桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

厄日と隆光と綱吉

2009年05月26日 12時43分17秒 | つぶやき

 もうかなり前のことでありますが……仕事で新横浜へ出向いたとき、仕事の終わった時間が近隣に住む人々の帰宅時と重なりました。私は隣の菊名で東横線に乗り換えて帰るのですが、乗り換えには階段を降りて上り、また降りなければなりません。
 菊名に着く
と、すぐにでも渋谷行の電車のやってきそうな時間になっていました。急いで乗り継ぎの改札を抜けようとしましたが、反対方向の電車が着いた気配があったので、これは間に合わぬと諦めかけました。
 反対方向の電車とは渋谷からくる電車ですから、きっと勤め帰りの人が大勢降りてきて、階段が塞がれてしまうだろうと思ったからです。

 私が通勤で乗り降りしている武蔵野線の市川大野は一日の乗降客が一万一千人という小さな駅ですが、帰宅時、東京方面からの電車が着くと、階段いっぱいに拡がって降りてくる人たちがいて、しばし階段の下で待機しなければなりません。
 その電車は私が乗るべき電車でもあるので、むざむざ一本やり過ごすことになります。ヤレヤレと思いながらも、山手線とは違って、十~十二分後にしかこない次の電車を待つしかありません。

 若いころであれば ― ラグビーをやっておりましたので、密集に飛び込んで行くのはむしろ望むところでした。身のこなしも軽かったし、フェイント、ダミーパスは自家薬籠中のものでしたので、おそらく人と人の間隙を突いて階段を上ることもできたでしょう ― その若いころならいざ知らず、いまでは突進し切れず、弾き飛ばされて、階段から真っ逆さま……では目も当てられません。

 ところが、菊名の駅で階段の下に到った私は逆の意味で唖然としました。上り階段を降りてくる人が「見事に」一人もいなかったのです。
 電車からは大勢の人が降りていました。その人たちが階段上で、整然と列をつくって降りる順番を待っていたのでした。

 なぜこんなことを書いたかというと、私が横浜というと厄日と結びつけ、まるで横浜を忌み嫌っているかのような印象があろうかと思ったからです。じつは横浜の人は凄い、ということをいいたかったのでした。

 ところで「厄」については、将軍綱吉の時代 ― 新義真言宗の僧侶隆光(1649年-1724年)がいいことをいっています。

  ― 仏儒の書を見ると、厄などということは見当たらない。これは末世の淫巫邪僧たちが愚民を惑わし、神道の祓いとか禊ぎをもじって、厄払いということをさせ、いたずらに私腹を肥やすためである。
 四十二を厄年というのは、自分の考えでは「始終荷(しじゅうに)」、つまり苦労の絶えない年回りという語呂合わせで、三十三を女の大厄というのは「産重産(さんじゅうさん)」、つまり難産という語呂合わせである ― と。

 これは将軍綱吉が四十一歳の年、来年の大厄が気になって仕方がないので、どうすれば厄除けができるか、と訊ねたときの隆光の答えです。

  ― だから、年によって吉凶禍福のある道理がない。ことに天下を撫育する将軍においてをや、というわけです。

 厄年というものもなければ、当然厄日などもない。
 横浜行が厄日に当たったと騒いだあとで、私は少し心を入れ替えることにしました。
 もし税関で引っかかることがなければ、帰りの首都高速で自分が事故を起こさないまでも、事故の巻き添えを食らったり、事故現場に出くわして足止めを食っていたかもしれぬ、と考えたりすることにしました。そうすれば、厄日などと思うのは見当違い。逆に、幸運な日であった、ということになるわけです……。

 この隆光大僧正は綱吉の生母・桂昌院の帰依が篤く、日本史上類を見ない悪法「生類憐令」を出させた張本人と考えられてきましたが、近年になって、この悪法のうちの最初の法令が世に出されたころはまだ江戸にいなかったということが明らかになって、謂われのない濡れ衣を晴らしました。

 ただし、そちらの濡れ衣は晴らしたものの、桂昌院の甘言に乗ったか、あるいは逆に乗せたか、京奈良の荒廃した寺社の再建に莫大な金を使わせたことは紛れもない事実。ために幕府の財政は大いに傾きかけてしまった。そちらの張本人ではあります。

 朝夕は依然として肌寒いものの、やっと夏……と実感できる陽気になってきました。今朝は出勤途上の流鉄線路端の薔薇(バラ)と、いつもの紫陽花径(アジサイみち)の紫陽花を撮影しました。



 左手のレンガ色の建物に、「K」という店の名前が写っています。最近行っておりませんが、勤め帰りによく轟沈した店です。
 店は一つですが、K1、K2、と二つの店があるようないわれ方をしています。すなわち二部制になっていて、K1が私のようなおぢさんが轟沈する店で、午前二時まで営業。K2はホストクラブとなって二時からの営業。

 この日はシャッターが下りていましたが、何人かのホスト君と若い女の子が、歓声を上げながら店から出てくる、という光景を私が出勤する朝八時という時刻に目にすることはしばしばあります。


厄日の横浜と紫陽花日記(4)

2009年05月24日 22時39分47秒 | 風物詩

 疲労蓄積気味だったので、ブログの更新がおろそかになっていました。二十二日の金曜日、横浜港へ輸入貨物を取りに行って、ことのほか疲れてしまったのです。
 横浜へは年間二十四~五回行きます。半分は事務手続きなので電車、残り半分は貨物の引き取りですから、会社のワゴン車か、量が多いときは幌つきの2トントラックを借りて行きます。
 金曜日の天気は晴れたり曇ったりで、さほど暑くはなりませんでしたが、一日じゅう強い風が吹き、ときおり突風にも見舞われたりして、私にとっては不愉快な一日でした。
 さらにもう一つ愉快ではないことが加わって、横浜=厄日という認識が決定的になりつつあります。
「ああ、厄日だ」と思うような日は、実際は二十四~五回行くうちの三日か四日に過ぎないのですが、嫌なことという思い出は増幅されがちなので、「=」になりそうなのです。

 今日は厄日かも……という予感は朝九時前、横浜税関鶴見出張所を捜し当てたときに脳裏をよぎりました。

 引き取りに行く貨物を積んだ船は東京港に入ったり、横浜港に入ったりと一定ではありませんが、大部分は横浜港です。
 横浜港の税関は本牧埠頭、山下埠頭、大黒埠頭、そして鶴見と四か所あります。輸入された貨物がどの地域の倉庫会社に搬入されたかによって、輸入許可をもらいに行く税関が決まるのです。
 ほとんどは本牧扱いで、ごくたまに大黒ということがあります。山下と鶴見は未経験でしたが、先月は山下、この厄日は鶴見と、いずれも初めての税関という珍しいことがつづきました。

 首都高速を大黒ランプで降り、地図を頼りに、右折すべき交差点に辿り着いて、「横浜税関鶴見出張所→」という表示があるのを確かめて右折したのですが、税関が見当たらないまま道路は運河にぶち当たって行き止まりになってしまいました。
「アリャリャ」と呟いてUターンしましたが、キョロキョロ見廻しながら車を進めると、再び右折した交差点です。また「アリャリャ」と呟いてUターン……。呟くだけでは仕方がないので、近くの倉庫会社の事務所に入って訊ね、やっと所在を突き止めました。



 本牧も大黒も山下も、税関の建物は青灰色の壁ですが、鶴見だけ異なっていて、白い建物でした。取り扱う貨物量にも相当するのでしょうが、建物自体も小さい。
 案内表示に従って担当部署に出向くと、部屋全体に数人の税関吏がいるだけでした。厄日になるのではないか、という懼れはより現実味を帯びてきました。

