桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

大晦日

2008年12月31日 18時05分32秒 | 日録

 昨三十日。今年最後の出勤に及びました。
 やり残していること(結局終わらずに家に持ち帰りましたが)があったのと、外国の取引先からEMS(国際郵便)が届く予定になっていたので、その受け取りに立ち会うためです。
 十一時半に出勤して四時半に帰りました。出勤したのは私独りでしたから、気楽なものです。
 電話もかかってきません。煙草を吸いたくなったら、誰にも気兼ねせずに吸えます。社内は禁煙なので、一応外に出ますが……。

 昨日も好天でした。富士山も筑波山も見えましたが、カメラに収めても、前と同じように添付に値するような画像にはなりません。



 会社のある建物の最上階(十一階)まで上がって、「こざと公園」の半景を撮影しました。池の上の白い点は群れ飛んでいる百合鴎(ユリカモメ)です。
 ここは北公園といって、南側(画像では左手)にもう一つ同じような池のある南公園があります。公園といっても、その二つの池と周りを巡る遊歩道があるだけで、広場も遊具もありません。
 画像の上のほうに見える里山が周囲を途切れ途切れに囲んでいます。里山の高さは30メートルもありませんが、一応は盆地のようなところです。そのせいか、冬は風の強い日が多く、歳をとって段々我慢ができなくなったおぢさんには悩みの種です。

 今日三十一日は昨日と較べると少し寒そうでしたが、相変わらずいい天気です。一旦家に帰ったあと、夕方、スーパーへ買い物に出ました。明日つくる雑煮とポテトサラダの材料を買うためです。
 複数(といっても二人)で暮らしていたときは、大晦日というと、すき焼きをしたり、鉄板焼きをしたりして、小振りの注連縄も飾ったりしましたが、独りでは正月といえども特別なことはしません。
 唯一正月らしいのは雑煮をつくることだけです。材料は里芋、鶏肉、小松菜、それにお餅……。
 今夜のうちに里芋と鶏肉だけ火を通しておきます。
 スーパーには慈姑(クワイ)がありました。煮物にするのではなく、雑煮の中に入れようかと思いましたが、中国産と表記してあったので、あかんべえをして買いませんでした。

 ポテトサラダは正月だからつくるわけではありません。時間が多めにあるとき-つまり正月休みぐらい-でないとつくれないからつくるのです。

 おぢさんの一番の好物はじゃが芋です。
 二袋 ― 個数でいうと、十~十二個ほど ― 買ってきて、両腕でひと抱えもあるようなアルミ鍋に大量につくります。材料はじゃが芋、マカロニ(パスタ類はじゃが芋に劣らず好物)、胡瓜、ハム、それにマヨネーズです。
 一人分にしては大量につくりますが、じゃが芋を粉吹き芋にした状態から味見が始まります。大鍋に移した粉吹き芋に茹でたマカロニを混ぜ、刻んだハム、薄切りにした胡瓜を順々に混ぜながら、ゴロリゴロリと転がしてマヨネーズで和えて行きます。
 その都度「うむうむ」といいながら、少しずつ味見をします。最後に黒胡椒、ナツメグ、パプリカ、パセリをまぶして出来上がりですが、このころには量がかなり減っています。

 今夜も出来上がったころにはおぢさんのおなかは満腹状態になっていました。


行く年とともにお別れ

2008年12月29日 13時01分03秒 | 日録

 昨日二十八日は日中ずっと家におりましたが、夜になって出掛けました。
 新松戸で一番よく行くショットバーのチーフバーテンダーA君が年内で辞めるからです。
 この店に入ったのは引っ越してきて間もないころでした。居酒屋やスナックではまずお目にかかれないアイリッシュウィスキーがあったので、乏しい稼ぎをやりくりしながら、贔屓の店にしようと思いました。

 二度目に行ったのは一か月後です。
 おぢさん(私です)がドアを開けるなり、A君は「○○さん、どうも……」とワタクシの本名で呼び掛けてくれるではありませんか。
 たった二度目なんですよ。しかも、前回から一か月も経っていたのですよ。

