桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2022年の無患子(ムクロジ)記念日

2022年03月28日 21時05分08秒 | つぶやき

 今日三月二十八日は無患子(ムクロジ)記念日。しかし、そのことは目覚めてのち、しばらく時が過ぎるまで忘れていました。
 いまのところは、まさか自分の誕生日まで
忘れてしまって、後日気がつく、というような致命的な事態には立ち到っていませんが、最近はこんなことがよくあります。近いうちに自分の誕生日だったり、忘れてはならぬ何かの記念日だったりするのに、まったく気がつかずにその日一日が終わってしまう、という日がやってくるかもしれません。

 ところで、無患子記念日とはいっても、ほかには知る人もいない、私だけの記念日です。

 十二年前、ムクロジという樹があるということを初めて知りました。そして名は知ったものの、ムクロジなどという樹はこれまで見たことがない、と思って調べてみれば、関東では自生していない樹である、ということを知りました。
 なあ~んだ、と思って見るのは諦めたところ、だれかが植えたりして、関東でも見ることができる、と知って調べ直したところ、近場では、私が棲む松戸市の隣・流山にあるという。是非見るべしと思ってツテを辿ったところ、観音寺というお寺と赤城神社にある、ということがわかりました。地図を調べてみると、二つとも当時の私の家からなら歩いて行けなくもない、という近さでした。
 けれども、私はムクロジという樹があると知ったばかりで、見たことがないのです。県や市の天然記念物か何かになっていて、「これがムクロジですよ」という具合に建て札でもなければ、見に行ったところで私にはわかりません。
 そこで、さらにインターネットをさまよってみると、流山のように近くはないが、埼玉県の上尾市にある龍山院というお寺に、樹齢三百年を超す老木があるということがわかりました。上尾市のホームページを見ると、確かに市の天然記念物に指定されている上に、画像まで載っていました。 ただ、載っていたのは小さな画像で、改めて実物を見たとき、決して見間違いはしない、という確信が持てる画像ではない。けれども、天然記念物というからには、しかるべく建て札ぐらいはあって、所在はわかるであろうし、お寺にあるというからには、門前になんらかの注意書きがあるはず。即刻行くべしと決めて行って、初めて無患子を見たのが十二年前の今日三月二十八日だった、というわけです。
 そして、行ってみなければわからなかったことですが、おまけがありました。種子が二つ落ちていたので、李下に冠を正さずという戒めに逆らって、頂戴して帰ることになりました。
 拾って帰ったときは、マンション住まいでありましたので、プランター植えにして、ベランダに置くしかありませんでした。

 それから数か月。実を植えたことなど忘れてしまったころに芽が出ました。二つ蒔いたものの、芽を出したのは一つだけでしたが……。
 そのころにはインターネットで得られる情報や画像などのストックが結構溜まっていたときでもあったので、葉っぱを目にするだけでムクロジだとわかるようになっていました。
 ムクロジは高さ20メートルぐらいにまでなる落葉高木です。庭付きとはいってもアパートだったので、ムクロジになんの思い入れもない二階の住民にとっては鬱陶しいだけでしょう。管理会社から伸びた樹が鬱陶しいと抗議する人がいる、と伝えられて、以来、毎年、紅葉した葉が落ちるころにはせっせと枝を落とす、ということになりました。
 根っこも相当広く張り巡らせていたのに違いない。転居することになった新居も、アパートながら庭付きでありますが、鼻から移植することは諦めたのでした。
 その代わり、毎年三月二十八日は記念日として菩提を弔い、どこかにある無患子の樹に会いに行くことにしようと決めたわけです。

 その記念日に当たる今日、サテ腰を上げますかと思ったころ、時刻は昼近くになっていたので、埼玉県まで行っていては帰るころには日が暮れかねない。流山の赤城神社へ行こうと考えました。前の住居からなら歩いて行ったかもしれませんが、グーグルマップでどれぐらい(徒歩で)かかるかと調べてみると、なんと四十五分もかかります。滅多に乗ることはありませんが、幸い流鉄という電車があるので、乗ることにします。

 


 最寄り駅の幸谷(こうや)から流鉄に乗ります。ホームに立つのは女性の駅員でした。



 月曜日の昼下がり、しかも下り電車とあって、二両編成の電車の乗客はまばらでした。
 全線わずか5・7キロ、所要十一分という短距離路線なのに、皆さんお疲れの様子で、グッスリというテイの乗客も。



