この夏は早い時期から暑くなったので、ちょっと涼しくなると、夏が終わったみたいな錯覚を起こしました。しかし、本当の夏はこれから。
酷暑といい、逆走台風といい、みんなでオカシイオカシイといっていますが、少なくとも夏の暑さに関しては、オカシイのは今年になって始まったわけではありません。
過ぎたばかりの私の誕生日は、例年地獄のような猛暑の中で迎えるのが通例でした。最高気温は低い年でも30度。30度なら涼しいほうで、35度36度は当たり前でした。が、三年前から30度を切るようになって、今年も27・2度。そのぶん、ほかの日が暑くなったのでしょうか。
異常なら異常で、このまま涼しくなってくれればありがたいのですが、そうは烏賊のなんとやらで、猛暑が戻ってきました。
私にとっては加えて具合の悪いことに、人生初体験の坐骨神経痛に見舞われることになりました。
突然、歩くのに難渋するようになってしまったので、病院には行けません。
かといって、日課にしている慶林寺の参拝は休むわけにはいきませんし、毎日という必要はなくとも、買い物にも行かなければなりません。
痛みが出ると、オットットと独り言を呟いて立ち止まり、近くに腰を下ろせるような場所があれば腰を下ろし、なければ脚をひきずり、立ち止まり、立ち止まり、を繰り返しながら、なんとか腰を下ろせる場所まで辿り着きます。
痛みが出ても、どこかで二度三度と腰を下ろすことができれば、とりあえず痛みは去ってくれるのです。そのあとは、自由に歩き廻る、というわけにはいきませんが、買い物ぐらいなら、なんとかこなせます。が、かかりつけの病院まで行くとなると、電車に乗っても、倍ぐらい歩くことになるので、行ったほうがいいと思いながらも、行けないのです。
どうにもひどくなったら、タクシーを呼ぶことにします。
休み休み慶林寺参拝に出かけましょうと、庵を出て見上げた空はこ~んな夏空。
慶林寺は今日は珍しく門を開けていました。
七月の晦日というだけで、薬師如来の縁日でもなく、観音菩薩の縁日でもないので、お賽銭はあげませんが、折角門が開いているので、正面石段下に見える香炉前まで進んで参拝します。
参拝を終えて、上の画像をカメラに収めていたら、三毛猫殿がトコトコと歩いてきました。参道にある二軒の民家のうちの一軒で飼われている猫殿です。
ときどき見かけますが、飼い猫だとわかっているので、キャットフードを与えたことはありません。第一、見かけるときはいつも離れていて、近づいてきたことがありません。それなのに、こうして近寄ってきてくれたのは初めて。
きっと私をだれかと間違えたのでしょう。真下までくると、クルリと向きを変えて、立ち去って行きました。暑さのせいで猫殿もボケたのかもしれません。
観音様も舞い戻ってきた暑さに辟易されている様子です。
日除けの傘を差し上げたいが、この大きさでは、昔の殿様が野点で使ったような野点傘でも間に合いそうもない。
そもそも台座を含めると5メートル近くもある高さでは、間に合う傘があったとしても、差しかける術がありません。
観音様の前に置かれた水盆で花を咲かせる蓮。
散策路の途中にある臭木(クサギ)です。
二十八日に襲来した台風12号によってもたらされた雨で、少しは生気を取り戻したかと思えたのに、舞い戻ってきた暑さに、再びグッタリしています。
枯れてしまわなければいいけれど……。
よくもまあ飽きもせずに暑い日がつづくものです。
去年は七月二日に31・2度を記録して以降、七月二十三日に27・9度と30度を切るまで、三週間もの間、最高気温は途切れることなく30度以上を記録しましたが、今年はそれを凌駕するかもしれません。
今年初めて30度を超したのは六月二十五日。いったん30度を割りましたが、七月八日に30度台に復帰。それから昨日まで二週間以上30度以上をキープしています。
