東漸寺で国光大師・法然上人の御忌(ぎょき)まつりがありました。小雨だったので、どうかなと心配しながら出かけましたが、時間どおり開催されました。
法然上人(1133年-1212年)が入滅されたのは実際は一月二十五日なのですが、東漸寺で行なわれたのは三か月後のことです。
先導するのは山伏姿の男性。
つづいて笙(しょう)と篳篥(しちりき)。
さらに稚児行列。
私の知人(東京生まれ・地元育ち)は幼稚園児だったとき、この稚児行列に参加したことがあるといい、もう一人の知人(地元生まれ・地元育ち)はこの日は学校(東漸寺の隣は市立の小学校です)が休みになったといっています。
行列の最後に法然上人の坐像を載せた輿がやってきました。
前後左右十八人がかりで担ぎ、最後に馬を持った二人がつづきます。出発点の東漸寺幼稚園からこの撮影地点までは200メートルもありませんが、担ぎ手の皆さんはすでに疲れ果てているようでした。
境内には露店が出ていましたが、まだ客の姿がありません。
いつもはスッピンの仁王門も観音堂も五色の幔幕で飾られていました。
本堂には緋毛氈が敷かれていました。
一時間後に稚児行列が戻ってくると、本堂で稚児聖水潅頂式が行なわれます。東漸寺のホームページには、今年も恒例の「御忌大法要」を行ない、二十五日から二十七日にかけて「御忌まつり」として子どもたちが楽しみにしている縁日が開かれる、と告知されています。以下が日程です。
●日程
日時:平成30年4月25日(水)
午前10時30分 円光東漸大師渡御・稚児行列出発
午前11時30分 稚児聖水灌頂式(本堂)
午後12時 清興
午後1時 法話 大本山布教師 佐藤雅彦上人
午後2時 御忌大法要
4月25日~27日 御忌まつり・縁日
●清興(せいきょう)とは
※香衣大師渡御・稚児行列は、午前10時30分に出発地である東漸寺幼稚園を出発し、街を行脚いたします。お時間のございます方は、ぜひ沿道や参道にてご覧いただければ幸いです。
●御忌(ぎょき)大法要とは…
御忌大法要とは、浄土宗の宗祖で、鎌倉仏教の開祖ともいわれる法然上人(1133~1212)の忌日法要を意味いたします。御忌という言葉は、もともと天皇や皇后のご命日に限って使用されていました。法然上人のご命日に限って「御忌」と称するのは、太永4年(1524)に後柏原天皇が法然上人の徳風が天下に普きことをお知りなされて「今より後、孟春の月に遭わば、宜しく京畿の門葉を集会して一七日昼夜、法然上人の御忌を修せしむべきなり。」と詔勅を下賜されたことによります。
これを「太永の鳳詔」と称し、以後、浄土宗の大本山で、法然上人の忌日法要を御忌\大法要と称し、盛大に営むことになりました。法然上人ほど当時いろいろな階層の人々から慕われた方はありません。
法然上人がひとたび吉水の御坊で説法をされると、念仏の声は、台地に水がしみこむように巷に広がり、僧俗、男女を問わず、すべての人々に生きる喜びの声として迎えられました。阿弥陀如来のご本願―絶対的な救いの力として「南無阿弥陀仏」のご名号を唱導し、その教えを広められた法然上人。御忌会は法然上人を偲びご恩報じの念仏供養する、浄土宗で大事な法要なのです。
東漸寺で御忌大法要を奉修するようになったのは、享保20年(1735)、当山二十三世鸞宿上人の時、かねてより関東化縁の墾望のあった京都東山の長楽寺に安置されていた「香衣円光東漸大師(法然上人)の遺像」を増上寺に遷座したのち、名僧をたびたび輩出した檀林寺院である当山に寄附をされてからです。その当時の寄附書状並びに御忌大法要奉修嘆願の連判状、香衣円光東漸大師の謂れ書等は、当山宝藏に大切に保存されております。
当時は、「香衣円光東漸大師の遺像」を担いで、約1カ月かけて当山の末寺32カ寺を巡り、4月25日に当山に戻り、浄土宗僧侶や信者だけではなく、各宗の僧侶も随喜して御忌大法要を奉修していたといわれています。現在は交通事情により、お練りは東漸寺界隈で行い、4月25日にのみに行われております。
