桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

一日早いお年玉

2011年12月31日 21時49分08秒 | 地域猫

 流山の天形星(てんぎょうせい)神社に棲む野良の黒猫(黒介)に、一日早いお年玉を持って行くことにしました。明日、元旦は形ばかりですが、初詣に出かけるつもりです。黒介に会いに行くことはできないので、一日早いけれど、お年玉です。どうせテキは一日早いんじゃないの? などとは思いません。

 昨三十日は陽射しこそありましたが、久々に風の強い日でありました。いつものように買い物ついでに近隣の散歩に出て、富士川沿いの径に出ると、ことのほか川風が冷たくなります。ここしばらくは雨もなく、いまの時期は何も栽培していない畑も多いので、強い風が吹くと、土煙が舞ったりします。
 富士川岸に出る前に、猫の黒兵衛を慰問し、富士川を渡ってうさ伎(うさぎ)、さらにマユと訪ねたあと、北小金駅前のスーパーで買い物をして帰る、というのが私のいつもの散策コースです。
 お正月だからといっても、お雑煮をこしらえて、お屠蘇代わりに焼酎を引っかけるぐらいのことしかしませんが、そのときの買い物で買い忘れたものがあったので、夕方、再び買い物に出ました。風は熄まないどころか、いっそう冷たくなっているようでした。ふと黒介はさぞ寒かろうと思ったのです。
 黒介と同じ黒猫の黒兵衛がいるところまでは、我が庵からほんの二~三分の距離です。うさ伎とマユのいるところも、直行すればそれぞれ十数分ですから、雨だったり、所用があって出掛けねばならぬ限りは散歩のついでに通ったります。日によっては二度も通るということもあるのですが、黒介に会いに行こうとすると四十分もかかるので、よっしゃ行くか、と決心しないと行けません。

 黒兵衛もうさ伎もマユも、初めて出会ったころは野良か、と思っていたのですが、徐々に飼い猫であったと知れてきました。黒介だけは確実に野良です。



 黒介の棲む天形星神社へ行くのにはふた通りの道があります。今日は坂川の放流口が見える道を通ります。



 金乗院。
 台地の端っこにあるので、もしかしたら筑波山が望めるかも……と思って足を延ばしてみたのですが、分け入っても分け入っても、前には小規模ながらも林があって、筑波山を見ることはできませんでした。



 天形星神社です。私がこの天形星神社へやってくるのは、いつの間にか参拝ではなく、黒介に会うことが主目的となってしまいました。



 黒介に連れ合いができたのは前回・今月五日の訪問で知りました。
 浜崎あゆのように、ほとんど一年で別れてしまうことの多い野良のことなので、いずれ離れるだろうと思って、名はつけずにいます。今日はこの連れ合いがいただけで、肝心の黒介の姿は見ませんでした。



 帰りは春山寺に寄って行くことにしました。道沿いにこんな御堂があったのを初めて知りました。



 春山寺本堂です。

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年の瀬に筑波山見ゆ

2011年12月25日 10時25分14秒 | 風物詩

 一気に寒くなった十六日の朝から今日二十五日までの十日間、我が地方では最低気温は一日も欠かさず氷点下を下廻りつづけています。
 歳をとるごとに寒さが苦手になっていますが、




 流山免許センターの屋根越しに望む筑波山。コンパクトデジカメのズームではこれが目一杯でしたが、なんとか収めることができました。。



 前ヶ崎城址公園からムクロジ(無患子)の樹があるところまで、富士川沿いに形づくられた高台の中腹を縫って走る径がおよそ1・3キロあります。途中わずか一か所だけですが、東京スカイツリーの見えるポイントがあるのを知りました。



 無住の寺に向かう道々を前から後ろから車が通り過ぎて行きました。境内には多くの車。



 年の暮れなので、何かの法要があったのか、それとも煤払いに檀家の人たちが集結したのか。御堂の扉が開けられているのは初めて見ました。本尊は阿弥陀様だと聞いていますが、これまで見たことはありませんでした。
 すわ! と思い、石段下まで近づいてみましたが、堂内は薄暗くてよく見えませんでした。