 仲よくなってから、もっと驚くような場面に何度か出くわしました。
 そのうちの一つは妙齢の女性-薄暗い店なので、女性はみんな妙齢に見えます-がブラリと入ってきたときのことです。
 A君、にこやかに笑いかけながら、「いらっしゃい……○○ちゃん?」と、かすかに自信なげに呼びかけました。妙齢の女性は「わぁ」といって、両手で口を覆いました。愕き+悦びの表情です。
 聞くと、その妙齢がこの店にきたのはおよそ一年も前―。しかも、そのときたった一度きり……というのですから、開いた口が塞がりません。
 イチゲンの客はあまりこない店ですが、一年も前の客の名前まで憶えているとは、おそれ入谷の鬼子母神です。
 店のオーナーにいわせると、「取り柄はそれしかない」ということですが、それしかない取り柄だとしても、大変な取り柄です。

 そのA君。何年か前まで歌舞伎町の超有名ホストクラブのホストだったそうです。テレビに出ている城咲仁は同じ店の後輩になるそうです。

 月に二度三度と顔を合わせているうち、ホスト時代のつもる話をいろいろ聞きました。身の毛もよだつような話、心臓が縮み上がるような話もたくさん聞きました。
 おぢさんは若いころは週刊誌の記者をしていたのですが、状況はまったく違うといえども、同じように身の毛もよだつような体験、心臓が縮み上がるような体験をしています。年齢は倍くらい違いますが、「同士」に会ったような思いを懐きました。
 そのA君が行く年とともに辞めてしまう。
 名残惜しい想いは多々あれど、いつまでも坐っていても詮方なし……。A君は今日月曜日は休み。明日三十日が最後の勤めになります。しかし行かないゾ。
 おぢさんは早めに引き揚げることにして、少し涙を浮かべながら家に帰りました、とさ。


仕事納め

2008年12月27日 12時54分18秒 | 風物詩

 今日二十七日で仕事納めです。
 といっても、おぢさんは年内に一日、年明けにも一日か二日は出勤することになろうかと思います。
 晴れていますが、昨日につづいて風の強い日です。おかげで今日は雲がとっぱらわれて、富士山がくっきりと見えました。
 眼福です。とくに何があるというわけでもないのに、富士山が見えるとうれしくなります。早速ポケットに忍ばせていたカメラで撮影に及びましたが、特段のことはないデジカメなので、パソコンに取り込んでみると、どこに富士が写っているのか、判然としません。
 右にほぼ90度の方角に筑波山を眺めることもできたので、撮影したのですが、こちらも同前。

 中庵宗巌という人物がいたことを知ってから、筑波という山はわたくしには親しみを覚える存在になりました。中庵が流され、死んだかもしれぬ茨城県の宍戸という土地は、筑波の麓といってもいいところなのですから……。
 ただ、実際に行ってみてわかったのは、どこか小高いところに上らない限り、宍戸の里からは筑波の峰を望むことはできないということでした。
 中庵も眺めただろう……と想像していたのですが、軟禁とはいえ、幽閉されていた中庵が見ることはなかったのかもしれません。



「こざと公園」には先日より見やすい場所にアオサギがきておりました。一羽だけきていて、池の中に佇んでいました。こちらもカメラに収めました。
 複数の画像を添付する方法がわからないので、富士と筑波は割愛されることになりました。

 クリスマスイヴの夜から火に掛け始めた鰤大根が非常にいい味になってきました。家に帰るとしばらく火に掛け、ご飯のおかずに、焼酎の摘みにと重宝しています。
 最初の大根がなくなってきたので、今日の仕事帰りにスーパーに寄って、大根と鰤を買って帰ります。
 刻み柚子を添えるのを忘れていたので、柚子も買おうと思います。

 立冬を過ぎても咲いていた新松戸の朝顔のことはすっかり忘れていました。今朝、通りがけに見てみたら、さすがに全滅していました。
 この朝顔が咲いていた角はマンションの角です。そのマンションの中にお寺があります。
 山額に真宗大谷派と書かれてありますが、まだ山内を見たことはありません。マンションの中のお寺というのは、一体どんな感じなのでしょう。


