二日前、六日の天気予報では、今日八日は曇ときどき雨でした。
毎月八日に薬師詣でを始めて七年目です。ついに……と思いました。
関東地方の梅雨入り日を平均すると、六月八日ということになるのだそうですが、薬師詣でを始めてから去年までの六年間、六月八日に雨の降ったことはない! のです。
だから、ついに……なのです。
先月の薬師詣では茨城県の美浦村に行こうと考えていました。しかし、お薬師さん参拝が目的で行くのに、邪心を懐いたからか、目覚めてみると、体調が思わしくなく、恢復を待っていたら、出発できる時間が大幅に遅くなって、行けなくなってしまいました。
邪心とは、しばらく海を見ていないので、代わりに霞ケ浦を見に行くか、などと思ったことです。薬師詣でより霞ケ浦を優先させたバチが当たったのかもしれません。
で、今月に延期をしたのですが、雨模様ということでは土地勘のないところを歩くのは億劫です。
第一、傘を差して長時間歩かなければならない、ということになったら面倒なので、できるだけ行程の短いところ……と、パソコンにストックしてあるいくつかの薬師詣でのルートを検索したら、我孫子市の湖北駅周辺がヒットしました。
電車に乗って出発する前に地元の慶林寺に参拝します。
最近は門の閉ざされている日が多くなりました。毎日の参拝では扉が閉ざされていれば、扉の前に佇んで合掌しますが、薬師詣での日はお賽銭をあげることにしているので、右の通用門から入って、本堂前に進みます。
我孫子で成田線に乗り換えて湖北駅で下車。北口に出ました。
しばらく線路に沿って歩き、突き当たったところを左折すると、中里薬師会館という公民館があります。その敷地内に薬師堂があるというのですが……。
地図に記載されたとおり中里薬師会館があって……。
会館の右手に中里薬師堂がありました。この地にはかつて宝蔵院という寺があったそうですが、明治初年に廃寺になり、薬師堂だけが残されました。
堂内を覗うことはできませんでしたが、我孫子市教育委員会の「あびこ電脳考古博物館」というWebページに薬師三尊像の画像が掲載されているので、拝借しました。
中里薬師堂の薬師三尊および十二神将像の制作年代は江戸時代後期と考えられています。現在は秘仏とされ、年に一度(二月十一日)だけ開帳されるということです。
中里薬師堂をあとに、次の目的地・観音寺へ向かいます。
立葵(タチアオイ)のある小径。
いいですね。立葵は草花なのに丈が高く、花も大きくて、デーハーなのがいい。
中里薬師堂から十三分で観音寺に着きました。
このお寺は去年の正月、將門神社に初詣にきたときに参拝しています。観音寺という名前から我が曹洞宗のお寺だとは思わなかったので、歴住のお墓には参拝することなく帰ってしまいました。
今回は墓域のほうから境内にお邪魔する形になったので、本堂にお参りする前に、歴住のお墓に参拝します。
観音寺は日秀(ひびり)観音として人々の信仰を集めています。
安政年間(1854年-60年)ごろの建立と伝えられる観音堂。平將門の念持仏だったという聖観音が祀られています。
観音堂の前に小さな薬師堂がありました。
祀られているのは薬師如来坐像。左右に日光・月光の両菩薩。下段には十二神将が並んでいます。
旧成田道に面して建つ地蔵菩薩。
今回はもう一つ薬師堂があります。
観音寺から六分ほど歩いたとき、いきなり前方の視界が開けたかと思うと、青々とした田んぼが見えてきました。
田んぼを横切ると、怪しげな石段が現われました。ちょっとドキドキしてしまいますが、この径しかないのですから、上るしかありません。
石段を上り切ったところには共同墓地と小さな御堂がありました。御堂には如意輪観音が祀られているようです。
共同墓地からさらに歩を進めると、古戸(ふるど)会館がありました。ここも公民館のようです。
会館の左手に小さな御堂がありました。
中を覗き込んでみると、中央に金色の薬師如来。両脇は不動明王と地蔵菩薩。珍しい取り合わせです。
いつの間にか雨が降る気配はすっかりなくなっていました。青空も顔を覗かせ、ときおり陽射しも出るようになって、蒸し暑くなりました。
一方、西北に目を転ずれば、こんな雨雲がウヨウヨ。
梅雨入りかしたのかどうか、というような天候ではなく、台風の余波が残った空を見上げているみたいです。
旧成田道に立つ一里塚を見て、帰りも湖北駅に出ました。
昨日の朝、チノパンツを履こうとして脚を充分に上げられず、爪先が引っかかってオットット……ということならときおりあるのですが、昨朝は初めてそのまま前につんのめって、でんぐり返しをするみたいに倒れてしまいました。
