昨日は一日じゅう曇で、ときおり小雨がパラパラ……。今日は晴れましたが、午後から曇。一日じゅう晴れてくれる、という日はなかなかありません。
テレビの天気予報で「貴重な五月晴れ……」などという言葉を耳にすると、何年か前(何十年か)までは「言葉で生活を立てているはずのアナウンサーが五月の意味を知らぬとは嘆かわしい」と思ったものです。
いうまでもなく、この五月は旧暦五月のこと。つまり現代なら六月 ― 梅雨の季節ですから、あまり晴れることがない、というところから、晴れた日は貴重な一日、というので五月晴れといったのです。
一方で、言葉は生き物ですから、時代とともに変わって行くのは否定しません。
五月に入ってから雨の日が十日もあったので、晴れ間が出ると、今風の五月晴れということになりそうです。
今日午前中の富士川上空です。
田植えの終わった田んぼでは、カルガモが自主的にカルガモ農法を展開していました。
こちらは富士川で泳ぐ別のカルガモたち。子どもが生まれたみたいです。
富士川右岸(流山市)から撮った左岸(松戸市側)です。
いつの間にかカラシナ(芥子菜)の黄色い花の季節は終わって、白っぽく見えるのはハルジオン(春紫苑)です。コンパクトデジカメで撮影しているので、よく見えませんが、肉眼で見れば結構豪華に咲き誇っているのです。
アカツメクサ(赤詰草)。富士川右岸で。
タンポポ(蒲公英)の季節はとうに終わったと思っていたのに、これから咲こうという花がありました。これも富士川右岸で。
少し前までは日なたが恋しくなるような陽気だったので、そこここで日なたぼっこをしている猫たちがいました。
久しぶりに濱吉に会いました。飼われている家の苗字から一字をとって名づけました。
背後から「ニャー」と呼びかけられて気づきました。
私と馴染みになっている猫の何匹かは私が餌を置こうとして腰を下ろすと、私の靴やスラックスの裾に頬腺をなすりつけてマーキングしようとします。
濱吉もマーキングを試みに近寄ってきますが、濱吉の場合はその前に必ずすることがあります。私が腰を下ろすと、膝におでこをゴッツンコするのです。
私がときおり野菜を買う家で飼われている猫です。家の前に台が置かれ、その上に収穫された野菜類とお金を入れるため、ひっくり返された陶器製の鉢が置かれています。
いつだったか記憶はあやふやですが、ある日、野菜を買おうとしたときに、たまたまその家のご主人が居合わせたので、立ち話をしていたら、濱吉がその家の前にある畑のほうから飛ぶように出てきて、私の足許にまつわりつきました。
数日前に初めて見かけて、餌を与えていたのですが、そのときは親しげに鳴きもせず、ゴッツンコもマーキングもしませんでしたから、その所作には私も愕き、飼い主も愕きました。
餌をもらったことがある上に、飼い主と友達らしいと安心したのでしょうか。
それから何度か会っていますが、庵に帰ったあと、日記を調べてみたら、前に見かけたのは去年の十月二十日。なんと七か月ぶりでありました。
こちらはうさ伎(うさぎ)。ちょっと前までは私を見つけると、ポンポンと跳ぶように走ってきたものですが、最近は悠然と歩いてくるようになりました。少しずつ成猫になって行きます。
濱吉と会ったところからうさ伎のいるあたりまでの距離は約200メートル。
木曜日の午後、薬をもらうため、新松戸の病院へ行きました。
電車で行けばわずか一駅で、確かに電車に乗ったほうが早いのですが、電車を降りたあとは我が庵のほうに戻るような形になるので、いつも歩いて行くことにしています。
通院は八週間に一度というペースなので、行く日を忘れてしまいそうです。
長らく建築中だった新病棟が完成していました。八週間前の通院時、薬の処方箋と次回の診察予約表を持ってきてくれた事務員が、次の診察日は新しい病棟になる旨を告げてくれました。
きれいにはなりましたが、なんとなく無機質。
診察の結果、三十一日に大腸の内視鏡検査を受けることになりました。
薬をもらっていながら、なかなか改善されない症状があります。担当医師の予測だと、私を悩ませている症状の原因は大腸にポリープがあるか、自律神経失調症か、あるいはうつ病ということです。
