桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

無患子(ムクロジ)落葉

2018年12月14日 23時01分49秒 | 風物詩

 今朝未明、夢うつつに北風がゴウゴウと鳴る音を聴きました。
 昨日の時点で気にかかっていたのは、三葉だけ残されていた我が庭のムクロジ(無患子)の葉のことです。
 寒くなり始めてから、一葉一葉と葉を落とし、最後の一葉となるのは時間の問題だが、いつになるのであろうか、と思いながら、最後の一葉になったら、オー・ヘンリーの「最後の一葉」にかけて、何事かをブログに書き留めておこうと考えていました。

  

「最後の一葉」は広く人口に膾炙された名作ですから、私などが御託を並べて解説する必要もないと思いますが、多分書店ではもう手に入らない(図書館なら可能かも)オー・ヘンリーの「最後の一葉」に描かれているのは蔦(ツタ)の葉です。



 我が庵にきて、ちょうど二十年を迎える櫨(ハゼ)です。
 鉢植えのまま、私とともに棲家を転々として十二年。庭つきのアパートに転居できたので、やっと土に還す(用法が間違っていますが)ことができました。
 例年だと、いまごろの季節は紅葉を終えて、すでに落葉が始まっているのですが、今年はこれから紅葉の最盛期を迎えようという気配です。



 天気予報では晴、あるいは曇と予想したのに、雨とか雪という場合のみがハズレであって、晴と予想したのに曇だった場合はハズレたのではないそうなのです。
 我が地方の十二月の天気は、例年雨か晴のどちらかで、曇りがちという日は尠ない。雨か晴かというのは潔い天候で、気象予想などは当てやすいと思うのですが、なかなか当たりません。とくに昨日(十三日)などは、絶好の洗濯日和など、とのたまわっていたのに、なかなか陽射しは出ない。夕方には小雨ながらも、雨! という始末。どこをどう叩けば、洗濯日和なのくゎ!日付が変わってから、昨日は低気圧がどうのこうのと弁解されても、「天気予報」(気象情報と逃げる場合もありますが)といっているのに、過去のことを弁解されても、シャレにもなりません。



 小春日和の慶林寺です。



 ムクロジの樹がある柏の観音寺へは歩いて八十分、流山の観音寺へは五十分以上。赤城神社も同じく五十分以上。



 二日か三日に一度辿る散歩コースにあるムクロジです。いまの時期は葉がほとんど落ちて、陽光が燦々と注いでいます。



 真下には三本の若木が育っていました。丈の高さからいって、今年芽吹いたものとは思えませんが、こちらはまだ落葉前。



 こちらは本家のムクロジです。先のムクロジが生えていた場所からは300メートルほど離れています。どれほど強風が吹いたとしても、実が風に飛ばされたとは考えられません。ムクロジは関東では自生しないとされているので、そこで拾った実を誰かが置いたか、埋めたかしたのでしょうか。



 真下に若樹が一本ありました。こちらも落葉前、というより紅葉前。



 先の本家のあるところから坂を数十メートル下ったところにあります。裸になった樹が入り乱れていますが、画像のやや右寄りから中央にかけて、左に傾きつつ伸びているのがムクロジです。
 初めて見つけたときは、先の樹に生った実がコロコロと転がって根づいたのだろうと思いました。こちらは風に飛ばされた可能性が高い。

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2018年終い薬師・船橋市

2018年12月08日 23時09分41秒 | 薬師詣で

 2018年の薬師詣でも最後を迎えました。終い薬師です。



 今月も出かける前に、地元の慶林寺に参拝して行きます。



 門前の河津桜はほとんど葉を落としています。
 が……あと二か月、節分のころには新たな蕾をふくらませ、早ければ一輪二輪と開花しているかもしれません。



 こちらは参道なかほどにある御衣黄桜の切り株。



 二、三日前にこんな「謹告」が出されました。
 先月初め、参拝にきたら、三本あった幹のうちの二本が伐採されていました。さらに残っていた一本も伐られました。なぜ伐られてしまったのだろうと思っていましたが、害虫だったのです。