 流鉄ではスイカは使えないので、切符を買って乗車します。駅員の労力を省くべく、あらかじめ「入鋏省略」とプリントされていて、入るときはまったくのフリーパス。しかし、降りるときは無賃乗車の輩がいないかどうか、駅員が見ています。
 軟券と呼ばれる薄っぺらい切符で、ポケットに突っ込んで、うっかり手を離してしまうと、どこかへ行ってしまいそうです。とくにいまの時期はスラックスも厚めの生地のものを穿いているので要注意です。
 げんに何年か前、私は電車から降りる段になって、確かポケットに入れたはずの切符が行方不明になり、仕方がないから二重に払うか、と肚を決めたところ、よい駅員さんに巡り合って、いくらの切符を買ったかと訊かれ、即座に答えたところ、二重払いを免れることができた、という経験がありますが……。



 幸谷から三つ目・平和台駅で降りました。一つ先はもう終点の流山駅です。



 流山という町が味醂(みりん)発祥の地であり、いまもキッコーマンの工場があるということは知っていますが、この駅から乗ったことはあっても、降りたことはなかった(多分)ので、駅前にこんな標識があったとはついぞ知りませんでした。

 流山街道と江戸川に挟まれて細い通りが走っています。その通りを江戸川の流れに沿って下って行くと、途中で天晴通りと名を変えます。
 通りがアッパレなものになるからかというと、さにあらず。いまはありませんが、かつて天晴(あっぱれ)という名の白味醂の工場があったのです。



 天晴通りを歩いて長流寺門前に差しかかりましたが、今日は立ち止まって拝礼するだけで通り過ぎます。



 一茶双樹記念館。小林一茶のパトロンの一人で、味醂醸造家だった秋元双樹(双樹は俳号で本名は三左衛門)の資料館です。今日は月曜なので休み。



 一茶双樹記念館の向かいにある、杜のアトリエ黎明も休み。



 平和台駅から十分足らずで光明院に着きました。真言宗豊山派の寺院。先に触れた秋元双樹の墓があります。



 光明院隣に目的の赤城神社があります。
 境内は繋がっているので、自由に行き来することができますが、久しぶりにきたので、このほうが礼を尽くした感じになるのだろうと自己流の解釈をして、門前にまわり、門をくぐってお邪魔します。長さ6メートル半、重さ500キロという大しめ縄が提げられています。
 


 境内の中ほどにあるムクロジ(無患子・葉っぱのないほう)の樹です。

 


 幹にくくりつけられた説明板には、実を見つけたら自由にお持ち帰りください、と書かれてありますが、そう書かれているので、見つけられ次第持ち去られるのかどうか、私は何年かに一度はこの樹を見にきていたのに、実が落ちているところをついぞ見たことがありません。



 枝にはまだ実が残っていましたが、この日も落ちた実はありませんでした。

 


 無患子と再会を果たしたあと、すぐ近くにある流山寺にお邪魔しました。我が宗派・曹洞宗のお寺です。
 かつての地元・北小金の慶林寺には毎日参拝していましたが、わずか一駅とはいえ、電車に乗らなければならない土地に引っ越してしまったので、毎日はもちろん北小金へ行く機会がないと参詣は叶いません。



 流山七福神の一・大黒天が祀られています。

 


 歴住の墓所横には「名月やいづれの用にたつけぶり」という栢
日庵斗囿(はくじつあん・とゆう)の句碑と説明板。句碑は太平洋戦争中の空襲で被弾。いまも中央上部に痕跡を残しています。



 江戸川の堤防へ出ます。菜の花はまだまだ見ごたえがありました。



 堤防に上り切ったところは丹後の渡し跡でした。



 堤防上の径を下流に向かってしばらく歩くと、千葉県道・草加流山線の流山橋東詰に出ます。

 


