桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

綾瀬を歩く

2011年08月30日 22時00分17秒 | 寺社散策

 足立区の綾瀬というところに所用ができたので出向き、終わって帰るまでのひととき、例によってお寺を巡って歩きました。


 所用があったのは綾瀬駅からバスで三つ目の五反野小学校というところでした。
 そのバスの行く先は西新井駅だったので、所用を済ませたあとは、名前だけは知っているが、まだ行ったことのない西新井大師へ……とも考えたのですが、夏バテを起こしているのかどうか、このところちょっとした用事でも、それを済ませると、それだけで一日が終わったような気になってしまって、「ヨッシャ!」という気力が湧きません。
 それでも、折角近くまできていたのですから、どうしようかと迷いながらバス通りに出たら、綾瀬駅に戻るバスがきたので、西新井へ行こうかと考えていたことはどこかにすっ飛んで、とっさに乗ってしまいました。

 とはいえ、無目的に戻ったわけではありません。
 場所は綾瀬駅を挟んで南と北と分かれていますが、南には薬師寺といって、その名のとおり薬師如来を祀る寺があり、北には龍慶寺といって、いまはどうなっているのかわかりませんが、昔は日限(ひぎり)薬師如来を祀っていたという寺があるです。
 そこで、西新井大師に行くのは日を改めることにして、綾瀬のお寺巡りをすることにしました。




 綾瀬駅から歩くこと十分少々で薬師寺に着きました。
 寛永九年(1632年)の創建。常陸国根本村の佐右衛門という人が先祖伝来の不動明王を背負い、諸国遍歴の途次、この地に不動院という寺を開いたのが始まり、と伝えられています。
 のち、当地にあった薬師如来を安置する仏堂を付属堂とし、近隣に同じ不動院という寺院があったので、薬師寺と改称した、とあります。

 


 薬師寺本堂(画像上)と薬師堂(下)です。
 薬師堂の薬師如来は眼疾に効験があり、水戸光圀が江戸参府の折、ここに参詣して眼の痛みを治したと伝えられています。



 薬師寺参拝を終えて、龍慶寺に向かいます。ずっと首都高速三郷線を見上げながら歩きます。

 左手には綾瀬川が流れていますが、道路より水面のほうが高いので、堤防に上らないと川を見ることはできません。



 五兵衛橋が架かるところで堤防に上ってみました。



 常磐線のガードをくぐって龍慶寺に着きましたが、生憎本堂は修復工事中でした。
 創建は正保三年(1646年)。開山は春日部市小渕にある浄春院第七世だった天室秀梵、開基は牛込五郎兵衛という人。本堂内には、本尊の釈迦三尊坐像をはじめ、薬師如来・閻魔王・不動明王・誕生仏などが安置されています。
 昔四月八日を縁日として栄えた日限薬師如来の碑があるとのことでしたが、どこにあるのか見つけられませんでした。

 綾瀬駅北側には「U」の字を伏せたような形に拡がる東綾瀬公園があります。
 点在する広場が綾瀬駅から遊歩道がつないでいます。かつては水田だったそうです。区画整理事業から生み出された土地が公園に姿を変えました。
 公園の全長は約2キロもあり、園内には、サクラ、ラクウショウ、モミジバフウ、ツツジなど季節感を味わえる樹々が植えられています。



 北口から入りました。

 水車があり、水も流れていましたが、水車は回っていませんでした。



 公園西側の散歩道沿いには、花畑川を水源とするかつての農業用水を生かしたせせらぎが流れ、健康遊具や多目的広場などが設置されています。また、公園北側周辺には緑に囲まれた各種の運動施設があります。現在、三世代スポーツ公園として野球場、テニスコート、武道館、温水プールなどを備えており、年齢を問わず楽しめる公園としても脚光を浴びているということです。
 
 

