桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

ご無沙汰……でした

2012年01月31日 23時41分22秒 | つぶやき

 ご無沙汰……でした。じつに久々にブログを更新しました。

 久々となった理由はもろもろあります。
 第一はところを変え種類を変えて襲いくる身体の変調です。持病のようになった胃潰瘍とリンパの循環不全が徐々に快方に向かうようになった矢先、別の症状-それもいろいろ-が出てくるようになりました。
 
もう一つはテレビの地デジへの移行と、それに関連して起きたインターネットの切断が随分長期間つづいてしまったこと。さらにもう一つはPCの変調……。
 これらが同時期に起きたのだったら、ブログの復活も早かっただろうと思うのですが、インターネットが切断されて、再開通を待っていた間はわりと体調もよかったので、毎月八日の薬師詣でをはじめ、いろんなところにせっせと出かけたのに、再開通の日を迎えるころから体調が徐々に下り坂を転げ始める、という巡り合わせの悪さ。
 寝込んでしまって起き上がるのもままならぬ、というのではありません。朝を迎えると布団から出ますが、すぐに気分爽快とは参らず、グズグズしているうち、別の変調が出始める……テナ具合で、いつの間にか年も改まっていました。
 やっと体調が持ち直して、サテサテ、溜めに溜めていた事柄をブログに仕立て直して、イザ更新……と思うと、またインターネットに繋がらない。
 最初のうちは、堺すすむよろしく「なぁーんでか」と余裕をこきながら、電源を切ってみたり入れてみたり……ケーブルを抜いたり挿し直したり……などとやっておりましたが、接続できません。
 ふと思い直して、お蔵入りにさせていたノートPCを出して繋いでみました。すると、摩訶不思議なことに繋がります。デスクトップPCのほうは一時期虫の居所が悪かったのだ-そう思って再度ケーブルを繋ぎ直してみると、やはり繋がらない。
 で、再びノートPCに……。ところがこのノートPCは液晶のバックライトがいかれているので、一定の角度しか画面が出ません。さらにマザーボードもいかれているので、キーボードがいうことを利きません。文章を書こうとしても、苛々が昂進するだけで、うまく行かない。
 どうやらデスクトップPCが変なのだとわかりました。そのPCは富士通製です。電話をして宅配便に引き取りにきてもらい、しばらくして修理見積もりの連絡がありました。それから二週間……

 今朝、庭に目白(メジロ)のつがいが遊びにきました。隣室との境に植えられている、赤い実をついばみにきたようです。
 葉が小刻みに揺れるのを窓越しに見て、なんだろうと立ち上がって気づきましたが、窓を開ければ逃げられるのに違いないので、じっと見るだけでした。よって、画像はありません。
 赤い実をつけた樹は、私が引っ越してくる前からあったものです。去年の冬も赤い実を見たので、万両か千両か、ともかく藪柑子のたぐいだろうと思っていましたが、メジロが去ったあと、葉を一枚摘んで植物図鑑と照合してみると、万両、千両、百両、十両、どれも当てはまらない。

 寒さは相変わらずですが、天気がよかったので、近辺の散歩に出ました。

 ここは日陰になっていて、多分太陽が一度も射したことのない道です。通る人もあまりいないので、雪かきもされていませんが、私の散歩コースの第一歩です。
 一週間も前に降った雪が根雪となって残って、融けそうな気配はまったくなかったのに、陽も射していないのに、氷と化した端っこが融け始めていました。



 本土寺裏の急坂を下り、ほんの少し歩いたところで初めて見た猫殿です。
 いっぱいの陽射しを浴びて、いかにも暖かそうです。散歩のときはドライキャットフードを詰めたタッパーウェアをトートバッグに忍ばせています。それを取り出して、カシャカシャと振ってみましたが、この猫殿はそれが餌の音だとは知らないので、動じる気配はありません。見たところ、この家には三匹の猫が飼われているようでした。

