今日三十日の天気予報は、昨日の段階では晴のち雨。ところが、朝になったのにいつまでも暗いので、空を見上げたら、厚い雲に覆われていました。天気予報を見たら、ちゃっかり曇のち雨と変わっていました。
庭を見ると、霜柱もなく、霜が降ったのもほんの少しだけと、ここ数日では暖かいようなのですが、陽の光がないので薄ら寒く感じます。
家で寒い寒いとぼやいているよりも、早足を心がけた散策に出たついでに、野良のうさ伎(うさぎ)に会いに行きました。
が、今日も会えませんでした。
冬至の日に初めて見かけてから、九日間つづけて行っているのですが、二十六日を最後に三日つづけて姿を見ていません。
帆立貝の食器もいつもとは少し離れた場所にありました。昨日は風が強かったので、風で飛ばされただけであればいいけれども、私が危惧しているように、おやつは鴉メに食べられてしまったのではないか。
しばらく立ち止まって待ってみましたが、うさ伎が現われる様子はありません。
香取神社へ足を延ばすと、昨日はなかった国旗が樹てられていました。
うさ伎に会えなかった代わりに小春に会いました。
こちらは闖入者らしい三毛と縄張りを主張し合っていた冬至の日以来ですから、九日ぶりです。会ったのはうさ伎より古いのに、まだ三回目です。姿は見なくても、三日に二日ぐらいの割合でおやつを置いて帰っています。
いつものようにおやつを置いてやって帰ろうと香取神社の国旗と鳥居をくぐったところ、まさかいるとは思わなかった小春がいたので、ちょっと愕きました。
私と顔を合わせるなり「ニャー」と挨拶してくれました。
たった三度しか会っていないのに、憶えていてくれたのでしょうか。行けばおやつを置いて、次に行くときれいになくなっているので、そのつど食べていてくれるとは思うのですが、小春にとっておやつの贈り主は志賀直哉さんの「小僧の神様」みたいなもので、誰が置いて行ってくれたのかはわからぬはずです。
ともかく私がどこの誰だかわかっていない限り、親しみを込めて「ニャー」とは鳴いてくれぬはず、と思えばうれしい気がします。
バッグからおやつを入れたタッパーウェアを取り出しながら、「あっちへ行こうか」と、いつもおやつを置いておく定例の場所を示すと、スルスルと走り出しました。
拝殿の欄干には五本の支柱がありますが、私がおやつを置くのは一番奥の支柱の陰です。
いつもの場所に行くまで小春は私を見上げて「ニャーニャー」と催促しながら欄干の下を歩き回っていましたが、私がおやつを置くと、ものすごい勢いで突っ走ってきて、前脚で蹴散らかしてしまいました。
昼間だからか、やはり猫は目がよくないようです。遠くに飛ばした(といっても、せいぜい20センチほどなのに)おやつは目に入らないのです。「ほら、ここだよ」と飛び散ったおやつを指で指してやると、鼻から先に近寄ってようやくきれいに食べ終えました。
この日、初めて気がつきました。首輪をしていました。野良殿ではないのに、猛烈な食欲です。
ちょっと悪戯心を起こして、おやつを欄干に置いてやりました。
おやつの姿が見えぬのに、頭上から好ましい匂いが漂ってくるのが不思議なのか、上を見上げたり私を見上げたりしながら、「ニャーニャー」と鳴いています。
「ここにあるんだよ」といって、指先で板をトントン叩いてやると、やっと気づいて伸び上がりました。
が、小春には背伸びしてわずかに足らぬという高さで、伸び上がったまま食べようとすると、鼻先でおやつを押してしまう形になります。「ニャーグフッ、ニャーグフッ」と繰り返しては食べられず、一旦下に降りたあと、再び勢いをつけて伸び上がりました。
わずか一度の失敗で、直接口に入れることはできないと学習して、今度は前脚を使って掻き落としにかかりました。モコモコとした体型なので、結構愛らしい格好です。
折角身が軽いんだから、ヒョイと跳び上がればいいのに、一体なんのために猫をやっているんだい? と、声をかけてやったら……。
私のいったことがわかったのか、ヒョイと飛び乗りました。
夢中で食べています。
明日は大晦日。
雨でなければ散策ついでにやってくるつもりですが、雨になるかもしれません。暮れに会うのは最後かもしれないと思ったので、今日が忘年会。うさ伎とクリスマスパーティはできなかったけれど……。もう一摘みおやつを置いて、立ち去ることにしました。
二、三日前までは、かなりちびた状態ながらも花を咲かせていたネリネ(ダイアモンドリリー)。
香取神社からの帰りに前を通ったら、すでに花はありませんでした。大掃除のついでに刈り取られてしまったようです。
名前が覚えられないといっていたこの家の主婦とは、その日以来顔を合わせることはないままです。
今朝も私が庭に撒いておいた五穀に鳩がやってきました。前にきた鳩と同じかどうかわかりませんが、相変わらず一羽だけでやってきます。
雀たちは私が用心深くしていても、窓に近づくと逃げてしまいますが、鳩は逃げません。私に気づいているのかどうか、チョンチョンと餌をついばんではあたりを見回しています。なんでこんなところにオイラの食い物があるんだろうか、とキョトキョトしているように見えます。
昨日二十八日は不動明王の縁日。年内最後の縁日ですから、終い不動(しまいふどう)です。
私には不動信仰というものはありませんが、近くにある馬橋・萬満寺の本尊が不動明王なので、どんなものだろうかと思って行ってみました。
出かける前、念のため萬満寺のホームページを見てみると、確かに縁日とありましたが、午後三時に終わってしまう、とあったので、慌ててもろもろの用を済ませて家を出ました。
萬満寺山門前に着いたのは、まだ終わっていないはずの三時前でしたが、山内は妙に静かでした。
縁日、それも年内最後の縁日というからには賑々しい数の参拝客があり、露店の数軒も出ているだろうと思ってきたのですが、露店はおろか、参拝客すらおりません。
赤地に「南無不動明王」と染め抜いた幟は、風に翩翻とはためいているけれど、もしかして一日勘違いしてない? と思ってしまいました。
煙をくゆらせているお線香は私があげた一束だけ。
香炉の灰に開けられた穴の数を数えてみるまでもなく、朝からの参拝者の数は知れています。お不動さんを信仰していない私がご利益を求めてきているわけではないけれど、確率からいうと、私がご利益に授かるのはかなり有望?
といっても、萬満寺の本尊である不動明王のご利益とは中気除(ちゅうきよけ)ですから、ありがたいことに、いまのところはご利益を授からなくてもよいのです。
本堂の右斜め後ろにある不動堂です。
この日は扉が開けられていて、お不動さんを見ることができました。
ただ、遠過ぎてよく見えず、カメラに収めようとしても、フラッシュが届かないので、萬満寺のホームページからこの画像を拝借しました。
私がお不動さんと対面しているとき、背後から「失礼します」という声が聞こえました。私と同年齢と思われるご婦人で、本堂前でお札を売っている老人と長々と話し込んでいた人です。
この萬満寺には、明治に入って廃宗になってしまった普化宗一月寺(いちげつでら)所縁の石があると聞いています。以前訪ねたときも捜したのですが、見つけられませんでした。そのときは境内に人影もなかったので、見るのは諦めて帰ったのです。
この日は、寺の関係者がいた! と思ったものですから、お線香をあげたあと、話が途切れるのを待っていたのですが、なかなか終わる気配がありません。ついにしびれを切らして、割って入ろうとすると、老人が「いらっしゃい」と声をかけてくれたので、その所在を確かめることができましたが、「今日はお不動さんも開いているから……」と教えてくれたので、一月寺の石を捜す前にお不動さんにお参りしていたのでした。
お不動さんは本当に遠過ぎて、これがお不動さんだと知っていなければ、何が祀ってあるのかわからないかもしれません。
私がじっと坐り込んでいたので、ご婦人はここに一月寺ゆかりの何かがある、と勘違いされたようです。「北小金の一月寺には私が子どものころは虚無僧がたくさんきていたものですよ」と問わず語りに語り始めました。
ん? 何歳ごろのことだったのかはっきりしないが、私が子どものころにも虚無僧が我が家の玄関前に立って尺八を吹いているのを見ています。
改めてご婦人を見ると、この季節ですから、帽子にマスクを掛け、見えるのは眼の周辺だけ、という取りようによっては怪しげな姿でしたので、年齢を推測することはできません。虚無僧を見た、子どものころ、という二つのキーワードで私と同年齢と判断を下したのですが……。
いわくありげな石はいくつかあって、これかあれかと思いながらカメラに収めたあと、ようやく説明板とセットになったものを見つけました。本堂裏手の墓所に遺されている旧一月寺の遺墨墳碑です。「雖為骨肉同胞 不許無案内入」と刻まれています。
こちらは旧一月寺の開山塔。
説明板には台石(画像下)に一月寺の由来が記されている、とありましたが、すっかり摩耗していて読むことはできません。
一月寺の名を有名にしたのは、普化宗の本山だったということより、江戸時代末期に起きた大名家のお家騒動。世に「仙石騒動」と呼ばれる事件です。
鍵を握るのは神谷転(かみや・うたた)という名の旗本・仙石弥三郎の家臣と一月寺の愛�也(あいぜん)という僧侶。
ことは但州出石藩の第六代藩主・仙石政美が急死したことに始まります。文政七年(1824年)、参勤交代で出府途中に発病し、江戸到着後亡くなるのです。まだ二十八歳という若さ。
政美の出府直前まで藩政を牛耳っていたのは仙石氏一門で、筆頭家老だった仙石左京という人物です。左京は藩財政建て直しのために、藩士の俸禄の一部を強制的に借り上げ、御用商人以外の商人を締め出す代わりに運上金を大幅に値上げする、などという改革を推進していました。
しかし、成果はなかなか上がらない。一方では俸禄を減らされた藩士や藩から締め出された商人、多額の運上金を課せられた御用商人からも反発が出ます。
政美は左京と対立し、失脚していたやはり一門で勝手方頭取家老だった仙石造酒を復権させ、左京に替わって藩政を執らせることにして江戸に向かいました。その矢先の病死だったのです。
左京一派による暗殺? ということも推察されますが、真相はわかりません。
後継を巡って一悶着起きるかと予測されたのですが、政美の弟・久利を藩主に立てるということですんなり治まって、造酒派の天下がつづくと思ったところ、造酒さん手際が悪い。側近の一人をあまりにも重用し過ぎたために、内部分裂を起こし、乱闘騒ぎまで起きる始末です。
造酒さん、折角カムバックを果たせたというのに、あえなく隠居 ― ということになってしまいました。
復活した左京は以前の政策をより強力に推し進めます。
一方、造酒の嫡男・主計ら造酒派は、左京が自分の嫡男・小太郎を藩主の座に就かせんものと画策している、と先代藩主・政美と現藩主・久利の父親である先々代の久道に訴えます。ところが、久道は左京と通じていたとみえて、この訴えをまったく相手にしなかっただけでなく、烈火のごとく怒って、首謀者たちを蟄居処分に付してしまいました。
その中に河野瀬兵衛という人がいて、彼は藩追放という処分を受けたのですが、江戸に上って、仙石氏一門ながら旗本に取り立てられていた仙石弥三郎に訴えを記した上書を届けることができた。どういう繋がりがあったのかわかりませんが、仲介の労をとったのが、先の神谷転です。
この上書が弥三郎から江戸で暮らしていた久道夫人・軽子に渡った時点で、左京の運命はまた下り坂、ということになります。
左京の緊縮政策によって、江戸屋敷の出費も抑えられ、耐乏生活を強いられていた軽子は上書の内容を頭から信じてしまうのです。
左京は軽子への弁明に努めるとともに、江戸から藩内に戻っていた河野瀬兵衛を捕らえようとします。瀬兵衛は天領だった生野銀山へ逃げますが、ここで捕らえられてしまいます。
しかし、天領での捕り物は幕府勘定奉行の許可が必要、というのが決まりでした。その禁を犯してしまった左京は老中・松平康任に揉み消しを頼みます。
こういう事態になるのを予測していたとは考えられませんが、左京が次の藩主に立てようとしている(と、造酒派から見られていた)小太郎の嫁に迎えたのは松平康任の姪だったのです。
老中と親戚関係にあることに図に乗り過ぎたのか、左京は瀬兵衛を弥三郎と軽子に結びつけることとなった神谷転まで捕縛しようとします。一度ならず、二度まで違法行為を働こうというわけです。
ここでようやく一月寺が登場します。我が身が危険だと感じた神谷は一月寺に帰依し、虚無僧となって江戸の街に潜伏します。しかし、松平康任の命を承けた南町奉行所の手にかかってしまいます。
自分の計画が着々と進んでいると思っていた左京には、大きな落とし穴が待ち構えていました。
まず頼みの綱としていた松平康任を蹴落とそうと狙っている人物がいたことです。
同じ老中の水野忠邦です。
その小判鮫のようでいながら、切れ者と名高い脇坂安董が寺社奉行にいたことも、左京にとっては不運でした。一応は僧となっている神谷を寺社奉行ではなく、町奉行に捕縛させたというのも越権行為だからです。
捕らえられた神谷の即時釈放を求めたのは一月寺の愛�也です。寺社奉行所に訴えたときに、神谷が持っていた上書の写しまで提出したので、違法行為の揉み消し事件その他、ことはすべて明るみに出てしまいました。
軽子の実家が姫路藩だったというのも、左京の立場をより悪くしていました。姫路藩主・酒井忠学の妻は将軍・家斉の娘・喜代姫だったのです。
姫路藩邸を訪れる都度、軽子は喜代姫に自家の騒動を愚痴っていました。喜代姫を通して家斉の耳にも入っていた、というわけです。
