先日、薬師詣でをした日は火事に遭って丸一年という、私にはある意味で感慨の深い日でもありました。
この火事とその後日談には、森田童子の詩ではありませんが、いろんなことが「ありました」であります。
火事に遭遇した直後は、自分では割合落ち著いていたと思うのですが、やはりそれなりに動転していたのか、一年経ってみて、改めて気づいたこともあるので、ブログに残しておこうと思います。
私のイメージでは、消防車のサイレンの音はしょっちゅう聞いている、という思いがありますが、松戸市消防局の「消防年報」によると、「しか」という表現を使うのが正しいのかどうか、昨年度の松戸市内の火災件数は115件「しか」ありませんでした。火災が起きたのは三日に1件の割、ということになります。この中に私が遭遇した火事が含まれていることはいうまでもありません。
年間115件という数が多いかどうか、私にはなんともいえませんが、今年になって、私の知人で警察官であった人と話をしていたとき、火事沙汰には何度か遭遇しているが、「知人」(私のことです)に火事の罹災者が出たのは初めてだ、というのを聞いて、ふむふむ、火事と喧嘩沙汰はしょっちゅうだと思っていたが、やはり稀有なことに近いのだと思い直しました。
また火事の直後、損害保険の私の担当者だった人が「三十年業務に携わってきたが、火事の書類をつくるのは初めてだ」といったのを思い出しました。
燃えたアパートを管理していた不動産会社の担当者も多分初めての経験だったのでしょう。「多分」というのは、私が訊ねてはいないから推測なのですが、なぜ初めてだろうとといえるのは、火事が出たときの手続きを知らなかったからです。
この手続きについては、私が火事で得た教訓の一つなので、あとで述べます。
多くの人と付き合いのある人たちが押し並べて「初めて」というのを聞いて、人口減少といっても、それだけ人は多いのだなと妙な感心をしたりしました。
火事当日のことです。
その九日前 ― 文化の日でした ― その日から持病が発症していて、前日の八日まで私は身体の自由が効かず、ほぼ寝たきりでしたから、病院にも行けない状態でした。
この持病は五年前から発症するようになっていて、軽い症状はしょっちゅうくるのですが、とても起きてはいられない、という重篤な状態になるのは、決まったように毎年一度。最初のころは過ぎ去ればケロッとしましたが、年を経るごとに病む日数が多くなりました。
その重篤な状態が文化の日に出て、九日後の火事当日の朝になって、ようやく起き上がれるようになったので、クリニックに行くつもりで電話を入れました。
そういう病み上がりの状態で、まだぼんやりとしていたとき、すでに火が出て、消防車による消火活動も始まっていたのです。頭がボーッとしていたので、意識に隙間がなかったとは断言できませんが、尠なくともドアをドンッ!と鳴らす音は一回きりでした。何かの配達で、こちらがすぐ応答できなくても、ノック一回きりということはないと思います。
もし私の持病の発症が一日遅かったら、火事が出たとき、私はまだ眠っていたかもしれません。一回のドンッ!では何も気づかず、先日の村田兆治さんのように、一酸化炭素中毒で死んでいたのかもしれないと思います。
あるいは、幸いにして私の耳はまだ不自由ではありませんが、火事のあったアパート八世帯のうち、住人がいたのは六世帯。その中で、若いといえるのは火元になった青年のみ。残り五世帯に棲んでいた六人は私を含めて老人ばかりでした。
中に耳の不自由な人はいませんでしたが、いても不思議ではありません。少し遅れた私を除いて、全員が火事の臭いに気づいたり、煙に気づいたりして、皆自主的に避難できましたが、臭いには気づかず、耳が不自由であったりしたら、一回のドンッ!では気づかないはずです。
そういう人はいないはずなので、一度ノックして出てこなければ留守にしているのだろう、と消防が知っていたはずはありません。先に避難していた人から、どこにどんな人が何人棲んでいて、どこは空き家であると聞いたのかどうか。
人が棲んでいるはずなのに、避難したのを確認できていない、というときは、たった一度のドンッで済まさず、ドアか窓を打ち破らなければいけないのではないか。消防というのは火を消したり、延焼を防ぐことが仕事で、人の命を救うことは目的ではないのか。
あとで私は周辺の人に、今回きた消防は素人の集団であったと嘯きましたが、実際にそういうことであったと思います。
旧居の周辺には畑がたくさんありました。いまの時期は野焼きをするところがあります。
燃えるものは違っていても、ものが燃える臭いはほぼ同じです。
最初に臭いに気づいたとき、私は野焼きの臭いだと思いました。しかし、周辺で野焼きをする畑があるといっても、すぐ隣にあるわけではありません。臭いが近過ぎることを変だと感じて、外へ出て、助かることができたのです。
野焼きをする畑があるような土地ですから、径は昔の畑の畦道を改修したような細い径ばかりです。車がすれ違うのは苦労します。まして消防車のような大型車がきたら、人や自転車でもすれ違うこともできない、といっても、決して大袈裟な表現ではありません。
そんなところへ消防車が何台もやってきても、はっきりいって、ものの役には立ちません。消防車は一台で充分、というか、一台しか入ってこられないので、あとは消防団が持っているような手押しのポンプ車でなければ、消火活動は充分にできないのではないか。手押しポンプ車は必要がなく、一台の消防車で充分だと思ったというなら、何台もくることはない。
あとでやってくる消防車はいざ知らず、まず飛んでくる一台は地元の消防署からのはずですから、土地勘はあるはずです。なければならない。
私たちのようにそこに棲んでいるのではなくとも、管轄する土地がどういうところなのか、常日頃から見ていなければならないはずだ、といえば、何台も消防車がやってきたところで、ホースの長さはそこまで届かず、非常に意地悪な言い方をすれば、まるで野次馬のように、寄ってたかって遠巻きに眺めているだけ、という事態にはならなかったのではないか、と思います。
火事に遭わなければ知り得なかったであろう教訓のもう一つは、新居を決めるのに、一週間もかかったのですが、二度候補が決まり掛けながら、二度ともトラブルがあって、時間がかかったのです。そのことは教訓となることではないので省きますが、この時間があとのことに影響を及ぼします。
火事のあと、私は知人二人に助けられながら、水に濡れずに使えそうなものを物色して新居に運びました。しかし、知人二人が持っていたのはともに乗用車です。一回に運べる量には限りがあるし、大きさにも限りがあります。冷蔵庫、洗濯機、箪笥などというデカいものはとても運べません。
