桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2022年六月の観音菩薩縁日

2022年06月18日 23時04分55秒 | 寺社散策

 何日か前、テレビでお寺関係のドキュメンタリー番組を視ていたら、ナレーターが「十七日は参拝客が多い。なぜならば御本尊の観音様の縁日だから」などといっているので、自然に口がすぼんでしまいました。なぜかというと、観音様の縁日は十八日のはず。自分は何年も間違えていたの? とすぼめた口が曲がってしまったのでした。
 引っ越しのとき、旧庵から持ってくることができたわずかばかりの荷物をひっくり返して歳時記を見てみると、確かに観音様の縁日は十八日で間違いがない。テレビで放映していたお寺は奈良県にあるので、もしかしたら関西流は違うのかもしれないと前後のページを繰ってみると、十七日も観音様の縁日となっています。ただし、観音様は観音様でも、千手観音の縁日でした。

 引っ越す前は近くで観音様を祀っているお寺が東漸寺(浄土宗)と慶林寺(曹洞宗)と二つありましたが、いまは少し遠くなってしまいました。そこで近場で観音様をお祀りしているお寺はないか? と捜してみると、歩いて二十分ほどのところにある福昌寺がありました。



 福昌寺に参拝するためには西から東へ常磐線を越さなければなりません。その常磐線のアンダーパスです。
 自動車専用だと思っていたのですが、近隣の人から、歩行者も自転車も通れますよ、と教えられました。ただし、入口には危険なので、できれば通らずに迂回してほしい、という旨の注意書きが掲げられています。一車線しかないので、信号があって、車は交互に一方通行。確かにかたわらを車が勢いよく飛ばして行くので、少しヤバいという感じはありますが、入口から出口までは100メートルちょっと。二分ほど歩けば向こう側に出られます。迂回するとなると、距離は800メートルと伸びて、十分もかかるのです。



 車道部分より少し高くして、狭い歩道があります。



 抜け出ると、行手の左から正面にかけて小高い丘があり、目指す福性寺はその丘の上にあります。



 観音詣でにきましたが、まずは本堂に参拝します。本尊はお釈迦様です。
 創建は安土桃山時代の天正五年(1577年)、開基は北小金にある廣徳寺の第七世・峰山雄鯨大和尚です。かつて私が日参していた慶林寺は創建が永禄八年(1565年)、開基は廣徳寺の第六世・大岸舜達大和尚ですから、ひと回り違いの兄弟のようなものです。



 本堂前にある子育地蔵。ここにも拝礼。

 


 境内のアジサイ(紫陽花)はこれから、という感じです。



 観音堂にお参りします。



 扉が開いていたので、観音様を拝観することができましたが、じつはこれは御前立ちで、本来の観音様は後ろの扉が閉じられた厨子の中におわすのです。
 通称黒観音と呼ばれて親しまれているそうで、行基菩薩(668年-749年)作だとか。御開帳は十二年に一度だけ。丑年ということですから、二年前に済んだばかりです。



 観音堂前の達磨像。



 最後に歴住の墓所にお参りして帰ることにします。



 手すりがつけられた長い径……のように見えますが、急勾配の石段径なのです。福昌寺からの帰りに何度か降り口を見るだけで通り過ぎていましたが、どこに出るかわからないし、もしかしたら行き止まり(?)とも思ったので、下るのをためらっていたのです。
 今日は行き止まりだったら戻ればいい、と肚をくくって降りてみたら、新松戸駅に出ることができました。昼なお暗く、蛍光灯が灯されていました。


足立区しょうぶ沼公園へ行く

2022年06月13日 20時29分33秒 | 

 先月二十五日に行った小岩菖蒲園はよく調べもせずに行ったので、時期が早過ぎてほとんど花がありませんでした。そこでリベンジを果たすのであれば、堀切菖蒲園か水元公園、ということになるのですが、歳を重ねても、というか、重ねたからこそ、というのが実態なのか、臍曲りが昂じてきた私はちょっと違うところを捜すのです。
 割りと近場で、菖蒲園があって、これまでに行ったことがないところ、とインターネットをサーフィンしていたら、足立区しょうぶ沼公園というのが見つかりました。最寄り駅は営団地下鉄北綾瀬。綾瀬からわずか一駅ですが、これまで降りたことのない駅です。
 常磐緩行線で東京へ向かうとき、電車が綾瀬に近づくと、「北綾瀬へお越しの方はゼロ番線……」と車掌がアナウンスするのを聞いていたので、どんなところであろうかといつも思っていましたが、用もないのに駅だけ見に行くというオタクではない私には縁のない駅……と思っていたのですが、こんな形で行く機会が訪れようとは思ってもみませんでした。ハナショウブを見たあと、綾瀬駅まで歩いて帰ることにすると、途中に龍慶寺という、我が宗派で、薬師如来をお祀りするお寺があるので、参拝して帰ることにします。このお寺を訪ねるのは初めてではなく、2017年八月に薬師詣での参拝をしています。

