桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

高砂寺巡り余話

2016年08月16日 23時12分52秒 | つぶやき

 ぬぁ~んか、全然やる気が出なかったのに、突然高砂の寺巡りをしよう、という気になったのは、前日にふと天形星神社へ行ってみようという気になって、実際に行ったからかもしれません。
 天形星神社は流山市にある、素戔嗚命を祀る神社です。私が日々の散歩で訪れる中では最も遠い部類で、歩くと四十分もかかります。ゆえに、プラッと行くわけにはいかず、「ヨッシャ」と思い立たないと行けません。
 六年前、いまのアパートに転居してきた年の冬、付近の地図を見ていて、「天形星」などというおどろおどろしい名の神社があるのに気づいて訪ねたのが最初でした。
 それ以来、しばしば訪ねているうちに ― しばしばとはいっても、往復するだけで一時間半もかかるわけですから、行くとしても年に二度、せいぜい三度くらいがいいところですが ― この神社をねぐらにしているらしい、野良猫の黒介と懇ろになりました。しかしテキは野良です。人知れずいなくなってしまったり、誰かに飼われることになったりして姿が見えなくなっても、私にはどんな理由で姿を消したのかわかりません。 

 そして、そういう日が突然やってきました。三年半前に姿を見たあと、見かけることがなくなったのです。最初こそおどろおどろしい名の神社がどんな神社なのかと思って行ったのですが、そこで黒介を見かけてからは、参拝が目的ではなく、黒介に会うのが目的で行くようになりました。行っても黒介はいないとなれば、行かなくなります。もともと私はお寺巡りはしても、神社への参拝はしないのです。

 憂鬱だったのか、なんだったのか、今回ずっとやる気が出なかったことと黒介とはまったく関係がありません。何が原因だったのか、いまとなってはわかりませんが、夏風邪をひいたことも手伝ったのか、なぜか倦怠感に襲われていて、何もする気が起きなかったのです。 

 たとえば……。
 パート先へは弁当を持って行くのですが、そのおかずにするのを兼ねて、煮卵と卵サラダをつくっておこうかと思い、卵を八個も茹でました。仕事ですから、やる気云々とは別で、決まった日には行かねばならず、行くためには弁当をつくらねばなりません。
 パート先が駅のほうにあれば、途中にコンビニもあり、スーパーもあるので、そこで弁当を仕込んで行けばいいのですが、反対方向となると、スーパーやコンビニはおろか、何かを売るという店そのものがないのです。パートとはいっても、何時間も仕事をするのですから、弁当なしではつとまらない。よって、やる気が出る出ないの問題ではなく、弁当はつくらなければならないわけです。

 そんなわけで弁当をつくろうとしていたのですが
相前後して、やはり弁当のおかずも兼ねて、アスパラガスの肉巻きをつくっておこうかと思いつき、アスパラガス二束と豚ロースのスライスと豚バラのスライスを買っておきました。
 盛夏なので、冷蔵庫はいっぱいで、隙き間がありません。
 豚肉だけはなんとか押し込みましたが、すぐ調理にとりかかるつもりだったので、茹で卵は雪平鍋で茹でてお湯を切ったあと、鍋に残したまま、ガス台の上に載せたままです。
 アスパラガスも手つかずのまま、近くの台の上に置いてあります。 

 アスパラガスを買ったスーパーは、野菜に関してはあまりいい評判を聞かない店です。買ったじゃが芋を切ってみたら、真ん中に十字に酢が入っていたことがありました。ただ、買った当日にカットしたのではないことは確かで、何日後だったのか、定かでもないけれど、じゃが芋という根菜には短時間でそうそう酢が入るものだとは思えません。
 豚肉も腐らせてしまっているのかどうかハッキリしませんでしたが、君子危うきに近寄らずと思って、処分することにしました。 

 そんな日々がつづいていたときに、どうしたわけか自分でもわからないのですが、天形星神社へ行ってみようか、という気になったのでした。
 訪ねるのは二年半ぶりか三年ぶりか、とにかく久しぶりです。
 いつであったか、ハッキリと憶えていませんが、前にもふれたように、最後に行ったときには黒介の姿はありませんでした。虚しく帰ってきて、もう一度様子を見に行ったかどうか。記憶はあやふやですが、仮に行っていたとしても、やはり黒介の姿はなかったはずです。そして、今回まで再び行くことはなかった……。