 
なぜ厄日かというと、扱い貨物が少なくて閑な税関は「イチゲン」の客に「検査」というご託宣を下すからです。税関に訊けば、決して閑だからではないというでしょうが、私のみるところ、そうであるのに決まっています。
 案の定、「検査」というご託宣が出て、その日一日の予定はガタガタになってしまいました。

 普通は税関に申告書類を提出し、記載事項に矛盾がなければ、税金を払って輸入許可をもらい、倉庫会社から貨物を引き取って帰る、という手順になるのですが、「検査!」というご託宣が下ると、税金を払う前に貨物を引き取ってきて、赤外線検査を受けなければなりません。
 一時間は余分にかかるし、余計な往復もしなければなりません。
 赤外線検査だけでは済まず、梱包を開けて中を確認するということもあります。するとまた三十分は余計にかかる。

 時間を取られるのも問題ですが、倉庫会社で積み込んだ貨物を、税関でもう一度上げ下ろししなければならないという労働も問題です。一箱50キロの梱包が七個も八個もあるのです。税関吏は手伝ってくれません。
 ごくごーく稀に、「手伝いましょう」といってくれる人もおりますが、そんな係官は奇特な人です。

 通常だと昼ごろには勤め先に戻ってきます。しかし、厄日のこの日は十二時になっても、まだ横浜にいました。
 税関の昼休みは十二時十五分から。その時刻になって、やっと貨物は我が物となりました。

 埠頭周辺には食事をするところがありません。昼が近くなると、いろんなところに弁当屋が臨時の店を出します。
 弁当を車の中で食べるのも侘びしいので、近くの大黒税関に向かいました。ここには食堂があるのです。
 500~550円というランチは日替わりで、行ってみるまで何が食べられるのかわかりませんが、値段を考えれば、まあ致し方なしという味です。御飯と味噌汁はお代わり自由、お茶もあります。
 そこで、行ったわけですが、厄日はロクなことがありません。何かの竜田揚げでしたが、無闇矢鱈に固いのです。さらに醤油味が濃い。
 この日は朝が早かったので朝食を取っておらず、腹を空かせていましたが、あまりにも私の口には合わなかったので、残してしまいました。

 
翌二十三日は第四土曜。出勤でした。前日の名残の筋肉痛に悩まされながら、一本早い電車に乗って、紫陽花径(あじさいみち)を歩きました。



 花の色づきは日々濃くなっています。 

 


 上の写真は今朝。下の写真は三日前の二十日。同じ場所で撮影したものです。



 私がひそかに紫陽花アパートと名づけているアパート前の紫陽花です。丘の陰で朝日の当たらない群落に較べると、日当たりは遙かにいい場所なのですが、まだ色づきは見られません。


紫陽花日記(3)

2009年05月20日 23時03分24秒 | 

 今朝、目覚めたら八時十三分……。
 いつも庵を出るのは八時二十分です。飛び起きて、服を着て、顔を洗うのもそこそこに庵を飛び出す、という芸当ができぬわけでもなかったのですが、そこまでしゃかりきになることもないか、と思って、まずは布団の上であぐらをかき、煙草を一服……。

 歳をとると目覚めが早いといいますが、私も知らず知らず目覚めるのが早くなって、ふだんは六時には目覚めています。枕許にアラーム付きの時計を置いてはいますが、滅多なことではアラームをセットしたことがない。
 昨夜も寝たのがとくに遅かったわけではないので、寝坊するとは思ってもみなかった。

 プヮーッと煙を吐き出して時計を見ると、八時十六分。点けたテレビではNHKの「つばさ」が始まっています。私の大嫌いな、うるさい女優がレギュラーで出ていて、おそらくは地そのままに、ギャーギャーと喚いています。
 いくらなんでもあと四分では飛び出すこともできません。そこでもう一服して、いまの勤めに出るようになってからの来し方を考えました。

 そろそろ五年目になりますが、遅刻は二、三回。それも電車の遅れという不可抗力が一、二回。
 欠勤は一回。理由は入ったばかりのころに、隔週土曜休みというのを勘違いして、休みではない土曜日に休んでしまったこと。
 そのときは昼ごろに電話がかかってきて、勘違いをしていたとわかったあと、直前の休日出勤の代休、ということになったので、欠勤扱いとはなりませんでした。

 休日出勤は日常茶飯事。むろん代休はなし。
 二年目から一週間、三年目以降十日という有給休暇は一日たりとも消化していない。と、いうよりできない。
 まあ、能書きはともかく……一日ぐらい遅刻しても罰は当たらぬだろうと、自分で自分を納得させるために、煙草を一服二服したのでした。
 結果、一時間遅い電車に乗りました。

 遅刻ついでに径を一本遠回りして、紫陽花を見て行くことにしました。
 今年の紫陽花を初めて見たのは六日前です。六日間ではそれほど変化はないだろうと思っていましたが、色づきは日々進んでいるようです。
 ただ、全部で何株あるのか、数えたことはありませんが、全体から見れば、まだ数%というところ。



 左手がずっと崖になっていて、数十メートルにわたって紫陽花が植えられています。崖の上は市川万葉植物園と小学校です。


 
 崖下の紫陽花径(あじさいみち)の途中に小公園があります。そこではピンク系の花も色づいていました。
 市川大野の駅から歩いてくると、崖下の径はまだつづきますが、紫陽花の群落はその小公園のあたりで終わります。
 花のあるあたりでは、犬を散歩させている人や歩みを停めて花に見入る人もいましたが、花のなくなった先は行き交う人もありません。

 朝飯を食っていなかったので、カメラを鞄にしまい、戻す手でコンビニで買った握り飯を取り出して、パクリパクリとやりながら出社に及びました。


祭りのあと

2009年05月19日 12時15分24秒 | つぶやき

 先週、浅草の三社祭がありました。
 浅草を離れて五年経ちます ― 。その間、三社祭には行ったことがありません。
 思い返すと、三社祭の前はいつも天候不順で、肌寒い思いをしていました。当日は雨、ということもたびたびありました。
 浅草を離れてから、毎年五月になり、肌寒い日がつづくと、そういえば三社が近い、と思うようになりました。

 私が棲んでいたのはビューホテルの裏手。町内会の名でいうと、西浅三北というところでした。
 西浅三というのは台東区西浅草三丁目の略、北は文字どおり三丁目の北のほうという意味です。ところが、南に西浅三南という町内会はなく、代わりにあるのは中部に芝崎中、南部に同東、同西の二つの町内会です。
 芝崎というのは昭和四十年の住居表示変更まで、三丁目全体が浅草芝崎町だったからです。

 三丁目に日輪寺という時宗のお寺があります。
 このお寺が明暦三年(1657年)の大火のあと、芝崎村(現在の大手町あたり)から移ってきました。学僧の集まる寺で、芝崎道場とも呼ばれていたことから、移ってきたあたりも芝崎と呼ばれるようになったということです。
 ということは、西浅三北ではなく、芝崎北でよかったはずなのですが、なにゆえに芝崎を名乗らず西浅三北であるのか、棲んでいる当時は疑問も懐きませんでした。無縁の人となってから、疑問を懐くようになったのです。