そういう大物は無理としても、尠なくとも小物はダンボールに詰めておけばいいじゃないかと考えるかもしれませんが、普通の引っ越しと違って、床が濡れているし、放水の水は天井を伝って少しずつ漏れてくる。雨が降れば雨漏り自在の状態ですから、運ぶものをダンボールに詰めて、置いておくわけにはいきません。
コチョコチョと運ぶしかないのですが、引越し業者を頼む時間的余裕がなかったのは、アパートを管理している不動産会社から急かされたからでもあります。
アパートは修繕すれば再度住めるという状態ではない、ということは素人の私でもわかりました。だから、早く取り壊してしまいたい、と不動産会社が急かす気持ちもわかりました。やっつけ仕事をするような気持ちで荷物を移動させるしかありませんでした。
しかし、あとで損害保険会社から聞かされて識るのですが、残されたものを処分するのには、持ち主である私の同意がなければ、他者が勝手に処分することはできないのだそうです。もちろん、その猶予には限りがあり、いつまでも放ったらかしにしておいてもよい、というわけではない。その猶予が何日であるかは聞きませんでしたが、尠なくとも慌てて処分しなければならない、ということではない。早く処分してくれ、といってきた不動産屋の担当者はそういうことを知らなかったのです。
寝具や一部洋服など、燃えてはいないが、放水で濡れてしまっているものはあと回しにして、とりあえず必要で、使えそうなタオルとかTシャツ、靴下、食器類、洗面用具などを優先し、見繕って運びました。
中には端っこが濡れていたというものがありました。新居に運んだあと、濡れていることに気づいて手洗いし、洗濯機を購入してから、何度も洗いましたが、木酢のような臭いはとれず、雑巾にするか、棄てるしかありませんでした。
急かされて選んでいるので、下になっていて、濡れてもおらず、臭いもついていない、という衣服もあったはずです。しかし、運べずにいる間に雨が降り、濡れて、臭いも染み込んでしまいました。中には買ったとき、二十万円以上もした革のロングコートなどもありました。
不動産屋を恨むわけではありませんが ― 本心はかなり恨んでいます ― 急かされなければ、まる一日かけて、使えるものと使えないものを分別し、引っ越し屋さんに何人かの助っ人を頼んで運ぶ手段も考えられた、と思うのです。
それから一年が経ちました ― 。
脊柱管狭窄症の発症に見舞われて、痛む左脚や臀部を庇うために、眠るときの姿勢は右を下にし、身体を丸くかがめて、まるで胎児が母親のお腹の中にいるような格好でしか眠ることができません。
一つの姿勢しか許されないので、本来痛むところ以外に筋肉痛が出たり、眠っている間に、うっかり違う姿勢をとったり、脚を延ばしたりすると、強烈な痛みに襲われるので、おちおち眠っていることができません。それに加えて小用に立つ必要に迫られたりもするので、夜中に何度も目を覚まします。
痛みは随分楽になって、仰向けでも眠れるようになっても、癖がついてしまったみたいに、痛むわけでもないのに、払暁三時半とか四時には目を覚ましています。
今月五日のブログにも書きましたが、起き上がったのちしばし、五時半ごろになると、けたたましい音と啼き声が聞こえます。近くのケヤキ(欅)の並木をネグラにしている椋鳥がどこかへ向かって仕事に出かける、いわば騒音です。
間近で聞けば75~80デシベル、掃除機の音や走っている電車の音と同じ程度。掃除機や電車はやがて止まるけれども、椋鳥どもの囀りは熄むことがないのですから、これはうるさい。幸い我が庵は椋鳥どものネグラからは200メートルほど離れているので、騒音が聞こえるのは飛び立つときだけで、それもほとんど一瞬です。
その騒音が五日前の十三日、六時になっても聞きませんでした。
コーヒーを飲むために電気湯沸かし器にスイッチを入れるので、たまたまお湯が沸く音で聞こえなかったのか。そう思いましたが、翌十四日も聞かず、十五日も聞かない。
なかば留鳥と化している場合もあるようですが、基本的には渡り鳥ですから、冬がくると南へ渡って行きます。どこへ行くのかわかりませんが、飛んで行ったのでしょう。結果的に十二日を最後に聞かなくなりました。
脚の状態は徐々によくなってきていると思うと同時に、遅々として改善されぬと感じることもあります。寒くなってきたと感じる日があるように、季節が進んでいることを感じるときです。二週間、三週間と経つのに、脚の痛みは一向に改善されぬと思うと、もしかしたらこのまま……と思ってしまうこともあります。
前から服用している降圧剤のおかげて、高かった血圧が、最高血圧は高いときでも130に届かない、というようになったのに、痛みと寒くなってきたのが加わって160を平気で超すようにもなりました。
火事のせいではないのですが、郵便局と公共料金の引き落としに使っている銀行のキャッシュカードの磁気が二つとも同時期にダメになりました。郵便局は通帳があれば出し入れできますが、銀行はそうはいかないので、残高がなくなれば引き落としができず。督促状がきます。電気は年金の振込に使用している銀行口座での引き落としにしていましたから、引き落とし不能とはなりませんでしたが、ガスと水道は別だったので、引き落としの日が近づくと、いちいち入金していました。上水道、下水道は千葉県と松戸市という自治体の運営だったからか、多少遅れても構わない、という感じでしたが、ガスは民営なので、そうはいかないようです。
検針がくるはずなので、その人に集金を、と頼んでも、係が違うので、そういうことは不可能だという。私は払わないといっているのではない。払いに行けないのだ、といっても埒が明かない。ボランティアをしていた団体の職員にきてもらって、代わりにコンビニに行ってもらう、ということで凌ぎました。
火事で避難したとき、財布だけは持って出たので、キャッシュカードはありましたが、通帳は水浸しになって、ページがくっついてしまいました。届出印は水浸しになっても無事だろうと思ったけれども、崩れた天井とそれに押しつぶされた箪笥などの下敷きになっているので捜せません。身分証明書となる健康保険証なども同前です。
再度手続きを踏まなければどうしようもない。ところが、手続きを踏むために出かけることができない。
電動自転車を使えば、多少の距離なら動けるようになったし、いまのうちに、と思ってカードと通帳の再発行の手続きをしようと出かけました。
