雨つづきです。
冬を迎えるのにあたって、羽毛布団や電子カーペット、絨毯などを陽に当てておきたいと思っているのですが、なかなか思うようになりません。
今日二十七日も雨です。しかも、ひと足早く冬がきたかと思うほどの寒さ。
今日の我が地方の最低気温は14・5度と今秋初めて15度を下回りました。今朝までタオルケットを二枚かけて眠っていましたが、「さぶッ」と感じて目覚め、冬用のルームウェアを引っ張り出して人心地つけたあと、冬のスラックスを出しました。
二十七日は私の月誕生日(私の造語)です。自分の命日がいつになるかはわからず、仮にわかったとしても、当たり前のことですが、私自身がお参りに行くことは不可能です。それなら、と思って、毎月二十七日には私の干支の守本尊である阿弥陀様を祀る東漸寺に参拝することにしています。
山門から境内を望む眺め。
無人の境内です。
大香炉と本堂。
毎月十五日と二十七日はこの東漸寺の開山である經譽愚底(きょうよ・ぐてい)上人の墓所にもお参りすることにしています。一段高く、香華の手向けられているのが上人のお墓です。
金木犀(キンモクセイ)が艶やかな匂いを振り撒いていました。10メートルほどはありそうな高木です。
毎年この季節がやってくると、遥か五十年以上も前、一人の少女を見初めたときのことを思い出します。
互いに大学一年生。同じ学科にいながら、部活でラグビーをしていた私は昼休み中の練習を終えたあと、一年生には用具の後片づけ、ボール磨きという用が課せられているので、午後一番の講義に向かっても、決まって遅刻。講義室の後ろの扉からこっそり入るのが常だったので、みんなの背中しか見えません。
講義が終われば、昼休み中に片づけ切れなかった用具の整理をするために、脱兎のごとく部屋を抜け出さなければならず、見知った友以外、顔を見ることはほとんどなかったので、感じの佳い少女と同級生だったと気づいたのは、入学から半年近くも経った夏休み明けのことでした。
見初めてから三年半。少女の手に触れることもなく、むろん唇に触れることもなく別れることになりました。
ごく当たり前の失恋であれば、悔いも残らなかったかもしれないと思うのですが、待っていた別れは死に別れでした。私にとっては甘酸っぱく、切ない香りです。
少しずつ落葉が始まっています。
これは八日前に撮影した、我が庵近くで咲く銀木犀(ギンモクセイ)です。道路から少し離れているので、近くまで行くことができません。
今日は雨で薄暗く、心なし香りも薄いようです。
紅葉にはまだ間がありますが、カエデの葉から滴る雨の雫を撮ろうと、200ミリの望遠レンズを装着した一眼レフを持って出ましたが、シャッターを切る直前、ひと雫分だけ残っていた雨がポタリと落ちてしまっていました。
今朝、我が庭でも彼岸花が芽を出しました。
本土寺参道の彼岸花をブログにしたとき(三日前)には影も形もありませんでした。一旦芽を出せば、一日に5センチも10センチも伸びるので、油断していると、あっという間の丈の高さです。
一帯は昔(私が移り住むより遥か前)は多くが畑地だったからか、いまは住宅地となった道路のそこかしこにニラ(韮)があって、いまの季節は白い可憐な花を咲かせています。
本土寺参道ではまだ蝉(ツクツクボウシ)が啼いていました。
慶林寺の参道にも彼岸花。
こちらは明日開花か?