今日も34・7度。昨日(37・1度)と較べれば多少はマシか、とも思いますが、35度前後という暑さだと、2度3度低くなったぐらいでは、昨日より涼しい、という感覚はありません。
我が庵から慶林寺へ向かう途中にある鹿島神社です。
かなり高木の染井吉野(ソメイヨシノ)と、ちょっとした杜があって、暑い日は涼しげですが、この日はさんざめく蝉時雨で、涼しさを感じさせてはくれませんでした。
子どものころは油蝉(アブラゼミ)なら、網を使わなくても、素手で捕まえることができたものです。いまは捜そうとすれば手間取り、やっと見つけたと思っても、捕まえようとしたら、逃げられてしまいますが……。
今日も日課の慶林寺に参拝。
門前に置いてある水盆では睡蓮が咲き始めていました。
この睡蓮の花を見て、次に葉を見て、その次に、すぐ横にある蓮の水盆を見るのも、このところの日課の一つです。
散歩途上にある臭木(クサギ)です。
いまごろは花の季節なのに、花がない、と思って近づいてみたら、花を咲かせるどころか、枯死寸前の有様でした。暑いのもさることながら、彼らにとって敵わないのは雨がないことです。
我が地方の雨のデータを調べてみると、気象庁の船橋観測所で今月九日の朝七時から九時にかけて、9ミリの雨が降ったことになっていますが、これはあくまでも船橋観測所の記録です。
松戸には観測所がないので、絶対に、とはいえませんが、九日の朝、私は七時過ぎに敷き布団と枕とタオルケットを物干し竿にかけています。
部屋から見える南の空(松戸から見れば船橋の方角)に黒い雲があるのを見た記憶がありますが、パラパラという雨の音に愕いて、慌てて布団を取り込んだ、という記憶はまったくないので、船橋では降ったのだろうが、松戸では降っていないと断言できます。すなわち、松戸ではまったく降雨がない! 多少の雨に恵まれた船橋でも九日の9ミリ、十二日の0・5ミリを除くと、今日二十四日まで降雨はありません。
こちらは私が棲む高台の斜面に咲くクサギの花です。
原生林などということはないでしょうが、斜面の高さは20メートルほどもあり、人が立ち入っているのを見たことがない林なので、この日照りつづきでも、水分は充分なようです。
余談ながら、だれも見ていないときに立ち入っているのは、ソファやタワーパソコンなど、中には洗濯機や冷蔵庫という大物までを不法投棄する輩だけです。
さらに余談ながら、不法投棄に手をこまねいている自治体がいっぱいあるのだから、不法投棄が起きそうなところには監視カメラを設置して、どんどんしょっぴいてやればいいと思うのですが、滞納されると自分たちが困る税金や健康保険料の取り立てには厳しいくせに、住民が困ることには鈍感なようです。
手持ちの植物図鑑によると、クサギという名の由来は葉に悪臭がある、ということです。
確かに密生している場所に差しかかると、鼻にツンとくるような臭いがありますが、クセのある臭いではあっても、それを悪臭といってしまうのはこの樹に可哀想です。
夕暮れ近くになると、多少は涼しいと感じられるようになる富士川河畔です。
羽中橋という橋を渡って、松戸市から流山市へ。橋の上から上流方向を望みます。
左の流山市側(画像では左ですが、右岸です)の夏草はきれいに刈り取られているのに、右の松戸市側は草ぼうぼうのままです。
稲は随分丈を伸ばしてきました。近づいてみると、もう稲穂が出ています。
このブログのタイトルとした「蝉時雨」ではなく、「蝉しぐれ」と書けば、故・藤沢周平さんの代表作の一つです。
主人公は藩の政争に巻き込まれて切腹させられた父を持つ、「牧文四郎」と彼を慕いながら、藩主の側室となって、身分違いとなる幼馴染の「ふく」です。
2003年にはテレビドラマ化(NHK金曜時代劇)、2005年には東宝で映画化もされました。