 東京武道館を右手に見ながら綾瀬駅へ戻ります。東京武道館は1988年三月着工、89年落成。


サルスベリ(百日紅)を見に行く

2011年08月10日 22時44分14秒 | 風物詩

 鎌倉に棲む知人から「長谷寺のサルスベリ(百日紅)が満開です。桔梗も咲いています……」という残暑見舞いをもらいました。
 この人と知り合いになったのは私が浅草の住人だったころ、隅田公園の花見に興じた日でしたから、十年越し……ということになります。
 いつだったか寒中見舞いをもらいましたが、私は返事を出したかどうか……。何年も暑中寒中見舞いのたぐい、年賀状のたぐいをもら
っていなかったのに(私のほうでも出しませんでしたが)、去年、いまの住まいに転居したので、葉書を出しておいたら、思い出したように花の便りをくれたのでした。

 花の便りをしたためてくれたのには伏線があります。
 毎年毎年春がきて、ハナカイドウ(花海棠)の咲く季節が近づくと、今年こそ鎌倉の光則寺に花海棠を見に行こうと思いながら見に行けない。
 隅田公園で知り合ったときに、そんな話をしたからです。

 ごみ出しに出た朝、近所の事情通にバッタリと出会ったので、鎌倉の百日紅が満開らしいと話すと、鎌倉の百日紅は見たことがないが、松戸にも名だたる樹があるらしいのですよ、という話を聞くことになりました。
 名だたる樹があるのは本法寺という日蓮宗の寺で、松戸市内の巨樹古木を紹介する市のホームページに載っているということなので、早速覗いてみると……。

 市の保護樹木になっていて、樹高は4メートル、幹周り1・6メートルとありましたが、樹齢の記載はありませんでした。
 場所は和名ヶ谷(わながや)という市の南東部で、武蔵野線の東松戸か、東松戸で北総鉄道に乗り換えて一つ目の秋山が最寄り駅。我が庵から行こうとすると、二回もしくは三回の乗り換えを強いられるので、ちょっと不便です。
 松戸市内の寺は大体巡り終えている私ですが、南東部と南西部には行っていないところが残っています。それもこれも我が庵からだと交通の便がいま一つであるため。

 これまで行ったことのないところなので、ヒントをもらったからには早速行ってみたいと思ったのですが、まあ、ともかく連日の暑さで、その暑さの中を出かけて行くのはちょっとばかり腰が引けてしまいます。しかし、暑い盛りに咲く花なのだから、暑い盛りに見に行くのが道理なのではないか、と思い直して腰を上げました

 今年は熱中症が猖獗をきわめているので、近くのスーパーへ買い物に行ったとき、「おお、そうじゃ」と思って売場に行ったのですが、テレビCMで視た「しろくまのきもち」というネッククーラー(サマースカーフ)は生憎売り切れでした。
 ところが、違うメーカーのものがふんだんに並んでいたので ― 一方が売り切れなのに、別のメーカーのものはふんだんにあるという現象は「?」と疑ってかからねばならないのですが ― 「あったあった!」という悦びのあまり、買ってしまったのです。悦んだのは「しろくま」より断然安かったからでもあります。
 水を入れた洗面器に浸すと、中に仕込んである物質が水を吸ってふくらみ、それを首に巻けば、ひんやり涼しく感じるという代物。で、買ってから二度三度使いましたが、どうにも涼しいとは思えない。暑い盛りの今日のような日こそ最適な出番なのですが、効き目はなさそうです。
 安物買いの銭失い、とは、こういうことです。 代わりに冷凍庫で凍らせた保冷剤を手ぬぐいで巻いた手製のネッククーラーをこしらえました。

 そのことはともかく、東松戸駅で降り、駅舎の日陰になっているところにしばしたたずんで、首に手製のネッククーラーを装着して歩き出しました。
 駅を出ると、しばらくはただただだだっ広いだけの道がつづきます。宅地造成に向けてつくったような道路ですが、家があるのは道の北側だけ、南側は空き地か野っぱらが延々とつづいていて、強烈な陽射しを遮ってくれるものがありません。
 遠く近くに丘が見えて、そこには樹が繁っているようですが、大雑把にいえば、およそ木陰とは無縁の町でした。
 道は途中から細くなって、下り坂になります。一応舗装されていますが、昔ながらの農道のようです。



