桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

吉川寺院巡り ― その1

2012年09月24日 22時52分10秒 | 寺社散策

 薬師詣で(埼玉県草加市の東漸院)をした今月の八日。行きは武蔵野線の吉川駅で降り、歩き始める前に駅周辺をちょっとだけ歩きました。そのときに機会を改めて吉川市内の寺院を巡ってみようとふと思ったのです。
 行かなくても誰も困りはしないし、行ったからといって誰も悦びはしないのですが、我が松戸市の隣の隣の隣……吉川市の寺院巡りに出かけました。
 高血圧(それもかなり高い)と診断されてから、多少気分が落ち込んだのと、気のせいでもあるのですが、散歩に出る気を喪失してしまったので、散歩というにはいささか遠い行程になりました。

 医師の勧めで手首に巻く電子血圧計を買うことにしました。アマゾンに注文した二日後、シチズンの電子血圧計が届きました。
 早速測定してみると、三日前の十九日、病院で計測したときには189だった収縮期血圧(最高血圧)がなんと133と急降下。拡張期血圧(最低血圧)は107とやや高いものの、血圧管理手帳に記されている「高齢者」の値は135/85ですから、もう少しの努力です。
 担当医は「薬の効果はすぐには出ませんよ」といっていたのに、処方してもらったアムロジピン5ミリ錠を服み始めたら、早速効果が出たようです。

 ブログの標題を「吉川寺社巡り ― その1」としたのは、今回は吉川駅周辺を巡ったのに対し、武蔵野線の新三郷と吉川の間に、吉川美南駅という新しい駅ができたので、次の機会にはこの駅を利用して、周辺の寺社巡りをしようと思い、それを「その2」としようと考えたからです。



 吉川駅の南口に出ました。駅前には巨大な鯰(ナマズ)のモニュメントがあります。
 ここから新三郷駅へ行くバスに乗ります。待つほどもなくやってきたのはマイクロバス。前乗りで、スイカやパスモは使えません。乗客は私と一歳になるかならないかという乳児を連れた若いお母さんだけでした。
 彦糸一丁目北というバス停で降りました。吉川の寺巡りですが、最初に訪れるのは安養院。所在地は三郷市です。



 安養院。現在は真言宗系単立寺院。慶長十五年(1610年)の創建。



「厄除け大銀杏」と呼ばれる安養院の公孫樹(イチョウ)です。樹齢五百六十年から六百年。かつては28メートルもの高さを誇りましたが、落雷にでも遭ったものか、いまは10メートル。
 この樹の
銀杏は
厄除けの実として、正月元旦から三が日の間に、近郷近在の老若男女が境内に集まって、家族の数だけ持ち帰り、これを食べてその年の無事を祈願したといわれています。

 安養院をあとにすると、吉川駅方向に戻る形で歩きます。



 安養院から七分で宗眼寺に着きました。真言宗豊山派の寺院。創建は不詳。本尊は不動明王。

 私が持っていた地図には、安養院から宗眼寺までの途中に「卍」の印があり、天台宗の長福寺とあったので、周辺をグルグルと歩き廻ったのですが、見つけられませんでした。



 宗眼寺から四分で観音寺。ここも真言宗豊山派の寺院で、創建は不詳。本尊は大日如来。



 観音寺から十分で密厳院。二年前の七月に一度きています。
 本尊は地蔵菩薩で、恵心僧都(942年-1017年
)の作。行基菩薩(668年-749年)作の薬師如来(寅年開帳)、同作の観音菩薩(午年開帳)なども安置されています。



 密厳院の大公孫樹です。二年前にきたときはこの大公孫樹を見るのが目的でした。
 境内にある掲示によると、樹齢推定八百年。埼玉県指定の天然記念物です。




 密厳院の隣。ここも二年前の七月以来二度目の観龍院(真言宗豊山派)です。本尊は不動明王(立像)。開山は天文年間(1532年-55年)。



 境内にある、ぼけ除けおさすり地蔵。
 二年前も、いまのところは「ぼけ」に縁はなさそうだが、念のため撫でさせていただきましょう、と頭を撫でました。今回も、まだ「ぼけ」に縁はなさそうだが、念のため撫でさせていただきましょう、と頭を撫でました。