グランドひかり

2008年12月26日 14時12分39秒 | つぶやき

 今日二十六日から勤務先近くの交差点脇に、毎年恒例の注連縄(しめなわ)を売る露店が出ました。 
 今朝は風があって晴れていたので、富士山が見えるかと思いましたが、あいにくその方向には雲があって、見ることは叶いませんでした。
 裾野のほうが市川真間あたりの台地に遮られるので、六合目より上しか見えませんが、冬になるとちゃんと見えるのですよ。

 昨夜は勤め先の忘年会。
 忘年会を終えたあとも出勤というのはすっきりしませんが、ともかく出勤です。



 昨夜、愉しくもない忘年会の時間をなんとか耐え抜いて帰るとき、市川大野の駅で上り電車を待避している貨物列車を見かけたので、カメラに収めました。
 寝台列車がどんどん廃止されて、機関車に引っ張られる列車は貨物だけになっています。発車するときに、ガンガンガンと前から後ろへ衝撃が伝わって行く音を聞くのはなんともいえません。

 私はオタクとまではいきませんが、鉄道ファンでした。中学生のころ、友人と写真を撮りに行って、電気機関車に踏み潰されそうになったこともあります。
 踏み潰そうと迫っていたのは、通称マンモスと呼ばれていたEH10でした。ピーッピーッという激しい警笛と目前に迫ってくる前照灯の眩さを、いまでもはっきりと思い出すことができます。

 列車というと、何十回となく乗ったのは、昼過ぎに新大阪に着く東海道新幹線の「グランドひかり」という編成でした。
 私にはついこの前……と思えるのですが、もう十年近くの年月(正確には2000年三月十日で廃止)が流れていて、すでに「グランドひかり」はありません。

 そのころ、私は仕事で一週間に二回も三回も大阪へ通うことがありました。
「のぞみ」が走り始めていて、他の「ひかり」は必ずどこかで「のぞみ」に追い越され、後塵を拝することになるのですが、発車時刻の関係で「グランドひかり」だけは「のぞみ」に追い越されることがないのでした。
 しかし、「グランドひかり」を選んだのはそういう負けず嫌いの理由ではありません。すでに希少価値であった食堂車があったからなのです。

 大阪へ行くとき、列車が滋賀と京都の境の音羽山トンネルに差しかかるころに、降りる支度をして席を立ち、食堂車に向かいます。食事をしている客がいても、せいぜい数人で、ほとんどが食べ終えるころです。私がほどよい場所の空席を選んで坐り、注文を終えるころには、車内はガラガラになってしまいます。

 京都を出ると、車窓右手に明智日向守殿無念の地「天王山」が見えてきます。頼んだ料理が出てくるのもそのころです。私は日向守殿と料理の両方に手を合わせて、おもむろに食べ始めます。仕事が始まるのが午後遅めという日なら、生ビールで喉を潤したりもしました。

 記憶の中では車内はいつも陽の光にあふれていて、至福のいっときでした。
 週に二回も三回も乗っていたのですから、全部が全部晴れの日だったはずはありません。
 しかし、私の思い出の中では、いつも富士が見え、伊吹山が見え、燦々とした陽光を浴びながら、食事をしておりました。


鰤大根

2008年12月24日 13時00分31秒 | 料理

 クリスマスイヴにはそぐわない料理-鰤大根をつくろうとしています。
 三日前に材料を仕込みましたが、帰宅するのが遅かったりして、まだ完成に到っておりません。

 寒さが厳しくなると、鰤大根をつくりたくなります。
 特別な調理ではないので、レシピに独特なものはありませんが、普通は出来上がるころには煮汁がほとんどなくなるのに対して、おぢさんは大きめの鍋に多量につくるので、食べごろになっても、おでんのように煮汁が残るようにしてあります。
 大根もおでんやふろふきに用いるように、輪切りで大きめです。だから、火が通り、充分に煮汁を吸い込むまで時間がかかります。
 少しずつ食べながら、鍋に隙間ができてきたら、新しい大根や鰤を買ってきて、継ぎ足して行きます。