 


 ムクロジです。結ばれた無数の実の多くは、このまま落ちることなく年を越しそうです。



 ムクロジの樹のあるところから歩いて十一分。いつもなら茶虎の小春が姿を現わすはずの香取神社です。



 小春は姿を見せなかった代わり、近くの梨畑にはうさ伎(うさぎ)いました。



 梨畑から四分のアパート前には私と一番なかよしのマユ。

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2011年冬至

2011年12月22日 21時58分48秒 | 風物詩

 冬至です。



 格別な運動の手段を持たぬ私は、歩くのが健康によいのかどうかわからないけれど、ほかにすべきこともないので、歩いています。
 我が庵近くには多くの農家がありますが、何をしているのか! と訝るような農家もあります。
 画像は大根と白菜。収穫されることなく、このまま放置されて腐って行きます。




 今日の天気は、というと、空は
相変わらず厚い雲に閉ざされていて、陽射しの恩恵にあずかるのは望み薄です。

 


 ムクロジ(無患子
)は落葉が烈しく、葉っぱが取り払われると、実が目立つようになりました。



 まあ、この寒いのに、私がいつも見て回る猫殿の中でも、とりわけ寒がりのうさ伎(うさぎ)が外に出ているとは不思議なこと……と思えば、わずか三十分前に家を出るときには白く見えた息が、ハッハッとやっても見えなくなっていました。



 妙な天気の一日でした。夕暮れどき、陽が落ちる寸前になって晴れました。



 晴れてきたのは東漸寺へ足を延ばして帰ろうとしていたときでした。
 ほんの束の間の陽射しに、恐らく今年はこれで見納めになるであろう紅葉が映えていました。


 
 
 


 鐘楼堂横の紅葉。




 仁王門をバックにした紅葉。




 まるで金平糖がこぼれたような……。

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うさ伎も一周年

2011年12月15日 21時47分42秒 | 地域猫

 柏のほうから乗った常磐緩行線の電車が北小金駅に近づいて、スピードを落とし始めるあたり ― ほんの一瞬ですが、進行方向右手に猫の小春が棲息している香取神社、つづいて同じく猫のうさ伎(うさぎ)が棲息している梨畑が見えます。
 昨十五日、所用があって柏へ行って帰ってきました。十一月中旬並みの気温という暖かい日でした。そういう日だと、うさ伎が梨畑に寝そべっていることが多いので、今日もいるかしらんと電車の中から見ていると、果たしていつもいるあたりに、鮮やかな緑色の洋服を着た若き女性が坐り、その足許に黒と白の毛並みの小さきものがいるのが見えました。

 うさ伎は人懐っこい猫殿なので、去年、私が初めて出会ったときのように、通りかかったその若き女性に「ニャー」と呼びかけながら、覚束ない足取りで近寄って行ったのでしょう。
 走り去る電車の中から見えるのはほんの一秒ぐらい。まして私は乱視、であるのに、外を歩くときは眼鏡を用いない……そういう眼で見るのですから、本当のところは女性が「若き」だったのかどうかはわかりません。
 眼鏡なしの乱視であっても、男か女かはわかります。では、老いか若きかはどのようにして判別できるのかというと、先入観です。おばさんは忙しいので、猫とつきあっている暇なぞない、と踏んでいるからです。
 おぢさん(私です)は暇を持てあましているので、猫とつきあう時間はありますが、おぢさんと猫が仲良さそうにしていても絵になりません。しかし、若い女性であれば絵になります。



 その日の私は所用で柏に行っていたので、いつも鞄に入れている猫殿用の餌を持っていませんでした。
 一旦家に帰り、ドライキャットフードのカルカンとモンプチをミックスさせたおやつを持って梨畑に向かいました。電車で見かけたときから三十分近く経っていましたから、すでに「若き」女性は立ち去って、枯れ草の中にうさ伎が寝ていました。
 


