桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

一月三十日……ついに雨降る

2009年01月31日 11時44分09秒 | 日録

 今日三十一日の雨は、朝には上がるという予報(天気情報)がまた外れて、出勤時もまだ降っています。
 二日つづけて雨です。

 今年最初のブログに、十八年間日記をつけていると書きました。その中で十八年間ずっと降雨量を記録しなかったのは、一月一日(今年で十九年間になりました)、一月三十日、十二月二十五日と同二十六日の四日だけということも書きましたが、一年にわずか四日だけと希少価値のあった昨日三十日は十九年目にして初めて雨を記録してしまいました。

 昨日は、朝のうちはそれほど寒くもなく、風もなかったので、心晴れやかな気分で出勤できました。
 市川大野駅から勤め先までの道は、片側だけ幅2メートルほどの歩道があります。傘を真っ直ぐに差していても、向こうからくる人とは悠々とすれ違えるだけの幅ですが、数メートルおきに無粋な電柱や道路標識があって、そこでは傘を立てたままではすれ違えなくなります。
 誰から教えられたのか、人の振り見て我が身を糺したのか、先天的に悟ったのか-まったく記憶にはありませんが、そういうときには傘を斜めに倒したり、高く差し上げたりして行き違います。

 駅から勤め先まで、毎日三十人ぐらいとすれ違います。昨日もほぼ同数の人とすれ違いましたが、たった独りだけ、とんでもないオヤジがいました。
 そやつめは傘を立てたまま傲然と歩いてきました。桔梗おぢさんとおっつかっつの年齢と見ました。すれ違う刹那、桔梗おぢさんのほうは傘を寝かせましたが、そやつめはテンとして恥じることなく傲然と歩いてきて、傘同士がぶつかっても強引に押し切ったのです。
 まるでこの歩道はお坊ちゃまである、そやつめ専用の道だといわんばかりでしたが、お顔のほうはどうしてどうして、お坊ちゃまとは程遠い、品のない顔をなさっておりました。

 桔梗おぢさんは思わずカッときて、昔とった杵柄、背後から襟首とらまえて引き倒す、危険なタックルに及ぶところでした。ラグビーの試合中であれば、長い笛が鳴らされて、即刻シンビン-十分間の退場処分です。

 そのときはただただカッときただけですが、あとあと考えてみると、オヤジが自分と同じ年ごろというのが悲しかった。先方が若い人なら、カッとくることは同じですが、まぁ若さゆえ詮方なしとも思います。
 通勤時の駅の階段を携帯電話片手にノタノタと歩いている若い♀に前を邪魔されると、思わず突き飛ばしてやりたくなりますが、これもまぁ若さゆえ詮方なしと思って、突き飛ばすようなことは致しません。
 ところが最近は、結構いい齢をしたオヤジまでが携帯電話を覗きながら歩くのに出くわすようになりました。

 勤めを終えて帰るころ、いまの季節はすでに真っ暗です。朝と同じように三十人ぐらいとすれ違いますが、朝と異なるのは一本の電車から吐き出されてくるので、一塊りの集団となってくることです。その中にまぎれて、携帯電話を覗きながら歩いてくるオヤジがいます。もちろん娘っ子たちもいますが、それは鼻から詮方なし……。

 少し前ですが、その手のオヤジが携帯電話に夢中のあまり、目を上げようともせずに、桔梗おぢさんにぶつかってきたことがありました。ぶつかった瞬間、オヤジ、何が起こったのかという顔をしている。もちろん謝りはしない。
 見ればこやつめもおぢさんと同じ齢ぐらいのおじさんでした。夜目なので判然としませんが、カシミアかどうか、悪くはないコートを着ている。どう見ても山から迷い出てきた熊とは思えません。おぢさんは思わず「バカもの!」と悪態をついてしまいましたが、怒るより前に呆れてしまっていました。

 熊オヤジは耳で聞いた言葉が脳まで伝達する仕組みを持ち合わせていないのかどうか、キョトンとしたあと、何事もなかったように歩み去りました。足の運びの遅さと俯き加減の後ろ姿から、飽きもせず携帯電話を覗いているのが見てとれました。

 いつからこんなふうになってしまったのだろう。
 電車の中の化粧や声高の携帯電話の会話などと同じで、多くの人は不愉快に思っているのに、ある人種は、人がやっているのだから自分もいいのだと、徐々に増幅して行くものなのでしょうか。
 人生幸朗師匠が健在なら「責任者出てこい!」と吼えるところですが、絶対に責任者はいるはずなのに、特定はできません。責任者自身が責任者は自分だという自覚がないからです。

 朝の通勤時はすれ違う人も決まっています。特徴のある人には、ひそかに渾名をつけています。
 貴闘力、鬼子母神、ブン屋、熱愛(以上♂)、チャリンコ貴婦人、風俗嬢、しのび梳き、鼻歌娘、白石美帆、ミニスカどすこい(以上♀)などなど。
 挨拶するわけでもなく、むろん会話を交わすことすらないのですが、なんとなく親しみを覚えるので渾名をつけて、今朝は会わなかった、最近会わない、また会ったなどと思いながらすれ違っています。
 何人かは雨の中でも行き合ったことがあります。桔梗おぢさんのほうから親しみを持ったせいか、渾名のついた中に度外れた人はいまのところおりません。まだ雨の中では行き合っていない人の中に熊オヤジのような人がいないことを祈りたい。