 今朝、ほんのちょっとしたことですが、嬉しいことがありました。薬師如来の縁日である十二日には一日遅れではあるけれども、近くへ行くからには、お参りしようと考えていたので、嬉しいことがあったのも、きっとお薬師さんのお恵みであろうと勝手に考えました。



 東京メトロ千代田線の綾瀬で乗り換えて、
北綾瀬へ。



 目指す公園は駅のすぐとなりでした。開催期間を見てみると、今日はちょうど真っ盛りなのでしょうか、ということになりました。



 公園の中を涼しげなせせらぎが流れています。目指す菖蒲田は公園の南側の一角にあって、八千百株のハナショウブが植えられています。二十日ほど前に観に行って空振り三振を喰らったテイの小岩菖蒲園が約五万株に比べると
、規模は比較になりませんが、品種は百四十種(小岩は百種)とこちらのほうが勝っています。

 
 


 品種を記した木札には、いずれもカッコの中に「江」と記されていますが、ほかに「伊」、あるいは「肥」と記されているものがあります。「江」とは江戸系のこと、「伊」「肥」はそれぞれ伊勢系と肥後系のことで、栽培されていた地域です。

 


 木道は狭いので、一方通行になっていますが、見て回っている人たちは年配者が多かったからかどうか、守らない人がたくさんいました。かくいう私も、注意書きに気づいたのは一通り巡り終えて、そろそろ引き上げますか、と思い始めたときでした。

 ハナショウブの鑑賞は適当なところで引き揚げて、龍慶寺を訪ねることにします。



 しょうぶ沼公園からのんびりと歩くこと七分。かすかに見覚えのある水神宮の前を通り過ぎると……。



 龍慶寺です。
 創建は正保三年(1646年)、開山は春日部市にある浄春院の第七世・天室秀梵大和尚です。
 本尊は釈迦三尊ですが、閻魔王、不動明王などとともに薬師如来が安置されています。 冒頭に、五年前の八月に薬師詣でで参拝していると記しましたが、初めてきたのはそのときではなく、十一年前、2011年八月のことでした。

 

 門前右側、曹洞宗龍慶禅寺と彫られた石柱に相対して、左側には日限薬師如来と彫られた石柱がありました。



 我が宗派のお寺に参拝するときは歴住の墓所に参拝するのを常としています。前回きたときは参拝したのか、薬師詣でが目的できていたので、忘れて帰ってしまったのか、前にきたのは五年も前のことなので、記憶はおぼろです。



 帰りは綾瀬駅まで二十分かけて歩きました。
 中休みとはいえ、梅雨のさなかだったのに、雨の降る気配はまったくありませんでした。これも薬師如来のお恵み?


2022年六月の薬師詣で・千葉市

2022年06月08日 21時36分35秒 | 薬師詣で

 六月の薬師詣では千葉市を歩きました。
 庵を出発したのは正午。同じ県内の、それほど遠くないところへの小旅行とはいえ、ずいぶんゆっくりとしたお出かけ、と思われるかもしれませんが、最初に参拝する東光院の最寄り駅は外房線の鎌取駅。そこからバスに乗るのですが、バスの発車時刻は十三時十二分。もう少し早い便はないの? といっても、その前の便は三時間以上も前の九時五十分しかないのです。
 バスは使わず、鎌取駅から東光院まで歩こうとすると、グーグルマップを基にシミュレーションしてみたところ、四十分もかかります。歩けない距離ではないので、行きは歩きでも、帰りはバスがある、ということならいいのですが、行きの便がない、ということは帰りもない。従って、歩くとすれば、往復八十分を覚悟しなければならない。
 最近は寄る年並で、シミュレーションをしておいても、実際にはそのとおりにいかないことも多いので、八十分では済まず、百分以上、ヘタをすれば二時間近く、ということになるかもしれない。となると、いくらなんでもキツイ距離なので、バスに乗ろうと考えたわけですが、電車が遅れたりして、バスに間に合わない、というときは歩くしかないので、その覚悟を持って出かけました。



 新松戸から武蔵野線で南船橋へ。南船橋で京葉線に乗り換えて蘇我へ。蘇我でさらに外房線に乗り換えて、出発から約一時間。幸い電車が遅れることはなく、鎌取駅に着きました。