 梨畑は真冬に備えて枝の剪定も終わっているので、陽光が降り注ぐ地面は暖かそうです。



 寝ているのを起こさぬように抜き足差し足で近づいて写真を撮ったあと、パンパンと両手を叩くと、ムックリと起き上がって、かすれた声で「ニャー」と鳴き、私に向かってポンポンと飛び跳ねるように走ってきます。



 この猫殿を初めて見たのは去年の十二月二十三日でした。
 そろそろ一周年です。
 首輪もしていないので、最初は野良の仔猫かと思いましたが、野良にしては随分人懐っこい。やがてすぐ近くに棲む老嬢の家で飼われているらしい、と知るようになりました。
 私がうさ伎と一緒にいると、近くに住んでいる小学校に上がる前らしき女の子がやってくることがあり、その子から聞いたのです。



 うさ伎が日向ぼっこをしている梨畑のすぐ横を、常磐線の電車が猛烈な風を巻き起こしながら走り去って行きます。今年の六月ごろまで、うさ伎は電車がくるたびに、近くに停めてある軽自動車の下に身を隠していました。



 金網の横にはレールを使った鉄柵が設けてあります。腰を下ろすのにちょうどよいので、キャットフードを置いたあと、私はここに腰を下ろして食事をするうさ伎を眺めています。
 食欲も旺盛になりました。



 私が鉄柵に腰を下ろすと、茅の輪くぐりをするように「8の字」を描きながら私の足許を廻っています。私が見下ろしているだけだと、ときおり私を見上げて「ニャー」と鳴きます。
 コミュニケーションをとりたいのだなと考えて、初めて抱き上げてみました。ところが、案に相違して嫌がるので、すぐ解放しましたが、抱き上げてみて、うさ伎は♀であったことがわかりました。



 去年もこの場所で菜の花が咲いているのを見ました。随分気の早い菜の花があるものだと思い、もしかすると菜の花に似ているが、菜の花ではないのかもしれぬと思ったものですが、気の早い菜の花なのではなく、苺の受粉のため、この時期に咲かせているのだとわかりました。



 付近には苺農家がたくさんあり、ハウスも林立しています。



 無患子(ムクロジ)の樹はほとんど裸になりかけています。



 富士川にはおびただしい真鴨の群れがやってくるようになりました。これだけ多くの鴨の胃袋を満たすだけの魚がこの小さな川にいるんだろうかと思いますが、やってくる以上はいるのでしょう。



 寒さはこれからが本番、と思うのに、白木蓮の樹はすでに春に向けて、猫柳そっくりな芽を育んでいます。

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桔梗を買いに行く②

2011年12月14日 22時31分21秒 | のんびり散策

 我が地方では今日十二月十四日から日の入りの時刻が遅く転じました。先月二十九日、一年のうちでもっとも早い時刻(十六時二十七分)となってから、ほぼ半月経って……。
 今日からわずか一分に過ぎませんが、遅くなって十六時二十八分となり、十七日には同二十九分、二十日には同三十分……と徐々に遅くなって、大晦日には十六時三十六分になります。

 ただし、日の出が早くなるのは来年の一月十日まで待たなくてはなりません。

 松戸駅近くに所用がありました。気乗りのしない用事だったので、たぶん陰気な顔をして家を出ましたが、電車に乗っている間にふと思いついたことがあって、一転明るい気分になりました。帰りは少し回り道をしてケーヨーデイツーというホームセンターへ行き、桔梗の宿根を買おうと思ったのです。



 松戸から新京成に乗って三つ目-みのり台駅で降りました。
 湯楽の里というスーパー銭湯へ通っていたときは、この駅を頻繁に利用したものですが、行く機会がなくなってから、駅を利用することもなくなりました。



 みのり台駅を背にして200メートル余、ケーヨーデーツーの前に證誠院という真言宗智山派の寺院があります。ちょっと寄らせて貰います。

 