 いつも私が散歩するコースには猫スポットが五か所あります。庵を出て最初にあるスポットを過ぎると、本土寺の裏手にある石段か坂を下らなければなりません。そこから次のスポットまでは、少し距離があるので、筑波山を望める高台に出るか、富士川の土手に出るか、と通るところは日々気まぐれです。
 この猫殿のいる家はどっちへ行くか、その二股にあります。いつも雨戸が閉まっているし、表札にはガムテープが貼られているので、空き家かなァと思いながら見過ごしていた家でした。猫がいるのに気づいてよくよく見れば、一か所だけ申し訳程度に雨戸が開けられていました。
 ついでながら……不景気だからか、それとも我が庵周辺だけの特異な状況なのか、空き家が非常に目立ちます。中には雨戸の戸袋が破れたまま放置されている家もあります。

 このあと富士川べりに出ます。
 川に近づくと風が覿面に強くなり、冷たくなります。葉ノ木橋という橋で富士川を渡り、松戸市から流山市に入ります。葉ノ木橋か上流に架かる羽中橋で川を渡るのがいつもの散歩コース。寒いけれども天気だけはいいので、土手の上をたくさんの人が散歩したりジョギングしたりしています。



 遠くから見ると、こんなところに釈迦頭(シャカトウ)が! と小躍りしながら近づいてみたら、釈迦頭の実にしては小さすぎるし、第一熱帯から亜熱帯にかけてしか見られない樹があるはずはない。
 庵に帰ったあと、樹木図鑑ひもといてみたら、どうやら三椏(ミツマタ)のようです。



 蝋梅(ロウバイ)の高木。樹高は4メートルほどあります。



 十数匹の猫殿が暮らすアパート。ここは最後の猫スポットです。
 窓に去年九月に生まれた仔猫三匹のうちの一匹が姿を現わしました。



 ほかの猫たちに餌を置いたら、一丁前に首を突っ込んできましたが、まだ成猫用の餌は食べられないようです。外に出られるようになっているとわかっていたら、仔猫用のミルクを買っておいたのですが……。


守谷落ち穂拾い(2)

2012年01月25日 19時25分56秒 | 寺社散策

 守谷落ち穂拾いの〈つづき〉です。



 糺の森薬師堂前から五分歩いて八坂神社に着きました。守谷の総鎮守です。
 大同元年(
806年)、天の窪と呼ばれる地(現在の高野地区本宿)に牛頭天王宮が祀られたのが始まりとされています。



 八坂神社から五分で雲天寺に到着しました。天正三年(1575年)、載蓮社乗誉上人が創建した浄土宗の寺です。
 累(かさね)の霊を鎮めたという祐天上人(1637年-1718年)ゆかりの寺です。祐天上人は増上寺三十六世で、江戸時代を代表する呪術師です。
 その祐天上人にまつわる伝説に「累物語」があります。

 下総の羽生村(現在の茨城県常総市羽生町)に累という娘が住んでいました。与右衛門という旅の男を婿に迎えますが、財産だけが目当てだった彼は累を川に突き落として殺してしまいます。
 与右衛門は新しい妻をめとり、菊という娘が生まれました。
 ところが、累の怨霊が菊に乗り移り、狂乱してしまうのです。
 そこへ現われたのが祐天上人で、一心不乱に念仏を唱えると、さしもの累の怨霊も鎮まって、菊はもとの娘に戻った……とさ、という物語です。



 雲天寺本堂。本尊は祐天上人が入仏供養したという阿弥陀如来です。




 この先、守谷駅を通り抜けて左に折れ、つくばエクスプレスの高架に沿ってしばらく歩くと、長さ100メートルはあろうかと思われる参道が見えてきました。長龍寺です。
 弘仁十四年(823年)、弘法大師空海が創建したとされる古刹です。真言宗でしたが、現在は曹洞宗。天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、大将・浅野長政らがこの寺に滞在したとされています。
 木立の中の参道を進んでいると、少しオーバーにいえば永平寺を思わせます。

 


 長龍寺本堂と本堂前に建つ道元禅師の像。



 鐘楼堂(右)横の樹木。枝が雪に覆われていました。何の樹かわかりませんが、ひと足早く桜が咲いたようでした。

 長龍寺は境内の広いお寺でした。杉木立の参道がある表門のほか、東西二つの門があります。



 これは西門の先に見えた建物。阿弥陀堂を思わせる方形屋根だったので、行ってみましたが、どうもお寺とは無関係な建物のようでした。かといって、無関係な民家の屋根がこのような形であるのは不思議。



