また我孫子に所用ができたので、所用を済ませたあと、利根川を渡り、取手へ足を延ばしてきました。
取手と下館を結んでいる関東鉄道に「ゆめみ野」という新しい駅ができたので、ちょっと行ってみようかという気になったのです。
が、その駅を見ることが目的というのではありません。
二年前、地蔵ケヤキで有名な高源寺と高井城址を訪ねたとき、いまは公園になっている高井城址に桔梗(キキョウ)の群落があるのを知りました。近場でこれほど桔梗が咲いている景色は珍しいので、毎年見に行こうと決めたのに、去年は桔梗が咲く季節の直前、ひどく体調を崩してしまって、見に行くことができませんでした。
で、今回はまだ花の季節ではないとわかっていながら、新しい駅ができたおかげで、少しは近くなったのかどうか、様子を見ておこうというのと、地蔵ケヤキしかないと思っていた高源寺に、利根運河を拓いた廣瀬誠一郎のお墓があると知ったので、お線香の一本もあげようと考えたからです。
高井城址は多くの部分が宅地化されてしまっていますが、それでも取手市内に遺されている城址としては最大規模のものです。高井城址も高源寺も四度目の訪問になるので、高源寺で廣瀬誠一郎の墓を探し当てるほかはとくに改めて見るようなものもありません。
そこで今回はもう少し範囲を拡げて、城址の北西に当たる香取八坂神社、同じく東に当たる妙音寺と東光寺も併せて訪ねることにしました。
関東鉄道のディーゼルカーに乗るのも二年ぶりです。
ゆめみ野駅。
今年三月十二日に開業したばかり。日中だったということもあり、降りたのは私一人。帰りもこの駅を利用しましたが、乗車したのは私一人。
常総ニュータウン取手ゆめみ野という、面積80ヘクタール、計画人口六千人余の宅地造成に合わせて駅がつくられたのです。駅前はまだこんな状態で、何もありません。
常総ニュータウンというのは旧日本住宅公団が昭和四十六年から守谷、常総、つくばみらい、取手の四市にまたがる関東鉄道沿線で始めた宅地造成事業で、七地区に分かれ、取手ゆめみ野は常総ニュータウンでは最終となる地区です。
駅前から途中まで立派な道路ができていますが、いまのところはどこにも抜けられないので、工事用車両以外に通る車はありません。その道路は二年前には工事中だった県道251号線のバイパスに繋がっていました。
途中で見覚えのある道に出たと思ったら、遙か彼方に鳥居が見えてきました。
香取八坂神社です。由来を記したものがないので、経津主之命(ふつぬしのみこと)を祀っているということがわかるだけ。創建も不詳です。
参道の右手が高源寺の墓地になっています。
高源寺の本堂。臨済宗妙心寺派のお寺です。
永仁元年(1293年)、夢窓正覚が開山と伝えられますが、夢窓正覚とは相国寺と天龍寺の開山・夢窓疎石(1275年-1351年)のことで、相国寺派では夢窓国師疎石と呼び、天龍寺派では夢窓正覚国師と呼ぶと記憶しています。
この方が開山ということだと、まだ十九歳のときに開山したということになり、ちょっと不自然です。
本堂前に聳える通称地蔵ケヤキ。
樹齢千六百年といわれる欅の、火事で焼けてできたと伝えられる空洞に祀られた地蔵です。いまは閉鎖されていますが、地蔵の背のほうにも穴が開いており、女性がこの穴をくぐり抜けると、子が授かり乳がよく出ると信仰を集めてきました。
地蔵ケヤキを写した画像では、右上に葉っぱだけが写っているのがこのスダジイです。
こちらも相当な古木のようですが、保護樹木という標示があるだけで、どれほどの樹齢なのかわかりません。
廣瀬誠一郎の墓です。天保九年(1838年)、この地・下高井に生誕。利根川と江戸川を結ぶ利根運河開削に生涯をかけた人です。
すぐに見つかるだろうと思っていたのですが、一帯には廣瀬を名乗る家が多いようで、廣瀬家之墓と彫られた墓石が何十と林立しており、随分長いこと捜して見つけました。
このあとに訪ねる高井城は長治年間(1104年-05年)、相馬小次郎が築城したと伝えられています。
相馬氏の子孫が高井と姓を変え、天正年間(1573年-92年)までつづきますが、高井胤永が北条氏に味方したため、豊臣氏に滅ぼされました。そのあと、廣瀬と名を変えて帰農したという説と姓はもともと廣瀬で、高井家の重臣であったという説があります。