この種の事件の処分は寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三者で構成される評定所で扱われますが、実際に取り調べに当たったのは寺社奉行吟味物調役という役目に就いていた川路聖謨(としあきら=このころの名は弥吉)です。
結果は仙石左京=獄門の上、晒し首。仙石小太郎=八丈島遠島。松平康任=隠居。
川路さんはこの事件で名を挙げ、のちのち勘定奉行まで出世します。ライバルを蹴落とした水野忠邦は老中首座に就き、脇坂安董は外様大名から譜代大名に列せられて老中となります。
ただし、藩主の久利にお咎めはなかったものの、出石藩は五万八千石から三万石に減封。
直接関わった者たち ― 。
敗者は当然のことながら、勝者といえどもいい目は見ず、水野、脇坂、川路という部外者だけがいい目を見た、ということで事件は幕引きとなりました。
神谷転のその後はわかりませんが、先の遺墨墳碑は愛�也の死後、報恩のために神谷が建てた石碑なのだそうです。
いま、我が国では別の仙石騒動が起きておりますが、こちらはどうなりますことやら。
― お不動さんの終い縁日で参詣したはずの萬満寺からとんだ脱線をしてしまいました。
帰りは馬橋から北小金まで、JR二駅ぶんを歩いて帰ることにしました。二駅といっても、電車ならわずか四分と近いのです。
歩いて帰ったおかげで、我が庵近くではこの時期になってもまだ花を咲かせている石蕗(ツワブキ)があるのを見ることができました。
地図を見ていて、隣の流山市にやや広めの緑に塗られた公園が二つあるのに気づいたので、そこを訪ねました。
初めて行くところなので、迷わないように遠回り覚悟で国道6号線を歩きました。国道に出るためには小春が出没する流山・前ヶ崎の香取神社前を通って行きます。
国道に出るのに香取神社を経由して行くのは、じつは少し遠回りなのです。さらに、うさ伎(うさぎ)のいるところを通ろうとすればいっそう遠回りなのですが、遠回りに遠回りを重ねた私の期待に反して、うさ伎も小春もいませんでした。うさ伎のために帆立貝の食器にキャッティと懐石とミオを混ぜたおやつを置き、小春のために香取神社にも同じものを置いて散策の始まり。
国道6号線の名都借(なづかり)交差点を左折。そして適当なところで右折。
が、我が庵を出てからすでに三十分ほど経過しましたが、公園らしきものがありません。地図に塗られた緑色の広さからいうと、そのへんにあるような小公園ではないはずです。
おかしいなぁと思い始めたころに、こんな標識に出くわしました。私は矢印が示している方向から歩いてきたのです。
レレレッと独り言を呟いて引き返すと、「レ」の字をひっくり返したような折り返しがあって、その先に公園がありました。
行けば公園とわかるものの、入口には焚き火禁止という標示があるだけで、公園を示す標示はなし。
木製遊具もあって、1・7ヘクタールと結構広い公園です。季節のせいか、もったいないぐらいに人がいない。
園内にはゲートボール専用場がありました。
流山市はそれほど大きな市ではない(人口も面積も)のに、我が庵近くには野球場が二面とキャンプ場まであることなどを見ても、土地に余裕があるんだなぁと感じさせます。
別の場所でもゲートボール場を二面も持った空き地を見ました。とっくりと調べてみたことはありませんが、心なし公園の数も多いように思えます。
ゴルフとゲートボールは似て非なるものかもしれませんが、私はゴルフというスポーツにまったく魅力を感じず、やったことがありません。ついでながらサッカーにも……。
それでもいつか、私もこういうものに夢中になる日がくるのでありましょうか。くるとしたら、何年後のことでありましょうか。
次の「松ヶ丘3号散策の森」は地図を持っていたのにもかかわらず、最初は逆方向に歩いていました。
私が生まれた街と育った街とは300キロ以上も離れていますが、両方とも戦災に遭ったという共通点があって、私が生まれたころには碁盤の目のように道路が整備された街でした。
いまではそうではない街に暮らすほうが長くなってしまいましたが、道路は直角に曲がってまっすぐ走り、決して斜めに走るものではない、という思い込みが抜けないものとみえます。
「松ヶ丘ふるさと公園」という標識の建ったところから入ったはずなのに、出口(どっちが出口か入口なのかわかりませんが)には「松ヶ丘3号散策の森」という標識。
ハテ、二つの公園の境目があったのだろうかと戻ってみましたが、境目の存在はわかりませんでした。
杉のほかは落葉樹が多く、いまの季節は寒々とした印象しか受けませんが、葉の茂る季節であれば、森林浴の真似事ぐらいできるかもしれません。
気温は昨日と変わらないようですが、無風だったせいか、背中に太陽を浴びて歩いているとポカポカして気持ちがいい。体調も昨日よりはよいようです。
菜の花が咲いていました。もう咲く季節なのでしょうか。いかにも気が早いのではないかとも思えますが……。菜の花ではないのかもしれない。
ポカポカ陽気も三時を過ぎると、まだ陽射しはあるのに、いっぺんに冷えてきます。
帰途、吸い寄せられるように寄り道をしておりました。
梨畑の片隅には、昨日は(確か)なくなっていたマットが元どおり敷いてあって、そこで日向ぼっこをしているうさ伎がおりました。私に気がつくと、「ニャー」とひと声鳴いて、径に降りてきました。行きに置いて行ったおやつはきれいになくなっていました。
早速トートバッグからプラスチック容器に入った魚カップを取り出して食べてもらうこととします。
魚カップは初めて買ったものなので、匂いも初めて嗅ぎますが、ヨーグルトについているような蓋を引き剥がすと、ツナ缶を開けたときのようないい香りがします。
気のせいか、うさ伎が「オッ」という表情を見せたように思えました。
たくさん食べて早くきれいな毛並みに戻すんだよ、と私は慈愛の目で眺めています。
食べ物が違うせいもあるのかもしれませんが、最初のころはがっついて食べていたのに、食べ方に落ち著きが出てきたようにも思えます。
ただ、気になったのは一羽の鴉メです。
梨畑の上にはネットを被せるための鉄線が張り巡らせてあるのですが、すぐ近くの支柱に止まって啼いておりました。
前にも一度同じようなことがありました。そのときは格別気にしませんでしたが、今日は仔猫だと侮って、餌を奪おうとしているのかもしれないという気になりました。
うさ伎がときおり箸を休めるようにして周りを見回すのも、ライバルの猫ではなく、鴉の動きを警戒しているのかもしれません。
追い払ってやろうと小石を投げたりすると、執念深くつけ狙われると聞いているので、わざと音を立てるように、勢いをつけて立ち上がる素振りをすると、鴉メはヒョイと飛び立ちましたが、少し離れた電柱のてっぺんに止まり直して、カァカァと啼いています。
まだ仔猫なので、成猫用では少し量が多かったようです。三分の一ほど残すと、腰を下ろして見守っている私のほうに向き直り、「ニャー」と鳴いて私に身体をこすりつけながら周囲をひと回り。
ひと回り回り終えると、私のすぐそばに坐って、顔を洗ったり、毛づくろいをしたり……。すっかりリラックスしています。
私を見上げることもあって、まだ撮っていない顔を撮るチャンスなのですが、蹲踞の姿勢で腰を下ろしている私の脛の下をくぐって尻の下を回ったあと、突然顔を出したり、両前脚で交互にこんなことをしている間に、ヒョイと見上げたりするので、まだ撮れずにいます。
風はさらに冷たくなったようなので、今日の日はここでお別れ。明日も暖かければ、冷蔵庫にしまってある牛乳を持って行きましょう。
今日、ラグビー大学選手権2回戦。メイジは1回戦の中大戦(68対5)につづいて、60対7と流通経済大に大勝。明くる一月二日に早稲田メと再戦です。
↓うさ伎のいるあたりから「やまびこ公園」~「松ヶ丘3号散策の森」の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map80937.html
独りぼっちのクリスマス ― と思っていました。
負け惜しみではなく、別に独りぼっちだって構やしないのだけど、一緒にケーキを食べたり、酒を呑んだりできる仲間がいたら、むろんそっちのほうが愉しいのに決まっています。
冬至の日、前ヶ崎にある香取神社近くの梨畑で見かけた黒白の仔猫殿です。
香取神社に出没している小春のほうは、一か月に一度しか会うことがないのに、こちらは初めて会った日からクリスマスイヴの日まで三日つづけて顔を見ました。
これはクリスマスイヴの日の画像です。径を挟んでいる民家の前に帆立貝の殻が棄ててあったので、それを食器にすることにしました。
何に使うのか、梨畑の端っこに50センチ角ぐらいのマットが置いてあり、三日ともそこで日向ぼっこをしていました。
三日目。
私が坂道を上って見えるところにくると、ニャーと鳴いて立ち上がるようになりました。どこをねぐらとしているのかわかりませんが、周りには民家が四軒と梨畑があるだけです。食べ物を得る環境としてはどうも厳しそうなところです。
腹を空かせているのでしょう。おやつを与えると、むしゃぶりつくようにして食べます。痩せている上に、毛並みに少し乱れがあるみたいです。栄養が足りないのかなと感じました。
まだ仔猫なのに、親猫のいる気配は感じられません。独立したばかりなのでしょうか。
我が庵から歩いて二十分とちょっと距離のある場所ですが、できるだけこの方面に散歩に行くようにして、おやつを置いてやろうと思いました。
クリスマスイヴの日、私のあとを追ってきたいような素振りをみせました。私が立ち去ろうとすると、食べていたおやつはそっちのけにして、ニャーニャーと鳴きながら歩いてくるのです。
トートバッグを拡げて待っていればそのまますんなりと入ってきて、連れ帰ることができるように思えましたが、考えるまでもなく、我が庵に連れて帰ることなどできません。
♂か♀かわかりませんが、痩せているせいか、耳が大きく見えます。耳がイヤに目立つので、うさ伎(うさぎ)という名で呼ぶことにしました。
痩せうさ伎 負けるな 桔梗 ここにあり
そして今日、クリスマス ― 。
今年のクリスマスもまた独りぼっちかと思い、別段独りぼっちだからといってどういうこともないとは思うのですが、ふだんとは違って、街が華やいで感じられるので、どうしても独りぼっちであることを意識してしまうようです。
しかし、散歩に出ようとして、ふと閃いたことがありました。うさ伎がいればクリスマスパーティを開こう。そうすれば独りぼっちのクリスマスではなくなる、と思いついたのです。
いそいそと家を出て、うさ伎のいるのとは逆方向の北小金駅南口へ遠回り。ちょっとした買い物をしたので、ついでに東漸寺に寄りました。
買ったのはショートケーキ二つと200ミリリットルの牛乳パック。牛乳を注ぐ容れ物がないと気づいて、プラスチック容器に入ったウェットキャットフード(いなばの魚カップ)を買い足しました。
犬ならいざ知らず、猫がショートケーキなんか食べるかなぁと思いましたが、苺は私がもらうことにして、クリームぐらいは舐めるだろうと考え、ちょっと迷った末、購入することにしたのです。
今日午後の富士川上空です。今冬一番の寒気が入り込んだというだけあって、晴れてはいましたが、風が冷たい。川べりはなおさらです。
うさ伎が日向ぼっこをしている梨畑です。
いるかな? と思いながら坂を上りました。ところが、ガッカリ……。
姿はありませんでした。敷かれていたマットもなくなっていました。
寒いせいか、今日の私の体調はいま少しよくありませんでした。五分ほどあたりをうろつきながら待ってみましたが、姿は見えません。冷たい風が吹く中でいつまでも立ってはいられないので、帰りにもう一度寄ることにしていったん引き揚げました。
香取神社に寄って、相変わらず姿を見せぬ小春のために、ひと摘みの餌を置いて……。
今日の散策の目的地は行念寺。二十一日に行ってお参りし、蜜柑をもらったお寺です。
少し遠いと思っていたお寺ですが、近道があるのを見つけたので、もう一度行こうと思い立ち、結局道を間違えて行き過ぎてしまいました。そのあと再挑戦したのですが、また道を間違えて行き過ぎてしまったので、その日は寄りませんでした。
城址の探索とは違って、すぐ近場だと思うので、地図を持たずに行った結果です。
今日は最大限拡大してプリントした地図を持って出たので、行き着くことができましたが、途中から細い径ばかりでした。
今日は境内には入らず、塀越しの撮影です。本堂前に写っているのは紅梅。すでに花が咲き始めています。
私がお賽銭をあげたお礼に大黒がもいでくださった蜜柑の樹です。食べましたが、大変な酸っぱさでした。種があったので、一袋だけ食べて、あとはプランターに播きました。春になったら芽を出してくれるとうれしいものです。
考えてみると、庭ができたせいで、じつにいろんなものを播いて、芽生えを愉しみにしています。
まてばしい通りで拾った全刀葉椎(マテバシイ)の団栗、我孫子の志賀直哉邸の隠蓑、滝井孝作邸の栗、廣壽寺の公孫樹、各所で集めた無患子(ムクロジ)等々……。先日植えたばかりのスノードロップと桔梗もあります。
行念寺からの帰り、もう一度寄ってみましたが、うさ伎の姿はありません。いつものおやつだけ置いて引き揚げました。
白梅もほころび始めていました。
庭に撒いた五穀に鳩がくるようになりました。一羽だけというのが不思議ですが、ともかく今朝も一羽だけ。雀とは違って私が窓に近づいても、窓を開けても逃げません。