 かたわらに、まだかぼそい若樹がありました。この樹が成長して花を咲かせるまでどれほどの年月がかかるのでしょう。私が御衣黄桜の花を再び見ることはないかもしれません。



 在りし日の御衣黄桜です(今年四月十一日撮影)。物も言わぬ樹が、今年が最期と、精一杯花を咲かせてくれていたのです。



 北小金~新松戸~新八柱とJR、八柱で新京成電鉄に乗り換えて、滝不動駅で降りました。



 滝不動駅から徒歩十分ちょっとで御瀧不動尊の表門に着きました。
 御瀧山金蔵寺(こんぞうじ)。真言宗豊山派の寺院です。



 門をくぐって進むと、木立の間を抜けて行く参道が1キロもつづきます。
 参道の左側は船橋市立御滝中学校。この日は土曜日でしたが、授業があって、女子生徒の黄色い声が流れていました。
 右側には結構交通量の多い千葉県道・夏見小室線が走っていて、自動車の騒音が絶え間なくつづいています。
 その喧騒に挟まれた参道の頭上では小鳥が囀っている、というちょっと不可思議な空間でした。



 弁天池。



 仁王門の石段前に水行場がありました。立て札には、ここが瀧不動尊という名の起きた由来であり、船橋市内を流れる海老川の源流である、と記されています。



 巣窟に入って行くような薄暗い石段を下って行くと……。



 かぼそい滝の流れがありました。



「御瀧王」という扁額が掲げられた仁王門。



 仁王門をくぐると、すぐ左に三重塔があります。今年四月に落成したばかり。
 ここに大日如来と薬師如来が祀られていると知って参詣することにしたのですが、扉は閉ざされていて、香炉も賽銭箱もありません。



 三重塔の左下から観音堂後ろにかけて、小さな谷がありました。
 ここに鹿が飼われているらしいのですが、この日は姿を見ることはできませんでした。



 本堂左前にある観音堂。本尊は十一面観音。

 


 本堂右前にある大師堂と大師堂前の御瀧型灯籠。大師堂は二百年ほど前の建築と伝えられています。



 本堂。
 薬師如来が祀られている三重塔には賽銭箱がなかったので、ここにお賽銭をあげました。

 私が訪れる寺院は無人であることが多い。
 ここは結構著名な寺院で、しかも土曜日でしたから、さすがに無人ということはありませんでしたが、行き合った参拝客はわずか九人に過ぎませんでした。



 御滝不動の参拝を終え、船橋駅へ行くために山門前のバス停(御滝中学校前)からバスに乗ります。

 私が乗車したときは、辛うじて坐ることができて、立っている人はいない状態でしたが、そのあとはバス停に停まるごとに乗客が増えてきて、車内は立錐の余地もないほど混んできました。
 バスが動き出したり止まったりすると、吊り革につかまった乗客の身体が揺れて、吐く息が私にかかるほどになります。幸いなことに、私の前に立っていた二人は若い女性であったから、よかったけれど……。
 車内は混んでいても、バスがスイスイと進むのなら、なんら問題はないのですが、かたわらを歩いて行く人のほうが断然速いのですから、バスの平均時速は1キロぐらい。やがて渋滞に業を煮やした乗客たちが次々と降りて行くようになり、空席ができるほどのガラガラ状態になってしまいました。

 乗り合わせていた地元住民によると、土日の船橋駅北口は西から東から、海から山から車がやってきて、最悪の状態になるんだとか。普段であれば、私が乗ったバス停からなら二十分で着いてしまうということですが、この日は一時間四十分もかかってしまいました。

