桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

坂川放水路を歩く

2022年05月02日 22時32分06秒 | のんびり散策

 坂川は流山市から市川市まで16キロ。昔は逆川といって、文字どおり逆流することがあったので、その名がつけられたそうです。
 北小金に棲んでいたときに比べて、散歩に出ることが尠なくなりました。新しく引っ越した新松戸の街は、田畑や野原の多かった北小金とは違い、マンションばかりで、歩いていても味気ないからです。自然に触れようとすると、坂川まで行かなくてはなりません。
 我が庵から一番近い坂川河畔は関の橋という橋が架かっているあたりです。我が庵からは800メートルほど、歩いて八分で着きますが、その間は住宅街なので、刺激が乏しい。
 坂川周辺を中心に歩いていたら、これまで特段気にしなかったことが気になるようになりました。それは橋名板=橋の名や渡る川や鉄道などに一定の決まりがあるということでした。そこで関の橋を渡って河口まで橋名板をチェックしながら、坂川放水路の右岸を歩いてみることにしました。

 

 スタート地点・橋を渡る前の関の橋の橋名板=上流側(画像上)と下流側です。

 

 橋を渡ると、下流側に橋の名(漢字表記)と橋が架けられた年月(上流側)。

 必ずしも決まりはないようですが、その道路の起点に当たる側の左に橋名(漢字表記)、右に交差する河川や鉄道、道路など。橋を渡ると(道路の終点側から見ることになります)、左に
竣工年月、右にひらがな表記の橋名、というのが多いようです。
 関の橋の場合は、漢字表記とひらがな表記の橋名が逆でした。



 中央に見えるのは排水機場。川の流れは変わりませんが、坂川本流はこの排水機場で左手に曲がり、川自体はゆるくカーヴを描くだけで、何一つ変わりはないのに、坂川放水路と名を変えます。



 正面から眺めた排水機場です。

 

 排水機場を過ぎると、かねぎりばし(金切橋)。

 

 なかみちばし(仲道橋)。

 

 いなりおおはし(稲荷大橋)。



 十六日前に訪れた金蔵院を再訪。今日は境内にはお邪魔せず、山門前で拝礼するだけで通り過ぎます。

 

 金蔵院の西側を流れ、坂川放水路に注ぐ神明堀の水門としんめいおおはし(神明大橋)の橋名板。金切橋から十分。



 雨の降る心配はなさそうなものの、青空が顔を覗かせているのは一か所だけで、あとは分厚い雲に覆われていました。



 神明大橋から二分。流山街道を横切ります。橋はもんとおおはし(主水大橋)。
 流山街道はこの地域一番の主要道路なので、交通量が多い。にもかかわらず信号がないので、渡るチャンスはなかなかやってきません。



 流山街道を渡り終えると二分。もんとなかはし(主水中橋)です。



 河口が近づいてきて、松戸排水機場も大きく見えるようになってきました。
 坂川と坂川放水路の水を江戸川に排水する施設です。最大排水量は毎秒100立方メートル。平均的な25メートルプール(600立方メートル換算)を六秒で満たしてしまう計算になりますが、この計算でいいのでしょうか。



 水門です。



 主水中橋から二分。もんとはし(主水橋)。この橋までくると、川沿いの径は突き当りになってなくなります。



 ほとんど人も通らないようなところに自販機がありました。素人目には売れそうもないと思えますが、撤去されないところをみれば、それなりに売れるのでしょう。



 江戸川堤防に上がることのできる道がありました。

 

 堤防を上り切ったところに河畔へと下る径がありました。その先に先ほどは後ろから見た水門。



 画像の右手から左手に流れ下って行く江戸川と坂川放水路が合流するところです。坂川放水路はここでおしまい。



 こういう標識があるのに、バイクを走らせるスットコドッコイがいました。



 東京湾の江戸川河口から25キロ地点。遠望できる鉄橋はつくばエクスプレスです。

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金蔵院へ行く

2022年04月16日 22時03分55秒 | のんびり散策

 新居に移って五か月が経過しました。
 旧庵にいたころとは環境が一変してしまったせいか、身体が衰えてきたせいか、散歩に出る、ということが尠なくなりました。
 前は最低十分は歩かないと日々の買い物ができませんでした。公共料金を払いに行ったりするコンビニもやはり十分は歩かないと店がありませんでした。毎朝参拝を欠かさなかった慶林寺は十五分ほどのところでした。必然的に最低でも一日三十分以上は歩くことになっていました。
 しかし、新居に移ってみると、日々の買い物をする旧ダイエーやコープが歩いて四分もかからないようなところにあります。コンビニは一番近いセブンイレブンだと三分ほどです。四~五分ほどのところには業務スーパーがあり、食品なども売っている薬局があります。慶林寺へ行くためには一駅だけですが電車に乗るか、歩けば三十分近くかかるので、毎日参拝に行けるお寺はなくなりました。

 ふと金蔵院というお寺のことを思い出しました。一度行ったきりですが、私にはちょっぴり甘酸っぱいような想い出のあるお寺です。そのことはブログに書いていますが、調べてみたら十二年も前のことでした。
 きっかけは忘れてしまいましたが、松戸七福神めぐりをしようと思い立って、その七福神めぐりをしようとすると、一番遠いのが金蔵院でした。遠い上に交通の便もよくないので、結果的に一番あとまわしになりました。
 居を新松戸に移したのだから、かなり近くなったのではないかと思って地図を広げて距離を測ってみると、歩けば二十分ほど。散歩がてら歩いて行ってみようと考えたわけです。



 我が庵から一番近い坂川の橋・関の橋までは十分ほど。橋を渡って右岸を歩きます。



 坂川分派水門。川から農業用水でも引くような水門ですが、画像を左右(左が上流)に流れているのは一本の川と見えますが、行政上は水門を境に左は坂川で、右は坂川放水路なのです。坂川本流は水門の向こうに流れて行きます。



 関の橋の一つ下流は金切橋。



 土手には到るところにヨモギ(蓬)がありました。



 二つ目は中道橋。



 三つ目稲荷大橋。「大橋」と名がついていますが、前の二橋と較べて、特別広かったり長いわけではありません。
 このあたりに立って注意深く眺めると、金蔵院の伽藍を見ることができるのですが、まだ位置関係を把握していなかったので、気づきませんでした。



 稲荷大橋のたもとで坂川放水路を離れます。
 旧庵近くには野菜の無人販売所がたくさんありましたが、お米を売っているところはほとんどありませんでした。幟の下に置かれた看板には、コシヒカリ5キロ1800円(? 日焼けして読み辛い)とあって、一つ100円が相場であった野菜類と較べれば高価なせいか、さすがに無人販売はしていないようで、買い求めるには奥に見える家を訪ねなければならないようです。



 周囲をキョロキョロ見回しながら歩いていると、金蔵院の案内板がありました。金蔵院はここから700~800メートル。十二年前はどのあたりを歩いて金蔵院へ行ったのか、風景の記憶はまったくありません。



 まさか明智光秀公ゆかりの会社でもあるまいが、「みつひでけんせつ」と読むのでしょうか。この看板はハッキリと憶えています。



 参道の六地蔵。

 