 天形星神社に限らず、私が知っている野良猫たちにはそれぞれ結構な数のファンや取り巻きがいて、食べ物には苦労していないようです。黒介が誰かに飼われているのなら喜ばしいことです。

 前のように四十分から四十五分かけて、神社に着きました。門前に消防団の器具倉庫があります。黒介はよくその前で眠っていたり、腹這いになっていたりしました。



 と、その前で眠っている黒猫がいました。
 まさか猫 ― それもかつて天形星神社を棲家としていた黒介と同じ黒猫がいるとは考えてもいなかったので、キャットフードなど持っていません。見た目は黒介と同じ真っ黒ですが、身体がひと回り小さいように感じられます。
 ゆっくりと近づいて行くと、目を覚まさなくてもいいのに目を覚まして、一つ大あくびをしました。
 カメラには収められなかったのですが、目覚めたあと、私の足許にまつわりついて、盛んにマーキングを試みました。
 このころから、もしかすると、この猫は何かの事情で痩せたが、黒介なのではないか、という思いがしてきたのです。ただ、立ち上がった姿を見ると、やはり黒介より身体が細く、痩せたのではなく、骨格そのものが小さくて、ひと回り小さいような感じがしました。
 けれども、黒介ではないとすると、野良猫が初対面の私の足許にまつわりつくような仕草を見せるものだろうか、という疑念が湧いてきます。



 黒介ではなくとも、キャットフードの持ち合わせがあればそこに置いたでしょう。しかし私に親愛の情を見せてくれているようなのに、私には持ち合わせがない。申し訳ないような思いがして、その場から足早に立ち去ることにしました。
 ふと振り返ると、私のあとを追うように参道をどこまでもついてきます。

 途中から新しい相棒 ― この猫が黒介なら、ですが ― らしきキジトラも加わってついてきます。やはり黒介ではない。最後に黒介を見たとき、それまでずっと独りぼっちだった黒介に相棒ができていたのですが、その猫の毛並みは茶トラでした。

 

 とにかく振り切って、拝殿に一礼だけして境内を出ました。
 振り切ってから、餌をあげられなかったのは仕方がなかったのだから、しゃがみ込んで額のあたりを掻いてあげながら、「ごめんよ。来週、またくるから」 と伝えておけばよかった、と後悔しましたが、

 しかし、即物主義で、餌を与えることによってのみ、相手の気を惹こうとする手法から抜けきれぬ私です。
 境内を出ながら、どこかでキャットフードを手に入れよう、と考え始めていました。

 天形星神社の周辺にはおよそ店といえるようなものはありません。しかし、三年半もきていないのだから、もしかしたら近くにコンビニでもできているかもしれない。そう思って、車の通行量の多い道に出ました。
 県道276号線です。出てみると、道路沿いの風景はなんら変わっていないのがわかり、すぐにコンビニは期待できないと理解できました。 
 闇雲に歩いていると、スーパーを示す案内板が出ているのが目に入りました。スワ、と思いましたが、初めて入った店なので、どのあたりにキャットフードが置かれているのかわかりません。場所を捜し当て、買って戻るのに、二十五~三十分は費やしてしまいました。

 息せき切って戻ってきたとき、鳥居の下で餌やりをしている母娘がいました。黒介、よかった、餌にありつけたか、そう思いながら廻り込んでみると、二匹の猫がいましたが、まったく違う猫でした。 キジトラもいません。
「黒い猫を見ませんでしたか?」と訊ねてみると、「今日はまだ見ていません」と母親らしき女性が答えてくれました。「出てくるとしても、もう少し遅い時間だと思いますよ」
 消防団の器具倉庫の前を見てみましたが、姿がありません。

 飼猫の一匹もいない家としては多過ぎるキャットフードが我が庵にはあります。ドライ、缶詰、パウチ等々。一匹の猫なら、一か月分は悠にありそうです。



 これが黒介を見た最後の日の画像です。四年前、2012年の十二月四日のことです。
 最後になるとは思わず、この日、持ってきたのは四袋が繋がって売られているドライフードの一袋だけでした。そのドライフードを置いたら、早速むしゃむしゃと食べ始めました。

 その後、訪ねた折に、左の茶トラだけは見ました。私のことは覚えているような、いないような、あやふやな素振りでした。どこかに黒介がいるのに違いないと思って、しばらく佇んでいましたが、結局姿を見せることはなく、この画像の日が黒介を見た最後となってしまったのです。 