自律神経失調症かうつ病であれば、受診するのは心療内科、もしくは精神科ですが、私が通っている病院は多くの診療科を有する総合病院であるのにもかかわらず、幸か不幸か、両方ともありません。
胃カメラを飲むときと同じように、前夜九時から絶食です。
もろもろ考えると、首うなだれるものがあります。
前夜から検査当日の朝にかけて服んでおく薬品(アジャスト錠、ピコスルファートナトリウム一瓶、スクリット一袋)をもらって帰路に着きました。
ポリープが見つかると決まったわけでもないのに、なんか急にしょんぼりしてしまいました。
今日は土曜日、「あじさい寺」と呼ばれる本土寺参道入口に老舗葛餅屋の臨時売店が店を開けました。まだアジサイ(紫陽花)も咲いていないので、さすがに客の姿はない、と思ったら……。奥に狭い椅子席があって、老夫婦が坐っていました。
数えるほどですが、参道では紫陽花の花が開き始めています。
本土寺には深い森があるおかげで、いまでも鶯の啼き声が盛んです。ことに裏に当たる森では縄張り合戦か。
昨八日は毎月恒例の薬師詣での日。
埼玉県の上尾に薬師堂のある寺院が二か寺あるのを見つけたので、行くことにしました。
上尾といっても、下車するのは北上尾の駅。我が庵のある北小金からだと新松戸、南浦和、浦和(この日は大宮)と、三度も乗り換え、一時間十五分かけて高崎線の北上尾駅で降りました。
この駅に降り立つのは二年前の三月二十八日以来です。乗り換えの不便さをおして、こんなところまできたのは薬師詣でのほかに、龍山院というお寺にある無患子(ムクロジ)の若葉を見たいと思ったからです。
訪れるのは二度目に過ぎないのに、駅を出て歩き始めると、緩くカーブしている道の様子など、前回訪問したときの記憶が蘇り、地図を片手に持ちながらも、その地図には一度も目を落とすことなく、駅から約十八分で上(かみ)氷川神社に着きました。
前回のブログにも載せた上氷川神社の狛犬。とくに愛嬌がある、向かって左(画像上)の吽像。
上氷川神社の森を抜けると、龍山院のムクロジが見えてきました。
毎日の散歩の途上、いつも私が眺めている流山・観音寺のムクロジに較べると葉の出るのは少し遅く、葉が顔を出し始めたばかりです。青々と繁るのはもう少し先。
真言宗智山派の寺院・龍山院山門です。
本堂前にあるムクロジの樹です。幹周り3・6メートル、樹高14メートル。
寺伝では正徳元年(1711年)、当寺十三世の覚本という和尚さんが檀徒代表と出た諸国巡礼から帰ったとき、桜とカヤ(榧)と一緒に植えたものだといわれていますから、去年がちょうど三百年です。
二年前にきたとき、なかば土に同化しかかっている実が根元に落っこちているのを見つけました。
ムクロジの樹を見たのはそのときが初めてだったので、その実がムクロジの実かどうかわかりませんでしたが、もらって帰ってプランターに埋めました。
その後、いろんなところでムクロジを見ることになり、実が生っているのも見て、プランターに播いた実は確かにムクロジに違いないとと確信が持てるようになりましたが、肝心の実は芽を出す気配がありませんでした。
そして……実を播いたことなど忘れかけていました。
しかし、播いてから三か月ぐらいで芽を出してくれました。
樹齢三百年の樹の子ども……。
そう考えると感慨深いものがありました。その樹がいまは我が庭に移し替えられて、90センチほどの高さに育っています。
境内は無人だったので、誰に遠慮することもなく、そういうことどもをブツブツと呟きながら、幹を撫でて樹の周りを一周しました。家に帰ったら、我が手のひらで感じ取った母のぬくもりを、子に伝えてやろうと考えたからでした。
ムクロジと一緒に植えられたという言い伝えのあるカヤです。樹質のせいか、ムクロジのようにどっしりとはしていません。幹もかなり朽ちている様子です。
もう一本の桜は昭和七年の竜巻で倒れてしまったそうです。
龍山院を出たあとは臨済宗円覚寺派の少林寺を目指します。