 結構交通量が多い道路です。一瞬でも車の流れが絶えて、道路の両側にある桜並木が一望できる瞬間を待ちましたが、ついにそういう機会には恵まれませんでした。

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菜の花を見に行く

2022年03月17日 22時30分50秒 | 風物詩

 江戸川堤へ菜の花を見に行こうと思い立ちました。



 我が庵を出て西の方角を目指します。五分ほどで中央分離帯に夾竹桃(キョウチクトウ)が植えられている、きょうちくとう通りを横断します。



 きょうちくとう通りと十字に交差するけやき通りに出ました。まだケヤキ(欅)の芽吹きはありません。



 けやき通りが坂川に架かる橋(欅通り橋)を渡ります。



 欅通り橋から十分ほど歩くと、道は神明堀に突き当たって行き止まり。坂川に較べると細い川(排水路?)なのに、橋の数は坂川の半分しかありません。



 流山街道に出ました。
 まだ暑い季節ではないので飲料は必須ではありませんが、念のため買って、トートバッグに忍ばせておこうと思っているのに、大型衣料品店や電気店はあっても、コンビニや自販機が見当たりません。



 ツクシ(土筆)がたくさん顔をのぞかせていました。



 途中、立ち止まって写真を撮ったりしていたので、庵を出てから四十分近くかかりましたが、観音寺に着きました。まっすぐ向かっていたら三十分少々で着く距離です。私には馴染みの深いムクロジ(無患子)のあった(いまはありません)お寺なので、かつてはよくきていました。



 観音寺周辺は様変わりしていました。今日現在のグーグルマップを開き、地図を航空写真に変えると、いつ撮影した画像を使っているのか、空き地があるのがわかりますが、実際は家が建て込んで、空き地はほとんど見当たりません。



 観音寺の横には香取神社があるのは変わりませんでしたが、公園ができたりして、ここも様変わりです。



 江戸川の堤防に着きました。



 江戸川土手から観音寺を遠望。

  

 望遠レンズを装着したカメラを携帯してきたので、ここぞとばかりシャッターを切りました。



 観音寺先で江戸川堤防に上り、上流に向かって五分ほど歩いたところにこんな標識がありました。
 幸房(こうぼう)とは対岸・三郷市の地名です。「岩野木の渡し」「七右衛門新田の渡し」とも呼ばれたようです。岩野木はやはり三郷市の地名、七右衛門新田はこちら側松戸市の地名ですが、いわずもがな、木柱が建てられているところは流山市で、七右衛門新田は少し下流です。
 この堤防も以前はよく歩いたものですが、この標識は前はなかったような……。



 すっかり歩き疲れてしまったので、南流山駅まで歩き、一駅だけ電車に乗って帰ります。

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2022年三月の薬師詣で・上尾市~さいたま市見沼区

2022年03月08日 23時46分08秒 | 薬師詣で

 三月の薬師詣では埼玉県の上尾市からさいたま市の見沼区にかけて歩いてきました。



 2020年の二月以来、二度目のニューシャトル乗車です。



 乗車十二分、大宮から六つ目の原市駅で降りました。



 原市駅から歩いて七分。最初に訪ねたのは浄土宗相頓寺です。立派な鐘楼門でした。
 創建は南北朝時代の永徳二年(1382年)、開山は鎌倉光明寺の第四世だった聖満良順上人。



 相頓寺本堂。
 もう少し経った季節にくると、庭には牡丹の花が咲き乱れるようで、中には珍しい黄色をした牡丹があるそうです。



 地蔵堂。 

 次に訪れるのが今日最初の薬師詣でとなる妙厳寺です。相頓寺から八分。



 我が曹洞宗のお寺です。創建は延徳元年(1489年)。

 

 本堂への参拝を済ませたあと、歴住の墓所にお参りします。



 最後に薬師堂に参拝。薬師詣でにきているのですが、やはり本堂と歴住の墓所に参拝するのが先。

 

 妙厳寺をあとにして原市駅近くまで引き返し、十分ちょっとで寶蔵寺。醫王山という山号のとおり、ここも薬師詣で。

 このあと瓦葺掛樋跡を目指します。予定では二十五分の行程。少々歩きます。



 原市団地前を通る道路を黙々と歩いて行きます。竣工は昭和四十二年。総戸数一八五三戸という旧日本住宅公団の中規模団地です。

 この原市団地を過ぎてしばらく歩くと、「➡楞厳寺」という標識が目に入ったので、寄って行くことにしました。
 あとで気づくのですが、瓦葺掛樋跡に向かう道は途中で二股になるところがあって、そこを左に進まなければならなかったのですが、気づかず道なりに進んでしまったのでした。
 事前に経路を調べていたとき、この楞厳寺があることを知っていたら、どんな寺なのかを調べているはずです。すなわち記憶にない寺があるということは、予定では通るはずのない道を歩いていることになるのですが、不思議なことに、そういうことを不思議とも思わずに歩いていたことになります。

