桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

里の秋

2010年09月28日 21時04分58秒 | のんびり散策

 明日から講習会です。昼食には弁当を持って行こうと考えているので、朝は気ぜわしく、散策に出ている余裕はなくなるだろうと思います。
 雨の日つづきなので、しばらく朝の散策をしていません。
 今朝も雨。
 ところが、七時ごろに雨が熄みました。少し遠めの散歩と思って、根木内城址(歴史公園)まで行くことにしました。雨上がりの散歩、と洒落込んだつもりでしたが、実際は雨の中休みでした。
 行きは上富士川沿いに歩き、帰りは旧水戸街道を北小金駅へ歩いて、まだ知らないパン屋でもあれば、パンを買って帰ろうと思いました。 



 富士川はいつにも増して水量が多く、葦も押し倒されていました。



 カルガモの営巣地かと思われるところがありました。ザッと数えてその数-五十羽はくだらない。普段は葦のジャングルになっているので、川岸からは見えないのです。一夜明ければ、ジャングルが取っ払われていたので、カルガモも困っているみたいです。



 富士川に合流する平賀川の水量も多く、烈しい水音を立てて流れ込んでいました。



 栗の実が爆ぜて、地面に落ちてしまっているのもたくさんありました。
 思わず、♪静かな 静かな 里の秋~という童謡が口をついて出ます。
 童謡ではあるけれども、この歌は元々は戦争賛美の歌だったということは意外に知られていないようです。作詞者は斉藤信夫(1911年-87年)という人。最初につけられたタイトルは「里の秋」ではなく、「星月夜」でした。



 根木内歴史公園直前の民家にあったハナミズキ(花水木)の実。
 花水木というと、私は池袋駅西口の通りを思い出します。この通りを歩いていたころはまだ四十代で、バリバリ仕事をしていたことも懐かしい。



 八月中はカラカラに乾いていた根木内歴史公園の湿地帯。
 やっと潤った、というより水浸しの状態です。



 一丁前に稲架(はざ)がつくられていました。
 根っ子の会という自然観察などをする子どもたちの集まりで、小さな水田ながら、田植えから収穫までするのです。千葉県では稲を稲架に架けて干す様子を「おだがけ」というようです。



 ミクリ(実栗)の群生地がありました。ガマ(蒲)に近い植物です。七月、直径2センチほどの花を咲かせたあと、栗のような実を結ぶことからこの名があります。

 帰ろうと歩き出したら、雨が降ってきました。
 昨夜も雨が上がったので買い物に出たら、本土寺参道を出たところでいきなり強い雨になりました。傘は持たずに出ていたので、買い物はせずにUターンしてしまいました。

 旧水戸街道は北小金駅前の交差点から下り坂になっているので、下水溝から溢れ出た水がまるで川のように流れています。
 そこを猛スピードで突っ走って行く車がある。そのスピードで川に突っ込めば、バシャッと数メートルは飛ぶだけの水飛沫が上がります。当然、私はその被害者になる。
 手にはカメラを提げていたので、ナンバープレートを撮影してやろうと思ったのですが、とっさのことですから、思ったようには行きません。

 市川大野に勤めていたときも、よく泥水をかけられたことがありました。狭い道なのに、異様なスピードで飛ばすバカがいるのです。追い越し車線がないのだから、頑張ったところでタカが知れているのに……。

 それにしても、八月の干天つづきといい、一転して今月の多雨といい、とうとう天が怒り始めたゾ、という気がしないでもありません。
 何に怒っているのかといえば、私の想像では(天が怒っているというのも想像ですが)我が国とは一衣帯水の国ではないか。
 なんでもいいからお山の大将でないと気が済まないのを中華思想というのですが、フランス人の中華思想はだだっ子のようなところがあって、まだ可愛らしい。しかし、一衣帯水のほうはまさに唾棄すべき中華思想です。
 ところが、いかに天といえども、ピンポイントで怒りを下すわけには行かないので、近くにある我が国も影響を受けずにはいられない。異常気象のとばっちりをくっているのはそのためです。
 その一衣帯水の国と東と北で国境を接する二つの国。
 実際はあり得ないことですが、この三つの国が合わせてこの世から消えてくれれば、世界はかなり清々しくなるだろうと思います。

 二日つづけて雨に祟られ、おまけに泥水まで浴びせられて少し昂奮してしまいました。



 傘か何かで花を弾き飛ばされたものか、靴先で蹴飛ばしたのか。花の失われた茎の残る本土寺参道の曼珠沙華です。
 一年間、じっと地中で耐えて花を咲かせるのだから、天寿をまっとうさせてやればいいと思うのに、天の怒りが向けられるのは、一衣帯水の国のせいではなく、こういう心ないことをするヤツがいるせいかもしれません。


講習会場下見

2010年09月27日 13時03分42秒 | のんびり散策

 競争率約3・0倍という難関を、よりによって籤運の悪い私が突破してしまった講習会受講。この二十九日から十月十四日までの平日十日間に亘って開かれます。
 会場は二か所に分かれていて、前半六日間が本八幡にある市川市勤労福祉センター。後半四日間が西船橋にある野村證券グループの研修センターです。
 昨日、会場の下見をしておこうと思って出かけました。両会場とも最寄り駅から十五分といささか距離があるので、初日に初めて行く、というのでは少なからず不安に感じられたからです。
 新松戸、西船橋と乗り換えて本八幡で下車。北口は馴染みがありますが、南口はときおり餃子を食べにきた大阪王将と市川市の中央図書館方面を除くと、地理不案内なところ。そこから十五分というのはまったく知らない場所です。

 送られてきた資料に同封されていた地図を持って行きましたが、この地図が少々手抜きでした。地図に示されている道はT字路になっていて、突き当たりに当該の建物があることになっていましたが、行けども行けども道は真っ直ぐ通っていて、突き当たりになりません。



 付近をぐるりと一周。もう一度元に戻ってようやく見つけました。突き当たりになる場所は少し離れたところでした。
 講習日初日は十五分ぐらい前に着くようにしようと思ってはいましたが、ぶっつけ本番で行っていたら、多分遅刻をしていたでしょう。
 これまでいくつか面接に行きましたが、ずぼらな私は下見などしたことがありませんでした。日にちに余裕があるとはいえ、今回に限り下見をしておこうという気になったのが我ながら不思議ですが、下見をしておいて正解でした。

 第二会場は西船橋にあります。本八幡駅には戻らず、下総中山へ出ることにしました。下総中山駅への途中にニッケコルトンプラザという複合商業施設があるので、久しぶりに覗いてみようと思ったのです。



 市川市中央図書館。生涯学習センターに併設されています。
 スペースは広々、書架と書架の間も広々としていて、多くの図書が開架になっているので直接手にとって見ることができます。建物の新旧は問わないまでも、書架の前で本を探している人があると通れない、という松戸の図書館とは大違いです。
 市川市民だったころ、私はこの図書館の友の会会員だったので、二~三週間に一度はきていたものです。



 図書館の隣。千葉県立現代産業博物館。



 夜はまた雨になったのに、午後二時ごろはまだこんな空でした。



 コルトンプラザに着きました。日本毛織(現・ニッケ)の工場跡地につくられた施設です。図書館にくると、この中にある書店とダイエーを覗いたものです。

 


 コルトンプラザ裏のおりひめ神社。当初は少し離れたところにあった共立モスリン中山工場に祀られていたもの。昭和十六年、共立モスリンは日本毛織に吸収合併され、のちにニッケとなります。
 祭神は天照大神なので、六月十五日のブログで取り上げた群馬県桐生市の織姫神社とは無関係です。

 この神社がある一帯はニッケ鎮守の杜と呼ばれていて、一画には「手仕事の庭」と名づけられたミニ植物園(?)があります。植えられているのは黄蜀葵(トロロアオイ)、棉、紅花、藍など製紙、染色など、いわゆる手仕事に用いられた植物。



 黄蜀葵(トロロアオイ)の花。
 黄蜀という名が示すように、根は粘り気を持ち、製紙の際の糊として使われました。また胃腸薬・鎮咳薬としても用いられるので、別名・通和散(つうわさん)。

 


 これらの花も製紙か染色に関係のある花なのでしょうか。折角なのですから、樹々草々の名称と簡単な説明があればいいのに……。



 本八幡駅とコルトンプラザ間は無料のシャトルバスが走っています。

 


 下総中山から一駅だけ総武線に乗って西船橋で下車。
 第二会場の地図も少し手抜きでした。しかし、本八幡とは違って、道がこまごまとしていないので、回り道することなく着けました。

 下見を終えてあとは帰るだけ。行きがけに西船橋駅近くでドトールコーヒーを見かけていたので、コーヒーでも飲んでしばし休憩と思ったのですが、なんびとが何をせむとするのか、満席でした。それでは、と駅構内のベッカーズへ行ってみれば、ここも満席。西船橋くんだりで何をすることがあるのか、と私には不思議でしょうがない。
 コーヒーを飲むというより、しばし腰かけて休みたいのでした。私が降りる北小金駅北口は喫茶店もへったくれもないところなので、武蔵野線で坐ることができればそれでいいか、と思いながら電車を待っていると、異様に混んだ電車がきました。むろん坐れない。
 かてて加えて西船橋の次の船橋法典は中山競馬場の最寄り駅です。ちょうど競馬が終わる時間に遭遇してしまったので、プラットホームには黒山の人、人……。下見をしておいてよかった、今日は吉日ナリ、と思ったのも束の間、厄日かと思うような帰り道になってしまいました。

 講習に出る日の昼食には弁当をつくって持って行こうと思い、おかずの一部にすべく冷凍食品を買い込みました。
 忘れてならぬのが昼食後の薬の服用です。ピルケースを買って、十日分を仕分けしておこうと思い、ハタと思いとどまりました。
 今度の通院予定は来月の七日です。もらっている薬はきっちり四週間二十八日分なので、七日の朝食後に服用すると、なくなるはずです。十日分もの薬がないだけでなく、七日は通院を休むか、受講を休むかの二者択一を迫られることになりました。
 で、月曜日の今日、病院へ電話を入れました。私の担当医師は常勤ではなく、毎週木曜だけくるのです。「お訊きしておいて、ご連絡します」というナースの返辞でしたが、連絡がとれなかったものか、まだ返辞がありません。