 坂を下り切ったところ、国分川が流れていました。

 川を渡ると、前方に小高い丘が見え、木立の中に寺院と思われる大きな屋根が見えてきました。目指す本法寺です。



 東松戸駅をあとにして、二十六分で着きました。

 境内にある本法寺縁起によると、大同二年(807年)、弘法大師が巡錫して通源寺を創建したのが始まり。建治三年(1277年)、時の住職が日蓮聖人の直弟子・日頂聖人の説法に感銘を受けて、日蓮宗に改宗、名を本法寺と改めました。



 サルスベリ(百日紅)がありましたが、圧倒されるような高さでもありません。猛暑を突いてわざわざ行ったのですから、ちょっとがっかりでした。

 暑い中を折角出かけてきたのですから、少し足を延ばしてみようと考えて、行きに渡ってきた国分川河畔に降り、下流に向かって歩いてみました。

 本法寺から二十分以上歩いて、胡録神社へやってきました。去年、バスで通りすがりに窓から眺めたことがあったのですが、そのときは、奥に見える石段が随分高いように思えたのですが、改めて眺めてみると、それほどでもなさそうです。



 しかし、鳥居をくぐって徐々に近づき、石段を目の前にすると、やはり高い。いつごろつくられたものなのかわかりませんが、高いだけでなく、石段がところどころずれたり傾いたりしています。

 恐る恐る上って拝殿前に着きました。慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣で小金城にゆかりの秋山越前守虎康が戦死者を弔うために出家し、このあと訪れる本源寺を開山しますが、その際、この地の守護のため、大六天を祀った祠がこの神社の発祥といわれています。

 胡録神社の参道に並んで、本源寺の参道がありました。日蓮宗の寺。
 境内に入ると右手に幼稚園がありましたが、夏休み中なので静かなものです。



 近くにはこんな住居がありました。一階が駐車場、二階が居室になったアパートのようですが、なんとなくかつては厩(うまや)だったのではないか、という気がしたのでカメラに収めました。



 これも由緒がありそうな家 ― 大きな門です。

 胡録神社の参道前に京成バス(松戸駅~市川駅)の停留所がありましたが、時刻表を見てみると、バス便は一時間に二本しかありません。
 一つ先 ― 大橋という停留所まで歩けばもう一系統ふえるので、歩くことにしました。



 こうして昼を過ぎたころには北小金に帰ってきてしまったので、北小金駅から徒歩二十分ほどのところにある寶蔵院のサルスベリを見に行きました。




 枝ぶりは本法寺のものと較べて遜色ないように思えます。ただしこの寶蔵院があるのは流山市。

 

 私が持っている歳時記を見ると、サルスベリの花の色にはピンク、紫、白と三種があるようです。
 紫はどこかで一本だけ見た記憶がありますが、それ以外には見たことがないので、本当に見たのかと自問し始めると、幻であったのかもしれぬ、という思いがしないでもありません。それに、「どこか」というのはどこであったか記憶がないのです。ピンクには画像のように濃い色と薄い色があるので、濃い色を紫といっているのではないかという気もします。



 白色はいろんなところで目にしたつもりでしたが、いざカメラに収めようと思って捜すと、なかなかありません。やっと見つけることができました。




 本土寺の参道は蝉時雨でした。暑いので、観光客はむろんのこと、買い物に行ったり、もろもろの用だってあるであろう地域住民の姿もありません。


2011年八月の薬師詣で・港区(2)

2011年08月09日 21時04分08秒 | 薬師詣で

 私がブックマークをさせていただいている丸山劫外師が「中国禅僧祖史伝」という著書を出版されたので、曹洞宗の宗務庁へ買いに行くついでに、寺巡りをつづけて行きます。宗務庁は芝公園近くにあります。



 曹洞宗伝叟院。大本山総持寺の東京出張所です。愛宕トンネルの東口にあります。



 曹洞宗青松寺です。道路を隔てて撮影。江戸時代は總泉寺、泉岳寺と並んで江戸府内の曹洞宗寺院を司った江戸三箇寺の一とされていました。
 文明八年(1476年)、太田道灌が現在の麹町に創建。江戸城の拡張に際して現在地に移転。
 境内には幾多の人材を輩出した「獅子窟学寮」がありましたが、明治九年、赤穂四十七士の墓がある高輪の泉岳寺学寮、駒込の吉祥寺学寮と統合され、今日の駒澤大学へと発展しました。
 こんなお寺があるとは知らず、道路の反対側に港区役所が見えたので、観光パンフレットのたぐいでも手に入れんものと道路を渡ってしまったあとに気づいたのです。
 近場に横断歩道はなく、センターラインにはとても飛び越せないような柵があったので、帰りは向こう側を通って参拝して行こうと考えたのですが、この日の東京の最高気温は33・2度という猛暑でした……帰るときには、寄ろうと思ったことをすっかり失念しておりました。