これまで、金融機関でのほとんどの用はキャッシュカードで済んでしまうので、窓口に行くようなことは滅多にありません。行っても、振替用紙を出したりするような用件ですから、短時間で済んだり、局員や行員と交わす言葉も二言三言で済んでしまいます。
ところが、その他の手続きとなると簡単ではないので、時間がかかります。
郵便局も銀行も待ち人のために背もたれのないロビーベンチや椅子が置いてあります。ロビーベンチ坐ってしまうと、立ち上がるときには「せいの、ヨッコラショ」と、そこそこ大変なのでありますが、支えもなく立ちつづけているのはもっと大変なので、使ったこともない「杖」の購入も考えました。
しかし、いずれ元の健常な身体に戻る、と思うと、無駄な買い物、と考えます。それより買ってしまったら、元に戻れないのではないか、とも考えるので、躊躇してしまって買えません。
窓口の係員(両方とも女性でした)は規則があって移動することができないのか、私が苦労するのを見ても、申し訳無さそうな顔をするだけですが、銀行では補助する形の職員が何人かいて、私と窓口の間をせっせと取り持ってくれました。
それとは別に、クリニックの診察を終えたあとに行く薬局では自動ドアを開けた途端に、薬剤師が飛ぶようにしてきてくれます。調剤が済むと、動かなくてもいいように、私が坐っているところまできてくれます。
脚を引き摺って歩くのも、あながち悪くないナ、という気もしました。
スーパーなどは店内が広く、歩き回らなければならないので行くのはまだ無理ですが、電動自転車のお陰で、コンビニや小規模な店舗なら買い物に行くことができるようになりました。ただ、自転車があれば動くのは自由自在とはいきません。
私の利き脚は左です。痛んでいるのも左です。信号が赤で自転車を停めようとするときは自然に左脚を出してしまいます。すると、ズキンッと強烈な痛みに襲われることがあるので、痛みのない右脚を出そうとしてみたのですが、慣れないのでうまくいきませんでした。
今日、十八日は観音菩薩の縁日です。そのことを思うと、何かに苛立ちを覚えていたり、ちょっとした不満や不安があったりしても、ふっと消えて行くことがあります。これは八日と十二日の薬師如来、十五日の阿弥陀如来のそれぞれ縁日の日も一緒です。何が、どうしてか……と理詰めでは考えが及ばないのですが……。
以前は観音様をお祀りしている東漸寺と慶林寺にお参りをしていました。火事に遭ってしばらくお休みしたあと、近いのは我が宗派であり、有名な黒観音をお祀りする福昌寺になったので、こちらへ行くことにしました。
しかし、脊柱管狭窄症に見舞われて、またしばしのお休み……。
多少なら歩けるようになったのと自転車を購入したので、薬師詣でも観音詣でも再開……と思いますが、福昌寺は直前に天王坂という急坂があります。電動付三段変速付とはいっても、ペダルは漕がなければならぬので、まだ難しい。
どうしようかと思っていたところ、以前よく行っていた流山の観音寺があるではないか、と気づきました。そこで、バッテリーをセットして、電源ボタンを押して、勇躍ペダルを踏みました、
どのような観音様がおわすのか、本堂は覗き見ることができませんでしたが、大香炉には十一面観世音菩薩が祀られていることが示されています。お賽銭をあげて、今日のお勤めは終了。
ツワブキ(石蕗)も咲いていました。
火事で棄ててこざるを得なかった我が旧庵のツワブキはどうななったのだろうかと思いながら、しばし眺めました。
今日十二日で火事罹災からちょうど一年となりました。
身の周りのものはほとんど失ってしまったので、少しずつ買い揃えてきましたが、すべて元どおりとはいきません。家具類とかテレビとかパソコンなどは新しくなって気持ちが良いといえばいいけれども、ひょっとしたらもう手に入らないかもしれないというものがあります。
多くは書籍類で、新品は絶版になったりしていて買えないが、ヤフーオークションなどで手に入りそうなもの、手には入るが、結構高価になってしまっているもの、いろいろ捜してみたけれど、どうやら二度と手には入りそうにはないものなどがあります。
代表的なものは澤木興道全集、現代語訳正法眼蔵、本山版正法眼蔵、中央公論社版江戸切絵図、図書分類でいうと雑の部に入るであろう、大道芸事典、俗信事典、俗語辞典などなどです。再度手に入れても、まず開くことはないだろうと思えるが、記念碑的な意味で、手に入るのなら手許に置いておきたい、全部で十二巻もありますがラルース大百科事典もあります。
一方、前はなかったけれども、新しく購入したものもあります。
その一つは電動アシスト自転車で、これは脊柱管狭窄症を患ったことと関係があります。
クリニックに通うのはいまのところ一週ごと。健常な人が歩けば二~三分という距離ですが、いまの私は10メートルぐらい歩くと脚も腰も痛くなり、息も上がってしまいます。膝に両手をついてゼーゼーハーハーしたあと、また歩こうとすれば歩けるかもしれないけれど、こんな調子では何分かかるかわからないので、タクシーを利用することになります。乗ったついでに、公共料金を払ったり、預金を下ろしたりするために、郵便局やコンビニに寄ってもらうことがありますが、歩けばすぐなのですから、料金はワンメーターかツーメーターです。しかし、我が庵の前の道路はタクシーが通るような径ではないので、電話をかけて呼ばなければならない。すなわち迎車料金というものが発生します。帰りも同じです。
ほんのすぐそこなのに、料金はいつも¥900~¥1000。往復で¥2000。毎週ですから、このまま行くと、月に¥8000か¥10000。ひと月かふた月で治る、というのなら、まあ、いいでしょう。しかし、そんな保証はどこにもありません。
そこで普通の自転車ではなく、電動付なら脚への負担も軽いので、高いけれど買おうと決めたわけです。タクシー代の二年分ぐらいの価格ですが、脊柱管狭窄症が治ったあとも使えるわけですから、比較の対象にはならない。
一昨日十日はクリニックへ行く日だったので、脊柱管狭窄症の発症以来およそ二か月ぶりに自力で外出を果たしました。クリニック通院を果たしたあと、買い物をし、予行演習のつもりで、近辺をグワングワンと自転車を走らせました。
なんの予行演習かというと、今日十二日は薬師如来の縁日です。本当は八日の縁日に自転車の配達されるのが間に合えばよかったのですが、ちょっとズレてしまいました。それでも十二日に出かけられるように間に合ってよかった。八月以来、三か月ぶりに薬師詣でをしようと決心し、足慣らしをしておこうと考えたのです。