 
三日目ごろになると、煮汁は絶品と形容していいような味に変わってきます。
 夏場だと冷蔵庫が必須ですが、この季節はときおり(食べたいとき)火を通してやれば、一週間は保ちます。数日なら同じもの(好物でなければならぬのはもちろんです)を食べつづけても飽きないという味覚の持ち主なので、調理に費やす時間が節約できるのも大きなメリットです。

 おぢさんは時代小説や歴史小説が好きです。しかし、なにせつむじ曲がりなモンですから、その手の小説ならなんでも読むかというと、左にあらず、なのです。
 藤沢周平さんは余すことなく読みましたが、池波正太郎はまったく読みません。ただ、テレビでやっていた「剣客商売」だけは好きで、いつも愉しみにしていました(が、原作は読みません)。
 そうして藤田まことと小林綾子を視ながら、ときおり空想していたのは、若い愛人か若い女房と一緒に、小さな料理屋か煮売り屋をやることでした。
 おぢさんは厨房に引っ込んで、調理に腕をふるっているので、客の前には滅多に顔を出しません。愛人は表で接客をしています。

 おぢさんの料理は不味くはないけれども、美味いと評判を取るほどでもない。そんな腕でも、そこそこに店がやって行けるとしたら、客の目当てが愛人の若さと愛想のよさにあるからです。おぢさんはそのことを充分に知っていて、口には出さないけれども、心の中では深く感謝をしています。 
 何かの煮物が鍋の中でグツグツと立てる音に混じって、自分にはもったいないほど歳の若い愛人が客とやりとりしている賑やかな声が聞こえてくる……それはさぞ幸せなひとときであろうと、おぢさんは独りほくそ笑みながら鼻の下を伸ばしています。

 そういう思いをいっそう強くしたのは先月の末、通勤途上に「総菜とおでん」と看板を掲げた店ができたからです。いまのところ、遠巻きに見ながら素通りするだけです。

 新松戸の飲み屋街にもシャッターの下ろされた店が散見されます。
 新松戸に引っ越してきてから、ずっと「貸店舗」と印刷された不動産屋の貼り紙に変わりのない店の前を通りながら、こんなところに店を構えられたらなぁ……と肩をすぼめて足早に通り過ぎる毎日です。
 現実には調理師免許を取らなければならず、鰤大根や焼きうどんという限られたメニューでは店は立ち行かない。そもそも開店資金がないし、一緒にやってくれる若い愛人もいないという現況では夢のまた夢です。

 宮部みゆきさんの小説(「ぼんくら」と「日暮らし」)に、お徳という煮売り屋の女将さんが出てきます。
 いつも美味そうな湯気を立てている店の大鍋には何十年という間、継ぎ足し継ぎ足しして使ってきた煮汁が入っている。

 おぢさんちの煮汁はせいぜい一週間のイノチでありますが、食べて下さる方があれば、絶やさずつづけたいものであります。


冬至

2008年12月21日 19時01分06秒 | 日録

 今日二十一日は冬至。
 南瓜も食わず、柚湯にも入らなくなって、久しい。
 一年のうちで一番昼が短く、夜の長い日-ということは誰もが知っていることですが、おぢさんは小さいころに誰かから聞いたのか、自分で勝手に思い込んだのか、すなわち日の出が一番遅く、日没も早い日でもあると考えていて、六十年近く疑ったことがありませんでした。
 しかし、それは大きな間違いでありました ― 。
 松戸地方の日の出はこれからまだまだ遅くなり、早く転ずるのは来年の一月十日まで待たなければなりません。一方、日没のほうはすでに今月の十三日から遅くなっています。

  昨日今日と連休でした。ほとんど何もせずに休みを過ごしています。日の落ちるのが早いので、一日がすぐ終わってしまうような感覚です。

 新しい呑み屋を見つけました。
 寫樂という行きつけの店で、いつものようにメートルを上げていたとき、客としてきたママさんと一緒になって紹介されました。寫樂の斜向かいにお店があります。
 言葉に訛りがあったので、西の方の人 ― それもおぢさんがよく知らない山陰の人かと思っていたら、韓国の人でした。
 釜山出身だそうです。推定年齢三十五~四十? 林(イム)さんといって、細身で、小柄で、キュートな女性です。