 夏風邪は治ったようですが、体力のほうはまだ充分とはいえません。 

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高砂寺巡り

2016年08月15日 23時10分43秒 | 寺社散策

 毎日の買い物、慶林寺参拝と周辺の散策で外に出ない日はありません。しかしいつからか、毎月八日の薬師詣での日を除くと、遠出をしなくなりました。近場で行きたいと考えていたところは大体行き尽くしてしまったのと、是非ともまた行きたいと思うところがないこともあります。

 ところが、遠出することが尠なくなったキッカケが何かあったのだろうかと、よ~く考えてみると、遠出することはおろか、身の回りのことすら動くのが億劫になってきていることに気づかされます。
 数週間前、煮卵と卵サラダをつくろうと思って、卵八個を茹でました。お湯が冷えるのを待って、殻を剥くつもりでしたが、つくろうと思い立った時間が遅かったので、日暮れどきになっても、冷めません。
 冷蔵庫が空いていれば、入れたのですが、生憎いっぱいだったので、茹でるのに使った雪平鍋に入れたまま、ガスレンジの上に載せたままでした。

 翌日、あるな……と横目で見ながら、コーヒーやお茶を飲むためにお湯を沸かし 食事の用意や洗い物をしたりしています。

 翌々日、また、あるな……と横目で睨みながら、同じことをしています。

 同じころ、アスパラガスとオクラの肉巻きをつくろうと思って、アスパラガス、オクラ、豚肉のローススライス、同バラスライスを買っておきました。
 冷蔵庫の空きがないといっても、この時期、さすがに豚肉を外に置いたままにするはずはないので、押し込むようにして冷蔵庫に入れました。アスパラガスとオクラは台所のシンク周りに置いておきました。
 買ってきたスーパーの名は記しませんが、多分農薬のせい……なのではないでしょうか。買ってきて二日目の朝、アスパラガスの穂先が腐りかけていました。
 すべてふしだらな自分が悪いので、スーパーのせいにしてはいけないと思うのですが、いくら夏とはいえ、二日で腐り始めては困ります。
 ……こうして、何もかも腐らせてしまう。

 買い物に行ったときは、結構やる気満々なのです。
 このところ、酢がマイブームになっているので、色とりどりのパプリカを見ると、マリネにしてやろうかと思い、鯵や鰯が調理済で並んでいるのを目にすれば、茗荷と玉葱を一緒に買って、南蛮漬けにしようかと考えたりしています。結局は考えるだけで、実行に移されることはなく、実行に移されることがあったとしても、途中で放棄されて、先の卵サラダのようなハメに……。



 十五日は阿弥陀如来の縁日です。阿弥陀如来は我が干支の守り本尊におわすので、毎月十五日には我が庵から歩いて二十数分かかる東漸寺(浄土宗)に参拝します。阿弥陀如来が本尊のお寺です。



 東漸寺に行かなければならない日、日参を欠かさないと決めている慶林寺はどうするかというと、一旦庵に帰って出直すことにしています。
 東漸寺からの帰りに、ついでにお参りする、というのはどうも失礼な気がするので、一旦帰るのです。東漸寺からの帰り途、しばらく遠出をしていないことを思い出し、ふと高砂を歩いてみようかと思いました。
 一旦帰り、出かける用意を整えて、電車に乗る前に慶林寺に参拝しました。



 常磐線を金町で降り、南口を出て……。 



 京成金町駅へ。



 目的の高砂まで、途中に柴又駅が一駅あるだけの金町線です。
 車体に両津勘吉をあしらった電車が走っていたこともありましたが、いまは普通の電車に戻ったようです。



 京成高砂駅北口に出ました。
 高砂へは何度かきたことがありますが、すべての道を歩いているわけではありません。地図を持っているので、間違いなく辿り着けるはず……そう思いながら、道がくねっていたりして前方が見通せないと、なんとなくわくわくします。



 線路沿いに歩くこと三分、観蔵寺(真言宗豊山派)に着きました。文明元年(1469年)の創建です。
 天文七年(1538年)、永禄七年(1569年)と二度にわたる国府台の合戦で焼失したとされていますが、承応二年(1653年)に再興されました。