クリスマスパーティが開けず、虚しく持ち帰ったショートケーキと牛乳、いなばの魚カップ二種。
やっぱり今年も独りぼっちのクリスマスになりました。
牛乳と魚カップは近いうちにまた持って行ってやりましょうと思いますが、ショートケーキは持ち歩いていた間に崩れ始めていたので、ワタクシめ一人で食べてしまいました。
昨日は冬至。
銭湯の小金バスランドでは柚子湯だったので入りに行ってきました。
平日は午後四時(日祝日は二時)からですが、三時過ぎにはトートバッグにシャンプーやらタオルを詰め込んで庵を出ました。
歩いて十分ぐらいしかかからぬところなのに、なにゆえに一時間近くも早く出たのかというと、図書館の分館で借りていた本を返すついでに東漸寺に行こうと思ったのと、その前に前ヶ崎の香取神社に寄ろうと思ったからです。
昨日の富士川上空です。
雲一つない快晴でした。冬の雨は一雨ごとに寒くなるのが普通なのに、未明に雨の熄んだあとはポカポカ陽気になりました。
富士川を渡り、無患子(ムクロジ)の樹を見上げ、二日前に気づいたばかりの蝋梅(ロウバイ)を見て、香取神社に向かいました。
暖かかったせいか、前日には数輪だった蝋梅がいっぺんに花を開いていました。
香取神社の裏手、神社の石垣と農地の生け垣に挟まれた細い径に出ると、なんと小春が径を横切ろうとしているのに出会いました。小春を見るのは二十九日ぶりです。いやいや、なんと……ようやく、と思ったら、なんとなく様子がおかしい。
私にはまったく気づかぬ様子で、超々スローモーで歩いているのです。
脚も引きつらせているみたいに見えました。ハテ、被毛は茶色で、小春に違いないと思いましたが、脚が悪かったような様子はありません。
そのまま生け垣に入って、姿が見えなくなりました。
もしかしたら小春ではなかったのかしらん。そう思いながら神社に入り、本殿の背後に廻ってみました。径を歩いていると見えませんが、神社の裏手に廻ると、生け垣の向こうにある畑を見下ろすことができます。
小春がノッソリノッソリと歩いていたのも道理、生け垣の向こうでは初めて見る三毛と睨み合っているところでした。
鞄から日清製粉の懐石を取り出して、音が出るように振ってやると、石垣を駆け上ってきましたが、私の脇を一目散に通過……。なんだ、おやつに釣られてきたのではなかったと、ちょっぴりガッカリした思いで、拝殿のほうを振り返ったら……。
一か月近くも会っていなかったのに、やはり小春は知っていたみたいです。いつも私がおやつを置いて帰る場所へ先回りして待ち構えていました。
懐石は二種類持ってきていました。そのうちの赤い袋に入った「小魚とかにかま添え」を贈呈。
新参者らしい三毛のほうは? と見ると、5メートルほど離れたところまできて、小春が食べているのを見ながら、ちょこんと坐りました。小春に較べると、ほんの少し身体は小さい。こちらには青い袋の「小魚とかつお節添え」を……。
振り返ると、すでに小春はいなくなっていました。おやつはきれいになくなっています。
縄張りはちょうだいするぜ、と宣言したのかどうか、小春が姿を消したあと、三毛はちょこまかと動き廻り、あちこちに身体をこすりつけていました。
再びおやつを食べ終えると、あっちへフラフラこっちへフラフラ。拝殿下に小春の気配でも感じたのか、こんなスタイルで奥を覗き込んでいました。
人懐っこい猫殿でした。私のほうを向いたら写真を撮ろうと腰を落とすと、すぐ近寄ってくるので、ピントを合わせるのがむずかしい。
ピントが合っている、というサインが出たあとにシャッターを切ってもピンぼけ、というカメラなので、家に帰ってパソコンに取り込んでみるまでピントがきているかどうかはわからないのです。
ましてグワーッと間近に迫られてはたまらない。何度か試みましたが、しゃがんでカメラを構えるたびに、レンズの真ん前まで鼻を伸ばしてくる有様なので、写真を撮るのは諦めました。
香取神社から富士川へ降りて行く香取坂の途中に細い脇径があります。
香取神社からは50メートルそこそこのところ。径の左は海の家を思わせるような民家が四軒、右は少し高台になった梨畑です。通り抜けられそうに見えるので、降りてみようかという気になったら、民家が終わるあたりから泥道になっていました。朝の雨でまだ濡れています。
引き返そうとしたら、ニャーニャーと呼びかける声。梨畑に寝そべって、日向ぼっこをしている猫殿がいました。こちらは仔猫です。
香取神社の三毛と同じように忙しく歩き廻る猫殿で、ひとときもじっとしていない。写真を撮ろうと腰を落とすと、おやつを食べるのを中断して私に近寄ってくる。
三毛と違うのは、三毛のほうは近づくたびに身体をこすらせながら私の周りを一周したのに、こやつめは私の前までくると反転して、またおやつのところに戻る。そういう繰り返しです。
それにしても三匹も見るなんざぁ、冬至の日にしては暖かかったので、猫日和であったのかもしれません。
このあと、東漸寺へ ― 。
東漸寺には墓所とは別に古い墓石をまるで五百羅漢のように並べた一画があります。
前日、柏の行念寺で經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんのお墓に出会ったとき、もしかしたら東漸寺にもお墓があり、あるとすればあそこではないかと思ったので、探索に寄ったのです。
大部分は苔むしています。刻まれた字も風化してほとんど読めません。中央に「南無阿弥陀佛」とだけ彫られた墓石があり、もし愚底さんのお墓があるとすれば、その左右どちらかであろうと、近づいてみましたが、ところどころに信士という文字が読めるほかははっきりしません。
どうやら時が経ち過ぎて無縁となってしまった人たちの墓のようです。
墓所に入り、一渡り見回してみましたが、新しい墓石ばかりで、無縫塔も古そうな墓石も見当たりませんでした。
この日はお寺の人の姿は見えなかったので、今度の機会に訊ねてみようと思います。
本土寺とは異なって、東漸寺にはまだ紅葉が残っていました。本土寺に較べると空間が狭いので、若干陽当たりが乏しいのかもしれません。
三匹の猫の相手をしていたので、思わず知らず時間を過ごして、図書館を経て銭湯に着いたのは四時十五分過ぎでした。
プカプカ浮いている柚子をお湯の中に沈めたり、匂いを嗅いでみたり……。家の風呂とは違って、広いのでゆったりと過ごし、立ち上がったり脚を伸ばしたりして身体じゅうを丹念に洗うこともできます。一度に洗えばいいものを、まず身体の前面を洗って柚子湯に……。上がると背中を洗ってまた柚子湯に……。今度は髪を洗って……。
数日前、ダイニングテーブル下の引き戸の中に時代物の雑穀があるのに気づきました。ウェアに詰め替えてあるので、いつのものかまったくわかりません。
で、庭に撒くことにしました。二合分ぐらいあります。
日ごと飛来する雀の数がふえて行くようです。今朝は六羽。人の気配に敏感で、窓は閉め切ってあるのに、私が近づくとサッと飛び去ってしまうので、まだ写真を撮るところまで行きません。
左の白いのが雑穀。右の枯れ枝は前の家に住む糞猫に、トイレとして使われるのを防止するための可動式バリアーです。土を掘り返して柔らかくすると、ほぼ必ず蹂躙されるので、新しく掘ったところにはこのバリアーを置いておくのです。
しかし、今日は風が強い。昼前に庭を見たら、バラバラに解体されて、隣の庭まで吹き飛ばされてしまっていました。
一昨日は暖かな一日でした。午後、散策に出たら、冬のコートを着ていたので、歩きつづけているうちに汗をかいてしまうほどでした。
我が庵から歩いて二十五分ほどのところ-JR常磐線の駅でいうと、北小金と南柏の中間に、行念寺という浄土宗のお寺があります。
二十五分といっても、これはインターネットの地図で最短距離を検索した場合で、これまで歩いたことのない道をクネクネと辿らなければなりません。距離の遠近とは関係はないものの、このへんは市境の入り組んだところで、我が松戸市から流山市に入り、再び松戸市に入るとすぐまた流山、そしてようやく柏市に入って行念寺に到るのです。
道を間違えずに行こうとすれば、北小金駅まで逆行し、そこから旧水戸街道を歩くことになるので、四十分はかかります。
小さなお寺なので、とくに見るべきものはありません。ここだけを目的に、往復一時間半近くもかけるのは少し億劫です。
が、ちょっとした因縁が生まれたので、お参りに行かなければならない、という気になっていました。
改めてインターネットの地図を見て、先のように近道があるのを発見しました。常磐線と国道6号線を渡れば、すぐという感じです。しかし、常磐線は跨線橋かガードがなければ渡れないので、これが面倒だし、面倒と思ってしまうことが道を間違える元です。
富士川を辿ったときにくぐった砂尾ガードで常磐線を越すので、小春の出没する前ヶ崎の香取神社に寄って行くことにしました。しかし、この日も小春の姿は見えませんでした。
拝殿の欄干下に、日清製粉の懐石を置きました。キャッティより高級なので、小春が驚き、喜び勇んで食べる様子が目に浮かぶようです。
神社の少し手前の畑地で蝋梅を見つけました。七本ありましたが、まだ数輪咲いているだけです。
砂尾ガードをくぐって常磐線を越え、頭の中にたたき込んだつもりの地図を思い返しながら、脇道に入りました。途中で右に折れて旧水戸街道のほうに向かう道がなければいけないのに、行き止まりのように見えたので、曲がらなかった道が二本。
そうして、なんか見覚えのあるところに出たぞと思えば、行念寺を600メートルも行き過ぎた向小金の香取神社でした。北小金駅まで逆行するよりは早かったけれど、所要時間は結局三十分をオーバー。
境内に入るとすぐ左にこのような石碑が建てられています。
以前、南柏から旧水戸街道を歩いて帰ってきたとき、たまさか前を通りかかってこのお寺があることを知りました。小さく、本堂もコンクリート造りだったので、門前を行き過ぎようとしたところ、この石碑が見えたので、どんなことが刻まれているのか、と思って入ってみたのでした。
そのときのブログ(十一月一日)にも記しましたが、碑文には東漸寺の開山・經譽愚底(きょうよ・ぐてい)という人がすぐ近くにある常行院、柏市鷲野谷の醫王寺とともに開いた寺院であると刻まれています。
鷲野谷の醫王寺にはちょっとした因縁があったので、そのうち行かなければ、と思っていたところ、予期しなかった場所で因縁の名に出会って、早速行くことになったのでした。
醫王寺には早晩行ったのではありましょうが、このお寺の石碑を見て、すぐに行こうと思いついたわけですから、お礼参りのようなことをしておかねばならぬと考えながら、ついつい先延ばしになっていました。それを果たしに行ったのです。
改めて碑文を読んでみました。前は「醫王寺」という文字が目に入って、恐らく意表を突かれたのでしょう。そのすぐあとに經譽愚底さんの無縫塔がこの墓所にある、と刻まれているのを読み飛ばしていました。
もっとも初めてこの碑文に接したとき、私には經譽愚底さんへの関心はなかったのですが……。
墓所もこぢんまりとしているので、古そうな墓石はすぐ見つかりました。
卵形をした無縫塔の下、竿と呼ばれる四角い石には「當寺開山經譽愚底上人墓」と彫られています。
碑文には、上人の「無縫塔」と記されていますが、「墓」とは記されていません。墓は醫王寺にあると知らされていたので、軽い驚きと戸惑い。
されど、考えてみれば、複数の墓があるのは決して不思議なことでもない。
この日、私は一束のお線香を持ってきていましたので、焼香して、因縁を結びつけてもらったことを感謝しました。
墓所を出て本堂に近づこうとすると、並びの庫裡からチビ犬がキャンキャン吠えながら走り出てきました。
いきなりだったのでびっくりしましたが、おもむろに体勢を立て直して、蹴飛ばすぞ、という意欲を持ちかかったとき、庫裡からは犬をたしなめる女性の声につづいて、「驚かせてすみません。でも、噛みついたりはしませんから……」という声。
やがて大黒らしきご婦人が「すみません、失礼をして……」と謝りながら出てこられました。犬(私が見たところ、トイ・マンチェスター・テリア)はご婦人の胸に抱かれてなお私に向かって吠えつづけています。
ご婦人が庫裡へ戻ろうとしたので、「お賽銭をあげたいのですが……」と問いかけました。本堂前には賽銭箱が見当たらなかったのです。
「ご覧のような小さなお寺で、お参りしてくださる方もおりませんので」
そういうあとをついて行くと、硝子張りの扉に小窓が切ってあって、その向こうに賽銭箱がありました。
お参りを終えると、庫裡に帰ってしまったと思ったご婦人が木陰から姿を現わしました。手に持っていたのは小さな蜜柑の実二つ。今年初めて実をつけたものだということです。「どうぞ、お持ち帰りください」と私に差し出します。
行くアテなどないのですが、昔々行ったことのある京都東山の安養寺。ここは浄土宗の開祖・法然上人が比叡山を下りたあと、最初の草庵(吉水草庵)を結んだお寺です。そこにお供えしたいものだと私がいうと、「どうぞ、おなかにお納めください」。
ほのぼのとした気持ちになりました。
旧水戸街道を南柏駅まで歩き(行念寺からは二十分弱かかりました)、ダイソーを観察したあと、タリーズコーヒーで一服しました。
手で触れる形式の自動ドアを開けると、一斉に「いらっしゃいませ、こんにちは~♪」と黄色い声の三重唱が私を迎えてくれました。二十代前半の美女ばかり三人と見えました。店内は西日が射し込んで、とりわけ明るかったこともあって、私は眩しいような気持ちになってしまいました。
