町まで行って、さらにバスに乗らなければならないところです。
 海運会社は十二時ではなく、十一時半から昼休みに入るのが通例です。十一時半までに着けないと、午後一時まで待たなければなりません。
 十一時半に着けるかどうか。いつも綱渡りをするような思いなので、どこかの駅で電車のドアが閉まらない。何があったんだ? と思ううち、「時間調整です」とのんきそうな車内アナウンスが流れるだけで、私の血管は沸騰し、テンションは上がってしまいます。

 こうして時間にヤキモキさせられるぐらいなら、もっと早く出ればいいのに、と思われるかもしれませんが、書類をもらうためには船賃を支払わなければならず、その仮払いを受けてから勤め先を出るので、電車に乗るのはどんなに早くても、九時半ごろになり、横浜に着けるのも十一時ごろになってしまうのです。



 桜木町駅から横浜市営バスに乗って、みなと赤十字病院入口という停留所で降りました。乗車時間は十分程度のものですが、乗車中は時間とせめぎ合いです。
 雨の日のバスは必ず遅れます。遅れると、本来なら間に合わなかったはずの人が間に合ってしまって、乗り降りに時間を取られ、ますます遅れ、ヤキモキさせられます。



 バスを降りると、大変な雨風になっていました。倉庫群に遮られて海は見えませんが、紛れもなく海が近いので、風はいっそう強いようです。
 大型トラックやコンテナトラックが水煙を上げて傍若無人に走り回っています。信号待ちをしていると、水飛沫が5メートルは飛ぶのが見えます。
 傘を差して歩いているような酔狂な人間は私以外にはいないようです。
 幸い海運会社の事務所には十一時二十九分、一分前という奇跡的時刻に着いて、無事書類を入手することができました。しかし、私の靴はすでにずぶ濡れ。スラックスも太股あたりから下はずぶ濡れ。肩から提げた鞄もずぶ濡れです。

 事務所を出たら、具合の悪いことに胃が痛くなってきました。突風の吹きまくる中で、鞄から太田胃散の缶を出し、服用しようとしました。
 以前は分包を携帯していましたが、量(1・3グラム)が少ないせいか、効き目が実感できない。で、スプーンですくって服む75グラム入りの缶を携帯するようになったのです。
 左の首根っこで傘を支え、右肩にかけた鞄の取っ手がずり落ちないようにしながら、左手に缶と缶の外蓋と中蓋を持って薬を服むのはなかなかに至難の業、と思っていたら、足許から突風の来襲。
 スプーンにすくった薬を跳ね飛ばしてしまいました。あっと思った瞬間、スプーンまで飛ばされてしまった。

 総武線が遅れたのは横浜のせいではない。京浜東北線の遅れも横浜のせいではない。雨も横浜のせいではない。風は多分横浜のせいだが、恐らく海岸近くに限ってのことだろうから、横浜全体のせいではない。
 しかし、私が横浜にくると、二回に一回はこの手の不都合がある、というのは一体どういうことなのだろうと訝るばかりです。

 とはいえ、私は横浜を嫌いになったりはしないのです。できることなら一日のんびりと観光で訪れてみたい。
 中華街は格別行く気にはならないけれど、関内から桜木町に向かう道筋に、中華料理店が軒を並べている一画があって、そのうちの適当な一軒に入って食事をしてみたい。いつも横浜へくるときはセカセカしていて、ゆったりと昼飯を食うこともないので……。
 伊勢佐木町あたり、一本路地を入った人気(ひとけ)のない店で酒を呑んでみたい。
 港で船も眺めてみたい。客船よりは貨物船。沈みそうに思えるほどに荷を積んだデカイ船がいい。


有朋自遠方来 不亦楽

2009年10月23日 23時31分46秒 | つぶやき

 落ち葉の舞い散る季節になりました。
 私の身体の中でも落ち葉が散り始めたものか、突然の変調に襲われました。
 十日も前のことですが、体育の日の翌朝、いつもどおり出勤に及ぼうとしたとき、駅間近になって、急に身体がだるくなったのです。