 かつての増上寺境内に遺る有章院(七代将軍・徳川家継)霊廟の二天門です。両側に立つのは金剛力士ではなく、左に広目天、右に多聞天(毘沙門天)の二天です。



 曹洞宗宗務庁出版部に着きました。



 無事「中国禅僧祖師伝」を入手しました。



 帰りは増上寺に寄って行きます。
 増上寺の入口に当たる旧大門です。
 慶長三年(1598年)、江戸城内にあった増上寺を芝に移転させる際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、寺の表門として徳川家康から譲られたものでした。
 大正十二年の関東大震災に遭って倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されたのですが、昭和二十年の空襲で焼失してしまいました。

 この門のあるあたりの地名を大門といい、都営地下鉄の大門駅がありますが、その由来になっている門です。現在の門は国道の通行整備のため、昭和十二年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものです。



 三解脱門。三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。いまは増上寺の表門のようになっていますが、実際は中門です。
 増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり、東日本最大級を誇る門です。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622年)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。



 三解脱
門前に掲げられた今月のことばです。




 三解脱門の左側、寺務所や浄土宗の宗務庁などがある区域の入口・旧方丈門(黒門)です。慶安年間(1648年-52年)の建立。



 鐘楼。高さ1丈(約3メートル)、重さ四千貫(約15トン)。
 最初の鐘楼堂は寛永十年(1633年)に建立されましたが、現在の鐘楼堂は戦後の再建によるものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)にあまりの大きさに、七回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級といわれております)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。朝と夕べに撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあるといわれています。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」などと謳われ、江戸っ子鐘と親しまれていました。



 大殿と呼ばれる本堂です。前面の石段は二十五段。後ろにそびえるのは東京タワー。
 大殿右後ろに徳川家霊廟があります。徳川将軍十五代のうち、家康、家光、慶喜(谷中墓地)の三人を除く十二人は増上寺と寛永寺に六人ずつ葬られています。
 増上寺に墓所があるのは、二代秀忠、六代(家宣)、七代(家継)、九代(家重)、十二代(家慶)、十四代(家茂)と地味な人ばかり。

この日、歩いたところ。


2011年八月の薬師詣で・港区(1)

2011年08月08日 22時31分53秒 | 薬師詣で

 毎月八日は薬師詣での日と決めて、薬師如来が祀られている堂宇を捜して詣でることに決めていますが、今月は「瓢箪から駒」のようなことがあって、薬師如来の縁日らしい縁日に初めて出会うことができました。
 場所は東京・芝愛宕にある真福寺。真言宗智山派のお寺です。
 落語の三題噺のようになりますが、きっかけをつくってくださったのは、私がブログをブックマークをしている丸山劫外師です。

 七月……せっかく涼しい日々があったというのに、季節外れの涼しさに祟られたものか、なんとなく調子の悪い日々を過ごしていました。
 パソコンに向かうことも稀で、自分のブログを更新することはもちろん、人様のブログを訪問するのも間遠になっていました。そういうときに、たまたま丸山師のブログを訪問して、師が曹洞宗宗務庁出版部から「中国禅僧祖師伝」という著書を出されたのを知りました。
 早速購入、と思ったのですが、書店には並ばず、郵送してもらうか、宗務庁へ出向かないと手に入らないという本でした。

 曹洞宗の宗務庁出版部は港区の芝にあります。
 東京に住んでいたころと違って、千葉県民となったいまは、芝というのはちょっと遠い感じがして、ほかの用事であれば二の足を踏むところでしたが、ふと思い出すことがあったので、宗務庁へ出向くことにしました。