 千葉駅行、羽田空港行など、蘇我駅前にはたくさんのバスがくるようですが、私が乗るのは千葉中央バスのマイクロバスです。乗客は私を含めてわずか三人でした。



 乗車七分、平山坂下というバス停で下車。
 バスを降りると、折悪しく霧雨が降り始めました。
 天気予報は信じず、「予報」ではなく、競馬やプロ野球の順位予想と同程度の「予想」に過ぎないだろう、日本語は正しく使え、と悪態をついたりする私ですが、漁師でもない自分に天気を見ることなどできません。結局、「予想」をアテにするしかないのですが、前日まで、昼ごろに「雨」となっていた一時間天気が、今日になって「雨」マークが「曇」マークに変わったのを見て、傘は持たずに出かけてきたのです。



 バス通りを外れると、心細そうな径が伸びていました。頭上に覆いかぶさるような木立が雨を防いでくれますが、真っ昼間だというのに、少しずつ暗くなってきます。



 バスを降りて歩くこと五分。木立が切れると、前方が開けて、広い駐車場があるのが見え、このような石柱がありました。



 そこから境内へとつづく長い石段がありました。



 参道途中にはこんな掲示。読めないかもしれませんが、最後に「等身大のお薬師さま」と書かれています。



 石段を上り切ると、右手に御堂があったので、薬師堂かと思って行ってみたら、大日如来を祀る御堂でした。

 正面に本堂。
 東光院の創建年代等は不詳ですが、創建したのは平忠常(975年-1031年)、
本尊は入口の石柱にあったように七仏薬師如来です。
「千葉市史」によると、この七仏薬師如来像は忠常の祖父・平良文(886年?-?)が兄・国香と争ったときに加護を与えた、上野国府中花園村(現・群馬県群馬町)の息災寺という寺の本尊を勧請したものといわれています。

 平良文は承平元年(938年)、甥の平將門と力を合わせ、上野国花園村で兄・平国香と合戦に及びましたが、良文軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまいました。良文も落馬して、絶対絶命の窮地に追い込まれたと思ったとき、雲の中から「羊妙見菩薩」が現われて良文軍に加勢。結果、勝利を収めることができた、といわれます。
 戦後、合戦場の近くには息災寺という寺があって、妙見菩薩を祀っていると聞いて行ってみると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったということから、信心するようになったようです。




 本堂に掲げられた七仏薬師の額。

⬇東光院にはホームページがあります。
http://www.tokoin.com/index.html



 帰りのバスは終点まで行ったバスが戻ってくるだけですから、一日の便数は行きと同じ。わずか八便しかありません。
 雨は熄む気配がありません。幸いバス停の上は樹の枝が傘のように張り出していたので、雨を凌ぐことができました。

 鎌取駅に戻って、千葉駅まで外房線に乗車します。

 

 行きの蘇我~鎌取間は結構混んでいたので気がつきませんでしたが、帰りは一車両に乗客数人というガラガラ状態。初めて気づいたのは優先席(臙脂色の斜め縞模様)と一般席(紺色)が合体したロングシート(画像上)と久しぶりに目にしたトイレつきの車両。



 千葉駅で降りて西改札口に出ました。
 今日二つ目の目的地は大日寺ですが、近くに我が宗派の宗胤寺があるので、寄って行きます。

 千葉公園を通り抜けて、千葉駅から約三十分。宗胤寺に着きました。
 千葉駅を出るときはまだ霧雨が降っていましたが、歩いている間に雨は熄み、あろうことか陽射しまで出ました。
 宗胤寺は室町時代の創建。本尊は木造十一面観音坐像。開基は千葉氏第十代の宗胤(むねたね・1268年-1312年)。当初は現在の千葉県庁と都川をはさんだ対岸にあったと伝えられています。昭和二十年の戦災で焼失、当地へ移転しました。



 我が宗派のお寺に参拝するときは本堂だけでなく、歴住の墓所に参拝するのを常としているのですが、墓域にはそれらしき卵塔があるのが見えても、入口が見当たりませんでした。一旦陽射しが出たとはいえ、再び雨が降る恐れはあったので、あまりゆっくりとはしていられない。塀越しに望遠レンズで撮影。そこで拝礼するのにとどめて、先を急ぎます。



 宗胤寺から十二分。目的の大日寺に着きました。
 真言宗豊山派の名刹で、千葉氏第八代・頼胤(1239年-75年)が源氏三代の霊を供養するために、建長六年(1254年)に創建しましたが、創建の地は現在地ではなく、松戸市馬橋。私がときおり参拝に赴く萬満寺のある場所です。
 弘安七年(1284年)、頼胤の子・宗胤によって、千葉氏の菩提寺として千葉に移された、と伝えられています。昭和二十年の戦災で全山焼失の憂き目に遭い、千葉神社の南側(現在は通町公園となっている)から現在地に移りました。



 趣きのある瑠璃光殿。



 下が覗けて、上って行けば宙に浮いたような感じになるであろう階段を上ることは、高所恐怖症持ちの私にとっては至難の業です(というより最初から上る気がありません)。お賽銭は本堂にあげたので、これでいいですよね、と独り言をつぶやきながら、頭上におわすであろうお薬師さんに合掌。