 話をして、チョー・ヨンピル、ケイ・ウンスク、キム・ヨンジャという懐かしい名前を思い出させてもらいました。
 おぢさんがドラゴンズファンだと知ると、即座にソン・ドンヨル、イ・ボンジョムという名前を挙げてくれました。1998年-99年にドラゴンズに在籍したサムソン・リーことイ・サンフンは米大リーグに行ったあと、四年前に引退して、いまはロック歌手に転向しているそうです。
 ことさら懐かしいものを求めているわけではありませんが、懐かしい話が出ると、つい引き込まれてしまいます。

 昨日のラグビー全国大学選手権1回戦はほぼ順当な結果に終わりました。
 メイジが出られなかったのは残念ですが、明早戦の勝利は意地の勝利で、本当の力がついて早稲田に勝ったとは思えないから、仮にギリギリの成績で出場権を得ていたとしても、2回戦進出には疑問符がつく。
 破竹の勢いを取り戻したときこそメイジの強さが戻ってきたといえるときで、同志社が相手では初戦敗退という結果に終わっただろうと思います。

 社会人のトップリーグではトヨタ自動車が近鉄を破って3連勝しましたが、今シーズンは格下の相手(クボタ、九州電力)に負けたのが尾を引いています。
 三洋電機、サントリーと強敵との対戦を残していますから、日本選手権に出場すること叶わず、今シーズンを終える公算大かも。
 今年はメイジにもトヨタにも、おぢさんにとっても厄年。あまりいいことはありませんでした。


市川大野風物詩 ― ユリカモメ

2008年12月18日 12時46分03秒 | 風物詩

 今朝、武蔵野線は濃霧の影響とかで五分遅れ、という駅のアナウンス ― 実際は七分遅れで、いまの会社で仕事をするようになって四年余、初めて遅刻をしてしまいました。
 晴れです。昼休み、会社前の「こざと公園」まで散歩に出かけました。日陰はさすがに寒いけれど、日なたは陽光に恵まれて、非常に暖かい。
 今日はアオサギの姿はなく、目測四十羽ほどのユリカモメと同五十羽ほどのマガンがいるだけでした。



 警戒心の強いアオサギと違って、ユリカモメはパンの耳などを与える人もいるので、人間に慣れています。すぐ近くを通っても逃げる素振りなど見せません。

 スラックスのポケットに忍ばせておいたカメラを取り出そうとすると、パンでも出てくると思ったのか、こちらに向きを変えるものすらおりました。
 さりげない表情をしておりますが、このものたちは写真の遠くに写っている電線にズラリと止まっていることがあります。真下にある歩道はこのものたちが巻き散らす糞で真っ白になっています。

 カメラを構えているワタクシの背にはまだ若い樹ですが、桜並木があります。あと三か月もすると桜が咲きます。

 本当に不思議なもので………齢を重ねると、本当に本当に一年が短く感じられるようになってきます。


今夜は満月

2008年12月13日 21時56分58秒 | つぶやき

 夕方、東の空に物凄く大きなお月様が出ていました。
 カメラを持っていなかったので、家に帰ったら ― 蟋蟀(きりぎりす)
は今日も出勤でした ― 撮影しよう思っていたのですが、家に帰るころには新松戸地方は雲が出てしまっていました。



 しかし昨夜 ― というか、今暁午前三時に撮影しておいた画像があります。歳をとったので早く目が覚めてしまったのではありませぬ。またまた痛飲して午前様だったので、そんな時間なのにまだ起きていたのです。

 ゆあーんゆよーんゆやゆよん、と中原中也を口ずさみながら、身体も足取りも、ゆあーんと帰宅する途中で撮影しました。
 見た目には結構大きかったのですが、カメラに収めてみると、シリウスか、と思われてしまうかもしれません。