 我が宗門なので、例によって墓所を捜して焼香しました。



 守谷駅は関東鉄道とつくばエクスプレスが交差する駅です。つくばエクスプレスに乗って帰ることにしました。

この日歩いたところ


守谷落ち穂拾い(1)

2012年01月24日 22時32分57秒 | 寺社散策

 茨城県守谷に歩き漏らしているところがあります。
 また行ってみようと思いつつも、三年前の夏を最後に守谷から足が遠退いていました。引っ越したことによって、最寄り駅が新松戸から北小金に変わったことが主たる原因です。
 新松戸も北小金も同じ松戸市内。電車なら一駅、歩いても二十分そこそこ、という近い距離なのですが、守谷へ行くには南流山からつくばエクスプレスを利用するか、取手から関東鉄道を利用するかという二つの径路があって、新松戸からならどっちも乗り換え一回ですが、早くて便利なのはつくばエクスプレスです。それに乗ろうとすると、北小金からだと二回の乗り換えを強いられるのです。

 守谷へ行かねば……と気に懸かるのは、歩き漏らしている中に二つの薬師堂があることです。
 歩き漏らしたところを歩くことを、落ち穂拾いになぞらえてみました。

 二十日から二十二日まで、風邪(?)をひいて寝ていました。二十三日は風邪の症状は抜けたようだったので起きることにしましたが、病み上がりで身体がなまっていたのか、まだ風邪があとを引いていたのか、しゃっきりしないまま、一日中ほとんど何もすることなく、ウダウダと過ごしました。



 明けて今朝、目覚めてみると、我が庭は一面の雪。
 東京で初雪が降った二十日、我が地方は雨のままだったので、初雪です。さながら庭駆け廻る犬のように悦んで、守谷へ行こうと決めました。

 去年は所用のついでではあったけれども、やはり雪の日に柏市北西部のお寺を巡って歩いたのでした。雪で滑って転ばぬよう、トレッキングシューズを履きました。

 いつであったか、守谷へ行こうと思い立ったことはあったのです。降りる駅は守谷ではなく、関東鉄道の南守谷。すると、早くて便利なつくばエクスプレスでは遠廻りになります。この日、なぜ最初に南守谷を目指そうと思ったのかというと、二つの薬師堂の一つ・奥山本田(ほんでん)の薬師堂があるからです。

 


 関東鉄道取手駅のプラットホームには喫煙所がありました。煙草をやめた私にとって、プラットホームに喫煙所があろうとなかろうと無縁のものとなりましたが、いまだにこういうものを堅持している関東鉄道という会社はエライと思います。

 

 取手から十八分で南守谷駅に到着。
 駅名に「南」とつくからではないと思いますが、出口は南口しかなく、線路の北側に行くためにはガードをくぐらなければなりません。



 奥山本田の薬師堂があるのは、南守谷駅から歩いて十五分ほどのところです。ただ、徒歩十五分という所要時間はこのときはまだ把握していませんでした。

 ガードをくぐって、しばらく歩くと、結構交通量の多い道路に出ます。古くからある銚子街道です。行き交う車を遣り過しながらバッグからプリントした地図を取り出して、目を落とします。目指す薬師堂が載っている部分をプリントしてきたつもりですが、地図は切れていて、薬師堂がありません。
 なんで? と自問したところで答えは返ってきません。うっかり鞄に入れ忘れたか、あるいはパソコンの画面に表示されている部分がすべからくプリントされるとは限らないので、プリントしたつもりではあったけれども、実際はプリントされていないのを確認しないまま出てきたのかもしれません。

 しばらく歩くと、道は二股に分かれます。地図がなくてはどちらの道を進んだらいいのかわかりません。南守谷から十五分というのも、帰って地図を見直してからわかったことで、この時点では、この先何分歩けばいいのかわかっていません。
 行き交う車がビチャビチャと残雪とも泥水ともつかぬものを飛ばして行くのも不愉快になっていました。今日の日は諦めることにしました。