ケンタッキーフライドチキンやロッテリアは最近こそあまり行きませんが、よく入ったことがあるので、どんな種類の食べ物と飲み物があり、壁に掲げられたメニューの、どのあたりに自分が食べたり飲んだりしようと思っているものがあるのかわかっていますが、滅多に行かない(というよりも近場に店がない)タリーズやエクセルシオール・カフェのたぐいは、メニューを見てもすぐには判断がつきません。
やっとコーヒーと書かれているのを我が目で認めて、大(トール)を頼むと、注文を受けたお嬢さんが「トール・ドリップ」と叫び、どこからか「トール・ドリップ」、それを承けてまた一人が「トール・ドリップ」と三人で輪唱してくれます。
私が立ったところからは品名が隠れていて読めなかったので、「それから、一番左にあるサンドイッチを……」と頼むと、また「なんとかかんとか」「なんとかかんとか」と三人の輪唱です。
まだ私が若かったころ、私が行くような店で、多数の若いお嬢さんが接客してくれるのは酒場だけだったように思います。必ずしもそういうお嬢さんが目的で行くのではないけれども、行けばいるとわかっているので、私がシートに坐るやいなやゾロゾロとお出ましなさるのに、別段驚きもしないし、緊張もしない。しかし、このような喫茶店だと私は眩しくて仕方がない。ま、あと一、二回、行く機会があれば慣れるのでしょうが……。
席に坐ってコーヒーにミルクを入れ、少し落ち著いたところで厨房のほうを見ると、美女ばかり三人と思ったクルーが、美女ばかりと表現していいものかどうか……と思えるようになります。されど、私の緊張は解けません。一服してリラックスするために入ったはずの店で緊張していたのでは、なんのために入ったのか、わけがわからない。わけがわからないから、二度と行かないぞという店ではない。私は六十を過ぎて、ますます晩熟(おくて)になって行くようです。
願わくばこういう若いお嬢さんとお寺の話でもしたいものだ、と思いながら店をあとにしました。
本土寺はこの十五日から来月末まで無料開放となりました。名高い紅葉はほとんど名残もありません。山門や鐘楼堂では大掃除が始まっていました。
広い境内に、ほんの二本か三本、紅葉を残している樹がありました。残り香ならぬ残り紅葉というのも佳いものです。
行念寺さんでいただいてきた蜜柑です。本当に小さくて、小さいほうは直径5センチもありません。
戸張城址探訪ではちょっと苦闘した地図。実地踏査したあとで改めて眺めてみると、土地勘が得られたためか、城址があるとは記されていない市販の地図(一万五千分の一)でも、場所の見当がつけられるようになりました。
二日前の土曜日、その地図を基に増尾城址と大井追花(おっけ)城址の探索に出ました。戸張城址探訪に出た日、あとで訪ねようと思っていながら、なんとなく気力が削がれて、行くのをやめてしてしまったところです。
増尾城址は公園になっているので、市販の地図にも載っています。広そうな道路沿いにあるようだし、曲がるべき交差点にはキグナスのガススタンドがあるようなので、まず道を間違える心配はなさそうです。
大井追花城址は市販の地図には載っていませんが、場所の見当は大体ついています。
問題は増尾城址を見たあと、どの方角を目指して歩けばいいのかがわからなくなることなので、ポケットにコンパスを忍ばせました。
常磐線で柏まで行き、東武野田線に一駅だけ乗って新柏駅で降りました。
新柏駅前にあった文化財巡りの案内図。
片栗(カタクリ)の群落があるので、「カタクリコース」と呼ばれているようです。群落があるのは新柏からさらに二駅船橋寄りの逆井(さかさい)駅近く。
来年、桜の蕾がふくらみ始める季節になったら訪れてみようと思います。
新柏から徒歩二十分。予定どおりキグナスのある交差点を右に折れてしばらく歩いたところ-駅前の案内図に大公孫樹(オオイチョウ)のある法林寺というお寺が紹介されていたので立ち寄りました。
葉はすべて落ちていましたが、公孫樹は遠くからでもよく見えて、すぐにわかりました。真言宗豊山派の寺院で創建は慶安三年(1650年)。
柏市内では第一の巨樹といわれる大公孫樹です。
樹高30メートル、根周りは14メートル以上。言い伝えでは樹齢六百二十年。
康応年間(1389年ごろ)のこと、越後から托鉢にきていた比丘尼がこの寺に立ち寄って、一夜の宿を求めたのだそうです。
翌朝出立のとき、比丘尼は公孫樹の実を取り出し、「なんのお礼もできないが、この実を播くように」といって立ち去りました。
その実がこの公孫樹で、毎年豊かな実を実らせるのでしょう。このあたり一帯は大飢饉に見舞われたことがあり、村に食べるものがなくなったとき、村人たちが飢えを凌げたのはこの公孫樹の実のおかげだった、という話も伝えられているそうです。
法林寺の東門に当たる苦抜きの門。
江戸時代、このあたりは駿河田中藩(静岡県藤枝周辺)の領地であったそうですが、飛び地なので管理をするためにあった代官所の門です。領民たちはこの門を抜けられれば、苦しみから抜けられるというので、このような俗称で呼ばれるようになりました。
明治の廃藩後、代官所が廃止されたのに伴って、代々筆頭手代を勤めた家に移されたあと、このお寺が譲り受けたということです。
法林寺本堂。
法林寺から七分ほどで増尾城址公園に着きました。
公園は二つに分かれたような形につくられ、バーベキューができる広場などもあって非常に広いのですが、城そのものは東西180メートル、南北150メートル、主郭と副郭の二郭だけという構造で、それほど大きなものではありません。
増尾城が築かれたのは、いまから七百年以上も前という言い伝えがありますが、それを裏付ける史料は何もないようです。実際には五百年前の戦国時代と推測されています。かといって、誰が築いたのかははっきりせず、小金城主・高城氏の家臣・平川若狭守が城主だった時代がある、ということがわかるぐらいですが、これとても言い伝えの域を出ません。
増尾城副郭跡。周囲を取り囲む土塁がかなり完全に近い形で残されています。
増尾城の縄張り(副郭にある説明板から)。
主郭跡。
主郭(右側)と副郭を仕切る土塁。
増尾城址公園に隣接して増尾湧水がありました。
城址公園の森に降った雨が湧き出しています。千葉県の代表的な湧水の一つとされていて、かつては非常にきれいな水だったそうですが、いまでは飲むことができないほどに汚れています。見たところ水の流れはほとんどありませんでした。
増尾城に対して、大井追花城のほうはいまでは影も形もありません。
手賀沼に注ぐ大津川に沿ってしばらく歩いたあと、国道16号線をくぐるガードを抜けると、右手にはいきなり台地が迫っていました。地図では城址は国道のすぐ脇ということはないので、もう少し先です。
舌のように突き出した台地(舌状台地)がポコポコとあるのが目に入ってきます。
これではどの台地に城があったのかわからぬぞ、と心配になるところですが、今回は心配無用。一度通り過ぎることになりますが、城址のある台地の先、谷を一つ隔てた高台には妙照寺という寺院があり、市販の地図にも記載されているからです。
ここが追花城のあったところらしい、と思った台地の先に高い石垣が見えました。どうやらその石垣が妙照寺のようだと見当をつけると、進むのにつれて卒塔婆と墓石が見えてきました。車の出入りがあるところを見れば、かつての谷を利用した道路があるようです。
妙照寺本堂。総檜だそうです。
日蓮宗の寺院。弘仁年間(810年-24年)の建立。当初は真言宗寺院でしたが、正応元年(1288年)、日蓮宗に改められる。
山門を入ると右手に聳える大杉。
柏市の説明板がありましたが、樹高は記されておらず、目通り(目の高さ)幹周約5・7メートルとあるだけでした。樹齢四百年。
境内に入ったときから猫の鳴き声が聞こえていました。見渡しましたが、どこで鳴き声がしているのかわかりません。
私が本堂を写真に撮り、大杉を撮っている間も鳴き声は熄みませんでした。
目的を果たしたので、所在を突き止めてやろうと声のするほうへ歩いて行くと、植え込みの松の木陰になった暗いところにこの猫殿がおりました。
忘れずミオを持っているので、置いてやるとカリカリと小気味のよい音を立てて食べ、食べ終わると、流山の天形星神社で見かけた黒猫殿と同じように、身体を伸ばして見せてくれました。
高圧線の鉄塔のあるあたりが追花城のあったところだと考えられています。
見たところ民家の私有地のようでもあり、大体において林の中に入って行けそうな径がありません。画像は台地を下り切るあたりでカメラに収めたもの。
大井追花城址下から見た戸張城址。中央やや右寄りに突き出して見えるのが文京区立柏学園の建物です。二つの城の隔たりは大津川という川を真ん中に挟んで、700メートル足らずしかありません。
戸張城の城主が定かではない中で、ただ一人名前の判明している戸張弾正忠という人が城主だったころ、大井追花城の城主は高城某(こちらは不詳のようです)で、常に敵対関係にありましたが、雌雄を決せんという合戦のとき、互いに取っ組み合ったまま泥田に落ちたので、短刀が抜けず、どちらかが相手の鼻を噛み切ったという言い伝えがあるそうです。
それが尾を引いたものか、これほど近いのに、戸張地区と大井追花地区の住民は近年まで、婚姻はおろか職人の交流もなかったといわれています。
ところで、追花と書いて「おっけ」と読む地名。なにゆえに妙な読ませ方をするのかと興を覚えたので、調べてみるつもりです。
手賀沼に注ぐ大津川。
増尾城址から大井追花城址に向かう途中、1キロほど上流で一度この川を渡っています。そこでは私がいつも歩いている富士川よりほんの少し大きな川、と思えたのですが、1キロ下ると、なんと四~五倍はある流れに変わっていました。
川を渡ってしばらく歩くと、前回無患子(ムクロジ)の樹を見た正光寺がありますが、この日は寄らず、戸張のバス停から柏駅までバスに乗りました。
→この日歩いたところ。戸張から柏駅まではバスを利用。
昨朝は異様に寒いと思って我孫子のアメダスを見たら、午前七時の気温はなんと氷点下1・5度でした。今朝はほんの気持ちだけ寒さは緩んだものの、氷点下であることは変わりません。
身体が突然襲ってきた寒さには慣れていないので、二日つづけて朝の散策は取りやめ。待ち遠しい思いで朝日が当たるのを待つ毎日です。
我が侘住居(わびずまい)は皮肉なことに、夏の朝は早々と陽が当たってコリャ敵わんと思うのに、冬は前の家の二階が邪魔をして、八時過ぎにならないと、お天道様にはお目にかかれないのです。
昨朝はカーテンを開けると、庭が真っ白でした。まさか雪ですか? と思ったら、初霜でした。プランターの水遣り用に置いてあるバケツにも初氷が張りました。
家に閉じこもって寒さに耐えているより歩くべしと思って、昨日、久しぶりに城址の探索に出ました。
目的地は前から行ってみようと思っていた柏市の戸張城址です。
書籍形式の地図ではどの程度離れているものか、距離感がつかめないのですが、できればそのあとに大井追花(おっけ)城址、増尾城址と足を延ばすつもりでした。増尾城址だけは公園になっていて、私がいつも持って歩く地図に記載されていますが、他の二つは記載されていないので、どこにあるのかわかりません。
幸いなことに城址巡りをしている先達のホームページに、それぞれの地図がありました。
ただ、この地図は拡大され過ぎていて、目的地近くまで行ければ、微に入り細を穿っているので重宝しそうですが、そこに辿り着けるものかどうか。
常磐線で北小金から二つ目・柏駅で降り、七~八分で長全寺前を通過。
この山門だけは風情が感じられていいと思いますが、伽藍はどれも新しいし、一度参詣しているので、この日は山門だけカメラに収めて素通りです。
柏駅から徒歩二十五分。
柏学園前というバス停を過ぎ、そろそろかなと思ったところに香取神社があったので、参詣に立ち寄りました。
広々としていた道は徐々に狭くなり、狭いのに交通量はそこそこあるので危なっかしく、地図を見るために立ち止まる余裕がありませんでした。
結構長い参道のある神社です。この神社に到って初めて先達の残してくれた地図を開きました。
戸張というバスの終点があるので、そこまで行って……と思っていたのに、戸張城址を示す地図を見ると、通過してきたばかりの柏学園の手前に城址があることになっています。
かなり歩かなければならないと覚悟していたのですが、意外に近く、すでに行き過ぎてしまったではないか、と引き返すと、城址がありそうなところには日本橋学館大学のキャンパスがありました。
どんな大学なのか知識はありませんが、それなりの広さを持ったキャンパスのようなので、地図に載っていてもいいはずです。しかし、地図には記載がない。たったいま行って、引き返してきたばかりの香取神社も載っていない。
変だぞ、と思いながらバス通りを折れ、三分ほど歩いて柏学園の門の前に着きました。
道は門の前で直角に折れ曲がって下り坂になっています。この下り坂の先に城がある、ということだと、城が高台ではなく、谷底にあるというのはおかしいので、しばし門の前に佇んで地図と睨めっこです。
歩いているときは、風の強さや冷たさはあまり感じませんでしたが、地図をめくっていると、風は結構冷たいし、強い。
やがて指がかじかんできて、コートのポケットに入れていた携帯用のルーペを取り出すのがもどかしくなっていました。地図と一緒にプリントしてきた記事に目を通すと、目印は国道16号線の柏隧道脇の上り坂、とあります。