 

 我が部屋から見た彼岸花です。昨日の朝はまだ雪柳の陰に隠れていましたが、今日は一段と丈が伸びて、机の前に坐ったままでも見えるようになりました。ほぼ満開を迎えています。
 ところで、手前にあるこの雪柳 ― 今年の夏は暑かったので彼岸花の開花が遅い、と教えてくれた近所の事情通のオヤジが雪柳だといっているのですが、私にはどうも違うように思えてなりません。来春、花の季節になればわかります。


南柏まで

2010年09月26日 09時54分45秒 | のんびり散策

 昨朝、天気予報を見ると、台風接近の影響で昼ごろには風雨ともに強くなるだろうとのことでした。
 二日間、雨にたたられて散策に出ていなかったし、ネットショップで頼んである桔梗とハーブ類の種が到着する日に備えて、庭の土を掘り起こしておかねばならぬのですが、庭はすっかり濡れてしまっているので、農作業もままならない。
 涼しい、というより急に寒くなってしまったので、衣替えの準備でも始めますか、と思っていたところ、十一時ごろから空が明るくなって、陽射しが出ました。
 長期予報は無論、二日三日先の天気なら当てられなくても仕方がないと思いますが、敵は台風とはいえ、数時間後の動きが予測できないとは本当に情けない公的機関があるものです。
 それでも、晴れるといっていたのに雨、ということだと肚も立ちますが、逆だと出かかった恨み節もすぐに忘れてしまいます。

 昼過ぎ、料理の本を買いに南柏まで行くことにしました。散策をしていなかったので、JR一駅ぶんを歩いて行きました。



 昨日の午後はこんな空でした。



 富士川に向けて高台を下ると、桔梗殿を咲かせている家があります。
 すっかり気温も低くなったので、花期も終わっているだろうと予想したのですが、まだまだ意気軒昂でした。 

 


 遠回りになりますが、無患子(ムクロジ)のある坂を上りました。
 こんな奇妙な形をした実を見つけました。こんな形は初めて見ますが、独特の窪みのあるところは間違いなく無患子の実です。落ちて間もないようなので、振っても音はしませんが、三つとも種が入っているのでしょうか。
 画像下・ひっくり返すと……。

 ほんのちょっとしたことですが、私は生まれつき身体に奇形の部位を抱え込んでいるので、こういうものを見ると、気味が悪いとは思わず、愛おしさが先に立ちます。
 拾うことは拾ったものの、庭に播くかどうしようかと決められぬまま、ポケットに入れました。



 途中の畑地で蚊帳吊り草を見つけました。



 通り道なので、廣壽寺に寄りました。
 お彼岸の間、山門を通る人はいなかった(?)とみえます。それとも、避けて通れないことはないので、みな遠慮しながら通ったので残されたのか。

 我が庵には新松戸から一緒に引っ越してきたと思われる蜘蛛が棲息しています。
 夜、デスクランプだけ点けてパソコンに向かっていると、いつの間にかモニタの上に姿を現し、またいつの間にか姿を消します。
 諺にあるのは、夜蜘蛛は殺すな、であったか、殺せだったか、どっちだったかと思いあぐねているうちにいなくなります。部屋のどこかに巣を張っている様子はありません。



 まだ色づいていなかった廣壽寺の柿。



 境内に聳える公孫樹(イチョウ)の樹です。
 台風の余波で、私が訪れたときもまだ強い風が吹いていました。その風で落ちたのか、銀杏(ギンナン)を拾いました。



 境内の曼珠沙華はまだこんな調子でした。



 こちらは廣壽寺手前の畑に咲いていた曼珠沙華。陽当たりがよいせいか、満開でした。



 普通の尾花なのでしょうか。こんな輝くような、立派な尾花を見たのは初めてです(廣壽寺近くで)。



 すでに季節が終わりかけの黄花秋桜(コスモス)はたくさん見ましたが、不思議と普通の秋桜はあまり見かけません(南柏駅近くで)。

 南柏駅まで最短距離を行けば約3キロ、三十数分で着くところですが、廣壽寺に寄り道したり、立ち止まって花を見たりしていたので、所要五十分。着いたのは午後二時過ぎになりました。

 前回、時間に余裕がなかったので食べられなかった大阪王将は? というと ― 。
 入ろうとしたのですが、私の直前に入った若夫婦でちょうど満席。書店に行って本を買い、何冊か手にとって立ち読みしたあと、二十分後にもう一度寄ってみましたが、空席なし。
 待つのはイヤだというイヤな性分なので、別に腹が減っているわけではなし、と負け惜しみを自分に言い聞かせて、帰りは電車に乗りました。



 廣壽寺で拾ってきた銀杏です。

↓この日、歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map75747.html


秋便り

2010年09月23日 18時59分12秒 | 風物詩

 昨二十二日、松戸の最高気温は34・0度。一夜明けた今日は雷が轟き、気温が一番高くなるはずの午後二時でも16度台と夜明け前より低く、秋どころか初冬のような寒さです。

 


 本土寺参道と交差する「まてばしい通り」で、馬刀葉椎(マテバシイ)の団栗(ドングリ)を拾ってきました。漢字では全刀葉椎とも書きます。日本特有の樹ですが、別名を薩摩椎(サツマジイ)というように南方の樹で、本州では房総半島南部と紀伊半島南部にしか自生しないのだそうです。

 椎の木の団栗はアクが少ないので、殻を割って渋皮を除けば、このまま生でも食べられます。炒れば香ばしく、なおのこと美味。庭に播くつもりで拾ってきましたが、まだまだ落っこちていたようなので、もっと拾ってきて食べることにしますか。

 
 


 本土寺参道の各所に、おびただしい数の彼岸花があります。花の季節がくるまでは土中に隠れているので、まったく気づきませんでした。
 花の咲く前は見たことがなかったので、わずか数日前、緑色をした手の小指ほどの芽を見たときはなんだろうと思いました。
 そのときには5センチほどだったものが、その翌日は10センチ、さらに翌日は……と倍々ゲームのように成長し、手をすぼめたような蕾が現われたと思ったら、緑一色だったところに紅いものが見えるようになって、やっと彼岸花なのだと得心しました。

 これが彼岸花だとは知らぬころ、ツルツルの茎はおひたしにして食べられそうに思って眺めたのを思い出します。参道で人通りがあるので、抜くことはしませんでしたが、もっと鄙の場所にあれば、まさか食べたりはしなかったでしょうが、なんだろうと思って抜いていたかもしれません。

 それにしても不思議な花です。花が咲き終わるまで、地表に出ているのは茎と花だけです。

 


 我が庭にもたくさんの彼岸花がありました。むろん私が植えたものではありません。二か所に分かれて、
いっぱい芽を出しています。敷地の前身は畑地だったということですから、そのときの名残なのでしょう。

 パソコンに向かいながら庭を眺めると、真横に当たる場所にあるのですが、部屋の中から見る限りは雪柳(これも前々からあります)の陰に隠れているので、気がつきませんでした。
 本土寺参道では開いている花もあるのに、こちらはお彼岸の中日の今日までに開花は間に合いませんでした。
 事情通(すぐ近くに住むオヤジ)によれば、今年の夏は暑かったので、生育が遅いのだということです。去年、花が咲いているのを見たのは別の場所ですが、較べると確かに一週間ほど遅れています。



 道端に咲いていた韮(ニラ)の花。本土寺周辺では民家の生け垣に沿った道端で咲いているのを頻繁に見かけます。
 我が宗旨の曹洞宗では、五葷(ごくん)といって、葱(ネギ)、辣韮(ラッキョウ)、浅葱(アサツキ)、大蒜(ニンニク)、それに韮、という臭いが強い五種の野菜を食べるのを避けますが、私は僧侶ではないので、忌避することなくいただきます。とくに韮は焼きうどん、鶏そば、韮玉と各種料理に欠かせません。


 


 午後、いっとき雨が熄んだので、三十分歩いて桔梗と竜胆を買った園芸店に行きました。
 庭の樹や草花に限られますが、園芸店で実物に接すれば、植物図鑑を見ても調べのつかない樹や草花の名前がわかるのがありがたい。これまで目にしたことはあっても名前を知らなかった花の一つ酔芙蓉
(スイフヨウ)を知りました。

 これも不思議な花です。朝は白い花が午後になるとピンクになり、夕方になるとさらに紅くなるといいます。本当に酒を呑んでいるようですが、同じ場所、同じ時間で白とピンクがあったのはどういうわけなのでしょうか。白いほうは宵っ張りのタチで、酒を呑み出す時間も遅いのでしょうか。



 常磐線沿いの民家で……。
 いまどき祝日に国旗を掲揚する家は珍しいと感じたので、カメラに収めました。

 昭和天皇と同い年で、昭和天皇が大好きだった我が先考も、祝日には必ず国旗を掲揚していました。私は高校卒業以来、親許を離れてしまったので、すっかり忘れていましたが、この家の国旗を見て、ふと思い出しました。




 こちらは一昨日行ったハローワーク松戸近くの坂川河畔。珍しい酔芙蓉の大木、と思ったら、四本が密集していたのでした。

※今日のうれしいこと。
 求職の窓口を広げるため、いままでやったことのない仕事に挑んでみようと、ハローワークで紹介された講習を受けることにしました。ただ、限られた定員に応募者殺到中! とのこと。受けられるかどうかは抽選の上、ということでした。
 せっかく意欲を見せたのに、籤運の悪い私は多分駄目でしょうね、と諦めていたら、今日「受講してください」という葉書を受け取りました。ぬぁ~んと3・0倍という狭き門を通ったのでした。ジャンジャン。