 観蔵寺本堂。
 山門から本堂に到る短い間にガラス張りの寺務所があり、中年のご婦人がいるのが見えました。
 近年、著名人の墓参りをする墓マイラーという種族が出現して、勝手放題をした上、立ち去るので、迷惑を被っている寺院や霊園があるそうです。これが昂じると、実際に迷惑を被った寺院はもちろん、そうでない寺院も自衛のため、「檀家以外立ち入りお断わり」の標札を出すようになるのではないかと恐れています。

 このあと訪ねる予定の六か寺はすべて明暦の大火や関東大震災で被災しています。



 観蔵寺から四分で崇福寺前の交差点に出ました。



 崇福寺に参拝する前、交差点を左に入ると、大秀寺(浄土宗)があるので、そちらを先に。
 寛永五年(1628年)三月、宝誉林残上人(1600年-63年)が本郷湯島に創立。明暦三年(1657年)、江戸の大火で類焼して、浅草山谷に移りました。関東大震災に遭って、大正十五年、現在地に移転しました。 



 崇福寺(曹洞宗)。端正な構えの本堂です。
 慶長五年(1600年)三月、香山泰厳大和尚が江戸浜町に祟福庵という庵を結んだのが始まりです。同十八年、前橋城主・酒井雅楽守忠世の帰依により堂舎を建立し、祟福寺と称するようになりました。明暦三年(1657年)正月、江戸の大火で焼失、浅草松清町(台東区)に一三〇〇坪の地を得て移転、以来酒井家の菩提寺として栄えたが、関東大震火災にかかり、現在地に移ったのは昭和三年六月です。



 崇福寺境内の春ちゃん地蔵。
 かたわらに建てられた木札には、「浅草崇福寺跡地で発見された三百年前の地蔵形の墓石。二〇〇九年八月、浅草郵便局裏の寺跡地はマンション工事の為更地になっていました。呼ばれるように進み、手を合わせたその場所から、偶然にも関東大震災のあった九月一日に、掘り起こされて出てきました。浅草から移転の時に忘れ去られたお地蔵様が、八十年ぶりに日の目を見て、自分の寺に戻ることが出来ました。昔の墓石台帳にも載って居らず、水子供養のお地蔵様として祀られていたようです」と、ありました。



 我が宗派のお寺なので、墓地に入り、歴住のお墓に参拝させてもらいました。
 数々の大和尚の名を刻んだ墓碑がありましたが、日光の反射が強かったからか、永年の風雪に晒されて摩耗していたからか、まったく読み取ることができなかったので、取り敢えずはカメラに収め、帰ったあと、画像処理を施して読み取ろうとしましたが、結局読めません。



 源照寺(浄土宗)。崇福寺からはものの一分もかかりませんでした。
 寛永三年(1626年)、浅草蔵前鳥越付近に創立されましたが、明暦三年(1657年)、江戸の大火で類焼し、山谷の新鳥越(台東区山谷二丁目)に移りました。元禄の「蓮門精舎旧詞」には、山号院号を「円光山薫香院」、本寺を寿松院(台東区鳥越)とし、「開山照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚、生国山城国八幡園町、姓氏等不知。寛永3年起立、正保3年、移今地云々」と記されています。大正十二年、関東大震災で焼失、昭和三年、現在地に移転。



 源照寺から二分。聞明寺(浄土真宗大谷派)。
 天正十五年(1587年)、歓喜坊栄源という僧が下総国岡田郡横曽根村(現在の茨城県水海道市)に創立。慶長七年(1602年)、江戸桜田本郷の報恩寺内に移り、寛永七年(1630年)、火災で類焼して、東本願寺(旧通称東京本願寺)内に移り、安政二年(1855年)の大地震で倒壊。関東大震災被災後、昭和二年、現在地に移転しました。



 左横に廻ってみると、お盆休みで工事は中断されていましたが、どうやら曳家をするみたいです。



 理昌院(曹洞宗)は聞明寺の右隣です。
 慶安元年(1648年)の開創。もと浅草吉野町にありましたが、関東大震火災に遭って、昭和二年、現在地に移転。



 ここでも本堂左奥にあった歴住の墓所に参拝。



 乗願寺(浄土真宗大谷派)。
 寛永五年(1628年)、三河国から江戸神田筋違橋付近へ移り、明暦三年(1657年)正月、江戸の大火に類焼。寛文九年(1679年)、浅草松清町へ移転し、東本願寺(旧東京本願寺)の塔頭の一寺となりましたが、関東大震火災で焼失、昭和二年、現地に移りました。現在の本堂以下の建物は昭和四十五年に新しく建てられたもの、ということです。