 ??? という状態でプラットホームへ。
 電車通勤はわずか三駅なので、いつもなら席が空いていても坐ることはありません。が、この朝は無性に坐りたかった。しかし、こういう朝に限って、空席がない。
 吊り革にぶら下がるようにしていましたが、次の駅に着くまでのわずか数分が我慢できません。たいしたものを入れているわけではない鞄が物凄く重く感じられて仕方がない。
 次の駅(新八柱)でドアが開いた瞬間、私はフラフラとプラットホームに降りていて、ちょうど真ん前にあったベンチにへたり込んでいました。
 瞑目することしばし……。気がつくと、額にはジットリと脂汗を浮かべています。

 膝の上に抱えた鞄に携帯電話を入れていました。勤め先へ連絡しなければ、と思うのですが、鞄を開けることすら億劫なのです。
 と同時に、頭をよぎったのは、三日後の金曜から日曜にかけて、関西から友人が訪ねてくることでした。
 突発性の変調だとしても、電車の中で立っていられないというような症状は初体験で、やがて元に戻るとしても、数日で恢復することはむずかしいかもしれない。折角の機会なのに、一緒に酒を呑んだり、街を歩くことはおろか、下手をしたら病院で会う、ということになるかもしれない。

 私は二十七か二十八の歳にひどい風邪をひいてから、現在(六十二歳)に到るまで、検診を除いて医院を訪ねたことがありません。
 到って健康ということになるのでしょうが、十七の歳から煙草を吸い(それももっともヘビーな部類の煙草飲酒も欠かさないので、自身では心身ともに健全という自覚はありません。しかし、風邪をひくことはあっても、寝込むようなことはほとんどなく現在に到っています。
 そこへ鬼の霍乱のような不調です。

 前日、寝不足だったということはないのに、無性に眠いのです。
 結果を先にいってしまうと、一旦家に引き返して二時間ほど眠ったあと、再出勤したものの、どうにも調子が悪く、三時前に早退しました。

 とにかく眠くて眠くて仕方がないので、病院には寄らずに庵に帰り、すぐ横になって、しばらく眠ったら病院へ、と思っていたのに、目覚めてみたら午前三時半。
 わりと心地のよい目覚めでした。何か幻でも見たのではないかと思って起き上がろうとすると、調子の悪さが戻ってきて、ウッウッいかんと、そのまま横になったら、またウトウト……。

 朝になって目覚めたとき、また起き上がるとおかしいのではないかと警戒しながら布団を抜け出しました。
 夜中は立ち上がった途端、こりゃダメだという状態でしたが、朝になってみると、そんなことはない。なんだかわからないが、一過性の変調に襲われたのだと考えました。
 で、普段どおりに出勤しましたが、庵を出た途端にまたまた変調です。
 駅まで歩く十分が非常に長く感じられました。いつもなら休憩したいなどとは思わないのに、その日は改札口を目前にして、駅前のベンチにどっかりと腰を下ろしてしまいました。電車を二本やり過ごし、出勤先の道でも休憩二度。遅刻三十分。

 息切れするといっても、腰掛けて数分休めば元に戻ります。否、戻ってはいませんが、立ち上がろうという気にはなる。ただし、立ち上がってしばらく歩くと、また腰を下ろしたくなる。

 調子は決してよくないけれども、仕事ができないという状態ではないので、極めて平静を装いながら仕事をしていると、終わるのは八時近くになってしまいます。
 この時間に診療してくれる医療機関はありません。初日のような辛さはないので、まあ、様子を見ながら、と思いながらトボトボと家に帰りました。
 そうして水曜日木曜日と低空飛行をつづけながら、友人がやってくる金曜日を迎えました。

 夜八時 ― 。
 勤めを終えて、新松戸の駅で会いました。
 体調は心配していたほど悪くありません。飯も食いたくない、酒も呑みたくない、という状況に陥るのではないかと心配でしたが、適当に腹は減っており、少しぐらいなら酒も呑めそうです。

 友人と書きましたが、会うのは二度目です。
 六十年も生きてきて、まずもって経験のなかったことですが、わずか二度目なのに、二度目という感じがしない。前から交友関係があったような錯覚があるのです。
 といって、すごく古い付き合い、というのでもない。不思議な関係ですが、友人も同じように述懐していました。
 食事を済ませて私の行きつけのバーへ。