※もう一つうれしいこと。
 急に寒くなったので、初めて水道(井戸水です)が暖かいと感じられました。

※逆に今日のガッカリ。
 ドラゴンズは完敗。2連勝して、安心して力が抜けてしまったのですね。それにしても、吉見は何年か前の川上憲伸と同じ。エースのはずでありながら、エースにはなり得ない。ここで勝てばダメ押し、という大事なときには勝てません。このままだとCSの登板はない! ということがわかっていない。ちょっと情けない。


行徳を歩く

2010年09月22日 12時05分08秒 | 寺社散策

 昨二十一日はハローワークの認定日。九時四十五分、ハローワークに着いて、解放されたのは十一時。
 三時間後の午後二時から東京メトロ東西線の行徳駅近くで面接を控えていました。時間はあまるほどありましたが、いったん家に帰って出直すのはかったるいし、そんなことをしてヘタをすれば遅刻することにもなりかねない。そこで、そのまま行徳に向かうことにしました。



 松戸から新京成に乗り、八柱(新八柱)、西船橋と乗り換えて、行徳駅で降りました。
 行徳街道沿いにはじつにたくさんの寺社があります。
「行徳千軒寺百軒」-民家商家千軒に対して、お寺が百もあった、といわれるほどです。「行」「徳」という地名がつけられたのも、それだけ信仰心の篤い土地柄ゆえでしょう。
 ょうど一年前には一つ西船橋寄りの妙典駅で降りて、お寺巡りをしています。


 その続編という形になりました。



 行徳駅から徒歩十五分。最初に訪ねた浄土宗教信寺です。元亀元年(1570年)の開創。行徳三十三観音第十六番、十七番札所。
 二つの札所があるのは昭和二十七年に信楽寺(十六番)と教善寺(十七番)が合併して教信寺となったため。門が閉まっていて入れなかったので、塀越しにカメラに収めました。



 教信寺から次の徳蔵寺までの小径で見かけた小料理屋の電飾看板。
 どこであったのか記憶はあやふやですが、たまたま見かけた野良猫殿にこんな名前をつけた憶えがあります。しばし立ち止まって周囲に目を配ってみましたが、この店そのものは見当たりませんでした。



 教信寺から260メートル。真言宗徳蔵寺。天正三年(1575年)の開創。



 徳蔵寺から200メートル。慶長十五年(1610年)開創の浄土宗清岸寺。行徳三十三観音第二十番。
 門には柵が立ててあったので、あえて跨いで入ることはせず、本堂を遠望しました。



 おかね塚の碑。「おかね」とは江戸吉原の遊女の名です。
 行徳はかつて製塩で栄えたところです。この碑のある押切地区には港があって(いまも湊という地名が残っています)、製塩の燃料が上総の国から運ばれていました。その舟の船頭や水夫たちの中には荷下ろしをしている間、吉原まで遊びに行く者があったそうです。
 言い伝えでは、ある船頭がおかねと親しくなって、年季が明けたら夫婦になろうと契りました。呑み屋における与太話と同じ、遊び半分だったのでしょう。
 しかし、おかねは約束を信じました。年季が明けるとこの地にやってきて、船頭に会えるのを愉しみに待ったのでした。

 が、船頭は現われません。罰当たりな船頭です。船頭がくるのを待つうち、おかねは蓄えた金子も使い果たし、
悲しみのあまり憔悴して、この地で死んでしまったのです。
 この悲話を伝え聞いた吉原の遊女たち百余人がわずかばかりのお金を出し合って供養の塚を建てました。地元の人たちも花や線香を供えておかねの霊を弔ったのでした。



 おかね塚を通り、清岸寺から220メートル。浄土宗光林寺。
 今回訪れた中では一番古いお寺ですが、開創は天文年間(1532年-54年)と伝わるだけで、はっきりしません。他のお寺はすべて本堂が改築されていましたが、ここだけは昔ながらのようでした。行徳三十三観音第二十一番。



 光林寺から140メートル。押切稲荷神社境内にあった千壽銀杏。
 幹周6・5メートル、樹高20メートル。鉄柵で囲われ、市川市の保存樹木との標示がありましたが、ほかに説明は見当たらず、「千壽」とは何を意味するのかわかりませんでした。



 行徳は適当に歩いていても、家々の屋根越しに高い甍が見えて、寺社に突き当たる、と表現してもいいほど多くの寺社があります。
 寺社の門前には必ずこのような説明板が立てられ、隣接する寺社の方角と距離が記されているので、非常にわかりやすい。



 押切稲荷から130メートル。浄土宗法伝寺。天文二十二年(1553年)の開創。行徳三十三観音第二十二番。

 


 法伝寺から220メートル。浄土宗善照寺。
 寛永二年(1625年)の開創。行徳三十三観音第二十四番。下の画像は境内にある万治元年(1658年)建立の五智如来。



 行徳街道です。掲げられている提灯は来月十日香取神社で挙行される秋祭りに備えて……。



 最後に訪ねた香取神社。善照寺から350メートル。

 


 香取神社の狛犬。素朴なつくりで、非常に愛らしい。



 香取神社の公孫樹二本。左は市川市の保存樹木に指定されていて、幹周3・7メートル、樹高13メートル。



 その樹がもたれかかるのを支えているような右の樹。
 主幹は立ち枯れていますが、主幹を囲んで四本の幹が立ち上がっています。本八幡にある葛飾八幡宮の千本公孫樹には及びませんが、根元の幹周は7メートルもあるそうで、行徳では一番の巨木ということになるそうです。

 ここで面接の時間が近くなったので、寺社巡りは打ち止めにしました。
 去年訪ねたとき、十返舎一九も立ち寄ったといわれる笹屋うどん跡を捜しましたが、地図には載っておらず、明確に場所を示した資料もなかったので、見つけ得ぬままでした。この日も近くまで行っているはずなのですが、見つけられませんでした。

 昨日も30度を超す暑い日になって、かなり汗をかいてしまいました。そのまま面接に及んだので、先方が受けた私の印象は最悪だったかも……。

↓二十一日に歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map75523.html


キジムナーの宿る樹

2010年09月20日 13時31分23秒 | つぶやき

 朝夕涼しくなってきたので、もう二か月近くもサボっている廣徳寺の作務にそろそろ出向かねばならぬナァ、と考えました。
 ところが、家にいる間はなんでもなかったのですが、買い物をしようと外に出て歩き出すと、頭がどんよりと曇った感じがするのです。
 脚も重いし、微熱もあるようで、酒も呑んでいないのに、顔が火照っています。本土寺の参道まで出ぬうちに外出は取りやめることにして家に戻りました。

 五月、六月ごろ、頭の中に蜘蛛の巣が張っているような感覚に悩まされていました。そこまで濃くはないけれども、薄い巣が張っている感じが戻ってきたみたいです。
 体調が上向いてきたと思って、調子に乗って遠出をしたり、歩き過ぎたりしたツケが出たのではないかと思いましたが、家に帰ってしばらくすると洟水が出るようになりました。
 鼻風邪のようです。持病の警戒警報は解除になったわけではないので、体調が芳しくないのは風邪のせい、とわかればホッとします。

 昨日十九日の朝のうちは庭に出て穴を掘っておりました。細葉榕(ガジュマル)を植え替えようと思ったのです。高さが30センチもある鉢に植えておりましたから、小さなスコップでそれだけの深さの穴を掘るのは結構手間取ります。
 夢中でやっている間に、悠に一時間は経過していました。
 直射日光はまだまだ強い。汗びっしょりになって、そういえば今日十九日は先考の月命日であったと思い出し、焼香する前に髪と身体を洗いました。そうして風呂場から出るとき、ヒヤッと感じたのを思い出しました。

 のらりくらりと小一時間過ごし、北小金駅のマツモトキヨシまで風邪薬を買いに行くことにしました。今度は加えて軽い偏頭痛と胸焼けのような息苦しさがあります。



 北小金駅南口にあるマツモトキヨシまでは歩いて十分ほどです。
 歩いたせいか、ほんの少しだけ身体に潤滑油が廻ったようです。薬を買ったあと、東漸寺へ足を延ばしました。



 まだ四時前でしたが、陽射しの遮られた林の中はすでに夕暮れの雰囲気です。参拝客の姿はありません。
 境内にある自販機でミネラルウォーターを買い、山門の敷石に腰を下ろして薬を服みました。



 観音堂の扉が開いていました。
 この観音堂は元禄十四年(1701年)、東漸寺十七世・通譽岸了上人が現在の場所よりもっと手前にある中門脇に建立したのが始まりです。風雪に晒されて補修を加えたものの及ばず、平成八年、現在の本堂左手前に新しく建立されました。
 画像の左手が墓域の入口になっています。グルッと巡って戻ってきたら、扉は閉められてしまっていました。



 ものの数分でいつもどおりの観音堂。



 旧小金宿本陣跡の前を通って市立図書館の分館へ行きました。小さな図書館なので、借りたいと思うような本には出会えませんでした。



 家に帰ったあと、朝のうちに掘っておいたところに細葉榕を移し替えました。
 鉢植えだったので、一定以上に根を大きくすることができず、枝も伸びると切らざるを得なかったので、高さは30センチほどしかありません。
 しかし、私の手許にきてからすでに十九年になります。きたときは両手で包めるほどの大きさでした。

 東京・新宿の中落合から目白駅に近い下落合に引っ越した当夜、近くにあった花屋さんで買ってきたのでした。
 あろうことか、引っ越し先を決めていないという引っ越しで、しばらくはウィークリーマンションを借りて過ごし、荷物は運送屋に預かってもらっていたので、いざ引っ越し先が見つかったときには、家具その他は何もないといういい加減さでした。部屋の中に何もないという状態が寂しく物悲しく、適当な気持ちで手に入れた鉢植えでした。
 考えてみると、こうして思い出さない限り当人は忘れてしまっていますが、振り返ってみれば、昔から付け焼き刃式のドタバタ人生を送っています。