参道入口には白い彼岸花。
昨日、私はまたボケを発症していました。
昨十五日は阿弥陀如来の縁日です。それなのに、観音様の縁日(実際は十八日)だと思い込んでいて、そう勘違いしていたのに、念珠も観音経も持たずに東漸寺へ行きました。
う~ん、我ながら、一体何やっているんですか、オトッツァン? と気づいたのは、その夜だったか、今日になってからか。腑に落ちない自分に腑に落ちない思いでありました。
本土寺参道で彼岸花が咲き始めました。
三日前、先端が紅くなった茎を見かけて、「早くも……」と思いましたが、日記をひもとくと、去年は九日に咲き始めていました。四日遅れです。
参道の桜並木ではまだ蝉が啼いています。
欅(ケヤキ)の巨木の根元です。こんなところで咲こうとしているのを見ると、健気に思えます。
今日は旧暦八月朔日です。
東京に棲み、新宿や浅草を根城にしていたころは、白い着物を着た花街のおねいさんを見かけて、その日が八朔であることに気づかされ、「お、粋だね」と思ったりしていましたが、千葉の住民となったいまはそんな「粋」とも縁遠くなってしまい、普段ととくに変わりのない一日です。
今日も一日の始まりは慶林寺への参拝です。珍しく門が開けられていました。
参拝のあと、駅前のスーパーで買い物をして、一番の近道なのに、普段はあまり通らないようにしている本土寺の参道を歩いて帰ったら、早くも咲きそうになっている彼岸花を見ました。
我が庭先にも彼岸花が咲くのですが、なぜか、この雪柳の枝の下、それも庭を挟んだ南の道路側だけなので、私の部屋からは見えません。
部屋に入る前に見てみましたが、まだ芽を出していないようです。
まったく気配がないのは、二十日前、庭の草刈りがきて、樹木は形ばかり残したものの、草は一網打尽にして行ったからだろうかと思いましたが、二十日も前のことなら、まだ顔を出しているはずはなく、刈り取られてはいないはずです。
今日、駅前のスーパーで買ってきたのはグラタン皿です。
食品以外のモノは決して増やすまい、と心に決めていながら、また禁を破って買ってしまいました。
いまの住居に引っ越してきて八年。モノが多過ぎて、開かずの扉状態になっているダイニングテーブルの下にある収納扉を開ければ、あるかもしれない、のだけれど……。
捜すのが億劫ということもありますが、収納扉の中を探るということは、何分間かしゃがまねばならぬことですから、洗濯機に放り投げて入れ損なった靴下や調理をしていて、うっかり落っことしてしまった食材を拾うために腰を屈めるだけで、ゼェーゼェーハーハーと息が荒くなるいまの私には、億劫以前に無理なことなのです。従って、あと何回使うかどうかわからないのに、購入という次第になったのでした。
今年の四月から六月にかけて、BS12トゥエルビで放映されていた「居酒屋ぼったくり」という番組がYou Tubeで視られるようになっていたので、視ていたら、「第七話」にトマトと茄子のグラタンが出てきて、無性に食べたくなったのです。
作品はこちら。
輪切りにした米茄子をオリーブオイルで炒めてグラタン皿の底に敷き、その上に輪切りのトマトとベーコンを載せます。味つけは塩と胡椒だけ。ピザ用チーズで覆って、オーブンで七~八分。さらにパン粉を載せて焦げ目がつくまで五分焼いて完成。
結構美味しくできました。
我が地方は夕方四時ごろから雨になりました。久しぶりにまとまった雨になりそうです。
九月九日は一年に五つある節供のうち、重陽の節供です。久しぶりに祝ってみるか、という気になりました。
去年まで、子どもたちも利用する公共施設でパート勤めをしていたので、五節供のうち、三月三日の雛祭り、五月五日の端午の節供、七月七日の七夕と、それぞれの節供が近づくころには、施設の入口に雛人形や五月人形、笹のこしらえものを飾ったりしていましたが、一月七日の人供と重陽の節供は人々に馴染みもないので、何もしませんでした。
もともとは旧暦の行事ですから、旧暦九月九日は今年は来月の十七日です。
九月は「くがつ」と読んで、決して「きゅうがつ」とはいいませんが、九日は「ここのか」、あるいは「ここぬか」と読むのが普通であって、「くにち」とは読む人はあまりいません。
ところが、「くにち」と読むところはあるわけで、そう読めば、「くんち」、つまり長崎県や佐賀県で行なわれるお祭り ― 「おくんち」となるわけです。
菊のポット植えを捜して花屋さんを覗いてみましたが、いまの時期はまだ菊はありません。代わりにポットマムを買ってきました。写真を残すのにあたって、後ろには同じキク科のヨモギ(蓬)を配してみました。
このヨモギは六月十二日に種を播き、二十九日に芽を出して、草丈30センチほどに成長しています。
そろそろ庭に植え替えるかどうか思案中です。