江戸時代より、東葛一円の人々に「御忌のおまつり」として長く親しまれ、大法要の日を機に3日間(毎年4月25日より27日まで)、参道や町に多数の植木市や露店がにぎやかに立ち並ぶ御忌の日。戦前は東葛一円では、学校が休みになっていたほど楽しみにしていたと言われています。
参詣の人々は第一礼装で当山を訪れ、地元小金では、お嫁にいっていた娘が小金の実家に帰り、草餅をつくり、集まった親戚の人たちに振る舞うというような慣習も伝わっています。
雨に降られて東漸寺から戻ってくると、なぜかサティ(Eric Satie)のピアノ曲が聴きたくなりました。MDプレーヤーはいつでもスイッチがジムノペディ第一番が聴けるようになっています。
雨上がりの散歩径。
夏になると、半夏生が咲く(半夏生は葉っぱの色が変わったのが花が咲いたように見えるのですが)径です。雨が上がっただけではなく、陽射しが出ました。
黄色いのは菜の花ではなさそうですが、窪地になっていて、降りて近づくことができないので、葉っぱの形を確かめることができません。
この先、暗渠になっている富士川を越えて、結構急な上り坂を上ると、梨畑と香取神社があります。かつては猫のうさ伎と小春がいたあたりです。この猫たちがいたころは毎日のように足を運んだものですが、相次いで姿を消してからは足が遠のいてしまいました。
梨畑では花の季節が終わって、小さな実を結び始めていました。
こちらは別の梨畑。
前の畑に較べると、蕊の残り方が若干多いと思えば、まだ花を残している枝もありました。
こちらはキウイ畑。
田んぼでは水張りが終わっていました。
こちらの田んぼでは代かきが始まっていました。
我が庵まであと数分のところまで帰ってきました。
我が庵があるのは高さ20メートルほどの台地の上なので、どこへ行くにしても、行きは坂を下り、帰りは上らなくてはなりません。最近は歩数が四千歩を過ぎるころになると、太腿に痛みが出て、脚に疲れを覚えるようになりました。
声には出しませんが、「ヨッコラショヨッコラショ」と自分を激励しながら坂を上ったら、ワッ、クッサ~、と感じる臭いが充満していました。ジャスミンの臭いでした。香水のジャスミンの臭い(匂いではなく、あえて臭いと書きました)も私は好きではありませんが、ときおりすれ違う女性の臭さにも、文字どおり鼻が曲がるような気がします。私がおかしいのでしょうか。
夏のように ― とまでいうのはいささかオーバーですが ― 暑い一日になりました。外を歩いていて汗を浮かべたのは今年になって初めてではないか、と思います。
日課の慶林寺参拝に出かけると、去年までなら、いまごろは……。
満開期の御衣黄桜(ギョイコウザクラ)があったのですが、害虫禍に遭ったとかで、去年のうちに伐採されてしまいました。
代わりにこんな若樹が植えられました。若葉が萌え出ています。
新しく植えられた桜は三~五年待てば花を咲かせる、と聞いたことがあります。それぐらいの時間なら、私でも新しい花を見ることができるかもしれません。
害虫に侵されて伐られた御衣黄桜です。
裏側に廻ってみると……新しい若葉が芽吹いていました。
参道では、藤の花と……。
花水木(ハナミズキ)が咲き出し……。
紅花常磐万作(ベニバナトキワマンサク)も紅が濃くなってきていました。
去年夏、雨の尠ない時期があって、散歩途上にある臭木(クサギ)はすっかり葉を落としてしまいました。もしかすると……と危惧していましたが、しばらく通らなかったその散歩径を久しぶりに通ってみると、若葉を芽吹いていました。
持ち主がだれかもしらず、いつ植えられたか、あるいは自然に芽吹いたとしても、いつごろ芽吹いたかも知りませんが。
昨日今日と暖かい陽気に誘われて、我が庵ではコリアンダーの花が咲き始めました。
今日十八日は観音菩薩の縁日です。そして年に一度の取手・長禅寺三世堂の百観音御開帳の日です。東漸寺と慶林寺の観音様に参拝したあと、長禅寺に行ってみようかという気が起きました。八年ぶりです。
幸い好天でもあります。春はいつものことですが、風がなければ曇か雨で、晴れたと思えば糞っ風が吹き荒れる、というのが常道。今日は好天にもかかわらず、風がない。