 今日は昨日と違って風が強いです。昨日と比べるとよいことは、土曜日なので、出勤する人が少ないことでした。わずか四人(いずれも記憶にはない人)とすれ違っただけでした。


市川大野風物詩 ― 大柏川

2009年01月28日 18時12分01秒 | 風物詩

 今日二十八日は薄ら寒い日です。遠くに青空が垣間見えましたが、上空は厚い雲に覆われています。風のないことだけがありがたい。



 昼休み、勤務先近くを流れる大柏川まで歩きました。
 こんな細い川ですが、真間川の支流に当たるので、これでも一級河川なのです。画像真ん中左手の房総半島のように突き出した砂地に見える白いものはダイサギです(と思います)。

 一羽だけですが、河畔の桜の樹を渡って行くメジロを見ました。毎年メジロを見かけると、春が近いと思わせます。
 写真に撮らんと思ったのですが、すばしこいので、ポケットからカメラを出さんと、下を向いている間にいなくなってしまいました。
 これも写真には写せませんでしたが、尾白鶺鴒(オジロセキレイ)もいました。車の通行量の少ない時間帯だと、まるで道案内をするように、低く飛んでは止まって、人が近づくのを待ち、近づくとまた低く飛んでは止まって待っているという愛嬌のある鳥です。

 午前中、カワウが飛翔するのを見かけていたので、こざと公園へも行ってみましたが、今日は池で泳ぐ鳥は一羽もおりませんでした。大柏川では泳いでいる鳥がいたのに、不思議なことです。

 寒いことと関係があるのでしょうか。
 でも、寒さからいったら、今月の九日あたりのほうが寒かった……。
 マガンのたぐいが葦の茎の近くで身を屈めるようにして浮いているだけでした。カワウもおりません。アオサギもおりません。ユリカモメは、というと、近くの電線にズラリと並んで、白い糞を垂れていました。

 カワウはほんのときたまですが、見かけることがあります。
 どこから飛んでくるのかわかりませんが、野鳥図鑑で調べると、数十羽から数百羽単位で行動する、とありました。
 しかし、こざと公園に飛んでくるのは、せいぜい二羽です。
 もしかしたらカワウではないのかしらん? 黒い羽毛と思い切り首を突き出すようにして飛ぶ姿はカワウとしか思えないのですが……。

 桜の蕾はまだ堅いままですが、「こぶし公園」の辛夷(コブシ)の蕾は一回り大きくなっておりましたよ。 
 もうすぐカナ……と思わせますが、実際に春がくるのはまだまだ先のようです。


切支丹お蝶と八丁堀

2009年01月24日 22時16分57秒 | 歴史



 簪抜きという犯罪に手を染めた以上、八丁堀を敵に回すのは当然のことですが、切支丹お蝶には八丁堀を揶揄するつもりは毛頭なかった。ただ家紋つきの銀簪がほしいから犯罪を重ねたのです。
 お蝶許すまじ ― この時点ではまだ犯人は何者とも身許は知れていないのですが ― と八丁堀を躍起にさせたのは、お蝶ではなく、江戸の庶民でした。
 庶民にとっては神出鬼没の犯人の小気味よさを囃し立てて、奉行所のみならず、奉行までも落書落首のたぐいでからかってしまったのですから、八丁堀は黙っているわけにはいかない。

 高価な銀簪は庶民には無縁のものです。狙われるのは大店や高級武家の娘たち、もしくはパトロンがついている芸者や小唄長唄の師匠などに限られています。
 庶民から見れば、つまりは金持ち小金持ちだけです。賊が狙うのはそういう金持ちで、自分たちが狙われることはまかり間違ってもない。
 ということは、鼠小僧……とまではいかないとしても……義賊……である。そういう風潮が落書や落首となって現われたのでしょう。

 簪抜き事件が多発したのは、文久二年(1862年)から慶応二年(1866年)にかけての五年間です。
 この五年の間に、南町奉行は八人、北町奉行は七人も交替しています。
 江戸の町奉行所(御役所)が南北二つに分けられた慶長九年(1604年)から、廃止される慶応四年(1868年)五月十九日までの二百六十四年間で、奉行を勤めたのは延べ九十人です(一時期だけ設置された中町奉行は除く)。
 平均すると、一人の在任期間は二年十か月ということになります。ところが、この五年間に限ると、平均在任期間はわずか四か月。いくらなんでも慌ただし過ぎます。

 中でも慌ただしいのは、文久三年(1863年)四月十六日に北町奉行に就任した佐々木信濃守顕発(あきのり)の場合です。わずか一週間で退任して、今度は南町奉行に就任するという不可思議。その南町奉行の座も十一か月足らずで退任。
 元治元年(1864年)十一月二十二日、佐々木のあとを受けて南町奉行に就任した有馬出雲守則篤(のりあつ)も、ちょうど一か月で解任されています。
 有馬の場合は南町奉行から大目付に横滑りしているのですから、解任というのは不適当かもしれませんが、大目付は幕臣トップの役職とはいうものの、閑職です。奉行としての才能があったのなら、もう少しその座に置いておけばいいはず。