どこへ行くかというと、馬橋にある中根寺です。ここは八年前、2014年の五月八日の縁日に参拝して以来二度目です。直近では今年の五月十五日に参拝していますが、縁日ではなかったので省きました。
かつて日参していた北小金の慶林寺へ、とも考えましたが、こちらは途中に上り坂があります。上り坂こそ電動付の実力が発揮できると思うのですが、まだ慣れてないので、途中で立ち往生でもしようものなら、百歩も歩けない我が脚では手の打ちようがなくなってしまいます。
今月はずっと平坦な道の中根寺。来月、普通に歩けるようになっていれば、どこか別に考えているところ。そうでなければ、一か月後なら上り坂を上る知恵もつけているであろうから慶林寺へ、と考えました。
ただでさえ自転車に乗るのは十二~三年ぶりくらい。電動付は初めての上、購入した自転車はハンドル部分についているのはカゴと変速機、電動とヘッドライトのスイッチだけのはずなのに、なんとなく重く、ハンドル操作がしづらい。サドルとハンドルの位置が離れ過ぎではないかという感もある。
要するに、乗るのが久しぶりなのではなく、きたときから操りにくい存在なので、車道と歩道が区別されているような道で、車の通行量が多い車道を走るのも避け、できるだけ交通量の尠ない径を選んで行くことにします。
というのも、先ごろ警視庁では自転車通行に関する取締を厳しく行なうようになりましたが、自転車に関する法令はすでに五~六年も前に改定されていたのですから、私は、遅過ぎ! なんでもっと早くやらなかったのか! 悪質な違反者には赤キップなどではなく、即座にしょっぴいてやれ! と肚を立てていたからで、そういう当人が自転車に乗ったとき、そのつもりはなくても、うっかり違反行為をしてしまったり、慣れないので、違反していると気づいても、とっさにはどうしたらいいのかわからない、ということが無きにしもあらずだから、念には念を入れて、するつもりはなかったのに違反行為をしてしまっている場合でも、誰もいないところで、目立たないように、済むように、と考えたわけです。
通りすがりの公園です。モミジバフウの落葉がまるでフカフカの絨毯のように降り積もっていたので、思わずペダルを漕ぐ脚を止めて、カメラに収めました。
出発して数分、新坂川河畔に出ました。町田橋で川を渡ります。
進んで行くのは通称桜通り。春になれば桜の花で彩られますが、いまは花は何もない状態。人通りもなかったので、特段気にすることなくスイスイと進むことができました。
馬橋駅を横目に見ながら通過して行きます。
ところが、馬橋駅を過ぎると、径は突然姿を変え、クネクネした轍だけが残る径になりました。久しぶりに自転車に乗った私は初心者のごとく、ハンドルをとられて、転びそうになります。
このままの径だとヤバいぞ、と思ったら、中根立体の前に出ました。常磐線を越える跨線橋を渡ります。ずっと平坦、と思った行程にちょっとしたアクシデントです。長い上りのスロープになっていましたが、しかし、ここで電動アシストが持てる力を発揮してくれました。
違反をすることもなく、事故を起こすこともなく、無事中根寺に到着しました。
真言宗豊山派の寺院。創建年代などは不詳ですが、当初は東照院と号して、現在とは別の場所にあったようです。寛永年間(1624年-45年)には中根寺と改称していたと伝えられています。
本尊は薬師如来像で、弘法大師が一本の木から三体つくった薬師像のうち、真ん中の部分を使ってつくられた一体とされています。したがって地名は松戸市中根、寺の名も中根寺というわけです。
無住のお寺ですが、薬師詣ででお邪魔するのは二度目です。前は八年も前の2014年五月八日でした。そのときは今日と同じように、人影はありませんでしたが、縁日であったからかどうか、門扉は開け放たれていたので、御堂の前まで行って参拝しました。
今日は八日ではなく、十二日。同じように縁日ではありますが、八日のように重んじない寺院もあるので、ここもそうなのでしょうか。門扉が閉まっていたので、遠くから拝礼するしかないかと思ったら、鍵がかかっていなかったので、境内にお邪魔することにしました。中根立体のスロープで実力を発揮してくれた愛車は門の前でしばし待機です。
いつも薬師詣でなら友人・知人が無事息災であるようお願いするのですが、今回ばかりはずっと悩まされてきた脊柱管狭窄症が治りかけてきたことへの感謝を先にしました。
覗き込んでみましたが、ガラスが反射して、肝心の薬師如来像はどこに祀られているのか、まったくわかりませんでした。
今日参拝するのはこの中根寺だけ。薬師堂に参拝したあと、さして広い境内ではないので、一巡りすることにします。
薬師堂の右前にあった祠は、右手を頬に当て、半跏で思惟のポーズをとっておられますから、如意輪観音でしょう。
薬師堂と並んである祠は大師堂。しかし、中を覗いてみると、弘法大師らしき僧の坐像はありますが、左奥に追いやられていて、中心にあるのはどうも舟形光背です。仏像はなく、光背だけでした。
台を見ると、「大師堂新設有志云々」と彫られてありますから、確かに大師堂です。
如意輪観音堂と大師堂の間にあった祠。中は暗いのでよくわかりません。
枇杷の樹に花が咲いていましたが、実は見当たらないようでした。ずっと外を出歩いていなかったので、ほかに枇杷の樹を見ていませんが、本来なら季節的にとうに実を結んでいるはずです。
これまで、クリニックの行き帰りはタクシーを利用していた、といっても、まったく歩かないというわけにはいきませんでした。
タクシーを降りるのはクリニックの前ですが、入口の自動ドアまでは百歩近くあります。入って受付まではさらに三十歩ぐらい。そこから整形外科の診察室前までまた五十歩ぐらい。診察室に入り、終わって受付で処方箋をもらい、さらに道路一本隔てて斜向かいにある薬局まで行き……私がギッコンバッタンしながら入口を入るので、薬剤師さんがサッと飛んできてくれて、処方箋とお薬手帳を渡し、薬が整うと、私が坐って待っているところまで持ってきてくれます。
処方されている薬は、三食毎食後に服用するものが四種類、朝晩が三種類、就寝前が一種類と八種類もあります。高血圧と狭心症などで通院している病院で処方されている薬が五種類もあるので、服み間違い、服み忘れがないよう、服用する時間に合わせて分けてあるのですが、なぜかクリニックや病院に行く直前になると、一錠だけ余っている薬があったりします。
薬をもらったら、タクシーを呼んで庵に帰りますが、タクシーがくるまでに三~四分、混み合っているときには六~七分待たされます。薬局前の丈の低い塀に手をついて、痛む左脚に負担がかからぬようにして立っているのですが、この数分が非常なる修行時間です
