紅花の種を播きました。本当は八日に播きたかったのですが、八日は毎月恒例の薬師詣での日。帰ってきたのは薄暗くなった時刻だったので、翌日に播いたのです。
十月中に、通販で種を手に入れておきました。
九年も前のことになりますが、その年の十一月八日に紅花の種を播いた、ということを思い出したので、久しぶりに育ててみようかという気になったのです。
九年前、なぜ紅花を播いてみようと思ったか、ということは淡い記憶しか残っていません。NHK総合の正月時代劇「上杉鷹山 ― 二百年前の行政改革 ― 」を視たのがきっかけです。いま、インターネットで検索してみると、放送されたのは1998年の一月二日でした。出演者は上杉鷹山を演じた筒井康隆、改革の主導者・竹俣当綱は中村梅雀らでした。このドラマに紅花が登場してきたかどうかは、じつは私の記憶にありません。
最上川地域の紅花生産量は江戸時代中期の享保年間(1716年-36年)には全国の四割を占めていたという記録がありますから、竹俣当綱(1729年-93年)が藩政に登場する前に、すでに特産品としての地位を占めていたことになるので、藩の財政を豊かにするために栽培が始まったわけではありません。なんとなくイメージが残っていて、このドラマというと紅花、と思い込んだのかもしれません。
当時はマンション住まいでしたから、プランターで栽培するほかなかったのですが、同じ日にしようと思った、ということに特別な意味はありません。語呂合わせをしようか、という程度のことです。
種の入った袋の説明書きを読もうとして、紅花の別名が末摘花だということを初めて識りました。なぜ末摘花と呼ばれるのか、そこまでは記されていないかったので調べてみると、茎の先端につく花を摘み取って(末摘む)、染色に用いることからそう呼ばれるようになった、ということです。
種は白くてこんな感じ。
末摘花といえば「源氏物語」五十四帖のうちの第六帖に登場する女性です。すこぶる醜女であったとされています。加えて、高貴な家柄であるのに貧乏。
しかし、常陸宮というれっきとした皇族で、昔はお金があったので、「表着には黒貂の皮衣、いときよらにかうばしきを着たまへり」と奇抜なファッションであるが、非常に高級なセーブルの毛皮に香を焚き染めて着ていることによって、父宮ありし日の裕福さと亡きあとの没落が見事に表現されています。
そうしてふと四十年以上も前のことを思い出しました。
バブル期でした。私より少し年上の女性社長としばらく付き合ったことがあります。付き合ったといっても、交際したわけではありません。家庭用品を販売する会社を経営していて、雑誌記者だった私にパブリシティの仕方とか、効果的な広告の打ち方とか、自分や自分の事業を記事として取り上げてくれそうな雑誌や新聞はないか等々……もろもろご教示願いたいといってきたので、付き合うことになったのです。
いまどきそんな人はいないだろうと思うのですが、豹(本物)の毛皮のコート、それもハイヒールを履いて歩いても、裾が路面を撫でているのではないかというほどの、超々ちょ~マキシのロングコート(¥ウン十万、では済まず、もしかしたら、¥ウン百万の代物であったかもしれません)を着て闊歩する姿は見ていて惚れ惚れしました。
その当時、アート引越センターの寺田千代乃さんが経団連に入ったことがヒントになったのでしょうか、ある保険会社が先物買いをして、女性経営者の会のようなものをつくりました。たまたまその保険会社の広報担当者を知っていたので、彼女は私の推薦でメンバーの一人になりました。
久しぶりに思い出したついでに、なぜ付き合いがなくなったのかを思い出そうとしましたが、どうしても記憶の糸が繋がりません。
することがないので、昼間っからビールを呑んでいます。 齢とともに堪え性がなくなってきているので、記憶を取り戻そうという気持ちも途中で切れてしまいました。
紅花と一緒に桔梗の種子も買っておきました。桔梗のほうはもう何十年も前から栽培していますが、ここ数年は栽培するのをやめていました。
折角庭のあるところに棲むようになったので、庭の一角を桔梗畑にしてやろうかと考えたこともあるのですが、庭の土が適していないのでしょう。桔梗は宿根草で何年かはつづけて花を咲かせるはずなのに、一年目はなんとか花をつけたのに、二年目は芽を出さない。おかしいと思って土を掘り返してみると、小さな大根を思わせるような根があるはずなのに、すっかりなくなっているのです。
素人が研究したところでわからないかもしれませんが、昔はそこそこ旺盛だった研究心も、齢とともに衰えています。
我が庭の一角です。三つ葉が生い茂り、年々広さを増しています。
三つ葉が一年草か多年草か、などということは考えたことがありませんでした。はっきりとした記憶はありませんが、真冬のころには姿を消し、春がくるといつの間にか芽を出しています。
何年か前、ここに植えた、という記憶は朧気にあります。
かつ丼の添え物か、お吸い物に入れようと思ったのか、スーパーで買ってきて、使わなかった残りを、根っこのところのスポンジがついたまま土に埋めた記憶があります。
忍者の里、三重県は伊賀生まれの斑なしのツワブキ(石蕗)です。
九年前、奈良に棲む友が送ってくれたものですが、八年の間、なかなか大きくならず、去年グイと大きくなったと思ったら、初めて花を咲かせてくれました。今年も蕾を載せた茎を伸ばしていますが、どれほど咲いてくれるのでしょう。