 このあと、武蔵野線の高架をくぐって線路の北側に出ます。



 観龍院から二十三分で智勝院(真言宗智山派)。



 吉川市内を歩いていると、鰻・鯰料理と銘打った看板をしばしば見かけます。鰻はなかなか口にはできないものの好物ではありますが、鯰のほうは私にはゲテモノの範疇。



 智勝院から五分で延命寺(真言宗智山派)。



 中川のほとりに出ました。



 台座には田能笑地蔵菩薩と彫られていますが……。得体はしれません。



 吉川市役所。
 人口は約六万人。東京近郊としては小さな都市です。それにふさわしく、つましい庁舎。



 延命寺から十三分で普門院(真言宗智山派)。



 普門院から十一分のところに薬王寺がありました。
 手持ちの地図に「薬王寺」と記載されているので、薬師如来に関する何かがあるのだろうと足を延ばしてみましたが、地域の集会所か、と思うような建物があるだけでした。
 屋根のてっぺんにある宝珠を見れば、寺院であろうと思われるのですが、埼玉県の宗教法人名簿にはこのお寺の記載はありません。



 建物の裏手は墓地になっていて、弥陀三尊種子(しゅじ)板碑がありました。中川河畔にあったものを大正十年ごろの河川改修にともなって、この墓地と一緒に現在地に移されたようです。


2012年九月の薬師詣で・草加市

2012年09月09日 21時25分03秒 | 薬師詣で

 なんとなく気鬱な状態です。
 大腸のポリープを切除してもらい、胃カメラを飲んで、胃潰瘍もすっかり完治。食道にも十二指腸にも危惧するところはないと判明しました。
 消化器系はよいとしても、循環器系は問題なしとはいきませんが、かといって、とりわけ深刻な問題があるわけでもありません。
 ポリープ切除前の
血圧測定では、収縮期が171と高かったので、ナースは愕いたみたいですが、担当医はわりと平然としていて、しばらく様子を見ようといっています。
 私のほうでも、歩くと苦しいとか、どこかが痛いというような症状はないので、病気を持っている、という自覚がありません。
 それなのに……、気鬱です。


 といって、引きこもりになるのではないのです。人に会う、という約束をするのはいささか億劫になりますが、自分一人で気ままに出かけるぶんには何も抵抗はありません。

 薬師如来の縁日(八日)がきたので、草加市にある東漸院へ行ってきました。

 先月、旧日光街道の草加宿を歩いたのですが、庵に帰ったあと、草加市のホームページを覗いて、このお寺に薬師如来がお祀りされていることを知りました。
 ただ、同じ草加市内といっても、お寺のある場所は旧日光街道と東武鉄道が走っている中心街から遠いので、日を改めて行くことにして、早速今月の薬師詣での地としたのでした。

 草加市内ですが、我が庵から行くと、最寄り駅は吉川市にある武蔵野線の吉川駅です。




 吉川駅の北口に出ました。



 吉川駅前から埼玉県道・越谷流山線に出て、吉越橋で中川を渡ります。「吉越」と名前がつけられているように、ここが吉川市と越谷市の境界になっています。
 歩道の幅は3メートルはありそうなので、大丈夫だろうと思いながら渡り始めました。
 が、やっぱりイケません。
 何がイケないといって、高所恐怖症が出たのです。
 最近、歩道橋や跨線橋を歩いていなかったので、恐怖心を忘れていて、お気楽にも橋を渡るコースを選んでいたのでした。

 実際の川幅は100メートルそこそこです。しかし、両岸に沿って走る道と交差するのを避け、下をくぐらせているので、橋はより高く、アーチ型に湾曲し、長さは500メートルはありそうです。

 川の上に出るあたりまでは目隠しがあって下が見えないので、スイスイと歩けます。しかし、その先は目隠しがなくなっているのがわかります。下のほうに水面が見えているので、ヤバイ、この先はどうなることやら、と思いながら歩いています。

 目隠しのないところにきました。
 下は見ないように、極力アッチを向いて歩きます。それでも視界の端っこには遙か下を流れる水面が入ります。

 水面が目に入った途端……実際は何度あったのかわかりませんが、30度は超えていたであろうと思われる気温が真冬の寒さに変わったように感じられました。
 ゾッとしながら、無意識のうちに中央の車道寄りを歩いています。