こういう診察日一日の行程で四百歩ほど歩きますが、断続的だから歩けるので、つづけて歩けるのは百歩ぐらいが限度。曲りなりにも健常であったこれまでは考えたこともありませんでしたが、たかが百歩がいかに遠く、きついものであるかを初めて知らされ、考えさせられました。
かつての住居がある地域で始めたボランティア活動は、いまのところ、お休みをもらわなければいけない状態ですが、その対象としている人々は、私が患っている疾病とは違って、多分治る見込みのない疾病を持つ当人とその家族です。当人も家族も老齢の人々が多い。そういうことに対しても、今回は深く考えさせられました。
火事のあと、近くにあった旅館で六日間過ごしました。
この火事の火元となったのは二十代後半の青年でした。私が旅館に避難した最初の三日間、頭を垂れるために毎朝私を訪ねてきました。二十代の青年、しかも私と同じアパートに棲んでいた男に金があるわけはありませんし、私自身彼に弁償してもらおうという気はありませんでした。
最初に顔を見せたとき、快く謝罪を受け入れると、これまで彼が(私から見て)気の毒な人生を送ってきたという話を語り始めました。彼に何かをしてもらおうというより、私自身は何もできないが、私が知っている組織なら何か助力ができると思ったので、そこに繋ぎをつけてやりたいと思いました。
携帯電話の番号だけ聞きました。私のスマートフォンは火事のときに水をかぶってしまいましたが、つづけて使えるようでした。しかし後日、携帯電話会社の営業マンが訪ねてきて、なんらかのことで発火したりするかもしれないから、取り替えたほうがいい、災害に遭ったのだから、無料で交換できる、というので換えてしまいました。そのとき一緒にきた技術者がデータの移行などをしてくれましたが、連絡先を移行する段になったとき、私は一瞬首を傾げたあと、青年の電話番号はいいや、と思ってしまいました。火事に遭った日から一か月近く経ったころであり、青年が私の旅館を訪ねてこなくなってからも一か月経っていました。
今日、火事に遭って一年……という思いより、青年から連絡がこなくなって一年、どうしているだろうかという感慨のほうが先に立ちました。
いまの部屋を捜してくれたのは前に棲んでいたアパートとは違う不動産屋さんです。私の新居が決まったとき、旧不動産屋からは私が落ち着ける場所を見つけて安心したという電話がきましたが、そのときに、かの青年にこのこと(私の新居が決まったこととその所番地など)を知らせていいかと訊くので、むろん結構だと返辞をしました。私が青年のことを訊ねると、新居も決まって、元気で職探しをしてしている、ただ新居をどこに決めたのかは個人情報なので教えられないという。私は悪意など懐いていないし、青年には弁償する必要はないと伝えてはいますが、被害者(私)に加害者の情報を教えないと言うのは、いわゆる個人情報守秘義務とは次元の違う問題だろうと思ったのではありますが……。
新しく整えたものの中で、洗濯機、冷蔵庫、食器棚、箪笥という大物で重いものは、若ければいざ知らず、齢を重ねてしまった私には独力で移動させることができません。私に代わって、「どんなことでも手伝います」といってくれた彼がいたら、どんなに助かるだろうと、これも思ったのではありますが……。
私の背より高い食器棚は販売店から屈強そうな若者が二人やってきて、私の希望する場所に据えつけてくれました。洗濯機は外にしか置けないことになっていたので、これも一人は屈強そうな若者とはいえない人でしたが、二人やってきて据えつけてくれました。
問題は約500リットルという、これも私の背より高い冷蔵庫です。こちらは屈強な若者が一人で運搬してきて、フローリングの台所に置いてくれましたが、冷蔵庫より先に届けてほしかったものがあって、そうなるように注文しておいたものがあったのに、手違いがあって、冷蔵庫がきたのに、まだ到着していない、ということになってしまいました。冷蔵庫を所定の場所に置いてしまうとあとが困るので、仮の場所に置いたまま帰ってもらいました。
フローリングの床を滑らせやすいように、ダンボールが敷かれていました。まだ脊柱管狭窄症が発症していなかった私でも、当初考えていた場所まで押して行くことはできましたが、ダンボールを外すことはできず、いまも敷いたままです。
今日も好天でありました。明日十三日夕方から雨になるようですが、我が地方では先月二十日から今日まで二十四日間雨が降りませんでした。にわかに見返すことはできませんが、私が「日録」と名づけている日記をつけ始めて今年が三十一年目。この間に限っては連続雨なし日の新記録になるのではないかと思います。
八日。
薬師如来の縁日がやってきましたが、脚の痛みが依然引かず、今月の薬師詣でも出かけることができません。東方(薬師如来がおわす方角です)に向かって合掌、深く頭を垂れるのみです。
脊柱菅狭窄症が発症して、昨日七日でまる二か月、ということとなりました。あっという間の二か月で、まるで夢を見ていたように、瞬く間に過ぎ去ったみたいな感じがします。まだこれからも当分の間、ただただ過ぎ去って行く日々を覚悟しなければなりませんが……。
脚の痛みはかなり恢復してきて、途中、休み休みなら、タクシーを使うことなくクリニックへ行けそうな気もしますが、いざとなると、歩いてみようという勇気が出ません。もし実行に移したら、休み休み歩く途中で、へばって、本当に休んでしまうかもしれません。
グーグルマップで計測すると、クリニックまでは180メートル。健常なときに歩けば、二分もかからぬ距離です。実際、ダイソーやサンドラッグ、コモディイイダという店々へ買い物に行っていたとき、クリニックのすぐ横を通り過ぎていましたが、まったく意識しないほどの近さです。
クリニックまで歩いて行けるかな、どうかな、と考えていると、疾病は全然違いますが、十数年前、胃潰瘍を患ったときのことを思い出してしまいます。そのときはやはり新松戸の住人でした。
それまで特段の病気を患ったことがなかったので、かかりつけの病院やクリニックはありませんでした。そんなときに突然襲ってきたのが胃潰瘍でした。自覚症状を覚えるのが遅かったので、気づいたときはかなり進行していました。
胃潰瘍は背中が痛くなる、と耳学問で知っていました。なんとなく体調がおかしいと思い始めたとき、胃がやられているように感じましたが、胃潰瘍なら背中が痛くなるはず、しかしそうではないので、なんだろう、というような体調でした。
