桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2013年終い薬師・印西市

2013年12月08日 22時26分12秒 | 薬師詣で

 2013年最後の薬師詣では千葉県印西市の来福寺としました。
 訪ねる場所は印西市ですが、最寄り駅があるのは印西市内ではなく、印旛郡酒々井町にある京成酒々井駅です。




 京成酒々井で降り、西口に出ました。
 ちばグリーンバスに乗ると、途中、中平橋で印旛沼中央排水路を越して行きます。ここが酒々井町と印西市との境界線です。次の停留所が順天堂大学。ここには同大のスポーツ健康科学部さくらキャンパスがあって、日曜日なのに、何人かの学生が降りて行きました。
 その次、ドクターKクリニックというバス停で下車。乗車時間はわずか四分。
 バスを降りたあたりの地名は平賀。我が庵があるのも同じ平賀なので、何か因縁でもあるのかと思ったら、我が庵のほうの読みは「ひらが」と濁るのに対して、こちらは「ひらか」と濁らないそう。




 周辺を見渡すと、日曜なので休みでしょうが、やっているのかいないのか、わからないようなクリニックでした。
 道路を挟んで、前にもつがねさわ医院というクリニックがありました。ホームセンターやショッピングモールがあるというのなら理解できなくもないのですが、ほとんど民家のないようなところにバスや車でくる人がいるのでしょうか。



 農家の軒先には
大根に玉葱が吊るされていました。



 進行方向右手は稲刈りが済んだ田んぼ以外に何もない風景です。
 地図に目を落とすと、このあたりの地名は平賀干拓とあるので、かつては印旛沼であったところを埋め立てたのだとわかります。
 印旛沼干拓の歴史は三百年近くも前に始まります。享保九年(1724年)昭和四十四年になって、やっと田沼意次鳥居耀蔵 

 下総国千葉郡平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門という人が同村から同郡検見川村(現在の千葉市花見川区検見川町)に向けて約四里十二町(およそ17キロ)の水路を開くことを幕府に出願しました。幕府は六千両を貸し与え、源右衛門は同志を集めて工事を開始したものの、難工事で思い通りにはいかず、挙げ句は資金を使い果たしてしまいました。

 天明二年(1782年)、老中・田沼意次が再び開疎工事を計画、同五年(1785年)十月から手賀沼の干拓と並行する形で本格的工事に乗り出し、途中まで進んだのですが、翌年発生した天明の洪水によって、壊滅。田沼の失脚もあって、再び挫折することになってしまったのです。

 天保十四年(1842年)六月、老中・水野忠邦が三度開疎工事を計画、悪名高い鳥居忠耀こと鳥居耀蔵、二宮尊徳も計画に関与しました。工事は六万人の人員と二十三万両の費用をかけて行なわれましたが、同年、水野の失脚によって三度挫折ということになりました。

 明治以降も何度か計画が立てられたものの、実施に移されたことはなく、本格的な干拓工事が再開されたのは昭和二十一年のことです。それから二十八年の歳月をかけて印旛沼放水路が完成、およそ900ヘクタールという水田が開かれたのです。



 バスを降りて歩くこと九分。左手に目的の来福寺らしき建物が見えました。

 



 画像中央が薬師堂かと思ったら、薬師堂は本堂右手の小高い丘の上にあるようです。画像で見ると、さほど急な石段ではないと見えるかもしれません。が、高所恐怖症の私には45度はあるであろうという急角度に思えました。

 薬師詣でにきているのに、予期もしなかった石段があって、それが急角度だったから詣でなかった、というのでは話になりません。萎える気持ちを励まし、段数を数えながら上って行くと、段数は九十段。
 這うようにして上ったので、一段か二段、数え違いをしているかもしれませんが……。

 

 上ったあと、それこそ魂が消えてしまうかと思うほどの気持ちで振り返り、カメラを構えました。
 庵に帰ったあと、標高差を測ることのできる地図で調べてみると、高低差は12メートルもありました。

 
 


 上り詰めたところに薬師堂がありました。本来納められているはずの木造薬師如来坐像は印旛歴史民俗資料館に保管されており、毎年七月七日の大護摩供で開扉されるそうです。




 像高56センチ。作者は鎌倉時代の仏師・賢光。画像は印西市のホームページから拝借しました。

 出発する前、インターネットで来福寺周辺の地図を見ていたとき、近くに圓
天寺、不動院、開運院、圓蔵寺という四つの寺院があるのに気づいていました。どんなお寺なのか何もわかりませんが、石段上りでは肝を冷やす思いを味わったものの、疲れはしていなかったので、プリントした地図を片手に行ってみることにしました。



 このサバイバルゲームの施設をあとにしてから、歩けど歩けどそれらしきものがなかなか目に入ってこない。時計を見ると、来福寺をあとにしてから十五分ほども歩いてきたようです。プリントした地図は来福寺と目的の寺が一枚に入るように縮尺したものでしたから、縮尺率がわかりません。見渡したところ、目標になるようなものはなく、地図上でも何もありません。
 時刻はまだ二時過ぎでしたが、ところどころ青空が顔を覗かせているとはいっても、陽射しがありません。十二月の夕暮れはあっという間にやってきます。この地を再び訪れる機会に恵まれるかどうかわかりませんが、諦めて引き返すことにしました。

 帰ったあとで調べたのですが、来福寺から一番近かったのは圓天寺か圓蔵寺で、三十分近くかかります。三十分なら私にとって驚くような距離ではありませんが、片道ですから、行って帰るまでに一時間は歩くことになる。それも、迷わずに着けたら、という前提ですから、諦めたのは正解でした。