桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

麟祥院

2010年04月22日 18時04分21秒 | 歴史

 今日はまた冬のような雨。
 肩口が妙に嘘寒いと思って目覚めたら、一瞬右眼が開かない。
 物貰いです。
 二か月ほど前、上瞼の真ん中にできたヤツが治ったと思ったら、今度は目尻のほうに場所を移して噴火。アイスランドのお流れを頂戴したのでしょうか。
 風邪もひき始めからもう二週間と長引いています。泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、というのはこういうことです。

 二週間に一度、東京・湯島まで通院することになりました。
 胃潰瘍は完治して、もう出血はないはずですが、鉄分欠乏性貧血が治りません。別の原因があるかもしれないというので、より高度な検査機器のある循環器専門の病院へ行くこととなったのです。
 風邪は前ほどはひどくないのですが、依然として咳が止まらない。そのせいで腹筋は痛いし、歩くと頭がどんよりして、脚も重く感じられます。
 そのたびに、胃潰瘍が原因
の出血で酸欠状態になっていて、数分歩くと腰を下ろさざるを得なかった入院当日のことを思い出します。
 脚が重いとはいっても、そのときと較べれば、疲れの度合いが格段に違う-つまり、今回の不調は、確かに不調ではあるけれども、たいしたことはないと、つい沈みがちになる自分自身を励ましているのですが……。

 通院の往き帰りは湯島の切通坂(春日通り)を通ります。
 江戸時代、湯島~本郷を一本で通り抜ける道はこの坂しかありませんでした。いろいろな本にそのことが出てくるので、私は機会あるごとに「江戸切絵図」(人文社刊)を眺めては、なるほど、なるほど、ほかに真っ直ぐな通り道はないのだ、と得心したりしていました。

 地下鉄の湯島駅を出て坂を上って行くと、左側に湯島天神の夫婦坂があります。前回、十数日後にまたくることになろうとは思わなかったので、参詣しました。
 ここは学業成就祈願で有名ですが、家内安全、交通安全の他、病気平癒祈願にも御利益ありと知りました。
 しかし、私は自分のことで神仏を恃(たの)む気持ちは持ち合わせていないので、この日は参詣せず、素通りです。
 完治とまでは到らずとも、その方向が見えるときがあるとすれば、恐らくこの坂を下って帰ることになるでしょうから、そのときはお礼参り(祈願はしていませんが)に参詣するつもりです。

 交通量の多い道です。いつも(といっても、まだ二回目ですが)は湯島天神側の歩道を歩いて、反対側を通ることはありません。
 この日の帰り、切通坂を下り始めるところで信号待ちをしていました。何気なく周りを見ていたら、道路の反対側-少し奥まったところに小さな木叢が見えました。帰りを急ぐわけでもなし、公園があるのかなと思って、青信号が変わりかけだったのを幸いに反対側に渡りました。



 その木叢の真正面に出ると、公園ではなく、茶室があるのかと思わせるような門が見えました。
 近づいて行くのにつれて、茶室ではなく、お寺だとわかりました。
 お寺の名が読めるところまできて、意表を突かれたような気になりました。「麟祥院」-あの春日局の菩提寺だったのです。



「江戸切絵図」で湯島本郷あたりは何度眺めたかしれません。麟祥院がそこにあるということは充分に知悉していながら、いざ現代の道を歩いていると、まったく忘れていたのでした。

 


 無人の境内には一人だけ先客がいました。五十代と見られるご婦人でした。
 品のよい小豆色のベルベットのジャケットにスラックス姿で、右手にコンパクトデジカメを提げていました。歩き方を見ていると、どうやら私と同じで、ひょっこり舞い込んだ人のようです。

 山門の小ささに反して、境内は結構奥行きがあります。
 このお寺の前身は春日局が寛永元年(1624年)、大奥を下がったあと、余生を送るつもりで建てた天沢寺です。亡くなったあと、お墓が建てられたので、三代将軍・家光が局の菩提寺とすることに決め、名をいまの麟祥院と改めました。

 先客は私の前10メートルほどのところで突然かがみ込んで、敷石の傍らに植えてある菫(スミレ)の花を撮し出しました。私は無言で脇を通り抜けました。
 通り過ぎてしまってから、「こんにちは」と声ぐらいかければよかったと思いました。

 春日局こと斎藤福は明智光秀公の重臣・斎藤利三の娘です。家光の乳母として徳川家に入ることになったときは、利三の娘ではなく、公卿・三条西公国(きんくに)の娘(養女)として入っていますが、徳川家康やその重臣たちが氏素性を知らなかったはずはありません。
 明智光秀公=天海僧正説とも関連して、私は長いこと、この不思議について考察していますが、それをここで開陳し始めると、まるで小説を書くようなことになってしまうので、いずれまた別の機会に。



 境内奥まったところにある春日局のお墓です。周囲から一段高い石組みの上にありました。
 無縫塔という珍しい形をしています。別名卵塔(らんとう)と呼ばれるように、塔身が卵の形をしている上に、塔身には十文字型に空洞がつくられています。
 これは「死んだあとも天下の政道を見守れるように」という局の遺言に基づいて空けられたものだということです。
 墓は鉄門で閉ざされていました。門には左に「葵の紋」、右に「折敷に三文字紋」。この紋は乳母となるまで夫婦であった稲葉家(正成)の家紋です。



 塔身を左下から見上げたところ。こちらも穴が貫通しています。

 交通量の多い春日通りから一歩入っただけなのに、境内は嘘のような静けさでした。耳を澄ましても物音一つしません。
 私は先ほどのご婦人が背後から歩いてくるものと思っていましたが、いつの間にか姿が見えなくなっていました。

 春日局が目当てで入ってきたのではなかったようです。麟祥院を麟祥院とも知らず、小ぎれいな庭のあるお寺だと感じて入っただけだったのでしょう。
 ただ、私は一声挨拶しなかったのを返す返すも残念と思っていました。怪しい魂胆を懐いたのではありません。妙に人恋しい思いだったのです。
 この二週間、通院先での短い会話を除いて、私は誰とも言葉を交わしていないのです。このままでは失語症になってしまうかもしれない。……と、心配しきりです。


朽木村史(1)

