桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2016年十月の薬師詣で・中央区

2016年10月08日 22時44分10秒 | 薬師詣で

 八日は朝から雨。
 先月はさいたま市を歩きたいと考えていたのに、台風の余波があったので、江戸川区に変更。今回は目覚めたときは曇り空でしたが、未明に雨が降ったようで、窓越しに見る路面は濡れていました。
 インターネットで天気予報を視ると、一日じゅうぐずついた天気で、雨はまだまだ降るようでした。今月こそさいたま市、と期待していたのに、今度は雨で変更を余儀なくされました



 出かける前に地元の慶林寺に参拝します。



 北千住で地下鉄日比谷線に乗り換えて、茅場町で降りました。



 右に東京メトロの標識があるのは、東京証券会館です。
 いまから約四十年前、新聞記者で建設業界を担当していた私は八丁堀にある建設会館から、東京証券取引所まで、日に何度も往復し、会う約束をした人があれば、大抵はこの東京証券会館の一階にある喫茶店を使ったものでした。

 それからウン十年、茅場町の交差点近くに立って、大手町方面を眺めると、三十五階建ての東京日本橋タワーができた以外、景色にとくに変わったところはないように思えます。



 東京証券会館を廻り込むと細い路地があり、右手奥にお寺らしき佇まいがあるのが見えました。
 東京証券取引所へはもう少し先の道を曲がるので、この径へ曲がった、という記憶はありません。曲がっていたとしても、当時はお寺などに興味はありませんでしたから、なんの気なしに前を通り過ぎていたのでしょう。

 左下の烏帽子を横から見たような形の石碑は芭蕉十哲の一人・榎本其角(1661年-1707年)の住居跡であり、終焉の地です。「其角住居跡」と彫られています。



 路地を進んで行くと、ありました。
 が、さすがに町中のお寺という感じです。




「江戸名所圖会」にある日本橋日枝神社(御旅所)と智泉院薬師堂です。
「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。
 慈眼大師とは天海僧正です。元々は江戸城を築いた太田道灌が、自分の領地(相模国大庭村=神奈川県藤沢市)にあった薬師如来を江戸に移しました。
 のち江戸城に入った家康が、天海に命じて江戸城の鎮守である日枝神社(千代田区の山王神社)の神輿が渡るところである山王御旅所を南茅場町に設置し、別当寺として薬師堂をつくりました。これが智泉院の始まりといわれています。

 その当時の地誌や名所案内には、必ず茅場町の「お薬師様」の賑わいが描かれていて、
天保九年(1838年)に刊行された「東都歳事記」にも、「茅場町別當知泉院。當所ことに参詣多し。縁日毎に夕方より商人多く、又盆栽の草木庭木等を售(あきな)ふ事夥し。故に、坂本町の邊を植木店といふ。都て近來盆種の草木世に行れて、縁日毎に商ふ内にも、當所を首とす」と記されています。
 寛延四年(1751年)版の「江都年中行事」にも、毎月八日の薬師詣では、本所の弥勒寺と並んで智泉院が挙げられています。
 八代目桂文楽さんが得意とした「心眼」(作者は三遊亭円朝)も、茅場町の「薬師様」が主役です。




 扁額には「かやば町のお薬師さま」とあります。
 扉の把手を引いてみましたが、開きませんでした。

 雨を突いて薬師詣でにやってきましたが、「かやば町のお薬師さま」は本当はもうここにはないのです。現在は川崎市宮前区にある等覚院というお寺に安置されているのです。
 川崎……と聞くと、いまの私はその遠さに、ふぅ~ッと溜め息をついてしまいますが、いつか機会ができて、薬師詣での行程に組み入れることができたら、と思います。




 境内に建つ地蔵尊。青銅製で、高さは2メートル35センチ。昭和二年、関東大震災で亡くなった人々を弔うために、日本橋魚河岸の「地蔵講」が建てたものです。



 智泉院の前には日本橋日枝神社の裏口がありました。
 祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)の四神。


 


 雨が恨めしいのか、狛犬は天を仰いでいました。