 船橋駅が近くなったところで、それまで二車線だった道路が四車線になって、バスは急にスピードを上げました。左側には長く連なった車列があります。どうやら駅周辺の駐車場が空くのを待っている車に付き合わされた渋滞だったようです。
 帰ってから思い返すと、せっかちな私が二時間近い間をよく耐えたという思いがします。

 船橋駅に出たのは、次なる目的地・東光寺があるからですが、近くに慈雲寺、西福寺という二つのお寺があるので、寄って行くことにします。



 京成線の高架に沿って歩いて行きます。



 新海老川橋で海老川を渡ります。水源は先の御滝不動です。



 橋上から見下ろした海老川。
 御瀧不動尊では細々とした流れでしかなかった滝が、こんなにも水のたゆとう流れになりました。

 スマートフォンの地図情報がクラッシュを起こしかけたり、操作もしていないのに、勝手に目的地をこしらえて、所在地の所番地を示す窓ができ、画面を隠してしまったりするので、少々迷いましたが、バスを降りてから二十分ちょっとで慈雲寺に着きました。



 弘安二年(1279年)、鎌倉幕府執権・北条時宗に招かれて来朝した宋の僧・無学祖元を開山に迎えて創建されました。開山当初は、200メートルほど離れたところにある、峰台小学校の地を中心に七堂伽藍の整った大寺だったそうですが、永禄七年(1546年)の里見氏と北条氏の戦いで焼失、荒廃と帰します。その後、後北条氏四代にして最後の当主・北条氏政(1538年-90年)によって、曹洞宗の寺院として再興されます
 
 明治維新時も幕軍と官軍との戦火に遭いますが、そのとき亡くなった徳川家臣の墓石がいまでも当寺にあります。



 例によって歴住の墓所に参拝。奥中央の卵塔には「当寺開山能山鷹藝大和尚」と彫られてあるので、再興前の墓はないようです。



 慈雲寺から四分で、西福寺に着きました。真言宗豊山派の寺院です。



 西福寺から五分、この日二つ目の目的地・東光寺門前に着きました。ここも真言宗豊山派の寺院です。



 本堂前には工事車両が入っていたので、正面から写真を撮ることができませんでした。



 本堂の右手前には薬師堂とおぼしき御堂がありました。
 享和三年(1803年)の「村明細帳」には、東光寺の本尊は薬師如来とされています。本尊なら本堂に祀られてしかるべし、と思うのですが、屋根の形は明らかに薬師堂ですから、薬師如来はここにおわすのでしょう。しかし、賽銭箱がない。先の本堂前にもない。

 私はまったく企図していなかったのですが、奇しくも今年の初薬師は同じ船橋市古和釜の東光寺から始めているので、終わりも同じ寺号の東光寺で締めくくるという形になりました。



 最後に船橋大神宮の名で知られる意思比(おおひ)神社を訪ねました。
 主祭神は天照皇大御神。社伝では、景行天皇四十年(四世紀前半)、日本武尊が東征のおり、当地で東国平定の成就を祈願したのに始まる、と伝えられています。



 とくになんでもない日でもあるので、参拝客はまばらでありましたが、外国人らしき人が何人も賽銭をあげるために並んでいたのにはちょっと意表を突かれました。



 帰りは京成電鉄の大神宮下から。船橋でJRに乗り換えて、西船橋~新松戸~北小金という経路で帰りました。
 大神宮下から船橋まで、船橋から西船橋まではともに一駅なので、坐れなくとも苦痛ではありません。むしろ坐ってすぐ立たなければならないより、立ったままのほうが楽なので、扉口に立ちました。

 西船橋では発車寸前の武蔵野線に間に合いました。土曜日の午後とあって、結構混んでいましたから、新松戸まで立ちっ放しも已む無しと思ったのですが、次の船橋法典で、すぐ後ろの席が空いて、腰掛けることができました。
 バスだけは最悪でしたが、薬師詣での日はやはりちょっぴり佳きことがあります。

この日歩いたところ。滝不動前(御滝中学校前)から船橋駅北口まではバスを利用。

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