2010年04月17日 15時34分39秒 | 歴史

 まあ、大変な寒さ! あろうことか、今朝は雪でした



 今朝六時半過ぎに我がベランダから見下ろした光景です。カメラはとらえていませんが、まだ粉雪が舞っていました。
 夕方には三日ぶりに陽射しが出ましたが、風が冷たく、気温が上がらないことに変わりはありません。
 一進一退を繰り返していた私の風邪はまた勢いを盛り返しつつあります。起きていられないという状態ではないのですが、寒いものだから、遅く起きて早く寝る。寝る、といっても眠くはないので、久しぶりに読書三昧の日々を過ごしています。

 三月初めに朽木(くつき)という村の歴史を綴った「朽木村史」が届いていました。落掌したら早速ブログで披露、と思っていたのですが、自分で頼んでおきながら、予想以上に大部の本だったので、その重さに恐れをなし、最近まで開くことがなかったのです。今回の風邪ひきがちょうどよい機会を与えてくれました。



 朽木村とは、2004年の大晦日まで滋賀県高島郡にあった村で、滋賀県内では唯一の村でした。翌05年の元旦、同郡高島町、安曇川町、新旭町、今津町、マキノ町と合併、高島市が誕生して消滅。



 地図で紹介すると、こんなところにあった村です。
 この村と私との間にどのような関係があって村史を取り寄せたかというと……じつはまったくないのです。

 遡れば、私が胃潰瘍で入院していた去年十一月後半のことでした。



 見舞いにきてくれた友人が見舞いの品々と一緒に、このようなパンフレットを持ってきてくれたのです。

 友人はときおり滋賀県にフィールドワークで出かけていると聞いていました。その場所は滋賀県といっても湖南。朽木村とは琵琶湖を挟んで正反対、といっていいところです。
 あらかじめ朽木村の位置を知っていたら、関係がないことはわかったでしょうが、私は何かの関係があるから持ってきてくれたのだろうと思って、早速申し込みの葉書を書きました。

 読みたいと思ったもう一つの理由は、木地師に関する記述があると知ったことでした。
 なぜ私が木地師に興味を持っているか。
 その理由は後日のブログに回すとして、木地師発祥の地といわれるのは、湖東の永源寺町(現・東近江市)です。

 時代は古く、九世紀後半。
 文徳天皇の第一皇子でありながら、皇位を継承できなかった惟喬親王(844年-97年)がこの地に隠棲し、村人たちに漆器のつくり方を教えたのが嚆矢といわれています。

 地理的には琵琶湖を挟んだ反対側ですが、日本全国からみれば隣村のようなものです。近いゆえに、木地師の根源に関わるようなものを得ることができるかもしれぬ、という期待を懐かせました。
 さらにもう一つ。活字中毒だった若きころに較べれば、中毒症状は脱した状態でしたが、入院中という情況はまた別物。手にできるのが三月になるとは知らず、申し込めば、ほどなく送られてきて、入院中の無聊をかこつことができる、と早とちりしてしまったのです。

 こんな経緯が重なって、まったく縁のなかった村と私との間にほんの少しの縁が生まれました。

 まったく知らなかった村です。地図にあるように、西から南にかけて京都府に接し、北にかけて福井県に接する山村です。
 人口は合併時(2004年)でおよそ2500人。それから減っていることはあっても、増えていることはないでしょう。
 村の面積は165・4平方キロといいますから、関東でいうと川崎市、関西でいうと堺市より広い。我が松戸市に柏市を合わせたほどに広いのです。ただし、その90%は山林です。

 東部は比良山地、西部は丹波高地。間を縫って、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)が流れ、峡谷に添って国道367号線が村を貫いています。
 標高は、かつて村役場のあった市場という集落で170メートル、京都府や福井県との境に近い集落だと450メートルにもなります。
 冬は当然積雪が見られます。村史には雪下ろしをしている写真も掲載されています。
 鉄道はなく、最寄り駅はJR湖西線の安曇川駅。そこから江若(こうじゃく)バスという定期バスで、市場まで所要三十分。それも一日に十三便だけです。反対方向から入る形で京都・出町柳からの京都バスが一日二便。こちらは所要八十分。

 現在の国道367号線は朽木街道(若狭街道)と呼ばれ、かつては日本海(若狭)の海産物を京の都へ運ぶために重要な役割を果たしていました。海産物の中でもとくに鯖の量が多かったため、別名鯖街道とも呼ばれます。
 京から見ると、鯖街道は何本もあります。若狭から鯖を運んでくる道はすべて鯖街道だからですが、むろんこれは広義の意味。厳密な意味で鯖街道といえば、この朽木街道を指したのです。人馬や船以外に交通手段のなかった昔は大いに賑わったと思われます。

 現在は典型的な山村の一つですが、都に近いだけに、古くから奈良、京との交流があったようです。

 平城京の長屋王(684年-729年)邸跡からは朽木桑原郷の住人が租税につけた荷札木簡二点が出土しています。桑原郷は「和名類聚抄」にも高島郡桑原と見えますが、現在桑原という地名は残っていないので、朽木のどこであったかはまだ確定されていません。



 木簡の一つ(一番左)には桑原の稲俵と書かれていますが、地形的に米がたくさん収穫できるとは考えられません。朽木の材木は古くから「朽木の杣(そま)」として重宝されたということなので、租税の多くは材木ではなかったのか、と私は勝手に推測しています。

 安曇川と朽木村の北隣・旧今津町を流れる石田川に挟まれた山地は、子田上杣(こだかみのそま)と呼ばれる中世荘園の一部でした。ここは嘉祥四年(851年)に藤原氏の家領となり、藤原頼道の家領を経て、宇治平等院に寄進されています。
 平等院は永承七年(1052年)、頼道が父・道長の別荘だった宇治殿を寺院に改めたものです。寄進された年代はわかりませんが、有名な鳳凰堂には朽木村から伐り出された材木が用いられたのかも。

 杣の運搬手段は筏です。
 戦後すぐまでは安曇川本流とその支流である麻生川、北川、針畑川のあちこちで筏が組まれて、琵琶湖に面した旧安曇川町まで運ばれていたそうです。道路の整備とトラックの普及によって、筏は単木流しという一本ごとの運搬に変わりましたが、この単木流しも昭和三十年ごろには完全にトラックに取って代わられました。