 それぞれの町内に二基から三基の町神輿や女神輿、子ども神輿があります。
 西浅三北町内で自慢できるのは、浅草神社氏子四十四か町約百基の中で、おそらく一番大きな町神輿を持っていたことです。ただ、他町の口さがない連中からは「張り子の虎のようだ」と揶揄されていました。確かに図体がデカイことはデカイが、そのわりには軽いというのです。
 法被も白地に黒字で「西浅三北」と、贔屓目に見てもカッコいいとはいえない。汗で濡れると肌が透けてしまうので、何かだらしなく見えました。
 


 当時棲んでいたマンションのベランダ(四階)から撮った町神輿の様子です。
 日曜日に巡行する宮神輿も、この道を上手から下手へと通って行きます。
 宮神輿は一之宮から三之宮まで三基あって、それぞれ一基ずつ三年ごとに巡ってきます。
 宮神輿が通るときは神輿を担ぐ人と見物人と警察の装甲車が一体となって、道路は身動きのとれない状態になります。

 建物の一階を車庫や店舗にしているビルは揃ってシャッターを下ろします。シャッターを上げたままでいると、いつ神輿が雪崩れ込んできて、怪我人が出たり、中のモノが壊されたりするかしれません。揉み合う神輿が流れて、ビルの壁に叩きつけられる担ぎ手もいます。
 私は毎年四階から高みの見物―。

 祭、とくに三社祭ともなると、やはり血湧き肉躍るものがあります。毎年百万人という人が集まる東京一の祭なのですから、昂奮はなおさらです。
 朝から祭り囃子が響いて、神輿担ぎに出るわけでもないのに落ち著きません。遠来の客があったりすれば、昼過ぎにはすでに酩酊状態です。

 しかし……。
 私はやっぱりへそ曲がりなのか、と自分で考えることもありましたが、なんともいえず好きだったのは、祭の当日より、翌月曜日でした。
 今週の月曜日もそうだったように、祭までは肌寒い日がつづくのに、祭が済むと、不思議と夏を思わせるような陽気になります。

 浅草にいたころの私は勤めを持たず、フリーランスの生活をしていました。自由気ままに街を歩くことができたので、祭の翌日の空気を堪能すべく、とくに好んで浅草の中心部-雷門近く-へ昼飯を食いに出ていました。
 いつもなら観光客で賑わう仲見世も人通りは疎らです。三社祭の当日を外して、翌日にこようなどという酔狂な観光客がいるはずはないから当たり前です。

 仲見世が閑散としているのですから、路地を一本折れれば、なおさら人影はありません。時折野良猫が道路を横切るだけ。大騒ぎをしたあと、疲れてしまって、みんな眠っているような印象を受けます。この日が一年を通じて浅草が一番静かな日ではないだろうかと思います。
 街にはけだるい空気が流れているだけです。このけだるさがなんともいえず、佳かった……。



 この画像はなんだ? と思うでしょう。
 怪しげなネットと風の吹き溜まりに逆さに置かれたU字溝。
 三社祭とはまったく無関係な画像。三社祭の終わった翌日、三社祭とは無関係なところで撮ったというだけの話です。
 市川大野の駅と私の勤め先の真ん中あたりに、この吹き溜まりがあります。あと二か月と少々すると、このU字溝の上に青い籠が置かれ、一袋¥400也の梨が入れられるのです。


カメラ片手にいずこへ行かむ(4)

2009年05月17日 17時52分39秒 | のんびり散策

 ゴールデンウィーク後半の四日間、我が庵から日替わりで東西南北の四方へ歩いてみようと思いながら、最終日の六日は悪天候にたたられてしまったので、北の方角だけ行きそびれていました。
 今日は台風を思わせるような雨風なので、一日じゅう籠城やむなしと思っていましたら、昼前に雨が熄みました。目指す廣徳寺は近場ですから、一瞬の隙を突いて出陣することにしました。



 小金(大谷口)城の馬屋敷跡(小公園になっています)から流鉄の小金城趾駅に通じる道路です。街路灯には「大金平商店会」とあるのですが、ずっと先まで行かないと商店はありません ― その先も商店街と呼べるほどの店はありません。



 廣徳寺です。
 寺伝によると、開山は寛正三年(1462年)三月八日。ただし、開山当初は別の場所にあったそうです。
 小高い丘の上にあり、すぐ近くに小金(大谷口)城が築かれるまで、中金杉城という出城があったと推測されています。



 境内の六地蔵。



 本堂前にある唐変木(トウヘンボク)の樹。中国原産の樹で、本当は香椿(チャンチン)と呼ぶらしい。



 廣徳寺本堂です。
 天気がよくないこともあり、境内は無人でした。私が行くところ行くところ、無人なのが当たり前みたいです。
 かつては鬱蒼とした森に囲まれていたようですが、削り取られて現在の寺域に……。狭くなった、といっても、三千坪あります。



 一段高いところに、中世この地を支配し、小金城主でもあった高城氏の墓所がありました。
 石段を上り詰めると三基並んだ供養塔があります。建てられたのは高城氏が秀吉に滅ぼされた遙かあと、江戸時代(天保年間)に入ってから……。



 高城氏墓所から望む小金城趾-中央にちょっとだけ写っている杜です。出城があったというだけに、眺めのいい場所です。

 境内を行き来している間に雨になりました。傘は持っていましたが、時折荒れ狂う風がたまらない。
 本土寺参道入口を横目に見ながら北小金駅へ出て、松戸駅へ……。
 知らなければ本土寺へも行くつもりでしたが、拝観料を取るから行かないほうがいいというアドバイス(コメント)が我がブログにきていたこともあり、雨だったこともあり、パスすることに……。

 松戸駅前は雨の降った様子はなく、路面が乾いていました。
 市立図書館で千野原(せんのはら)靖方さんという方の書かれた「東葛の中世城郭」という本を借り、ボックスヒルという駅ビルのレストランで、遅めの昼食にハンバーグを食べ、生ビールを呑んで帰りました。

 晩酌は欠かしませんが、普段呑むのは焼酎です。それに較べると、ビールは遙かにアルコール度数が低いのに、外で呑むと覿面に酔っ払ってしまいます。
 帰途、新松戸駅前のマツモトキヨシでティッシュペーパーを買いました。そういえばそろそろなくなるころだと思ったからです。別の店ですが、前日、買っていたのです。オイルショックのあとでもあるまいに……。


紫陽花日記(2)

2009年05月16日 20時35分17秒 | 風物詩

 今日は第三土曜で本来仕事は休みなのですが、また出勤です。
 といっても、出社時間の制約はなかったので、自宅を出たあと近くの書店に寄って文庫本を一冊買い、市川大野駅からは道を一本遠回りして、大野緑地下を歩きました。
 紫陽花群落の一角にはほんの一部ですが、もう色づき始めている紫陽花がありました。



 昨日、得意先に出せなかった商品を出すのが今日の出勤の理由です。
 荷造りを終えて、歩いて数分のクロネコの集配所へ持って行き、そこで今日の業務は終了。
 大柏川添いに市川大野の駅へ向かおうとして、ポピーの群落を見つけました。



 このあたりで見かけるポピーはサーモンピンクのものばかりなのに、珍しくピンク色のものが固まって咲いています。



 こんな悲惨なものも見てしまいました。盗難防止の応急措置とはいえ、窓にベニヤ板はねぇだろう。栄えあるジャガーも台無し。

 せっかく出てきたのに、このまま帰るのも業腹でした。下車駅の新松戸を通り越して、五駅先の越谷レイクタウンというところに行くことにしました。
 去年、旧住宅公団の都市再開発に合わせて開業した新しい駅です。再開発といっても、いまのところはイオンの大規模ショッピングモールしかありません。
 広大な荒れ地に、ドンドンとデカイ建物だけつくったという印象で、駅前は閑散としているのに、中に入ると、やたら人が多いのでした。