国道16号? 柏駅から何本か道路を横切ってきたけれど、そのうちの一本が国道16号であったのだろうか。それに、トンネルの近くなど通っていない。どこだかわからないが、また見当違いのところを歩いてきたようです。
今度は市販の地図を見ると、最後に横切った広い道路が国道であったようです。「戸張入口」という交通標識を見ながら、確かに長い信号待ちを強いられた交差点でした。
戸張入口の交差点まで戻り、そこからおよそ十分。道が下りになって、前方にトンネルとトンネルの上に上って行く道が見えてきました。
トンネル上からの眺め。
国道が走っているところは台地を切り崩したものか、元々低地だったのかわかりませんが、城を築き、物見をするのには佳い高さです。ただ、このあとに行ったところが主郭だったとすると、右手にある台地が北東から北西の方角の視界を遮ってしまいます。
さて城址はどこかと思いながら歩いて行くと、学校らしき門が見えてきました。近くまで行くと、今度こそ地図に載っている柏学園です。
ということは、トンネルの上から歩いてきた径の横が城址、ということになる。しかし、そこは柏学園の敷地のようで、金網が張ってあって、入れそうもありませんでした。
柏学園正門(?)前に建てられていた地図。非常に大雑把で、わかりにくいが、どうやら城址はこの学園の敷地内にあるのは間違いないようです。しかし、正門は固く閉じられていました。
城主らしい人物として名前が出てくるのは戸張弾正忠という人です。が、この人が何者なのか、戦国時代の人というほかは皆目わかりません。
戸張という姓氏は千葉氏三代当主の常胤の次男・師常(1143年-1205年)が相馬氏を称し、その八男(三男説もある)八郎行常(生没年不詳)が戸張氏を称したのに始まるとありますが、戸張という名が史料に登場するのは南北朝期に入ってからです。
生没年不詳といえど、父・師常から類推すれば、十二世紀に生まれたはずの戸張氏が七、八十年も史料に登場してこないというのは、本当かどうか、「?」です。
戸張氏は先に通過してきた長全寺の大檀越でありながら、何かの理由があって、いまの埼玉県吉川に移り、ために長全寺が荒廃してしまったということもあるので、整理しようと思っているのですが、いかんせん室町末期の関東はややこしいのです。
北条でもないのに北条を名乗る早雲が出てきたり、上杉でもないのに上杉を名乗る謙信が出てくるので、ますますややこしい。
まあ、いまでいうところのM&Aの走りか、といえばいえなくもないのですが……。
ややこしい上によくわからないので、城址探索で出かけてきたはずの私の興味は別々の場所に、しかもそれぞれが広い敷地を有する柏学園とはそもそも何かということに移っていました。
しかし、出先では何もわかりません。庵に帰って調べてみたら、文京区立の小中学生の移動教室として使われる校外施設のようです。そして調べるまで気がつかなかったのですが、先に見たのは「中央区立」、あとで見たのが「文京区立」と、名前は同じ「柏学園」でもまったくの別物でありました。
学園敷地の中。空堀跡らしきものがあると感じたのですが、門が閉じられていたので、鉄門越しに撮影しました。
台地を下って手賀沼側から見た戸張城址です。台地の高さは標高15メートル。
城郭としての構造が単純でもあり、視界が限られている(北東から北西にかけて見晴らしが効かない)こともあり、本拠は別にあったのではないかと考える人もいます。
ここに何かの文化財があるというわけではない。次の標識まで100メートルとだけ記された、なんだかよくわからない標識です。
戸張城址を見ることができないと判明した時点で、寒くなってきたこともあり、私は探索を継続する気をなくしていました。先の地図に「正光寺」というお寺があったので、このお寺に寄って帰ることにしました。
「→正光寺」という標識があったので、従って行くと突き当たり。
右か左かと見回せば、左手の上り坂の途中に「→正光寺」の標識。見上げれば、スイッチバックする形で、さらに上り坂がありました。
果たしてどんなお寺が現われますやら、と坂を上り詰めたら、建て直されたばかりと思える本堂が見えて、正直なところガッカリしました。
しかし、高く聳えている樹はもしかしたら……。
と、思って近寄ってみると、ムクロジ(無患子)でありました。
門柱で真言宗豊山派のお寺ということがわかるほか、このお寺の由来を示すものは何もありません。本堂前まで行ってみましたが、寺務所は無人のようです。これも庵に帰ってから調べてみましたが、創建がいつかということもわかりません。
ただ、私にはムクロジの樹があったことだけで充分でありました。かなりの高木ではあるけれども、幹の太さからいって、それほどの樹齢ではない(といっても、何年ぐらいだか見当もつかないのですが)。
お釈迦様は百八つのムクロジの実を糸で繋いで数珠をつくることを勧めておられます。だから、お寺にムクロジが植えられているのはむしろ当然といっていいのかもしれませんが、私が最初にムクロジがあると知ったのは流山の観音寺でした。
実物を最初に見たのは北上尾にある龍山院でした。次に見たのは光明院が別当寺になっている流山の赤城神社。そして流山・福性寺といずれも真言宗のお寺で、いまのところはそれ以外の宗派のお寺では見ていないのです。
真言宗とムクロジとはいわく因縁があるのかもしれません。
遠くから見て、もしかしたらムクロジではないかしらんと思って近づくと、やはりムクロジであった、と実感できるのはとてもうれしいことでした。
真冬-葉も実も落ちてしまった状態だと判別できるかどうかわかりませんが、少しでも葉が残っていれば、ムクロジだとわかるようになりました。欅(ケヤキ)などと違って、ムクロジの樹形は一本一本がまったく異なっているのです。
樹にはほとんど実が残っていませんでした。目を落とすと、いくつか落ちていましたが、どれもすでに土に同化しかかっています。
誰もいないのを幸いに腰を落としてじっくりと眺め回したら、一つだけまだきれいな実があったので、もらって帰ることにしました。
お寺の坂道を下って元の道に戻り、そのまま上って行くと、戸張のバス停がありました。
陽射しがあって暖かいと感じても、午後二時を過ぎると、冷たい風が立つようになります。ちょうどバスがきていたこともあり、柏駅までの帰りはバスの人となりました。
冬は始まったばかりです。
始まったばかりですが、我が地方では、日の入りの時刻が一番早かったのは十一月二十九日から今日十三日までの十五日間。明日十四日から日の暮れる時間が少しずつ遅くなって行くのです。
スノードロップの球根がないものか、と花屋さんを見かければ覗いていましたが、売っているところはありません。
インターネットで調べてみると、手に入ることは入ります。どのショップも六球から十球で¥500~¥800ぐらい。それが高いと感じたのではありません。¥500のものを買うのに、荷造り手数料&送料が¥850となっているのを知ってバカらしいと感じたので、注文しようと思いながら逡巡していました。
で、花屋さんを見かけては入ってみるのですが、チューリップや水仙は置いてあっても、目指すものはないのです。
かなり前のことですが、インターネットオークションというものが始まったばかりのころ、弁当箱に凝っていたことがありました。
たまたま会津塗と木曽檜の曲げわっぱがオークションに出たことがあって、応札したところ、めでたく二つとも落札することができました。
価格はいくらであったのか、もう憶えがありませんが、弁当箱そのものはデパートやその種の店で求めるより安かったと思います。
ところが、荷造り手数料、送料を合算すると、遙かに高い買い物になってしまったのです。ネットショッピングに不慣れなころでもあったし、欲しいと思ったものですから、素直に買いましたが……。
サカタのタネは送料を取りません。桔梗とハーブの種子を買ったので、季節ごとにカタログを送ってきます。桔梗とハーブの種子などたいした金額ではなかったのに、カタログとその郵送料で、私に関する限り、サカタのタネは赤字です。
ここで売ってくれていれば、なんの問題もなかったのですが、あらゆる種子、球根のたぐいを揃えているように思われるのに、不思議なことにスノードロップはないのです。
タキイ種苗のホームページも覗いてみましたが、ここも扱っていない。特別変わった花でもないのに、不思議なことです。
日光御成道の川口宿を訪ねた帰り、川口駅に向かって歩いていたら、偶然ケーヨーデーツーというホームセンターの前を通りかかりました。入口に広い花売場があって、パセリを見つけたので買ったことがあります。ここなら置いてあるかもしれぬと思って電話をしてみたら、一種類だけですが、あるとのことです。それも六球入りで¥298。
ただ、川口まで行くのもなぁ、と思ってしまいます。交通費を考えてみると、荷造り手数料&郵送料より高くなってしまうのです。
ケーヨーデーツーは千葉県内にたくさん店があります。しかし、車を持たぬ私には行きにくいところばかり。多少の遠出なら厭わないと思っても、駅から歩いて行けるような店はありません。
偶然です。今年三月の自分のブログを見ていました。これまた偶然に證誠院(しょうじょういん)というお寺の名前を耳にして、確か行ったことがあるが、どこにあったのだろうと検索していたのです。
昭和に入ってからできたというまだ新しいお寺で、本堂の屋根瓦に寺紋があるが、画像の解像度が悪いので、見えない云々ということを私は記しています。確かに見えない。元の写真はどうだったであろうか、とカメラのデータを捜してみました。
そこに證誠院を出たあとに撮ったケーヨーデーツーの画像がありました。
思い出しました。オヤ、珍しく駅から近いところに店があるわい、と何気なしに写した画像です。道路を挟んで、證誠院の真ん前、新京成電鉄のみのり台駅から歩いて五分ほどのところです。このころ、ホームセンターで買うべきものもなかったので、記憶からはすっかり欠落しておりました。
電話番号を調べて電話を入れました。一種類だけですが、置いてあります、との返辞。いそいそと出かけました。二日前の土曜日のことです。
ついに手に入れました。球根売場がなぜか二か所に分かれていたので、随分捜しましたが……。
うれしいうれしい、とウキウキした気分で帰路に着きました。
みのり台から武蔵野線の新八柱までは新京成でひと駅です。くるときは電車に乗ってきましたが、陽射しもあって暖かかったのとウキウキ気分でもあったので、帰りは歩くことにしました。
みのり台駅の近く、新京成の踏切際でこんなものを見つけました。流山の農村地帯を歩いていると、時折鳴いているのを耳にすることがありますが、ここは町中です。
? と、思えば、飼われているのではありません。ペットショップでした。
烏骨鶏(うこっけい)です。
暗いところに黒いもの……なので、なんだかよくわからない物体ですが、これも烏骨鶏。
画像左は鶉矮鶏(ウズラチャボ)。トリオで¥20000の標示がありました。トリオ、ということは、多分♂一羽、♀二羽の組み合わせだと思われるのですが、三羽いるようには見えません。
画像上の左は糸毛矮鶏(イトゲチャボ)。羽毛が烏骨鶏に似て糸状になっているところからつけられた名前。下は碁石矮鶏(ゴイシチャボ)。白と黒の斑(まだら)で碁石のようなことからつけられた名前。
エール(アイルランド)に移住して、じゃが芋栽培をしながらエールで朽ち果てる、というのはとても叶わぬ夢となりつつありますが、万々が一、実現できるとしたら、鶏を飼うというのもいいなあ、と思いながら眺めておりました。
庵に帰って、早速プランターにスノードロップを植えることにしました。
これはスノードロップと一緒に買った五月雨(白と紫混合)の桔梗。来春芽を出すまではプランターに植えておきます。両方ともめでたく花を咲かせてくれるでしょうか。
これは北小金へ戻ってきて、サティに寄って買った日清製粉の「懐石」。
前ヶ崎・香取神社の小春に、キャッティを一回当たり50グラム与えるとすると、まだ二十回分ぐらい残っています。しかし、毎回同じ味では飽きるだろうと思って買うことにしました。年末の特別セールで、幾分安かったのと、何よりウキウキ気分だったので……。
早速……と思ったのに今日は雨。おまけにかなり寒い。出かけるのをためらっているうちに薄暗くなってきてしまいました。
昨日はまた湯島まで通院。八時という早い時間に行かなければならないので、朝の寒さが堪えます。昨冬までは私も毎日毎日こういう寒い中を通勤していたのが夢のようです。
何が原因であったのか不明ですが、一時的に低下した血色素数とヘマトクリットは正常に戻っていました。ただ、リンパの循環障害のほうは依然として「可」とはなりません。次の通院は年明けの一月六日ということになったので、また手提げ袋にいっぱいの薬をもらって帰ってきました。
今週も通院帰りはどこにも行きません。
まっすぐ北小金に戻ってきて、小春がいないかと香取神社に行きましたが、今日は本殿後ろで落ち葉焚きをしていました。
私が境内に入ったときには煙が燻っているだけで、人の気配はありませんでしたが、やがて誰かが様子を見にくるでしょう。
多分おじさん(見たことはありませんが)だろうと思い、毎回きれいになくなっているキャッティも、もしかしたらおじさんの手で片づけられていたのかもしれないと考えました。欄干下もきれいに掃き清められていたので、キャッティは置かずに帰ることにしました。