東漸寺観音堂。本堂に参拝してお賽銭をあげたあと、この観音堂に参拝します。
いつもは東漸寺にお参りしたあと、一度庵に帰って出直すのですが、今日は取手へ行くことにしたので、急がなければなりません。
本堂に参拝したあと、この観音像にお賽銭をあげ、足早に庵に戻ります。
長禅寺に参拝するのは確か七回目になるので、取手駅からなら目をつむってでも行ける……なぁ~んていうのはいささかオーバーでありますが、勝手知ったる他人の家、という感じです。
ところが……目をつむっても行ける、と思っていたはずが、上がるべき石段をスルーしてしまいました。前にきたのは何年前か、にわかに思い出すことはできませんが、この通路が石段ではなく、土の坂道だと思いこんでいたのです。
ともかく境内にお邪魔して、まず本堂にお参り。
三世堂です。五色の幔幕が張り巡らされ、人がたくさんいます。
靴を脱いで堂内に。最初にお目にかかるのは十一面観音です。
外から見ると二階建てに見えますが、内部は三層のさざえ堂形式になっています。上りの通路と下りの通路が別々につくられているので、下る人と行き合うことはありません。
一層には坂東三十三か所観音札所、二層には秩父三十四か所観音札所、三層には西国三十三か所の各本尊の写しが安置されており、合計百体の観音像があることから、百観音堂とも呼ばれています。
この階段のこともすっかり忘れていました。
ほとんど垂直。角度は75度か80度はあります。七年前も難儀をした憶えはありますが、それは階段があまりにも急だから。今回は急というほかに、私には高さの難儀が加わっています。七年前に較べれば、高所恐怖症も進行しているようです。
最上層からの眺め。右に見えるの屋根が本堂です。
三世堂については取手市埋蔵文化財センターの解説パンフレットがあります。
観音巡りを終えたあとは境内を一巡り。大師堂です。
先ほど上った石段を下って道路に降り、お寺の正面に行ってみました。こんなに急で、長い石段があります。
古いメモ帳を繰ってみると、初めて長禅寺を訪れたのは十年前でした。すなわち私が十歳若かったときです。先ほど上り下りした石段があるとは知らなかったので、この長い石段を上りました。すでに高所恐怖症は始まっていましたが、まだ軽かったのでしょう。恐る恐るながら、中央にある手すりに頼れば、上ることができたのでした。裏手には傾斜が緩い代わり長いスロープの坂道があるのですが、その存在も知りませんでした。
八年前の二月、雛飾りを見に入らせてもらった奈良漬け・新六の蔵。
旧水戸街道です。画像の右手・400メートルほど離れたところを利根川が流れ、ちょうど真横へ行ったあたりに、我孫子と取手を結ぶ青山の渡しがありました。いまは利根川の改修で地つづきではなくなってしまった小堀(おおほり)地区と取手を結ぶ渡船の乗り場があります。
取手宿本陣・染野家です。
普段は金・土・日の週三日しか公開されません。今日は木曜日だったのですが、三世堂の御開帳に合わせて公開してくれたようです。
チェーンが張られて通せんぼになっているのが玄関。
公開日であっても、ここからは入れないようです。
本陣で暮らす人たちは玄関からは出入りせず、玄関右手にあるこの通用口を使ったそうです。私たち見学者も、入るのはここから。
台所の天井。柱は煤で黒ずんでいました。
本陣の内部です。
今月の薬師詣でこそ茨城県は美浦村にある海源寺に行こう、行きたい、と思いながら、もろもろの条件が折り合わず、何年越しがつづいたままになっています。何度も日延べをしているので、もう何年越しになるのかわからなくなっています。
もろもろの条件とは……。
その日の天気 ― 雨だったりすれば、知らない土地を、傘をさして歩きたくない ― 体調があまり思わしくなければ ― 出発時刻が遅れるので、帰りのことを考えると、行きづらい ― 曜日が土日祝に当たると ― バスの時刻が平日とは違って、現地での行動が非効率になる……テナテナことが重なって、思い立ってから、今日の今日まで行けずに過ごしてきたのです。
そして今月こそ!