 戻る途中で、広い通りを歩くのは面白くない、という邪心が出ました。溶け始めた雪を蹴立てて走る車が相変わらず多かったからです。
 ある路地の入口に「通学路」という標識があったので、次なる目的地・愛宕神社に近い愛宕中学校の通学路だろうと判断して曲がってみましたが、二度も行き止まりに遭遇。
 松戸や柏なら「この先行き止まり」という標識があるので、踏み入るようなことはないのですが……。見落としたのか、もともとなかったのか。




 愛宕神社。
 天慶年間(938年-946年)、平將門が京都の愛宕神社に似せて創建したという言い伝えのある神社です。祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと=火産霊神)。



 愛宕神社前を走る道路は南守谷駅を降りて最初に横断した銚子街道です。その道路を歩いて、愛宕神社から十分足らずで天台宗西林寺に着きました。
 延喜二年(902年)、比叡山の延昌慈念僧正が現在の守谷市高野に創建したとされる、相馬・千葉氏の菩提寺です。
 元禄四年(1691年)、高野から現在地に遷座。




 門前の地蔵堂には元禄十年(1697年)造立の石地蔵があって、出世地蔵として信仰を集めています。受験生の合格祈願も多いということです。
 


 西林寺本堂としだれ桜。

 小林一茶の句碑がありました。
「行くとしや 空の残りを 守谷まで」
 文化七年(1810年)、この寺に滞在したときに詠んだ句です。

 西林寺を出て再び銚子街道に戻ります。

 西林寺から五分ほどのところ。地図には薬師寺とあるので訪ねてみたのですが、石段を上った先には小さな御堂があるだけでした。
 格子窓を通して中を覗くと、金箔の立像がおわしました。薄暗いので、はっきりとわかりませんが、薬師如来なのでしょうか。
 立像の足許に木彫りの小さな十二神将があるところを見ると、薬師如来なのでしょう。左横に石像らしき坐像。
 このあたりの地名は守谷市本町ですが、かつては糺の森といったそうで、薬師堂の名も糺の森薬師堂。
〈つづく〉


二年目の薬師詣で・柏市(2)

2012年01月09日 22時01分40秒 | 薬師詣で

 二年目の薬師詣での〈つづき〉です。
 薬師詣でのような、やや遠めの散策をするときに携帯して行くのは、インターネットからプリントした、およそ四千分の一の地図です。

 北方向(いうまでもなく地図では上)だと、左に曲がるときは地図でも左ですから、そのまま進めばいいのですが、南に行かなければならない場合、不慣れな土地では地図をひっくり返してみないと、にわかには飲み込めません。それでもどういうわけか、地図の左が現実の左とはなってくれず、結構手こずるのです。



「あっ」とか、「おっ」とか、独り言を呟きながら、右に曲がりかけた径をもとに戻ります。
 そんなこんなして歩くうち、左手に簡素な石段が見え、振り仰ぐと御堂があるのが見えたので、上ってみました。

 地図では、薄い灰色に塗られた四角があって、なにがしかの建物がある、とわかるだけです。
 上って行くと、不動堂と書かれた扁額、不動堂再建記と彫られた記念碑があって、この御堂には不動明王が祀られていることがわかります。




 不動堂のかたわらにあった石碑。
 當寺開山○○(○○は判読不能)大和尚と彫られています。墓石とは思えないので、何かの記念碑でしょうか。




 不動堂からさらに上ると、天神堂がありました。

 よっこらしょっともとの道路に戻り、細い小径に入ります。入った先に長く緩い上りの石段がつづいているのが見えました。上って行くと、目指してきた龍泉院の境内でした。



 曹洞宗龍泉院の本堂です。
 創建は建長五年(1253年)。この年は奇しくも道元禅師が遷化された年です。




 我が宗派のお寺なので、例によって歴住の墓所を訪ねて焼香。三拝九拝。



「大正の法然」と呼ばれた浄土宗の高僧・山崎辨榮さんが手ずから植えたと伝えられる菩提樹です。
 明治二十八年、釈尊成道の地・インドのブッダガヤから請来したもの。辨榮さんの生母がこの地(当時は東葛飾郡泉村)の出身だった縁もあって、龍泉院にはしばしば来山して説法をされたそうです。