 今回のブログは最初なので、とりあえず旧朽木村のサワリだけ。これから少しずつ読み進めて行きます。

※地名が出てくるたびに昭文社の滋賀県地図(高島市誕生以前の旧版)を開いたり閉じたり……。通史編の巻末に古道分布図として地図が掲載されていますが、現代の地図も載っていれば、と思います。

※画像は高島市ホームページと朽木村史から引用。地図は少し加工しました。


流山散策

2010年04月12日 16時59分21秒 | のんびり散策

 最高気温が20度、24度と二日つづきの初夏の陽気から一転して、今日の予想最高気温は9度だとか。おまけに雨。そして明日はまた19度だ、と。
 こんなにコロコロと変わる陽気に、私の神経はとてもぢゃないがついて行けず、風邪が治りそうな様子はまったく窺えません。

 昨日曜日の風邪の状態は土曜日よりはちょいとマシかという程度でした。午前中、少し厚着をして買い物に出たら、外はかなり暑いと感じたのに、家に引きこもると両肩のあたりが嘘寒いのです。気分も晴れやかではありません。

 今回の風邪は少し妙です。ボヤーンとした感じは明らかに風邪です。鼻詰まりはあるけれども、洟水やくしゃみはあまり出ず、咳だけ出ます。それも、起きているときはあまり出ないのに、眠ると出る。
 ゴッホッホとやって、そのたびに目覚めるので、熟睡できていません。一日じゅう意識朦朧寸前という状態で過ごしています。
 横にならなければ耐えられないという症状なら、おとなしく寝ていたかもしれません。そうでないところが厄介なのです。かといって、起きてもやることがない。正しくいえば、何かしようという気力が湧かない。

 で、出かけるか、ということになりました。
 どこへ行くと決めた外出ではありません。新松戸の駅に向かって歩いているうちに、流山へ行こうと思いつきました。
 土曜日も流山に行っていますが、そこは歩いて行けたところ。この日は電車を利用しないと行けない、もっとディープな流山です。

 ディープな流山へは新松戸に引っ越してきた直後に行ったことがあります。
 住まいを捜していたとき、流鉄が走っているのに興味を惹かれ、不動産屋さんの女性事務員に、「あの電車の行く先はどんな街か、何があるのか」と訊ねたら、しばらく考えたあと、「イトーヨーカドー……」という答えの返ってきた街です。

 とくに目的もなくブラブラと歩いていたら、「誠」と染め抜かれた新選組の羽織を着た数人の男女がいきなり現われたのでびっくりしたり、腹が減ったので店を捜したが、開いている店がどこにもなくて苛々させられたり……。

 


 幸谷(こうや)駅から流鉄に乗りました。
 四つ目、乗車時間わずか九分にして終点の流山です。「関東の駅100選」に選ばれた駅です。イトーヨーカドーがあるのはここではなく、一つ手前の平和台という駅でした。



 最初に流山市立博物館へ行ってみました。流山駅から六分ほど歩いた丘の上にあります。



 入口には近藤勇と土方歳三のパネル。ここ流山は近藤が最後の陣を敷いた地です。設営準備中のようで、見られたのはこのパネルだけ。



 流山といえば味醂(みりん)も欠かせない。小林一茶の友人でもあり、パトロンでもあった秋元双樹は味醂開発者の一人でもありました。

 出版物はいろいろ出しているようですが、無料でいただけるようなパンフレット類は一つもありませんでした。

 博物館を出たあと、市内を散策。
 広小路と名のついた通りから路地に入りました。近藤勇陣屋跡のある通りでした。陣屋跡周辺には今日も新選組がいるのが見えます。
 手前に閻魔堂があったので、陣屋跡を見に行く前にちょっと寄り道。



 閻魔堂墓所にあった金子市之丞と遊女・三千歳の墓です。
 市之丞は明和六年(1769年)、流山の生まれ。江戸の義賊だったといわれていますが、本当に義賊だったかどうかは不明。本当だったとすれば、鼠小僧より先輩になります。
 江戸吉原の遊女・三千歳とは恋仲で、死後離れたままでは可哀想だと墓を隣に持ってきたそうですが、三千歳は市之丞の妹だったという説もあります。

 当時、巷間の話題をさらっていたのは確かなようで、講談の「天保六花撰」、歌舞伎の「天衣粉上野初花(くもにまごううえのはつはな)」にも登場させられていますが、どちらも主役は河内山宗俊と直侍で、市之丞はどう見ても二人の引き立て役でしかありません。



 閻魔堂とは目と鼻の先に近藤勇の陣屋跡があります。
 当時、長岡屋という酒造家であったこの地に近藤勇は陣営を敷きました。たちまち新政府軍に知れることとなって、包囲されます。すわ激突……と思われましたが、戦争にはなりませんでした。一説では、町が戦火に包まれるのを嫌った近藤がみずから出頭したとも、別の説では奸計に乗せられて、捕縛されたとも。
 その日は慶応四年(1868年)四月三日。近藤と土方歳三、今生の別れの日となりました。
 近藤は板橋の本営まで連行されて斬首。
 ともかく戦争は回避され、町も戦火を逃れることができました。



 陣屋跡で出会った二人。レンタサイクル(¥
300)を借りて観光中でした。

 折から世は歴女ブームです。ところが、私が市内を歩いている間、出会ったのはこのおぢさん二人組と若い夫婦者らしきカップル四組だけ。
 近藤はさておくとしても、土方歳三は歴女の人気ランクでも上位の人です。せっかくの好素材があるのですから、何かPRのやりようがあると思えるのですが、市も博物館も、市内の店々も、付和雷同せず、と決めているのでしょうか。

 新選組の羽織りを着た若い女性が「北総新選組流山案内」というパンフレットをくれました。混ぜっ返すつもりはありませんが、流山に駐屯したのは甲武鎮撫隊という名で、厳密にいえば新選組は自然消滅したあとです。
 裏面が地図になっていたので、見てみると歴史的建築物として呉服屋・新川屋と同・ましやが紹介されています。

 


 新川屋はくるときに見ていた店です。建物は古そうですが、前面が改築されていたので、何やらいわくはありそうな……と思いながら通り過ぎていました。弘化三年(1846年)の創業。建物は明治二十三年の建築。

 ましやは少し新しく安政六年(1859年)の創業。こちらは前面がさらに大幅に改築されています。
 昔からの建物が見えるようにしておけヨ、と赤の他人がいう筋合いではないが、松戸宿でも千住宿でも、そういう形で遺されている建物があるのです。