 火水木の三日間、家に帰ればひたすら眠る生活で、まともな食事はしていないし、酒は一滴たりとも呑んでいませんでした。
 これまで風邪をひいたりして一日か二日、酒を呑まぬという日はありましたが、三日間も呑まなかったというのは記憶にありません。
 恐る恐る呑みました。そのバーではアイリッシュウィスキーしか呑みませんが、いつもはいきなりダブル。しかし、この夜は警戒してシングルから……。
 ウィスキーを味わうというより、異常を起こさぬかどうか、疑心暗鬼という感じで、ろくろっ首が油を舐めるみたいにペローリペローリ、と。

 思ったより調子はよいようです。三杯呑んで腰を上げ、さらにもう一軒だけハシゴして、友人が投宿するホテルの部屋に行きました。
 そこで友人がママになり、臨時のバーを開店するという段取りでした。前もってバー開店の招待状ももらっていました。



 友人から私へのお土産その一です。こんな重いものを、はるばる関西から持ってきてくれました。

 早速いただくことになりました。チビリチビリとやりながら、話も弾んで、愉しいものだから、時の経つのも忘れます。
 しかし、なにせ私は病み上がり。いつの間にか時計は十二時を廻っていたのにも気づかず、話に花を咲かせておりました。
 三時近くになったので、ようやくバーも閉店です。

 病み上がりなのに、いきなり夜更かし、深酒、加えて午前様。
 友人の滞在中、翌日翌々日と立てていた計画があるのですが、いきなり無茶に及んで、どうなりますことやら……。〈つづく〉


諏訪神社から前ヶ崎城趾へ

2009年10月11日 23時15分28秒 | 歴史

 柏市の豊四季というところに、源義家公所縁の神社があると知って、久しぶりに歴史探訪に出かけました。



 柏で東武野田線に乗り換えて最初の駅・豊四季で降りました。「とよしき」という駅名は何か由緒ありげで、どんなところなのだろうと前から気になっていましたが、なんということはない駅でした。

 駅前を出ると、県道柏流山線です。大きな伽藍が見えたので立ち寄ってみると、正満寺という浄土真宗本願寺派のお寺でした。
 正保三年(1646年)の創建ですが、創建の地は江戸で、明治九年にこの地に移転しています。



 諏訪神社入口の狛犬。文政年間(1818年-29年)の建立だそうです。
 相方の吽形のほうはちょうど真後ろに太陽があるという時間帯であったため、上手く撮影できませんでした。



 参道入口にあった神馬の像です。



 諏訪神社の創建は大同二年(806年)。今年で千二百と三年を迎えます。
 この世の雑音は鬱蒼と繁る森林に遮られて、境内は森閑と静まり返っていました。聞こえるのはカサコソと散る落ち葉の音だけ。
 参道入口から社殿までは目測150メートル。間に三対の狛犬がありました。 

 


 境内奥深くにある馬を連れた源義家公像です。

 平安末期の永保三年(1
083年)、義家公が後三年の役で奥州に向かうとき、この神社に立ち寄って、軍馬の調達と武運を祈願。戦勝後も立ち寄って馬を献上したという伝承があります。

 神社の入口は柏市ですが、社殿を含む境内のほとんどは流山市駒木にあります。
 訪ねたとき、私は流山市に足を踏み入れているとは考えてもみませんでしたが、駒木という地名から推測できるように、かつて周辺は馬の産地でした。
 県道柏流山線を挟んで、鞍掛という地名も遺っていますが、これは義家公が献馬の際に乗馬の鞍を掛けたことが由来といわれています。
 


「後三年合戦絵詞」(東京国立博物館蔵)の源義家公です。

 


 こちらは拝殿前の狛犬。前肢がガッシリとして、阿形のほうはボルゾイ犬を思わせます。
 北村西望(昭和六十二年没)作。昭和五十七年十月建立とのことですから、晩年の作です。

 この狛犬の建立から遡ること五年前、北村西望さんにインタビューを申し入れて、井の頭公園にあったアトリエを何度か訪ねたことがあります。窓口となったお弟子さんによれば、老齢にて(当時は九十四歳)余分に体調のよい日がなかなかないとの理由で待たされ、結局会えずじまいでした。
 余分に体調がよいとは、ちょっとでも元気な日は制作に没頭したい。そのあとでもなおインタビューに応える余裕があれば、という意味でした。つまりやんわりと断わられていたのにもかかわらず、私は愚直にも日参していたわけです。