 境内には横からお邪魔する形になったので、山門を見るのは去るときになりました。



 伊津美鳥見神社。
 所在地は柏市泉ですから、伊津美と書いて、「いづみ」と読むのでしょうか。




 伊津美鳥見神社から七分歩いて、弘誓院(ぐぜいん)に着きました。雌雄二樹ある公孫樹のうちの雄樹。目通り幹周り4・2メートルという巨樹です。



 弘誓院は真言宗豊山派の寺院。正式には蓬莱山弘誓院福万寺といい、本尊は聖観音。「柳戸(やなど)の観音様」として昔から親しまれてきたそうです。下総観音霊場三十三番の第三十三番札所の名刹で、九世紀初め、行基菩薩によって開かれたと伝えられています。



 弁財天も祀られています。




 弘誓院がこの日の行程の最後です。帰りは柏駅へ。柳戸のバス停でバスがくるのを待ちます。

この日、歩いたところ


二年目の薬師詣で・柏市(1)

2012年01月08日 22時00分59秒 | 薬師詣で

 薬師如来には十二の大願(誓願)があります。
 一年に
十二回、薬師詣でをつづけてみようというのは、こじつけの感がなくもないなぁと思いながらも、一応毎月の参拝を終えました。先月十二月の薬師詣でを終えるまでは来年はどうしようかということは考えませんでしたが、とりあえずは今年一年十二か月ぶん、それほど遠くないところに薬師如来を祀る寺を十二か寺見つけることができたので、柏の醫王寺を手始めに、今年一年も薬師詣でをつづけようと決めました。
 薬師詣でをしようと思い立ったのは、知人二人が能う限り安穏に暮らせるように、と思ったからでした。
 薬師如来が祀られているお寺を巡り、「○○が息災でありますように、□□が安穏でありますように、と祈り、私が風邪をひいたり、体調が悪かったのが恢復したあとであったりすれば、無事本復したことにお礼を申し上げることにしています。

 二年目最初の薬師詣で(初薬師)で訪ねるのは、すでに何度か訪ねている柏市鷲野谷にある東光山醫王寺安楽院です。ここは北小金にある東漸寺を開いた經譽愚底さんが東漸寺より先に開いたお寺で、いまは趣が変わってしまったようなのですが、昔は深山幽谷の趣があって人々の人気を博し、周辺には旅籠があるような賑わいを見せたということです。
 



 我孫子駅から坂東バス(手賀の杜ニュータウン行)に乗り、下車したバス停(スポーツ広場前)から歩いて八分。將門通りと名づけられた岩井集落への入口に建てられている案内標識です。將門大明神とはいうまでもなく平將門のことです。
 醫王寺参詣のあとは、この標識の「→」の方角にある龍光院と將門神社を訪ねるのが常でしたが、今回は違う方向を目指して行くので、写真を撮るだけで素通りします。



 看板が建てられていた岩井集落への入口からさらに七分。鷲野谷の庚申塚前に着きました。




 庚申塚のあるところで道を左に入ると、正面に星神社があります。祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)、北斗大明神(妙見菩薩と同義)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)の三神。
 創建年代等は不詳ですが、千葉氏一族が崇敬する妙見堂として創建、近くに相馬親胤が築いたとされる鷲野谷城(1336年-1590年)があったとされることから、中世に勧請されたのではないかと考えられています。




 さらに緩い坂を下って、目指す醫王寺に着きました。創建は寛正二年(1461年)。
 山門の奥に見えるのが本堂。本尊は阿弥陀如来です。




 前の画像の山門をくぐると、右手が一段高くなっていて、薬師堂があります。ここで今年最初の薬師詣で。



 薬師堂の左後ろにある經譽愚底上人の墓。
 上人は我が庵近くにある東漸寺その他の寺を開かれたあと、晩年、この醫王寺に帰って、永正十四年(1517年)に示寂されました。小金城主だった高城氏は上人に帰依すること厚く、その家臣六騎が鷲野谷に住して檀徒となった、と伝えられています。