 このあたりの地名は流山市加(か)。無患子(ムクロジ)の観音寺がある木(き)の前身は未だわかりませんが、こちらは市制が布かれる前は加村といったようです。

 歩いているうちに腹が減ってきました。体調はあまりよくないけれども、空腹を覚えるぐらいだから、それほど悪いとはいえないのでしょう。
 ところが、前に訪ねたときと一緒で、開いている店が一軒もありません。コンビニでもあれば、と注意をしながら歩いても、コンビニすらない。
 ましやの先で右に折れ、流山街道に出たところで、セブンイレブンを見つけたので、サンドイッチとレモンウォーターを買いました。

 レジ袋を提げたまま、本行寺、光照寺と巡りました。腹が減っているので、一刻も早くサンドイッチを頬張りたいところですが、腰を下ろして小休止できそうな場所がありません。



 お寺にしては珍しく「関係者以外立入禁止」と注意書きのあった光照寺。
 そういうことなら入りませんが、敷地外から見るぐらいは自由でしょう、と思って近づいてみると、急に強い風が起きて、本当の花吹雪になりました。
 あまりにも見事だった(花吹雪が)ので、つい二、三歩……いや、十歩ぐらいだったか、無断進入を試みてしまいました。

 このお寺を目指して県道柏流山線を歩いていたとき、谷を隔てた向こうに桜山が見えていました。光照寺をあとにしたところでUターン。
 辿り着いてみると、結構見応えのある桜でした。しかし、公園の名は平和台1号公園とちょっと冴えない。
 ベンチがあったので腰かけ、やっとサンドイッチにありつくことができました。ホッと一息ついたのも束の間、風はますます強くなり、桜吹雪はもはや風流という段階を超越しつつありました。私の身体もいっぺんに冷えてきてしまいました。



 補遺
 北総新選組のキャラクターは「しもうさ」という兎です。もちろん「誠」を染め抜いた羽織を着、鉢巻を締めています。可愛いもの好きの私は気に入って、ここに紹介しておきたいと思ったのですが、もらったパンフレットの印刷がお世辞にも上等とはいえないので、我が庵のスキャナではきれいに取り込むことができませんでした。
 諸君の活動はボランティアなので、致し方ないか、とちょっぴり残念に思っているところです。


晩桜の流山東福寺

2010年04月10日 20時35分08秒 | 

 松戸に住むのもそんなに長くないかもしれない、という気がして(なぜなのかわからないのですが)、街路樹の写真を撮っておきたいと思いつきました。これもなぜ街路樹、なのか自分にはわかりません。
 体調も芳しいとはいえません。風邪をひいているせいもあるかもしれませんが、歩こうとすると脚が重いのです。通院はつづけていますが、胃潰瘍快癒後の血液検査とヘモグロビンの量を増加させる投薬を受けるのが主眼なので、主治医にはいまの体調の悪さはまだ打ち明けていないのです。

 軽やかな気分とはいえませんが、手近なところから撮影しておくか、という気になったので、出かけることにしました。
 松戸市には街路樹の名を愛称としている通りが多くあります。市のホームページにも紹介されていますが、いつも感じることながら、ここのホームページは隔靴掻痒の感が強い。
 よそ者には、通りの名前と地域名を挙げられたところで、それだけではどこにあるのかわからないのです。地図が用意されていて、そこにジャンプできるようになっていればいいと思うのに……。通りに限らず、史跡もそうです。

 ふと閃いたのは新松戸郷土資料館で、何かそれらしきものを見たことがあった、という記憶でした。
 近いので行ってみました。

 そうそう、これこれ、と思って手に取ったのは、「ご自由にお持ちください」と書かれたコーナーに置いてある「新松戸の街路樹・公園」というパンフレットでした。
 ん? と思いつつ開きました。ん? と思ったのは、松戸市内全域ではなく、「新松戸」限定であったことです。それでも、東西に走る通り三本、南北三本の計六本ありました。
 表と裏の見返しに地図がついていて、当該の通りが色分けされています。これなら一目瞭然です。



 新松戸のメインストリート・けやき通りです。
 駅前から流鉄の踏切を渡り、武蔵野貨物線をガードでくぐり、まっすぐ西に向かって走っていますが、駅前からダイエー直前まで、しばらくは街路樹がないので、けやき通りとは呼ばないようです。植えられているケヤキ(欅)の数は両側合わせて343本。



 けやき通りと十字に交差するきょうちくとう通りです。こちらは中央分離帯だけに植えられていて551本。

 残り四本の通りも近場なので、写真を撮るだけならわけもないことですが、通りを巡っている間に、隣町・流山にある東福寺の桜を思い出しました。
 結構きれいだと聞いていましたが、いつも思い出すのは桜の季節が過ぎたころでした。

 風邪を背負い込んでいるので、相変わらず足は重いのですが、ゆっくり歩いて三十分。境内に足を踏み入れると、仄かにお線香の香りが……。



 ありがたいことに、今日は千仏堂の扉が開け放たれていました。桜を愛でる前に中を覗かせてもらいます。



 中央の阿弥陀如来を中心に、一列五十体のミニ阿弥陀如来が十段、左右合わせて二十段。合計千体。中央の阿弥陀様を合わせて千一体、といわれていますが、私の目には大阿弥陀の左右に、ミディアムの阿弥陀が六体見えました。



 充分間に合いました。
 本数は決して多くありませんが、大木が多く、みな枝を豊かに広げているので見応えがあります。



 鐘楼堂に舞い落ちる桜吹雪。



 本堂(右)前にある公孫樹(イチョウ)の巨木です。
 流山市の指定樹木になっていますが、樹齢はどれぐらいなのかわかりません。家に帰ったあと、ホームページを見ても、記載されているページはないようです。



 急な石段を上り詰めると山門。ただし、この日は裏から廻っているので、石段は上っていません。



 その左右に祀られた金剛力士像です。
 去年十一月のブログでは防護ネットの加減で、吽像しか写せませんでした。今回は阿像のほうにも格好な隙間があるのを発見しました。

 東福寺に関するブログを見ていると、いろんなところで「目つぶしの鴨」の話が紹介されています。
 主人公は山門にある左甚五郎作の鴨の彫り物で、次のような伝説が伝えられています。