もう少し若ければ、倒れるのは倒れるとしても、とっさにパンツから両手を放し、手を突こうとしたはずですが、いまの私の両腕は頭と同じように頑固になっていて、放そうとしないのです。
朝、起きようとしたとき、腰にちょっとした痛みがあったので、畳んだ寝具を押入れに入れず、そのままにしておいたのが幸運でした。もんどり打って頭から倒れたのに、布団があったおかげで、打ち傷も、ひねったところもなかったのです。
冷や汗をかいて立ち上がったあと、さほど広い部屋ではないけれど、部屋の真ん中で履こうとするからいけない。倒れそうになっても、柱とか壁とか、手を突くものがないのだから……と反省。
しかし、腰に痛みがあったのは一種の災難であるけれども、そのおかげで布団が出しっ放し、さらにそのおかげで転んでも怪我はなし。
ということは、すなわち薬師如来のご加護也。
というわけで、薬師如来がご本尊の慶林寺にお参りに行きました。
ま、そんなことがなくても、慶林寺には毎日参拝に行くのですが、いつもは友人知人の健康を祈るだけで、私自身に関する願い事をすることはありません。
この日はいつもどおりのお祈りお願いに併せて、怪我をせずに済んだことへのお礼をしたあと、数日前から花を開き始めている参道の紫陽花(アジサイ)をカメラに収めました。
紫陽花は数株あるだけですが、オタフクアジサイという珍しい種があるので、毎年注目して見ているのです。
オタフクアジサイとは、江戸時代につくられた萼紫陽花の一種で、花がおたふく豆に似ているところから名づけられたそうですが、正式な名はウズアジサイというのだそうです。その名のとおり、花が渦を巻いているように見えます。
参道奥で少しだけ咲き始めたオタフク。
かたわらに「おたふく」と書かれた札があったはずですが、抜かれてしまったのか、見当たりません。
うっすらピンク色に染まっています。
同じ株ですが、こちらはまだ固い。
参道入口にあるオタフクアジサイ。
こちらは青紫、赤紫と色に変化があります。
同じく参道入口にありますが、まったくの別種。
これも別種。
シャッターを切りながら、午後には前ヶ崎(流山市)のあじさい通りを訪ねてみようかと思いました。
そして、午後……といっても、夕方です。
富士川を渡ると(川が市境になっていて、松戸市から流山市になります)、青々とした田んぼです。
栗林は花盛り。
水木(ミズキ)はきれいな緑色の実をつけています。
寶蔵院には六日ぶりに参拝しました。
境内に私の友がいるのですが、ずっと会っていません。この日もいないようなので、諦めて帰ろうとしたら、どこかで「ニャ~」というか細い鳴き声がし、バサバサと下草をかき分ける音がしたかと思うと、姿を見せたのはママでした。
姿を見るのは五月三日以来、約一か月ぶりです。それなのに、私のことをちゃんと憶えていてくれて、ニャーニャーと鳴きながら、トコトコと走ってきました。
私の足許までくると、チノパンツの裾に身体をこすりつけて、二周三周しながらマーキングします。そのあと、伸びをして、ゆっくりとひっくり返り、右、左、と身体の向きを変えて、お腹を見せてくれました。
相変わらず寝っ転がったまま、左前足の肉球を舐めたりして、すっかりリラックスしています。
この日は寶蔵院に寄り道をしましたが、まっすぐきたら十一~二分で、このあじさい通りに着きます。
全体的にまだ咲き始めです。
このあと、何回くることができるかわかりませんが、憶えられる限り同じ株の写真を撮って行こうと思います。
六年前も「紫陽花日記」と題してブログにしましたが、とりとめないものに終わってしまいました。
今年は定点観測のようにして、今回撮影した株を、次回も、その次も、というように撮って行くと、花の色が濃くなった、新しい花が咲いた……というように楽しめるのでは、と考えたのです。
しかし、そんな命題をこしらえてしまうと、次回以降がやたらむずかしくなり、オラ、やっぱりやめた……てなことにもなりかねませんが、初回はあまり束縛されず、ただ記憶に留めやすそうなポイントを選んで、カメラのシャッターを切って行くことにします。
ここなら目印になる立て札があるので、次回の撮影でも同じアングルを。ズレても数センチで済むかもしれません。
アナベル。これはこれからもっともっと大輪の花を咲かせるはずです。
カシワバアジサイは我が庵近くでもたくさん見ることができます。