 墓所の一角にある山崎辨榮(べんねい・1859年-1920年)さんのお墓にも参拝




 柏市 ― といってもこのあたりは七年前までは東葛飾郡沼南町で、「東の吉祥寺」と呼ばれる柏駅周辺の市街とはかけ離れたイメージです。正月は門松を立てず、このような札を玄関や門の両側に貼るのが決まりのようです。



 庚申塚前を通る道に戻り、香取神社を訪ねます。



 さらに日枝神社。



 染井入落(そめいいりおとし)を渡り、私にとっては処女地の柏市泉という地区に入って行きます。〈つづく〉


2012年の初詣(2)

2012年01月03日 10時16分00秒 | 寺社散策

 2012年の初詣の〈つづき〉です。



 石神井川(このあたりでは音無川と呼ぶのが正しい)に架かる鮮やかな朱色の橋 ― 紅葉橋です。



 金剛寺。真言宗豊山派の寺院。別名・紅葉寺。
 先の橋の名前はこのお寺にちなんでつけられました。「新編武蔵風土記稿」によれば、本尊は高さ一尺余の不動明王坐で弘法大師の作といわれています。




 弁天堂。



 松橋弁天屈。岩屋弁天とも呼ばれ、江戸時代はかなり広く知られていたようで、私は目にしたことがありませんが、現在も区内に何か所か、その名を彫った道標が残っているということです。




 紅葉橋から石神井川上流に向かって右岸を歩き、滝野川橋で左岸に渡って歩くこと七分。前方に大仏が見えてきました。壽徳寺の谷津大観音です。



 門前に、どこかで見たような顔のレリーフがある、と思ったら近藤勇でありました。墓があるのは同じ滝野川の壽徳寺境外墓地です。直線距離にして約800メートル離れています。




 壽徳寺。ここも真言宗豊山派の寺院。。
「北区史」によれば「南照山観音院寿徳寺と称し、本尊は聖観音である。建保二年六月相州鎌倉の梶原より当時八頭村と呼んだ当地へ移せるものと伝えられているが、草創の頃のことは真偽不明である。天明年間及び天保年間領主と住職との間に争ひを生じ訴訟沙汰にまでなつたりして、遺物文献等所在不明で詳細は一切明らかでなく、ただ谷津観音とか子育の観音として名高く、母乳不足の女人の参詣が多かつたと云う」ということです。

 これにて初詣ついでの寺院巡りは終了。王子駅に戻って帰ることにします。




 帰りは先の願徳寺前を通る王子新道を歩き、旧岩槻街道に出て音無橋を渡ります。



 音無橋から見下ろした親水公園。



このあたりが広重の版画に描かれた音無大堰のあったところです。

この日歩いたところ


2012年の初詣(1)

2012年01月02日 22時15分29秒 | 寺社散策

 初詣に行ってきました。東京の王子にある王子稲荷神社です。
 元日に行くつもりでしたが、今年の元日は初日の出を拝むどころか、いつまで待っても雲が切れませんでした。ときおり窓の外を見上げて、うーむうーむ、どうしようか、と唸っているうちに、午後一時を過ぎ、二時を過ぎてしまったので、元日の初詣は取りやめてしまいました。
 代わりに、いつもの散歩道の途中にある香取神社に行ってお茶を濁しましたが、陽射しがないので、殊の外寒く感じられる元日でした。



 翌二日の今日も晴れたり曇ったり……。
 松戸で常磐線緩行電車から快速電車に乗り換え、日暮里で京浜東北線に乗り換え。それぞれ降りたところが乗り換え階段に近かったこともあり、電車もスイスイとやってきたので、北小金から所要三十七分という早さで王子駅に到着しました。



 私はスマートになってしまったいまの都電よりドテッとした図体の前の都電のほうが好きですが、もう見ることはでいないのかも……。



 王子駅の親水公園口を出ると、目の前が親水公園でした。石段を下って、この太鼓橋を渡り、いま、途中で立ち止まってカメラを構えている急坂を上って行くと、王子神社があります。 