 芝と聞くと、私はなぜか真っ先に増上寺を思い浮かべます。人によっては増上寺なんかより東京タワーであり、プリンスホテルであり、あるいはまたリンリンランランの留園なのですが、私は浄土教の信徒でもないのに増上寺なのです。
 増上寺では毎週日曜に「日曜大殿説教」というお説教があります。大殿というのは増上寺の本堂のことです。

 もう二十年以上も前のことになります。

 品川区内にある浄土宗のお寺の住職だった某師にお話を伺う機会を得ました。どんなことであったか、内容はすっかり忘れています。
 私が面識を得た直後、その某師は増上寺の教務部長に就任されました。教務部長の仕事の一つに、増上寺の山門(三解脱門)前に「今月の言葉」を掲げるという仕事があります。

 教務部長に就任されたと聞いて、
どんな言葉を選ばれるか、一度見に行きます」
 と電話をすると、

「どうせなら日曜日においでになりませんか。日曜大殿説教がありますので……」
 というお誘いを受けました。

 そんなやりとりをしながら、忙しさにかまけて行くこと叶わず、いつの間にか二十年以上が経ってしまったというわけです。

 ふとしたことでもご縁はご縁。すでに職は退かれているだろうけれども、日曜大殿説教を聴きがてら、宗務庁へ、と思いました。その後、説教があるのは日曜日なので、曹洞宗の宗務庁出版部は休み、ということに気づくのですが……。

 で、今月八日は何曜日であろうか、というと-月曜日です。宗務庁は開いていますが、増上寺の催しはありません。どちらが大切か、などと比較すべきものではありませんが、増上寺は参詣するだけにして、霞が関へ向かいました。
 芝にある宗務庁を訪ねるのに、なぜ程遠い霞が関なぞへ向かったのかというと、八日は薬師如来の縁日です。薬師如来をお祀りする真福寺に参詣して行くことにしたのです。



 地図を見ると、真福寺は愛宕神社のすぐ近くです。
 まだお寺巡りに感心を持たなかった若きころ、まして薬師詣でなど思いも及ばぬころ、虎ノ門から愛宕神社にかけての一帯は仕事でしばしば歩いています。愛宕神社には行きませんでしたが、NHKの放送博物館があることと、曲垣平九郎が馬で駆け上ったという石段があることは思い当たりますが、お寺があった、という記憶はありません。行ってみると、お寺は八階建てのビルとなっていました。
 慶長十年(1605年)、徳川家康より愛宕下に一三六〇坪の土地を賜り、照海上人によって開創されました。真言宗智山派の総本山・京都智積院の東京別院でもあります。



 石段を上り詰めると、法要があることを示す五色幕がかけられていました。

 

 本尊の薬師如来と日光・月光両菩薩です。
 堂内は暗かったので、我がデジカメでは上手く撮せません。真福寺のホームページから拝借しました。




 門前にあった掲示板には。今月(八月)のご縁日は「八日(月)でございます」と張り出されています。
 薬師如来の縁日は八日、ということを、どこで知ったのか、すでに憶えがありません。憶えがありませんが、今年一年間、毎月八日に薬師如来をお祀りしているお寺やお堂を捜して参詣をつづけてきました。ところが、今年一月八日を皮切りに先月八日まで計七回、お寺や薬師堂を巡りましたが、法要というものに出会ったことがありません。もしかしたら、縁日は別の日なのに、勘違いをしてお参りをしてきたのではないか、と首を傾げたこともありましたが、初めて裏づけを得たような気になって、なんとなくホッとしました。




 参拝を終えて、愛宕神社へ上ってみることにしました。真福寺のすぐ横に坂道の参道がありますが、愛宕神社に参るといえば、曲垣平九郎が馬で駆け上がった出世の石段を上らなければならないでしょう。



 参道入口を通り越して少し歩くと、やや奥まったところにその石段がありました。
 真下へ行くと、仰ぎ見るような急傾斜で、八十六段もあるそうです。段数はさておくとしても、この急角度では、高所恐怖症を持つ私にはとても上れそうもありません。