と、思うには思ったのですが、昨夕の天気予報によると、早朝は雨。日中、一旦は熄むものの、夕方から急変し、春雷もあるかも、ということでした。
その時点で美浦村行はほとんど諦め、近場の北千住を歩く行程を考えました。一夜明ければ天候が変わるかもしれぬけれども、多分変わることはないであろう、と思いながら眠りに就きました。
薬師詣での始まりは薬師如来がご本尊の地元の慶林寺から。
出発するころは、どうかな? という空模様でしたが、美浦村行は完全に諦めて参拝。
北千住で降りました。最初に目指すのは慈眼寺です。
地下鉄の出口から四~五分歩いたところで、路地の奥にお寺らしい石柱が見えたので行ってみると……。
慈眼寺に参拝したあと、帰りに寄るつもりだった不動院でした。
真言宗豊山派の寺院で、元弘二年(1332年)、秀天上人による開山。「新編武蔵風土記稿」によると、「当寺ハ昔二丁目ニアル慈眼寺ノ護摩堂ナリシヲ後一寺トセシナリ」とあります。
山号は白幡山、院号が不動院、寺号は薬師寺ですが、本尊は不動明王です。「新編武蔵風土記稿」には、その「不動興教大師ノ作ナリ」とありますが……。寺号は薬師寺なのに、薬師如来は祀られていないようです。
不動院前に立って左を眺めると、短い参道の奥に慈眼寺の山門が見えました。
「足立区教育委員会」が掲げる縁起によると、正和三年(1314年)、行覚上人が関東巡錫のときに創建されたということです。
三代将軍徳川家光のとき、聖観世音菩薩像(弘法大師作と伝える)を安置し本尊とし、将軍が日光東照宮社参の際の休憩所となって、江戸城北方鎮護の寺として、葵の寺紋を許された寺院であった、そうです。
本堂の右前にあった薬師堂とその扁額です。扉の格子越しに中を覗き込んでみましたが、暗くてよく見えませんでした。
慈眼寺本堂。
本堂前にある南北消防組記念碑。
門扉にあしらわれた徳川家の紋です。
参拝を終えて、北千住駅近くに戻りました。
アーチには「千住ほんちょう(本町)商店街」とありますが、旧日光街道です。
百を超す店がありますが、昼を過ぎたばかり、という時間帯だったからか、人通りはそれほどありませんでした。
愛煙家には気の毒ですが、いまの時代、こういう措置は仕方がないでしょう。しかし、どこからか紫煙の臭いが漂ってきていました。
我が北小金でも、駅周辺は喫煙もポイ捨ても厳禁で、過料¥2000(北千住は¥1000)と記された看板が建てられていますが、その手の締め付けには決して屈しないぞという、外道なのか、日本人じゃないので注意書きが読めないのか、あるいは日本人だが、こういうものがあるとは思ってもみない人がいるのか、守らない人がチラホラ。
知ってか知らずか、中にはこの印の上でプカリプカリとやっている人もいました。
旧日光街道は北千住駅前通りの交差点を過ぎると、宿場町通りと名を変えます。
慈眼寺前から十四分で長圓寺に着きました。
このお寺に参拝するのは四度目になります。私は三度目だと思っていましたが、帰ってから調べると、四度目だとわかりました。薬師如来の縁日に詣でるのは二度目。
近年、とみに脚の運びがのろくなった私でも、北千住の駅から ― 北千住は巨大ターミナル駅です。出口は十一もあるので、利用する改札口にもよるのですが ― セカセカと歩けば七分程度という近さなので、ちょくちょく寄ることになります。
山門の左手にはこのような小祠があって、めやみ地蔵尊が祀られています。
長圓寺本堂です。本尊は木造薬師如来立像で、定朝(?-1057年)風の名作だといわれています。
寛永四年(1627年)、出羽湯殿山の行者・雲海がここに庵を結ぶ、とありますが、後に賢俊という僧が開山。
毎年四月の薬師詣での日は、お釈迦様がお生まれになった降誕会と重なるのに、先に参拝した不動院と慈眼寺には花御堂がなかったので、長圓寺に参拝するまで今日が降誕会であることをすっかり忘れていました。
本堂にお賽銭をあげて、私にとっては大切な人々が無事息災であることをお願いしたあと、誕生仏に甘茶をかけました。
本堂前に咲く枝垂れ桜です。
薬師詣でをして、今日も佳きことがありました。
軽装で出かけたので、少し肌寒くはありましたが、春雷があるかも、という予報にもかかわらず、雨には祟られずに済みました。
参拝を終えたあと、我が庵近くでは北千住か取手にしかない無印良品に行き、トートバッグを買うことができました。
ルミネの七階にある無印良品からエレベーターで地階まで降りると、千代田線の改札口が間近で、十分に一本しかない電車が待つほどもなくやってきて、おまけにかなりガラガラの状態。ゆったり坐ることができました。
帰ってきたあと、雨が降り出し、さらに春雷もありました。
このような、どうということもない巡り合わせの妙を嬉しいと思い、お薬師さんのおかげだと思えることがまた嬉しくもあります。
猫の小春、同じくうさ伎の姿を見なくなってから、何年も経ってしまいました。
彼らがいたころは毎日のように会いに行っていたので、行きか帰りには大体この坂を上り下りしました。ムクロジ(無患子)の樹があるので、私が勝手に無患子坂と名づけた道です。
無患子坂を上ったあたりから★分ほどで香取神社に着きます。この辺が小春とうさ伎の棲息地の中間点。
香取神社境内のソメイヨシノ。周辺の桜に較べるとおくてです。
香取神社の下は広い梨畑です。もう梨の花が咲いていました。
こちらは満開に近い梨畑。
ふ~む。桜の花が咲いている時期に鯉のぼりとは、いくらなんでも気が早いんじゃないのかえ。
本土寺参道の桜には、こんなところに花を咲かせている樹が二本も並んでいました。
その桜です。