 そういえばボタン(牡丹)の季節です。金蔵院は真言宗豊山派の寺院です。総本山・長谷寺はボタンのお寺として著名です。

 

 飯綱不動尊を本尊として祀るとは珍しい。



 折から西日を浴びて、イチョウの樹が光り輝いているように見えました。先端は伐採されてしまっていますが、幹の太さを見れば、かなりの高木であったと思われます。



 くるときはずっと坂川放水路の右岸を歩いてきましたが、帰りは稲荷大橋を渡って左岸を歩きます。



 橋から見えた杜が神社でもありそうな雰囲気に感じられたので、背後から前に回ってみると、九郎右衛門新田稲荷神社でした。

 

 神社の野良猫殿。カメラに収められませんでしたが、もう一匹茶色っぽいのがいました。
 旧庵にいたころには野良猫殿の棲息地まで数分で行くことができましたが、この稲荷神社までくるとなると、二十分近くもかかるので、おいそれとくることはできません。脚の衰えも如実になっています。



 行きに眺めた水門から坂川本流は狭い流れに変わっています。しかし、本流だという矜持を示すためかどうか、橋の名は坂川橋。



 近くの公園まで戻ってくると、こんなのがあったので、エッチラオッチラと数度上り下りを繰り返してみました。



 隣にはこんなのもありましたが、エッチラオッチラのほうは見ただけでなんであるのかわかるのに、こちらはなにをするためのものかわかりません。懸垂をするための器具にしては低過ぎます。

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慶林寺のオタフクアジサイ

2021年06月03日 20時47分10秒 | のんびり散策



 日課の慶林寺参拝です。

 

 参道入口のオタフクアジサイが咲き始めました。



 毎年私が注目するのはこっちかな? 河津桜の木陰で花開く萼紫陽花です。いつまで経っても丈は数十センチと低いままなので、まったく目立ちません。

 

 参道に何株かあるクサギ(臭木)。ちっちゃな蕾をつけています。例年なら開花はあと一か月先。しかし桜もアジサイも早い今年はクサギの開花も早いかも。



 枇杷も色づきました。


 田んぼでは稲の苗が青々と育って、水面が見えないようになってきています。

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桜吹雪

2021年04月02日 21時57分01秒 | のんびり散策



 強い風に煽られて散る桜が舞っています。桜吹雪に見惚れながらカメラを構え、シャッターを切りましたが、コンパクトデジカメでは宙を舞う桜の花びらをとらえることはできませんでした。



 慶林寺の参道ではハナミズキ(花水木)の花が開きました。実際は白い花のように見えるのはホウ(クサカンムリに包)。葉っぱが変形したもので、花は中心の緑色をしたツブツブです。



 寶蔵院の墓地です。

 

 ミズキ(水木)は花が終わり、実を結び始めていました。



 寶蔵院に向かう高台の径から見下ろした風景。



 寶蔵院。無住ですが、真言宗豊山派の寺院。



 ママと呼ばれている我が友。どこを住処にしているのかわかりませんが、日中はずっと寶蔵院の境内にいて、私の姿を見つけると必ずトコトコと歩いてきて、挨拶をしてくれます。



 寶蔵院駐車場の桜。高台にある(といっても、比高は20メートル)ので、わずかながらも気温が低いのか、まだ桜吹雪は舞っていませんでした。

 


 キウイ畑。やっと葉が芽吹き始めたばかりです。



 先月二十八日の無患子(ムクロジ)記念日から五日遅れで、近くにあるムクロジの樹を見に行きました。真下に行って見上げると、のけぞるような高さです。



 我が庭のムクロジはすでに若葉を出しているのに、このムクロジには去年の実がついたままで、まだ葉は出ていません。

 

 田水が引かれるのはもう少しあとのようです。



 春の富士川です。ひねもすのたりのたりかな。

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十一年目の無患子(ムクロジ)記念日

2021年03月28日 20時52分44秒 | のんびり散策

 十一年前の今日三月二十八日は埼玉県上尾市にある龍山院というお寺で、初めて無患子(ムクロジ)の樹を目にした日です。
 目にしただけでなく、たまたま根元に落っこちていた実を二つ拾い、我が家に持って帰りました。当時はマンション住まいだったので、持って帰った実をプランターに埋めました。

 実を埋めたことなどすっかり忘れていましたが、三か月ほど経ったころ、プランターの土が盛り上がり、小さな芽が出ました。龍山院のムクロジは樹齢三百五十年と伝えられていました。その子が私の手許で芽吹くとは……私にはかけがえのないものに思われました。以来、三月二十八日を無患子記念日とすることとしたのです。

 記念日よりちょっと早く、五日前の今月二十三日、我がムクロジには新しい葉が芽吹いていました。ムクロジは数ある樹木の中でも最も春の芽吹きの遅い樹です。例年であれば、三月中に芽吹くことはないので、記念日に若い葉を見るのは初めてです。
 今年は桜の開花も早かったので、ムクロジも遅れをとってはならぬとばかり芽吹いたのでしょうか。

 我が庵から歩いて十数分のところ、離れ離れですが四本のムクロジがあります。樹木図鑑によると、東日本では自生しない樹ということらしいので、誰かが植えたのでしょうが、由来がわかっているのは一本だけで、あとはどのようにして生えたのか不明です。

 雨は夜になってから、といっていた天気予報がまたハズレて、午前中から雨になりました。二時間ほどで熄んだ隙を突いて日課の慶林寺参拝に出ました。

 

 慶林寺参道でも新しい芽吹きが見られました。ハナミズキ(花水木)です。

 

 お勤め(慶林寺参拝)から帰ってきて、部屋に入る前に庭のムクロジの撮影に及びました。
 去年、葉が落ちてから今年にかけて、枝を払わなかったので、枝が何本も出たままです。このまま伸びてしまうと、二階の住人から苦情が出るのは必至なので、一本だけ残して、いずれ枝払いをしなければなりません。育てば高さ20メートルにはなろうという樹木です。その一本もいつか伐らなければなりません。

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北の空

2020年08月17日 22時49分02秒 | のんびり散策

 猛暑つづきです。暑さに間断がないので、ちょっと涼しい(と感じられる)風が、そよ、とでも部屋の中に入ってくると、やっと涼しくなったかと騙されます。
 時刻もそろそろ六時になろうかというときだったので、このところ慶林寺と東漸寺への参拝と買い物以外の散歩は手控えていたのですが、外に出ました。
 風があります。



 富士川べりの田んぼでは水もすっかりなくなって、稲穂がこうべを垂れ始めていました。



 北の方角を眺めると、こんな雲が見えました。左は切れ込んだところが何かの動物の口のように見えます。
 歩きながらときおり見上げると、ちょっと前まで切れ込んで口のように見えたところは閉ざされ、真ん中あたりからアルファベットの「U」の字を、右に90度倒した形「⊂」型に空が覗く形になって、まるでクロワッサンが空に浮いているようになりました。

