新坂川の残桜を見に行きました。好天で暖かいせいもありましたが、近距離とはいえ、腰痛を抱える身で、買い物以外に出かけようという気になったのは久しぶりです。
ソメイヨシノに較べると白っぽい山桜(?)。
満開からほぼ一週間。桜はまだ見ごたえがありました。
近くに寄ってみると、ほとんど葉桜でした。
風に吹かれて舞い落ちる無数の花びらも、花いかだをつくるまでにはなかなかまとまらぬようで……。
鳩も花いかだができるのを待っているようです。
地面にはたくさんの花びらが落ちて、吹き溜まりができていましたが、流れる川に落ちてしまうと大した量ではないのでしょうか。
近くのゆりのき通りではユリノキの芽吹きが始まっていました。
今月の薬師詣では練馬区の石神井公園近くを歩きました。
私が初めて所帯を持って住んだのはその石神井公園に近い上石神井というところ。石神井公園にはしょっちゅう行っていて、勝手知ったる我が庭同然……と油断をしていました。
初めて所帯を持ったのはちょうど半世紀も前のことです。かつては地上にあった石神井公園の駅が高架になっている、ということをテレビで視たのか、知ってはいましたが、実際に降りてみると、様相がまったく変わっていました。高い建物はなく、見晴らしのよかった駅前はビルが建て込んでいて見晴らしが効かない。
それでも公園がある方角はわかっているつもりで歩き始めましたが、公園から駅の間にはなかったはずの、区役所の分庁舎があり、石神井警察署があったりして、半世紀もの間があるのだから、移転してきたりしても不思議はないと歩いていましたが、スマートフォンの地図を見て間違った道を歩いていたことに気づきました。
今日、最初に目指すのは道場寺ですが、途中に石神井公園があるので、花見をして行きます。
休み明けの月曜日でしたが、結構な数の花見客がいました。
石神井池に映える桜と池面を飾る花びら。
道を間違えながらも、石神井公園駅から十六分で道場寺に着きました。いまから七百年以上も前の文中元年(1372年)に創建された曹洞宗のお寺です。
当時の石神井城主だった豊島景村の養子・輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。
我が宗派のお寺なので、慣例に従って歴住の墓所を参拝、香華を手向けたいと考えましたが、このような触れ書きがあったので、参拝することは断念。
三重塔。
隣に三宝寺(真言宗智山派)があるので、寄って行きます。
ここは先の道場寺より古く、応永元年(1394年)、鎌倉・大楽寺の大徳権大僧都・幸尊法印が現在地周辺に創建しましたが、文明九年(1477年)、太田道灌によって現在地へ移転、
三宝寺から十三分の禅定院は照光山無量寺といい、真言宗智山派の寺で、本尊は阿弥陀如来です。豊島八十八箇所霊場第七十番札所でもあります。
「新編武蔵風土記稿」はいまから約六百年前、願行上人によって開かれた寺であると伝えています。文政年間(1818年~30年)の火災で、建物・記録などことごとく焼失しました。
禅定院から二十一分で、今日二つ目の目的地・観蔵院に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「宝蔵院 新義真言宗。上石神井村三宝寺門徒慈雲山ト号ス。本尊不動」と記されています。元々は三宝寺の塔頭寺院の一つとして建立されたもので、文明九年(1477年)、三宝寺が現在の場所へ移転した折、この地に移ったといわれています。
今日四月八日は降誕会でもあります。本堂前には花御堂が設けられていました。
観蔵院境内の桜。
帰り途、名前につられて寄ってみました。石神井川に架かる、その名も薬師堂橋ですが、周辺に薬師堂を思わせるような建物はなく、掲示もないので、なぜこのような名がつけられたのかは不明です。
薬師堂橋から眺めた石神井川の桜。
帰りは石神井公園駅の一つ池袋寄り・練馬高野台駅から。
この日、歩いたところ。
東京で桜が満開となったのは四日。我が地方はその手の報道がないので、いつ満開を迎えたのか知るすべがありませんが、気温でいうと、いつも東京よりちょっぴり低いことが多いので、一日遅れの五日ということにしておきましょうか。毎年のことながら、桜の季節は花曇りが多くて、気分も晴れません。
ずっと曇りだった空、午後になると、陽射しが出たので、買い物ついでに、近くのさざんか公園の桜を愛でに行きました。
カメラに収めてみると、あまりパッとしませんでしたが、数本ある桜の樹は満開でした。
晴れたとはいっても雲が多く、陽射しの遮られることも多かったものの、こんな青空が拡がるとは思ってもみませんでした。
スーパーでは缶酎ハイを買って帰りましたが、相手もいない独りでは意気も上がらず、花見酒とも行かず、虚しく持ち帰りました。