 船橋のららぽーとや横浜・みなとみらいのランドマークタワーと一緒で、区画ごとに店舗が入り、それが際限なく並んでいます。それだけの店がありながら、歩いている人々にこれまたやたら共通するのは、店名の入ったバッグを提げている人が少ないということです。
 何十メートルという行列ができているのは、はやりのクリスピー・クリーム・ドーナツなど飲食系の店だけでした。

 さらに私にとって不愉快な共通点は、これだけたくさんの人が歩いているということが目に入っていないはずはないのに、急に向きを変えたり、立ち話をしたりと、自分のほかに人はいないと思っている郷在者が多いことでした。
 まあ、突き詰めれば、郷にきていながら、郷在者の存在に肚を立てる私が間違っているのですが……。

 果たして何百店舗入っているのかわかりませんが、ところどころにある地図を見ても、何が何やらわからない。
 ご時世ですから、喫煙できる場所がなかなかないのは致し方なしとしても、喫煙所がどこにあるのかさっぱりわからない。子ども連れが多いのを想定してか、エスカレーターのスピードがやたら遅い。



 ここにきてみようと思ったのは、新松戸にはちょっと大きめの書店しかないからです。文具にはことのほか目のない私を満足させてくれるような文具店もありません。
 しかし、目につくのは飲食系とファッション系の店ばかりです。

  歩き疲れているのを知らされるころ、ショッピングモールに知的(?)なものを求めにきた自分が間違っていた、と猛烈に反省しました。その代わりというのでもありませんが、ジャスコでペッパーミルを買って、何十分の一かの溜飲を下げました。
 本はすっかり諦めて帰ろうとしたときに、未来屋書店という大型書店を見つけました。初めて聞く店名ですが、まさに旱天に慈雨を得るが如し。大型なので、目的の本を見つけるまで、いささか難渋しましたが……。

 ずっと捜しながら買えなかった本を買うことができたおかげで、私はすっかり満足していました。
 帰りの電車は少し遅れていましたが、苛立つこともありません。本を買えたおかげです。
 武蔵野線は昨日の帰宅時も遅れていました。遅れの理由を知らされたところでなんの役にも立たないけれども、駅員も車掌も麻痺しているのか、なぜ遅れているのか、理由をいわない。
 昨日も今日も、暑くない、というより寒いほどなのに、車掌は車内の送風機をブンブン回している。

 次の駅で空いた座席に坐った途端、右腕にグッと重みを感じました。隣の女子高生(中学生かもしれません)が熟睡状態に陥って、頭がぶつかっているのでした。
 男なら問答無用に振り払ってやったと思います。しかし、本一冊買えたことで満足していた私は、彼女も受験勉強かクラブ活動で疲れているのだろうと思ったので、私が降りるまでの数分は夢を見つづけさせてやろうと、読み始めた本のページを繰る指も、そっと動かすように心がけたのでした。


紫陽花日記

2009年05月14日 12時52分38秒 | 



 流鉄線路端の薔薇(バラ)が咲き始めました。
 実際は鮮やかなピンク色をしているのですが、今朝は朝日がかなり強かったので、ハレーションを起こしてしまったようです。
 古いオリムパスカメディアというデジタルカメラを持ち歩いていますが、パソコンに取り込んだあとの画像を見るにつけ、もう少しいいカメラがほしいと思います。
 画像には写っていませんが、左手では立葵(だと思う)が咲いています。



 今朝から市川大野駅から私の勤め先までは通常の道を避けて、大野緑地下の道を通ることにしました。途中、紫陽花(アジサイ)の群落があります。
 これからときおりカメラを向けて、花の開いて行く様子を「紫陽花日記」としてブログに掲載して行くつもりです。



 紫陽花群落の先に梨園があります。ちょうど真ん中、弧を描くように垂れている葉の下の丸いものが梨の実です。
 いまは桜桃を一回り大きくしたぐらいの大きさ。まだ軽いので、天に向かって伸びています。
 これから七月いっぱいまで、日増しに大きくなり、袋で覆われて、やがて収穫されます。しかし、この実が最後まで残るかどうかわかりません。
 こちらも折々写真を撮って行こうと思っています。

 この梨園の手前(紫陽花群落との中間)に鉄線(クレマチス)の花を咲かせている家がありますが、今年はすでに咲き終わったようでした。
 その隣家の出窓に、微動だにしないので、縫いぐるみかと思った猫がいましたが、今日は見ませんでした。

 梨園を過ぎると、私が紫陽花アパートと名づけているアパートがあります。
 道路沿いに植え込みがあって、そこに紫陽花が二株あるので、そういう名をつけましたが、今朝はその真ん前でおばさん二人が立ち話をしていたので、撮影すること能わず。
 こちらの紫陽花も追々……。


向島を歩く

2009年05月11日 00時53分06秒 | 歴史

 五月だというのに、ストーブを点けるか、となかば本気で思ったほど不順な天候のあと、一転して夏の陽気になりました。
 昨十日、向島を歩いてきました。もっとディープな向島散策を考えていたのですが、目的地近くの駅に降り立ったときから暑さでへばってしまっていて、北端をかすめて歩いただけに終わりました。

 目的地は多聞寺、正福寺、木母寺、隅田川神社、その他もろもろ……とあったのですが、当初、地下鉄で南千住まで行き、そこからスタートして、東武線の鐘ヶ淵から帰ろうと考えていたものが、北千住で乗り換える際、地下鉄ではなく東武線のプラットホームに出てしまったので、急遽逆コースを辿ることになりました。

 頭に叩き込んできている地図は南千住からのものです。
 逆コースは考えていなかったので、頭の中でクルリとひっくり返すわけにもいきません。木母寺のあとに訪ねるつもりだった多聞寺と正福寺は端折ることにして、梅若伝説の木母寺に直行しました。

 もともと地理不案内な土地であることに加えて、逆コースというハンディを背負っています。
 ただ、隅田川に出れば迷うこたぁない、という程度の土地勘はあります。このあたりは初めて、といっても、かつては隅田川対岸の浅草に棲んでいたのですから……。
 目印とするのは墨田区のホームページでチェックしておいた都立墨田川高校でした。その隣に木母寺があります。

 しかし、首都高速下の道を行けども行けども校舎らしいものが見えてこない。暑いので喉の渇きを覚え始めましたが、自販機が見当たらない。人通りもない。
 消防庁管理と明記された広大な空き地を過ぎても、学校らしい建物は見えません。おかしいなぁと思い始めたとき、小さなお寺が目に入りました。
 うろ覚えの地図ですが、確か周辺には木母寺以外にお寺はなかったはずです。なんというお寺なのかと訝りながら近づいてみると、なんと「木母寺」とありました。



 なんたるこっちゃ!
 家に帰ってから識るのですが、墨田川高校(正式には同校堤校舎)は六年も前に本校に統合されて消滅していたのです。消防庁管理と書かれた空き地がその跡地でありました。
 都立高校なので、区には直接関係がないとはいえ、六年も前になくなった施設をホームページの地図に載せたまま気づかないという感覚はなんだろうと思ってしまいます。