 食パンは結構頻繁に食べるけれど、そういえばクロワッサンやバケットは何年口にしていないのだろうと思いながら、カメラに収められるアングルを捜しました。クロワッサンが現われたとき、私が歩いていたのは、電柱がニョキニョキと建ち並び、幹線に近いぶっとい電線が垂れ下がって、カメラに収めるのには邪魔になるような場所であったのです。
 毎日のように歩く散歩径です。次の角を曲がれば、いまはオクラを植えている畑があり、さらに進むと二棟並んだビニールハウスがある……と、目に入ってくる景色は空で憶えていても、その径の電線の配置はどうであったか、などということは記憶していません。少し遠くを眺め透かしたり、右を見たり左を見たりしているうちに、クロワッサンは姿を消してしまいました。

 先考の祥月命日(十九日)が近くなったので、先考が好きだった芙蓉(フヨウ)の花を捜して歩きました。
 いつごろまでであったか、私には芙蓉と木槿(ムクゲ)の見分けがつきませんでした。ともにいまの季節に咲き、花もよく似ています。それも道理で、両方ともアオイ科フヨウ属という、親戚同士なのです。

 あるとき、区別の仕方を憶えました。なるほど、と思いながら、散歩径でどちらかが咲いているのを見つけると、クイズの答え合わせをするように悦に入っていましたが、ひと夏が過ぎ、次の夏がくるころには、サテ、どうやって見分けるんだったっけ? という始末です。



 今年は花を見るのではなく葉っぱ、それと茎の立ち姿で見分ける、という方法を憶えました。
 じつは何年か前に同じ方法を憶えていたのに、すっかり忘れてしまっていた、という気もしないのではないのですが……。
 それはともかく、右のこんもりとした感じが芙蓉。左のスックとした感じが木槿。
 見分けながら歩いていると、木槿は結構見かけますが、意外と芙蓉は尠ない。



 これは木槿。

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梨の花を見に行く

2020年04月06日 23時06分17秒 | のんびり散策

 昨夜、眠りに就く直前だったと思いますが、そういえばそろそろ……と思ったことがありました。桜も散り始めたので、梨の花が咲いているだろうと思ったのです。
 一夜明けて、七時半過ぎという早い時間でした。最近は朝早く散歩に出るということは尠なくなっていたのですが、なぜか今朝はソワソワしていて、梨の花を観に行きました。



 富士川を渡ると流山市です。川に沿って田んぼがつづいていますが、田起こしが済んだばかり。



 川面も静かです。



 ムクロジ(無患子)です。紫陽花などはすでに新しい葉を出しています。高木なので近寄って確かめてみることはできませんが、まだ葉は出ていないようです。

 

 最初に出会った梨畑。花期は終わり始めていて、花萼が散乱していました。



 二つ目の梨畑。こちらは早くもネットで覆われていました。



 歩いてきた道が常磐線の線路に突き当たるところに香取神社があります。



 桜の花も散り始め。



 境内に一本あるだけのソメイヨシノ。広く枝を張っているので、満開のときは見ごたえがあります。

 


 かつて付近にいた茶虎猫の小春におやつを置いた拝殿横です。
 小春に出会ったのは十年前です。当時、小春が何歳であったかわかりませんが、仔猫ではなかったので、十年経てば天国に招かれたのかもしれません。



 香取神社前にある梨畑。真冬の数日、梨畑の遥か彼方に富士山を望めることがあります。



 子どもの日まではまだ一か月もありますが、もう鯉のぼりを立てている家がありました。

 北小金駅前へ足を延ばして、食料品などの買い物を済ませました。
 外出を面倒臭がっていると、知らず識らずのうちに引きこもりになる可能性がある、と考えているので、できるだけ買い置きはしないように心がけてきました。出かけるのはかったるいと思っても、食料の買い置きがなければ、買い物に出なければならないので、引きこもり予防になると考えているからです。



 白い花の枝垂れ桜がありました。
 いまの住居に転居して十年。九回目の春です。日課にしている慶林寺参拝や買い物ですぐ近くを通っているのですが、いまの季節にこの桜の前を通ったのは初めてです。

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慶林寺の御衣黄桜

2019年04月19日 21時33分42秒 | のんびり散策

 夏のように ― とまでいうのはいささかオーバーですが ― 暑い一日になりました。外を歩いていて汗を浮かべたのは今年になって初めてではないか、と思います。

 日課の慶林寺参拝に出かけると、去年までなら、いまごろは……。

 

 満開期の御衣黄桜(ギョイコウザクラ)があったのですが、害虫禍に遭ったとかで、去年のうちに伐採されてしまいました。



 代わりにこんな若樹が植えられました。若葉が萌え出ています。
 新しく植えられた桜は三~五年待てば花を咲かせる、と聞いたことがあります。それぐらいの時間なら、私でも新しい花を見ることができるかもしれません。



 害虫に侵されて伐られた御衣黄桜です。



 裏側に廻ってみると……新しい若葉が芽吹いていました。



 参道では、藤の花と……。



 花水木(ハナミズキ)が咲き出し……。



 紅花常磐万作(ベニバナトキワマンサク)も紅が濃くなってきていました。



 去年夏、雨の尠ない時期があって、散歩途上にある臭木(クサギ)はすっかり葉を落としてしまいました。もしかすると……と危惧していましたが、しばらく通らなかったその散歩径を久しぶりに通ってみると、若葉を芽吹いていました。
 持ち主がだれかもしらず、いつ植えられたか、あるいは自然に芽吹いたとしても、いつごろ芽吹いたかも知りませんが。



 昨日今日と暖かい陽気に誘われて、我が庵ではコリアンダーの花が咲き始めました。

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長禅寺三世堂御開帳と取手宿本陣

2019年04月18日 20時51分50秒 | のんびり散策

 今日十八日は観音菩薩の縁日です。そして年に一度の取手・長禅寺三世堂の百観音御開帳の日です。東漸寺と慶林寺の観音様に参拝したあと、長禅寺に行ってみようかという気が起きました。八年ぶりです。
 幸い好天でもあります。春はいつものことですが、風がなければ曇か雨で、晴れたと思えば糞っ風が吹き荒れる、というのが常道。今日は好天にもかかわらず、風がない。



 東漸寺観音堂。本堂に参拝してお賽銭をあげたあと、この観音堂に参拝します。



 いつもは東漸寺にお参りしたあと、一度庵に帰って出直すのですが、今日は取手へ行くことにしたので、急がなければなりません。



 本堂に参拝したあと、この観音像にお賽銭をあげ、足早に庵に戻ります。



 長禅寺に参拝するのは確か七回目になるので、取手駅からなら目をつむってでも行ける……なぁ~んていうのはいささかオーバーでありますが、勝手知ったる他人の家、という感じです。



 ところが……目をつむっても行ける、と思っていたはずが、上がるべき石段をスルーしてしまいました。前にきたのは何年前か、にわかに思い出すことはできませんが、この通路が石段ではなく、土の坂道だと思いこんでいたのです。



 ともかく境内にお邪魔して、まず本堂にお参り。



 三世堂です。五色の幔幕が張り巡らされ、人がたくさんいます。



 靴を脱いで堂内に。最初にお目にかかるのは十一面観音です。



 外から見ると二階建てに見えますが、内部は三層のさざえ堂形式になっています。上りの通路と下りの通路が別々につくられているので、下る人と行き合うことはありません。
 一層には坂東三十三か所観音札所、二層には秩父三十四か所観音札所、三層には西国三十三か所の各本尊の写しが安置されており、合計百体の観音像があることから、百観音堂とも呼ばれています。