 南大門が仁王門になっていて、阿吽の仁王尊が睨みを効かせています。



 かなり長い参道があります。南大門から本堂前まで目測で200メートルほど。



 本堂に向かって右側に立派な梅林がありました。去年三月十五日のブログを見ると、真言宗豊山派と書いていますが、正しくは智山派でした。



 江戸時代中期、江戸麹町に建てられた寺院が昭和十三年、この松戸の地に移転しました。
 本尊は延命地蔵菩薩。回向柱から五色の紐が結ばれていました。



 證誠院の向かいにケーヨーデーツーがあります。



 桔梗の宿根を手に入れました。私が知る限り、桔梗の宿根が手に入れられるのは、このケーヨーデーツーだけ。我が庵近くにはつくばエクスプレスの流山セントラルパークかみのり台のこの店しかありません。
 去年は二袋(一袋六株)でしたが、今年は三袋買いました。



 さらにビオラも六鉢。

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初霜

2011年12月11日 17時30分46秒 | 風物詩

 去年のいまごろの私は身体じゅう ― ことに両肩のあたり ― が寒くて冷たくてしょうがないのに、不思議なことに足だけは暖かく、家にいるときは靴下も履かず、散策に出るときも裸足で靴を履いていました。
 ところが、今年は身体じゅうが寒く、両肩のあたりが格別寒いのは変わりがないのに加えて、暖かった足までも冷えるようになってしまいました。
 寒ぶッ! と感じるようになってから、朝の散歩には出なくなっていましたが、今朝は初霜。霜の降りた風景を眺めてみようと、久々に朝の散歩を試みました。



 ブロッコリー畑には一面の霜が降りていました。畑に踏み込んだ人間と犬のものらしき足跡。



 ムクロジ(無患子)。まだ葉を落としていませんでした。



 本土寺仁王門。



 仁王門をくぐると、参道は紅葉のトンネルでした。



 仁王門横の紅葉。

 


 紅葉二題。
 仁王門前の小径を右にとると、左側にはしばらく本土寺の塀がつづき、塀越しに紅葉を愉しむことができます。

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2011年終い薬師・墨田区

2011年12月08日 23時35分13秒 | 薬師詣で

 私のメル友の一人は自称晴れ女。終い薬師の八日が近付いてきた三日前、「薬師詣でに行くよぉ~」と伝えると、「きっと晴れますよぉ~」という返信がありましたが……。実際に薬師如来の縁日がきてみると、朝から陽射しはなく、いつ降り出してもおかしくないと思わせる空模様でした。



 十二月の薬師詣では生まれ故郷のお寺を訪ねることにしました。生まれ故郷といっても、すでに家もなく身寄りもなく、知己もいないので、こういう機会でもないと、訪れることはありません。最寄りの両国駅に降り立ったのも何年ぶりになるのか、にわかには思い出せないほど遠い昔です。




 駅の真ん前にあるホテルに観光案内所ができていました。覗かせてもらいましたが、私が参考にできるようなパンフレット類はありませんでした。
 西口を出て、広い国技館通りを回向院に向かいます。

 


 浄土宗・回向院は江戸の災害と深いかかわりを持つ寺院であり、明麿の大火(俗に振袖火事といわれる)による焼死者を埋葬した地に建てられたものです。
 このころからポツポツと雨が降り出しました。

 

 回向院の境内を通り抜ければ、今日最初の目的地……のはずだったのですが、あるのは工事のフェンスだけ。
 アレレと思って地図を取り出してみると、「卍」印があって、大徳院とありました。そういえばそうそう、と独り合点して、山門はどこであったか、と思いながら歩きましたが、それらしきものが見当たらない。臨時の寺務所を見つけて、ガラス扉の前で合掌しました。
 高野山真言宗の寺です。古くは神田橋外に宿寺居屋敷を拝領していたと伝えられていますが、「墨田区史」によると、寛文六年(1666年)に本所猿江に移転、さらに貞享元年(1684年)に南本所元町の現在地に移ったもので、その当時の住僧宥永上人を中興開山としています。本尊は弘法大師の作と伝えられる寅薬師如来で、江戸八十八所弘法大師めぐりの一所に挙げられていました。