それが一気に進行したときは、あとで考えれば、多量の下血によって血液が減少(入院したときの検査では通常の80%しかありませんでした)し、酸素の血中濃度も低下していたので、歩いてもすぐ疲れる、眠っても眠っても眠い。とにもかくにも眠くて眠くて堪らないという状況でした。いまと違って、当時は勤めに出ていたので、無理に無理を重ねていました。
これは本当にイカン、と気づいたとき、どこで受診しようかと迷いましたが、頭に浮かんだのは通勤途中にある総合病院でした。
そんな状態だったので、受診=即刻入院ということになったのですが、入院することになる前々日の夕方、その病院に電話を入れました。今日はもう診察時間を過ぎているので、明日十時にきてください、といわれました。ところが、ひたすら眠ってばかりいる毎日だったので、翌日目を覚ましたのは昼過ぎ。また電話を入れたら、診察は午後二時からなので、その時間になったらきてください、といわれました。
待っている間も眠気は襲ってきます。結局眠ってしまって、目覚めたのはまた夕方。明日になったらと思っても、朝は目覚めがきません。やっと行くことができたのは、その日の夕方。診療時間の終わる直前に滑り込みました。
ギリギリに家を出たのではありません。今度こそ行かねば、と決意して、眠い目をこすりながら家を出たのは午後の診療の受付が終わる四十分も前でした。
当時の自宅から駅までは歩いて十一分。その病院は駅から四分ぐらいのところでしたから、自宅からは七分か八分ぐらい。悠々間に合いそうでよかったと思いながら家を出ました。しかし、部屋を出てエレベーターに乗り、マンションの玄関に出たところで、早くも休憩です。その後も50~100メートル歩く都度休憩。結局、普段であれば十分程度で着く病院まで、三十分もかかりました。
すぐそこなのに、非常に遠く感じられる、と思うと、まだ幼かったころのことも思い出します。
隅田川に架かる両国橋を、両国から対岸の東日本橋まで独りで渡るのは、まるで別世界へ行くように感じられ、何歳になったら渡れるようになるだろうかと思ったものでしたが、いまはそれに近いような気持ちです。
鬼が出るか蛇が出るかという怖さではないけれども、曲げたままにしなければならない腰が昨日よりほんのちょっと伸ばせると、恢復に向かっていると嬉しくなり、昨日は伸ばせた腰が今日はまた伸ばせないと、このまま歩けなくなるのではないかと絶望の淵に突き落とされるような思いを味わったり、という日々の繰り返しです。
いずれにしても、一度は歩いてクリニックに行けたとしても、買い物だ、公共料金の支払いだと、連日のように出歩くのはとても無理で、まだ当分は引きこもりをつづけなくてはならぬようです。
十一月に入って、秋が深まってきているのはわかっていましたが、家の中から眺められるのは、雑草に埋め尽くされた我が庭と前のマンションだけ。マンションにはなんの樹だかわかりませんが、常緑樹が植えられていて、落葉樹は見当たらないので、季節を感じられるものがありません。
外を見るのはクリニックへの行き帰り、タクシーの窓からだけです。それも、健常なら二~三分で歩けるような距離ですから、タクシーなら数秒……テナわけにはさすがにいきませんが、そのタクシーの窓から見る景色はあっという間に過ぎ去ってしまいます。瞬時の間でも肌に感じられる秋らしさといえば、新松戸中央公園の樹々ぐらいなものです。
公園の中にはイチョウ(公孫樹)もありますが、道路沿いにあるのは桜の樹だけ。決してきれいな紅葉とはいえませんが、いまの私にとっては貴重な秋の色です。
クリニックから帰ったあとはこたつに坐り、いつもどおり窓の外に見えるマンションを眺めています。
これまで十一年と八か月、ほぼ毎月休まず巡ってきた薬師詣でを思い返しています。今年九か月目を迎えるはずだった直前の先々月七日に、いまの脊柱管狭窄症(当時はたんなる坐骨神経痛と思っていました)を発症して、参詣は欠礼。つづく先月十月も欠礼。
即座に数え直すことはできませんが、十一年と八か月を月に直せばちょうど百と四十か月、巡ってきたお寺や小さな堂宇は三百か所前後にも上ります。
今日は終日好天でした。夜になると皆既日食に天王星食が加わる、四百四十二年ぶり、織田信長のころ以来という天体ショーがあるというので、近場で観測できるところがあれば、望遠レンズを装着したカメラを持って出かけようか、という気になっていましたが、家の中からは前にマンションがデンと構えているので完全に無理。道路に出ても、前方にはこれまたデデンとダイエーがあるのでこれも無理。どこまで出るかと考えても、いまの私の脚では結局無理ということがわかって、早めに寝てしまうことにしました。
することがない、というか、できることがないので、日がな一日こたつに坐り、ときどき窓の外を見上げては、前にあるマンションを見ながら、朝~昼~夕~薄暮と、時の移ろいをぼんやりと眺めています。
JRの新松戸駅前から伸びるけやき通り、それと交差するゆりのき通りという、この地域のメインストリートが近いので、昼間はむろん、夜中やまだ暗い早朝に救急車が走って行くサイレンの音を聞いています。
どんな人が、どんな状態で運ばれて行くのだろうか、と思うと、ふと考えることがあります。
いまはまだ辛うじて、という状態ながら、カップラーメンのお湯を沸かすための水を汲みに立ち上がったり、日々出るごみや、ネットスーパーから送ってきて溜まって行く一方のダンボールやレジ袋を、資源回収に出したりすることができていますが、いずれそういうこともできなくなり、家の中はごみ屋敷と化して、その中に埋もれて死んで行くのか、と思ったりしました。
あるいは、室内なら結構歩けるようになった、とはいっても、痛む左脚に負担がかかるような体勢になってしまったときなどは、庇うあまり仰向けにひっくり返りそうになることがしばしばあります。
仰向けに昏倒したとき、食器棚、冷凍庫、台所シンクの角等々、私の後頭部が当たるような高さで、角張ったものはいろいろあるので、そこに頭をぶつけて絶命、ということにもなりかねない。
とんでもない! 莫妄想! と思って、にわか坐禅を試みるのですが、死んで行くのが怖いのではない、ごみに囲まれて、だらしなく死んで行くという、醜態を晒すのが云々などと、いろいろ妄想が巡りきて、てんで莫妄想には到り得ない。
正式な坐蒲(坐禅に用いる座布団です)は持っていないので、円座クッションに坐り、脚は組めないので、変形半跏趺坐の姿勢ですが、そういう半端なことだから到り得ないのか、いや、そういう形の問題ではないだろう、などと雑念も入り混じってきます。