 この階段のこともすっかり忘れていました。
 ほとんど垂直。角度は75度か80度はあります。七年前も難儀をした憶えはありますが、それは階段があまりにも急だから。今回は急というほかに、私には高さの難儀が加わっています。七年前に較べれば、高所恐怖症も進行しているようです。




 最上層からの眺め。右に見えるの屋根が本堂です。
 三世堂については取手市埋蔵文化財センターの解説パンフレットがあります。



 観音巡りを終えたあとは境内を一巡り。大師堂です。



 先ほど上った石段を下って道路に降り、お寺の正面に行ってみました。こんなに急で、長い石段があります。
 古いメモ帳を繰ってみると、初めて長禅寺を訪れたのは十年前でした。すなわち私が十歳若かったときです。先ほど上り下りした石段があるとは知らなかったので、この長い石段を上りました。すでに高所恐怖症は始まっていましたが、まだ軽かったのでしょう。恐る恐るながら、中央にある手すりに頼れば、上ることができたのでした。裏手には傾斜が緩い代わり長いスロープの坂道があるのですが、その存在も知りませんでした。



 八年前の二月、雛飾りを見に入らせてもらった奈良漬け・新六の蔵。



 旧水戸街道です。画像の右手・400メートルほど離れたところを利根川が流れ、ちょうど真横へ行ったあたりに、我孫子と取手を結ぶ青山の渡しがありました。いまは利根川の改修で地つづきではなくなってしまった小堀(おおほり)地区と取手を結ぶ渡船の乗り場があります。



 取手宿本陣・染野家です。
 普段は金・土・日の週三日しか公開されません。今日は木曜日だったのですが、三世堂の御開帳に合わせて公開してくれたようです。



 チェーンが張られて通せんぼになっているのが玄関。



 公開日であっても、ここからは入れないようです。



 本陣で暮らす人たちは玄関からは出入りせず、玄関右手にあるこの通用口を使ったそうです。私たち見学者も、入るのはここから。




 台所の天井。柱は煤で黒ずんでいました。



 本陣の内部です。

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鹿鳴草(ロクメイソウ)

2017年09月29日 21時23分15秒 | のんびり散策

 ひょんなことから萩の別名が鹿鳴草(ロクメイソウ)だと知って、ちょうど季節でもあり、紅葉狩りならぬ萩狩りをしてみむと、散策に出ました。
 とちのき通りにも久しく足を向けていなかったので、ついでに栃の木の様子も見てみようと思いました


 日中は汗をかくほど気温が上がりましたが、朝はかなり冷え込みました。夏がきてからずっと開けっ放しだった窓を、昨日の夜は初めて閉めました。




 とちのき通りの栃の並木です。紅葉の季節にはいささか早いと思われるのに、葉はすっかり茶変しています。

 


 近づいてみると、秋、というより、自動車の排気ガスのせいなんじゃないの、と思わせるような色の変わり方です。




 コキアも色づきが始まっています。



 こちらはもう少し。



 先のコキアは別々の畑にあるものですが、明らかに人の手によって植えられたものです。近くには道路のアスファルト舗装の割れ目から芽を出したものが幾株かありました。
 近くに寄ってみると、花なのか種なのか、紅い粒々があるのがわかります。これが風に飛ばされるなどして芽吹くのでしょうか。




 完璧な秋晴れでした。



 そこかしこで赤とんぼが羽を休めていました。


 
 

 本土寺裏では例年どおりシュウカイドウ(秋海棠)の花が満開です。

 鹿鳴草という字面を目にして、つい鹿鳴館を思い出したので、私は「ロクメイソウ」と読みましたが、「シカナグサ」、あるいは「シカナクグサ」と読むのが一般的なようです。
 ちょうどこの花が咲くころ、鹿の発情が始まり、♂が♀を求めて鳴くことからこの名がつけられたのだそうです。

 ところで、散策に出たものの、肝心の萩にはついぞお目にかかれず、帰ろうかと思って、引き返したところで見ることができました。



 見つけづらかったので、季節的に早いのかと思いましたが、庵に帰ったあと、手持ちの植物図鑑をひもといてみると、初夏から咲いている、とありました。すでに花の季節は終わりに近づいていたのです。

 鹿鳴草といい、秋の七草の一つといいますが、萩は草ではなく、れっきとした樹木です。とはいえ、見るからに弱々しい枝はすぐ折れそうで、草のようではありますが。




 今年から我が庭に加わったコキアです。

 先週はじめの台風18号でなぎ倒されたあと、いまのところは自力では立ち上がれず、横になったまま、少しずつ色づき始めています。

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木下を歩く

2016年12月26日 22時48分11秒 | のんびり散策

 年の瀬だからといって、独り身の私にはどうということはありません。年が明けても、やはり同じ。
 寒空なのに、なんとなく利根川を見たいと思い、出かけることにしました。
 かつて利根川を見に行ったところといえば、取手か布佐ですが、帰りの土産など、付属物をあれこれ考えた末、木下(きおろし)へ行くことにしました。ほかにもあるのかもしれませんが、私が思いつく取手土産といえば、新六漬け。布佐土産は何がいいのか思いつかず、木下なら煎餅です。

 木下を訪ねるのは今年正月の薬師詣で以来、二度目です。
 この寒空の下を出かけるのはどうかと思いながら、十二時五十九分発の我孫子行に乗るつもりで庵を出ました。予定どおりなら我孫子着は十三時十一分。五分待ちで上野からくる成田行に乗れるはずでした。
 しかし、一抹の不安がありました。
 今年七月の薬師詣でで牛久へ行ったとき、電車は三分遅れでした。我孫子で土浦行の電車に乗り換える手筈でしたが、我孫子まで行っていたのでは乗れないと判断して、急遽柏で乗り換えることに変更。ギリギリ乗り換えに成功。乗った電車は我孫子直前で前に乗っていた電車と並走。変更していなければ、我孫子で三十分は待たなければならないところでした。
 ただ、柏駅ではそれこそ決死の様相でした。緩行線と快速線はプラットホームが別々です。脱兎のごとく階段を駆け上がり、隣ホームの階段をまた脱兎のごとく駆け下りなければならない。いまさら昔のことをほじくり返しても詮無いことですが、高校生から大学生にかけての若き日なら100メートルを10秒9という速さで駆け抜けた我が身も、幾星霜と歳を経てみると、当人は走っているつもりでも、ハタから見れば、ようよう早足で歩いているのか、というぐらいにしか見えないかもしれません。揺れるドテッ腹もものかは、なりふり構わず走って辛うじて乗り換えることはできましたが、口から心臓が飛び出すのではないかと感じるほどの事後。
 息がようやく平静に戻ったころ、ふと遥か昔、電車が遅れたために、手形を不渡りにしてしまった会社経営者がいたのを思い出しました。ギリギリの電車に乗るあんたが悪い、といった人もいましたが、好き好んで綱渡りのような電車に乗ったわけではない。もろもろやるべきことがあって、ようやく駆け込むように乗ったのでしょう。