 次は前ヶ崎城趾を訪ねるつもりで、駅を目指して戻りました。
 諏訪神社は豊四季駅から至近距離なので、なんの心配もありませんでしたが、プリンタの具合が悪く、この日はいつもなら持って歩く地図を持たずにきていたのが微かな不安材料でした。

 東武線の踏切を渡ってしばらく歩くと、右手にこんもりとした林が見えました。
 私の中では、城趾は小高い丘に林、という固定観念が出来上がりつつあるので、そこが目指す前ヶ崎城趾ではなくとも、なんらかの参考になりそうなところではないか、という気がして寄ってみることにしました。
 ところが、近づいてみると、丘でもなく、なんの変哲もない林でした。引き返そうとしてふと見た電柱に「流山市」という住所表示がありました。

 あらましの位置関係は頭の中に叩き込んできたつもりでしたが、とんでもない方向にきてしまった! と慌てふためいたためか、頭の中の地図は一瞬にして崩壊してしまったのです。
 あとで地図を見ると、このあたりの柏市は虎がガァーッと口を開けたのを、真横から見るような形をしています。口の中が流山で、この地域は行けども行けども流山です。
 前ヶ崎城趾があるのは流山市なのですが、私は柏市だと思い込んでいたのも地図の崩壊に手を貸すことになりました。
 それでも慌てず騒がず、真っ直ぐ南下すれば、やがて虎の下顎の部分で再び柏市域に入り、前ヶ崎城趾に辿り着けただろうと思うのですが、いつの間にか柏の南西方向にあるはずの流山まで流れてきてしまった、と思い込んだのがこの日の私の運の尽きでありました。

 ともかく東へ向かうべし、と思って歩きましたが、先に記したように、住居表示は行けども行けども流山市です。
 運の悪いことに、ガァーッと開いた虎の口の一番奥を目指して歩いていたのです。

 太陽は背にありましたが、一体どの方角に向かって歩いているのか、完全にわからなくなってしまいました。それとともに、いっぺんに疲れが出てきました。
 前の歴史探訪からほんのちょっとの間を置いただけ、という気がしていましたが、実際は三週間近く経過していて、勘のようなものが鈍っていたことも疲れを増幅させたようです。
 若いころなら適宜の間合いは元気の素となるのですが、歳を取ると、間合いを取り過ぎてはいけないようです。

 今週末、関西の友人(♀)が訪ねてくることになっています。
 土曜日は松戸近隣の散策のあと、葛西臨海公園へ。日曜日は小田原の古寺探訪、と予定をしているので、ポクポクと歩くことになります。
 それに備えて、しばらく履いていなかったウォーキングブーツを馴らしておこうと考えたのも、軽率な選択でした。

 私は右足の小指が畸形で、親指ほどの太さがあります。3E4Eという靴を選んでいますが、靴によってはどんな幅広のものを買っても、小指が当たって痛いことがあるのです。履き慣れれば自然と拡がるので、痛みを感じることもなくなるのですが、履き馴らすまで時間がかかります。
 オーダーメイドということも考えぬわけではないのですが、見知らぬ靴職人に畸形の足をまじまじと見られる、と思うと、どうしても腰が引けてしまって、これまで何度も考えながら、結局既製の靴を買い、結局痛い目に遭いつづけているのです。

 季節も関係があるようで、冬期は革が硬くなるのか、新しい靴は禁物です。
 しかし、朝夕は肌寒くなってきたとはいえ、まだ冬には間のある季節です。痛む靴を不用意に履いた挙げ句、疲れ果てて今日はリタイアと決めました。
 幸い明日は体育の日。仕事は休みなので、前ヶ崎城趾訪問は明日に回すことにしました。


♪アメリカの貨物船が……

2009年10月03日 13時25分16秒 | つぶやき

 金曜日、久しぶりに横浜へ行きました。
 雨の横浜でした。
 外国からの貨物の入荷はつづいていますが、このところ、私が内勤で消化しなければならぬ仕事が多くなったので、一段落するまで横浜行は担当外になりつつありました。
 しかし、今回は入荷量が多かったので、助っ人として登場です。



 前もきたことがある大黒埠頭の横浜港流通センターから眺めたコンテナヤードです。雨で煙って、視界は数百メートル。
 天気がよければ望めるはずの房総半島……どころか、沖を行き交う船もはっきり見えません。