 細葉榕は沖縄ではキジムナー(キジムン)という妖怪が宿る樹だと考えられています。妖怪といっても、おどろおどろしいのではなく、ユーモラスな存在です。 
 人間と同じように男女の性別があり、結婚もすれば、子どもも生むのだそうです。家族連れで現われて、仕事を手伝ってくれたり、食事時には竈の火を借りにくることもあるらしい。
 人間と敵対するようなことはほとんどありませんが、住みかである樹を伐ったりすると、家畜を全滅させたり、窒息死させたりすることもあるそうです。

 こうしてキジムナーに嫌われた家は滅び、逆に気に入られた家は栄える、という言い伝えがあるそうです。
 家の盛衰などを思い悩むような家柄ではないので、それはどうでもいいことですが、知らず知らず枯らせてしまって、仕返しに窒息死させられるのだけは困るので、ひときわ丁寧に植え替えを済ませました。
 これからは独特の気根を縦横無尽に伸ばして大きくなり、やがて沖縄からキジムナーが遠征してくるほどの樹になるかもしれません。

       

 沖縄テレビ放送ではキジムナーをマスコットキャラクターにしています。名前は「ゆ~たん」。
 伸び上がったときの眼はちょっと不気味です。仕返しに窒息死させにくるようなときはこんな眼をするのでしょうか。



 水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」にも登場していて、こちらは鳥取県境港市にあるキジムナーのモニュメント。
 米子と境港を結ぶJR境線の駅には「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪の名が愛称としてつけられています。キジムナー駅は終点・境港の一つ前の馬場先町駅。
 境線には十六の駅しかありません。目玉親父やぬらりひょんを押しのけて選ばれたのですから、結構メジャーな妖怪だといっていいでしょう。
 ちなみに鬼太郎駅は境港駅、米子駅はねずみ男駅。

キジムナーの画像は沖縄テレビ放送ホームページとウィキペディアから拝借しました。

 

 四日前の雨の日に買ってきた桔梗殿が次々と花を咲かせました。左下隅で開花寸前を迎えている蕾(一つだけ)は四月にダイエーで買った桔梗殿です。
 キジムナーの樹はこの画像では右上にあることになります。


雨上がり

2010年09月17日 09時50分10秒 | のんびり散策

 あっという間に涼しくなったと思ったら、昨夜は肌寒いと感じるほどの陽気に変わってしまいました。

 昨日、雨の中を、歩いて三十分近くかかる園芸店に行ってきました。
 数日前、ネット上の知人から、自家の桔梗が初めて咲いた(この季節に!)というメール(実際はメールではないのだけれど、説明を始めるとわずらわしくなるので)がきて、その返信に「来年は庭の一画を桔梗畑にするつもり」と書いたのでした。
 少しずつ桔梗をふやそうとは思っていましたが、「畑」と呼べるほどの規模は考えていなかったのに、勢いでそんなことを書いて、返信してしまったのです。返信してしまってから、イヤイヤ、グッドアイデアではないじゃろうかと思いました。

 ひょんなことから思いついたのに、思いつくと居ても立ってもいられぬ性分です。種を求めようと思って、早速北小金駅近くの花屋さんに行きました。
 そこそこ大きな店ですが、そこでは桔梗は矮性だけ、しかも鉢植えしか扱わないという返辞でした。花の季節の終わったいまの時期、鉢植えはありません。
 サティへ行ってみました。一階と四階の小規模なスペースで種を売っていますが、種を播く時期には少し早いからか、桔梗はありません。

 プリンタのインクを買う必要ができたので、柏へ行ったついでに東急ハンズを覗いてみました。目白に棲んでいたころ、池袋と新宿の東急ハンズで種を買って咲かせたことがあるのです。しかし、柏の東急ハンズには園芸コーナーそのものがありませんでした。
 すると、去年種を買ったホームセンターに行くしかありませんが、ここは歩いて行くと、往復一時間半もかかるし、去年播いた種は一つだに芽を出しませんでした。散策を兼ねて行くのは構わないが、ケチがついているので、行っても買いません。買わないのに行くわけがありません。

 ネットで捜せばあることはありますが、たまたま視たサイトは、「お届けまで一週間」とありました。
 桔梗の種に限らず、一週間はとても待てないと思って、ほかを捜してバタバタと走り回り、結局は頼んでおいたほうが早かった、という経験は何度もしているのにもかかわらず、今回もバタバタと走り回るのです。

 ふと大きな花屋さんがあったのを思い出しました。小金道の探索をしたとき、北小金駅入口という国道6号線の交差点で見かけていたのです。
 決断力と行動力がお粗末なわりに、私はこういうときだけは逡巡することがないのです。わざわざ雨の中を出向いたという次第です。

 行ってみると種はありませんでした。無駄足だったか、と落胆しかかったとき、矮性ですが鉢植えがあるのを見つけました。この季節! なのに、まだ蕾をつけています。即座に、買うべしと、これも普段の決断力のなさからする、別人のような決断力を発揮しました。



 白二鉢、紫一鉢、ついでに竜胆(リンドウ)も一鉢求めました。〆て¥819。もう少し買ってもよいと思いましたが、傘を差して帰らなければなりません。都合四鉢で手を打つことにしました。
 土が乾くのを待って、庭に移し替えようと思います。これで気分はいささかなりとも落ち著いて、種の到着を待つことができます。

 先週の金曜日、桔梗に先立って野菜の種を播きました。ほうれん草、小松菜、青梗菜(チンゲンサイ)、摘み菜の四種類です。
 時間が充分過ぎるほどあるのを幸い、マンション時代の鉢植えを一鉢ずつ庭に移し替え、残るのは細葉榕(ガジュマル)、シークヮーサー(五本あるうち一番古く、大きい)、枸橘(カラタチ)の三鉢だけになりました。

 細葉榕は新宿の中落合から目白に移り住んだ1992年、両手で包めるほどに小さい鉢植えを買い求めたもので、そろそろ二十年になります。シークヮーサーは浅草時代、ある想い出のために種を植えたもので、そろそろ十年。枸橘はいつ手に入れたかハッキリしませんが、目白時代、おとめ山公園という尾張徳川家の別邸跡に造られた公園から夜陰に乗じてかっぱらってきたもので、少なくとも十五年は経つだろうと思います。
 ともに順繰り順繰り大きな鉢に植え替えてきました。そのぶん大きな穴を掘る必要があるので、植え替えがあと回しになりました。

 雨のなかった八月、毎朝毎夕、部屋の中を十往復して水遣りをしていましたが、地面の照り返しにも往生してリール式のホースを買ったので、ちょっぴり省力化を図ることができるようになりました。

 九月になると一転して雨が多く、庭にじかに植えたものには水遣りの必要がなくなりました。
 結果、手持ち無沙汰になって心寂しく、そのときには桔梗畑というアイデアも持っていなかったので、代わりが野菜の種、ということになったのでした。



 月曜から火曜日にかけて、次々と芽を出しました。ほうれん草です。

 


 小松菜(上)と摘み菜(下)。青梗菜だけはまだ芽が出ません。



 雨上がりの今朝七時ごろの富士川上空。



 栗畑の栗も随分大きくなりました。



 羽中橋下で憩うカルガモ。雨のせいで富士川の水量は心持ち多いようです。



 本土寺参道と常磐線沿いの道を結ぶ脇往還。
 何日か前、参道から入ったときは、物置小屋のような建物の前で折れ曲がっていたので、私道かと思って引き返した道です。

 転居して間もない私には得体の知れぬ道がまだまだいっぱいあります。この道の先は林になっていますが、大部分は昔の農道を改良したような道で、従って真っ直ぐ走っているということがなく、恐る恐る進んでみると、意外なところに出る、という愉しさもあります。


でんでんむし

2010年09月14日 23時05分45秒 | 風物詩

 十三日夜半、雷雨がありました。先日の台風のとき以来の豪雨でした。そのときの泥はねをスプレーで洗い落としたのに、我が庭の植木類はまた泥はねを被って大変なことに……。



 先日、オイチ一家がひそんでいた車の下に、今朝は一匹だけ仔猫殿がいました。残りの二姉妹は近くにはいないようでした。この前、一匹だけ出てきてミオを食べてくれた江(ごう)と同じ三毛ですが、色のついた被毛の面積が広いようなので、べつの仔猫殿です。茶々か初か。
 ミオを置きましたが、少し離れたところに坐り、鼻を上げて匂いを確かめているだけで食べようとしません。
 目(左目)を病んでいるようです。診せてもらったところで私にはわかりませんが、どんな様子なのかと思って手を差し延べようとすると、奥へ飛びすさって、「シャーッ」という威嚇の声を上げました。
「おぢさんになんの魂胆もないということがわかっていないな」
 そう呼びかけたあと1メートルほど離れると、やっと車の下から出てきて、食べてくれました。



 オヤ、露伴先生。
 我が庵のある本土寺の高台から富士川に向かって降りて行く石段で、こんなものを見つけました。マンション住まいでベランダに植木を置いていたころ、背負った貝の直径が1センチ程度のものはよく遊びにきていましたが、これは3センチ近くもある大型でした。

 柳田国男先生によれば、でんでんむしとは「出ろ出ろ」の訛り。蝸牛(カタツムリ)の「カタ」は笠、「ツムリ」は粒のこと。幸田露伴先生は何度も住居を変えたことを、カタツムリになぞらえて、自宅を蝸牛庵と呼んだのでした。



 その石段の降り口に五輪塔が建っています。
 新しそうなので、前に見たときは降り口に建つ家の装飾の一種かと思いましたが、よくよく見ると、建っている敷地は共有地のようです。最下部に梵字が彫られているだけで、ほかには文字はないみたいです。



 今朝の空です。
 富士川親水広場では私が通りかかるちょっと前まで太極拳の集まりがあったようでした。私より数歳年配らしい男女二十人ぐらいが自転車に乗ったり、歩いたりして帰って行くところでした。歩いている人の中にカタの練習をしている人がいたので、太極拳だとわかりました。
 今度はもう少し早い時間にきてみることとしましょう。