「江戸から東京へ」で、お蝶のことを書いた矢田挿雲は、簪抜きをお縄にすることができないので、歴代町奉行の首が次々とすげ替えられた、と読者に思わせようとしていますが、それはあまりにもうがちすぎ。本当のところは「徳川實紀」などで当たってみないとわかりませんが、それ相応の複雑な事情があったのでしょう。
 なにしろ慶応二年という年は、二年後に幕府が瓦解してしまう年なのですから、奉行所どころか、幕府そのものが大忙しだったはずです。

 大体において、簪抜きはそれほど重大な犯罪だったのだろうか、と思います。
 数多くの被害者はいますが、怪我人は勿論死人が出たわけではありません。
 幕府は金銀が絡んだ泥棒にはことのほか目を光らせていました。贋金づくりを恐れたからです。しかし、何十本あろうとも、それが簪というのでは、鋳潰したところでたいした量の銀貨にはなりません。贋の銀貨をつくるのが目的だったら、銀の茶釜とか銀食器を盗んだほうが手っ取り早い。
 それなのに捕縛しようと躍起になったのは、なんとか面子を維持しようとした幕府(奉行所)の断末魔の声だったのでしょう。


♪横浜たそがれ……

2009年01月23日 10時32分45秒 | つぶやき

 昨日の午前中、仕事で横浜へ行っていました。
 外国からの貨物が横浜港に入るので、通称D/O(ディーオー)交換といって、船会社に船賃を払い、通関手続きをするための書類をもらいに行くのです。
 貨物はほぼ毎月一度入ってくるので、書類をもらった数日後には貨物の引き取りと、一か月に二度は横浜-ごくたまに東京港のこともある-に通います。

 船会社はそのときどきで異なるので、一口に横浜といっても、いろんなところへ行かなくてはなりません。
 桜木町駅や横浜駅からバスを利用するしかないところ、それもバスが二十分か三十分に一本しかないようなところ、さらにさらに……最寄りのバス停から三十分近くも歩かなければならないようなところもあります。

 交通の便がよくないところは本牧や大黒という埠頭の中で、倉庫と事務所が一緒になっているようなところです。ただただだだっ広いだけのところですから、冬は冷たい海風が強いし、夏は陽射しを遮ってくれる木陰もありません。
 つむじ風を巻き上げて通り過ぎるトレーラーに追い立てられるようにして、トボトボと歩いている我が身は我ながら気の毒です。
 仕事を終えて最寄りのバス停に舞い戻るころ、冬なら骨の髄まで凍ってしまったようだし、夏なら汗グッショリという表現を通り越した状態です。
 幸いこの数か月は関内駅から歩いて行ける船会社なので助かっています。

 昨日行った船会社の事務所は大桟橋近く、シルクセンターという建物の中にありました。この建物自体はおおよそ五十年の歴史しかありませんが、横浜開港当時はジャーディン・マセソンというイギリスの商社-アヘン戦争を起こした会社です-があった場所です。現在、周辺は官庁街になっていますが、恐らく開港当時は日本で一番モダンな繁華街であったのだろうと思います。

 天気のよい日だと、お昼は官庁街のところどころに出る弁当屋で弁当を買い、山下公園のベンチに坐って包みを開いたりします。
 しかし、昨日はあいにくの雨……。シルクセンター隣のジョナサンで昼食、とあいなって、牡蠣の卵とじ丼というのを食べました。

 必ずしも昨日行かなくてもよいのでした。一昨日行こうかと考えたのですが、天気予報では夕方か夜には雨でした。翌日(つまり昨日)には雨は上がる、というようなことだったので、日延べをしたのです。
 ところが、霧雨ながらも、雨はすっきりとは熄みません。それよりも何より、非常に寒かった。前の日に済ませておけばよかった、と天(というより天気予報)を恨みながらの横浜行だったわけです。

 私たちは天気予報といい、テレビでも気象予報士という民間の人が出てくるようになってから、「予報」というようになりましたが、気象庁では「天気情報」というのだそうです。「予報」ではないので、当たるか当たらぬか、責任はとらないゾ、といっているように聞こえます。

 いつだったか、猛暑(あるいは冷夏だったかもしれない)という予測が大ハズレしたことがありました。そのときの気象庁のコメントは「太平洋高気圧がこんなに勢力があるとは予測しなかった」というものでした。「予測しなかった」ではなく、「予測できなかっ」というべきだろうと、桔梗おぢさんは無性に肚の立つ思いをしたことを憶えています。
 昨日は霧雨の中を歩かされながらそのことを思い出し、雨は上がるといった天気情報に、また無闇に肚を立てておりました。

 シルクセンターへ行くときは雨さえ降っていなければ、帰りは桜木町までのひと駅分を歩くことにしています。
 桜木町にはユニクロがあって、隣にはベックスコーヒーもあります。
 ほとんど内勤で、一日じゅう机の前に坐っていることの多い桔梗おぢさんは、ここぞとばかり、ユニクロでTシャツか、「ナニがピタリと納まるボクサートランクスか、靴下を買って、ほんのちょっぴり豊かな気分に満たされ、ベックスコーヒーでコーヒーを飲む、というのが月に一度の密かな愉しみなのであります。
 往き帰りの電車の中で、文庫本ならかなりのページを読み進めることができるのもよい。