 近隣の散歩でたまに渡ることのある常磐線の跨線橋(段数は四十五、六段)ですら、ちょっと風の強い日だと身のすくむ思いのすることがあるのです。その倍近くあるのですから、とても上り下りすることなどできません。

 すごすごと引き返し、先に見た坂道の参道にとりついて、山を半周する形で頂上に上りました。愛宕山の標高は25・7メートル。



 愛宕神社は頂上にありました。
徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られた神社です。後年、水戸浪士が井伊直弼を討つ桜田門外の変の前に集結した場所であり、また勝海舟と西郷隆盛が山から江戸の町を見渡し、江戸の町を戦火で焼失させてしまうのは忍びないといって、江戸城の無血開城へ進んだという場所でもあります。
 イギリス人写真家・フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮った写真が遺されていますが、高いビルのなかった当時は見晴らしがよかったのでしょう。築地の本願寺やお台場なども映っています。



 讃岐丸亀藩士・曲垣平九郎の顔ハメ看板がありました。



 もう一つありました。西郷隆盛と勝海舟です。



 奥に小さな滝があるようですが、見えませんでした。すぐそばに平將門の乱の折、源経基がここ(児盤水とも小判水とも)で水垢離をし、愛宕の神の加護によって乱を鎮めたと言われる伝説の池、という説明板が建てられていました。

 さて……上りは尻尾を巻いてしまった石段ですが、下りはいかに? と覗いてみると……。



 急峻です。やっぱり下りられそうもない。



 NHK放送博物館。
 帰りも女坂を下って、宗務庁と増上寺を目指します。〈つづく〉


小事件

2011年08月05日 17時06分30秒 | 日録

 昨朝、ちょっとした事件がありました。
 五時半過ぎのことです。
 その物音で目覚めたのか、目覚めたばかりで、まだ意識がぼんやりしていたときにその物音を聞いたのか、いまとなってはハッキリしませんが、アパートの外階段を、何か重いものがドタドタと転がり落ちるような、異様な音を聞きました。
 なんだろうと思いながら布団に寝そべっていました。それきり音はせず、静まり返っていましたが、なんとなく気に懸かるものがありました。

 昨朝は空き瓶・空き缶をごみに出す日でしたが、先週出したばかりなので、出すものはありません。朝の散歩は日課にしていますが、目覚めてすぐ出かけるというようなことはありません。
 しかし、物音が気になって仕方がなかったので、起き上がって冷たい水を飲んだあと、コーヒーを飲んでから、音の正体を確かめるために、散歩に出ることにしました。
 道路に出ようとすると、同じアパートに棲むKさん(老嬢)が階段の脇にいて、落ち著かない様子でウロウロしていました。Kさんがときおり見上げているほうを見ると、階段の中ほどに、頭から血を垂らし、右手も血まみれにしたSさん(やはり老嬢)がうずくまっていたのです。
 Sさんは七十代後半、一階に棲んでいる私の真上の部屋の住人です。

 地面を見ると、多量の血が流れていました。多分頭から落ちたあと、独力で部屋に戻ろうとしていたのでしょう。
 私は急いで階段を上り、抱きかかえようとしましたが、目の前にSさんの顔を見て、そこに大量の血がベッタリとついているのを見たときには、思わず臆してしまいました。

 縁があって日本赤十字社の講習を受けたことがあり、AEDの使い方や三角巾の使い方を学んでいましたが、とっさの場合はただただ動転するばかり、とくに血を見たりすると、なんの役にも立たぬ、ということがわかりました。
 大体狭く急な階段で人間を抱きかかえようとすると共倒れになりかねません。しばし考えた上、下から彼女の臀部を突き上げるようにして、なんとか部屋に戻し、119番しました。
 普段の散歩では携帯電話など持って出ませんが、この日は何か報せるものがあったのか、持っていたのです。

 救急車がやってくるまで十数分。
 三人の係官が乗ってきて、Sさんの部屋に入って行きましたが、Sさんの両足と両脇を二人がかりで抱いて出てくるまで、随分長い時間が経過したように思います。