 平賀川と上富士川の合流点に架かる仲田橋まで行って鍵型に曲がり、高台に上って行く坂道を上ります。前夜の雷雨のせいで、川はいつになく水嵩が増していました。



 早い流れが治まるのを待っているのか、カルガモが日光浴をしておりました。

 坂を上り詰める寸前で目を挙げると、いつの間にか若い女性四人が現われて、私の前を歩いていました。腰の位置が高い後ろ姿から想像して、日本人ではないようです。
 私が歩いていたのは朝七時です。
 時間から類推してショーパブ(北小金に一軒あります)勤めの帰りとは思えません。かといって、彼女たちの働けるような職場がその先近くにあるとも思えません。どこから現われてどこへ行こうとしていたのか。不思議です。
 女子中学生たちも数人いました。歩き方を見ていると、みんな生気がない。



 無患子(ムクロジ)の樹があり、寶蔵院があるあたりは流山市前ヶ崎です。キャンプ場などという洒落た施設があるのも同じ前ヶ崎。流山市は土地に余裕があるのか、芝生を張った野球用グランドまであります。

 無患子の樹のある坂を下って帰ろうとしたら、20メートルほど下った道ばたに青い実がパラパラと落ちているのを見つけました。無患子の実です。
 下り坂ゆえ、転がり落ちてきたものかとも思いました。落ちていた実の一つを拾って道路の真ん中に放ってみました。いかに下り坂とはいえ、ポーンと放るだけでは転がることは転がっても、とても20メートルは転がりません。無患子の実は丸いように見えて、真ん丸ではないからです。



 と、いうことは……と思って見上げると、ここにも無患子がありました。樹高は10メートルもありません。実は数えるほどしかつけていませんが、間違いなく無患子です。
 最初に見つけた樹の子どもに当たるのか、どこからか飛んできた種子が芽生えたものか。
 葉の形は椎(シイ)の樹と似ているので、遠目で見る限りはよくわかりません。一本だけではなく、もっとあるような気もします。しかし、そこらじゅうにあり過ぎると、希少価値ではなくなってしまいます。

 いつの間にか朝の散策は自然に富士川方面を目指すようになり、夕方から夜にかけて散策に出るときは本土寺方面になりました。一度、暗くなってから富士川河畔を歩いたのですが、見事に真っ暗で、道路面の凸凹が見えず、何度もけつまずいてひっくり返りそうになり、以来、夜は歩かないことにしました。

 本土寺のほうを歩いていると、車に混じって、結構な数の勤め帰りの人々の自転車が通ります。畑が多く、見晴らしがよいので、まったく異なる道を走って行く前照灯がまるで蛍でも飛んでいるように見えます。
 富士川河畔とは違って街路灯はありますが、申し訳程度の明るさしかありません。暗闇からいきなり無灯火の自転車が飛び出してきてびっくりすることがあります。

 この田舎モンが!! そう怒鳴りつけたら、まだ若い男のようでしたが、「危ねぇじゃねぇか、バーカ」と叫んで飛び去って行きましたが……。

 ヘン、田舎モンが利いたふうな東京弁を使いやがって。
 無灯火は道路交通法違反というだけではなく、最近では自転車で殺人罪、賠償額は一億円、という事例も出ているのに、田舎モンは新聞は読まず、テレビは視ていてもバラエティ番組専門で、ニュースは視たことがないらしい。


古河を歩く(2)・古河公方館址から新古河駅へ

2010年09月11日 20時05分14秒 | 歴史

 古河探訪の〈つづき〉です。
 古河は旧日光街道の宿場町でもありました。結構古い建物が残っています。

 

 道路を挟んで向かい合っている二軒。画像上はかつては商売をしていたのかもしれませんが、いまは民家のようです。下・油店。軒に垂れ下がった〒マーク(左のほう)はダテではありません。ちゃんと葉書も切手も扱っていました。



 篆刻美術館。篆刻専門の美術館としては日本で最初。大正九年に建設された平野家(酒類卸売り業)の三階建て石蔵を改修。大谷石が使われています。
 以上の画像は古河総合博物館に到る前に撮影したものです。



 古河歴史博物館入口に戻って長谷観音へ。
 初代古河公方の足利成氏が明応年間(1492年-1500年)に開山。本尊は十一面観世音で、鎌倉、奈良の長谷寺とともに日本三大長谷の一つといわれています。



 国道354号線沿い、松月院跡御所塚入口という案内に気を惹かれて道を曲がってみましたが、それらしきものは見つかりませんでした。
 家に帰って調べてみると、この案内のあった場所からとんでもなく遠いところ(歩いて十二分ぐらい)にありました。途中で広いバイパスを横切らなければなりませんが、そこには何も案内板はない。てっきり通り越してしまったと思います。普通の感覚なら、そんな離れたところに「入口」とは標示しないと感じましたが、どうでしょうか。
 で、松月院とはなんぞや、御所塚とはなんぞや。



 徳源院跡の石柱。こちらも似たり寄ったり……。「徳源院跡」とだけあって、入口ともなんとも標示されていないので、ここが徳源院の跡だろうと思ってしまいますが、実際の跡はもっと奥のほうなのです。
 徳源院とは最後の古河公方・足利義氏の長女の法号。「こかひめ君」「こか御所」「氏女(うじひめ)
」などと称されていますが、実名は不明です。



 長谷観音から1・5キロ、古河総合公園に着きました。



 御所沼。背後の森(公方様の森)が沼の真ん中に半島のように突き出ていて、沼は「コ」の字を逆にした形をしています。ここが古河公方の別館があったところ。



 古河公方の別館址に建つ石碑です。鴻ノ巣御所とも呼ばれます。
 これにて古河探訪の目的を終えました。



 流山ではすでに刈り入れは済んでいるのに、こちらではまだ水が張ってありました。



 水道工事かガス工事か、迷い込んだ道が工事で通行止めになっていたおかげで回り道を強いられ、偶然通りかかった一向寺。
 建治二年(1276年)、一向上人俊聖(1239年-87年)が開山。時宗のお寺です。

 本堂前から山門越しに見る一向寺の榎(エノキ)。推定樹齢は三百五十年。樹高19・8メートル、幹周3・7メートル。



 再び鷹見泉石記念館の脇を通り、古河第一小学校の校門に差しかかりました。
 かつての城内にあることといい、煉瓦造りの校門といい、古い歴史を持つのだろうと想像させますが、学校のホームページをはじめ、この学校の歴史にふれた記述はありません。

 腹が減ってきました。古河駅でもらってきた「七福カレーめん」でも食べるかと、おもむろに鞄からMAPを取り出してみると、中心街を外れているためか、周辺には扱っている店がありませんでした。
 このカレーめん誕生の経緯は、古河には唐辛子取扱高日本一の会社があることと町おこしの一環である古河七福神巡りをドッキングさせたことなのだそうです。
 レシピは店それぞれで、地元で調合されたカレー粉と七福神にちなんで、七種類の食材が使ってあれば七福カレーめんと認定されるという決まり。
 通り過ぎてきたイタリアンレストランで、カルボナーラのミートソース・カレー風味という料理を食べさせるようでしたが、戻るのも面倒臭い思いがしたので、帰りの電車の駅でサンドイッチを買おうと決めて歩きつづけました。



 もう一度篆刻美術館の前を通って渡良瀬川を目指していたら、先の松月院跡と同じ様式の、「←頼政神社・河口信任邸跡」という案内板がありました。
 角を曲がってすぐ、草ぼうぼうの荒れ果てた崖に石段がありました。入口にはなんの案内もありません。念のため上ってみると、どうやらここが源三位頼政を祀る神社のようです。ようです、というのは私が見落としたかもしれませんが、それらしき神額も案内板も何もなかったからです。

 治承四年(1180年)、源頼政が平家との戦いに敗れて自刃したとき、従者に「我が首を持ち、諸国を回れ。我れとどまらんと思うとき、必ず異変が起きよう。そのとき、その場所へ埋めよ」と遺言したそうです。
 従者は下総国古河まできて、休息しました。再び立とうとしたのですが、頼政の首が急に重くなって持ち上がらなくなったので、遺言どおりこの地に塚を築いて葬ったのです。
 かつては古河城内にありましたが、明治末、渡良瀬川改修工事のため、現在地に移されました。

 河口信任邸跡は見つけられませんでした。
 道の左右に目を配りながら歩いたつもりなので、見落としたとは思えません。頼政神社と同じように、その前には何も案内がなかったか、松月院跡と同じように、とんでもないところにあったか。
 河口信任(1739年-1811年)とは土井家の藩医。長崎でオランダ外科医学を学んだ人で、京都で人体解剖を行なった体験を元に、明和九年(1772年)、「解屍編」を刊行しています。杉田玄白の「解体新書」より二年も前のことでした。
 子ども時代の鷹見泉石に蘭学の手ほどきをしたのがこの人です。



 渡良瀬川治水紀功碑(大正十五年五月の建立)
。題字は当時の内閣総理大臣・若槻禮次郎。



 国道354号線に架かる三国橋で渡良瀬川を渡りました。
 利根川第一の支流だけあって、さすがに大きな川でした。橋の長さは547メートル。車道を挟んで両側に歩道があります。高所恐怖症の私は知らず知らず車道近くを歩いていました。
 三国橋とは下総国(茨城県)、下野国(栃木県)、武蔵国(埼玉県)の三国を跨ぐことから命名。



 渡良瀬川を渡り終えると堤防を下る階段があり、下り切ったところが東武線の新古河駅です。
「古河」と名はついていても、ここは茨城県ではないし、むろん古河市でもありません。埼玉県の加須市なのです。

 昼食を食べ損ねたので、駅の売店でサンドイッチでも、と思っていたのに、売店どころか自販機(飲料だけの自販機はプラットホームにありました)もない。
 私が辿り着いた東口こそロータリーになっていて、なんとか駅前のテイをなしてはいましたが、あったのは煙草屋と焼き肉屋(営業時間外)とタクシー会社だけ。西口に到っては自転車駐輪場があるだけで、建物と呼べるようなものがない。
 オラ、こんな村、イヤだぁ……と空腹を癒すのは新越谷に着くまで我慢することにして、さっさと退散致しました。

