桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2016年十一月の薬師詣で・さいたま市桜区~南区

2016年11月08日 22時15分33秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣ではさいたま市の桜区から南区にかけて歩きます。



 電車に乗る前に地元の慶林寺にお賽銭をあげて参拝して行きます。



 新松戸で武蔵野線に乗り換え、西浦和駅で降りました。
 北口に出て、高架下を三分ほど歩くと、民家の屋根越しに薬王院の屋根が見えてきます。





 薬王院です。薬師堂にある薬師如来像を慶長五年(1600年)に開眼した日宥が開祖となって創建したと伝えられています。



 本堂の右に薬師堂がありました。
 祀られているのは寄木造り、彫眼・漆箔の薬師如来坐像で、高さは30・3センチという小型の像です。作風は背が丸く、また大腿部が高く、中央がくぼんでいるなど、室町時代の典型的な様式を示しているといわれています。
 この像の胎内や台座には多くの墨書があり、その中には造立年と思われる「文明三年」や「かのとう(辛卯)」(1471年)、また、作者と思われる「民部」などの文字が読み取れます。
 脇侍の日光・月光の両菩薩像は一木造、彫眼・像高30・6センチ(日光)、31・5センチ(月光)で、全体に彩色はよく残っています。台座の裏に、慶長五年(1600年)という造立年、作者は長悦、開眼主・田島薬王院の開祖である日宥の名が墨書されています。

 最近、浦和周辺に「関東東向き寅薬師」と「足立十二寅薬師」という二つの薬師巡りがあるのを知りました。ここは関東東向き寅薬師の第七番。 




 薬王院から徒歩六分ほどのところに田島観音がありました。前に聳えるのは柏の樹です。



 田島観音堂。
 真言宗寺院。かつて寳榮山如意輪寺という寺院があった跡です。この観音堂の創建年代等は不詳ながら、如意輪寺そのものについては「新編武蔵風土記稿」に「如意輪寺新義真言宗、輿野町圓乗院末にて寳榮山と號す、本尊は不動」とあります。




 また六分ほど歩いて宝泉寺山門前に着きました。



 宝泉寺本堂。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、輿野町圓乗院末、鶴壽山安楽院と號す、本尊薬師を置り、開山良宜天文十四年(1545年)十一月六日示寂せり」と記されています。




 宝泉寺から十分足らずのところには沼影観音堂がありました。
 旧天台宗寺院で鶴住山普光院廣田寺と号していた寺院の跡です。廣田寺は先の宝泉寺の開山・良宜が開山となって創建したと伝えられています




 武蔵野線の一駅ぶんを歩いて、武蔵浦和駅西口近くまできました。帰りはこの駅から電車に乗るつもりですが、まだ行くところがあるので、駅の横を通り抜けて先に進みます。



 武蔵浦和駅を通り抜けると、旧中山道です。



 中山道を横断するとすぐ白幡沼緑道がありました。旧入間川流路の名残です。



 巨人が転んで、大きな手形になったところに水がたまり、沼になったという伝説がある白幡沼です。別名・こぶし沼と呼ばれます。



 今日最後の目的地・醫王寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、玉蔵院(浦和区)末、金輪山威光院と號す、開基は村民九郎兵衛が先祖金子内匠なりと云、此人己か屋舗に薬師堂を造立せしとき、當寺をも建立して菩提寺とし、且かの薬師堂を守らしめしと云、其年歴等詳ならず、開山は修験の僧なりしと云へど、其名さへ傳へず、本尊大日を安ず」とあります。




 思ってもみなかったような立派な山門がありました。



 醫王寺本堂。
 先の「新編武蔵風土記稿」には薬師堂が別にある、という記述があるのですが、境内を見渡してみても、薬師堂らしき御堂はありません。




 本堂前にある延慶二年(1309年)銘板石塔婆。高さは2・4メートルありますが、説明板によれば、上部と下部が欠けているので、実際は4メートル近くあったもののようです。

 薬師如来は本堂に祀られているのかと思いながら拝礼しましたが、お賽銭をあげようにも、本堂の前には香炉があるだけで賽銭箱がありませんでした。階の隅のほうにお賽銭を置いて、立ち去ることにしました。
 来月の薬師詣では南浦和駅へくるつもりなので、薬師堂のことを調べて、再訪することにします。




 帰りは武蔵浦和駅から。

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