 ふざけて飛び跳ねながら歩いてくる二人の女子中学生とすれ違いました。キャッキャッと笑い合う声が近づいてきてすれ違い、やがて遠ざかって行くのを聞きながら、おまえらはバカだ、これからたっぷりと人生の怖さを知るがいい、などと八つ当たりしています。
 橋から水面まで、いかほどの高さなのか、見ることができないのですから、想像もできません。ただひたすら歩き、向こう側の目隠しがあるところまで一刻も早く辿り着いて、ホッとしたいと願うのです。

 苦節数分……やっと下を見ても平気な高さに辿り着きましたが、緊張のあまり、無意識のうちに筋肉を強張らせるのか、500メートルの橋を渡り終えただけで、まるで何キロも歩いたあとのように両腿が痛くなりました。



 吉川駅から二十分ほど歩いたところに、金剛寺があったので、寄らせてもらいました。明治期、近隣にあった二つの寺を合併させて創建されたという真言宗豊山派の寺院です。



 金剛寺をあとにして東漸院に向かいます。
 道路のかたわらには東町(あずまちょう)くぬぎ通りという標識がありましたが……。



 くぬぎ通りと銘打ちながら一体全体、どこに椚(クヌギ)の樹があるのですか! と首を傾げたくなるような風景です。画像奥に見えるガードはJR武蔵野線です。

 金剛寺から十分ほど歩いたとき、地図には「卍」の印もないのに、墓石の林立しているのが見えたので寄ってみることにしました。



 入口には「千疋南農村センター」というネームプレートがありました。
 左手に集会所があり、墓所の裏手にはもう一つ入口があって、石材店の現地案内所らしき建物がありました。両方とも入口は閉じられていて、人の気配はありません。




 この地区(千疋地区)に住む金剛寺の檀徒たちによる「堂宇再建標」と刻まれた石標。



 すぐ近くに伊南理神社がありました。
 説明板によると、元は稲荷社といったが、明治四十四年に隣村の久伊豆神社を合祀することになって、現在の神社名になったということです。
 祭神は宇賀之魂命(うかのみたまのみこと=古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂尊と表記される)と大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命と同じ)。
 説明板には、先に見てきた墓地はやはりお寺の跡で、真言宗の東養寺というお寺だった、ということも記されていました。




 千疋幹線排水を渡ります。
 排水と名がつけられていますが、この先で中川に合流する河川です。ここを渡ると、越谷市から草加市に入ります。




 草加市に入ると、東町くぬぎ通りは中川通りと名を変えます。さらに進むと八潮市になりますが、通りはまた名を変え、八条通りとなるそうです。

 くぬぎ通りだというのに、椚の樹どころか街路樹そのものがなく、太陽にジリジリと灼かれながら歩いた越谷市から一転……途中、
ほんの一部ですが、昔ながらの街道を思わせるような雰囲気がありました。並木が強い陽射しを遮ってくれるのが何よりもありがたい。

 千疋幹線排水を過ぎて四分ほど歩いたところで右手を眺めると、なんとなくお寺があるような雰囲気を感じました。行ってみると、大きな山門が目に飛び込んできました。
 目的の東漸院(真言宗豊山派)でした。



 山門は天明二年(1782年)の建築。草加市の文化財に指定されています。



 東漸院本堂。
 創建の年代は不詳ですが、室町時代の西暦1500年前後ではないかと推定されています。寺は元禄年間と寛政年間の二度にわたって火災に遭っていて、本堂は寛政十年(1798年)の再建。



 今回の目的地・薬師堂です。
 本堂と同じように火事で焼失して再建されたのでしょうが、屋根におもむきの感じられる本堂に比べると、差があるのを感じてしまいました。線香持参だったのですが、本堂も薬師堂も香炉がなかったので、合掌したのみ。

 現地には説明板もなく、インターネットで得られる情報もないので、どのような薬師如来がおわすのか、現在のところはとんとわかりません。
 わかったのは、私がときどき足を運ぶ鷲野谷・醫王寺の薬師堂と同じく、開帳は十二年に一度、寅年の四月八日だけ、ということです。次の開帳は十年後の平成三十四年。いまの調子であれば、まだ私はまだ生きていそうですが……。