神社に向かって香取坂(富士川から常磐線沿いに上って行く、勾配は緩いけれども長い坂で、名前は私が勝手につけたもの)を上っているとき、散策時にときどき見かける二頭の♂のコリーと、散歩させているご婦人とすれ違いました。
見かけるのはドッグランにいるときだったり、富士川を挟んでいたりで、間近ですれ違うのは初めてです。
いつも離れているので、会釈するだけです。もちろん言葉を交わすのは初めて。両君を間近に見るのも初めてです。
ときどき見かけてはいたものの、私が一番知りたかったのは、果たして二頭がコリーかどうかということでした。ボーダーコリーやシェトランドシープドッグは見かけるけれども、最近本物のコリーは見かけません。
住宅事情のせいでしょうが、見かけるのは小型の犬ばかり。小型化すればするほど、おのれの分際を忘れるようで、無闇やたらに人や大型犬に吠えかかったりする。
こちらが相手を認めているときに吠えられるのなら、「蹴飛ばしてやろうか」と身構える余裕があるのでまだいいけれども、偶然通りかかった民家の庭先などで突如横合いからキャンキャンやられるのは心臓に悪い。
私にとって、「犬」とはコリーや秋田犬クラスと同等か、それ以上に大きい物体をいうのであって、こういうのには「犬」とは別の名前を考えてもらいたい。
― すぐ話が脱線します。
コリーといえば、子どものころの人気テレビ番組「名犬ラッシー」が甦ります。
ラッシーはいま流行りのゴールデンレトリーバのように、輝くような茶色でした。コリーといえば茶(実際はセーブル・アンド・ホワイトというそうです)、というイメージがあるのですが、この二頭は一頭は黒白、もう一頭は灰色をしているので、コリーか? と疑問に思っていたわけです。
で、立ち止まりざま、「コリーですか?」と訊ねたのです。
ご婦人の答えはまさしくコリーでした。体毛の色がまったく異なっているのに、二頭は兄弟ということでした。なんといわれたのか聞き取れませんでしたが、灰色のほうは劣性遺伝だそうで、わざわざ目を見せてくれましたが、目が青い。これも最近はとんと見かけなくなったシベリアンハスキーのような目をしていました。
私はこのあと、小春に会って家に帰るだけですから、時間はいくらでもありましたが、ご婦人は向かっている方向からしてドッグランに連れて行く途中だったのでしょう。もっと訊ねたいことがあった、というよりは私に近寄ってきた灰色にタッチしたりしたかったのですが……。
数日中にまた会えるでしょうから、今度は一緒に歩きながら、縷々お話をすることにいたしましょう。
画像があれば細々と説明する必要もないのですが、写真を撮っていいか、と切り出しそびれたので画像が載せられなくて残念、と思っていたら、二か月以上前、ドッグランで見かけたときの画像があるのを想い出しました。
しばらくこなかったうちに、無患子(ムクロジ)の葉はすっかり散ってしまっていました。実のほうは? というと、初秋に道路に敷き詰めたように落としていたのに、まだいっぱい生っています。
これは我が庭の無患子殿。形だけは四方に拡がっていた枝は、先日の強風で一枝だけ残して吹き飛ばされました。
午後だったので、陽射しを受けたスノーマンの自画像は富士川の対岸にできました。
はるじ殿からのコメントでネリネ(ダイアモンドリリー)の名前がわかったので、自分の家の花でありながら、名前を憶えられない、といっていた奥さんと顔を合わせることがあれば教えてあげようと思ったのですが、私が通りかかったときは、外出中だったようです。
お日様が好きな人のようで、陽光があるときに通ると、いつも二階に布団が干されているのに、この日はカーテンも閉められていたので……。これも今度の機会に……。
♪人づきあいなど苦手な俺だが……(と、一節太郎の歌に合わせながら)、こうして少しずつ地域社会に溶け込もうとしています。
貝殻草 ― 。黒ずみ始めた花がチラホラありますが、まだ咲いていました。
冬至までまだ日にちがありますが、柚子湯に入りました。鰤大根に使った柚子の果肉が残ったままだったので、有効利用したのです。
寒くなってきたというのに、目覚める時間がどんどん早くなってきます。未明に目覚めると、しばらく横になったままでNHKラジオを聴いています。
数日前、番組では柚子湯が話題になっていました。投書かメールで寄せられたお便りに答えて、女性アナウンサーが「柚子湯は温まりますよね」などといっている。
ふうむ、あなたも恵まれた体質をしておるのう、などと思いながら聴いていました。
私は発売されたばかりらしい、白元の汗だしトウガラシと汗だしショウガという入浴剤を買ってみたのですが、額から汗が出るほど湯船に浸かったあとでも、両肩のあたりは嘘寒いままなのです。
柚子湯に入ったものの、暖まらないことは一向に変わりがありません。
新松戸にある社会保険事務所へ行く用ができたので、行き帰りとも歩いて行ってきました。
行きは最短距離と思われる道を選んでおよそ二十五分。帰りは前にも寄ったことのある北小金の八坂神社に寄り道しようと思ったのと、新松戸から北小金に帰るためには、どのみち坂か石段を上らねばならぬので、あの道を通ってみようと思って、遠回りをしました。
これは行きに下った石段です。こんなところを上って帰ると考えただけで、心臓に悪い。
あの道 ― というのは、新松戸駅の裏手すぐに迫っている高台を上って行く道です。
しばらく眺めていませんが、勤めを持っていたときには自然と毎朝目に入ってきた丘です。武蔵野線の西船橋方面行のプラットホームに上がると、正面に見えるのです。
中腹からてっぺんにかけて蜜柑園があって、いまの季節はオレンジ色に輝いているはずです。その蜜柑園の間を縫って上って行く坂があるのです。
まだ新松戸の住人だったころ、暑い季節に通った記憶がありますが、いまの季節に通るのは多分初めてです。
気をつけて見ると、一本一本に○○様△△様と書かれた札がぶら下げられていました。
そうか、蜜柑園には違いないが、こういうシステムだったのか。
しかし、注意して眺めてみても、一本いくらするのかとか、どこへ申し込んだらいいのか、それにこの蜜柑園の名称も……。どこにもありません。
すっかり摘み取られた樹もありますが、オーナーがなかなか休みが取れないのか、まだたわわに実った樹もありました。
この門の奥に農家があるようです。市民農園のたぐいだと、現地にはシステムに関する標示は何もない代わり、インターネットで募集していたりするので、ここもそういうことなのかもしれません。
※家に帰ったあと、調べてみましたが、この蜜柑園らしきページは見当たりませんでした。すでに満杯で、告知する必要がないのかもしれません。
石段を上り詰めたところからの眺めです。
左上方に長く白っぽく見えるのが武蔵野線のプラットホーム。
蜜柑の樹を見たら、私が通っていた高校のすぐ近くに蜜柑山があった、という遠い記憶が甦ってきました。
多分いまごろの季節であったでしょう。放課後の課外活動を終えると、もう真っ暗です。どういう経緯で、どういう仲間がいたか、すでに憶えがありませんが、蜜柑を失敬しようということになりました。
金網の囲いがありましたが、すでに先達がいて、やっと人一人が通れる程度の破れ目がありました。そこから忍び入ると、もう手当たり次第盗り放題です。
課外活動でラグビーをやっておりました。
育ち盛りの年ごろだった上に、激しいスポーツをやっていたのですから、一日じゅう腹を空かせています。
丼飯の朝食を摂って登校しているのですが、十時半ごろにはすでに腹を空かせているので、教科書を目隠しにして早弁です。
昼は食べるものがないので、出張してくるパン屋でパンを買います。多めに買っておいて、放課の鐘が鳴る直前に腹ごしらえをして、課外活動です。
一時間か一時間半の練習を終えると、もうおなかと背中がくっつきそうになっています。帰り道、最寄りの駅近くにある食堂に寄って、ラーメンとうどんを一人前ずつ、一つの丼に盛った特製のメニューを食べるのが日課のようなものでした。味は中華ふうであったか、和風であったか憶えていません。大体、味の良し悪しではなく、量が多いか少ないかで食べるものが決まる年ごろでした。
家に帰れば当然夕食を食べるし、一応受験勉強もしていたので、夜食も食べます。
数えてみると一日七食。それだけ食べても、翌朝目を覚ませば、おなかと背中がくっつきそうになっていました。
蜜柑泥棒を思い立ったのは、いつも寄る食堂が休みだったのかもしれません。コンビニなどない時代です。何も食べるものがなければ、家に着くまで一時間近く空腹を耐えなければなりません。
当時は登校用の鞄とは別にナップザックを持っていました。練習用のジャージやパンツ、ストッキングが学校で水洗いする程度ではとても元に戻らぬほど汚れたとき、家に持ち帰って洗濯してもらうのに使うためです。
大きさがどの程度であったのか、イメージとしてしか思い浮かびませんが、20キロぶんの米袋の大きさ……と思って、買い物ついでのスーパーで眺めて見たら、20キロはいかにも大きい。少なくとも10キロが入るほどの大きさではなかったかと思います。
その袋に、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という感じでしゃにむに蜜柑を突っ込みました。口が締まらないほど突っ込んだ憶えがあります。もちろん、もぎながら食べもしたでしょう。
最寄りの駅から数駅私鉄電車に乗り、そこからバスに乗り換えると、私は独りになりました。仲間と一緒だった電車の中では気づかなかっただけかもしれません。バスの中は蜜柑の香りでいっぱいになりました。
顔を真っ赤にして降りた憶えがあるような、ないような……。バスには年ごろの車掌さん(ほとんどは♀)が乗っていた時代でしたから……。
そのあとも泥棒に及んだものかどうか。
全校生徒が集められて、我が校の生徒の仕業としか考えられぬ、と蜜柑山の持ち主から抗議があった旨の訓告があったような淡い記憶もあります。むろん、金網は厳重に補修されて、二度と入ることはできなくなったのでしょう。遙か遠い記憶なのではっきりしません。
最近、昔のことばかり甦ってきます……。
小金の八坂神社に着きました。迂闊なことに、この神社に寄るためにはもう一度坂を下って、結構きつい坂を上らなければなりませんでした。
私が最初に見つけたのは下の黒猫殿です。ミオの袋を開けて、匂いを撒き散らしながら近づいたのに、スルスルと逃げて、社殿の基礎柱の陰に隠れてしまいました。
すると、流山の天形星神社と同じように、予期せぬ方向から現われたのが上の画像の猫殿です。写真で見ると、小型のアメリカンバイソンみたいです。全身は人間でいうと、薄茶系のザンバラ髪。シャムの血が入っているのかもしれません。
このザンバラ殿は一回目を食べ終えたので、継ぎ足してやろうと私が手を伸ばしても逃げませんでした。
猫の集会では、日ごろ縄張り争いを繰り返している猫同士でも喧嘩はしない、と知ったばかりです。しかし、二匹だけでは集会にもならない。
ということは、もしかすると夫婦なのでしょうか。八坂神社には悪疫退散のほか家族円満というご利益もあるのだそうですから……。
二匹も会うことができて、この神社に寄った甲斐があったと感謝しながら帰ろうとしたら、社殿から15メートルほど離れた社務所の陰に、さらに一匹いました。白い仔猫殿です。
近づくと、すぐ見えるところに隠れました。私が手に持ったままだったミオが匂ったのか、隠れながらもニャーニャーと鳴いています。
しかし、近づくとまた逃げる。ミオを置いて立ち去る素振りを見せると、やっと出てきて食べてくれました。
この日は三匹も会えて、めでたしめでたしの一日となりました。
ところで、我が庭を糞の場としている前の家の飼い猫 ― こやつに縄張り争いで負けたのを見たころからオイチ一家の姿を見かけなくなりました。もう悠に二週間は経ちます。
糞猫は見かければ追い払ってやる(追い払う前に逃げられます)のですが、我が庭が気に入っているようで、平然としてやってきます。
我が家を世話してくれた不動産屋のオヤジが「水をかけてやれば二度とこない」とアドバイスしてくれたので、窓際に水を入れたボウルを置いてチャンスを狙っているのですが、なかなかチャンスが到来しません。そうしているうちにうっかり蹴躓いて、ボウルをひっくり返してしまいました。水をこぼしただけでなく、返す刀で弁慶の泣き所を打たれてしまいました。残念なことに、そのときはエアコンの室外機の上で日向ぼっこをしていやがったのですが……。
私の姿を見ればサッと逃げるので、石をぶつけてやろうとしても、当たりません。私が歯がみしているのを愉しんでいるようです。
そうしてまた「されている」のを発見した昨日、ふと思いつきました。糞猫のものだから糞猫に返してやろう。ヤツの出入りする前の家の金網が破れたところに、ヤツのものを並べてやろうと思ったのです。
まず一回目。火鋏で摘んで並べて置きました。
散策道の途中、一軒の民家の塀際に、このようなショッキングピンクの花が咲いているのを見ました。
花の色は別として、一見曼珠沙華に似ていますが、よーく見ると、花の形が違う。さらによくよく見ると、葉も違うし、花が咲いているときにすでに葉があるという形態が違う。
十日ぐらい前から咲き出したのを見るようになって、前を通って帰ってくると、思い出したように花図鑑を見るのですが、なかなか行き当たらないので、花の名前がわかりません。
昨日朝の散策時、花の前を通り過ぎたところで、その家の主婦らしき人が出てきたので、あと戻りして訊ねてみました。
「そうなんですよね」という。何がそうなんですなのかわかりませんと思ったら、この花の名がなかなか憶えられないのだといいます。