 謡曲「隅田川」で知られる梅若丸が人買い・信夫の藤太に置き去りにされて、この地(現在の埼玉県春日部という説もある)で死んだのは貞元元年(976年)といいますから、平安中期です。
 千年も前の話……私は歴史には大いなる興味を懐く一人ですが、室町期以前となると、体温が感じられなくなります。
 さらに、もともとの木母寺があったのは、徒歩二分とはいえ、ここから離れたところ。諸事情があって現在地に移築されました。
 だから仕方がないとはいえ、寺の建築物はすべて鉄筋コンクリート造り、路面はアスファルト舗装になっているので、隔絶の感はますます抑えがたくなってしまいました。



 木母寺境内にある「天下之糸平」こと田中平八の碑です。没後七年の明治二十四年(1891年)に建立されたものです。
 この人には絶大なる興味があり、今回の向島散策も、この石碑を見るのが第一の目的だったのですが、私の思い入れを書き始めたら、際限なく取り留めもなくなりそうなので、詳しくは後日。
 揮毫は伊藤博文です。碑の建立発起人には高島嘉右衛門、雨宮敬次郎、茂木惣兵衛、渋沢栄一、大倉喜八郎、福地桜痴、原善三郎という文明開化期の錚々たる顔ぶれが名を連ねている、とのみ記すのにとどめておきます。



 糸平の碑の右手にあった梅若堂。
 消防法だかなんだか知らないが、近辺は木造建築が認可されない地域だとかで、剥き出しの木造建築は許可されません。耐熱強化ガラスに覆われていて、よく見えません。
 そのガラスが反射して、カメラでは上手くとらえられませんが、中に弁天様を思わせる梅若の立像があります。
 弁天様を思わせたのは、ここが芸事向上祈願のお寺だからです。祈願受付所がありましたが、縁のない私は足早に通り過ぎるのみ。



 梅若に因んでか、木母寺裏手には小さな梅林がありました。

 明治期、このあたりは近代日本を象徴するような一画で、もくもくと黒煙を吐く工場が建ち並んでいました。
 鐘紡発祥の地はすぐ近くです。いまは名残は何もありません。跡地北端近くのビルの屋上にカネボウ化粧品の広告塔がありましたが、皮肉にもカネボウ化粧品は名前は鐘紡であっても、すでに鐘紡ではない。



 隅田川を渡って、荒川区側から撮影した水神大橋です。この橋の下流(右手)にあった水神の森が橋の名の謂われです。橋の向こう側、左手が鐘紡跡地です。

 江戸時代初期はこの橋のあたりまで海だったそうです。隅田川(江)が海に注ぐところ(戸)というので、興った地名が江戸です。つまり、川のこちら側と同様に向こう側も江戸の発祥の地ということになるのに、江戸の人からは「川向こう」などという蔑称を与えられています。



 急に訪れた暑さに気息奄々としながら辿り着いた隅田川貨物駅です。
 貨物列車牽引用の電気機関車が整然と並んでいる光景を見られると思っていたのですが、見えるのはコンテナばかりでした。
 このあと、南千住駅へ歩き、遅めの昼に天ざる+もり一枚を食べて帰りました。


行行子飛来

2009年05月07日 21時49分11秒 | 風物詩

 休み明けでボケーッとしています。

 冬の間、丸坊主にされていた「こざと公園」の葦原に夏姿が戻りつつあります。
 先週から葦の葉陰に隠れてギシギシ、ケシケシという小鳥の啼き声がし始めていましたが、連休明けの今日はかなり本格的になっていました。
 行行子(ヨシキリ)です。

 夏になると中国南部から渡ってくる渡り鳥です。
 今年はまだ啼き声だけで姿を見ていませんが、大きさは雀大で、雀よりは細身、赤っぽい身体をしています。
 啼くのは♂で、♀よりひと足先にやってきて営巣地を確保し、ここは自分の縄張りだと主張しているのだそうです。

 小さな身体のくせに、啼き方はオーバーです。鳥の雛が餌をねだるときのように、真上を向いて口を大きく開き、ギシギシ、ケシケシとやります。
 漢字を当てる場合は葦切、あるいは葦雀ですが、その啼き声がギョシギョシギョギョシと聞こえることから行行子(ぎょうぎょうし)とも書きます。スズメ目の鳥なので、葦原雀と宛てることもあります。

 今日は肌寒い一日でしたが、暑いと感じるようになると、一気に数が増えます。それぞれが縄張りを主張し合うのですから、いっときも黙っていることがない。夜でも遠慮なしです。
 ジョッジョッとやっているかと思うと、接近戦になったのか、ギシギシ、ケシケシと声の掛け合いが始まる。しかも、そこらじゅうで接近戦です。ゲゲゲと蛙の声を高くしたように聞こえるときもあります。まあ、どちらにしてもうるさいことこの上ない。

「葦」の字を「吉」に替えて、「吉原雀」と書けば、吉原の遊郭に出入りして、その内情に詳しい者という意になりますが、どことなく知ったかぶりを莫迦にする意味が隠されていて、褒め言葉ではありません。
 素見客、すなわち遊女や物をただ見るだけで何も買わないこと、あるいはその人も「吉原雀」といったりします。つまり、冷やかし……。
 吉原雀のくちばしを閉じる、という言葉があるぐらいですから、人と鳥、両方ともうるさくて敵わない、ということなのでしょう。



 こどもの日も過ぎたのに、鯉幟はたたまれないままです。
 昨日今日と雨模様なので、乾いてから、ということなのでしょうか。それとも、不況で人はあまっているというのに、ボランティアで夜桜見物の提灯を吊したり、鯉幟を揚げたりしている近隣の商店会は人手が足りないのでしょうか。


今日の散策はお休み

2009年05月06日 22時14分40秒 | 日録

 雨は上がりそうで上がりません。
 傘を差してまで出かける気にはならないので、今日は他出しないことにして、午睡を取りました。
 じつは十二時過ぎ、午後三時半過ぎと、出かけるつもりで靴を履いてマンションの玄関まで降りたのです。
 一回目は連休中で出せなかった空き缶とペットボトルを資源回収ごみに出してから、と思っていたので、ごみ置き場へ行って、空き缶とペットボトルを踏み潰していました。
 空き缶が二十缶、ペットボトルが十本近くあったので、潰し終わるまでに結構時間がかかりました。終わったと思って外へ出ると、結構強い雨です。そのまま部屋に戻りました。

 それからずっと霧雨のような雨が降っています。こういう雨だと、部屋にいるのでは降っているのか熄んだのかわかりません。ちょいとベランダに出て下を見下ろしてみれば、道路の濡れ具合でわかるのですが、せっかちな私はエレベーターが下り始めてから、道路を見てから出てくるべきだった、と後悔の臍を噛むのです。

 二度目。
 玄関に出てみると、幽雨でした。本土寺まで脚を延ばすのはやめて、近い廣徳寺だけ行って帰ってこようと歩き出した途端、若葉が出揃ったばかりの欅(ケヤキ)の葉に、パラパラと雨の音です。
 見上げると、ちょうど頭上にひときわ黒い雲がある。
 今日はやめじゃ、と決めて引き返しました。歩いてもいないのに、妙に疲れた気分になっていて、横になったら、いつの間にかウトウトしていました。

 別段散策が趣味というわけではありません。勤めを持っているので、物理的に家に引きこもることはできませんが、もし引きこもれというのなら、多分一か月は一歩も外へ出なくても平気でいられます。食べ物や煙草、酒が用意してあっての話ですが……。
 しかし、この連休中は四日とも小散策に出ようと決めていました。それが満たされないと、なんとなく落ち著きません。