高井城址公園の桔梗です。
去年夏は異様に暑く、冬は異様に寒いという変動気候のあとなので、どうなるかわかりませんが、例年なら満開期は七月十日ごろ。いまの季節は高さも20~30センチというところです。
高井城址。上ってみたところで、草ぼうぼうの本郭跡があるだけだとわかっているので、外から眺めるだけにしておきました。
地図で高井城址の東側に鳥居の印を見つけていたので、初めて行ってみると、妙見八幡宮でした。由来を示すようなものは何もないので、詳細はあとで調べたものですが、かつては高井城内にあった相馬家の氏神です。
初めての場所を訪ねるとき、私はニフティの「いつもNAVI」という地図をプリントして持って行くことにしています。その地図には、妙見八幡宮前の径を右に折れると、突き当たりに東光寺があり、その手前左に妙音寺があることになっていますが、径を曲がってみると、正面にも左手前にもお寺らしき建物はなく、正面にこの二つの御堂があるだけでした。
近づいてみると、右の御堂には「新四国相馬八十八か所霊場 第五十二番 高井村 本尊 薬師如来」と記された扁額が懸けられていましたが、中に祀られているのは薬師如来ではなく、弘法大師でした。
左は風雨に晒されて、記されているらしき文字を読むこともできませんが、中におわすのはやはり弘法大師でした。
※庵に帰ったあとで調べてみると、右の御堂に祀られていたのは弘法大師ではなく、新四国相馬八十八か所霊場を定めた観覚光音禅師(1711年-83年)のようです。クローズアップした写真を撮っていないので、なんともいえませんが、両方とも坐像で、右手に独狐を持っていたように記憶しているのですが……。
手前左には集会所のような建物……と思ったらまさに集会所で、下高井下坪集会所とありました。
裏に廻ってみると、三基の墓石がありました。
左から権大僧都法印順慶、大阿闍梨法印泰玄、権大僧都法印義純と、僧階と僧侶の名が読めるだけで、没年などはすっかり摩耗していて読み取ることはできません。
庵に帰ったあと、新四国相馬霊場八十八か所に触れているサイトを捜してみると、先に見た高源寺が四十九番で、五十番が東光寺、五十二番が明音寺(私が持っている地図では妙音寺)となっています。
ただし、五十二番という扁額の懸けられていた御堂は、地図の位置関係によれば明音寺ではなく、東光寺のある場所でした。
Webで他の地図も見てみました。Map Fanにはお寺の記載はなく(確かにあった妙見八幡宮の記載もなく)、下坪集会所があることになっています。
BIGLOBEとgooはベースとしている地図が同じなのか、私が使ったニフティの地図とまったく同じで、明音寺ではなく妙音寺と記載されています。
取手市観光協会がWebに載せている観光マップもBIGLOBEやgooと同じです。ZENRINというクレジットがあるので、自前のものではありませんが、観光協会が使っている以上は明音寺という表記は間違いで、妙音寺が正しい、ということになります。ところが、そのお寺は実在しないというのも、お笑いぐさになってしまいますが……。
取手駅に戻っても、まだ午後の早い時間だったので、ちょっとした風流を味わってから帰ろうと思いました。
利根川河川敷に降りて見上げた常磐線(手前が緩行線)の利根川橋梁。
画像の左が下流になりますが、この地域で湾曲していた利根川は明治から大正中期にかけての工事で、直線に付け替えられました。かつて流れていた川の一部は古利根沼として残され、川の北岸だった小堀(おおほり)地区は対岸として孤立することになりました。
そこを結ぶ連絡手段として取手市営の小堀の渡しがあるので、それに乗ってみようと思ったのです。
取手駅東口から利根川堤防までは歩いて六分ほど。堤防から広い河川敷を横断して船着き場まではまた六分ほど。
されど、やんぬる哉……。台風2号のせいで利根川は増水。渡し船は欠航だとさ。
十五分ほどの風流な船旅……と思っていたのですが。
取手駅、とはいわないが、せめて堤防の降り口に欠航の知らせでも出しておいてくれれば、河川敷横断の往復十二~十三分は歩かずに済んだのに……。
桟橋入口が通せんぼされているのを見ながら、もしかしたら……と思いながら近づいて「欠航」と知ると、一気に疲れてしまいました。