 昔々、毎晩何者かが田畑を荒らすので、村人たちは困っていました。一体何者の仕業かと、寝ずの番をしていたある晩のこと、一羽の鴨が荒らしているのを見つけました。あとをつけると、東福寺の山門のところで忽然と姿を消しました。篝火を掲げてよく見ると、山門の彫刻の鴨の足に泥がついています。それを聞いた住職は鴨の目に五寸釘を打ち付けたそうです。以来、田畑は荒らされなくなった。そういう伝説です。

 前にきたときも、山門をそれこそ穴の開くほどじっと見上げました。しかし、見当たらない。今日は天気もよく、充分に明るいので、改めてとっくりと見ましたが、やはりない。



 山門と本堂との間、庫裡へとつづく通路にある中門です。



 鴨の彫刻
はそこにありました。
 山門にあると思い込んでいたし、実際に「山門」と記すブログもあったので、いくら目を皿のようにしようと見つかる道理がありません。
 十年以上前のブログには、白く塗装されていない、木地のままの画像がありました。その画像でも五寸釘は見えないので、いつ抜かれたのかわかりません。
 
 今日は暖かいというより、初夏を思わせるような暑さでした。
 途中、腰を下ろすところもなかったので、どこかで休憩したいと思いました。暑さに備えて自販機でアクエリアスを買いましたが、まだ口をつけていませんでした。脚は相変わらず重く、汗をかいたせいで、風邪もひどくなったようです。
 帰りは電車に乗るか、歩くかと迷いながら、電車に乗っても、家までは十分近く歩かねばならないと考えたとき、あの喫茶店に行って休憩しよう、と閃きました。

 いつだったか、やはり流山方面へ散策した帰り途、私の家まで十分ほどの住宅街の中に、昔ながらの喫茶店を見つけていたのです。
 そのときは入りませんでしたが、立地条件から鑑みて、店主は多分老夫婦(少なくとも私とおっつかっつの年代)であろうと想像していました。
「このお店は何年ぐらいになるのですか?」という私の質問をきっかけに、結構話が弾むかも……。あるいは、根は優しいのに、口下手な主人で、返辞はぶっきらぼう。何一つ話は進まないかも……。



 店名はfoo
cafe(フー・カフェと読むのでしょう)。
 入ってみると、居宅を改築したらしい店で、二階(実際は中二階)もありました。ただ、予想に反して、メニューを持ってあらわれたのは、五十代と思われる女性でした。
 頼んだコーヒーが出てくるころには、どこにいたのか、若い女性も姿を見せました。まじまじと見るような失礼は働きませんが、なんとなく娘さんのような気がしました。

 コーヒーはたっぷりの量があって450円。控え目な音でジャズがかかっていて雰囲気は上等の部類。
 しかし結局、私から言葉を発することはありませんでした。私が発したのは「ブレンド。ご馳走様。ハイ、どうも(おつりを受け取ったとき)」の三言だけ。
 なんとなく鬱状態に入りかけているな、という自覚のある私としては、これでも精一杯の挨拶だったのです。


川路聖謨

2010年04月09日 06時18分35秒 | 歴史

 昨日、東京・本郷に用ができたので、少し早めに家を出ました。用を足す前に池之端の大正寺というお寺に寄って行こうと考えたのです。
 新松戸から本郷へ行くのには、御徒町か大手町で乗り換えなくてはなりません。東京で暮らしていたころであれば、地図を見なくても自然にルートを思い浮かべることができました。しかし、東京を離れて何年も経つと、どういう経路で行ったらいいのか、とっさには思い浮かばなくなっています。

 おもむろに地図を引っ張り出しました。地下鉄網にすっかり疎くなっていて、地図を見なければならなかったのが幸いしました。千代田線の湯島で降りることにすれば、乗り換えなし。湯島駅から本郷まではそれほどの距離でもないのです。
 大手町で乗り換えることにすると、千代田線から丸ノ内線まで長い距離を歩かされます。御徒町経由にすると、三回も乗り換えなければなりません。
 それに湯島で降りれば、私にとっては永年の宿題であった大正寺に寄ることができる。

 大正寺のある池之端は、かつて私が棲んでいた浅草からはそれほど遠くないので、そのうちに、そのうちに、と思いながら、にわかに浅草を離れることになってしまったので、行かずじまいになっていました。

 その大正寺に何があるのかというと、幕末期の勘定奉行、外国奉行だった川路左右衛門尉聖謨(1801年-68年)のお墓があるのです。

 川路さんは九州日田の生まれ。天領代官の手代という豊かではない家に生まれましたが、教育熱心だった父親の期待に応えて、旗本・川路家に養子に入り、勘定奉行という幕臣トップの座まで上り詰めた人です。
 かといって、決して出世のガリガリ亡者ではありませんでした。常に幕府第一と考え、そのためなら諫言も厭わず、いつでも職を辞す覚悟を秘めていた人です。

 大老・井伊直弼の方針は間違っていると批判して、一時は失脚の憂き目を見るほどの硬骨漢でありました。
 いまでいう脳卒中で三度も倒れながら、強靱な意志力で病を克服。江戸城開城直前の明治元年三月十五日自裁。新暦では今月二十九日が命日ということになります。
 実弟は同じく勘定奉行、町奉行などを勤めた井上信濃守清直。



 湯島駅から徒歩十分で大正寺に着きました。
 慶長九年(1604年)、円通院日亮という日蓮宗の僧侶がここに草庵を結び、大正庵と号したのが始まりです。
 私は日蓮宗のお寺に入らせてもらうことはあっても、参拝することはありません。しかし、川路さんのお墓があるとなれば別。くる途中、供花も線香も買うところがなかったこともありますが、心ばかりのお賽銭をあげました。



 川路聖謨さんと妻・佐登子さんのお墓。

 お寺の入口には、ここに川路さんのお墓があるという台東区教育委員会の案内板があるのですが、墓所にはなんの目印もありませんでした。さほど広くはないところでしたが、随分捜してしまいました。
 家系はつづいているようで、昭和になってから墓碑が新しくされ、香炉や芝台は最近作り替えられたらしく見えました。

 川路さんと佐登子さんが知り合ったのは前田夏蔭という歌人の歌塾でした。
 知り合ったというより川路さんが見初めたのです。川路さんにとっては四度目の結婚。佐登子さんは三十五歳という齢で初婚でした。