私に坐禅の心得などもろもろのことを教えてくださった老僧が、一番大事なことは「正師」につくことだ、とおっしゃいましたが、その老僧は出会ってすぐお亡くなりになったので、私に「正師」はいないままです。
そんなことを思い返したりしているうちに、まだ若いころ、雑誌記者で警察沙汰の取材をこなしていたときのことが蘇ってきたりします。
当時はあまり目立たなかったのですが、いわゆる寝たきり独居老人にからむ事件があって、部外者であったのにもかかわらず、偶然その屍体を間近で目にしたことがあります。その屍体の右足だったか左足だったかの踵に深くえぐられた傷があるのを見た私に、そばにいた検視官が「まだ生きているときに、当人には意識がなかったのか、あっても反応できなかったのか、ネズミに齧られた跡だよ」とつぶやくのを聞いて、屍体を見たこと以上にゾッとしたことなどを思い出したりするものですから、ますます莫妄想から遠のいて行くばかりです。
朝早く、というより、まだ夜中という時刻に目覚めてしまったときは、脚の痛さを庇うために、右側を下にしなければ眠れない、というように、寝る姿勢が限られているので、腰のあたりに痛みが発生して、脚の痛さを凌ぐようなことにもなります。起きてしまったほうが楽なので、まだ眠り足りないとき以外は床を離れてしまいます。
二六時中、脚の痛みに悩まされているのに、座布団に尻を落として坐っていると、痛みなどまったく感じない。他人が見たら、あなた、どこがお悪いのですか、という感じです。立ち上がらなくても用が足せるように、インスタントコーヒーやら湯沸かしポットやら、できるだけのものを身の周りに置いているのですが、それらを手にとるため、少しでも身体をひねらねばならぬようなときは、常に「イテテッ」と叫びながら痛みと戦わなくてはなりません。
それに、睡眠不足のまま起きてしまったときは、パソコンに向かいながら、いつの間にかコックリをしていて、こたつ布団は私の涎をたっぷりと吸い込んでいます。
早起きしたときは、五時半前後に椋鳥の群れがどこかに向かって飛んで行く啼き声と羽音を、なるほどと思ったりしながら聴いています。
なるほど、というのは、十二年前には同じ新松戸に棲んでいたのですが、同じ新松戸とはいっても、場所はまったく違って、現在の庵より800メートルほど北、歩けば十分はかかるほど離れた場所でした。
そこでも椋鳥が飛んでいく様子を耳にしていたのですが、椋鳥のネグラがあるのは、いまの庵があるところとかつて棲んでいたところの中間 ― メインストリートのけやき通りにあるケヤキ(欅)の茂みの中ですから、飛んで行くときの音の聞こえ方が違います。
どこに行くのか(一説には柏の葉公園と聞いたことがあります)、椋鳥たちは北に向かって行きます。いまの庵で東を向いて坐っていることの多い私には左のほうで聞こえますが、かつての私は南から北に向かって、頭上を飛んでいく音を聞いていましたし、朝早くベランダに出て待ち構え、実際に飛んでいく壮大な群れを目にしたこともあります。
記録を残しているわけではないので断言はできませんが、当時は飛んで行く時刻が日々少しずつ遅くなって行ったという記憶があります。恐らく日の出の時刻と関係があるのだろうと考えていましたが、今度改めて気づいてみると、五時半から同五十分ごろにかけて、遅くなったり早くなったりしています。
いまの時期、私が棲んでいる地域の日の出は六時ごろです。五時半ごろでも、晴れだったら空はそろそろうす明るく、曇りだったら暗いので、そういうことかと考えたりしましたが、そういうことも関係がなさそうです。
これは今年の八月、たまたま夕暮れに買い物に出る必要があったとき、彼らのネグラとは違う場所で、騒音に近い音がするので、なんだろうと思って見に行ったら、おびただしい数の椋鳥が電線に止まっているのでした。ネグラにしているけやき通りからは120~170メートル隔たった「とうかえで通り」での出来事です。
この椋鳥たちの平均寿命はいかほどであろうか、かつて私が北に向かって飛んで行く羽音を聞いた椋鳥から数えると、何代目に当たるのであろうか。テナことを考えながら見上げていました。
寒くなってきたので、押入からガスファンヒーターを引っ張り出してきて、試運転を済ませました。独り暮らしなのに3DKと広い我が庵は昨冬初めて体験しましたが、非常に寒いのです。
昨年引っ越してきて、初めての冬を迎えたとき、台所の壁から出ているガス栓が合わず、工事が必要ということになったのですが、工事人の都合が合うのが随分先ということだったので、慌てて購入した石油ファンヒーターは一台では足りず、二台でも足りず、三台も揃えることになりました。灯油は700メートルほど離れたガススタンドへ灯油缶を載せたカートを曳いて買いに行きましたが、今年はいまのままでは歩いて買いに行くことなど絶望です。
灯油もきっと価格が高騰しているだろうし、ガス代も高い。彼奴のせいだけではないだろうが、彼奴らの中でもとりわけプーチンは許せぬ。ヒトラーなど比較にならぬほどの大悪人だと、しても詮方ない八つ当たりをしています。
同じ蜘蛛なのかどうか私にはわかりませんが、我が庵には二匹の蜘蛛が棲みついているみたいです。これは小さいほう。ノートパソコンの周辺に現われて、ときには私と相対峙して、私の様子をじっとうかがうような素振りを見せます。蟹のように触肢を動かすときは私を挑発しているのかと思ったりします。
「夜蜘蛛は殺すな」といったか、いや「殺せ」といったか。古くから言い伝えがあることは知っていますが、インターネットで調べてみると、土地土地で両方あるようです。結論としてはどちらをとるべきなのかはわかりません。
「殺せ」というのが正しいのだとしても、枚挙に暇がないほど出てくるチャバネゴキブリとは違って、なぜか叩き殺すのは躊躇します。小さくて軽いので、フーッと息を吹きかけて追い払ってやることにしています。フーッとやると、どこかへ飛んで行きますが、何分かすると、戻ってきて、またパソコンの上やテーブルの上を歩いています。「おのれ、そのほう……」と私が刀に手をかけるような素振りをすると、わかったかのように姿を消し、随分経ってから、私の息はもちろん、手も届かぬ襖を上っていたりします。
どこかに巣をつくっているはずですが、見たことはありません。まず動かすことのない箪笥やテレビ台の後ろにつくっているのかもしれません。
この蜘蛛の画像はノートパソコンの上に現われた瞬間に写したものです。このあと、例によって息を吹きかけて飛ばしてやりました。