 乗願寺から高砂駅までは十分足らずです。



 帰る前に煎餅の「はるすけ」に寄ります。高砂へくると ― といっても、一年か二年に一度くらいなのですが ― ここでお土産に煎餅を買って帰るのです。

この日、歩いたところ

 こうして高砂のお寺巡りは終えたのですが、さて、心してブログの更新に取りかかりますか、と思っていた十七日、左のこめかみにチリチリとした神経痛が出るようになりました。
 たまにチリチリッとくる程度なのですが、結構気に障って、結局その日はブログの更新はできませんでした。
 しばらく風邪をひいていなかったので、忘れていたみたいですが、多分これが風邪ひきの予兆だったのでしょう。
 十八日はチリチリ神経痛のつづき。
 十九日夜、やっとブログを更新。実際はこういうことなのですが、このブログの更新日時は高砂を歩いた当日の十五日ということにしておきました。

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2016年八月の薬師詣で・成田市

2016年08月08日 22時00分45秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では千葉県成田市。
 成田山新勝寺の薬師堂、薬王寺、醫王寺の三か寺に詣でます。




 出発前に地元の慶林寺に参拝して行きます。



 我孫子で成田線に乗り換えて、所要五十九分で成田駅に着きました。



「→成田山新勝寺」という掲示に従って、表参道を歩いて行きます。

 暦の上では立秋を過ぎたとはいっても、実際はまだ真夏です。台風5号が東海上を進んでいたので、強い風がいささかの涼をもたらせてくれていますが、真夏であり、暑いことはゆるぎもしません。

 そんな暑い日なので、観光客の姿はまばらです。まばらでも、成田駅を降り立った観光客らしき人々は多分全員が新勝寺を目指しているのでしょう。
 私は薬師詣でにきているのですから、純粋な観光客とはいえませんが、帰りにはお土産の一品でも買って帰ろうともくろんでいるのですから、成田市にとっては観光客なのであろうと思います。
 ただ、そんな観光客のなかで、新勝寺を目指さないのは私だけだったかもしれません。

 成田にきているのに、成田山に参拝しない。それは一千年以上も前の人-平將門に関係しています。
 東国に政権樹立をもくろんだ將門を征伐しようとした当時の朝廷(朱雀天皇)が、空海が彫ったという不動明王像を、寛朝という僧侶に持たせて、公津ヶ原で不動護摩供を奉修しました。やがて將門は戦死。それを悦んで拓いた霊場がいまの新勝寺だからです。
 私は生まれたときから將門贔屓だったわけではなく、將門や將門の家来たちの関係者でもないので、まだ將門と新勝寺の因縁を知らないころ、新勝寺の門前まで行ったことがあります。が、たまたまであったのかどうか、参拝したことはありません。




 新勝寺の薬師堂です。
 新勝寺には参拝しないと心に決めている人間が新勝寺の薬師堂に参拝していいのか。將門の無事息災を祈るのではなく、友や知人の無事平穏を祈るのだから、と普段の薬師詣ででは考えたことのないことを考えながら参拝を終えました。



 新勝寺の薬師堂から十分ちょっと歩いて、薬王寺に着きました。



 天台宗の寺院です。天台宗の総本山・延暦寺根本中堂の本尊は伝教大師最澄が手ずから彫ったといわれる薬師如来です。
 その天台の寺院で、寺号が薬王寺というからには薬師如来が祀られているはず、と思ってきたのですが、本尊は阿弥陀如来。薬師如来は祀られていませんでした。

 先ほどの薬師堂前に戻ってバスに乗らなければならないので、早々に退散することにします。
 二十分近い余裕があったので、慌てる必要はありませんが、次の目的地に向かうバス便は一日に五便しかなく、万が一逃すと、次にくるバスは二時間半後。今日計画していた行程を辿るのは諦めなければなりません。




 薬師堂前に戻って、バスがくるのを待ちます。



 待っていると、やってきたのはこんなバスです。
 成田市のコミュニティバスで、一区間乗っても、全区間乗っても、大人は¥200、子どもは¥100。

 乗客は十人ほどでした。私の前でバスを待っているように見えた二人は別のバスを待っていたようで、乗ったのは私だけでした。降りる停留所は「宝田小坂」です。
 十分ほど揺られているうち、一人降り、二人降りして、私を除くと客はわずか三人……となったところで、「次は宝田小坂……」。
 車内のアナウンスがそう告げた……と思います。