➡この日歩いたところ(ゆめみ野駅から稲戸井駅まで)
昨日今日と雨なので、どこにも出かけず、家でじっとしています。
二十六日の木曜日、湯島まで通院したあと、吉祥寺というお寺を中心に寺巡りをしました。
我が庵近くには、紫陽花(アジサイ)寺として高名な本土寺をはじめ、紫陽花の名所がいくつかあります。そのうちの一つ、流山市前ヶ崎の通称・あじさい通りは、毎朝の散歩のときにできるだけ足を延ばしてみることを心がけていますが、まだほとんど咲いていません。
なので、駒込界隈の寺巡りをしたときも紫陽花の花が咲いているかどうか、予測する考えはまったくありませんでした。ところが、駒込の各所で色鮮やかに咲いている紫陽花を見たのです。
あっと意表を突かれたような気になったのと同時に、駒込と北小金ではそれほど離れていないのに、咲き方のこの違いはなんなのであろうと思い、もしかしたらこの一日で我が庵近くの紫陽花も咲いたのかもしれないと思ったので、金曜日の朝の散歩で視察に行きました。
あじさい通りに向かう途中にある無患子(ムクロジ)の樹。花の蕾が出ていました。
あじさい通り北の入口です。
二日ほど前から見れば、蕾が開きかけて、全体に白っぽくなったかな、という印象は受けますが、まだほとんど咲いていない状態でした。
中には開きかけているものもありますが、全体から見れば、まだ何十分の一、いや、何百分の一に過ぎません。
あじさい通りのすぐ近く、台地の上に流山東部中学校があって、北側の斜面には紫陽花が植えられています。
額紫陽花は少なく、かえって貴重な存在です。
あじさい通りとは違って、手入れをする人がいないのか、去年の花が枯れたまま残っています。
東部中学校の斜面沿いに歩き、途中で左に折れて畑道に入り、小高い台地を上ると廣壽寺です。
本土寺にはとても及びませんが、廣壽寺にも紫陽花が植えられています。
ほとんどが蕾ばかりの状態の中で、一株だけ咲いている紫陽花がありました。
東漸寺の紫陽花も見に行くことにしました。
これより東漸寺。門前に掲げられた標語です。
門前に掲げられた標語のように、境内は水も滴るばかりの新緑です。
東漸寺の紫陽花はあじさい通りや廣壽寺とは種類が異なるのか、蕾の数も少なく、咲き方も遅いようです。
目赤不動脇を抜けて再び本郷通りに戻り、向こう側に渡ってしばらく歩くと、吉祥寺通用口という標識が目に入ったので、とっさに曲がってしまいました。
曹洞宗洞泉寺。かつては吉祥寺の塔頭の一つでした。
洞泉寺には江戸時代の著名な儒学者・原家四代の墓があります。
初代・双桂(1718年-67年)は京生まれ。敬仲(1748年-93年)は双桂の次男。念斎(1774年-1820年)は敬仲の子で、「先哲叢談」を著わしました。徳斎(生没年不詳)は念斎の養嗣子。
洞泉寺の手前に吉祥寺の通用口がありました。
洞泉寺への行きがけに、いわくありげな堂宇があるのを見ていましたが、それが通用門の正面にあり、近づいてみると経藏でした。
通用門から見ると、経藏左手の墓所にある榎本武揚(1836年-1908年)の墓。
吉祥寺の創建は長禄年間(1457年-60年)。開基は太田持資(道灌)。
ものの本には、開山に下野国永源寺から青巌周陽大和尚(?-1542年)を招いたとありますが、道灌の存命中(1432年-86年)に青巌周陽が開山となるのは年齢的に見て苦しいものがあります。青巌周陽をキーワードにして調べてみると、吉祥寺の開山となったのは大永年間(1521年-28年)とありました。
道灌が江戸城を築いたとき、井戸から「吉祥増上」と刻銘した銅印を得たので、これを吉瑞として江戸城内に吉祥庵を建立したのが始まりですが、「江戸名所圖絵」には遠山丹波守綱景(?-1564年)という人が中興したと記されています。庵に過ぎなかったものを遠山綱景が本格的な堂宇にし、そのときに青巌周陽が招かれたのではないかと想像されます。
家康が江戸に入るのを機に、いまの水道橋付近に移されましたが、明暦三年(1657年)の大火で焼失し、現在地に移転。
山門から本堂までは目測で200メートルぐらいあります。