↓昨日のブログと併せて歩いたところです。
http://chizuz.com/map/map74717.html


古河を歩く(1)・古河駅から古河城址まで

2010年09月10日 23時39分06秒 | 城址探訪

 昨日は月に一度の東京・湯島へ通院の日。
 朝、病院に行くために千代田線の湯島駅から切通坂を上っていたとき、ふと気づくことがありました。脚が軽く、運びも疾いのです。上り坂だといっても特段気にならないし、前を歩いているのがそんじょそこらのオヤジなら、いとも簡単に抜き去ってしまいます。
 少し負荷をかけ過ぎかな、と思いながらも、長めの散策を心がけてきた効果が出てきたように思えます。どうせ歩くなら早足で、と思いながら、すぐのったりした足取りに戻ってしまっていたものですが、そういう意識を持たなくても、自然に脚が前に出るようになっています。

 湯島へ通院することが決まった四月から六月にかけては体調が最悪だったということもあり、いまにも息が切れて口から心臓が飛び出し、そのまま事切れるのではないか、と危ぶみながらこの坂を上ったものでしたが、そのころ、否、つい最近までと較べても雲泥の差です。
 それを裏づけるかのように、検査結果はほんの少しですが、数値が上向き。ただし、投薬の量は変わらず、また手提げ袋にいっぱいです。

 診察が終わって、この日も上野駅へ……。昨日のうちに茨城県の古河へ行こうと決めていました。
 上野十一時三十五分発の宇都宮行に乗って、古河到着は十二時三十七分。



 観光案内所を訪ねたら、カーテンがかかっていました。食事中で席を外している旨のアクリル板が建てられていて、ボランティアで運営されていると記してありました。ふーむ、ボランティアということであれば致し方ない。
 ガイドになるような印刷物はないかと捜したら、古河の名物らしい「七福カレーめんMAP」だけしかありません。何もないよりはマシかと思って鞄の中へ。

 今回の訪問で、どうしても外せないと思っていたところは鷹見泉石記念館と古河公方の館跡。



 とにかく駅
を背にして歩き始めることにしました。私が持っているのは古河歴史博物館のホームページからプリントした非常にアバウトな地図だけです。それに載っている神社仏閣は正定寺と長谷観音だけ。



 正定寺を目指して駅前の通りを歩き始めたら、右手にお墓が見えたので、行ってみると、西光寺というお寺でした。本堂左には古河大仏があります。大仏と呼ぶには少し小さい。



 西光寺境内。葉を見ると、どうもムクロジ(無患子)のようですが、実もつけていないし、比較できるものも持っていないので、断定するのは自信がありません。

 

 駅前通りに戻ろうとしたら、すぐ近くに浄円寺がありました。境内には非常に大きな任侠之霊。安田誠五郎ほか六人の名が彫られていますが、詳細は不明。



 大聖院。古河公方・足利晴氏が正室の兄・北条氏康のために開基した曹洞宗のお寺です。



 樹齢三百年と推定される大聖院のケヤキ(欅)。
 樹高26メートル、幹周3・7メートル。巨木を見るのは気持ちがいい。ホッとします。



 正定寺。初代古河藩主・土井利勝が開基。土井家歴代の墓所です。



 正定寺にある侍従樅碑(じじゅうもみひ)。
 土井家初代・利勝(1573年-1644年)の経歴が刻まれています。読めませんが、誕生したのは家康居城(当時)の浜松城、家康の御子だと記されているようです。七代藩主・利与(としとも)が建立したもの。



 正定寺の黒門。
 本郷にあった(と案内板に書かれていましたが、実際は駒込)土井家江戸下屋敷の表門を昭和八年に移築したもの。



 福寿稲荷神社を間に挟んで正定寺の東側には隆岩寺がありました。
 最初の古河城主だった小笠原秀政が岡崎三郎信康の菩提を弔うため、文禄四年(1595年)に開いたお寺です。

 信康は家康と築山御前との間に生まれた家康の嫡男です。天正七年(1579年)、信長の命によって母ともども命を奪われました。信康の長女・登久姫(峯高院)は小笠原秀政に嫁いだので、秀政にとっては義父ということになります。



 古河歴史博物館へ向かう途中、偶然見つけた宗願寺。門が閉じられていて入ることができませんでした。
 親鸞上人の関東での高弟の一人・西念房が開いたと伝えられています。



 墓石が見えたので行ってみたのが先の宗願寺。
 道路を挟んでその前、これまた偶然見つけた鷹見泉石生誕の地の記念碑。下方のアルファベットは泉石自身がつけた西洋名で、J・H・Dapper(ヤン・ヘンドリク・ダップル)。後ろは古河第一小学校。
 

 

 古河歴史博物館入口の標識と建物です。



 歴史博物館が建つのは古河城諏訪曲輪の跡。同館入口の記念碑。



 歴史博物館を左手に見ながら緩い坂を上り詰めると、鷹見泉石記念館がありました。

 

 復元されている建物は44坪、敷地面積は345坪。
 四畳の玄関を含め、いまでいうなら7DKです。実際は倍以上の建坪(100坪)、敷地は四倍以上であったということです。



 渡辺崋山が描いた鷹見泉石。この絵は地元・古河にはなく、東京国立博物館にあります。国宝です。

 鷹見泉石(1785年-1858年)、本名は鷹見十郎左衛門忠常。私がこの人の名前を知ったのは、有名なこの絵によってでした。
 古河藩の家老職を勤めた人のみならず、蘭学を修め、江戸滞在時には崋山、川路聖謨(としあきら)たちに蘭学を教えたということを識って興味を持つようになりました。
 天保十年(1839年)、崋山はいわゆる蛮社の獄で高野長英らとともに捕らわれます。郷里・三河田原で蟄居ののち自刃。
 川路さんは幕臣であったことが幸いしたものか、危ない目に遭いながらも、罪に落とされずに済みました。
 このころ、泉石は古河藩家老に昇進していて、藩主・土井利位(としつら)の供をして江戸在府です。利位は西丸老中という要職にありました。
 崋山や川路さんの蘭学の師でありながら、泉石が罪に落とされることはなかったのか。利位が要職にあったことと関係があるのかどうか。私にはわかりません。

 泉石が家老免職となり、古河に隠居を命じられるのは蛮社の獄から七年も経った弘化三年(1846年)のことです。嗣子を巡って藩主と対立、怒りを買ったのが原因のようです。

 泉石に関して私がいつも思うのは、泉石と川路さんとの間で例の件で話すことがあったのだろうか、ということです。
 例の件とは大塩平八郎の乱……。

 大塩平八郎を捕縛したのは誰あろう泉石なのです。当時、藩主の利位は大坂城代。藩主に従って大坂にいた泉石は鎮圧のために出兵し、平八郎を捕らえました。
 この平八郎をもっとも評価し、かつ対応を間違えば危険人物になる、と危ぶんでいたのは、川路さんの先輩に当たる勘定奉行・矢部駿河守定謙で、その矢部さんをもっとも評価し、尊敬していたのは川路さんだったという関係があります。
 矢部さんは幕臣、しかも勘定奉行という要職にありながら、謀反を起こした張本人を弁護したという科(とが)で罪に落とされ、絶食という壮絶な方法で自決します。
 矢部さんを死に追いやったのは、妖怪と恐れられた鳥居耀蔵です。渡辺崋山を死に追いやり、川路さんを失脚させようと企んだのも同じ妖怪……。

 このあと、古河公方の別邸があった古河総合公園を目指します。〈つづく〉


やっと雨……と思ったら

2010年09月09日 06時29分13秒 | 日録

 一昨日の夕方、買い物に出ようとしたら、我が庵を出てすぐのところで、小学校四、五年生と思われる男の子が自転車を止めて何かに見入っていました。



 何を見ているのかと思って立ち止まったら、車の下に野良の猫殿の一家がいたのです。
 早速ミオを取り出しました。成猫用なので、仔猫に食べられるかどうか疑問でしたが、鞄から取り出すと、三毛の一匹がトコトコと出てきて、食べてくれました。
 生まれて数か月だと思われます。自動車の下、真ん中にいるのが母猫(多分)、右に二匹仔猫がいます。実際は雌雄の別などわかりませんが、勝手に三姉妹とすることにして、食べている仔猫は江(ごう)と呼ぶことにしました。
 織田信長の妹・市にちなんでオイチ一家と呼ぶことに決め、その娘たち・初、茶々、江のうち、一番小さそうだったので、江にしたのです。
 何日か前、母にはぐれたのか、か細い声で鳴いていた仔猫を近くで見かけていましたが、毛色から想像するに、この仔猫ではなかったのかと思います。

 ミオは残り少なくなっていたので、昨朝はタッパウェア二つにキャッティをたっぷりと詰めて散策に出ましたが、オイチたちはいませんでした。



 遠回りして富士川を目指しました。こんな石段の径がありました。



 昨朝の空です。
 このときは台風が日本海にあるとは知りませんでした。ようやく、ようやく雨になりそうだと思って歩いているうちに、ポツリポツリときました。



 いつも通る羽中橋を渡り、廣壽寺か寶蔵院か、あるいはまたもう一度無患子(ムクロジ)の樹を見に行こうかと思っていましたが、雨はポツポツときたかと思うと熄み、熄んだかと思うとポツポツときて、そのポツポツが次第に大粒になるようだったので、一
つ下流に架かる葉の木橋を渡って引き返すことにしました。

 


 通りがかりの幸田(こうで)第3公園で見つけた中芝遺跡の標柱。古墳時代前期(約1600年前)の集落跡。二軒の住居跡が見つかっているそうです。

 


 本土寺の裏手をグルッと迂回して。
 我が庵から七~八分ぐらいのところにある三叉路。右側の青面金剛の石柱には、少し風化していますが、「東小金道」という字が彫ってあるのが読めました。右側面には「北野田道」、左側面には「西流山道」と彫られています。