 Sさんには一人だけだが身内がいて、Sさんが自分で連絡するといっている、と先に出てきた係官が教えてくれました。

 やがて
怪我人は救急車に収容されたので、とりあえず私たちがすることはなくなりました。血が出ているので、重傷のように見えますが、心配されるのは怪我より頭を打っているらしいということです。
 何日かしたらKさんにでも連絡があって、私にも知らされるということになるのでしょう。

 救急車を見送ったあと、散歩に出ることにしました。



 我が庵から歩いて三分ほどのアパート前にいる黒猫殿です。
 ずっと前(日記を読み返してみると、およそ半年前)、一度だけ餌を与えたことがあります。いつもの散歩コースとは逆方向にある径なので、滅多に通ることがありませんでしたが、一昨日、久しぶりに通って見かけました。そして、そういえばここに猫殿がおりましたな、と思い出しました。

 昨朝も通ったら、寝そべっていた身体を起こして立ち上がりました。
 初日は餌を置いても、動こうとはしませんでした。私が帰りかけると、ようやく食べてくれましたが、私が振り向くと、食べるのをやめて私のほうを見ていました。
 昨日は私が見ている前で食べるようになりましたが、なにゆえに縁なきそなたが我に餌を与え賜うのか、と不思議そうな表情を私に向けることは変わりません。



 奇妙な白粉花(オシロイバナ)。
 一つの株なのに、黄色の花と赤色の花を咲かせています。そしてところどころに黄色と赤の混じった花。



 昨日の富士川上空。夏らしい雲の下に雨雲がありましたが、雨は降りませんでした。



 遠くから見たときは人間かと思い、あまりにもたくさんの数の人間がいるので、ちょっとギョッとしましたが、近づくのにつれて案山子(かかし)だ、とわかって……。
 茶髪をしていて結構リアルですが、雀や鴉に効き目があるのでしょうか。何枚もある田んぼの中で、案山子を立てているのはこの田んぼだけです。

 このあたり(流山市前ヶ崎)の放射線量はどんなものでしょうか。
 近辺の数値から推測すると、収穫しても出荷できないということは、いまのところはなさそうですが、我孫子市長、柏市長と周辺では舌禍が目立っています。



 こちらは毎度おなじみの小春です。相変わらず旺盛な食欲。



 四十日ぶりに見かけたうさ伎(うさぎ)です。
 例によって腰を下ろした私の周囲を何度も回ったあと、餌を食べ始めましたが、途中で放り出して、かなり真剣な表情をして身構えた、と思ったら……。



 10メートルほど離れたところにこんなのが現われました。首輪をつけていました。
 散歩途中の飼い主が周りに人がいないと思って、瞬時リードを外したのかと思いきや、いつまでも姿を現わす気配はありません。
 私のほう、というより、うさ伎のほうに向かってくるような気配であったので、うさ伎への手出しは無用、とばかり男気を奮い立てた私が立ち上がったからか、この犬殿はそれ以上近づこうとはせず、かといって立ち去ろうともしません。



 常磐線のガードをくぐり、平賀川を渡ると流山市から松戸市に入ります。
 平賀川に架かる橋を渡ってすぐの駐車場。十五匹の猫を飼っている老嬢の元を離れて、ただ独り、旅のわらじを履いたミーです。そのくせ旅には出ずに、すぐ隣の駐車場で暮らしています。



 こちらは老嬢が飼っている十五匹のうちの二匹-マユ(左・♂)とヒロ(♀)の兄妹そろい踏み。
 ヒロは母親に成り立て……おっぱいを出さなければならないので、非常に食欲旺盛です。私はヒロには多めに餌を置いてやるのですが、いつもあっという間に食べてしまってマユのぶんを横取りします。
 横取りされてもマユは怒るようなことはありません。よき性格をしています。十五匹の中では私と一番の仲良しで、私を見ると必ず一声鳴いて近づいてきて、尻尾を真っ直ぐに立てて身体をすり寄せてくれます。

 昨夜、ウトウトとしかかったとき、上の部屋で物音がしました。老嬢が帰ってきたのかと思いましたが、老嬢にしては足音が少し荒々しい。朝がきたら、と思っていたら、今日は物音一つしません。
 Kさんによると、身内というのは弟さん、ということなので、姉に頼まれて荷物をとりにきていたのかも……。