 大師堂の日陰で憩う猫殿がいました。

 前夜の天気予報では、この日の午後は雨でした。
 東漸院に行くと決めたとき、東漸院からさらに南下して、吉越橋の一つ下流の八条橋を渡って再び吉川市に戻り、いくつかの寺社を巡りながら吉川駅に戻ろうと考えていました。自分が高所恐怖症を持っていることは考えてもみず、な~んと二度!! にわたって中川を渡ろうと企んでいたのです。
 しかし、雨になるというのではぐずぐずしてはおられぬ。東漸院の参詣を終えたら、元きた道をさっさと帰るべし、と思い直したのでした。結果的には、しばしば外れる天気予報がまたもや外れて、雨にはなりませんでしたが……。

 そのように考えていたのも、吉越橋を渡る前のこと。

 現実はアーチ型になった吉越橋を上り詰めながら、もう一度この道を戻ってくるのは敵わないが、決死の覚悟を固めて戻るしかないのでしょうな、と自問自答しつつ……とにかくなんでもいいのです。視界の端には入れまいと思っても入ってくる川面が見え始めているのですから、何か別のことを考えて気を紛らわせ、一分でも一秒でも早く橋を渡り終えねばならなかったのです。

 と……。

 アーチのてっぺんに到ったとき、遙か遠くではありますが、前方にAEONというロゴが見えました。
 今回の薬師詣での最寄り駅は吉川駅(のみ)! と思い込んでいたので、考えてもみなかったのですが、AEONのあるところには隣駅の越谷レイクタウン駅があるのです。
 



 帰りは越谷レイクタウンから、と決めたので、再び県道越谷流山線に戻りました。
 我が庵近くの田んぼではすでに稲刈りが始まっています。こちらも今日か明日か、という感じの稲穂の色づきです。




 ところが、すぐ隣の田んぼは稲の種類が異なるのか、まだ青々としていました。



 アウトレットモールのようなド・デカイ施設は目の前に見えていて、すぐ着きそうなのに、実際はなかなか近づいてきません。
 かつて勤めていた会社で、輸入手続きをするため、幾度となく訪れた横浜港の流通センターやコンテナヤードを思い出させます。
 その会社を辞めて二年半。
 ヤ~な思い出しかないところでしたが、ヤ~だったことどもを思い出さなくなっていたのに、ド・デカイ施設繋がりで、久しぶりに思い出して、げんなりしてしまいました。ドッと疲労感も押し寄せてきて、ほうほうのていで越谷レイクタウン駅に辿り着きました。

この日歩いたところ


伊興寺町を歩く(2)

2012年09月04日 22時34分15秒 | 寺社散策

 伊興寺町を歩く、の〈つづき〉です。



 天龍寺から東伊興小学校正門前を通り、徒歩六分で本行寺(浄土真宗本願寺派)に着きました。織田信長との戦(石山合戦)に馳せ参じた千田七郎宗順という門徒が天正八年(1570年)、現在の福井市に創建したのが始まりです。大正末期から昭和初期にかけて現在へ移転。

 ここから伊興寺町巡りの始まりですが、町名は異なる(伊興本町)ものの、すぐ近くに専念寺(浄土真宗本願寺派)という寺があるので、そこを巡って歩くと、「S」の字を下から描くように歩くことになります。



 その専念寺です。昭和五年、足立区本木(当時は南足立郡西新井町)に説教所として発足したのが始まり。

 専念寺を出て、車一台通るのがやっと、と思われる細い径に入ると、霊園があり、さらに正楽寺(浄土真宗本願寺派)がありましたが、現在は仮本堂しかないので、素通りします。



 正楽寺の隣が正安寺(浄土宗)。
 元和二年(1616年)、蔵前に創建。のち浅草新寺町(現在の台東区東上野)への移転を経て、関東大震災の被災後、昭和六年に現在地に移転。