牧文四郎を演じたのはテレビでは内野聖陽、ふくは水野真紀。映画では市川染五郎(現・松本幸四郎)と木村佳乃。
私見ながら、藤沢さんの小説の映画化で一番のお薦めは、「必死剣鳥刺し」(2010年)だと思います。
主演は豊川悦司と池脇千鶴。
腹黒い中老役を演じる岸部一徳も秀逸です。秀逸なだけに、最後、寄ってたかって斬り殺された、と思われた豊川悦司が、絶命してはおらず、「必死剣鳥刺し」で岸部を一刺しする段では、思わず血が高ぶって、「ざまァ見ねェ」と快哉を叫んでしまいます。
余談のまた余談の話。
この映画の冒頭、このところじわじわと人気が出始めている木下ほうかがチラとだけ登場します。この映画を観たときは顔は見たことがあっても、まだ名を知らなかったので、なんという名の俳優だろうかと気になりながらも、映画の最後に流れるクレジットを食い入るように見つめたことがありますが、名がありませんでした。ザァーッと流れて行くクレジットでは見落としたのかもしれないと思って、いろいろ手を尽くしてみましたが、彼が売れるようになって名前を知るまで、八年近くもかかりました。
今月の薬師詣では足立区にある南光寺、西門寺、薬師寺を訪ねて歩きます。
出かける前に地元の慶林寺に参拝します。
今日も山門は閉ざされていましたが、縁日の今日はお賽銭をあげなければならないので、通用門から本堂前にお邪魔し、この小鐘を撞いて、お賽銭をあげます。
西日暮里駅で降りました。
ひところ(と、いっても十五年以上も前のことですが)、この駅からほど近い田端新町に馴染みの呑み屋ができて、足繁く通ったことがあります。そのころは千葉県民ではなく、浅草の住人だったので、行くときは西浅草三丁目から池袋駅東口行の都営バスに乗り、帰りは当然タクシー。一週間に一度は通っていたような気がするのに、いつから足が遠のいてしまったのか、いまでは行こうとしても、どこにあったのか、場所がわかりません。
西日暮里で日暮里・舎人ライナーに乗り換えます。
十年も前の2008年(平成二十年)に開通していますが、乗るのも見るのも初めてです。
少年のころの私は、いまでいう撮り鉄の端くれだったのかもしれませんが、新幹線ができて以降、在来線の長距離列車が次々と姿を消したころから、高校生大学生となったこともあって、撮り鉄は卒業。しかし、初めて乗ったり見たりする路線というのは、ちょっぴりワクワクします。
電車がきたらカメラに収めてやろうと意気込んでいましたが、プラットホームはガラスで覆われていて、撮すのは難儀のようで、ちょっとガッカリ。そして、初めて体験する乗り物に心をウキウキと弾ませていたのもここまで。
車内は異常に狭く、向い合わせ四人がけの座席は、もしかして子ども専用? と皮肉をいいたくなるほどの狭さです。脚の長い(?)私が坐ると、前の座席に膝がくっついてしまいそうです。とても大人四人が向かい合って坐ることはできません。
データイムで空いていたこともあり、狭さは災とはなりませんでしたが、いざ走り出すと、乗ったことを後悔しました。
西日暮里から終点の見沼代用水親水公園までは路線はほとんど一直線です。ところが、車体は揺れに揺れるのです。
さらにいけないことには、普通の鉄道が高架を走る場合、防音壁や遮音壁があり、ない場合でも路盤があって、車窓の真下は見えないものですが、真下が丸見え、という状況だったのです。
走る高さはマンションやビルの四、五階です。
荒川を渡って行きます。高所恐怖症の私には、よくぞこんな高いところを走るもんだと目も眩むような高さを走ります。この画像も極力後ろに身を引いて(実際は気持ちの上だけ)撮影。撮し手が魂消ていたせいか、画像は赤外線写真のようになりました。
下車駅の舎人公園に着いたときは気息奄々たる思いでした。
乗車時間はわずか十四分に過ぎませんでしたが、私には生きた心地のしない十四分間でした。