怖い物見たさの明早戦

2008年12月07日 20時08分35秒 | ラグビー

 あれよあれよという間に年月が経過してしまいましたが、2002年まではNHKのメイジ早稲田の中継開始の時間が迫ってくると、胸が締め付けられるような思いを味わっていました。
 しかし2003年、04年と試合開始早々からメイジの弱さ、あまりの不甲斐なさを見せつけられて、開始十分前後でチャンネルを変えてしまうのが通例になりました。

 他の番組を見ていますが、ひょっとしたら見ていない間に……と考えるから、気はそぞろです。そろそろ後半かというころ、もしやという期待抑えがた
く、チャンネルを戻します。

 だが……期待は当然のように裏切られて、一方的、致命的な点差をつけられて いる。
 駄目だコリャ、といかりや長介ばりに独り言を呟き、今度はチャンネルを変えず、スイッチそのものを切ってしまう。布団を被って寝てしまいたいところですが、午後三時という時間では眠れるわけがない。
 駄目だコリャ、とわかっているので、夜のスポーツニュースも、翌日の新聞もスポーツ欄だけは見ないように心掛ける。

 それでも今年こそ奇跡が起きるかもしれないと思って、毎年テレビの前に坐るのです。
 だが、だが……毎年毎年同じことの繰り返し。こういうことが05年、06年、07年とつづきました。
 力の差は年ごとに広がっているように思え、今年も勝てない……どころか、せめて目を覆いたくなるような惨敗だけは喫してくれるな、と思っていました。早稲田は帝京のお手柄があって、優勝こそ逃しましたが、2位。一方は6位というのですから、伝統の一戦というだけでは話にならない。

  さて、いよいよ試合開始。
 メイジが攻め込む。うむうむよしよし、と力が入りますが、こういうパターンで始まって、いいところまで行きながら、トライはおろかPGもとれず、スコーンとやられてしまうのは毎度のこと。安心は禁物と肝に銘じていながら、イケイケーッと拳を握り締めています。
 しかし、今年も杞憂が当たってしまいました。折角いいところまで攻め込みながら、モタモタやっているうちに、スコーンとやられて0対5。ワタクシの脳裏には前日の土曜日、教育テレビで見ていた同志社対京産大戦(71
対5という大差で同志社の勝ち)がちらついてしまったので、チャンネルを変えました。
 おぢさんは京産大ファンというのではありません。同志社、京産大のどちらが勝ってもいいけれども、もっと競った試合になってほしかった。
 そうして関西勢が結構手強く、大学選手権では決勝に出てきますが、最後はメイジが優勝! というのが、あこがれのシナリオなのです。

 後半二十分ごろ、チャンネルを戻してやるべえか、と思いながら、戻してもきっとガッカリするだけだろうな。71対5のペースだったらどうしよう。エエイ、そのときは奥の手(スイッチを切る)がある! 
 ところが、ところが、でありました。
 チャンネルを切り替えた時点ではメイジ(21対5)早稲田という、思ってもみなかったような途中経過です。テロップが間違って逆になっているのではないかと疑いました。

 しかし、アナウンサーと解説者の話を聞いていると、間違いなくメイジが勝っているのです。
 
 こうして余裕の試合運びを見せながら、終了間際にはメイジらしさが出て、冷や冷やさせられましたが、まさか勝つとは思わなかった。
 給料日(十日)前で何かと不自由な連休でしたが、うれしいプレゼントでした。
 これでメイジから悪霊は去った……と思いたいのですが、そう簡単にはいかないでしょうか。
※写真提供(というか剽窃です):サンケイスポーツ


今川氏真

2008年12月06日 17時46分10秒 | 歴史

 今日六日は第一土曜日なので、仕事は休み……ヒマな私はまたぼんやりと妄想にふけっております。

 中庵宗巌と同時代に、私の興味をかき立てる人物がもう一人おります。
 今川氏真(いまがわ・うじざね=1538年-
1615年)という人であります。桶狭間の戦(1560年)で織田信長に討たれた今川義元の嫡男です。