 ボクサートランクスが古くなって、「ナニがピタリと納まらなくなってきているので、雨でしたが、歩くことにしました。
 ところが、辿り着いてみたら、店は工事の塀で囲われていました。あとでベックスともども昨年十二月末で閉店になっていたと知りました。
 私の暮らす周辺にはユニクロがありません。ユニクロどころかボクサートランクスを売っているような店がありません。当分ダルンダルンとなったトランクスで我慢しなければなりません。誰に怒りをぶつければよいものか……桔梗おぢさんは振り上げた拳の落としどころを見失って、帰りの電車の人となりました。



 シルクセンター近くの開港資料館前から撮影したランドマークタワーも雨でけぶって上のほうが見えませんでした。
 夕方に撮影したかのように見えるかもしれませんが、昼の十二時に撮影した画像であります。


♪辛夷咲くあの丘北国の……

2009年01月21日 16時33分45秒 | 

 勤務先の近くに「こぶし公園」という小公園があります。ブランコとジャングルジムがあるだけの、ごくありきたりの小公園です。
 辛夷(コブシ)の樹が何本かあるので、そこから名前をつけたのか、「こぶし」と名づけたので辛夷を植えたのか-詳細は不明ですが、ともかく辛夷の樹があります。

 関東では三月の終わりから四月にかけて、桜の開花にほんの少し先だって白い花を咲かせる樹です。
 名にし負う桜と同時期に咲くのが辛夷にとっては不幸だったのかもしれません。飲み屋などで桜の話はよく耳にしますが、辛夷を愛でる声はかつて聞いたことがありません。



 今日、昼休みに通り抜けようとして、ふとあと二か月ぐらいかと思い、何気なしに見上げて、初めて蕾に気づきましたので、撮影に及びました。まるで猫柳みたいです。
 後ろに写っているのは楠(クスノキ)の大木です。いまの季節はあまり有難味を感じませんが、夏になると強い陽射しを遮って、大きな木陰をつくり、見ているだけで瑞々しい思いを味わわせてくれます。桔梗おぢさんの好きな樹木の一つです。

 東京・目白の裏通りには高さ10メートルぐらいの辛夷の高木があって、毎春花の季節になると様子を見に行っていました。当時棲んでいたマンションと買い物で利用する大丸ピーコックというスーパーの中間にあったので、わざわざではなく、通りすがりに見ることができました。

 目白……と、思い返すと、じつに懐かしい……。
 1992年から八年間住んで、2000年に引き払いましたので、もう九年も昔のことになりました。
 いまではすっかりおぢさんであることが板についてしまった桔梗おぢさん、棲み始めたころはまだ四十代という、男としてはピチピチの時代でもありました。
 目白時代は若かった以外に何がよかったか、といっても特別すごいことではないのですが、タクシー代まで呑んでしまった、というときでも、新宿からも池袋からも、歩いて帰れるのがよかった。
 いまでは新宿も池袋も行く気にならぬ-というより、遠過ぎて行けません。両方とも電車に乗ってしまえば一時間もかからずに行けるのですが、遙か遠いところへきてしまったような気がします。

 一昨々年、一昨年と、ちょうど桜の季節に、かつての友人たちと新宿で呑んだのですが、いざ呑み始めると腰が重くなってしまい、ついつい終電を逃して、二度ともホテルに泊まるハメに陥りました。

 齢を重ねると、昔の思い出ばかり甦るようになりますが、決して悪いことばかりではありません。
 嫌な思い出を思い出すことは存外なく、取るに足らぬほどのことですが、愉しかったり、美しかったり、気持ちの佳かったりしたことだけが、まるで狐火のようにポッポッと浮かんでくるのです。


こざと公園の葦原

2009年01月17日 21時56分15秒 | 風物詩

 にゃんさん、ご心配いただいてありがとう。風邪はほぼ治った(?)みたいですが、安心は禁物。桔梗おぢさんは小さいころから気管支が弱いまま大人になり、おぢさんになったので、とくに冬はいつも風邪をひいているような状態なのです。

 さてさて、今日十七日は第三土曜日なので、本来なら会社は休みなのですが、正月休みに振り替えられたとかで出勤です。
 今週は十二日の成人の日も出勤だったので、非常に長~い長~い一週間です。
 来週二十四日(土)は当然出勤、三十一日(土)も出勤。今月の休みは明日と二十五日しかありません。

 数日前までの寒気が緩んだのと無風だったせいで、今朝はわりと機嫌よく出勤しました。勤めで利用する隣駅に中山競馬場があるので、土曜日の電車というと、競馬新聞片手のおっさんたちやディズニーランドに行くらしい親子連れ、高校生どもが乗り合わせて、煩わしいことが多いのですが、今朝は不思議と静かな車中でした。
 ところが、昼前から少し風が強くなって、苛々しています。冷たい風だからではなく、夏でも風のある日は嫌いです。なぜだかわからないが、無性に苛々してしまうのです。

