もうかなり前のことでありますが……仕事で新横浜へ出向いたとき、仕事の終わった時間が近隣に住む人々の帰宅時と重なりました。私は隣の菊名で東横線に乗り換えて帰るのですが、乗り換えには階段を降りて上り、また降りなければなりません。
菊名に着くと、すぐにでも渋谷行の電車のやってきそうな時間になっていました。急いで乗り継ぎの改札を抜けようとしましたが、反対方向の電車が着いた気配があったので、これは間に合わぬと諦めかけました。
反対方向の電車とは渋谷からくる電車ですから、きっと勤め帰りの人が大勢降りてきて、階段が塞がれてしまうだろうと思ったからです。
私が通勤で乗り降りしている武蔵野線の市川大野は一日の乗降客が一万一千人という小さな駅ですが、帰宅時、東京方面からの電車が着くと、階段いっぱいに拡がって降りてくる人たちがいて、しばし階段の下で待機しなければなりません。
その電車は私が乗るべき電車でもあるので、むざむざ一本やり過ごすことになります。ヤレヤレと思いながらも、山手線とは違って、十~十二分後にしかこない次の電車を待つしかありません。
若いころであれば ― ラグビーをやっておりましたので、密集に飛び込んで行くのはむしろ望むところでした。身のこなしも軽かったし、フェイント、ダミーパスは自家薬籠中のものでしたので、おそらく人と人の間隙を突いて階段を上ることもできたでしょう ― その若いころならいざ知らず、いまでは突進し切れず、弾き飛ばされて、階段から真っ逆さま……では目も当てられません。
ところが、菊名の駅で階段の下に到った私は逆の意味で唖然としました。上り階段を降りてくる人が「見事に」一人もいなかったのです。
電車からは大勢の人が降りていました。その人たちが階段上で、整然と列をつくって降りる順番を待っていたのでした。
なぜこんなことを書いたかというと、私が横浜というと厄日と結びつけ、まるで横浜を忌み嫌っているかのような印象があろうかと思ったからです。じつは横浜の人は凄い、ということをいいたかったのでした。
ところで「厄」については、将軍綱吉の時代 ― 新義真言宗の僧侶隆光(1649年-1724年)がいいことをいっています。
― 仏儒の書を見ると、厄などということは見当たらない。これは末世の淫巫邪僧たちが愚民を惑わし、神道の祓いとか禊ぎをもじって、厄払いということをさせ、いたずらに私腹を肥やすためである。
四十二を厄年というのは、自分の考えでは「始終荷(しじゅうに)」、つまり苦労の絶えない年回りという語呂合わせで、三十三を女の大厄というのは「産重産(さんじゅうさん)」、つまり難産という語呂合わせである ― と。
これは将軍綱吉が四十一歳の年、来年の大厄が気になって仕方がないので、どうすれば厄除けができるか、と訊ねたときの隆光の答えです。
― だから、年によって吉凶禍福のある道理がない。ことに天下を撫育する将軍においてをや、というわけです。
厄年というものもなければ、当然厄日などもない。
横浜行が厄日に当たったと騒いだあとで、私は少し心を入れ替えることにしました。
もし税関で引っかかることがなければ、帰りの首都高速で自分が事故を起こさないまでも、事故の巻き添えを食らったり、事故現場に出くわして足止めを食っていたかもしれぬ、と考えたりすることにしました。そうすれば、厄日などと思うのは見当違い。逆に、幸運な日であった、ということになるわけです……。
この隆光大僧正は綱吉の生母・桂昌院の帰依が篤く、日本史上類を見ない悪法「生類憐令」を出させた張本人と考えられてきましたが、近年になって、この悪法のうちの最初の法令が世に出されたころはまだ江戸にいなかったということが明らかになって、謂われのない濡れ衣を晴らしました。
ただし、そちらの濡れ衣は晴らしたものの、桂昌院の甘言に乗ったか、あるいは逆に乗せたか、京奈良の荒廃した寺社の再建に莫大な金を使わせたことは紛れもない事実。ために幕府の財政は大いに傾きかけてしまった。そちらの張本人ではあります。
朝夕は依然として肌寒いものの、やっと夏……と実感できる陽気になってきました。今朝は出勤途上の流鉄線路端の薔薇(バラ)と、いつもの紫陽花径(アジサイみち)の紫陽花を撮影しました。
左手のレンガ色の建物に、「K」という店の名前が写っています。最近行っておりませんが、勤め帰りによく轟沈した店です。
店は一つですが、K1、K2、と二つの店があるようないわれ方をしています。すなわち二部制になっていて、K1が私のようなおぢさんが轟沈する店で、午前二時まで営業。K2はホストクラブとなって二時からの営業。
この日はシャッターが下りていましたが、何人かのホスト君と若い女の子が、歓声を上げながら店から出てくる、という光景を私が出勤する朝八時という時刻に目にすることはしばしばあります。