 庵に戻った直後から地面を打つ音が聞こえるほどの雨になりました。
 草を刈り取ったあと、暇をみては小石を取り除き、凸凹をならそうと土をひっかいています。やっと雨……と思ったら、台風の接近で、鉢から植え替えた桔梗殿、山椒、シークヮーサー、櫨(ハゼ)の葉は泥はねを被って大変なことになりました。



 夕方、雨が小熄みになった隙を突いて北小金駅方面へ買い物に出ました。
 強い雨が降ったあとなので、本土寺参道の紫陽花(アジサイ)もようやく一息つけただろうと思ったのですが、あまりにも雨が降らなかったためか、熱射病にやられたみたいに黒ずんで、恢復不可能かと思わせる葉もあります。

 台風の過ぎ去った今朝は肌寒く感じるような陽気です。これから東京・湯島まで通院です。


なんとすぐ近くに無患子(ムクロジ)が……

2010年09月07日 07時52分04秒 | のんびり散策

 一昨日の朝の散策時、新しく見つけた坂道を上っていたとき、路端に青い実がいっぱい落ちていたので、泥で汚れていないのを二つ拾ってシャツの胸ポケットに入れました。
 例によって、外を歩くときは眼鏡を用いないので、なんの実だかよくわからんが、山梨(ヤマナシ)のたぐいか……という程度に考えて拾ったのでした。
 帰ったら樹木図鑑で調べてみようと思いながら、夜になるまで拾ったことを忘れていました。

 その夜、脱いだあと放り出したままだったシャツを洗濯機に入れようとしたら、コトリと音を立てて落ちるものがあって、実を拾っていたことを思い出しました。
 眼鏡なしで見たときは表面はスベスベとした実のように思いましたが、よくよく見ると、どこか憶えがある、中国のライチ(茘枝)を思わせるような
窪みがあります。
 むむ? と宝箱を取り出しました。5×10センチの箱を宝箱と名づけ、流山・観音寺で拾ってきた無患子(ムクロジ)の実を入れているのです。



 取り出して、とっくりと比較してみました。
 観音寺で拾った(右の二つ)のは去年の実なので、色こそ違いますが、大きさも形も、特徴のある窪みもまるで一緒です。何よりも萼(がく)の付き方がまったく同じ。間違いなく無患子の実です。
 が、どうしてあんなところにあったのか……と、不思議な思いでした。

 ムクロジという樹があると初めて識ったころ、調べてみると、本州の中部地方以西の山岳地に自生する樹だ、ということでした。
 中部以西、とあるのだから、関東には絶対にない! とは言い切れないでしょうが、私がこれまでに関東で知った所在は植物園を除くと、偶然かどうか、すべて寺社地で、誰かの手によって植えられたものでした。
 つくば市にある国立科学博物館の筑波実験植物園に植えられているというのも、関東では見る機会が少ないからだということなのでしょう。



 昨朝の空です。太陽が出ていたので、北の方角を撮りました。

 


 富士川を渡るときに通る羽中橋。昨朝はカルガモがきていました。



 前日あったコンバインはなくなっていました。代わりにこんなものがつくられていました。



 何かのおまじないでしょうか。この列だけ刈られず残されています。



 また新しい坂道を見つけました。上り切ったところから振り返ってカメラに収めました。
 寶蔵院や廣壽寺に行くときに上る坂と、一昨日見つけた坂の中間にありました。「く」の字型に曲がっていて、見通しが利かなかったので、民家の入口かと思いましたが、抜けられました。

 その坂を上り切ると、いよいよムクロジと思われる樹のある場所が近づいてきます。
 昨朝はムクロジ
であることを確かめるための散策だったので、いつも散歩時にはかけない眼鏡をかけ、虫眼鏡と観音寺で拾った実を一つ持って行きました。



 道路には無数の実が落ちていました。大部分は踏まれて潰れています。きれいな実を一つ拾い、観音寺の実と一緒に手のひらに載せて、虫眼鏡を覗きました。
 撮った画像と同じです。どこからどう見ようが違いがない。

 


 ムクロジの樹が生えているのは民家の玄関口です。農家のようで、広い前庭があり、母屋は奥のほうに見えます。
 盛り土された小高い場所に生えているので、近くに寄って樹皮の様子を確かめることはできません。樹高はそこそこ(15メートルぐらい?)ありますが、幹はそれほど太くないようです。
 見たところ、生えているのはこの一本だけです。

 どこからか種子が飛ばされてきて、自然発生的に生えたのか、この家の誰かが何かの意図を持って植えたのか。知りたいと思いましたが、家を訪ねるのにはまだ早い七時前という時間でした。今度頃合いの時間を見て訪ねてみようと思います。

 


 一昨日見つけたキウイ畑の近くに苺農家があるのを見つけました。



 なんという草なのか。花が咲いているように見えますが、葉っぱです。
 私は野草図鑑、樹木図鑑、野鳥図鑑と持っていますが、調べ方が間違っているのか、この手のものが役立って、それまで知らなかった名前がわかったという試しがない。



 戦国期は名都借(なづかり)谷津と呼ばれた谷を通る道路に出ました。JR南流山駅~流山免許センター~JR南柏駅を結ぶミニバスが走っています。
 このバス停の先、東部中学校前という交差点に出ると、廣壽寺は近いのですが、この日は寄りませんでした。


稲刈り終わる

2010年09月05日 20時28分35秒 | 風物詩

 富士川の源泉を探索する散策で、二日間で三万歩以上歩いたので、左膝に少しの痛みとギクシャクするような違和感があります。
 長時間歩いた翌日はクールダウンを兼ねて短めの散歩です。歩き始めは膝(左膝だけ)が微かに痛く、右脚はごく普通なのに、左脚だけピノキオのようです。ただし、筋肉痛のような痛みは治まりました。



 今朝、散策に出たときの空はこんな薄曇りの空でした。

 


 ちょうど一週間、富士川方向への散策に出ていませんでした。その間に、見たいと思っていた稲刈りは終わってしまっていました。コンバインが残されていましたが、もう稲穂はありません。



 寶蔵院や廣壽寺に行くときに上る坂道よりもう一本常磐線寄りの坂道を見つけたので上ってみました。



 坂のとっつきにこんな標識。
 こんなところにキャンプ場があったとは思いも寄りませんでした。利用料は無料だそうです。ただし、ここは流山市なので、利用できるのは流山市民か流山市にある勤め先に通う人だけ。



 駐車場の奥へ進み、高台の崖に迫ると、こんな階段があって、上り詰めると、確かにキャンプ場がありました。



 テントが二丁。七時過ぎでしたが、まだ眠っているようです。



 元の坂道に戻って高台に上がると、キウイ畑がありました。このほかに梨畑がありましたが、すでに収穫は終わっていました。

 本土寺の参道の西側には苺農家がいくつかあります。いまは勿論季節外れ。客を入れて自由に摘み取らせるという形式の観光農園はやっていませんが、産地直売はやっているようです。ここでは産地直売もやってはいないようでした。

 


 さらにもう一本常磐線寄りの坂道を下ると、下は一面の栗畑でした。

 このあたりで散策を始めてから四十分。太陽は顔を覗かせず、薄曇りのままですが、うっすらと汗をかいています。
 聞こえてくる蝉の声はミンミン蝉よりツクツクボウシのほうが多くなったように思います。秋が近づいているな、と思わせます。



 寶蔵院や廣壽寺への通りがけに見る民家の桔梗殿。相変わらず元気旺盛です。 

 朝は薄曇りで、多少なりとも涼しく感じられたのに、いつの間にか太陽が顔を覗かせて、いつもと変わらぬ暑い一日になりました。これで雨無し日は二十三日連続。
 連日暑いので、太陽には小沢一郎と同じように、「しばらく静かにしていてくれないか」と呼びかけたい心境です。
 ただ、気のせいか、我が庵の水道(井戸水)は冷たいとは感じなくなったように思えます。
 昨日今日と小金宿まつり。盆踊りの喧噪が我が庵まで聞こえてきます。

 今週木曜日はまた東京・湯島へ通院の予定です。診察を終えたら、一時間から二時間電車に乗って、どこか小旅行に行こうと考えています。


大清水湧水探索成就の巻

2010年09月04日 20時26分10秒 | のんびり散策

 一日置いただけで再度大清水(おおしみず)湧水の探索に出ました。



 今日もこんな夏空。
 松戸の雨無し日は今日で二十二日連続となりました。明日も晴れて暑いようです。
 それでも、今日はときおり陽が翳り、風もあったので、前回よりは歩きやすい探索になりました。汗をかいたのは同じですが、水分の要求量が違いました。前回は用意しておいたマグボトルのダカラに加えて爽健美茶、さらに緑茶でしたが、今回はマグボトルは持たず(結構重いのです)、途中でペットボトルの緑茶を一本買っただけ。

 スタート地点の根木内城址橋までは前回と違って、我が庵から一番近いところで富士川河畔に出て遡って行きました。



 根木内歴史公園の入口に架かる霜田橋です。もう一つ上流の橋が根木内城址橋。



 前回はカルガモに混じってコサギのいたところ。今日は何もいませんでした。
 前回はこの橋に出たあと、元の道に戻ったのが間違いの元でもありました。川からは遠く離れますが、今回は戻らず直進します。



 門扉に家紋を掲げるなど変わった家だなと思ってよくよく見ると、奥に鐘楼のようなものが見えました。



 民家だったらすぐに踵を返そうと入って行くと、「ようなもの」ではなく、まぎれもない鐘楼です。

 去年のゴールデンウィークに訪ねたことのある日蓮宗の了源寺でした。このときは、このお寺が目的で訪ねています。
 場所がわかりづらく、この通用門を見て、なんだかお寺のようだと感じて入って見つけたのでした。通用門がいくつもあるはずはなく、きっと同じところから入っているのだと思いますが、紋があったかどうか記憶にありません。この紋はまぎれもなく井桁に橘、日蓮宗の寺紋です。