 ベランダの菜の花が満開になりました。その菜の花を見ながら、シークヮーサーの植え替えをしました。
 戯れ半分で、小さな鉢に種を植えたのは八年前です。
 芽を出すことは期待していませんでした。蜜柑、オレンジ、伊予柑、柚子等々……種の入っていた柑橘類は必ず土に埋めてみたものですが、一つとして芽を出しませんでした。それなのに、気候の関係からいえば、もっとも期待薄だったシークヮーサーが芽を出したのです。

 南方の樹ですから、冬の間は室内に取り込むようにしてきました。その関係で、あまり大きな鉢には植え替えられませんでした。
 この冬、思い切ってベランダに置いたままにしました。駄目になるかもしれないと危惧していましたが、無事冬を越してくれました。もう室内に取り込む必要もないだろうと思えるので、五倍ほど大きな鉢に植え替えたのです。
 これで私の背丈ぐらいまで伸びてくれるかもしれません。


カメラ片手にいずこへ行かむ(3)

2009年05月05日 22時28分20秒 | のんびり散策

 今日は東北(方角であって、地方ではありません)を目指します。行くところは昨日のうちに決めていました。根木内(ねぎうち)城址です。
 暦の上では立夏ですが、天気は下り坂で、庵に籠もっていると少し肌寒く感じる陽気でした。

 北小金の駅入口を通り過ぎて、国道6号線とぶつかったところが根木内城址です。
 ゆっくりとした下り坂が左にカーブを描きながら、上りに変わります。こんもりとした丘が見えたので、そこであろうと見当はつきましたが、「根木内歴史公園」と称しているのに、付近には案内らしきものは何もありません。
※後日、たまたま開園当時 ― 三年前、2006年の四月 ― に訪問した人のブログを見つけたましたが、案内板がないのは最初からのようです。

 入口も私道を思わせるような急坂で、ここにも案内板はありません。不動産会社の脇なので、工事用車両の出入り口かと思ってしまいます。
 プリントして持ってきた地図に記された道は一筋あるだけです。少し先まで歩いてみましたが、ほかに道はありません。坂の入口に戻って、おっかなびっくり坂を上ると、土塁らしきものの向こうに草地が開けているのが見えたので、やっとそれとわかるという感じです。

 この城は寛正三年(1462年)に高城胤忠が築いたとも、永正三年(1506年)、胤忠の曾孫・高城胤吉によって築かれたともいわれていて、確定していないそうです。高城胤吉といえば、前に訪ねた小金城(大谷口城)を築いた人です。
 城址といっても、時代は信長が登場する直前ですから、後世のような城ではなく館です。水を湛えた濠はなく、すべて空堀です。



 ただ、この城の特徴は東北部に自然の湿地帯があって、水濠の役割を果たし、敵の侵入を困難にさせただろうということです。湿地帯は現在もそのまま遺されています。



 じつに久しぶりに木賊(トクサ)を見たので、思わずシャッターを切りました。
 私の先考が庭に植えていました。私が幼いころ、子供心にも変わった樹(草)だと感じて、訊ねたことがあったのでしょう。鑢(やすり)がなかった昔、ものを磨くのに使われた植物だと教わりました。

 私の実家の木賊が植えられていたところは、雨の日には池から溢れ出る水の通り道になっていました。
 雨が降ると、私はいつも庭に出て行って、そこに泥を積み上げて、堰をつくるのが楽しみでした。晴れた日は油断がなりませんが、雨だと先考が部屋から出てこないので、堰を崩して洪水だと騒いでみたりしながら、思う存分遊ぶことができたのです。
 もう五十年以上も前の話です。ふと思い出したので、シャッターを切ってしまいました。

 根木内城址を歩いているころから、幽雨になりました。傘は持ってきていませんでしたが、まだ一時間も歩いていません。雲を見ると、それほど厚くもないので、本降りになるとしても、間がありそうに見えました。
 地図を見ると、少し距離がありそうですが、了源寺というお寺があるので、行ってみることにしました。

 開基は寛文年間(1661年-72年)という日蓮宗のお寺です。たびたび火災に遭って、史料が遺されていないので、お寺の歴史ははっきりしないのだそうです。
 路地の奥にあって、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。私も偶然通用口を見つけ、お寺のようだと感じて入らせてもらって見つけました。



 こじんまりとしたいいお寺でした。
 周辺は住宅地と畑です。連休中だからか、雨戸やカーテンを閉めて留守にしているらしい家がたくさんありました。
 了源寺に向かう間道に折れてから、再び元の道に戻るまで、行き交う人は一人もおりませんでした。原野や沙漠だとこんな悠長なことはいっていられませんが、人がいても不思議でないところで、まったき無人というのはじつにいいものです。時折ポツポツと落ちてくる雨もいい。
 了源寺をあとにしたところで、ポケットに忍ばせていた万歩計は六千歩に迫り、臑(すね)のあたりが痛くなってきました。

 新松戸周辺は結構台地が多く、道は上ったり下ったりします。
 このところ、歩き始めてしばらくするころ、上り坂に差しかかっていると、胸焼けなのか心臓の痛みなのか、はっきりしない胸苦しさに襲われるようになりました。
 今日も北小金に向かう途中、緩いけれども長い上り坂がつづくので、息切れしそうになりました。
 しばらく歩きつづけていると、やがて治まるのですが、そのころには足裏が痛くなってきます。今日のように、足裏の痛みより先に、臑が痛くなることもあります。履いている靴にもよるみたいです。
 今日はデザートブーツを履いていました。軽くて佳いのですが、ソールが飴ゴムなので、地面にピッタリと着き過ぎるのが欠点といえば欠点です。長い距離を歩くと疲れやすいのです。
 今日は昨日よりちょっと長く歩いて、所要二時間弱。途中、喫煙二本。

 明日は北の方角に当たる廣徳寺と松戸近辺では一番著名な本土寺を訪ねようと思っていますが、どうやら雨のようです。


カメラ片手にいずこへ行かむ(2)

2009年05月04日 22時09分48秒 | のんびり散策

 今日四日は東のほうを目指しました。
 最初に訪れたのは幸谷(こうや)観音です。我が庵からはマツモトキヨシの本社前を通って、徒歩二十
分弱。



 写真の観音堂には通称黒観音と呼ばれる漆黒の十一面観音が祀られています。ほぼ等身大(158センチ)の木像です。
 賽銭箱越しに顔を近づけたり、背を屈めたりしてみましたが、胸から下しか見ることができませんでした。
 あとで知ったのですが、この観音様が開帳されるのは十二年に一度だけ。干支でいうと午年(つまり五年後)の四月十八日一日限りだそうです。



 幸谷観音下の山径です。
 街路灯がなければ深山幽谷の趣がありますが、右手の竹林のすぐ下には民家がありました。

 光明寺というお寺を過ぎて道なりに歩いて行くと、水戸街道に出ました。
 まだ二十五分ほどしか歩いていなかったし、昨日今日とつづけて歩いているせいか、まったく疲れていませんでした-ウォーキングの効果が出るにしても、そんなに早く顕れるはずもないのですが……。
 帰るとしても、同じ道を辿るのも芸がないと考えたので、水戸街道添いに一気に馬橋を目指すことにしました。