 隣は東陽寺。曹洞宗系の単立寺院です。
 慶長十六年(1612年)、八丁堀に創建。浅草八軒寺町への移転を経て、関東大震災のあと、当地へ移転(昭和三年)。



 歌舞伎や講談で知られる塩原太助の墓があります。



 二十七世住持の卒塔婆に止まって啼いていたアブラゼミ。



 常福寺(浄土真宗大谷派)。
 慶長元年(1656年)、浅草に説教所が開設されたのが始まり。関東大震災で被災して、昭和三年、現在地に移転しました。



 易行院(浄土宗)。
 草創は元亀二年(1571年)。元は浅草山谷町(現・台東区清川)にありましたが、関東大震災で焼失し,昭和三年に現在地に移転しました。

 歌舞伎で有名な助六と揚巻の墓があるので、通称助六寺と呼ばれています。

 ここは三年前(2009年)の十月に亡くなった噺家・五代目三遊亭圓楽さんの生家です。ただし圓楽さんが生まれたのはこの場所ではなく、まだ山谷町にあったときのことです。

 易行院から130メートルほど先の蓮念寺へ向かう間に、伊興寺町巡りで最初に訪れた本行寺の裏門がありました。その向かいに、あとで訪れる長安寺の通用門があって、そういう使い方をしてもいいものかどうか、通り抜けできるようになっています。道路と道路の間隔がそれほど広くないので、寺の境内が二本の道路を結ぶ形になっているのです。



 蓮念寺(浄土真宗大谷派)。
 東日暮里にありましたが、戦時中に現在地に疎開、戦後、伊興山蓮念寺として創立。
 木立に囲まれていて、なかなか佳い雰囲気です。

 蓮念寺前を右折すると、結構広い通りに突き当たりました。左手に伊興遺跡公園があります。遺跡からはおよそ四千年前の縄文時代末ごろの縄文土器や千六百年前の古墳時代前期の遺物が出土しているそうです。



 突き当たりを右に折れると、直前に通用門前を通ってきた長安寺(浄土真宗本願寺派)があります。明確な創建年は不詳ですが、江戸時代初期と考えられています。築地本願寺の寺中寺だったということです。



 長安寺前からこのあとに訪れる法受寺前まで、白壁の下には疎水が流れていました。

 

 正安寺から蓮念寺にかけては小粋な石畳の径がありました。

 疎水の流れる径といい、石畳の径といい、京都の寺町を歩いているような気分にさせてくれます。
 地図を見て、「卍」印がいやにたくさんあると知って訪ねた町でしたから、落ち着いた雰囲気に浸ることができるだろうと期待はしていましたが、予想以上に満ち足りた気分です。




 長安寺の隣は善久寺。当初は浜町御坊に創建されました。明暦の大火(1657年)で浜町御坊が築地に移転(築地本願寺)にともなって築地に移転。関東大震災後、現在地に。



 その隣には浄光寺。前の善久寺、ここ浄光寺、ともに浄土真宗本願寺派の寺院です。元和二年(1616年)、赤坂に創建、元和七年(1621年)、浜町へ移転、前の長安寺と同じく浜町御坊が築地へ移転する際に当寺も移転。関東大震災後、現在地に移転。



 浄光寺の隣は浄土宗の法受寺(ほうじゅうじ)。
 正暦三年(992年)、恵心僧都が豊島郡下尾久に開創。宝暦三年(1753年)、豊島郡谷中に移転、新幡随院法受寺と称しました。浅草にあった田島山誓願寺の別院・安養寺、下谷の法受寺と合併して、昭和十年に現在地へ移転。



 榮壽院(曹洞宗)。関東大震災後、墨田区東駒形から現在地へ移転。「本所區史」によると、創建は明暦元年(1655年)。
 本尊は将軍延命地蔵で惠心僧都一刀三禮の尊像です。新田義貞の家臣・篠塚五郎の守り本尊だったので、篠塚地蔵と称しました。妊婦がこれに祈ると靈験新たかなりといって安産を祈る人が多いということです。




 榮壽院でも歴住の墓所を訪ねて焼香しました。本日の寺巡りはこれにて終了として、竹ノ塚駅に戻ることにしました。



 尾竹橋通りを竹ノ塚駅に向かって歩いていたら、持参の地図には載っていましたが、訪ねるべきところとして、蛍光ペンでマーキングしていなかった寺院が目に入りました。
 曹洞宗系単立寺院の東岳寺です。慶長十八年(1614年)、浅草鳥越に創建されましたが、寛永十年(1633年)、現在地に移転。