 大清水湧水の探索が失敗に終わった前回と同じ地図を持ってきていましたが、この了源寺も地図には載っていない。つまり、曲がるべき道に気づかず、行き過ぎていたのです。しかし、このあたりは一度きているので、なんとなく土地勘はあります。



 稲荷神社があったので参拝しました。



 前回はこの標識を向こう側から見ています。この標識を目に入れる直前に川を渡っていたのですが、疲れ果てていたためか、気がつきませんでした。



 その川です。淀んでいてまったく流れていませんでした。



 小金原団地です。この東側を通過して行きます。川は暗渠に入って見えなくなります。



 小金原団地を通り過ぎるとまた川に出会いましたが、すぐまた暗渠です。



 この猫殿に出会ったあと、また道を間違えてしまいました。川は依然として暗渠です。

 この先、道なりに行けば、二~三分のところに湧水があったのですが、行き止まりのように思えた上、右手に石の階段があったので、誘われるように上ってしまったのです。上るとすぐ今度は下りの石段。
 見下ろすと、いかにも川が流れていそうな地形に思えました。ところが、下ってみたら空振り。

 街中の散策ですから登山とは違いますが、目的地がある場合、鉄則は同じ。
 すなわち、迷ったと思ったら、元に戻る、ということです。こんな些細なことは勇気などという大仰な言葉とは無縁と思われますが、まさに勇気なのです。その勇気のなさゆえに、大勢の他人に迷惑をかける輩があとを絶たない。
 まあ、湧水の探索ごときは街中ゆえ、人様に迷惑をかけることもあるまいと思いますし、登山とは違うという安心感があるためか、私はこの鉄則を軽視しています。そのために前回はとんでもないところを歩き、結果、目的も達せられなかったというのに……。
 民家の表札を見ながら歩いていると、小金原九丁目とありました。不幸にも私が持っていた地図には「丁目」まで載っていません。つまり広い小金原地域の、どのあたりを歩いているのか見当がつかなくなりました。

 地図には湧水の場所も標示されていませんが、それらしきところ、一本の道路の東側に池か川のあることを思わせる水色があります。その道路には松戸市と柏市の境界であることを示す点線があります。ともかくそういう場所を捜すべし、と思って歩きました。



 富士川源流地点の標識。道に迷ったと思ってから数十分後、やっと見つけました。

 それにしても、ホームページで紹介しているぐらいですから、入口と出口(どちらがどちらだかわかりませんが)に標識ぐらい建てればいいと思うのに、何もしないところは松戸市らしい。

 


 ポンプで汲み上げているみたいですが、意外と水量は豊かです。



 もう一つ小さな水車が……。こちらは廻っていませんでした。



 さらにもっと小さな水車が……。先に見ていた川の淀みを考えると、この水の流れはどこへ行ってしまうのだろうと思いますが、確かに流れています。
 これが富士川の源流……そう思うと、なんか感無量でした。

 サバサバした気分になっていましたので、帰りは心おきなくバスに乗りました。



 バスの中。携帯電話でインターネットを視ていたら、デーゲームでドラゴンズジャイアンツを連破していました。山本昌が最年長完封記録というおまけつき。今年のドラゴンズの打線(とにかく打てないことに尽きる)では、とてもではないが、優勝は無理か……と思っていましたが、ひょっとするとひょっとするかも。
 ウキウキしてしまったので、北小金駅北口のヒンドゥ料理店でナンを買って帰りました。

↓今回歩いたところです。大詰めで鉄則を軽視した結果、わけのわからぬ遠回りをしています。
http://chizuz.com/map/map74429.html



※九月五日追記:さらにもう一つうれしいおまけ。ラグビートップリーグ初戦でトヨタ自動車がサントリーに勝ちました。リーグ戦では昨季までの六年間、5敗1分と一度も勝てなかった相手です。あとはメイジだけ。
※写真はサンケイスポーツ


大清水湧水探索失敗の巻

2010年09月03日 15時05分35秒 | のんびり散策

 昨日はさすがに歩き疲れました。目的を達することができなかったので、なおさらです。
 富士川の源泉・大清水(おおしみず)湧水の探索を試みたのですが、途中で道を間違えて、どこを歩いているのかわからなくなり、やっと土地勘のあるところに辿り着いたころには脚が棒のようになっていて、それ以上歩く気力を失っていました。その失敗の過程を振り返ります。

 


 出発してすぐ常磐線を跨線橋で越えたところにある東雷神社。東雷? なんと読んだらいいのかわかりません。鳥居も珍しい。稚児柱に支えられた両部鳥居(四脚鳥居ともいう)です。上は跨線橋から見下ろした画像。

 


 途中で富士川の支流・平賀川を渡ります。今夏はまったくといっていいほど雨がありませんが、画像下は昭和五十年七月の集中豪雨で浸水した水位を示す注意書きです。中央のほんのりと赤い横線。



 根木内城址橋から上富士川の探索を始めました。



 柏方面に向かう旧水戸街道。
 川に沿った道はないので、できるだけ川に近い道を捜し、橋を渡る道があれば行ってカメラに収め、また元の道に戻って、橋のある道に出会うのを待つ、という繰り返しです。



 根木内城址橋から歩き始めて、最初に出会った橋からの眺め。橋の名は不明。カルガモたちに混じってコサギが一羽おりました。



 次に見つけた橋は橋のていを成していません。
 この橋に出会ったのが失敗の始まり。この川は上富士川だと私は思い込んでいますが、支流でした。

 


 橋を越えるとすぐ、川に沿った農道のような道がありました。プリントして携帯していた地図には川沿いの道はありません。
 なんだ、ちゃんと道があるじゃないか、と間違っているとも知らずに歩き始めました。道の左に川、右はゴルフ場でした。
 このゴルフ場も地図に載っていないのが不思議でしたが、それよりも道が途中で行き止まりになっているのではないか、というほうが不安でした。
 じつはゴルフ場は地図には載っているのです。違う道を進んでいるので、私がプリントした部分には載っていなかった、というだけの話。

 


 山裾を流れる清流という感じです。ザリガニもたくさんいました。



 民家の軒先をかすめて流れています。



 私の前方を歩いていた親子。
 追いついたら、この道が行き止まりでないのかどうか、訊ねてみようと思っていたのですが、まさに二人に追いつかんとしたとき、車が走る道路が見えたので、訊ねずじまいでした。
 道路さえ見えなければ声をかけていたはずで、見当違いの方向を歩いていたことも気づかされたはず……。

 その道路に出て再び地図を取り出しましたが、道路の走り方が地図と実際とでは全然違う。違う場所なのですから当たり前です。
 新興住宅地に出たところで住所表示を見ると、柏市中新宿とありました。目指す大清水湧水があるのは柏市酒井根というところです。
 方向違いなので、私が持っている地図には中新宿という地名が載っていない。どっちを目指せば酒井根というところへ行けるのか見当もつかない。探索はやめにするかと思い始めながらも、自分の家がどっちなのかもわからなくなっています。

 新興住宅地を抜けて交通量の多い道路に出ると、北小金駅行の東武バスとすれ違いました。すなわち北小金には背を向けて歩きつづけているわけで、再び正しい方向に戻ったと思っています。探索を続行する意欲が戻ってきました。
 が、しばらく歩いて次に目にした住所表示は流山市向小金(むかいこがね)。
 ナガレヤマ??……。
 香取神社があったので、しばし木陰で休ませてもらって、頭の混乱を鎮めようと試みました。



 香取神社前にあった一里塚の碑。
 お江戸日本橋から七つ目、すなわち七里。昔の一里塚跡です。
 道路工事で消滅してしまった塚を記念して昭和六十二年に建てられたもの。「下陰を さがしてよぶや 親の馬」という小林一茶の句碑がありました。
 私が歩いていたのは旧水戸街道で、全然方向違いの柏駅に向かって歩いていたのでした。ここで間違っていることに気がつきましたが、正しき方向はわからない。



 香取神社。元禄年間(1688年-1703年)の創建とだけ伝わる旧向小金新田の産土神(うぶすながみ)です。ここも両部鳥居でした。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。



 昨日もこんな夏空でした。香取神社の木陰で小休止したとき、マグボトルに入れてきたダカラは飲み干してしまっていました。



 流山市内で見つけた桔梗殿を愛でる家。

 どこをどう歩いたものやら……廣池学園の広大な敷地の間を抜けて歩いているときこそ、豊かな木々の恩恵を受けましたが、抜け出るとまた日陰のない新興住宅地です。富士川はどこに行ってしまったのか、見当もつきません。

 強烈な西日を正面から受けながら、広い道路を歩いていたら、「ここから松戸市」という道路標識が見え、左手に団地らしき建物群が見えました。
 きたのは初めてですが、これが小金原団地なのだろうと思うと、探索を続行する気は完全に失われました。やっと正常な道筋に戻ったとはいえ、大清水湧水まではまだまだ距離があるのです。

 北小金駅までバスで帰ろうと思いましたが、最寄りのバス停に着いてみると、路線バスではなくコミュニティバスの停留所で、なんと一時間に一本しかありません。間合いが悪く、ちょうど三十分待ちでした。腰掛けて待てるような日陰もない。
 で、やむなくテクテク、と。
 


 再び平賀川を越えて我が庵も近くなったところ。鉄錆びた看板に描かれた文字は辛うじて「しろがねフード」と読めます。



 猫じゃらしにじゃれる猫殿を見つけました。



 行きと同じく常磐線を跨線橋で越えて、ようやく我が庵が近くなってきました。しかし、最後に待ち受けているのはこんな急坂なのです。
 私は脚が長いので(?)、かつては大股でスイスイと歩いたものでした。歳とともに知らず知らず歩幅が狭くなり、ピッチも遅くなっているので、歩みものろくなりました。
 本土寺の参道を歩いていると、若い勤め人ふうの男にスイスイと抜かれるようになって、実感を新たにしていましたが、この坂で女子高生に追い抜かれるとは思わなんだ。

 庵に帰ったあとで、歩いたところを検証してみたら、とんでもない方向を歩いていました。この日は11キロ以上も歩いたことになります。
http://chizuz.com/map/map74353.html