 馬橋駅近くで鉄線(テッセン)の花を咲かせている家を見つけたので、無断撮影に及びました。私は長いこと鉄線がクレマチスの和名だとは知りませんでした。

 旧水戸街道の坂をダラダラと下って、馬橋駅東口にある萬満寺に着きました。



 臨済宗のお寺ですが、境内には弘法大師の碑があり、水掛け不動もありました。それもそのはず、開基当初(1256年)は大日寺といい、真言律宗のお寺だったのだそうです。
 本堂に祀られている不動明王は中気除け不動として著名です。厄除けの仏様、ことに不動尊は全国到るところにありますが、中気除けというのは、ここ萬満寺ただ一つだけだそうです。
 護摩供養があるのは毎月二十八日。さぞ大勢の信者を集めるのでしょうが、今日はまったくの無人でありました。

 ここまでくると、馬橋駅は至近です。
 新松戸までは常磐線でも流鉄でも一駅ですが、いささか距離もあるので、電車に乗るかとも思いました。が、せっかくだから歩こうと決め、やや疲れ気味の脚にカツを入れながら、遮二無二歩いて帰りました。この日の散策は所要一時間四十五分。途中、喫煙一本のみ。

↓今回歩いたところです。
http://chizuz.com/map/map56244.html

 鉄線の花を見たので、山崎ハコの「てっせん子守唄」(昭和五十九年)を添付したかったのですが、You Tubeにはないようです。代わりに「ANOU」。

 ♪ANOU 僕はいりませんか? ANOU いいとこあるんだけど……。
http://www.youtube.com/watch?v=Yz95q5U-AjA


カメラ片手にいずこへ行かむ

2009年05月03日 22時07分37秒 | のんびり散策

 今日三日から四日間のゴールデンウィークです。しかし、どこへも行くところがない。
 というか、行けない。我が勤め先の給料日が十日だからです。一昨年までは月末だったのですが、昨年から十日に変わりました。
 よって、正月もゴールデンウィークも、数えてみるまでもないほどの紙幣しか入っていない財布と睨めっこしながら過ごさねばなりません。

 情けなや情けなや、侘びしや侘びしや、と嘆いていても仕方がない。写真撮影が得意なわけでもないけれど、カメラ片手に近隣の散策にでも出てみませう、と考えて、これまで行ったことのないところを目指して歩きました。
 四日間の連休なのですから、日替わりで東西南北を歩いてみるか、と考えながら、どこへ行くとも決めずに出ましたが、足は西に向いていました。なにゆえに初回に西を目指すのか? 無意識のうちに西方浄土を目指しているのか?

 西のほう、坂川までは何度か行ったことがありますが、今日はほんの少し上流を歩くことにしました。
 
流鉄の小金城趾駅には新坂川を渡るのを兼ねた歩道橋のような橋があって、駅を通り抜け、線路の向こう側に降りられるようになっています。



 その橋から見下ろした小金城趾駅です。全線単線運転のこの路線は、この駅にしか交換できる線路がありません。
 流鉄の電車はすべて西武鉄道のお下がりです。私が西武新宿線の上石神井というところに棲んでいた三十歳前後、2000系という新しい車両の導入があって、この手の車両は次々と姿を消して行きました。そのころ乗った電車と再会していたのかもしれません。



 駅を通り抜けてしばらく歩くと、坂川です。堤防沿いに模型店がありました。
 今日はお休みらしい。
 思い返してみると、私はプラモデルに熱狂した憶えがありません。ラジコン遊びもしていません。野球ばかりやっていました。

 この模型店の少し先、新横須賀橋で坂川を渡ると、流山市です。
 小金城趾の次の駅・鰭ヶ崎(ひれがさき)に向かう道はわりと広い通りなのに、車もあまり通りません。住宅に混じってところどころに店舗があります。家具店、クリーニング店、理髪店、とんかつ屋……。
 歩いている人の姿もなく、のんびりとしていて、東北のどこかの町を思い起こさせます。なにゆえに九州や四国ではなく、東北の町を想起するのか、私にもわかりませんが……。

 鰭ヶ崎の駅で踏切を渡り、武蔵野線の南流山駅に向かう途中、東福寺というお寺を見つけました。



 石段は見た目より遙かに急で、五十一段もありました。
 高所恐怖症の私は途中から手すりを掴み、後ろを振り返らぬようにひたすら前だけ見て上りましたが、緊張感も手伝って息を切らしてしまいました。

 ここは千二百年前の弘仁五年(814年)、弘法大師が開いたお寺です。
 伝説では、大師が近くに棲む龍王の願いを聞き入れて、このお寺を開いたらしい。その龍王が残した「鰭」が鰭ヶ崎という地名の元になったということです。
 当時、周辺はまだ海だったようです。小高い丘として残っているこの地は半島の先端だったのでしょう。



 東福寺境内-。
 何が写っているのかよくわからないかもしれませんが、5メートルほど離れた竹林から地下茎を伸ばし、敷石を割って顔を出していた筍(タケノコ)です。

 急な石段を下るのは気が進まないと思っていたら、裏門がありました。短めの石段の先に、下ってまた上る道が真っ直ぐ延びていて、上り切ったところに奥の院の千仏堂がありました。
 意表をつく眺めでした。
 しかし、カメラは電池切れで、写すこと能わず。

 千仏堂の前は墓地です。土葬のころは死者を担いで坂を上ったので、その坂には「死人坂」というおどろおどろしい名がつけられています。日照権を巡って係争中のマンションがあるようで、建設反対の幟が風にはためいていましたが、これも写すこと能わず。

↓今回の散策の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map56245.html


蓮華往生(谷中延命院物語)

2009年05月02日 07時05分37秒 | 歴史

「こざと公園」に咲く蓮の花から連想した蓮華往生の話……。
 蓮の花のように、優美で、長閑(のどか)な話ではありません。
 往生 ― というからには人が死ぬ話。正しくいえば、殺される話です。

 話は三月十日十二日十六日の我がブログ ― 「谷中延命院物語」のつづきになります。

 日道という延命院の悪タレ坊主(元は歌舞伎役者・尾上丑之助)が、女のほうから一方的に迫られて、断わり切れなかったとはいえ、僧侶の身でありながら、御三家筆頭尾州家の中老・梅村と情を通じ、それをきっかけに奈落の底へ堕ちて行く、という話です。

 梅村は延命院に日道という眉目秀麗な坊主がいることは噂に聞いていたかもしれません。しかし、情念にポッと火が点き、その炎を抑え切れなくなったのは、同じ尾州家の奥向きに仕えていたお梅という女の自慢話が原因です。

 紆余曲折があって、元役者であった日道は出家、お梅は尾州家に仕える身となり、別れ別れになっていたのですが、日道が役者として駆け出しだったころ、二人は踊りの稽古先で知り合い、人目を忍ぶ仲となっていたのです。
 いまは僧侶となった日道の評判が高くなるのにつれて、お梅は評判の青年僧侶と自分がかつてはいい仲だったことを周りに吹聴したくてしょうがなくなります。
 それを漏れ聞いた梅村はカッカとします。梅村からすれば、まだ下女同然のお梅がモノにできた男を、遙かに身分の高い自分がモノにできないはずはない。そう思えば、ヤキモキするばかりです。

 そうして延命院を訪ね、ついには自分の意に沿わねば自殺するぞ、と脅迫まがいの手を使って目的を遂げるのです。
 さらに、日道と肌を合わせたことをわざとお梅に知らせ、延命院を訪ねるときにはお梅を供に加える、というような陰湿なことをします。
 変態的な性格といわざるを得ませんが、お梅もまた尋常ではありません。
 普通なら悔し涙に暮れるか、復讐するとしても違う手法を取りそうなものですが、日道と梅村の醜聞を行く先々で吹聴しまくることによって意趣返しをしたのです。