 この人も名門
今川家を滅ぼしてしまったので、中庵宗巌と同じようにドラ息子呼ばわりされています。ただ中庵と異なるのは、父親の死後、内容はともあれ十年近く独力で領国の経営に当たっていたということです。

 中庵が家督を譲られたのは二十二歳の天正七年(1579年)。秀吉によって改易の憂き目に遭ったのは三十六歳の文禄二年(1593年)。
 都合十四年です ― 。
 氏真より四年も長く国主の地位にあったわけで、中庵贔屓の我が身にしてみれば、氏真何するものぞ、と吼えたいところですが、中庵が家督を継いだあと、天正十五年(1587年)までの八年間は父・宗麟が生きていて、後ろ盾になっていました。
 宗麟の病没と前後して秀吉の九州平定が終わっていますから、以降は表立った敵はいなくなった状態です。

 同じドラ息子といっても、氏真の時代は東に北条、北に武田、西は織田・徳川と三方を強敵に囲まれていました。中庵が楽だったということではありませんが、氏真のほうがずっと厳しい状況だったといえるでしょう。

 上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという有名な逸話があります。
 海のない甲斐の国では駿河から運ばれてくる塩が命の綱でありました。それを止められて困った信玄に謙信が越後の海から塩を送ったというものです。その塩を止めたのは氏真だったのです。
 当時、誰もが恐れていた信玄に真っ向から立ち向かおうとしたのです。すると、結構きつい性格かとも考えられますが、私は氏真はかなり無理をしており、ついにそういう緊張状態がつづくことに疲れてしまったのだと思います。

 父の義元は、武将というより公家でした。そういう父の血を引いたからか、育ちか。氏真は和歌にも造詣が深く、蹴鞠は達人の域に達していたそうです。
 剣術は塚原ト伝に学んだそうですが、腕前のほうはどうだったのか、しかとわかりません。父がそうであったように、氏真もすでに武門の人であることを棄てていたのかもしれません。

 永禄十二年(1569年)、徳川家康に攻められて、立て籠もっていた掛川城を開城し、和睦を請うところで戦国大名としての今川家は滅んだというのが定説になっています。
 どなたの著作であったか憶えがないのですが、このときを最後に氏真は「降りた」という表現がありました。
「降りた」ときの氏真はさぞかしホッとしたことでしょう。

 氏真は信長に今川家伝来の「千鳥」という香炉を献上しています。

「信長公記」巻八には、

(天正三年)三月十六日、今川氏実(氏真の誤記)御出仕。百端帆御進上。已前も千鳥の香炉、宗祗香炉御進献の処、宗祗香炉御返しなされ、千鳥の香炉止置せられ候キ。今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、飛鳥井殿父子、弘橋(広橋の誤記)殿、五辻殿、庭田殿、烏丸殿、信長は御見物。

 と、記されています。

 百端帆というのがなんであったのか、いまでは不明だそうですが、ともかく何かを土産に挨拶に出向いた。以前も献上しておいた千鳥の香炉と宗祗の香炉のうち、信長はこれだけもらっておこうといって千鳥の香炉を召し上げていたことがあった。この香炉は今川家の、いわば家宝です。
 それを献上したばかりか、所望されて三条西実枝、公明親子らとともに蹴鞠まで披露している。

 蹴鞠は公家たちにとっては嗜みの一つだったのではあり、同じ年の七月には、誠仁(さねひと)親王が主催する蹴鞠の儀が禁裏で行なわれて、今度は誠仁親王みずからが信長に蹴鞠を見せているほどですから、見世物になっているという感覚はないのかもしれませんが、よりによって親のカタキの目の前で披露するようなことか、と私は感じるのです。
 信長は誠仁親王を通じて朝廷工作をもくろんでいたので、このときは半分義理で見に行ったのかもしれませんが、氏真に蹴鞠を「御所望」したときの「信長は御見物」という短い一節に、私は片膝を立てて坐り、鼻を鳴らして見ている信長の姿を想像します。