その間にある八百屋お七と吉三郎の比翼塚です。ここに塚があるのは、お七が恋い焦がれ、逢いたさのあまり火つけに及んだ寺小姓吉三郎がいたのが、この吉祥寺であったのです。
吉三郎がいたのはお七の墓がある圓乗寺という説もありますが、こちらでは小姓の名は山田佐兵衛。
これも山門から本堂の間にあった二宮尊徳の墓碑。
ようやく本堂前まで辿り着きましたが、境内は非常に広く、あちこちに墓所が分散しています。
著名人の墓の多いお寺の場合、案内図があったりしますが、このお寺ではそのような便宜は図られていません。観光地ではないのだから当然だと思いますが、榎本武揚の墓も二宮尊徳の墓碑も偶然見つけたもので、私が目的とする墓を捜し当てるのは不可能のように思えました。
本堂右手に寺務所がありました。訪ねてみようかと考えていたら、折よく女子事務員が出てきたので訊いてみると……。
なぜ勘違いをしていたのかわかりませんが、なんとなんと、私が墓参をしようと思っていた人の墓はこのお寺にはありませんでした。
その人の名は柴田錬三郎(1917年-78年)。
梶山季之さんと同じように、私が若造だったころに、一度お目にかかっただけのお人です。それだけのお人なので、亡くなられたと知っても、通夜も告別式も参列しませんでした。折をみて線香だけ手向けようと思いながら、墓参の機会が訪れなかったのでした。
代わりに、というわけではないのですが、鳥居耀蔵の墓を訊ねると、「鳥居さんのお墓はわかりにくいんですよ」といいながら、わざわざ墓前まで案内してくれました。
本堂左手奥のほうにあった鳥居家墓所。右の黒っぽい墓石が鳥居耀蔵夫妻の墓。
矢部駿河守定謙を罪に落とし、五十四歳という若さで自死に追いやったあと、みずからも失脚して、讃岐丸亀藩に流されるという憂き目に遭いました。しかし、この男は二十三年間という長期の幽閉生活にめげることなく、悠然と生きつづけ、矢部さんより二十四年も長く生きました。
罪を憎んで人を憎まず……しかも、死後百四十年も経っているのだから、と思いながらも、墓の前で冥福を祈るのはちょっと複雑な気分で、結局は手を合わせずに踵を返しました。
家に帰って調べてみたら、柴錬さんのお墓があるのは小石川の伝通院でした。幸いというか、命日は六月三十日と近いので、なんとかして行かねばなりますまい。
浄土宗常徳寺。
身代り地蔵があります。「続江戸砂子」には「身丈七尺余の木造で恵心僧都作といわれる。常徳寺二世の転誉上人が重病にかかり、右眼が見えなくなるというとき、この地蔵に希念すると、地蔵の右眼が腫れて、代わりに上人の病気は全快した」と紹介されています。第二次大戦で焼失して、現在あるのは再建されたもの。
開創三百八十一年といいますから、創建は寛永七年(1630年)ということになります。
臨済宗妙心寺派徳源院。
徳源院に祀られている日限(ひぎり)地蔵。
寺伝によると、寛政五年(1793年)、近くの動坂に建立されたもの。願い事を日を限って祈願すると霊験あらたかであることから日限地蔵と呼ばれて崇拝されてきました。
臨済宗妙心寺派養源寺。
最初建立されたのは湯島切通坂下。明暦の大火後、この地に移されました。開基は稲葉正勝(1597年-1634年)。春日局の長男です。
養源寺に安井息軒(1799年-1876年)の墓がありました。
江戸時代末期の儒学者。日向国飫肥の人。
私が安井息軒に興味を惹かれるのは息軒その人の事跡ではなく、森鴎外に息軒こと安井仲平とその妻・佐代のことを書いた「安井夫人」という佳品があるからです。
鴎外というと、「舞姫」というのが定番みたいですが、私からいわせれば、そんなのは素人。無理なたとえですが、ベートーヴェンといえば、第七、第九を差し置いて、「エリーゼのために」というようなものです。鴎外は「安井夫人」、あるいは「寒山拾得」、あるいは「阿部一族」。
養源寺を出ると、粋な三味の音が聞こえました。幽かに漂ってくる線香の匂いを嗅ぎながら、しばらく立ち止まって耳を澄ませます。
近いのでほかにも行ってみたいお寺はいくつかありました。小田原道了尊最乗寺(曹洞宗)の東京別院、大圓寺(同)、八百屋お七の墓がある圓乗寺(天台宗)……。
この日、私が歩いたのは向丘地区ですが、西隣の白山地区を合わせると七十ものお寺があるのだそうです。近いので、といっていると、日が暮れてしまうので、来月の通院の帰りに、再来月の……と巡ることにします。