 切支丹お蝶と簪抜きのことを考えたついでに、犯罪と風、もしくは低気圧との関係を調べてみようか、などと思い始めました。
 とくに常人には理解不能な常磐線荒川沖駅や秋葉原などの無差別殺人事件は、その日の気圧が大きな要素を占めているのではないか-と調べる前からすでに予断にとらわれています。

 通勤途上に花屋さんがあります。殺伐とした気分を慰めるのには花を見るのが最適です。
 毎朝、私が駅から会社に向かうときがちょうど開店の時間で、店の奥からせっせと鉢を運んでいる店主の姿を横目で眺めながら通り過ぎています。
 いまの季節だと木瓜(ボケ)か万両(マンリョウ)の鉢植えを買おうかと思うのですが、勤めを終えて帰るときには店はすでに閉まっているので買えません。
 去年、引っ越した直後には小手毬(コデマリ)の鉢植えを見かけて、随分触手を動かされたのですが、往きに買って会社に持って行くのはためらわれて、そのうち……そのうち……と逡巡しているうちに店先から姿を消してしまいました。



 画像は勤め先の前にある「こざと公園」の葦原と染井吉野の枝です。葦原は夏になると一面真っ青に変わって、チッチチッチと囀る行行子(ヨシキリ)の啼き声で賑やかになります。
 桜の蕾はまだ堅い。


谷中天王寺

2009年01月12日 20時00分30秒 | 歴史



 湯屋や髪結床など、人が集まるところで話題の種を提供していた籠抜けの切支丹お蝶と頻発する簪抜き事件 ― 。
 谷中在の湯屋に限ると、もう一つの噂話が囁かれるようになっていました。

 丑の刻参りの女を見た ― という者があったのです。

 上野・寛永寺の裏手から日暮里駅にかけての崖の上に天王寺というお寺があります。いまは小さな寺域しかありませんが、幕末期は広大な寺域を誇っていました。
 現在の谷中霊園は大部分が天王寺の境内と門前町があった跡です。
 関東では一番高いと江戸ッ子が鼻に掛けた五重塔(幸田露伴「五重塔」のモデルです)と四季を通じて花の絶えることがない境内が有名で、いつも見物客で賑わい、門前には多くの茶屋や娼家が軒を並べていました。
 そんな門前町も夕闇の訪れとともに惣門が閉じられ、さらに夜の帳(とばり)が降りると、さすがに行き交う人の姿もない。深更ともなればなおさらです。

 ある夏の丑三ツ刻……。
 寺の近くを白装束で蹌踉と歩く女の姿を見た者があるというのが噂話のもとでした。

 女の出で立ちが丑の刻参りの作法どおりであれば、顔は白粉で塗りつぶし、頭には五徳をかぶって蝋燭を立て、一本歯の下駄を履き、手には五寸釘……ということになるのですが、見た者はおどろおどろしくてよく見なかったのでしょう。
 あるいは、人っ子一人いないような真夜中に外にいたということは、酒でも呑んでいて目が虚ろであったのかもしれない。
 いずれにしても、その女が五寸釘の代わりに銀の簪を持っていた、ということには気がつかなかったようです。

 天王寺の裏手には「谷中の一本杉」と呼ばれる老杉がありました。その樹には、いつできたとも知れぬ大きなウロがありました。そこは蝙蝠(こうもり)たちがすみかとしているだけでなく、幹の周りを三回りしてもまだあまるほどの大蛇が住んでいると伝えられていたので、寺の坊主たちすら滅多に近づくことがない。
 だから誰も気づかなかったのですが、そのウロの中には、いつ置かれたともしれぬ等身大の藁人形がありました。その人形の身体は頭から爪先に到るまで、ビッシリと銀の簪で埋め尽くされていました。

 その簪を刺したのは切支丹お蝶です。
 思うだに憎い進之丞には違いないが、一度は許した肌の温もりを思い返すと、いざ刺そうというときには、さすがに心の臓に一撃を見舞うのは痛かろう、とお蝶の心も痛みます。
 急所を外せば、それほどまでに苦しむまい……と考えて、最初は乳のあたりに一本二本……やがて腹部に両手に、とつづいて、後年発見されたときには、全身くまなく銀簪で貫かれることになったのです。

 この話を我々に知らせてくれた矢田挿雲先生は、一体何本の簪が抜かれ、人形に刺されていたのか、本数を明らかにしていませんが、等身大の藁人形の身体に「くまなく」というのですから、とても十本や二十本では収まりますまい。
 何十本という簪には共通点がありました。すべて銀製で、平打ちされたところに、抜かれた娘たち(中には年増も何本か)それぞれの家紋が彫られたというものでありました。
 それだけの数の簪が抜きつづけられているというのに、犯人が男か女か、若いのか年寄りなのか……依然目星はつかないまま。それに加えて、なぜ家紋入りのものだけが狙われるのか、その動機もわからないまま。

 羅生門の鬼が簪を鷲掴みにして雲の中に姿を消す。地面では八丁堀の捕り方のみにとどまらず、奉行が驚いてひっくり返っている ― という構図の落書や落首を残して、世情は明治の開化期に向けて大きく揺れ動いて行きます。