 坂の途中に王子神社のイチョウ(公孫樹)がありました。東京都指定の天然記念物です。



 王子神社は参道入口から拝殿まで100メートル近い行列ができていました。
 石段を上り切ると、拝殿と鳥居の中間あたり(この行列の右手)に出ますが、グルリと首を巡らせ、行列の最後尾を確かめた私は初詣にきているのに、ここに初詣をすることは即座に断念しました。
 何が嫌いといって、行列に並ぶことほど嫌いなもののない私です。




 代わりに同じ境内にあった關(せき)神社へ……。
 ここには百人一首などで知られる歌人・蝉丸法師と逆髪姫、古屋美女が祀られています。蝉丸公は、逆毛に悩む姉のために侍女の古屋美女に命じて初めて「かもじ(かつら)」を考案したことから、「髪」の祖神といわれ、理髪業界から信仰を集めています。關神社には、理容師さんや美容師さんなどの理容業界の人をはじめ、近年では薄毛や頭髪に関する悩みを抱えた人も多く祈願に訪れているそうです。




 關神社から王子稲荷前を通り過ぎて、名主の滝公園へ行ってみましたが、四日まで休園でした。
 安政年間(1854年-60年)に王子村の名主・畑野孫八が自邸に開いたのが始まりで、「名主の滝」の名前の由来もここから。庭園として整備されたのは、明治のなかごろで、垣内徳三郎という人の所有になってからでした。昭和十三年には、精養軒が買収し、食堂やプールなどがつくられて、公開されてきましたが、昭和二十年四月の空襲で焼失。東京都によって再公開されるようになったのはようやく昭和三十五年十一月になってからです。

 王子近辺は武蔵野台地の突端に当たるので、かつては「王子七滝」と呼ばれる七つの滝がありましたが、このうち現存するのは「名主の滝」だけです。「名主の滝」は、8メートルという落差を有する男滝(おだき)を中心に、女滝(めだき)、独鈷(どっこ)の滝、湧玉(ゆうぎょく)の滝の四つの滝からなっています。



 休園とあっては仕方がないので踵を返し、金輪寺へ。
 元は王子神社と王子稲荷神社の別当で、江戸時代には徳川将軍家の御膳所でもあった同名の金輪寺の塔頭の一つ、藤本坊です。前の金輪寺が明治の神仏分離令によって廃寺になったあと、寺名を引き継いで再興したものです。




 金輪寺からさらに戻って王子稲荷神社に参拝します。



 王子神社に較べると、駅から遠い上に、初めての人だとわかりにくい場所にあります。落語「王子の狐」で有名。



 歌川広重「名所江戸百景」のうち「王子装束ゑの木大晦日の狐火」。



 おや、まあ、こんなところにあったのですか、と思ってシャッターを切りました。拝殿の左手に出口があったのでそこから出ると、王子稲荷の坂と呼ばれている上り坂の途中に出ます。そこにあったのが、この中央工学校。今太閤こと田中角栄さんの母校です。
 長いこと取材記者をやってきたので、お会いした有名人、というのは数多くいますが、後光が射して見えた人はただ一人……この中央工学校のOB・田中角栄さんだけでした。
 取材仲間には「いや、長嶋茂雄こそだ。ノーノー、ジャンボ尾崎だ」という人たちがいましたが、趣味が違うからか、私には何も感じられませんでした。
 角栄さんはある博覧会の肝いりで挨拶にこられたときにお目にかかることができ、そのあと短時間でしたが、インタビューをさせてもらったことがあります。現役バリバリの総理のころです。
 私の主たる目的は博覧会の取材だったので、角栄さんがこられることは知っていましたが、インタビューすることなどは考えていませんでした。写真だけ撮らせてもらおうと待っていた私も、自分にコメントを求めたくて待っているのだろうと勘違いをされたのです。

 初詣を終えたあとは、近隣にいくつかお寺があるので、巡って行きます。



 坂を上り詰めたあと、近くを流れる石神井川に向かって下る坂道をダラダラと下って行くと、願徳寺がありました。浄土真宗大谷派の寺院。
 このあと石神井川に沿ってしばらく歩いてみます。
〈つづく〉