 境内に入ると、左手に「東海道五十三次」などで名高い初代・歌川広重(1797年-1858年)の墓がありました。
 東京都の指定文化財です。
 広重の本名は安藤鉄蔵。ある説によると、江戸の定火消しの安藤家に生まれて家督を継ぎ、その後に浮世絵師となりました。安藤広重と記述する文献がありますが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそのように名乗ったことはないそうです。

 言い換えてみると、立川談志こと松岡克由が決して松岡談志と名乗ったことはない、というのと同意。

 このあと、夕暮れの道を竹ノ塚駅に急ぎました。
この日の行程(天龍寺から竹ノ塚駅まで)。


伊興寺町を歩く(1)

2012年09月02日 21時52分50秒 | 寺社散策

 東京都足立区に東伊興という地域があります。東武鉄道の竹ノ塚駅から歩くと、十三~二十分ぐらいかかるところです。地図を見ると、このあたりにたくさんの「卍」印があって、寺町が形成されていることを知りました。界隈の地図を見るキッカケとなったのは、竹ノ塚駅近くにある炎天寺という寺を「真夏」に訪ねようと企てたことがあったのを、先月下旬にふと思い出したからです。
 すでに真夏は過ぎていましたが、まだまだ残暑厳しき折です。なぜ暑い盛りを選んで行こうかと思ったというと、以下のような伏線があるからでした。

 炎天寺は
小林一茶が「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という句を詠んだことで有名な寺で、いまを去ること三十年以上も前に一度訪れたことがあります。そのときは春先だったので、一度名前の由来となった真夏に訪れてみなければ、と同行者と冗談混じりに話し合ったことがあったのです。
 同行者とは故・井本農一(1913年-98年)さん。お茶の水女子大の名誉教授で、松尾芭蕉研究の権威だったお方です。
 当時、私はある雑誌社に勤めていて、何人かの俳人や芭蕉の研究者たちにリレー形式で案内役を務めてもらいながら、「おくのほそ道」を歩くという企画を担当。その日は第一回で、井本さんに深川の芭蕉庵から千住まで同行してもらったあと、おまけのような形で炎天寺に寄ったのでした。
 千住宿に着いて取材を終えたとき、井本さんから真夏に云々という話が出て、「では、なるべく早く……」と約束してお別れしたのです。しかしその機会が訪れぬまま、いつしか三十年が経ってしまったというわけです。
 

 早朝は相変わらずの好天。今日も暑くなるゾ、と思わせました。ところが、弁当を用意して、そろそろ出かけるかと思った九時過ぎからわりと厚い雲が出始めました。インターネットで天気予報を見ると、晴ときどき曇、傘を持つ必要はありません、と出ていました。空を見上げると、雲に囲まれた狭い青空の中に、高々と伸びた積乱雲が見えましたが、青空が顔を覗かせていたのは束の間でした。

 落語の三題噺のようですが、炎天寺に行こうと思い立ったとき、インターネットの地図をプリントしておこうととして、わりと近くに薬師寺というお寺があるのを知りました。
 薬師寺と名がつくからには、本尊は薬師如来なのでしょう。どんなお寺なのかわかりませんが、近くへ行くついでに一度訪ねておいて、雰囲気のよいお寺であれば、薬師詣での候補の一つにしようと目論んだのです。
 そして
薬師寺と竹ノ塚駅の位置関係を知ろうと地図を縮小してみたら、毛長川という川の近くにたくさんの卍印があるのを知ったのでした。炎天寺を訪れるという長年の宿題を果たした上、薬師詣での下見とこれまで知らなかった寺町の探索ができると小躍りしながら出かけることとなりました。



 竹ノ塚駅は東口に出ました。電車を乗り換えた北千住方向へ戻る形で線路伝いにしばらく歩くと、左手はずっと竹ノ塚第二団地がつづくようになります。




 団地を抜けると、明らかにお寺と思わせる大きな屋根が見えたので、行ってみたら、西光院(真言宗豊山派)でした。



 境内にある大仏。真言宗のお寺なので大日如来です。




 西光院からものの数分で最初の目的地・炎天寺(真言宗豊山派)に着きました。
 竹ノ塚駅からは十五分。西光院に寄らず、直接きていたら十二~十三分というところでしょうか。