※画像は「江戸名所圖会」で紹介されている天王寺の俯瞰図です。この本が出版されたころ(天保年間)は天王寺ではなく、感応寺という名前でした。


切支丹お蝶

2009年01月11日 22時10分26秒 | 歴史

 風邪ひき七日目です。ずいぶんよくなりました。
 養生専一にすれば、もう一日早くいまの状態に辿り着けたかもしれないのに、昨日十日は土曜日である上に給料日と、風邪の恢復を図るためには最悪の日でした。
 最初はおとなしく家に帰ってヘルシーな料理をつくろうと、スーパーで多めの野菜、豚肉、生鮭、多量の茸類を買ったのですが、ちょいとだけ……と浮気心が芽生えたが最後……結局は大きなレジ袋を両手に提げたまま、ハシゴ酒……。またまた午前様でした。

 サテ……。
 籠抜けで評判の切支丹お蝶と犯罪の痕跡をまったく残さぬ簪(かんざし)抜き ― 。
 湯屋などではどちらも格好の話題を提供していましたが、人々にとっては、お蝶はお蝶、簪抜きは簪抜きというまったく別な話題であって、この二つの話題を結びつけてみようなどという人は誰一人としておりませんでした。



 矢田挿雲という大正・昭和期の俳人に「江戸から東京へ」という全九巻の著作があります。
 その第一巻に切支丹お蝶のことが書かれています。それによると、お蝶が犯罪に手を染めるきっかけとなったのは悋気(りんき)でありました。

 竹内(たけのうち)家という旗本の次女に生まれたお蝶ですが、幼いころ
から武家社会とは馴染まない性格だったようです。
 屋敷が本所割下水にあったこともあって、町方の鉄火娘と交わったり、母親のへそくりを盗み出して、悪ガキどもに分配したり、若衆役者に入れ上げたりしていた。

 父親は甲府勤番、普段は屋敷にはいないものですから、我が娘の悪行を知るのに時間がかかりました。
 が、知ったが最後、烈火の如く怒って、勘当してしまいます。
 父親がいまでいう単身赴任、その心の隙間を埋めようとした母親と祖母の溺愛 ― 当人たちはお蝶可愛さのあまり愛情を込めたつもりだったのですが、結果的にはお蝶を不幸な娘に育ててしまったようです。

「出て行けっていうんなら、出て行ってやらぁ」
 そう啖呵を切って出て行こうとするお蝶。
 武家の娘とあろう者が「やらぁ」などという鉄火言葉を使いおって……父親はますます憤って、勘当するだけでは許せぬ、このような不肖の娘は我が槍で成敗してくれんものと追いかけてきます。それを必死で宥める母と祖母。
 二人は往来に駆け出したお蝶を呼び止めて、せめてもの心尽くしにと、当時流行だった家紋入りの銀簪と三十両という大金を与えるのです。

 遊び癖が身に染みついてしまっているお蝶にとって、三十両というお金は盗人に追銭のようなものです。
 たまたま谷中在(いまの日暮里あたり)に住んでいた乾分(こぶん)格の家に転がり込みますが、本所あたりに較べれば、静かな田舎というほかに何の取り柄もない谷中では、毎日が退屈でしょうがない。ブラブラと暇をかこっているうちに格好の遊び相手を見つけました。
 上野・寛永寺の若衆です。

 その名を進之丞といいました。
 もちろん源氏名でしょう。歳はお蝶と同じ、当時十九歳。日本橋の商家の次男坊で、水も滴るような美青年だったそうです。
 お蝶、たちまちぞっこんです。
 じきに夜な夜な密会を重ねる間柄になりました。
 互いの身体に刺青を彫る代わりに、お蝶は母からもらった竹内家の家紋入り銀簪を進之丞に与え、進之丞は切り取った襦袢の片袖をお蝶に与える。お蝶はそれを自分の襦袢に縫いつけて、会えない夜はとめどない涙で濡らす。

 寛永寺に限らず、寺の若衆の役目はただ一つしかありません。
 陰間(かげま) ― 僧たちの夜のお相手です。
 その陰間が夜になると寺を抜け出してしまうのですから、パトロンである僧侶は我慢の尾も切れてしまいます。ついには永のお暇を蒙る、ということになってしまいました。

 お蝶は真剣でしたが、進之丞には遊びの一つに過ぎなかったのかもしれません。お蝶との関係が無理矢理ながらも切られることになって、せいせいしていたのかもしれません。
 お暇を蒙ったあとは音信不通。それがお蝶の悋気に、火に油を注ぐことになってしまった。

 髪は女の命、その髪を飾る簪も女の命です。その命を与えてしまった男が、かくも、かくも……と、はらわたが煮えくり返るばかり。
 簪の中でも平打ちに家紋入りの簪だけが被害に遭った ― というのは、かくかくしかじかという次第です。


最近の愛読書

2009年01月08日 20時48分18秒 | 歴史

 また風邪をひいてしまいました。
 三か月ぶりです。どうやら四日の夜中、寝ているときにひいたようです。
 六日が一番ひどかったと思われたので、あとは少しずつ快方に向かうかと思いましたが、今日八日になっても一向に佳くなりません。