しばらく魂が抜けたような状態を経て、ここからお寺巡りを始めるのですが、救いは、当初から帰りは東武線の竹ノ塚へ出る予定にしていたことです。帰りもこの交通機関に乗らなければならなかったとしたら、予定を変更しなければならず、おおいに戸惑ったことだろうと思います。
天気予報は外れて、完全な夏空です。
舎人公園横を抜けて行く日暮里・舎人ライナーに沿って歩きます。地上から眺めると、それほど高いところを走っているとは思えません。
曲がるべき角を行き過ぎて、こんな幟に出会いました。
前々日の六日、事件の首謀者たち七人に死刑が執行されて、翌七日のテレビのワイドショーでは、これを期に何か起きるのでは、と後継の教団の様子が何度も何度も映し出されていました。
ナレーターが「足立区入谷の……」といっているのを聞いて、「恐れ入谷の鬼子母神」がある台東区の入谷しか知らなかった私は、「へへェ、足立区にも入谷という地名があるんだ」と思いましたが、そこが今日訪ねるところだとは思ってもみませんでした。
あとで調べると、同じ入谷とはいっても、後継教団があるのは、私が幟を見かけたところから歩くと二十分近くも離れた場所でした。
幟のあったところから引き返し、南光寺に着きました。真言宗豊山派の寺院です。本尊は不動明王。
少し遠廻りをしてしまったので、舎人公園駅からは十五分かかりました。歩き始めたころ、ちょうど一年前の今日、汗みずくになりながら、つくばみらい市を歩いていたのを思い返していました。その日に較べたら、今日はしのぎやすい、と思ったのですが、それはまだそれほど歩いていなかったからで、十五分も歩くころには汗みずくになっていました。
山門を入ると、右手に子育て地蔵像があります。像の足許にはおびただしい数の子像? キューピーのお供え(?)もあります。
目的の薬師堂です。
すぐ前には樹木が迫っているので、正面からカメラに収めることができませんでした。参拝したあと、先の地蔵の左横から撮影。
「新編武蔵風土記稿」には「南光寺、円通寺(同じ足立区入谷)末、青龍山医王院と号す。開山の各は伝えざれど、過去帳に弘安三年四月二十日(寂カ)と記せしを古しとす。本尊は不動を安ず。薬師堂ありたるも荒廃せしを以って像は本堂に移し、堂の再建はいまだならず」と記されていますが、無事再建なったのです。
本堂の手前には休憩所があって、「お休処 ご自由にご利用ください 住職」という貼り紙がありました。
ご自由に、とはいっても、恐らく鍵がかけられているのだろうと思いながら、ガラス戸に手をかけると、スルスルと開きました。ポットにはお湯が湧いていて、お茶も飲めるようになっていました。
さすがにエアコンまではありませんでしたが、窓を開ければ、緑陰の涼しい風が入ってきそうです。
開放的過ぎることに愕いてしまいました。
ごくたまに、檀家以外は寺域に入るな、とか、境内を散歩するな、という掲示を出している寺に出くわしたりしますが、お寺は檀家とテメエたち罰当たりのためだけにあるのではない、ということがわかっていないのです。寺社が税法上でも優遇されているのは、一つにはそういうこと。緊急時の避難所ばかりではないが、地域の拠り所となるのが当ったりめぇのコンコンチキ。
そんな寺は仏徒を標榜していながら、仏徒ではない。仏罰がくだればいいと思うのですが、心優しき御仏たちはどんなお門違い、スットコドッコイでも仏罰を下されたりしないのです。
さて、スットコドッコイなんぞは明後日の方向に置いといて、普段なら、近くにお寺があれば、廻り道でも寄りながら歩くところですが、この日の暑さは異常でした。目的の三か寺だけを、最短距離で歩くつもりです。
その途中、たまたま門前を通りかかるお寺があれば寄る心づもりでしたが、避けて歩いたわけではないのに、たまたまこの日は他の寺の門前を通ることがありませんでした。
南光寺をあとにして十五分で西門寺に着きました。