 電車を利用するのは月に二度か三度ですが、北小金駅が見通せる道はほぼ毎日通るので、プラットホームで電車待ちをしている人の数や駅構内のアナウンスで、正常に運転されているのかどうかがわかります。
 二日か三日に一度はなんらかの理由で遅れています。人身事故だ、というのでは仕方がない。自殺にせよ、うっかりにせよ、利用客に非がある場合は私は一種の犯罪だと思うのですが、鉄道会社のせいではない。しかし、車両点検をしたからとか、危険防止何とかが作動したから、という理由だけ聞かされると、肚が立つこともあります。なぜ車両点検をしなければならなかったのか、どうして危険防止装置が作動したのかを説明せよ!
 時刻表の変更にしても、変えるときは改正などといっているが、ちゃんちゃらおかしい。広辞苑や大辞泉がなんと定義しようと、改正とは大多数の人にとって、使い勝手がよくなることではないか。利用客が尠ないからといって、駅を廃止したり、電車を間引きすることは鉄道会社にとってメリットがあるだけなのだから、改正ではない。まあ、何か形容詞をつけなくちゃいけないというのなら、改定というべきでしょう。




 まあ、それはそれとして、予定より十五分遅れで木下駅に降り立ちました。
 今年正月にきたときは、ここからバスを利用しなければなりませんでした。一日に五便しかないバスです。そのときは時間どおり着いて、無事バスを乗り継ぐことができましたが、この日のように十五分も遅れたというのでは絶望的です。




 駅から歩いて四分。印西商工会館を訪ねて……。



 こんなパンフレットをもらいました。 

 木下駅近くに三軒の煎餅屋さんがあることは下調べで知っていました(実際は四軒あったのですが……)。パンフレットをもらったあと、しげしげと見ることもなく、バッグに入れてしまったので、帰りの電車で開いてみるまで、四軒あったとは気がつきませんでした。

 我が庵近くに友が二人います。二人とも三人家族です。三軒の煎餅屋さんで、(友の家族各三人分+私の分=七人分)×三軒の煎餅を土産に買って帰ろうと考えて出てきています。



 手賀沼排水機場。昭和三十一年の竣工。
 降雨時には手賀沼の流域七市(柏・印西・我孫子・鎌ケ谷・白井・流山・松戸)160キロ平方から流れてくる水を毎秒40立方メートルという速さで利根川へ排水できるという施設です。毎秒40立方メートルという水量は25メートルプール(325立方メートル)をおよそ十秒でいっぱいにしてしまう量と速さです。




 川めぐり乗船場。



 緩い坂を下って行くと、川めぐりに使われるとおぼしき舟二艘がもやってありました。



 川を挟んで利根川の土手が見えます。



 しばらく六軒川に沿って歩きます。



 銚子と我孫子を結ぶ国道356号線です。
 結構交通量が多く、ビュンビュン飛ばす車が多いのに、歩道部分は身をすくめて歩かなければならないほどの幅しかありません。しかも大部分はU字溝なので、歩きづらいことこの上ない。

 私が棲む松戸市(隣の流山市も)と木下がある印西市とは同じ千葉県というだけで、なんら関係がないのでしょうが、歩道への配慮がないことはそっくりです。すなわち、歩道をつくる設計段階はいざ知らず、できたあと、この画像のように、狭かったり、狭いだけではなく、斜めになっていたりして、「一度でも自分で歩いてみたことがあるのか」と担当者に訊いてみたい。



 煎餅屋さんではありません。煎餅とならぶ印西名物・久七(きゅうしち)団子。
 友人の話によると、休みの日がよくわからず、ダメ元できてみればやはり休み。予約ができると聞いて電話をしてみると、なかなか繋がらない。やっと開店しているのを目にしたときには感極まってしまった、ということが名物をさらに名物たらしめているらしい。
 私自身は甘いものは不得手なので、店の写真を撮っただけです。



 前の前の画像では左手奥に見える六軒橋を渡ります。



 最初に煎餅を仕込んでおくか、と考えていた関口米菓に着きました。
 ドアを開けると、目の前にショーケースがありましたが、陳列されていたのは煎餅ではありませんでした。伸び上がって、ケースの後ろを覗いてみましたが、煎餅らしきものはありません。
 店の中に人の姿はあるのですが、私にチラリと一瞥をくれただけで、バケツリレー式で黙々と荷物を運んでいます。「えへん」と咳払いをしてみましたが、「いらっしゃい」の一声はありません。私には引っ越し(?)の準備で忙しいときに、何をしにきたのか、といっているように見えました。

 閉まっている店の扉を無理矢理こじ開けて入ったわけではありません。画像を見てもらえばわかるように、本日休業の表示はありません。もしかして表示を出し忘れ、鍵もかけ忘れていたというのなら、だれか一人でも飛んできて、「申し訳ありません。かくかくしかじか……」というべきです。
 客より荷物運びのほうが大切みたいで、荷物運びをやめる様子もありません。

 シカとされたので、一言も口を効かず、もちろん何も買わず、店を出てしまいました。

 先のパンフレットによると、どの店も定休日は日曜日です。商工会がパンフレットをつくったのは少しでも気運を盛り上げようとしているのだろうと思われるのに、日曜に店を開けないということは、店のほうは観光客は「お呼びでない」ということなのでしょうか。地元の人だけでなりわいが成り立つのであれば、よそから観光客を呼ぶ必要もない。それはそれでよいことでしょう。
 当初の目論見(駅周辺の三つの店で煎餅を買い揃えること)はここで崩れました。



 古そうな建物がありましたが、前身はなんであったのかわかりません。



 利根川を見に行くことにしましたが、もうどうでもいいような気分になっていました。
 北千葉揚排場です。利根川の下流部(布佐)と坂川(松戸)を連絡し,利根川に注ぐ手賀川と江戸川に注ぐ坂川周辺の内水氾濫を防ぐのと手賀沼と坂川の水質を浄化する役目を果たしています。


 
 


 川岸は段差になっている上、枯れ草が生い茂っていたので、川岸までは行けません。



 手前から二軒目、少し引っ込んだ家が岩崎米菓のようです。商工会を訪ねたとき、この店だけ表通りに面しておらず、幟や案内板のたぐいもない、と聞いていました。
 通りから覗くと、二人の男性が煎餅を焼いているのが見えました。店構えがあって、女将さんかだれかが接客をしている、という感じではなかったので、当初の目的 ― 三店の煎餅を揃える ― が早々に崩れ去っていたこともあり、声もかけず、むろん何も買わずに引き返して駅に向かいました。




 結局、以前も買った川村商店へ行くことにしました。



 十二枚入りの袋詰めを二袋買うことにして、二人の友に九枚ずつ、残りの六枚を私に配分することにしました。



 五人のご婦人が煎餅を焼いている店内の様子をカメラに収めさせてもらって、もろもろ物思いに耽りながら、帰りの電車の人となりました。

この日、歩いたところ

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2013年の無患子(ムクロジ)記念日

2013年03月29日 14時25分02秒 | のんびり散策

 昨日三月二十八日は無患子(ムクロジ)記念日。私が勝手に決めたもので、三年前のこの日、それまでまったく知らなかったムクロジという樹に対面したので、その記念日です。

 体調はいつも悪いわけではないのですが、よいときがつづかないので、散策も思うに任せません。
 加えて何か月か前から、カメラのメモリカードが悪いのか、PCに接続するカードリーダが悪いのか、原因がわからないのですが、カメラのモニタなら撮った画像を見ることはできるのに、PCに取り込もうとすると、認識してくれないのです。当然PCに取り込むことはできないので、ブログに載せることはできません。