 このところ、「江戸語大辞典」(前田勇編)と「江戸大道芸事典」(宮尾與男編著)という二冊を座右の書にしています。
 両方とも重いので、通勤の行き帰りの電車で読むというわけにはいきません。紐解くのはもっぱら家に帰ってからです。通勤時に読んでいるのは、いまは文庫本の宮部みゆき「日暮らし」中巻です。

 幕末期、切支丹お蝶という女性がいました。籠抜けという大道芸で人気を集めた人で、実在の人物です。
 籠抜けとは、籐や竹で編んだ三尺長さの胴丸籠の中を横っ飛びに飛び抜けるものですが、跳躍力が優れていればできるというものではありません。
 大人の男の場合は、胴丸籠の中に刀の抜き身を何本か立てる。子どもの場合は火を灯した蝋燭を立てて、それを消すことなく抜けるのです。荒芸の一つです。

 そんな中でお蝶の人気が取り分け高かった理由は、というと……。

・荒芸に挑む女芸人が少なかったということ。
・ことにお蝶は襷を掛けてはいたものの、振り袖姿だったので、どこかを引っ掛けてしまうのではないかと、よけいハラハラさせたこと。
・三白眼であることを除けば、非の打ちどころのない別嬪だったということ。
・大道芸人の多くは芸で人を集めておいて、薬やら何やらを売ろうとするものですが、お蝶の場合は観客が投げてくれる投げ銭だけを生活の糧にしているらしいこと。
・そして何よりも、切支丹お蝶という名が示すように、来歴・正体がまったく知れなかったこと。

 当時の人は見たこともないようなものがあると、日本はおろか唐天竺にもない。あるとすれば、南蛮あるいは切支丹だろうと想像したので、切支丹お蝶と呼びました。お蝶が切支丹信者だったわけではありません。

 そのころ、江戸の街で簪(かんざし)を抜かれるという事件が多発しておりました。
 抜かれるのは決まって銀の簪。それも円形に平打ちしたところに持ち主の家紋を入れる、というものでした。
 その手の簪を挿すのは当時の流行だったようですが、俗にビラビラと呼ばれる飾りを付けたもの、珊瑚や鼈甲をあしらったものなど、値段でいえば平打ち家紋入りより高価なものがあったのにもかかわらず、そういう簪の被害はなかった。

 盗られるのは家紋入り ― と決まっていたのです。
 不思議なことに、抜かれた瞬間に気づいたという被害者は一人もいない。被害に遭ったあと、しばらく経って、何かの拍子に髪に手をやってみたら、簪がなくなっていることに気づいて、訴え出るというパターンです。

 というわけですから、犯人の顔を見た者は一人もいない。従って犯人が男か女か。老人か若者かの見当もつかないまま、被害者は増えるばかりでした。

 簪は一応は銀製ですし、家紋を彫るというのですから、その日暮らしの一般庶民には縁のないものです。挿せるのは高級武家や大店の婦女子、旦那のいる芸者……それ以外は訳アリの婦女子です。
 訳アリでは被害届も出さないことがあるし、届は出しても、いざ抜かれた場所となると、そこでは情夫と一緒だったりして、人に知られるのはまずいから、いかにも被害に遭いそうなところには行っていない、と供述を不確かなものにしてしまうところがある。
 よって、捜査はますます難航することになる。

 簪を抜かれて気づかぬ者がいるとは考えられません。
 もしいるとすれば、先のように何かほかに気を取られるようなことがあったものだから、気がつかなかったという特殊な状況があるのです。
 被害者たちの供述のうち、信じるに足りると思われるものをまとめると、共通する点が浮かび上がってきました。事件に遭った日は祭りとか見せ物とか、人出の多い場所に行っていた、ということがわかってくるのですが……。
 風邪にて、考えがまとまらくなってきました。
 よって、〈つづく……〉


お年玉

2009年01月05日 18時55分03秒 | 日録

 お年玉をもらったような気分です。



 昨四日の朝、ぬぁ~んと我がマンションから筑波山が見えたのです。
 引っ越してまだ十か月、生来の人見知りという性癖もあり、エレベーターが庵の真ん前ということもあって、ドアが開けばさっと乗り、帰ってくるときもさっと降りて室内に引っ込んでしまう。まかり間違ってもマンションの廊下を歩くことなどなかったので、筑波山が見えることには気がつかなかったのでした。
 朝日を浴びて男山女山という二つの峰がくっきりと見えました。

 しかし、カメラに収め、パソコンに取り込んで見てみると、くだんのごとし。 
 添付画像にすると、なおのことハッキリとしませんが、カメラと私の腕のせいですから、仕方がないのです。



 歌川広重さんの描いた江戸名所百景「にい宿の渡し」に、筑波山が描かれています。
「にい宿」というのはいまの葛飾区新宿です。
 地図で新宿と筑波山を結んでみると、我が庵のある場所はちょうどその線上にあります。広重さんは私が見たより少し遠くから眺めたわけです。

 夕方、買い物に出たら、大晦日から四日間、灯を落としていた新松戸の飲み屋街に、ほんの少々活気が戻ってきていました。
 私がよく行く寫樂、韓国人ママのいる粋恋、もう一つ馴染みのテンプテーションという店は大体同じ一画にあります。この狭い一画に二十軒ほどの店が軒を連ねています。
 飲み屋だけではなく、お好み焼き屋、串揚げ屋、おでん屋などもあります。少し離れたところにはラウンジなどというのもあります。入ったことがないので、システムと値段などは知りませんが……。