 停車のボタンを押して、降りたのは私だけ。
 降りてから、周りを見廻し、プリントしてきた地図をおもむろにバッグから取り出しました。目的のバス停であれば、斜め右前方へ入って行く径があるはずです。しかし、あるのは直角に右に入って行く道だけです。アリャアリャ、やっちゃったかも……と唇を噛みながら、バス停の標識を見ると、「宝田小坂」ではなく、「宝田小橋」で、ありました。

 次のバスがくるのは二時間半後です。降りるべきではないところで降りてしまったのですから、地図の用意はありませんが、同じ「宝田」とつくのだし、バスが走り去った方向に歩いて行けば、何分かかるかわからないが、早晩着くと思って、歩き出しました。
 歩くのは国道408号線。トラックや乗用車がビュンビュン飛ばして行きますが、救われたのは広い歩道があったことでした。二十分弱で着くことができました。




 本来降りるべきバス停はこの宝田小坂でした。
 ちょっとした上り坂の途中にあります。ちょっとしているから、小坂なのですね、と思いましたが、帰ったあと、バスの路線図を見たところ、宝田大坂も宝田大橋もありませんでした。




 バス停の手前で道は地図のとおり二股に別れていて、国道からはずれたほうの道を歩いて行くと、醫王寺がありました。無住ですが、天台宗の寺院です。
「成田市史・近代編史料集一」所収の「下總國下埴生郡。寶田村誌」には、「醫王寺は北方字邊田郭にあり。光照山と号す。同郡山の作村圓融寺末流なり」(原文はカタカナ)という記述しかありません。




 本堂の左にあった御堂です。屋根の形からして、この御堂が薬師堂であろうと思われます。中は見えません。薬師堂の前には賽銭箱がなかったので、本堂前に戻ってお賽銭をあげます。



 門前にはこんなものがありました。これこそほんとうのカラオケボックスです。

 しかし、どうも営業しているようには思えないし、そもそも周辺にパラパラと家はあっても、集落と呼べるようなものではありません。
「カラオケはあるけれど、かける機械は見たことねェ」ではないけれど、「カラオケはあるけれど、使う客は見たことねェ」のかもしれません。

 これで今日の予定は終了です。
 午後二時半です。帰りのバスがくるのは十五時九分。四十分近い余裕があります。考えてみると、バス停の名を聞き違えていなければ、二十分早く着いていたので、一時間もの空きができるところ、二十分短縮することができた、と前向きに考えることにしました。

 地図に目を落とすと、直線距離で4~500メートルほど離れたところに正福寺というお寺があります。真言宗智山派の寺院というだけで、どんなお寺なのか、なんの予備知識もありませんが、四十分という空き時間を過ごせるようなところはありそうもないので、訪ねてみることにします。




 十分ほどで正福寺に着きました。無住、集会所のような建物です。
 先の醫王寺と同じ「成田市史近代編史料集一」所収の「千葉縣下總國下埴生郡下福田村誌」には「正福寺は本村南方に在り、之亦旧記なし建立不詳」という記述があるのみ。




 本堂左手に小堂がありました。



 中を覗くと、右にはボロボロになっているので、判別もつきませんが、じっと見詰めていると、何体か欠けていますが、なんとなく十二神将のように思えます。



 本堂の後ろに廻ると、こんな急な石段がありました。
 裏参道のようですが、どこへ行くのかわからないし、こんな急な石段は上りたくもないので、パスします。



 この石段もどこへ通じているのかわかりません。



 帰路は違う径を歩いてみることにしました。途中にあった電柱に利根川が氾濫したときの注意書き。利根川までは4キロほどあります。



 電柱の見上げるほど高いところに記された青い線。見えにくいのですが、画像の中央あたりです。この線が利根川が氾濫したときに予想される水位です。



 正福寺から十分弱で宝田小坂の一つ手前-下福田のバス停に着きました。
 くるときのバスは四分遅れていました。そのバスがそのまま戻ってくるのだろうと思われます。どんなところで折り返してくるのかわかりませんが、帰りのバスも律儀に四分遅れでした。

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