「幕末・明治・大正 回顧八十年史」という本に載っている川路さんの写真です。眼が異様に大きいので、私は目張(めばる)殿と渾名をつけました。



 念願の墓参りを終え、東京大学北端の弥生坂を上って用先に向かいました。竹久夢二記念館がありました。



 東大の弥生門前には立原道造記念館がありました。
 学生時代、私は中原中也よりも、立原道造に傾倒していました。ここに記念館があると知っていれば、もっと早く出てきたのですが、用向きの時間も迫っていたので、前を通り過ぎただけ。



 用を済ませたあと、湯島天神に寄りました。
 一度通り過ぎたのですが、近々またこられるかどうか、と思い直して参拝。前にきたとき(といっても十七年も前)とは、まるで別の社にきたように印象が違うと思ったら、平成七年に社殿が修理改築されていたのでした。



 湯島天神といえば合格祈願の絵馬奉納。
 この日は無事高校や大学に受かったらしき親子連れが、幾組もお礼参りにきていました。



 三十八段の石段。湯島天神の男坂です。
 左に傾斜の緩い女坂があります。



 不忍池まで足を延ばしました。辛うじて桜が残っていました。


桔梗!

2010年04月06日 19時25分07秒 | 

 昨日は夜まで雨でした。
 イヤだなぁと思いながら勤め先を出ましたが、雨そのものはイヤな雨ではありませんでした。
 風もなく、音もなく降る雨はいいものです。桜の花も元気づいて、心なしか花の赤みを増したようでした。
 イヤだなぁと思ったのは、お米がなくなっていたので、帰りに買わなければならないことでした。傘を差しているのに、重くてかさばる荷物を持つというのはじつに鬱陶しい。

 鬱陶しいから、お米を買うのは晴れた日に延ばすとしても、家には何もないので、腹の足しになるものは買わなければいけない。
 で、ダイエーに寄りました。
 食品売場は二階です。エスカレーターを降りるとパン屋があり、花屋があります。そこで、こんなふうにして売られているものを見つけました。桔梗(キキョウ)の鉢植えです。



 一鉢198円也。
 思わず手を延ばしかけて、ふと逡巡しました。買うのはもちろん賛成だが、お米はどうする?
 5キロ10キロと重いヤツは敬遠して、2キロだけ買うことにしても、レジ袋の中で桔梗
は潰されてしまう。

 この花屋で花を買ったことはありません。取り立ててほしいと思う花がないことと、私が行く時間には係員がいないからなのですが、こと桔梗に関しては別腹。いま、我が庵には愛すべき桔梗がない状態だからです。

 浅草から連れ添ってきた桔梗が去年でダメになりました。
 去年の三月、芽が出ることは出て、4~5センチ伸び、蕾らしきものが見えたところで、胡麻粒より小さい黒い虫がいっぱいついたかと思うと、枯れるというより腐ったようになったのです。
 2002年に鉢植えを買って、それから2008年まで、毎年花を咲かせてくれていました。毎年二陣三陣と咲くので、もしかしたら……と、晩夏まで待ちましたが、もしかしたら、はありませんでした。

 十月になって、土を掘り返してみました。
 宿根草である桔梗には、小さな大根のような根っこがあります。毎年土の中で冬を越し、春になるとそこから芽を出すのです。しかし、掘り返した土の中には何もありませんでした。

 たまたま種を売っている店があったので、求めました。
 二十年ぐらい前と十数年前、ともに種を買ってきてちゃんと咲かせたことがあるのです。蒔いた翌年はしおらしく弱々しいのですが、二年目以降はアスパラガスを思わせるような逞しい芽が出ます。寒い間はコーヒー袋を裂いて鉢に被せて、寒さ対策をします。それを突き破らんばかりの芽の出方です。

 先月、本来なら何かの兆候があるはずでした。
 四月になっても、芽の出る兆候がない、ということはあり得ない。二鉢に二袋分の種を蒔きましたが、すなわち……発芽しなかったのです。
 芽を出してくれれば四代目になるはずだった幻の桔梗。

 昨日、鉢植えを見つけたのも何かの因縁かもと考えて、二鉢買い求めることにしました。結局、お米は買わず、弁当のたぐいも買わず、ダイエーと同じ建物にあるスパゲッティ屋に入って、晩飯の代わりとしました。
 桔梗の鉢は潰れもせず、無事我が庵に持ち帰られました。ダイエーを出るころには雨も上がって……。

 鉢植えの桔梗の難点は丈が低いことです。ヒョロリと伸びて、風が吹けば倒されてしまうのではないか、という頼りなさが桔梗らしいと思うのですが、鉢植えを育てる側や売る側では、それが欠点と考えるのかもしれません。
 これまで買ったことのない花売り場で出会い、買い求めることになったのも何かの縁。枯れさせないように、来年も再来年も花を咲かせてくれるように、丹精こめることにいたしましょう。



 今朝、鉢に植え替えしようと思ってベランダに出しました。



 雨上がりの朝でした。通勤路で見た枇杷(ビワ)の若葉があたかも花を咲かせたように見えました。



 梨の花も咲き始めていました。



 新松戸の桜はすでに散り始めていますが、「こざと公園」では今日あたりが満開という風情です。
 昼は弁当を買ってベンチで……と思ったら、数少ないベンチはいずれも先客に占領されておりました。


杏の花を見に行く

2010年04月05日 12時11分51秒 | 

 連休二日目の昨日、朝から薄ら寒く、あいにくの天気でしたが、杏(アンズ)の花を見に行きました。目指したのは松戸市幸田(こうで)にある、通称あんず通りです。
 途中、ちょっと寄り道をして、通い慣れた大勝院へ。



 山門後ろに聳えるのは樹齢五百年といわれる
大公孫樹です。

 


 境内には大公孫樹と並んで保護樹木となっている山桜があります。
 樹齢七百五十年といわれますが、そんなに寿命を保てるものなのでしょうか。
 幹は高さ3メートルほどのところで消滅。一見太い幹も中はほとんど空洞と化していて、樹皮だけで命を繋いでいます。枝は一本だけ。それでも確かに白っぽい山桜の花を咲かせていました。実を生らせる樹であるならば、是非ほしいものです。
 クローンである染井吉野は長くても数十年しか保たないし、実が生ってもその実から芽が出ることはないそうです。

 