 外はすでに真っ暗とはいっても、まだ夕方だったせいか、店を開けていたのは串揚げ屋とおでん屋、それにまだ入ったことのない一軒のカラオケスナックだけでした。
 昨日は日曜でもあったし、大概の店は正月休みがつづいていました。

 突然、闇をつんざくようなおじさんの唸り声が聞こえてきました。そのカラオケスナックからです。
 四日にわたる休みの間、満を持していた、という歌い方です。正月の間、おじさんは腕を撫しながらも、さぞ悶々としていたのだろうなぁと思うと、思わず微笑んでしまいました。

 買い物から帰ったあと、段ボール箱に詰めたままだったCDを引っかき回して、ケルト・ミュージックを聴いています。
 オイスターバンドというイギリスのバンドです。
 ケルトの民俗音楽というより、ロックバンドですが、どの曲も街頭を流しながら演奏しているという雰囲気が漂ってきて、愉しいバンドです。アコーディオンとフィドルがいかにもケルトらしくて、私には好ましい。

http://www.youtube.com/watch?v=bvxyT1VpCVA


風もなく好天の朝です

2009年01月03日 09時29分34秒 | 日録

 日記をつけ始めて十八年目を迎えました。
 日々の出来事 ― まあ、あまりたいしたことは書けませんが ― とともに、その日の天気、最高最低気温、雨量、日照時間を付記しています。一日数行という日もありますが、1992年の一月一日から昨日までの六千余日間、欠かさずつけております。

 元旦。
 2009年用に新しいファイル ― 日記はパソコンでつけております ― を、つくろうとしてざっと見渡したところ、この十八年間を通して雨の降らなかった日が四日だけあることを発見しました。一月一日と一月三十日、十二月二十五日、十二月二十六日の四日です。一月一日以外は去年までの記録ですから、残りの三日が十八年連続となるかどうか、まだわかりません。
 日記には「桔梗庵日録」という題をつけています。つけ始めたときはワープロを使っていたので、保存するのに名前をつける必要があったからです。

 十八年間で四度転居しました。
 住んだのはいずれもマンションの一室ですが、「庵」と付けたのは、将来的には僧侶の資格をとって、寺子屋のようなものを開き、社会奉仕 ― というほど大上段に振りかぶる気持ちもないが ― をすることによって、自堕落に過ごしながらも、食いっぱぐれることもなく、大病を患うこともなく、生きてこられたことに対して、お返しをしなければならぬという気持ちがあったからです。
 しかし、その夢はまだ夢のままです。




 金木犀(キンモクセイ)通りに咲いている水仙を撮影しました。
 武蔵野貨物線の敷地内です。50メートルほどにわたって一列に植えられています。余人は入れませんので、旧国鉄の関係者が手入れしているものと思われますが、まだ人がいるのを目撃したことはありません。全部の花が咲くのはもうちょっと先のようです。

  去年暮れ近く、おぢさんのお友達であるくのいち ― ブログ友達で、会ったことはないので、正体はよく識りません。大分県に住む、非常に学業優秀な女子中学生であるらしい ― という娘さんに教わって、歴史ブログというサイトに登録をしました。ついでにロック(音楽です)、松戸情報など、自分のブログに関連がありそうなサイトにも登録をしました。

 おぢさんはまだ充分に理解していませんが、それぞれにアクセスすると、gooというサイトに「桔梗さん」のブログがあるよ、というメッセージがあって、他のサイトからの訪問者が増えるということらしい。
 ランキングもあって、それぞれのジャンルで訪問者の数が全体の何位に当たるかも出ます。何千何万という数があるので、「桔梗さん」のブログなどものの数にも入りませんが、元旦、「おっ」と思わず声を上げそうになった出来事がありました。
 ぬぁーんとぬぁーんと松戸情報で「桔梗おぢさん」のブログが3位に入ったのです。
 ただし、松戸情報の参加者は14名 ― 。

 14名中の3位か。どうということはないね……はて?……そうでもなかろう…そうだね…少なくとも悲しむことではない……そうだね……じゃあ、お祝いするか……。
 ということで、お正月でもあり、朝から焼酎を呑みました。二日、今日三日と、おぢさんは依然3位をキープしています。

 興味を惹かれたサイト、物珍しいサイトがあると、ついクリックしてしまいます。そのうち、悪徳サイトに引っ掛かるかもしれない……と危惧しながらも、マウスをカチリカチリ。

 全国大学ラグビー選手権をテレビ観戦しました。
 メイジが出ていないので、どっちが勝とうが関係なし。ハラハラドキドキすることもなし。負けたからカタを持つのぢゃないが、どちらかというと、東海大と法政に期待をしていたのですが……。
 いずれにしても、極めて安穏な気分で観戦しました。
 帝京大のフィフティーンを初めて見ました。
 うーむ。
 フォワードは体格が優れているのみならず、スピードもあり、大学チームとしてはかなり完成されているナ、という印象を懐きました。いまのメイジでは勝てなかったのもむべなる哉……。