 創建は平安期末の天嘉四年(1056年)。炎天つづきだったその年の旧暦六月、奥州の安倍一族の反乱を鎮定せんと従く源頼義、義家父子の率いる軍勢がこのあたりで野武士と激しく戦うこととなり、きわめて苦戦となったが、京の岩清水八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができた。
 そこで寺の隣に八幡宮を建立、地名を六月村と改め、寺を幡勝山成就院炎天寺と名づけました。幡勝山とは源氏の白旗(幡)が勝ったので、成就院とは戦勝祈願が成就したので、炎天寺とは気候が炎天つづきだったので、というわけです。
「新編武蔵風土記」によると本尊は阿弥陀如来。弘法大師の作になるという薬師如来が祀られているということです。



 電車が竹ノ塚に近づくころに雲が切れ、炎天寺が間近になったころ、青空が顔を覗かせるようになったと思ったら、あっという間に猛暑となりました。



 山門をくぐると最初に目につくのが「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という小林一茶の句碑です。



 池には大きな蛙と相撲をとる、やせ蛙のモニュメントがあります。



 あまりにも有名な「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑。




 小林一茶像。



 境内には到るところにカエルの置き物がありますが、極めつきは本堂前に鎮座するこの福蛙です。

 炎天寺までは東武線の東側を歩いてきましたが、ここからは東武線を越えて、西側を歩きます。



 東武線を越えたあと、最初に訪れたのは源正寺(真言宗豊山派)です。炎天寺から徒歩十六分。
 鎌倉時代、時宗の玄性寺として創建されましたが、天文二十年(1551年)になって、真言宗に改宗、寺名も源正寺と改められました。



 源正寺から九分で長勝寺。万治二年(1659年)の創建。日蓮宗の寺院です。



 福壽院(真言宗豊山派)。長勝寺から五分。開山開基とも資料散逸のため不詳。

 


 福壽院からすぐ。門前に一風変わった仁王様が鎮座する真言宗豊山派の實相院です。

 かつて一帯は沼地でいまでも地名を横沼というそうです。天平年間(729年-49年)、行基菩薩が諸国行脚のみぎり、此の地に錫を止めて池の中に浮かんでいた霊木を拾い上げ、みずから大悲の尊像を刻んで一寺を創立し、尊像を奉安した。

 その後、先に訪れた炎天寺と同じように、源頼義・義家父子が安倍貞任追討の朝命を奉して当地に陣し、朝敵降伏ならびに戦捷を祈願し、乱平定がなったとき、十有三町の地を寄進したということです。



 實相院本堂。



 實相院から八分ほどで薬師寺(曹洞宗)に着きました。境内には小さな林があって、なかなか佳い雰囲気です。
 肅州巌和尚が開山となり、万治二年(1659年)に創建。




 薬師寺本堂。
 これはこの日帰ってからのことです。
「新編武蔵風土記稿」には、本尊は行基菩薩が彫ったとされる薬師如来と記されているので、てっきりこの本堂に祀られているものと思って参拝しましたが、山門から本堂までの参道途中に小さな御堂があって、実際に前を通り過ぎたときはなんだろうと思いながら通ったのですが、庵に帰り着くころから、あれが薬師堂であったのではないかという疑念が湧くようになっていました。
 どのあたりであったか、帰りの電車に乗っているときに、ふと記憶にはないが、もしかしたらカメラに収めたかもしれないと思ってモニタを見返してみました。残念ながらカメラのシャッターは押していませんでした。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を訪ねて参拝しました。



 薬師寺から次の天龍寺までは六分。
 ここも曹洞宗のお寺です。天正九年(1581年)、氷見和尚という方が品川に創建しましたが、江戸城登城に不便だったので、慶長十五年(1610年)、湯島に移転、万治二年(1659年)、下谷坂本への再移転につづいて、明治以降当地へ移転。



 ここでも歴住の墓に参拝。〈つづく〉
この日の行程(竹ノ塚駅から天龍寺まで)。