玄関前にある、やはり忍者の里生まれのツワブキ。こちらは斑入り。まだ蕾が見当たりません。
いつも通る径にある斑入りのツワブキ。日当たりと関係があるのか、それともそれぞれの花の個性なのか。すでに満開に近い咲きっぷりでした。
今月の薬師詣では春日部へ行ってきました。
出かける前に地元の慶林寺に参拝して行きます。
JR常磐線~同武蔵野線~東武伊勢崎線と乗り継いで、北小金駅から五十三分。降り立ったのは北春日部駅です。
今日参拝する楽應寺まではこの西口ロータリーから「春バス」という春日部市のコミュニティバスがありますが、運行は変則的で、火・木・土の週三日のみ。今日は金曜日なので、バスの運行はありません。よって、バスなら4分ほどで着いてしまうところを、二十分ほどかけて歩きます。
そのあと、少し先にあるお寺二か寺を訪ねて、この駅に戻ってくる予定なので、計一時間ほど歩くことになります。
駅前の風景は少し異様です。駅前からまっすぐに伸びる道路がありますが、その道をほんのちょっと歩くと、左右には広大な稲田がつづくようになります。
いまは稲刈りの済んでしまった季節なので、だだっ広い野原が拡がっているだけのようにも見えます。
350メートルほど歩くと、ようやく前方に住宅や商店、駐車場が目に入るようになって、マツモトキヨシとかコモディイイダという看板が見えるようになりました。道路にはこんな看板が建てられていて、通りの名はかえで通りというのだとわかりました。
北春日部駅から二十分ちょっと。中心街らしきところを抜けた先に内牧塚内古墳群がありました。六世紀から七世紀中ごろにかけての古墳群です。
後ろに見える林の中に遺跡があるようですが、今日の目的は別のところにあるので、掲示板をザッと読んだだけで立ち去ります。
古墳群前から四分。木陰に一軒の民家がある、と思ったら、これがお寺で、目的の楽應寺でした。
思わずお寺? と思ってしまうような雰囲気でしかないのは否めませんが、ちゃんと回向柱もあります。寅年のご開帳のときは本尊の薬師如来から伸ばされた善の綱がこの回向柱に結ばれるのでしょう。
窓際に提げられた二丁の提灯には明かりが灯されていましたが、堂内は薄暗くてよく見えません。人がいる気配はありませんでした。
差し掛け屋根の上に二頭の寅がいました。
イチョウ(公孫樹)の巨樹に気をとられていましたが、左にある半分ほどの高さの樹はムクロジ(無患子)でした。
葉っぱが何となく……と訝って、樹下にしゃがみこんでみると、紛れもない無患子の実が落っこちていました。思わぬところで会うことができました。
引き上げるときになって、小さな山門があったのに気づきました。
山門横に薬師如来に関する説明板が建てられてありましたが、お寺の由来等の説明は何もありません。
どういうお寺なのだろうと、帰ってから調べてみましたが、なんと埼玉県には宗教法人としての届け出がなされていないようです。そして、いまのところはどういうことなのか要領を得ないのですが、住職という人がおらず、一般の人が管理をしているようです。
今日の薬師詣ではこの楽應寺だけですが、近くに我が宗派(曹洞宗)のお寺があるので、足を延ばします。
楽應寺から七分ほどで香林寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「曹洞宗、常陸国行方郡上戸村(現・茨城県潮来市)長谷寺末、内牧山と号す。開山真叟永禄十三年(1570年)三月十三日寂す。本尊釈迦を安ぜり」と記されています。
曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所を訪ねて参拝します。
香林寺をあとに十分足らずで鷲香取神社。
創建は仁和(885年-89年)のころで、祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)。
香林寺から道なき道のような畦道を歩いていたら、前方に高いイチョウ(公孫樹)の樹が見えました。お寺かお宮でもあるのだろうかと思って訪ねたところ、鷲香取神社だったという次第です。
幹周は5・3メートル(実測はもっとあるらしい)、樹高20メートル、樹齢は二百年から二百九十九年といわれています。
新しい住宅地を抜けると、最初に通り過ぎてきた原っぱだか休耕田だかわからない、だだっ広いところに出ました。
行きに歩いたかえで通りは車も通れる広い通りでしたが、帰りに歩くのは畦道です。帰ってから、地図を元に大雑把に計測してみると、かえで通りからは350メートルも離れています。
その畦道を歩きながら、南方を望んだ風景。
同じく北を望んだ風景。赤城山らしい山陰が見えていましたが、コンパクトデジカメでは捉えることができませんでした。
北春日部駅近くまで戻ってくると、梅田寺がありました。
「新編武蔵風土記稿」には「葛飾郡小淵村(現・春日部市小渕)浄春院末、江南山と云、元和四年の建立にて、開山俊良承應二年(1653年)十月十日寂、本尊正観音、運慶の作と云」と記されています。
梅田寺も曹洞宗の寺院です。歴住の墓所を訪ねて参拝します。
このお寺に参拝して今日のお勤めは終わりです。くるときに降りた北春日部駅に戻って帰ります。