「じゃあ、ややこしい名前なんですね。外国の花ですか」
「そうです。なんていったかなぁ……。球根なんです。だから、増えるんです」
(増えたら下さい)と口に出かかりましたが、家の前は何度も通ったことがあっても、初対面の人です。
散歩の二回に一回はこの家の前を通るので、これから何度か出会う機会もあるかもしれない。挨拶の回数を積んでのち、切り出してみようと思います。
また香取神社へ行きましたが、小春はいませんでした。拝殿の欄干の下、定例の場所にキャッティを置いて引き揚げました。
昨日、日中は暖かくなりましたが、朝はかなり強い冷え込みでした。足は素足にスニーカーで出ましたが、上はいつものウィンドブレーカーでは寒そうに感じられたので、真冬のコートを出しました。
寒かったせいか、心臓が圧迫されるような感じがあって、いつまでも消えません。
香取神社へ行くのには、富士川に向かっていったん坂を下り、また上らなければなりません。何度も上り下りしている坂なのに、昨日は少し苦しいような感じがしました。
いつもならまだその先へ足を延ばすのですが、昨日は香取神社で打ち止め。三十分で帰ってきてしまいました。
やはり寒さが厳しかったせいだったのでしょうか。昼が近くなって、部屋いっぱいに陽光が射し込むようになると、心臓の圧迫感も消えていたので、県立西部図書館へ行きました。わからなかった「岩本家」について、「寛政重修諸家譜」を見るためです。
借りようと思ったのですが、貸し出し禁止図書になっていたので、コピーを取りました。
巻十九にありました。岩本という姓の武家は聞いたことがないと思っていたら、案の定、幕臣ではわずか一家だけ。ページ数にして3ページ。コピーは二枚で済みました。
「寛政重修諸家譜」の岩本家の項に最初に出てくるのは岩本能登守正房という人で、寛延元年(1748年)、六十一歳で亡くなっています。前書きに、次郎左衛門正次のときに紀伊大納言頼宣に仕え、三代を経て正房に到る、とあります。
正房のころの紀伊藩主は、のちの吉宗です。吉宗が将軍となるのに従って、晴れて江戸に出てきますが、当初は扶持米三百俵なので、旗本ではなく御家人です。
しかし、何があったのか、記述がないのですが、一か月足らずで従五位下能登守に叙任とあるので、石高は記されていませんが、この時点で旗本に列したわけです。
正房には三男二女があって、家督を継いだのは次男・帯刀(たてわき)正久という人。寛延二年(1749年)、二十九歳で死去。
正久の嫡男が内膳正(ないぜんのしょう)正利で、天形星神社に境内社として祀られている「石見様」の父親であるとともに、十一代将軍・家斉の祖父ということになります。正利の代に二千石取りに出世しています。
正利の嫡男が「石見様」こと石見守正倫(まさみち)ですが、「寛政重修諸家譜」には牧馬関係の仕事に従事していたらしき記述はあるものの、房総地区に縁があったようなことまでは書かれていません。
一橋治済の御部屋様(側室)となり、十一代将軍家斉を生んだ富子は正倫の姉です。
諏訪神社のホームページには長姉とありましたが、次姉です。三姉の次に正倫が生まれ、さらに妹が二人いますが、この二人は実子ではなく養女なので、正倫より年長だったかもしれません。男子は正倫だけだったようです。
私は前のブログ(去年八月十二日)に、富子はすこぶるつきの醜女(しこめ)であったと書きました。実際に見ているわけはないので、誰かが唱えた説か創作の受け売りです。
その容貌ゆえに縁づく先がなく、困った父親が友人の田沼意次に相談して大奥に上がることになった、とも書きましたが、これも受け売りです。
ついでにそのブログでは父親の名を「正利」ではなく、「正行」としています。受け売りするときに私が誤記した可能性もありますが、多分売り先の人が間違えていたのではないかと思います。
「寛政重修諸家譜」には正利の妻は大奥老女・梅田の養女と記されています。富子はその娘です。意次の手を煩わせるまでもなく、正利が独力で大奥に上がらせる手だてがなかったわけではないことになります。ちなみに弟の正倫の母は梅田の養女ではなく、某氏とあるので、腹違いの姉弟です。
一橋治済としては、当時最高の権力者であった意次を蹴落としてやろうと虎視眈々とその機会を狙いながら、同時にゴマすりもしていたのですから、意次が絡んでいない事案には興味がない。もし正利が意次に頼らず、富子の養祖母に当たる梅田に頼み込んでいたとしたら、富子を見初めたところでなんのメリットもない。
やはり意次が何かの形で絡み、世話をした、と考えるほうがいいようです。
「灯台もと暗しではありませぬか」と意次。
「はて?」と正利。
「そこもとのご妻女は梅田殿のご養女。孫娘を大奥に上がらせるのはわけもないことでござろう。それがしからも手を尽くしておきますゆえ、そこもとからも梅田殿に……」
「やや、これは迂闊でござった」
二人の間にこんなやりとりがあったのかしれません。
石見守正倫のことを調べに行ったのに、脱線してしまいましたが、「寛政重修諸家譜」では先に書いた程度のことしかわかりません。
うーむ、よし! と自分に気合いを入れました。
「徳川實紀」の「文恭院殿(家斉)御實紀」を借りて帰ろうと思ったのです。こちらは前にも借りたことがあるので、借り出せるとわかっています。
気合いを入れたのは、何百ページとある本を、貸し出し期限の二週間以内に隅から隅まで読まねばならないからです。厖大な量の文章の中に正倫のことが出てくるとしても、おそらく数行に過ぎないでしょう。見落とさないように、慎重に、かつまた素早く目を通しおおせねばならない。
反対側の書架に廻りました。
と、全十五巻がズラリと並んでいるはずの「徳川實紀」の二か所が空いていました。腰をかがめて覗き込むと、なんと空白の一か所は家斉の巻があるはずのところでした。
パソコンのコーナーに行って、所蔵図書を検索してみました。「状態」というところが「○」であれば、借りられるということ。「×」であれば貸し出し中か、戻っているとしても、予約している人がいて借りられない、ということです。
「文恭院殿御實紀」の「状態」は「×」でした。
帰り道、偶然金ヶ作の八坂神社前を通りかかりました。祭神は素盞嗚命。天形星神社と同じです。
天形星神社が付録のようになり、付録に追いやった岩本石見守がまた付録のようになってしまったので、なんとなく申し訳ないような気になって、お賽銭をあげました。
流山に天形星(てんぎょうせい)神社という珍しい名前の神社があるのを見つけました。
天の形をした星とは何か、と辞書に当たってみましたが、こういう語彙は収録されていません。「日本の神様読み解き事典」(柏書房)にもありません。
インターネットで検索すると、「天刑星(てんけいせい)」ともいう中国・道教の神で、木星のことであるとわかりました。この神は疫病を広める神や疫鬼などを食べてしまう神なので、疫病の蔓延を防いでくれる神として信仰されてきたのだそうです。
疫病の守護神としては、八坂神社系で祀られている牛頭天王がありますが、日本に伝えられて、素盞嗚命と習合したという説もあり、大国主命の荒魂が牛頭天王だという説もあります。
天形星神社の祭神は素盞嗚命(須佐之男命)。
素盞嗚命を祭神として祀るのは出雲大社、氷川神社、熊野本宮大社など数々あるのに、この神社はなぜに天形星という名であるのか。
しかも、インターネットで調べた限りでは、こういう名前の神社はここ一社だけのようなのです。まずは行ってみようと思いました。
一昨日がとんでもない莫迦陽気だったので、それに較べるといささか風が冷たく感じられましたが、昨日も好天で、暖かい日でした。
富士川右岸には草かき隊が出ていました。向こう岸は流山市。私が歩いていたほうは左岸で、松戸市です。
この日のスノーマンはいつものベンチコートふうのウィンドブレーカーではなく、革ジャンを着て、肩にトートバッグを提げているので、シルエットは羊の革でつくった水袋を持ち、砂漠を放浪するベドウィンのようです。
わりと大ぶりの尾花がありました。
パンパスグラスではありませんが、普通見かける尾花よりは大型です。野生ですから、もしかしたら交配しているのかもしれません。
流山市長崎あたりの里山風景です。東漸寺の紅葉とは趣が違いますが、これも秋の景色。
苦節五十数年、千葉県に移住するまで、里山があるような土地に棲んだことがないので、こういう景色に接したことはありませんでした。
庵を出てからおよそ四十分で天形星神社に着きました。
流山市の説明板が建てられていましたが、字数が限られているため、私が知りたいような記述はありませんでした。天形星という字面、「てんぎょうせい」という耳慣れぬ音感から、日本の神ではなく、異世界の神を祀っているような印象が否めません。
森と林、畑が多く、いまでこそ建て売りの住宅が増えていますが、かつてはあまり人が住んでいなかったのではないかと思われる土地にしては立派な拝殿です。
神額も純和風。異世界の神とは思えないが、私の頭の中からは「てんぎょうせい、てんぎょうせい」という響きが消えません。
拝殿手前には石見様を祀る祠がありました。
石見様とはなんぞや? と思ったら、祠の左側に石碑がありました。
寛政年間、房総三牧の野馬方総取締役だった岩本石見守という旗本がおり、この地域(長崎、野々下地区)は農業のかたわら牧の管理をするという野付村であったのですが、村人たちがかねて願っていた新田開発を認めてくれたので、村は豊かになった。それも石見守のおかげだとして祀ることになった、と記されています。
牧とは軍馬を育てる放牧地のことで、小金牧、佐倉牧、嶺岡牧(現在の鴨川市)の三つを総称して房総三牧といったのです。
石見様の姓が「岩本」だと知って、うにゃうにゃ? と感じることがありました。石碑には旗本・岩本石見守を神として祀ったとあるだけで、諱(いみな)はわかりません。
岩本というのは珍しい姓ではありませんが、武家にはあまりない姓です。取り立てて有名な人も思い当たらない。
うにゃうにゃ? と感じたのは、私が再三ブログで取り上げてきた一橋治済(はるさだ)の側室であり、十一代将軍・家斉の母が岩本富子であることです。
富子の父・岩本正利は田沼意次の父・意行の友人で、富子が年ごろを迎えたのに、縁づく先がなくて困っていた。なぜ縁がなかったかというと、富子は飛び切りの醜女(しこめ)であったから、と伝えられています。
相談を持ちかけられた意次は大奥に上げてはどうだろうかと提案します。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった意次にしてみれば、女一人を大奥に上げることぐらい屁の河童だったであろうし、岩本親娘にしてみれば、誰憚ることなく、終生独身を貫ける職場なのですから、この提案に飛びつきました。
一件落着と思われたところに、治済がとんでもない考えを持ち込んできました。すこぶるつきの醜女である富子を一橋家の御部屋様(側室)に迎えたいというのです。
この申し出には治済の深慮遠謀が隠されている(としか思えぬのですが)のですが、岩本親娘も意次も腰を抜かすほど愕いたであろうと思います。
そういういわくつきの岩本家となんらかの関係がある人物ではないか、と閃いたのが、うにゃうにゃ? の原因でした。
とはいえ、寛政年間といっても、とっさのことではいつごろなのか見当もつかないし、庵にいてパソコンを前に坐っているわけではないので、調べようがありません。
すべては庵に帰ってからです。天形星という異な名前に惹かれて行ったのに、天形星が付録のような形になってしまいました。
神社の正面にはカトリック教会がありました。こちらは参道とはいいませんが、教会に到る道は道路を挟んで神社の参道と一直線に繋がっています。この教会があったために、異世界の神を祀る神社ではないか、という思いはますます強くなりました。
拝殿を背に参道を戻って行くと、前の道路を白っぽい野良猫殿がゆったりと歩いて行くところでした。チョッチョッと舌を鳴らし、バッグからミオを入れたプラスチックケースを取り出して振ってみましたが、遠過ぎて気づかなかったのかどうか、そのままトコトコと歩き去ってしまいました。
せっかく……と思ったのに、なんたるこっちゃと思って振り返ると、思わぬ方向から、こんなんが出て参りました。
早速ミオを食べてもらうことにしました。私の手のひらにくっついていた一粒が遅れて落ちて、黒野良殿の項(うなじ)のあたりに……。食べるのに懸命で気づかぬようです。
食べ終わるとしばらく私についてきて、食った食ったとばかり身体を伸ばしてみせたり、私の近くで寝転んでみせたり……。
私はまだ充分に研究を尽くしておりませんが、一匹だけで暮らしているのは♂猫ではないかと思うのです。
昨日のように暖かい日、日なたにいると極楽です。そこへ思ってもみなかったベドウィンのおぢさんが現われて、ご馳走にありつけるという余録もあるが、夜になれば、きっと冷え込むでしょう。翌朝も寒いでしょう。身をこごめ、フーッと毛を逆立てても、寒くて寒くてたまらないのに違いありません。それより何より独りぽっちで寂しくないのだろうかと思ってしまいます。
園芸農家があったので、ちょっと失礼してハウスの中を覗かせてもらいました。どれほどの広さがあって、何鉢あるのか即座には見当もつきませんが、ハウスの中はすべてシクラメンでした。
さて、庵に帰って、懸案の岩本家を調べてみました。旗本は何家ぐらいあるのか、手許には「寛政重修諸家譜」がないのでわかりません。岩本石見守をキーワードにインターネットで検索してみましたが、天形星神社がヒットするばかりで、はかばかしくありません。