 で、コンパクトデジカメを買いました。そして、早速見に行こうと思い立ったのが、流山・観音寺にあるムクロジに樹です。観音寺訪問は一昨年の十月、彼岸花を見に行ったとき以来です。
 それから一年半……。前は我が庵から4・3キロ先の観音寺まで、五十分近くかけて歩いて、とくにバテることもなかったのですが、わずか一年半経っただけで、そんな距離を歩く気力は喪失していて、行こうとすれば電車が欠かせなくなりました。



 昨日は高血圧の診察日でした。病院は新松戸駅近く。診察を終えたあと、ムクロジの樹がある観音寺を訪ねようと隣の駅・南流山まで武蔵野線に乗りました。

 南流山駅から十分で流山街道の木(き)交差点に出ました。



 新しい道路がつくられていました。道路は観音寺の横をかすめながら伸びて行くようです。
 一年半前に訪問したときは、この画像の左のほうでパワーショベルがガッガッと動いていましたが、迂回の標識のあるあたりは畑だったか、荒れ地だったか、憶えがありません。少なくとも工事が始まるような予兆は何もなかったという気がします。
 景気がよいという実感は全然ありませんが、それは私だけが感じていることなのか、我が庵周辺でも、野や畑が次々と潰されて宅地と化しています。



 観音寺に着いたときは思わず「アッ」と声を出してしまいました。あるべきものがなくなっていたのです。
 てっぺんを伐られ、枝を払われて、画像中央に、Yの字が幾重にも重なったように見える樹が目的だったムクロジです。




 これは二年前の十月に訪問したときの画像です。左側に高々とそびえているのがかつてのムクロジです。



 観音寺の左隣に鎮座する香取神社への参道。
 数本あるだけの、こじんまりとした桜並木ですが、私的にはお奨めスポットです。すでに散り始めていた本土寺参道の桜に較べると、幾分花の散る時期が遅いようです。




 江戸川堤防に出ると、今年も菜の花の絨毯が出迎えてくれました。遠くに見える鉄橋は、つくばエクスプレスです。




 堤防に上がってみました。
 この日の天気予報は終日曇でしたが、朝九時ごろから陽射しが出ました。気温も正午の予想気温は16度でしたが、前日は冷え込んだので、随分暖かく感じられました。



 広々とした江戸川の河川敷。



 江戸川に架かる流山橋東詰の桜並木。

 ここも開花が少し遅かったようで、満開直後といった様子。



 赤城神社の手前に流山寺があるので寄って行きます。



 我が宗派のお寺なので、本堂に参拝したあと、歴住のお墓に焼香します。



 流山寺からものの一分。関東有数の大注連縄として知られる赤城神社。

 拝殿に上る石段です。
 極度に高所恐怖症が募りつつある私には、さほどの高さ、とは見えぬこの石段すら鬼門です。左手にゆるりとした女坂があるのは知っているのですが、今日は参拝しないことにしました。



 石段の右手にある一茶句碑。

「越後節 蔵に聞こえて 秋の雨」



 参道左にあるムクロジ(中央にある二本の葉のない樹のうち手前)です。



 このムクロジの樹の由来につづいて、落ちている実はご自由にお持ち帰りください、と書かれていますが、残念ながら落ちた観はありませんでした。



 赤城神社の別当であった光明院。



 帰途、新松戸駅前のスーパーにナスタチウム(金蓮花)のポット植えがあったので、四鉢買って帰りました。

 今日は電車を利用しているので、それほど歩いていない、と感じていましたが、一万五千歩も歩いていました。



 三年目を迎えた我が庭のムクロジです。

 一週間前に新しい葉を出しました。去年は五月近くになっても葉を出さず、もしかしたら……と、思ったものですが、無事生きながらえてくれています。
 メジャーを持ってきて高さを測ってみたら95センチありました。去年の同時期は90センチでした。

この日、歩いたところ

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布佐を歩く

2012年08月04日 20時55分10秒 | のんびり散策

 千葉県の利根川沿いに布佐(ふさ)という街があります。いまは我孫子市の一部ですが、江戸時代から明治の初めにかけては、銚子で獲れた海産物や東北地方の物産を江戸に運ぶ、一大物流拠点であった街です。
 その町をそぞろ歩いてみました。

 降りたのは成田線の布佐駅。この駅に降り立つのは去年五月以来二度目です。そのときは隣県・茨城の利根町へ行くために通り抜けただけなので、見物らしい見物はしていません。

 物産を江戸に運ぶ街道は「なま街道」と呼ばれていました。「なま」には「鱻」という字を当てるのですが、読める人はほとんどいないでしょう。「鮮魚」と書いて、「なま」と読ませるようにしているみたいです。

 私が布佐を歩いた四日 ― 。
 松戸の江戸川畔では松戸花火大会があり、我が北小金にある東漸寺ではヴェルヴェッツなるヴォーカルユニットのコンサートがありましたが、私はそれらの催しに背を向けるように出かけてきました。花火大会のほうは暗くなってからなので、行こうと思えば行けないわけではなかったのですが、最初から行く気はないのです。



 我孫子で成田線に乗り換えると、四つ目が布佐です。



 我孫子・上野方面行(いわゆる上り)のプラットホーム。
 私が降り立ったのは反対側の下りホームだったので、改札口を出る前に立ち寄って、カメラに収めました。

 ホームの端っこのほうに、高さ70~80センチと見られる、このような金属製の棚がいくつか並べられています。何に使われるのかというと、行商のおねいさんたちが電車がくるのを待つ間、ここにリュックサックの化け物のような背負子(しょいこ)を下ろすのです。
 布佐駅のプラットホームは二つのプラットホームが二本の線路を挟んでいる形の川式ですが、この棚があるのは上野方面行のプラットホームだけ。上野からくるほう ― すなわち帰ってくるほう ― にはありません。



 布佐駅北口にある石井ストア。
「布佐観光案内図」には「石井商店では、毎朝、元気なおしゃべりとともに、品物を仕入れたり、交換したりするおばちゃん達を見ることができます」と紹介されています。行商のおねいさんたちは東京へ向かって出発する前、この店に集まってワイワイガヤガヤとやっていたようです。昔むかしのお話かと思いきや、案内図の奥付を見ると、平成二十二年の発行となっています。すなわち一昨年。ひと昔前のお話ではなく、いまでもおねいさんたちの活躍はつづいているようです。



 最初に利根川を眺めに行きました。利根川に架かるのは栄橋。対岸は茨城県利根町です。
 この景色を撮すためには堤防上を走る国道356号のバイパスを横断しなければなりません。二車線の道路を大型トラックと普通乗用車、商用車が入り交じって走っているので、車の流れの途切れることがなく、わずか数メートルの道路を渡るのに五分以上も待たされてしまいました。