 すぐ隣といっていいほどの距離に来迎寺がありました。現在は浄土宗単立ですが、当初は時宗の寺院だったようです。



 創建は大日寺を創建した頼胤から数えて五代あとの千葉氏第十三代・氏胤(1337年-65年)が一遍上人を開基に招いたと伝えられていますが、氏胤が生きた時代と一遍上人の生涯(1239年-89年)とは一致しません。創建されたのが伝えられている建治二年(1276年)だとすれば、千葉氏の当主は頼胤の子・宗胤(第九代)ですが、当主とはいっても、建治二年時は弱冠十二歳に過ぎません。創建年代が正しいとすれば、頼胤による創建と考えるのが妥当でしょうか。
 当初は来光寺と称し、先の大日寺の近く(現在の道場公園付近)にあったと伝えられています。やはり昭和二十年の戦災に遭って消失。当地へ移転しました。



 今日のお勤めを終えて、帰りは西千葉駅に出ました。
 
 毎月八日に薬師詣でをしようと思い立って始めたのは2011年一月のことですから、今年で十二年目になり、六月の薬師詣ではすなわち十二回目ということになります。当然のことながら、毎年毎年梅雨のさなか、ということになりますが、六月の薬師詣でに限ると、去年六月までの十一回、雨に降られたことは一度もありませんでした。
 今年の薬師詣では関東地方は西日本に先駆けて梅雨入りが発表された直後で、初めて雨に降られたわけですが、行程の半分は雨に祟られずに済んだということは、いささか牽強付会の度が過ぎると思いつつも、お薬師さんのご加護があったのではないかと考える次第です。

この日、歩いたところ①(鎌取駅~東光院。行程のほとんどはバス利用)。

同②(千葉駅~大日寺~西千葉駅)。


アメリカフウ(モミジバフウ)

2022年06月01日 21時16分31秒 | つぶやき

 知人・友人たちの訃報に接することが多くなりました。つい最近も二人。一人は私が初めて社会に出たときの先輩。私より二つ年上に過ぎなかったのに、死因は老衰。えっ、七十代なかばなのに老衰、と皆が驚いていましたが、詳しい事情のわかる者はいないので、そのまま受け止めるしかありません。
 もう一人は鉄道会社の元社長会長。旧国鉄が民営化される際、改革三羽烏の一人、ともてはやされて、エネルギッシュで元気な人でしたが、八十一歳で死去。日本人男子の平均寿命(81・6歳)を全うしたのですから、天寿を全うといえるのかもしれませんが、エネルギッシュなころを知っているので、早いと思ってしまいました。

 我が庵近くに「あめりかふう通り」という街路があります。街路樹にアメリカフウが植えられているのでこの名がつけられています。いまの住処に引っ越してくるまで知らなかった木ですが、毎日間近で眺めるようになって、その旺盛な生命力に驚かされることしきりです。連れて、人の命の儚さに想いを馳せてしまう、というわけでもあります。

 アメリカフウはモミジに似た葉をもつフウの木(楓の木)の意味から、「紅葉葉楓」とも呼ばれます。高さは20~25メートルほどになるそうですが、街路樹なので、毎年秋口には枝落としが行なわれ、樹高の高い姿を見るのはむずかしそうです。原産地のアメリカでは50メートル近い巨木になるのだそうです。

 

 原産地ほどではなくても、20メートルという高さまで伸びたのではいろいろ困ることがあるのでしょう。毎年秋がくると、枝を落とされ、てっぺんを伐られてしまうので、代わりに幹の色々なところから葉を出します。



 前の画像を撮影したときからおよそ五週間後、ほぼ同じアングルを心がけて撮影に及びました。

 二つの画像では葉の茂り方に大きな違いがあるのは当然ですが、私が目を見張ったのは根元です。遠目で見たときは、なんという草なのか、随分下草が生えたなぁと思って近づいてみると、下草ではなく、アメリカフウの新芽だったのです。

 

 日ごとに新しい葉が顔を出し、中には毛むくじゃらのムック(ガチャピン&ムックの)のような様相の一木も現われました。舌を巻いてしまうような生命力です。



 近くの公園にも植えられていて、こんなにたくさんの実を落としていました。



 根木内歴史公園の湿地帯で見かけたミクリによく似ています。



 しばらく置いたままにしていたら、焦げ茶色に変色してきて、粉がいっぱい出てしまいました。
 乾燥させたものはクリスマス飾りに用いられたりするので、売る人がおり、買う人もいます。ネットショッピングを視ると、一個あたり¥100ぐらいで売られています。

 

 こちらはあめりかふう通りと交差するゆりのき通りのユリノキです。



 一本だけアメリカフウに負けず劣らず小枝を繁茂させている樹がありました。