 去年入院中の後半、友が訪ねてきてくれたときにこのお寺に案内して、初めて気づいた大数珠です。
 もちろん数珠のようなものが下がっていることには前から気がついていました。初めて、というのは数珠に仕掛けが施してあったことです。
 下に引っ張りながら廻すと、チンチンと鐘が鳴る仕掛けがしてあるのです。ひと呼吸遅れて落ちてくる数珠玉がカチンカチンと乾いた、いい音を響かせます。



 大勝院から廣徳寺へ。
 途中には大谷口城址がありますが、今日は寄らずに通過。廣徳寺は我が宗旨のお寺なので、シカとするのも気が咎めて、ちょっとだけ寄らせてもらってお賽銭をあげました。



 廣徳寺から北へ徒歩十分の華厳寺。



 華厳寺に祀られている松戸七福神の一つ弁財天。
 松戸七福神巡りはこれで六つ目。残すところ一つとなりましたが、御利益を求めて七福神巡りをしているわけではなし、思いついたときに巡るだけで、順番も気の向くまま、期限も気の向くまま。



 華厳寺のすぐ近くにあった長養寺。
 ここも我が宗旨のお寺ですが、このお寺があることは今日まで知りませんでした。
 華厳寺、長養寺とも、来歴はまだわかりません。



 境内にはそこかしこに石蕗(ツワブキ)がありました。



 長養寺門前に掲げられた標語。
「つらい時にはいつでもおいでよ」とありましたが、本当に行っちゃっていいものでしょうか?



 長養寺を出て300メートル足らず。
いよいよ杏の花咲くあんず通りです。
 しかし、あいにくの曇り空でした。こういう天気つづきでは、せっかくの花も冴えません。



 あんず通りと交差しているのは、通称鉄塔通り。送電線を支える鉄塔がつづいています。
 中央分離帯に植えられているのはどう見ても杏です。この道を真っ直ぐ進むと、二十分足らずで前に訪れた前ヶ崎城址に出ます。



 帰りは本土寺の参道に出ました。
 確か参道は椎や欅の多い並木道だったはずだが……と、首を傾げたら、山門(仁王門)直前だけが桜並木でありました。
 手前左手にプーンといい香りを漂わせている喫茶店がありましたが、病後、コーヒーは極力控えるようにしています。

 本土寺を背にするころになって、ようやく身体が温かくなってきました。庵を出てからここまでおよそ一時間半。しかし、手指は冷たいままです。
 北小金駅前のサティで小買い物をして、帰りは一駅だけ電車に乗ろうと思ったら、日中は十二分に一本しかない電車が出たばかり。吹きっ晒しのプラットホームで待つのも嫌だったので、歩いて帰ることにしました。



 常磐線添いの道を戻ると、慶林寺があります。ここも曹洞宗のお寺。
 永禄八年(1565
年)、 高城胤辰(たねとき)が母(珪林尼)の冥福を祈って建立した桂林寺(「珪」林寺ではない)がこのお寺の歴史の始まりです。胤辰は大谷口城を築いた胤吉の嫡子です。

 案内板には本堂裏に珪林尼のお墓があると書かれていましたが、門は固く閉ざされていました。入口は正門だけのようで、中に入ることは能わず。
 これまでいくつかのお寺を巡ってきましたが、門が閉ざされて入れなかったのは初めてです。
 この日一日では「桂」と「珪」の不一致は解決しません。また宿題。

 道なりに進むと、再び大勝院の参道入口に出ます。参道は緩くカーブをしているので、お寺は見えません。ちょっとだけ首を突っ込むような形で参道に入り、遠く公孫樹を眺めて帰路に着きました。

 庵に帰り着いてドラゴンズが阪神を三タテしたのを知りました。めでたしめでたし。


ムクロジ(無患子)収穫

2010年04月04日 09時57分58秒 | のんびり散策

 昨日、流山市内の観音寺を探訪し、ムクロジ(無患子)の実を収穫してきました。



 観音寺手前の荒れ地で見たツクシ(土筆)。
 まだ採りごろ、食べごろです。



 我が庵を出てから徒歩四十分で観音寺に着きました。
 さて、目指すムクロジの樹は? と見渡すと、前回訪問した赤城神社にあったものと同じ標識があって、容易に見つけることができました。
 樹高は10メートルぐらい。北上尾・龍山院の古木とは較べるまでもなく、赤城神社の樹よりも若そうです。
 その代わり、枝にはまだ無数の実が残っていました。



 地面にもいっぱい落っこちていました。思わぬ大豊作(?)に、私は思わず小躍り。腰をかがめて拾い始めました。
 果実でいうと、蔕(へた)のところが爆ぜて落下するようですが、先日の強風のせいか、小枝ごと飛ばされたらしきものもありました。拾っていたらキリがないので、十四個で打ち止め。
 じつはキリのいいところ、十五個でやめたつもりでした。しかし、家に帰って何度数え直しても十四個だったのです。



 ツワブキ(石蕗)。
 弘法大師一千百五十年御遠忌報恩塔の前にありました。ムクロジの葉が茂るころには日陰になりそうです。



 観音寺本堂。
 真言宗豊山派のお寺です。創建は江戸時代初期とだけ伝えられて、年代はつまびらかではありません。



 観音寺の隣にある香取神社の参道です。
 周辺はのんびりとした田園地帯でした。ベートーヴェンの「田園」のメロディを口ずさみながら歩きます。



 江戸川の堤防は目と鼻の先。遠くから眺めると、菜の花が黄色い絨毯を布いたように咲き誇っていました。

 観音寺があるあたりは流山市「木(き)」という変わった地名です。江戸川沿いに北のほうへ行くと、「加(か)」というところがあります。つい「く・け・こ」もあるかと思いますが、そういう駄洒落のようなことはない。
 合併して流山市ができるまでは「木村」とでも呼んでいたのでしょうか。いまのところ調べがついていません。



 観音寺から前回訪れた赤城神社までは江戸川の堤防添いを歩いて三十分。
 道は流山橋のたもとで切断されて、車の通行量が多い道を横断しなければなりません。道路添いの桜はちょうど満開でした。



 赤城神社の手前に流山寺がありました。
 我が宗旨・曹洞宗のお寺。流山七福神の一つ大黒天が祀られていました。



 赤城神社の大注連縄です。
 前回とは違って陽射しがあったので、クローズアップしてみました。



 赤城神社のムクロジです。
 根元で二股に分かれています。観音寺のものとは樹形が違うような……。

 