キク科のツワブキ(石蕗)を染め抜いた花瓶敷きが見つかったので、テーブルクロス代わりに敷いてみました。
本来は菊の花弁を三つ四つ毟って酒に浮かべるのですが、ポットマムは日本の菊に較べると、花も花弁も小さいので、私の太い指で毟りとると、引きちぎってバラバラにしてしまいそうです。花ごとちぎって浮かべました。
盃には酒を注ぐところですが、いつの間にか大酒呑みと化している私でも、日本酒は一切呑まないので、盃というものを持っていません。
正しくいえば、盃やお銚子は私が使わないだけで、どこかにあるはずです。昔はちょくちょく友が訪ねてきたりしたので、日本酒を呑む友のために用意してありました。いろんなものが積んであって、開かずの扉と化している台所の引き戸を開けたりすれば、どこかに眠っていると思うのですが、開かずの扉を開けるためには大掃除のようなことをしなければなりません。
健康を危惧する自分のためにこしらえている、ニンニク酒とニンニクを漬け込んだ赤ワインを、それぞれ毎朝一杯ずつ呑むためのショットグラスを持ってきて、焼酎を注ぎ、菊の花に似せたポットマムを浮かべてみました。
重陽の節句のいわれはどんなことであろうかと、アンチョコを紐解いてみると ― 。
いまから千五百年も前の中国六朝時代、梁の国の呉均(469年-520年)という人が書いた「続斎諧記」には、以下のような記述があります。
汝南桓景隨費長房遊學累年。長房謂曰。九月九日、汝家中當有灾。宜急去、令家人各作絳囊、盛茱萸、以繫臂、登高飲菊花酒、此禍可除。景如言、齊家登山。夕还、見鷄犬牛羊一時暴死。長房聞之曰、此可代也。今世人九日登高飲酒、婦人帶茱萸囊、蓋始於此。
汝南(かつて中国河南省にあった郡)の桓景(かんけい)という人が、方術(不老不死の術や医術など)の達人である費長房(ひちょうぼう)という人に教えを乞うべく師事して、何年も学んでいた。
あるとき、師の長房がいうのには、きたる九月九日にはお前の郷里に大厄災がある。急いで郷里に帰り、家人に赤い袋を縫わせて、茱萸(イタチハジカミ)を入れ、その袋を肘にかけて山に上り、菊花の酒を呑めば、災いは消えるであろう、と。
桓景は郷里に帰り、いわれたとおりの支度をして、家族揃って山に上りました。そして、菊花の酒を呑んだあと、夕方に戻ってみると、鷄、犬、牛、羊の家畜がいっときに急死していた。長房がこれを聞いて謂うのには「これは(人間に)代わってくれたのだ」。
いまの世の人が九月九日に高いところに登り、酒を飲み,婦人が茱萸をいれた袋を身に付けるのは,恐らくこのことから始まったのだろう。
イタチハジカミとは山椒のことで、秦椒と書いたりもします。
いつであったか、新宿の馴染みの呑み屋で呑んでいたとき、その日がちょうど重陽の節供にあたっていることを思い出したので、たまたま花瓶に飾ってあった菊の花をもらい、ママさんに、以上のような講釈を垂れながら夜のひとときを過ごしたことがあります。
私は長年雑誌編集者をしてきたので、本質は何一つ知らない上滑りばかりであったとしても、大概のことは識っているのです。
もともとは中国のしきたりですから、呑む酒が日本酒ということはあり得ない。
こういうしきたりが六朝時代に始まったのだとすれば、六朝時代より三百年も前の時代を生きていた諸葛孔明(181年-234年)は知らなかったかもしれませんが、南宋の岳飛(1103年-42年)は知っていて、菊の花弁を浮かべて呑んだのかもしれないと思えば、どういう種類の酒に浮かべたのであろうかと思います。
今月の薬師詣では葛飾区を歩きました。
参詣するのは極楽寺と普賢寺です。両方とも参詣は二度目になりますが、薬師詣でで訪れるのは、ともに初めてです。
前にきたのはいつであったか、はっきり憶えはないが、いつであったろうか……と思って調べてみたら、もう六年も前、2012年二月のことでした。
常磐線を金町で降りて、京成電鉄に乗り換えます。
京成金町から柴又、京成高砂と二駅だけ乗って、今度は京成本線に乗り換えるのですが、京成に乗るのは久しぶりだったので、京成高砂駅では同じ京成電鉄であるのに、一旦改札を出て、また改札を入るという仕掛けがあったのをすっかり忘れていました。
京成高砂から三つ目、堀切菖蒲園駅で降りました。
干支神・堀切十二支神。右から子丑寅……一番手前が亥。「西遊記」に出てくる猪八戒みたいです。
途中まで堀切菖蒲園通りと名づけられた道を歩きます。
今日の行程の近くには、観音寺(2016年二月:薬師詣でをした年月)、宝持院(15年十一月、16年二月)、薬師寺(11年十月、17年八月)、善養寺(14年三月、17年八月)と、薬師如来をお祀りするお寺が四か寺もあります。