 堤防から上流に目をやると、寺院の伽藍らしき建物の側面が見えました。

 延命寺(真言宗豊山派)の虚空蔵堂でした。



 延命寺本堂。創建は文禄二年(1593年)。本尊は薬師如来のようです。

 布佐駅から栄橋のたもとを経て延命寺まで、十五分ほど歩きましたが、車以外に歩く人の姿を見かけませんでした。真夏の暑さに眠っているような街です。



 先ほどバイパスを渡った、国道356号の本線です。信号のないバイパスができたので、こっちを走る車はあまりありません。
 のんびりとした道を歩いていると、「ビジネス旅館布佐」という看板が目に留まりました。つげ義春の世界を思わせるようで、暑さに閉口しつつも、のどかで佳い雰囲気に浸ることができました。



 延命寺から細い路地に入って、100メートルばかり歩くと、勝蔵院(天台宗)に着きました。

 創建は延命寺より一年早い文禄元年(1592年)。本尊は阿弥陀三尊です。



 勝蔵院を出て、また細い径を歩いて行くと、松並木の道が現われました。布佐の鎮守・竹内神社の参道でした。

 


 神社正面の石段はさほど高いとは思えませんでしたが、齢とともに高所恐怖症が顕著になってきた私は切り立つように見える石段を避けて、右手にあった緩やかな女坂を上ります。

 女坂といえど、結構急で長い。

 林に隠れているのでよくわかりませんでしたが、ずんずん上って行くと、社殿らしき建物が下方に見えるようになりました。



 ??
 神社の屋根が眼下に見るようになってしまって、一体全体どこへ出るのか? と訝りながら坂を上り詰めると、目の前に拡がっていたのは布佐小学校の校庭でした。

 我孫子市内ではもっとも古い小学校で、明治六年(1873年)に刀寧(とね)小学校として開校したのが始まり。今年で創立百三十九年を迎えます。
 夏休み中なので、ひっそりとしています。

 遠慮しつつ校庭の隅っこを歩くと、社殿の背後を回り込む形で竹内神社の境内に入る径が見つかりました。



 竹内神社。創始は承平年中(931年-38年)。
祭神は天之迦具土命(あめのかぐつちのみこと)。



 上るのを避けた石段の上に立って、下を覗いてみました。
 やはり急です。ここを上っていたら途中で腰が引けてしまったでしょう。上らなくてよかったと思いながら、帰りも女坂を下りました。

 さほど大きな神社とは見えませんでしたが、毎年秋に挙行される例大祭では交通規制がされるほど賑わうようです。
 例大祭は享保年間(1716年-35年)に発祥した伝統ある祭りです。地元の上町・布佐一丁目・二丁目・三丁目・大和町の五つ地区のうち、一地区が持ち回りで当番町を受け持ち、神社神輿を担ぎます。
 今年の当番町は上町。ほかの四地区はそれぞれの山車で練り歩きます。成田街道(国道356号線)沿いで神輿・山車が巡行する際は、多くの見物客で賑わうそうです。最終日には神社の参道から歩いて十分ほどのところにあるスーパー(ナリタヤ食彩館布佐店)の駐車場に神輿と山車が集結して競演を繰り広げるということです。

 布佐駅前に戻って駅前を通り過ぎ、350メートルほど歩くと、旧鮮魚街道との交差点に出ます。



 交差点に立って左手(北=利根川方向)を見たところ。昔の面影は何もありません。



 交差点をそのまま左へ行けば利根川に突き当たり、そこが布佐河岸跡ですが、まずは右に曲がって成田線の踏切を越え、国道356号我孫子バイパスの交差点まで行ってみました。

 画像奥が松戸方面ですが、ここもかつての面影らしいものは何もありません。

 


 鮮魚街道近くにはこんな店や家が数多く残されていました。このあたりは去年三月の東日本大地震で、液状化現象という被害の出た地域です。

 去年、私が訪れたときは地震の二か月後だったので、到るところで電柱が傾き、道路の補修工事が行なわれていました。
 今回きてみると、インフラは復旧されたようですが、道路に人影はなく、ひっそりとしていることは前と変わりがありません。
 この家々は地震前から廃業または廃屋状態であったのか、地震後、とても修復不能と判断されて廃されたものか。道行く人もいないので、訊ねようにも訊ねられません。



 鮮魚街道の起点―利根川の堤防下にある布佐観音堂です。

 祀られているのは馬頭観音。魚藍観音も祀られています。
 魚を運ぶのに貢献し、死んでしまった馬の霊を慰めるため、問屋と馬主が建立したものです。
「江戸みち」とも呼ばれる鮮魚街道はこの御堂の裏に沿って延びています。この御堂は明治三年(1870年)の利根川堤防決壊で流失し、大正二年(1913年)に再建。



 再び堤防の上に出て、布佐河岸跡を捜します。

 建て札も何もないので、このあたりだったのだろうというところをカメラに収めました。画像奥が上流。遠くに栄橋が望めます。



 先の「布佐観光案内図」に掲載されている鮮魚街道図です。

 江戸時代、銚子や九十九里方面から利根川を遡って運ばれてきた鮮魚はここで荷揚げされ、一刻も早く日本橋市場に出すため、松戸河岸まで馬で陸送する鮮魚街道の起点となったところです。最盛期は一日四千籠の鮮魚を百三十~五十頭の馬で運んだといわれます。
 布川(布佐の対岸の町・現在は茨城県利根町)に生まれた医師・赤松宗旦は自著「利根川圖志」に、
「銚子浦より鮮魚を積み上げするをなま舟という。舟子三人にて日暮に彼処を出で夜間に二十里余の水路を遡り未明に布佐布川に至る。特にこの処を多しとす。故にその賑い他所に倍し、人声喧雑肩摩り踵接し、傾くる魚は銀刀を閃かし(中略)而して冬は布佐より馬に駄して松戸通りよりこれを江戸に輸り夏は活舟(いけぶね)を以て関宿を経て日本橋に到る」
 と記しています。
 この先、浦部(印西市)~平塚(白井市)~藤ヶ谷(柏市)~佐津間(鎌ヶ谷市)~五香(松戸市)~金ヶ作(同)~門前(同)を通って松戸の納屋川岸まで運ばれたのです。




「利根川圖志」から布川魚市之光景。



 前の画像を撮ったのとほぼ同じ場所から下流を眺めたところ。このあたりが網代場跡。

 赤松宗旦は「利根川圖志」に、「その味利根川一」と称賛していますが、布川鮭の網場です。
 ここも建て札はないので、このあたりであろうというところを撮影。



 堤防を降りて五分ほど歩くと、岡田武松邸跡(現在は我孫子市近隣センター・ふさの風)があります。岡田武松(1874年-1956年)は第四代中央気象台長(現在の気象庁長官)。予報課長時代(三十一歳)、日露戦争の日本海海戦時に「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」と予報したことで著名です。