我が庵周辺では赤、青など彩りの華やかな紫陽花が咲いているのに、ここは白い色が中心です。
あじさい通りが終わると、私がキウイ坂と名づけている上り坂があります。途中にキウイの畑があるからです。小さな実を結び始めています。
明日は薬師如来の縁日。薬師詣でに出かけなければなりませんが、どうも雨のようです。
昨日は半日強い風が吹き荒れました。
朝、早いうちはまだ穏やかだったのです。
二本並べた物干し竿の上にザルを二つ置き、それぞれに牛蒡と人参の千切りを載せて、乾燥野菜をつくっていたのですが、十時ごろから風が強くなり、やがて吹き飛ばされそうになってきたので、取り込みました。
先月末から体調がイマイチで、食欲がなくなっています。買っておいた野菜が痛んでしまわぬよう、乾燥野菜にできるもの(牛蒡、人参、筍、大根など)はそうしておこうと、皮をむいて適当な長さに切り、梃子の原理を使って野菜の千切りをこしらえる調理器具を用いて、ギッコンバッタンやってはザルに載せ、陽に当てています。
食が進まぬ間に、身体のほうはすっかり痩せ衰えてしまったような気分で、強風に立ち向かえば、吹き飛ばされてしまいそうです。
しかし、立って歩けないような重篤な容態ならともかく、外に出るのは気は進まないながら、歩けるのですから、日課にしている慶林寺と天満宮への参拝だけはしておかねばなりません。
で、まずは我が庵から一番近い神社仏閣であるところの天満宮に参拝。
踵を返して慶林寺に参拝し、今日はこれにてお勤め終了、としてもいいのですが、歩き始めてみれば、もう少し歩いてもいいような感じでした。
風は強いけれども、桜が咲くころの不愉快な風とは違って、気持ちをささくれ立たせる感じではありません。
散歩コースの一つに「とちのき通り」と名づけられた通りがあります。名前のとおり、栃の木の並木がある通りです。一週間に一度か二度、この通りを歩きます。
この通りを知るまで、私は栃の木を見たことがありませんでした。
見て、名前を知ったからといって、格別のことはなかったのですが、ほぼ同時期に、栃木県立栃木女子高を卒業した女性と縁が生まれて、私には少し身近で、愛しい樹になったように思えました。
私は「栃木」という地名は栃の樹に由来する以外に考えられない、と思い込んでいたのですが、確かにそういう説がある一方、栃とはまったく関係がなく、別のことに由来するという説があります。
住むところが離れているので、卒業生とは滅多に会えません。
会ったらこの栃の並木道のことを話そうと思い、季節が変われば、カメラに収めたりしているのですが、考えてみれば語呂合わせをしているだけのような気もするので、なんとなく口に出すのが躊躇されて、いつも話さずに帰ってきてしまうのです。
昨日はふとそんなことを思い返しながら歩いていたら、眩しいような気持ちになりました。
かつて、栃木市を訪ねたことは忘れもしません。いまの住居に移ってきた七年前、移って二週間経つか経たないころで、住居の近くに栃の木があるなどとは知らぬときでした。
歩いたのは栃木市の中心部だけで、少し離れたところに栃木女子高があるとも、何年かあとに、その卒業生と縁ができるなどとも考えてもみませんでした。
強い風に吹かれながら、そんなこんなを思って歩くうち、その卒業生がスカートを翻しながら、通学していた情景を思い描いてしまったのです。
いまの時期の栃の葉はどれもこんな緑色をしていて、大きなものだと長さが30センチ以上もあります。
ところが、一本だけこんな葉の色をした樹がありました。光線の加減で黄色く見えるのではありません。
この樹の全体像はこんな様子で、上のほうへ行くほど緑色が濃くなって行きますが、他の樹と較べて、一本だけ黄色っぽいのです。
どの幹から引きちぎられたものか、まだ若い枝なのに、強風にいたぶられて道路を舞っていました。
近くの公園にある椎の葉も強風に煽られて、裏返ってしまっています。
ドクダミは何かで叩きつけられたようになぎ倒されて、哀れです。
最近になって名前を知った山帽子(ヤマボウシ=山法師とも)。
この樹も強風に煽られて、波打つように揺れていましたが、カメラを構えると、一瞬風が熄みました。
エイリアンを思わせるような栗の花。
栗はブナ科です。ブナ科の樹は風によって花粉を飛ばす風媒花なのに、栗はブナ科でありながら虫媒花です。男を思わせる独特の臭いは媒介する虫を引き寄せるためだとか。
しかしブナ科のDNAがあって、折からの強風を密かに喜んでいたのではないでしょうか。