薬師詣で(埼玉県草加市の東漸院)をした今月の八日。行きは武蔵野線の吉川駅で降り、歩き始める前に駅周辺をちょっとだけ歩きました。そのときに機会を改めて吉川市内の寺院を巡ってみようとふと思ったのです。
行かなくても誰も困りはしないし、行ったからといって誰も悦びはしないのですが、我が松戸市の隣の隣の隣……吉川市の寺院巡りに出かけました。
高血圧(それもかなり高い)と診断されてから、多少気分が落ち込んだのと、気のせいでもあるのですが、散歩に出る気を喪失してしまったので、散歩というにはいささか遠い行程になりました。
医師の勧めで手首に巻く電子血圧計を買うことにしました。アマゾンに注文した二日後、シチズンの電子血圧計が届きました。
早速測定してみると、三日前の十九日、病院で計測したときには189だった収縮期血圧(最高血圧)がなんと133と急降下。拡張期血圧(最低血圧)は107とやや高いものの、血圧管理手帳に記されている「高齢者」の値は135/85ですから、もう少しの努力です。
担当医は「薬の効果はすぐには出ませんよ」といっていたのに、処方してもらったアムロジピン5ミリ錠を服み始めたら、早速効果が出たようです。
ブログの標題を「吉川寺社巡り ― その1」としたのは、今回は吉川駅周辺を巡ったのに対し、武蔵野線の新三郷と吉川の間に、吉川美南駅という新しい駅ができたので、次の機会にはこの駅を利用して、周辺の寺社巡りをしようと思い、それを「その2」としようと考えたからです。
吉川駅の南口に出ました。駅前には巨大な鯰(ナマズ)のモニュメントがあります。
ここから新三郷駅へ行くバスに乗ります。待つほどもなくやってきたのはマイクロバス。前乗りで、スイカやパスモは使えません。乗客は私と一歳になるかならないかという乳児を連れた若いお母さんだけでした。
彦糸一丁目北というバス停で降りました。吉川の寺巡りですが、最初に訪れるのは安養院。所在地は三郷市です。
安養院。現在は真言宗系単立寺院。慶長十五年(1610年)の創建。
「厄除け大銀杏」と呼ばれる安養院の公孫樹(イチョウ)です。樹齢五百六十年から六百年。かつては28メートルもの高さを誇りましたが、落雷にでも遭ったものか、いまは10メートル。
この樹の銀杏は厄除けの実として、正月元旦から三が日の間に、近郷近在の老若男女が境内に集まって、家族の数だけ持ち帰り、これを食べてその年の無事を祈願したといわれています。
安養院をあとにすると、吉川駅方向に戻る形で歩きます。
安養院から七分で宗眼寺に着きました。真言宗豊山派の寺院。創建は不詳。本尊は不動明王。
私が持っていた地図には、安養院から宗眼寺までの途中に「卍」の印があり、天台宗の長福寺とあったので、周辺をグルグルと歩き廻ったのですが、見つけられませんでした。
宗眼寺から四分で観音寺。ここも真言宗豊山派の寺院で、創建は不詳。本尊は大日如来。
観音寺から十分で密厳院。二年前の七月に一度きています。
本尊は地蔵菩薩で、恵心僧都(942年-1017年)の作。行基菩薩(668年-749年)作の薬師如来(寅年開帳)、同作の観音菩薩(午年開帳)なども安置されています。
密厳院の大公孫樹です。二年前にきたときはこの大公孫樹を見るのが目的でした。
境内にある掲示によると、樹齢推定八百年。埼玉県指定の天然記念物です。
密厳院の隣。ここも二年前の七月以来二度目の観龍院(真言宗豊山派)です。本尊は不動明王(立像)。開山は天文年間(1532年-55年)。
境内にある、ぼけ除けおさすり地蔵。
二年前も、いまのところは「ぼけ」に縁はなさそうだが、念のため撫でさせていただきましょう、と頭を撫でました。今回も、まだ「ぼけ」に縁はなさそうだが、念のため撫でさせていただきましょう、と頭を撫でました。
このあと、武蔵野線の高架をくぐって線路の北側に出ます。
観龍院から二十三分で智勝院(真言宗智山派)。
吉川市内を歩いていると、鰻・鯰料理と銘打った看板をしばしば見かけます。鰻はなかなか口にはできないものの好物ではありますが、鯰のほうは私にはゲテモノの範疇。
智勝院から五分で延命寺(真言宗智山派)。
中川のほとりに出ました。
台座には田能笑地蔵菩薩と彫られていますが……。得体はしれません。
吉川市役所。
人口は約六万人。東京近郊としては小さな都市です。それにふさわしく、つましい庁舎。
延命寺から十三分で普門院(真言宗智山派)。
普門院から十一分のところに薬王寺がありました。
手持ちの地図に「薬王寺」と記載されているので、薬師如来に関する何かがあるのだろうと足を延ばしてみましたが、地域の集会所か、と思うような建物があるだけでした。
屋根のてっぺんにある宝珠を見れば、寺院であろうと思われるのですが、埼玉県の宗教法人名簿にはこのお寺の記載はありません。
建物の裏手は墓地になっていて、弥陀三尊種子(しゅじ)板碑がありました。中川河畔にあったものを大正十年ごろの河川改修にともなって、この墓地と一緒に現在地に移されたようです。