 赤城神社の別当・光明院本堂横にあるタラヨウ(多羅葉)の樹です。
 葉を裏返して爪先や爪楊枝などで字を書くと、いつまでも消えずに残っているとのこと。
 まだ紙のないころ、インドでは経文を遺しておくのに、バイタラジュ(貝多羅樹)というヤシ科の樹の葉が用いられたそうです。法隆寺には世界最古といわれる貝多羅樹般若心経写本(八世紀後半)が伝えられています。葉っぱがその樹に似ていることから、多羅葉と名づけられたらしいのですが、こちらはモチノキ科。
 どうやら葉書という言葉はこういうことが語源らしい。

 手の届きそうな葉の裏側は、すべて先人が何かを書き込んでおりました。裏返しにした一枚には病気平癒の願。その他、縁結び、合格祈願などなど。絵馬を奉納するようなものです。
 葉先を摘んだ私の手に握られているのは、隣の赤城神社で引っぺがしてきたムクロジの樹皮です。



 光明院から一茶双樹記念館の前を通って、前回も訪れた長流寺へ。こちらに祀られている流山七福神は恵比寿神。
 前回はここから流鉄の平和台駅に出ましたが、今回はJR南流山駅に出ました。

 以下はまったく偶然の話。
 昨日は陽射しこそありましたが、私にとっては鬱陶しいと感じられるだけの風があって、ときどき強く吹いていました。
 ところが、観音寺に着いたときには、不思議とピタリと治まったのです。感謝の意をこめてお賽銭をあげました。
 そこから江戸川堤防を経て庵に帰るまで、ほとんど無風状態でした。庵に帰ってしばらくしたらまた風が出て、急に冷え込みました。
 今日は(昨日の段階の)天気予報が外れて、薄ら寒い曇り空。

 


 昨日収穫してきた無患子の実。全十四個の全貌です。
 採ってきたときのままをカメラに収めましたが、凹んだところの汚れを洗い落とし、柔らかい布で磨くと、まるでプラスチックでつくった飾りのようになって、とても自然のものとは思われなくなります。

 樹皮も引っぺがして盗ってきました。
 左上=友人が送ってくれた奈良・春日大社のもの。右上=北上尾・龍山院。左下=観音寺、右下=赤城神社。

 春日大社の樹齢は不明ですが、同大社のホームページで画像を見る限りは充分に古木です。龍山院は三百年。ともに樹皮が厚い。観音寺と赤城神社はまだ若いようで、薄いのです。
 実はこんなにあっても仕方がないので、連絡のつけられる方がいらっしゃればお分けします。ただし、発芽するかどうか保証の限りではありませんから、保証書はつけておりません。
 どうしても樹がほしいという方は↓
http://shop.yumetenpo.jp/goods/d/kiyotaki-nursery.co.jp/g/PMU0003/index.shtml


↓今回の歩いたところの参考マップを付け足しました。
http://chizuz.com/map/map67168.html


春嵐・夜寒

2010年04月02日 21時57分16秒 | 風物詩



 昨日の勤め帰り、「こざと公園」の夜桜見物用の提灯に灯が入れられているのを見ましたが、昨日は春嵐の疾風、今日は夜寒とあっては桜を愉しもうなどという人は一人もいませんでした。
 桜の咲く季節には決まって肌寒い日があるものですが、最高気温が10度に届かない日が何日もあるなんて、近来稀です。加えて今年は桜が咲いてから氷点下を記録した日が二日もありました。

 


 我が庵と新松戸駅の中間にあるマンションでは、毎年桜のライトアップという洒落たことをやってくれます。人様の敷地なので、普段は通り抜けることはありませんが、一年に一度か二度、桜の咲く季節だけ無断で侵入して無断で写真を撮らせてもらいます。

 このマンションの脇の道をすり抜けて行くのが駅への一番近道なのですが、なぜか私は毎朝毎夜遠回りをしています。
 遠回りする道には飲み屋街があって、前はそちらを通るのが必然でありましたが、病気をして以来、その必然性は失われました。それでも私は我が道を行く。アバンチュールなど期待もしていないのですが……。

 去年十一月八日に種を播き、わずか十二日後に芽を出した我がベランダの紅花。
 間引きをしたあと植え替えしようと思いながら、ついそのままにしておいたら、ヒョロヒョロと伸びて、高さが30センチほどにもなりました。
 先日の低気圧で叩きつけられ、泥まみれになったのを、霧吹きで泥だけ落としてまたそのままにしておいたら、この春嵐で再びなぎ倒されてしまいました。今度こそ植え替えて支柱を建ててやろうと思います。

 紅花と聞くと、私は上杉鷹山と鷹山の時代に米沢藩の執政であった竹俣当綱(たけのまた・まさつな)のことを思い、ずっと植えたいと思っていたのですが、鉢植えが売られているのは見たことがなく、種もお目にかかったことがありませんでした。
 去年、ようやく種が売られているのを見つけたのです。
 小さな芽がいっぱい出たのを見たのは十一月二十日のこと。あな、うれしや、と思ったのも束の間、私はその夜から胃潰瘍で入院することとなりました。



 流鉄線路際の桜が今年も見事な咲きっぷりを見せてくれていますが、春嵐の空が背景ではパッとしません。



 その桜の根元に咲いていた木瓜(ボケ)の花。
 桜より先に咲いて、桜より遅く散る。いまの時期だと、みな桜に気をとられ、空を見上げながら歩くので、あまり顧みられることもない。何やらゆかしい。



 北上尾の龍山院で拾ってきた無患子(ムクロジ)の樹皮と実です。実は二つ収穫したのですが、一つはなかば土に埋もれ、まさに土に同化せんばかりだったので、とりあえず菜の花を植えている鉢の片隅に埋めました。
 私のカメラでは上手く写せませんが、実は半透明の飴色をしています。振るとコロコロと音がします。
 地面に落ちていたものを拾ったのですが、樹皮はベリベリと引っぺがしてきたものです。採ってきたのではなく、盗ってきた、と言い直すべきかもしれません。

 明日は第一土曜なので、仕事は休みです。最初に無患子を見に行くつもりだった流山の観音寺へ行きます。
 春らしい陽気に恵まれたら、江戸川堤を散策します。