 本所両国といえば何よりも有名なのは松坂町の吉良邸跡です。
 画像は竪川(立川)に架かる一之橋を渡ったあと、南詰から振り返って撮ったもので、吉良邸があった本所松坂町公園は橋を渡る手前を左(画像では右)に曲がった先にあります。200メートルほど先。裏門跡までなら100メートルです。



 討ち入りを果たした大石内蔵助たちは永代橋に向かうため、この一之橋を向こうからこちらへ渡ってきたのでした。



 こんなポスターも見かけたので、帰りに吉良邸があった松坂公園に寄ってみようとも思いましたが、雨は次第に強くなってきていました。まずは薬師詣でを優先です。



 両国駅から歩くことおよそ三十分、二つ目の目的地である弥勒寺に着きました。
 慶長十五年(1610年)、宥鑁上人が小石川鷹匠町に創建、数度の移転を経て、元禄二年(1689年)、この本所の地に移転したと伝えられています。
 江戸時代には新義真言宗関東触頭四か寺(ほかの三か寺は知足院、円福寺、真福寺)の一寺としての格式を持っていました。 本尊は行基作と伝えられる薬師如来で、一名を川上薬師というそうです。
 そのいわれは「文政寺社書上」によると、薬師如来像はもと常陸国水戸領内の寺院にあったもので、その寺地はゆえあって藩主・徳川光圀によって没収された。その折、薬師如来像を川中に投棄したところ、像は川上に向かって流れた。このため、再び光圀の信仰を受けることになって、川上薬師と呼ばれるようになったということです。
 この像がなぜ弥勤寺に移されたかは明らかにされていませんが、かつては江戸十三薬師の一つとして多くの参詣者を集めていたということです。



 弥勒寺と向かい合わせにあるのは新義真言宗の法樹院です。弥勒寺の一子院として創建しましたが、昭和十八年に弥勒寺を離れて、本山・長谷寺末となりました



 龍光院。ここも新義真言宗で、弥勒寺の一子院として創建しましたが、後年弥勒寺を離れ、こちらは和歌山・根来寺の末寺となりました。



 龍光院から三分で長慶寺。曹洞宗のお寺です。縁起には「深川孫右衛門夫妻より、越後村上の霊樹山耕雲寺二三世一空全鎖大和尚を開闢開山に勧請し、当山二世大事不安大和尚布延するという」とあって、創建年代がわかりませんが、さらに読み進めて行くと、「開創より三一年後、万治三年(1660年)」という記述があるので、創建は1629年、すなわち寛永六年ということになります。



 松尾芭蕉を弔う碑。元禄七年(1694年)、芭蕉が難波で亡くなったのを聞いて、江戸の門人杉風・其角などが翁を江戸で弔うために落歯・発句を埋め塚をこの長慶院に建てたもの。



 長慶寺から九分で要津寺。
 臨済宗妙心寺派。慶安年間(1648年-51年)、下総関宿藩の初代藩主・牧野成貞が父・成儀を開基として僧・東鉄が東光山乾徳寺と号して駒込に創建したと伝えられています。元禄四年(1691年)、現在の地を牧野家下屋敷として拝領することになったので、寺を移し、成儀の戒名(要津院殿壁立鈍鉄大居土)に因んで寺号を要津寺に改めたということです。


 要津寺から五分の浄土宗・西光寺。
 慶長十一年(1606年)、小林治右衛門国広によって創建されました。開山は源蓮社信誉上人英松和尚で、本尊は阿弥陀如来です。小林国広は天正七年(1579年)、大阪から牛島の地に移り、海辺新田の開拓に当たった人物で、のちに出家して然蓮社湛誉休西比丘と称しました。浅草海苔の製造によって産をなした人物ともいわれています。



 くるときに渡った一之橋の一つ東側の塩原橋で竪川を渡って帰ります。

 すでに跡形もないのですが、生家があったあたりを歩いてみようかと思ってはいたものの、徒歩で往復すれば三十分以上かかります。雨が烈しくなってきているし、行ったところで名残のものは何もないんだし……などと独り言を呟いて、寄らずに帰ることにしました。