 男子禁制で、日々堅苦しい生活を強いられている大名家の奥向きは、この手の話には敏感です。隠していたとしても、やがて知られたでしょうが、吹聴役がいたのですから、伝搬するのはいっそう疾い。

 梅村につづいて延命院に姿を現わしたのは、ものものしい供回りを引き連れた、年のころ三十二、三の大年増でした。供回りの仰々しさから推察するに、尾州家より家格の高い家柄の御殿女中、それもかなり高い身分と思われました。
 御三家筆頭の尾州家より家格が高い家といえば、この国にはたった一つしかありません。
 江戸城の大奥です。

 しずしずと進んできた乗り物から降り立ったのは初瀬という中老でした。初瀬は自分にも無病息災のご祈祷を賜りたいといって、三千疋(六千反)の織物と五十両という多額のお布施を差し出しました。
 すでに毒の盛られた皿まで食ってしまっている日道には歯止めが効きません。

 折しも長崎に上陸した疱瘡が京・大坂を舐め尽くしたあと、東海道を下っている最中でした。
 日道を獣の道に引き込んだ柳全こと岩田長十郎はまた悪知恵を絞って、疱瘡除けの護符を出すことを考えつく。
 そこに初瀬も荷担して、ついに日道はご祈祷を名目に、大奥にまで出没するようになったのです。

 大奥という権威を得た延命院はますます繁盛します。もちろん参詣人は女ばかり。
 境内に入ると、線香の香りより白粉の香りのほうが強かった、といわれたほどです。お布施もどんどん集まる。いまふうにいえば、女が男に貢ぐ逆援助というやつ。

 日道らの乱痴気騒ぎが明らかになるのは、ある資料によると、参詣人の中に寺社奉行・脇坂淡路守安董(やすただ)の放った「くのいち」が紛れ込んでいたからだとありますが、別の資料では南町奉行・根岸肥前守鎮衛(しずもり。やすもり、とも)の耳に入ったある事件がきっかけになって日道らの悪事が知れ、根岸自身が寺社奉行の松平右京亮輝延を訪ねて検挙、ということになっています。

 裁きの結果、日道こと丑之助は破戒女犯の科(とが)で死罪となりました。
 町方の娘や大奥の婦女を誘惑し、通夜などと称して寺内に止宿させ、娘が身籠もると堕胎させたという罪状で、日本橋橋詰で晒らされた上、首を刎ねられたのです。

 加害者は日道、柳全らだけで、何十両何百両と貢いだ女たちはすべて被害者とされました。が、誘惑したのはむしろ女たちのほうです。
 しかし、彼女らを処罰しようとすると、武家方の中に中老・初瀬を初め、大奥の女がいたことが具合が悪い。どこかで繋がりを断ち切らないと、芋蔓式に将軍家までも罪を問われる、ということになります。
 裁きの結果をみると、被害者の年代は十五~六十歳と幅広く、とくに被害甚大なものは武家方、町家合わせて五十二人というのですから、どこかで線を引くということもできず、全部ひっくくることもできず、日道らだけ、ということにしなければ収まりがつかなかったのでしょう。

 さて、日道を検挙したのは脇坂淡路守だったのか松平右京亮だったのかわかりませんが、根岸肥前守が知ったある事件というのは蓮華往生の一端です。

 柳全はお布施を盗み出しては悪所通いに耽っておりましたが、その懐が潤沢なことを聞きつけ、お裾分けに預かろうと小林平兵衛という男が訪ねてきます。二人はかつて一橋家の台所から大金を盗み出した悪馴染みです。
 二人とも一度お縄になりましたが、牢を破り、高飛びを兼ねて盗みを繰り返すうちに、平兵衛のほうは盗み貯めた金で、ある寺の住職の株を買っていました。
 そこで始めたのが蓮華往生というありがたい成仏の仕方でした。

 蓮華堂というお堂を建てて、中央に御影石の台をしつらえ、その上に大蓮華の花弁を咲かせる。そこに坐せば、仏の愛に包まれて大往生ができるというので、篤志家たちが次々と訪れるようになりました。
 どんな世の中になっても、大往生できるとすれば、それは望むところでしょうが、まだピンシャンしているのに往生してしまいたい、と思うのは現代人には理解不能です。
 信長の時代の一向門徒は、死ぬことが極楽へ行ける方途だというので、死ぬことを願って戦ったというのですから、まだ江戸という時代では、死に対する恐怖心より極楽往生を願う気持ちのほうが強かったのでしょう。

 ともかくそんなことで、死にたいという金持ちが大枚包んでやってきます。家族知人たちはいままさに往生せんとする篤志家のために、大声で南無妙法蓮華経を唱えます。
 読経の声が高ければ高いほど、でかければでかいほど功徳があると事前に聞かされていたので、読経というより喧嘩をして怒鳴り散らしているような騒がしさです。ここぞとばかり鉦太鼓もジャンジャンドンドン鳴らされる。

 やがて台がしずしずと沈み始め、篤志家の身体を包むように大蓮華が閉じられる。お経を唱える声が高ければ高いほど功徳があるというわけですから、周りの人たちはここぞとばかり狂ったようにお経を唱えます。

 そのじつ、台の下では槍を持って待ち構えている者がいました。ひょんなことから平兵衛と再会を果たした岩田長十郎です。ジャンジャンドンドン、南無妙法蓮華経の大合唱の中では、長十郎の槍で突かれた篤志家の断末魔の叫びも聞こえません。
 極楽往生を願って遺族や友人知人が待っている間、死んだ、というより、殺された篤志家の亡骸は焼き場に運ばれて骨と化します。やがて無事往生を果たした篤志家の骨が遺族に渡されて、一件落着というわけです。

 貧乏人は相手にしないという悪だくみですから、随分金になったようですが、槍で突き殺すのですから、極楽往生した者の死骸を見せるわけにはいきません。素早く焼いて骨だけ渡すのです。

 しかし、やがてそれを不思議がる者が出てくる。お役所が嗅ぎつける、ということになって、そろそろ店じまいを考え始めたところに、ガサが入って、二人ともども捕縛ということになるのです。

 だが、ひと筋縄ではいかないところが長十郎の真骨頂です。護送中、囲みを破って平兵衛も救い出し、高飛びします。そして、諸国を巡ったのち、延命院にもぐり込んだのです。

 悪馴染みであろうと、長十郎にとって尾羽枯らした平兵衛など邪魔なだけです。不忍池あたりへ誘い出し、一刀の元に斬り殺してしまいます。
 ただ、それを奉行所配下の岡っ引きに見られたのは計算外でした。延命院に帰るのを尾行され、やがて芋蔓式に検挙、という結末を迎えるのです。

 蓮華往生という一連の殺人事件は実際にあった話のようです。
 ただ、舞台は延命院ではありません。
 下総とも安房とも、あるいは柏木(いまの西新宿あたり)ともいわれますが、さる寺院で実際に起きた事件を、河竹黙阿弥が「日月星(じつげつせい)享和政談」という芝居で、延命院に結びつけて、面白おかしくしたのです。
 日道と柳全に女犯と悪銭稼ぎをさせるだけでは飽きたらなかったのでしょうか。殺人まで犯させたというわけです。

 宙ぶらりんのまま、放りっぱなしにしてあった延命院の話は、これにて幕引きです。



 樹齢六百年といわれている延命院境内の椎(シイ)の樹です。
 延命院の開創は約四百五十年前ですから、開創前からここにあったことになります。きっと日道たちの狂乱も見ていたのでしょう。