二度三度と詣でてはいけない、という決まりはどこにもないので、歩く余力がありそうなら、どこかに寄ってもよいと考えていましたが、庵を出るころから、気温は30度に迫る勢いでした。ポコポコと歩いているうち、その暑さがボクシングでいうロウブロウのように利いてきます。
暑かった夏が、静まることなくつづいていれば、暑さに対する抵抗力も弱まっていなかったかもしれませんが、六日前の今月の二日、最高気温が24度台と非常に涼しい日を体験してしまったために、抵抗力と気力が途切れています。電車を降りて歩き始めれば、すぐゼイゼイハァハァという有様です。
途中で堀切菖蒲園通りを離れますが、六年前、堀切菖蒲園から極楽寺を訪ねたときは同じ道を歩いているはずです。細々とした記憶は薄れていても、「アレ?」と思うようなことはないはず……と思っていたのですが……。
極楽寺門前、短い参道にある、いぼとりり地蔵。歩いてきた道路に面してあった(はず)と記憶していたので、ちょっと戸惑ってしまいました。
山門は閉ざされていたので、右の通用門からお邪魔します。
宝徳元年(1449年)、新義真言宗の本山・紀伊根来寺の普済阿闍梨によって創建されました。
永禄三年(1560年)八月、大洪水のため本堂以下ことごとく流失したので、同五年、正済法印が再興しました。
境内の薬師堂の本尊は「寅薬師」または「砦内の薬師」とも呼ばれ、室町時代にこの地の領主であった窪寺氏の城内にあったものだということです。
窪寺氏とはどのような氏族なのか、資料がないのでわかりませんが、東京堂出版の「後北条氏家臣団人名辞典」には、窪寺大蔵丞という名があります。
今回は寄りませんでしたが、堀切天祖神社相殿の譽田別尊は宝徳元年(1449年)、千葉介実胤の家臣・窪寺蔵人頭胤夫が武運長久祈願のため勧請した八幡宮とされています。
かつて天祖神社の別当はこの極楽寺でした。
御堂の前には御香台があり、風雨に晒された感じの十円硬貨が十枚ばかり載っていました。私はその中に百円硬貨を添えて、友人知人たちが無事息災であることを祈りました。
極楽寺から七分。妙源寺という日蓮宗の寺院に寄りました。ここも前回寄っていますが、極楽寺と同様、佇まいは記憶にありません。
妙源寺には安積艮斎先生の墓(右)がありました。私が敬愛する幕末の勘定奉行・川路聖謨さんの先生です。
今月から携帯電話をスマートフォンとタブレット端末に代えました。
薬師詣でに行くときは地図が必須なのですが、プリンタが故障してしまいました。八年前に買ったものですから、そろそろ壊れても不思議ではないと思いますが、一万円弱で買ったものなのに、修理代の見積もりをとったら、一万一千円。莫迦莫迦しいので、修理はあと廻しにして、代わりにスマートフォンとタブレットを導入することにしたのです。
普賢寺へ向かう途中、上千葉小学校前を通りかかりました。
葛飾区なのに、何ゆえ「千葉?」。千葉氏と関係でもあるのでしょうか。
いまは地名としての「千葉」は消えてしまいましたが、昭和四十年代初めごろまで「上千葉町」「下千葉町」という地名があったそうです。現在の葛飾区東堀切と堀切・お花茶屋・小菅・西亀有の一部です。
室町時代の資料に「木庭袋」という地名があり、これが「千葉袋」になりました。
「袋」とは川が袋状に蛇行している地形のことをいい、かつてあたりが古隅田川に面していたことも関係していると考えられています。
また、千葉氏がここに城を築き、「木庭」を「千葉」に改めたという言い伝えもあります。
妙源寺から二十分かけて普賢寺に着きました。
普賢寺の薬医門。
くぐってきた山門の天井板碑には、開基は治承四年(1180年)八月と記されています。また「新編武蔵風土記稿」に記されている縁起には、寿永(1182年-84年)のころ、この地にあった朽ちた大木の根本から、清水が湧き出したので、領主だった葛西兵衛尉入道寂昌がその根を堀らしめて薬師仏の像を得た。寂昌は堂を建てて、普賢寺と名づけ、寺領等を寄付した、とされています。
それから百年近く経った建治元年(1275年)、和田北条合戦のとき、当時の領主・葛西民部少輔は討死し、寺も焼亡しましたが、その子・六郎常則はわずかに三歳、その母が薬師像を懐にして母子ともに立ち退き、十四年後、常則は北条家に仕えて、本領葛西の地に戻り、弘安六年(1283年)、薬師堂を再興し、法空阿闍梨を請待して導師としたと伝え、山門の天井板銘ではこの法空を中興開山としています。
本堂右に不動明王。
今日のお勤めを終えて亀有駅を目指します。
西亀有せせらぎ公園。とにかく暑い!!
水は飲めません、という注意書きがありましたが、飲もうにも流れていませんでした。
遠くにイトーヨカドーが見えて、亀有駅も近くなってきました。
残暑厳しい中を、途中でしばし休息をとっているとはいえ、三十分近くも歩きつづけてきたので、脚の「ろれつ」が廻らない状態です。
帰りは亀有駅から。
→この日、歩いたところ。