 両国駅に戻るころには雨はすっかり本降りになってしまいました。

 いつも駆け足でしたが、ともかくこれで今年一月八日から毎月八日に参詣することを期して始めた薬師詣では十二か寺を巡って終わりました。

 遠くへ行くことは叶いませんが、近場なら行けるところがまだあるはず。薬師如来を祀るお寺を、さらに十二か寺見つけることができたなら、来年も一年かけて……と思っていたところ、関東九十一薬師霊場というのがあるのを知りました。まさに関東七都県を網羅しています。

 その中に、かつて私が訪れたことがある寺院はありやなしや、と一覧表を眺めてみれば、足立区綾瀬の薬師寺と越谷市東越谷の東福寺、それに柏市大井の福満寺だけでした。
 綾瀬の薬師寺は薬師如来の縁日である十月八日に参詣していましたが、その日の主目的は牛田薬師に参ることでしたから、どちらかというと、ついで、であったわけです。
 越谷の東福寺は何も知らずに行ったら、たまたま薬師堂があったというだけ。福満寺も、いわれてみれば、薬師如来が祀られていたような……という淡い記憶があるだけで、二か寺とも縁日とは無縁の日に行っています。改めて行く機会もありそうです。

この日、歩いたところ

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野良の黒介一周年

2011年12月05日 12時53分37秒 | 地域猫

 昨三日まで、わずかに花弁を残していた我が庵の石蕗(ツワブキ)でしたが、今朝見たら散っていました。



 今日、十二月五日は去年、天形星神社というところで暮らしている黒の野良猫殿(黒介)を初めて見かけた日からちょうど一年です。記念して会いに行くことにしました。



 風は強いけれども、陽射しは強く、暖かでした。しばらく川に沿って歩くことになる富士川にはおびただしい数の鴨がいました。

 流山市に入ると、まだ未舗装の道が残されています。雨は二十四時間前に上がっていて、我が庵周辺のアスファルト道路はすっかり乾いていたのに、この径では凹んだところはすべて水溜まりとなって残っていました。



 東側から見た天形星神社です。高い杉木立の間から見る社殿はずっと昔に訪れたことのある箱根神社を思わせます。




 天形星神社ではちょっぴりうれしくなるようなことが待っていました。


 どうやら野良の黒介に茶虎の連れ合い(左)ができたようなのです。

 黒介は身を隠していた植え込みの中から姿を現わして、しばし私を凝視したあと、私がまさに私であると認めて、小走りにやってきました。そのあとに現われ出たのが左の茶虎殿です。
 普通なら初めて見る私のほうに近寄ってくるはずがないのですが、黒介の知人らしい、と安心したのでしょう。スタスタと歩いてきました。

 小さいので見えないかもしれませんが、紅葉を撮した前の画像で、二本ある楓のうち、左の樹の下に茶虎殿の横っ腹が映っているのです。
 黒介だけが餌を食べているので、連れ合いの前にも餌を置いてやろうと近づくと、さすがに私を避けようとします。しかし私が離れると、また黒介のそばに戻って、黒介が食べるのをじっと見ています。



 黒介家は「かかあ天下」であるようです。先の画像を撮ったとき、黒介だけが食べているみたいですが、実は餌を置いたとき、あたかも「君から食べろよ」とでもいうように、黒介は一瞬も二瞬も間をおいたのです。茶虎殿が遠慮したのか、警戒したのか、食べようとしなかったので、黒介は渋々腰を上げた、という感じでした。



 夫婦となったか、まだ恋人同士か連れ合いか。別の場所に餌を置くと、茶虎殿は遠慮することなく食べてくれました。




 流山の里山。




 天形星神社からはるばると歩くことおよそ四十分。いつもの梨園に着くと、うさ伎(うさぎ)が梨の樹の根元で眠り込んでいました。




 10メートルほど離れた道路で、パンパンと両手で音をさせると、うさ伎は飛んできてくれました。
 歩き方はポンポン弾むようで、まるで猫になったシーズーが歩くのを見ているみたいです。

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