諦めかけかけたところ、豊四季にある諏訪神社のホームページのうち、兼務社というページに天形星神社の境内社として石見神社が紹介されていました。
抜粋すると、
祭神岩本石見守正倫命は、甲斐の国岩下村(現韮崎市)岩本家の出にして、徳川幕府に仕え、知行二千石の岩本正利を父とし、長姉お富の方は、一橋中納言治済卿に仕えて、第十一代将軍家斉の母である。正倫は将軍の信任篤く、重職を経て寛政五年(1793年)に、小金、峯岡、佐倉三牧の取締支配に任ぜられた。三牧の支配役の際には各地で善政を施し、よって各所に報徳碑がある。長崎には文化九年(1812年)、岩本大明神の碑とともに、野々下字内宿に社殿を設けて徳をたたえた。昭和六十三年、この地を譲渡して天形星神社社殿を改築、また現在地に石見神社を新築遷座した。
と、あります。
まさしく富子の弟であったのです。
私の先祖や親類の家系というわけでもなし、大騒ぎすることでもないのではありますが……。いずれ八柱にある千葉県立西部図書館へ行って、「寛政重修諸家譜」を調べてみようと思います。
今日の残念賞。
明早戦でメイジは15対31と早稲田に完敗。知らず知らず期待が膨張し過ぎていたと気づかされました。
去年は負けた筑波に勝ち、慶応にも勝ち、完膚無きまでに打ちのめされた帝京大にも勝ち、すわ十八年ぶりの全勝対決かと思われたところ、早稲田が慶応に負けてしまいました。全勝対決が幻に終わって、メイジの諸君が残念がっていると知ったときから、コリャ、早稲田には負けるなという予感がしました。
予感どおり炎のタックルがない。
今季の戦績だけでいえば無敗のチームですが、去年は5位、一昨年は6位のチームなのです。横綱みたいな気分で構えていては、こすっからい早稲田に勝てるわけがないのだ。
でも、去年一昨年と、低迷の中でも超低迷という時期があったのにしては予想外に早く立ち直ったと、私としては満足しております。栄光の時も近い ― と思わせておいて、ズッコケルのもメイジなのではありますが……。
昨日、今年最後の通院(と思った)でした。四週間後は暮の三十日ですが、この日から外来が休みになるらしいので、次回はいつになりますやら、と思っていたら、来週九日にまた通院しなければならないことになってしまいました。
通院のあとはいつもなら「遠くへ行きたい」気分になるのですが、来週も通院ということになったのと、とくに行きたいところもなかったので、どこにも行かずに、帰ってきてしまいました。
行きたいところはあったのです。
そこは茨城県の旧真壁町―。いまは桜川市です。
中世、真壁氏の興った土地で、真壁城があったところです。しかし、東京からは非常に交通不便な場所です。最寄り駅は土浦で、そこからバスに乗って行くしかないのですが、一時間半ぐらいかかります。
病院帰りに行くということだと、バスの便は一日一本しかありません。しかも途中で乗り継ぎしなければなりません。
事前に時刻表を調べると、上野発十時十分の常磐線に乗れれば、そのバスに乗ることができました。目的地に着くのは十二時半。帰りのバスは? というと、四時間ぐらいの空き時間があるので、そこそこ見て回る時間はあります。
問題は、診察を終え、薬をもらって、十時十分に上野駅に滑り込めるかどうかということでした。
この日は血液検査があったので、出動は八時。
診察は九時からですが、これまでの例でいうと、診察は三十分足らずで終わります。上野駅まで急いで歩けば二十分ぐらい。十五分ぐらいで薬をつくってもらえれば間に合う、という寸法ですから、頭から不可能ということではありません。
プリントした地図とバスの時刻表、煮出したあと一晩冷蔵庫で冷やしておいた博多薬膳茶をペットボトルに詰めて家を出ました。
診察はいつもどおり九時半ごろに終わりました。リンパの循環のほうは前と同じで、可もなし不可もなし。
ところが、これまでとくに問題なくきていた血液の鉄分が、わずかですが減少しているという結果が出たのです。そういえば、一年前の退院直後は、ひじきやほうれん草を食べるようにするなど、食生活には気を遣っていたものですが、数値が安定するようになってからは、気配りがおろそかになっていました。そのせいか。
通院の日が近づいたので-ということでもないのですが、たまたま明治乳業のラブという加工乳に鉄分が含まれているということを識ったので、四~五日前から飲み始めていました。しかし、そういう付け焼き刃のようなことでは数値はごまかせないものらしい。
鉄剤の注射をされ、血液中の鉄分を増加させる薬を一週間服んで、来週数値を計りましょう、ということになったのでした。
ついでにインフルエンザにはくれぐれも注意! といわれました。リンパの循環に障害のある人は風邪をひいたりしやすいのだそうです。
三十を過ぎたころから寝込むような風邪をひいた記憶はありませんが、毎年いまごろの季節になると、鼻をグスグスさせ、昔の子どものように水っ鼻を垂らしています。小さいころから気管支が弱かったので、それがいつまでも尾を引いている、と思っていたのですが……。
いつももらっていた薬も一週間分だけです。そのぶん早く整って、私が病院を出たのは九時四十分でした。上野発十時十分には悠々間に合う時間です。しかし、なんとなく浮かない気分になってしまったので、上野には向かわず、湯島から地下鉄に乗って家に帰ることにしました。
電車に乗っている間に、ふと花屋に寄ろうと思ったので、馬橋で降りました。
馬橋駅から歩いて十五分ほどのところに、マツモトキヨシのホームセンターがあって、わりとたくさんの植木や種子が置いてあるのです。そこになければ、国道6号線を歩いて北小金駅入口にある小山ガーデンという花屋に寄り、そこにもなければ、北小金駅近くの花屋に寄るつもりでした。
何か買うつもりだったのかというと、スノードロップの球根です。
一昨日、明日は病院かと思っていて、スノードロップのことを想い出したのでした。
もう三十年近く前のことになります。すっかり忘れていたのに、なにゆえに突然想い出したのか、理由はわかりません。
そのころ、私はフリーランスの編集者をやりながら、西武新宿駅近くに個人事務所を持ちました。いずれ出版業を始めたいと考えていました。
前途洋々と思いましたが、そう思ったのは私だけで、そうそう簡単には行きません。毎日四苦八苦しているうちに病に罹りました。
病院に行ったわけではないので、正式な病名はわかりませんが、自己診断によるところ「鬱」です。
その前の年の春、山梨県の道志村というところに別荘を借りました。
別荘というと聞こえはいいけれども、実際は廃屋です。畳の部屋が三つに土間の台所。トイレと風呂は外の別棟。電気はきていましたが、煮炊きと冬季の暖をとるのは薪、水道は近所の湧き水、電話は引こうと思えば引けましたが、引きませんでした。
おばあさんが独りで暮らしていた家です。私が借りる直前に横浜に住んでいた息子夫婦に引き取られたところだったので、廃屋とはいっても荒れ家ではありませんでした。
つてがあって、確か月五千円ぐらいで借りた、と思います。
中央線の藤野駅で降りてバスに乗り、月夜野という終点から歩いて二十分ほどかかりました。調べてみたら、そのバス路線は九年前に廃止されていました。いま、行こうとすれば、橋本という駅からバスを乗り継ぐか、富士急で都留市まで行かなければなりません。
なぜそんなところを借りる気になったのか、もはや憶えていませんが、せっかく借りたのに、最初のうちはほとんど行きませんでした。
近くにはキャンプ場がいくつかあるぐらいなので、夏は避暑地として格好のところであったのに、そういう季節には利用せず、人がいなくなった晩秋ごろからちょくちょく行くようになりました。仕事は日を追って暇になり、暇になったのに、注文取りに歩くようなこともせず、鬱々と過ごす日が多くなったころです。
すっかり人がいなくなる季節で、夕方薄暗くなるころに中央線の電車を降りると、バスの乗客は最初から最後まで私独りだけ、ということもありました。
思い返すと、静かなところで原稿を書くために借りる気になったようにも思います。キャノワードなんとかというデスクトップ型のワープロが二台あったので、一台を運び込みました。
本を一冊書くとなると、早くても三週間はかかります。電話がないので、仕事も思考も邪魔をするものがない。しかし、資料は家にあるので、本気で籠もるつもりなら、資料も運ばなくてはならない。で、せっかく借りながら、なかなか行くことはなかったのです。
ところが、(多分)鬱状態になって、電話に出るのも面倒だし、大体人と会うこと自体が煩わしい、と思い始めました。
大晦日の日、フラッと中央線に乗って別荘へ行きました。藤野駅に降り立つころ、曇っていた空が崩れて、冷たい時雨に変わっていました。
冬に備えて頼んでおいた薪が軒下に積んであったので、早速竈にくべて火を点けました。薪がパチパチと爆ぜる音が高くなるのに連れて、少しずつ暖かくなってくる家の中で、負けてはいけない、とちょっぴり元気を取り戻したような気になりました。
……が、新年が明けて、三日、一週間と経過して行くと、我ながらどうしようもなくなって行くようでした。
一月の終わりか二月初め、雪が積もりました。
一週間か十日に一度、バスの終点にある、なんでも屋のような店に食料品を買いに行きますが、あとは一日じゅう雨戸も開けず、むろん外にも出ず……という毎日を過ごしていました。
その雪の朝、目を覚ますと、もともと静かな家の周りがいっそう静かに感じられました。もしかして雪か、と思って外に出ると、思ったとおり一面の銀世界でした。
家の左手から裏にかけて、おばあさんが耕していた畑があったのですが、いなくなってからは荒れ地と化して、草が繁っているだけでした。それも雪に覆われています。
ふと気がつくと、雪の中に白くて小さな花がいっぱい咲いていました。それがスノードロップだったのです。
そのときはスノードロップだとは知らず、鈴蘭のようだが、鈴蘭ではない。なんという名前の花か、と思ったのでしたが……。
あとでこじつけたのかもしれませんが、冷たい雪にも負けずに咲いていた花に勇気をもらったような気になりました。仕事、仕事、男は仕事、と思って東京に戻る決心をしました。
三十年も前のことですから、前後関係には曖昧なところがあるかもしれませんが、スノードロップの花を見ていなければ、どうなっていたのか想像がつきません。
こういう隠遁生活があったことは、佳きにつけ悪しきにつけ、自分史の中では重大なことであるはずですが、少なくともここ十年ぐらい忘れていたと思います。それをふと想い出したので、我が庭で咲かせたいと考えたのです。
しかし……マツモトキヨシを手始めに予定どおり三軒覗いてみましたが、どこにもありませんでした。
仕方がないので、ネットショップで買うことにして、最後の店でノースポールの鉢植えを買いました。スノードロップが届いたら、ノースポールを挟むように植えようと思います。
雨になる前に、と思って庭に移し替えましたが、今朝の豪雨で、葉っぱのみならず、せっかくの白い花も泥はねだらけになってしまいました。
ひとしきり降った雨が上がると、嘘のような陽射し……。十二月だというのにTシャツの上にプルオーバー、裏地のないウィンドブレーカーを羽織っただけという軽装で散策に出ました。足はもちろん素足。
富士川を渡り、キャンプ場を通り抜けて行きました。階段を上がったところがキャンプ場ですが、そこで行き止まりだと思っていたのに、前の散策時、逆方向から入ってみて、通り抜けられるとわかったのです。
キャンプ場には竈も水道もあります。竈の形は全然違うけれども、道志村の別荘時代を想い出しました。さすがにこの時期にテントを張るような酔狂な人間はおりません。
キャンプ場を通り抜けて北斗七星型に歩くと、前ヶ崎地区の香取神社です。
香取神社の狛犬。
これまで人がいるところなど見たことのなかった神社ですが、今日は門前にママチャリが三台も止められていました。何事ならんと訝りながら進んで行くと、拝殿の左手を歩いて行く親子連れ二組の後ろ姿が見えました。
雨が熄んだあとの強風で、公孫樹(イチョウ)の葉はほとんど落ちてしまいました。
親子連れはなおも拝殿横を進んで行くので、殊勝にも落ち葉の掃除にきたのかと思いきや、銀杏(ギンナン)拾いの一行でありました。すでに先乗り隊もあって、手当たり次第に拾っておりました。
これは先月二十四日、拝殿左の欄干下で撮った写真です。
このあと翌二十五日、二十九日、三十日、今月一日、そして今日三日と散策時に寄っているのですが、猫殿には出会っていません。ことに今日は人出があったので愕いて、いても出てこないのに違いない。
その都度キャッティを携帯して行っているので、この場所に置いて帰ります。毎回きれいになくなっているので、食べていてくれるとは思うのですが……。
市川大野のオフグと同じような毛色なので、親近感を懐かせます。
♂か♀かまだわかりませんが、勝手に♀であろうと断定して、「小春」と名づけました。もし♂だと判明したら大春とでも致しましょう。
犬なら後ろから見ればすぐわかるのに、猫は後ろを見せるということがなかなかない。ことに野良殿は出会えば逃げるのが普通ですから、なおのことです。たまたま後ろを見せるとしても、尻尾が邪魔で雌雄の別を判断するところが見えないことが多いのです。
日中は暖かい日がつづきましたが、鰤大根をつくりました。無水鍋でつくっていますが、大根はまだ少し硬い。