 帰りは再び鮮魚街道を歩いて、布佐駅南口から。

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またまた梅雨の中休み

2012年06月27日 19時22分49秒 | のんびり散策

 またまた梅雨の中休みです。明日、ようやく雨になりそうですが、今回の中休みは五日間という長さになりました。



 ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)が咲き始めました。
 なぜか私はこの花を金魚草だと思い込んでいました。赤くて(黒い金魚も白い金魚もいるのに)いかにも金魚らしいと思ったものかどうか。
 道端で見かけてカメラに収め、金魚草が一年草か多年草か、どういう種類の花と仲間なのか。いままで氏素性など調べたことがないので、図鑑をひもといてみると……まったく違う花が出てきたので、面食らってしまいました。

 水仙とついていますが、水仙とは関係がないアヤメ科です。同じアヤメ科にはヒオウギ(檜扇)という花も、ヒメヒオウギ(姫檜扇)という花もあるので、ヒメヒオウギズイセンという長い名前は独自性がまったくない、全部よそから一つ一つ借りてきて繋げたようなものです。



 今日午前中の富士川上空です。
 昨日今日と陽射しがあったので、日中は少し暑く感じられるようになったものの、七月も近いというのに、朝夕は肌寒い日がつづきます。



 ムクロジ(無患子)の花は満開期を迎えて、少しずつ散り始めていました。
 小さくて見えないかもしれませんが、画像の右上方には去年の実がまだ残っています。



 キウイは直径4~6センチの大きさに成長しています。



 梨もいまのところはキウイと同じぐらいの大きさ。
 ネットで覆われている(5ミリほどという細かい網目なので、カメラのレンズだけ差し込んで撮る、というわけにもいかず)ので、画像はありません。
 ふと気づいたのは、近辺に二か所あるキウイ園にはネットがかけられていないのに、三か所ある梨園はいずれもネットがかけられている、ということでした。



 近辺の農地にはこんな注意書きも立てられていますが、キウイ園を狙う泥棒はいないのでしょうか。それとも梨園のネットは泥棒対策とは異なるのでしょうか。



 暑くなってきたので、あまり外へは出ないようになった猫のうさ伎(うさぎ)を見かけました。
 幅50メートル、長さ100メートルという梨園の奥のほうにいましたが、私の姿を認めて遠路足を運んでくれました。




 こちらは富士丸。私がカメラを構えて立っている背後を富士川が流れているので、安易につけた名前です。
 首輪をしていますが、どこの飼い猫なのかわかりません。寝転がっていたのは民家の駐車スペースですが、すでに住む人のいない廃屋です。
 
うさ伎と違って滅多に会うことはありません。よって、私を私であると思い出すのに時間がかかるのか、いつも最初はぼんやりと見つめ、やがて烈しく鳴きながら(餌をくれ餌をくれ、といっているのかも)私に近寄ってきます。

 


 北小金駅の北口から本土寺の参道入口につづく長さ200メートルばかりの商店街には十六軒の店があります。そのうち三軒が洋品店です。
 わずか三軒に過ぎなくても、十六分の三と考えれば、大変な多さだといえます。いまの時節と秋の紅葉の時節は千客万来。お婆ちゃんの原宿をミニ化したような感じです。



 老舗葛餅店の臨時売店も千客万来でありました。



 芽生えて丸二年を迎えた我が庵のムクロジです。
 かぼそいながらも枝が出て葉も出たので、高さが1メートルを超えましたが、芽吹いたばかりだった若葉は先日の台風4号の強風にいたぶられたので、ズタズタです。

 この樹が花を咲かせ、実を結んでくれるのは、何年後何十年後のことでありましょうか。私がそれを眺めることがあるのであろうか、と考えることしきりです。




 十一日前の今月十六日、我が庭の桔梗殿が今年初めて開花してから次々と咲くようになって、今日で十二輪目を数えました。

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雪やこんこ

2012年02月29日 19時16分41秒 | のんびり散策

 ♪雪やこんこ 霰やこんこ
 降つては降つては ずんずん積る
 山も野原も 綿帽子かぶり
 枯木残らず 花が咲く

 ♪雪やこんこ 霰やこんこ
 降つても降っても まだ降りやまぬ
 犬は喜び 庭駈けまわり
 猫は火燵で丸くなる

 買い物に出るときは北方向へは行きません。この方面に行っても、二十分以上歩いてようやく出くわすのがコンビニです。しかも、このコンビニを除けば、ほかに店はありません。
 過疎の土地でもあるまいに、なんだかよくわからない条例みたいなものがあって、我が庵周辺では高い建物が建てられないことに加え、スーパーのようなものもつくれないのだそうです。

 我が庵から歩いてわずか三分、というところに小さな天満宮があります。

 ♪てんてんてん 天神さまのお祭りで
 てんてん 手まりを買いました
 てんてん 手まりはどこでつく
 梅のお花の 下でつく 下でつく

 ♪てんてんてん 天神さまの石段は
 だんだん かぞえていくつある
 だんだん かぞえて二十段
 段の数ほど つきましょう つきましょう

 一月二十四日、二月十七日と雪の朝があって、今朝もまた雪です。



 四年に一度しかない、二月二十九日朝の我が庭です。
 この日の最高気温は3・0度と一昨年二月十三日の2・4度に迫る寒さでした。いつにない大雪に悩まされている地方の方々には申し訳がないのですが、積もった雪を見ると、なんとなく心躍るものがあります。
 この日は午前中に約束をしていたことがあり、出かけなければなりませんでした。
 しかし、しばらく前から右眼がゴロゴロするようになっていて、窓を開けて雪を見るまではいま一つ気分が霽れませんでした。
 暮れに診察を受けるまで私も知りませんでしたが、眼瞼内反症といって、右眼下瞼の睫毛が内側に向いて、眼球をこすっていたのです。簡単な手術を受けて治ったのかと安堵しましたが、じきに元に戻ってしまったみたいです。
 担当医によると、皮膚がたるんで起きる症状らしいので、またしばらくすると再発するかもしれないということでしたが、「しばらく」というのが、いくらなんでも二か月や三か月ではないだろうと思います。



 外出の帰り、富士川まで足を延ばしてみました。画像奥が上流。



 富士川右岸(流山市側)の雪景色です。



 道路の雪はほとんど消えかかっていましたが、人や車が通ることのないところはすっぽりと雪をかぶったままです。さらに足を延ばしてみたら、寶蔵院も雪化粧。



 寶蔵院は富士川右岸の台地上にあります。高低差は8~10メートルぐらい。



 廣壽寺の参道です。バイクの轍が一本残されているだけで、人の足跡はありませんでした。



 観音菩薩を本尊として祀っている廣壽寺の本堂です。



 伽藍の屋根に積もった雪を見たい、と思ったときにイメージしたのは、最初に訪れた寶蔵院ではなく、この清瀧院でした。しかし、きてみると、屋根の雪はほとんどありませんでした。
 寶蔵院から廣壽寺を経由して、清瀧院までは1・3キロほど。十五分ぐらいで歩けるのですから、その間に気温が上がって屋根の雪が消えてしまった、というような距離ではありません。



 清瀧院境内の枝垂れ桜の樹。

 帰り途で雉(キジ)を見ました。前ヶ崎城址公園前から国道6号線に出る道 ― 私が名都借谷津(なづかりやつ)と呼んでいる道路を歩いていたときのことです。
 
私がかつて暮らしてきた東京の目白、浅草という土地に較べれば「田舎」の北小金周辺ではありますが、まさかキジを見るとは思いませんでした。

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