 

 予想しなかったような広い境内を持つ寺でした。



 予備知識がまったくなかったので、我が宗派のお寺だということは入山して初めて知りました。歴住の墓所に参拝します。



 墓域には十三仏がありました。一番手前が七七・四十九日の薬師如来。期せずして薬師詣でができました。

 

 道を間違えていた、ということに気づくのはかなり歩いたあと。
 楞厳寺に寄ったこともあって、予定二十五分のところ、寶蔵寺から一時間近くも要して瓦葺掛樋跡に到着しました。



 遠目にこの煉瓦が見えたので、なんだろうと思いながら近づいてみたら……。



 瓦葺掛樋史跡公園でした。

「見沼溜井」と呼ばれる貯水池は用水として利用されていましたが、新田として開発されることになりました。それに代わる用水を確保するために、江戸時代中期の享保十二年(1727年)から翌年にかけて、見沼代用水の開削工事が行なわれました。その見沼代用水路と綾瀬川がぶつかる瓦葺の地に、立体交差できるよう綾瀬川の上に架けられたのが瓦葺掛樋です。
 当初は長さ二十四間(約44メートル)、幅八間(約14・5メートル)で、水路の底は板敷き、左右は土堤でしたが、土堤を廃して全部板囲いにするなど改修を繰り返し、天明七年(1787年)には、長さが7メートル延長されて、二十八間(約51メートル)となり、舟運にも利用されてきました。
 現在残されている橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四十一年(1908年)に煉瓦製から鉄製に改造されたものの一部だということです。

 瓦葺掛樋跡から国道16号の東大宮バイパスに沿った道に出ました。その道を歩いているうちに、上尾市からさいたま市見沼区に入りました。

 

 多聞院。
 ここは下調べのときに地図で見知っていた寺です。真言宗の寺院であり、薬師如来をお祀りしているわけでもなく、寄っていると、遠回りになるので寄らないつもりでしたが、瓦葺掛樋跡から見沼代用水東縁に沿ってつづく径は東大宮バイパスをくぐって向こう側に出ると、渡ろうとしても、横断できる道がありませんでした。ようやく渡れるところまできたのはこの多聞院近くだったというわけです。
 帰ったあと、地図を視ると、一旦バイパスをくぐったあと、再びバイパスをくぐる経路があったのですが、気がつきませんでした。



 多聞院から住宅地を抜けると、いまは作物が何もない畑地が広がっていました。


 この日、最後に訪れることになった丸ケ崎薬師堂です。



 掲示板があったので、由来が書かれているのかと近づいてみたら、歴史・文化の道と称する観光ルートの案内図でした。



 御堂の裏には石仏と、かつて寺であったのだろうと窺わせる僧侶の卵塔が一基だけありました。

 当初の計画では、このあともまだまだ歩くつもりでした。しかし、私の脚力は歳とともにいつの間にか衰えていて、次に行くつもりだった満蔵寺はシミュレーションでは二十分以上歩かねばならず、仮になんとか歩けたとしても、満蔵寺から最寄りの蓮田駅まではバス便もないので、さらに歩いて、都合一時間近くも歩かねばならないということだったので、行くのは諦めることに決しました。
 道を間違えたお陰で我が宗派の楞嚴寺に参拝することができましたが、そのせいで満蔵寺参拝は諦めなければならない。どちらがよかったのだろうと考えても、俄に答えを出すのは窮するところで、少しばかり煮え切らない思いで、踵を返すこととなりました。

 あと何回(何か月)薬師詣でに出かけられるかわかりませんが、満蔵寺に参拝するためには、蓮田駅を起点とするとしても、往復八十分近く歩くのを覚悟しなければならないので、行けないかもしれません。

 

 帰りはファミリータウン入口というバス停から国際興業バスに乗り、東大宮駅に出ました。
 東大宮から二つ目の大宮駅で反対側のプラットホームに停車していた先発の平塚行に乗り換え、浦和で京浜東北線、南浦和で武蔵野線と乗り換えて帰ってきましたが、武蔵野線を除くと、それぞれチョイと乗っただけなので、空席があってもあえて坐ることはせず、坐ったのは武蔵野線の南浦和~新松戸間の三十分弱だけでした。

この日、歩いたところ

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