バス通りから長い参道があり、門前には小さな金剛力士像がありました。永和三年(1377年)創建の浄土宗の寺院です。
西門寺本堂。
本尊は阿弥陀如来ですが、最近になって万延元年(1860年)作の薬師如来も祀られていることを知り、急遽今回の予定に組み入れました。
折からの暑さです。猫住職殿もさすがに暑さにやられて、山門の裏側でグッタリしておられました。
西門寺から延々二十分以上歩いて、今日最後の目的地・薬師寺に着きました。万治二年(1659年)創建の曹洞宗の寺院です。
このお寺には2012年の九月に参拝していて、訪ねるのは二度目です。
そのときは薬師詣でできたわけではなかったので、この薬師堂には気がつきませんでしたが、真新しさを見るにつけ、そもそもこの御堂はなかったのではないかという思いがします。
薬師寺本堂。
歴住の墓所に参拝。
薬師寺の参拝を終えて、今日の予定は終了! と気が緩んだからかどうか、帰りの道を間違えました。
通称七曲がり。
わざわざ電柱に表示しているからには、よほどの理由(わけ)あり、と思い、備忘録も兼ねてカメラに収めておいて、帰ったらインターネットで由来を調べてみようと思ったのですが、いまのところいわれは判明していません。
實相院。
門前の小さな仁王像を見たときになんとなく「?」と思いました。いつかどこかで見たような気がしたのです。
天平年間(729年-49年)、行基菩薩による開山といわれる真言宗豊山派の寺院です。前九年後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願をしたと伝えられています。
山門をくぐり、この本堂を目にしたときに、ハッキリと思い当たりました。訪れたのは薬師寺のときと同じ六年前です。
門前はT字路になっていて、この日の私は先の山門の画像でいうと、右のほうから歩いてきたのですが、六年前はこの門を正面に見ながら歩いてきています。
竹ノ塚近辺なら歩き慣れていると侮った上に暑さが加わったせいか、薬師詣でのときには忘れない、コンパスを持つのを忘れていました。竹ノ塚駅を目指しているはずが、とんでもない方向違いを歩いていました。
薬師寺から東武線の竹ノ塚駅は十分ちょっとで着けたところ、倍近く歩くことになりました。
画像の右・フェンスで囲われた駅を挟んで、南北二か所に一時間に三分しか開かない「開かずの踏切」があるところとして有名な駅です。線路の高架化工事の真っ最中でした。
暑い日がつづきます。
まだ夏本番とはいえない時節なのに、この暑さでは、本物の夏がくるころには、地上のすべてが燃え尽きてしまうのではないでしょうか。
連日の暑さに、暑い暑いと悲鳴を上げながらも、真夏に生まれたからか、ひところより体調がいいのです。
私の感想としては、決して体調がいいとは思えないけれど、悪いときに較べれば悪くないので、いいというべきか、と戸惑いながら-朝早めなら、幾分涼しいこともあり、日課にしている慶林寺参拝は、このところ七時台か八時台です。
今朝も八時台。しかし、すでに暑い。
門前のオタフクアジサイは枯れた花が目立ってきました。
参道中ほど、背中合わせに咲いている手鞠型の紫陽花。こちらは両方ともまだ意気軒昂です。
参道入口のオタフクアジサイ。これから色づきが始まろうという花がありました。
同じく参道入口にある手鞠型。こちらは今年の役目を完全に終えたようです。
ご苦労さま。お疲れさまでした。来年もよろしく。
帰りに買い物をして行こうと少し寄り道をしたら、取り壊されて更地になっていた空き家のあとに、凌霄花(ノウゼンカズラ)が咲いていました。
蔓性植物ですから、樹木や壁伝いに伸びている姿しか目にしたことがありません。更地では頼りとする樹も壁もなく、どこへ伸びて行ったらいいのかと宙をさまよっているようです。