 霞んでいますが、画像の右端からコンテナ船が出港して行くところです。山のようにコンテナを積んでいました。一体いくつ積んでいるのか見当もつきません。
 タグボートに曳航されてゆっくりゆっくりと進み、埠頭と埠頭の間を抜けると、ボウと汽笛を鳴らしました。タグボートに「ありがとう」と知らせたのです。

 何歳ごろであったか定かではありませんが、まだ小さなころ、船長になりたいと思ったことがあったのをふと思い出しました。
 現実はそんなにロマン溢れるものではないのでしょうが、港から港に移るたびに新しい出会いがあり、そのあとに必ず別れが待っている-そう想像するだけで、齢とともにますます涙脆くなっている私はウルウルと涙腺を緩ませ始めています。
 役目を終え、大きな弧を描いて港に戻ろうとするタグボートと徐々に距離を開いて行くコンテナ船。ありがとう、さようなら、ウルウル……。

 コンテナには長さ20フィート (約6メートル)のスタンダードとロングコンテナと呼ばれる40フィート (約12メートル) の二種類があります。幅はともに8フィート (約2・4メートル)、高さも同8フィート6インチ(約2・6メートル)。
 
ロングコンテナだと八畳二間分より広い大きさです。そんな大きなものを幾層にも積んで、船はしずしずと進んで行きます。
 あんな大きな鉄の塊が空を飛べるはずがない、と頑なに信じて、飛行機には絶対に乗らないという人がいますが、それより数倍も大きな鉄の塊が、さらに重い鉄の塊を積んで沈まないというのは、考えてみれば、実に不可思議です。

 その不可思議なものがゆっくりと向きを変え、少しずつぼやけて、やがて雨と波の彼方に姿を消して行きました。

 横浜港には何度もきていて、貨物船が停泊しているのは見ていますが、出港して行くのを見るのは多分初めてです。

♪アメリカの貨物船が 桟橋で待ってるよ
 冬のリヴィエラ 男って奴は 港を出て行く船のようだね
 哀しければ 哀しいほど 黙り込むもんだね
 ……
 冬のリヴィエラ 人生ってやつは 思い通りにならないものさ
 ……

 アメリカの貨物船ではなくとも、大きな船を見ると、つい口ずさんでいます。
 私が眺めていたのは、冬でも夏でもなく、秋のリヴィエラでしたが……。
http://www.youtube.com/watch?v=-RTdwNOuvsQ

 どちらがオリジナルということになるのかわかりませんが、つい口ずさむのはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=kge0imwRY0o

 審査員席の大原麗子さんがチラリと写るのを見たら、私の涙腺はまた緩んでしまいます。
 映像は1983年の紅白ですから、結婚四年目、そして離婚前年。このときの
大原麗子さんを見ていると、とても年が明けたら離婚とは感じられません。

 朝六時起きして助っ人に出たのですが、荷をトラックに積み込むのにかなりの時間を要し、戻ってきてからも、倉庫に収めるのにも時間を要して、勤め先に戻ったのは午後三時を過ぎてしまいました。
 助っ人に出たからといって、内勤で消化しなければならない仕事がなくなるわけでもなく……皆が帰ったあと、独り居残って、退社は八時半過ぎとなりました。

 暗くなって雨は上がりましたが、風が強くなりました。帰りを急がねばならぬ用もないので、野良の猫たちに出会った道を通ることにしました。



 今夜もいない……と、思ったら、いつもとはちょっと離れたところに、いました、いました。
 真っ暗になってからしか見たことがないので、前と同じ仔猫かどうかわかりませんが、まあ、再会に乾杯 ! キミたちにはともかくミオを……。
 私が腰をおろして鞄の中をまさぐっていると、真ん中の茶色の仔猫が立ち上がって、私の膝に前脚をかけて催促です。
 ミオを与えると、身体は一番小さいくせに、「ボク(アタシか?)がもらったんだからね」とばかりに、グフグフと喉を鳴らして、周りの仔猫を威嚇していました。
 母猫にこそ食べさせてやりたいものと捜しましたが、近くにはいないようでした。子だくさんで忙しいお母さんはどこかに出稼ぎに行っているのでしょうか。



 夜目にも赤い花がくっきりと……。
 野良たちがいたところから数分離れた場所です。紫陽花(アジサイ)の樹に咲いているように見えましたが、まさか紫陽花のはずはありません。
 一体なんの花なのか、来週の宿題です。