画面に「森田童子」とあるのは、どんな曲だったか憶えていませんが、ちょうどユーチューブで彼女の歌を聴いていたときでした。つい最近、なにかの拍子に思い出し、ユーチューブに多くの歌があるのを知って、コレクションをこしらえ、ときどき耳を傾けるようになりました。同時に、すでに四年前に他界していることも知り、著名な作詞家であり、直木賞作家でもある、なかにし礼さんの姪っ子であったことも知りました。
森田童子には四十年以上も前に一度会った、正しくは見たことがあります。
それは私が某雑誌の編集責任者になる前、前任者に誘われて、小さなライブハウスのようなところへ行ったときでした。そこで彼女のミニコンサートがあったのです。何曲か歌を聴き、聴き終わったあと、前任者が彼女と話しているのを見ただけで、私は挨拶もせず、名刺も出さず、もちろん言葉も交わしませんでした。政治家でもあるまいに、人と見れば名刺交換をしたがる同僚もいましたが、私は正反対の人でした。
いまでこそ「彼女」と書きますが、当時は男性なのか女性なのかわかりませんでした。歌声は女性といえば女性、しかし声変わりする前の男の子といわれれば、不思議ではない。髪の伸ばし方、帽子、黒いサングラスと、見た目は松田優作を細身にしたような感じでしたから、華奢な男の子といわれれば、これもまた不思議ではない。歌う歌の多くに「僕は」「僕が」と出てくるので、よくわからない。「ふ~ん」と思いながら、歌を聴いていましたが、悪い印象はまったくなかった代わり、特別強い印象も受けなかったように思います。
その日からずっとあと、彼女は確かに女性であり、サングラスをはずせば、梶芽衣子に似た美人だったと知りました。
すでにあの世に行ってしまったと知ると、ほとんど接点がなかったのにもかかわらず、ずっとそばにいてくれた人がいなくなったように、妙に懐かしい気持ちになります。
もう一人懐かしい思いに駆られるのはイギリスのギタリスト・アルヴィン・リー。私が二十代のころ、夢中になって聴いていましたが、彼の活動が間遠になるのに連れてあまり聴かないようになり、歳を重ねるのに連れてさらに聴かないようになり、ごくごくたまにCDを引っ張り出してきたときに、そういえばどうしているだろうと気がついてみたら、九年も前にスペインで客死をしておりました。享年六十八歳。
Alvin Lee & Ten Years After - Lost In Love - YouTube
薬の効果が出てきたのか、足の運びはかなりよくなってきました。
昨日四日は好天で暖かかったこともあり、久しぶりに窓を開けて庭を眺めると、雑草がすごい状態になっていました。ちっとばかり仕事をしてみるか、と思い立ち、置いてある長靴を履いて庭に降り立って、枝切り鋏を手に草刈りに挑んでみました。脚の痛みを庇うため、腰を曲げたままなので、すぐ疲れてしまいます。仕事をするか、と意気込んでみても、できるのは窓の近場だけ、それも短時間だけです。
庭に降りてみると、窓際に立つだけでは死角になる場所に置いてあるプランターの一つに、一本だけスクっと立って、小さな花を咲かせている草があるのに気づきました。スマートフォンのカメラに収め、グーグルレンズで検索してみましたが、なぜか説明は横文字ばかり。よく見ると、フランス語でGlaines de Morelle noireとありました。Glainesは私が持っている小さな佛和辞典には載っていなかったので、別の方法で調べてみると、古フランス語で「鶏」を意味するらしい。Morelleは「いぬほおずき」とありましたが、これも別の方法で調べると、ナイトシェードのことらしい。ナイトシェードとはナス科の植物の総称ですが、悪魔が愛した花という意味があり、悪茄子(ワルナスビ)とか犬酸漿(イヌホオズキ)とか、毒を持った花を意味するので、悪魔という語が使われているらしい。
「鶏」という意味の語を冠しているので、「いぬほおずき」そのものではなく、仲間なのだとしても、ちょっと違うところがあります。私はワルナスビもイヌホオズキも、実物をじっくりと観察したことがあるのですが、花の様子、茎の様子がどうもしっくりととこないのです。ことに二つの花の間に写っている緑色の実がイヌホオズキにしては大き過ぎます。
しかし、仲間なのだから、中には大きなものもあるのサ、といわれてしまえば、元も子もないのですが……。
イヌホオズキは手許に置きたいものだと思っているので、種をもらってきましたが、間に火事による引っ越しが挟まっているので、どこに置いてしまったか未確認です。持ってきたつもりでいるが、実際は忘れてきたのかもしれない。持ってきたが、引っ越しのドサクサに紛れて、何かの下敷きになってしまっているのかもしれない。いえることは、尠なくとも播いてはいないということです。
蛇足ながら、種はもらってきたというより、盗ってきたというのが正しいのですが、ある県道の傍らに咲いていた草、いわゆる雑草です。それでも県道にあったのだから、所有者は千葉県ということになるのでしょうか。
このプランターは今年か来春、白桔梗の種を播くつもりでいたので、いずれ種子を購入と考えていたので、土を盛るのも途中でしたから、仮に私がイヌホオズキの種をどこかに播いてしまっていたことを忘れているのだとしても、間違ってもここに播くはずはないのです。
風で飛んでくるとは考えにくいので、恐らく鳥の糞に入っていたと考えるしかないが、鳥にとっては毒ではないのだろうか。人間なら感電してしまう電線を、人間に近い猿だとやすやすつかむことができる、ということもあるのだから、鳥にとってはなんでもないのかもしれない。
いずれにしても私の手許には花図鑑しかなく、インターネットでもわからないとなると、図書館へ行きたいが、家の中ですら苦労して歩いている私には当分無理なことです。
酔芙蓉(スイフヨウ)のほうは、いっぱいあった蕾を目にすれば、いずれ百花繚乱! となると思ったのにそうはならず、一輪咲き、二輪咲き、という状態の繰り返しの上、いつの間にか花はもちろん蕾も姿を消して、残されたのは多数の茎だけです。
芙蓉の仲間なので、椿と同じように散るときは花ごとドサッと落ちて終わります。桜みたいに花弁が一枚ずつ落ちるのとは違うので、昔は打ち首になった武者や罪人の首が落ちるようだと忌み嫌う人もあったそうです。
薬師如来の縁日である八日が徐々に近づいてきていますが、この調子ではまた欠礼ということになるのでしょう。九月、十月、十一月と三か月もつづけて欠礼することになります。
来月十二月がくると、終い薬師です。そのころにはなんとかなっていて欲しい。遠出などてんから望まず、かつての地元、慶林寺でもいいから参拝に行きたいもの……と思っているのですが、どうなることでしょう。