「降りた」あととはいえ、かつての武将としては考えられぬ行為だと感じるのは私だけでしょうか。
 相手が信長では、嫌だと思っても逆らえまい、とは思うのですが、もの悲しいというのを通り越してしまっているように感じられます。

 氏真は中庵宗巌より二十一年も早く生まれ、十年も長生きしました。

 駿河と豊後……。
 遠く離れて、まったく縁のなかったような二人なのですが、徳川の時代になると、中庵の孫・大友義親が今川氏真の孫娘(氏真の嫡男・範以の娘)を妻に迎えるという不思議な縁(えにし)が生まれます。

※今川氏真の画像は「静岡県史」から拝借しました。


中庵と誾千代(2)

2008年12月04日 18時07分13秒 | 歴史

 中庵が大酒呑みだったらしいことは前に書きましたが、豊後であれば、呑んでいたのは焼酎ではなかったかと思います。千代香(じょか)で燗をつけて呑んだか、常温か。

 千代香を使うのは宿敵薩摩ふうの呑み方ですから、そういう呑み方はしなかったはず。となると、常温で呑んだのでしょうか。
 常温ならカボス(臭橙または香母酢)を搾って呑んでいたかもしれない、と考えましたが、カボスの由来をひもとくと、栽培され始めたのはどうやら江戸時代中期かららしい。
 大分県の臼杵に住む医師が京から持ち帰って植えたのが最初とも、三百年前に日田地方に自生(最初は某が植えたのでしょうが)しているのが見つかったのが最初とも……。

 いずれにしても、いまから五百年前という中庵の時代にはなかったと考えざるを得ませんが、一縷の望みは起源が江戸時代中期だったとしても、はっきりそれと断定できる史料はない、ということです。
 すると、中庵の時代にはカボスはなかったと断定できるものでもない、ということになります。かなり強引ではありますが……我田引水しないと、ワタクシの空想は発展しないので……。

 カボスは豊後以外の土地では育たないといわれていました。
 現代でも全生産量の98%は大分産というのですから、カボスの好む土壌には何か特殊なものがあるのでしょう。

 中庵が立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)を訪ねたとき、手土産代わりにそのカボスを持って行ったと想像しましょう。
 男まさりの誾千代も中庵の前ではなぜか女性らしく振る舞っています。酒の席か、料理で澄まし汁が出たときに、中庵が懐から取り出したカボスを搾り落として見せた。

「姫、これは豊後の特産でな。不思議なことに、豊後の地以外では育たぬそうじゃ……」と得意げに説明してみせます。
 誾千代の勝ち気が表に出て、「ならば妾(わらわ)が育ててみましょうぞ」と答える。

 誾千代の居城立花山城があったのは現在の福岡市ですから、筑前の国です。カボスは育つはずがなかったのですが、どういうわけか、誾千代の掌(たなごころ)に守られて育った。

 文禄の役 ― 。
 中庵は数千の兵を率いて名護屋から朝鮮に向かいます。出発に当たって、嫡男・義乗に家督を譲り、家訓を遺していますから、万が一ということを考えたでしょう。すると、誾千代に対面できるのも、最後になるかもしれぬと思った……かもしれない。

 豊後から名護屋までの途次、最後の別れを交わすために、誾千代を訪ねた。中庵を出迎えた誾千代はなぜか得意満面の表情を浮かべています。
 中庵はカボスの一件など忘れていましたが、誾千代が手ずから持ってきた小さな鉢にはカボスの小さな幹が育っていたのです。

 中庵は朝鮮で失態を犯し、日本に送り返されたあとは、罪人同様の処遇を受けます。ぎん千代に会うことはなかったでしょう。誾千代が隠居してしまったことも知らなかったかもしれない。

 そして、誾千代の死 ― 。

 それは中庵が最初に流された出羽湊から常陸の国・宍戸へ移送されて、半年ぐらいたったころです。

 ある日、中庵は誾千代の侍女がしたためたと思われる書状を手にします。
 出羽に流されていると思って出されたので、中庵の手に渡るまで数か月を経ていました。
 そこには誾千代が死んだことを知らせる文面とともに、数粒のカボスの種が入っていた……。