薬師詣での第一の目的地はずっと先の密蔵院なのですが、途中なので寄って行くことにしました。
ここからは初めて歩く道なので、地図必携です。
龍山院から八分で少林寺に着きました。
正応元年(1288年)の創建。本尊は十一面観音。
山門の梁(はり)に「宝暦三癸酉歳」(1753年)と記されているので、山門はこの年の建築物と考えられています。文化三年(1806年)の火災で本堂や庫裡は焼失しましたが、この山門だけ焼けることなく、残りました。
少林寺本堂。
開山は鎌倉・円覚寺二世の大休正念大和尚。中国・温州(うんしゅう)の人で、文永六年(1269年)に来日、少林寺を創建した翌年示寂。
開基は北条時宗の後室であり、九代執権・貞時の母でもある覚山尼(かくざんに)という人。この人は縁切り寺として知られる鎌倉の東慶寺の開基でもあります。
できるだけ車の通らない道を選んで歩いていたら、上平公園という公園にぶつかりました。
夜間照明つきのテニスコートが12面、5500人収容の野球場があるなど、結構広大な運動公園です。
その野球場の前に、なんだか見たような葉を繁らせている樹がある、と思って近づいてみたら……ムクロジでした。上尾公園(どこにあったのか不明)が閉鎖されるとき、そこにあった樹を移し替えたのだそうです。
少林寺から黙々と四十分歩いて密蔵院に到着。
真言宗智山派の寺院ですが、創建年代、由緒などは不明です。本尊は虚空蔵菩薩。
山門をくぐると、左手に薬師如来と日光・月光両菩薩、さらに十二神将を祀った薬師堂がありました。
薬師如来像は江戸時代のものですが、日光・月光菩薩像はともに十一世紀ごろの制作で、上尾市内の仏像ではもっとも古い時代のものだそうです。十二神将は延宝七年(1679年)から貞享元年(1684年)にかけての作。
扉が閉じられていたので直接拝むことはできませんが、静かに合掌して私の病が快方に向かいつつあることへのお礼と二人の友が無事息災であることをお願いします。
「薬師経(薬師瑠璃光如来本願功徳経)」には、薬師如来がまだ菩薩であったころ、衆生を救うための十二の大願を立て、それらを実現させると誓って如来になった、ということが説かれています。
私には自分の現世利益を求めようという気持ちはないので、数々のお寺に参詣しながら、自分がかくかくしかじかとなりますように、とお願いしたことは一度もありません。
されど、薬師如来が十二大願を立て、その中でもっとも有名な第七願(除病安楽)によって、衆生の一人である私も病から救われつつあるのだろうということは信じるので、願をかけたことはないけれども、お礼を申し上げるのです。
そして現世利益は求めないといいながら、利己ではなく利他であれば、仏もお赦しくださるだろうという自分勝手な解釈から、病を持っている友が少しでも癒されますように、とお願いしつつ毎月薬師詣でをしようと決めたのです。
密蔵院から上尾の中心街に向けて引き返す形をとり、四十分足らずで遍照院に着きました。
ここも真言宗智山派の寺院で、薬師如来を祀る薬師堂があります。
薬師堂です。
この遍照院のホームページには「毎月八日は薬師如来縁日」と紹介されていたので、何か行事があるか、行事はないまでも、扉ぐらい開けられていて、じかに薬師如来を見ることができるやもしれぬ、と思ってきたのですが、空振りに終わりました。
何はともあれ、ここでも我が友の無事息災を念じ、私自身の病が快方に向かいつつあるのを感謝しました。
ここも創建年代は不明。
しかし、開山の阿順法印という人が応永九年(1402年)に示寂、ということがわかっているので、室町時代初めには創建されていたことになります。
遍照院は上尾駅から徒歩三分という中心街にあります。
門前の参道には左右に商店が並び、その先は旧中仙道です。そこに江戸から数えて五つ目の上尾宿がありました。
旧中仙道。正面に見えるのが丸広百貨店。
先月、やはり中仙道の宿場だった浦和宿を歩いていますが、見渡した感じがよく似ています。
帰りは一駅東京寄りの上尾駅から電車に乗りました。
→この日歩いたところ。