帰りは千駄木駅から地下鉄千代田線に乗るつもりだったので、千駄木に向かいがてら、あと一か寺だけ寄って帰ることとします。
養源寺門前から歩くことわずか二分。浄土宗蓮光寺。
創建は慶長六年(1602年)で、創建の地は湯島。明暦の大火で罹災して、現在地に移転したといわれています。
蓮光寺にある江戸時代後期の北方探検家・最上徳内(1754年-1836年)の墓。
出羽(現在の山形県村山)の人。天明四年(1784年)、幕府の測量隊とともに蝦夷地に渡り、国後、択捉を経て、日本人として初めてウルップに渡った人です。
お寺巡りをしながら随所で紫陽花(アジサイ)を見かけました。我が庵近くには紫陽花の名所といわれているところが結構あるのに、まだ蕾ばかりで、花開いていません。
通院したこの日の朝、確か早朝の散歩に出て、紫陽花を見に行ったという記憶があります。
……記憶があります、などとあやふやな表現になるのは、このように開花している花は一つもなかったので、もしかしたら何日も見ていなかったのでは、という思いにとらわれてしまったからです。
吉祥寺界隈を巡った翌朝、早速確認に行きましたが、それは明日のブログとします。
帰りは団子坂を下りました。
↓この日歩いたところ。本郷三丁目~吉祥寺~千駄木駅です。
http://chizuz.com/map/map91148.html
昨二十六日はリンパの循環障害のほうの通院だったので、東京・湯島の検査センターへ行きました。
いつもなら早朝六時台に家を出なければならないのですが、昨日は私の担当医が午後一時にしかこられないというので、血液採取は十一時半から、ということになりました。
診察を終え、次回の診察の日まで四週間二十八日分の薬をもらって、お役ご免となったのは二時でした。
この日、通院のあとは吉祥寺を訪ねようと考えていました。
吉祥寺といっても、中央線にある吉祥寺ではありません。本駒込にある曹洞宗のお寺です。
三題噺のようですが、行こうと思いついたのは矢部駿河守定謙(1789年-1842年)の墓に関してブログに書いたことに始まります。矢部さんの墓があるはずの深川・浄心寺を訪ねたときのことを書いたのですが、二度も訪ねながら墓を探し当てることができませんでした。
このことをブログに載せると、「とんだりはねたり」さんという方からコメントをもらいました。「あっしも(墓を)見つけられなかった」という内容でした。
矢部さんを罪に落とし、自殺に追いやったのは鳥居甲斐守耀蔵(1796年-1873年)です。
コメントではその鳥居耀蔵の墓に触れられていました。私は鳥居の墓が吉祥寺にあることは知っていましたが、まさかその墓に参るために行こうと思い立ったのではありません。
吉祥寺と聞いて、ほんのちょっとした縁のある人がそこに眠っていると知りながら、墓参する機会のないまま、すでに何十年も経ってしまっている、ということを思い出したのです。
私が通院する循環器の検査センターから吉祥寺までは地下鉄で二駅ぶんと少々離れていますが、ともに本郷通り沿いにあります。地下鉄は利用せずに、本郷通りを歩いて吉祥寺を訪ねるついでに、界隈のお寺を巡って行くことにしました。
本郷三丁目の交差点から東大前を通過し、テクテクと歩くこと二十分余。吉祥寺はそろそろかいな、まだかいなと思いながら、ヒョイと右手を見たら、一風変わった建物が見えたので、思わず道を折れて近づいてみたら、浄土真宗大谷派・専西(せんさい)寺でした。
寺の起こりは九百年も前の承元元年(1207年)、鎌倉雪の下に結ばれた草庵だそうです。紆余曲折を経て、現在の場所に移転してきたのは享保四年(1719年)のことです。
専西寺と向かい合わせに曹洞宗・大林寺があります。いまのところ、参考にすべき資料が見当たらず、我が宗派であるのに残念ですが、由来などは不明。
大林寺からアパートと道を一本挟んで浄土真宗大谷派・眞浄寺の山門があり、長い参道の先に本堂が見えました。こちらも資料がないので、いまのところ詳細は不明です。
また道を一本挟んで曹洞宗・海藏寺の山門がありました。
本堂は参道を鍵形に曲がったところ。このお寺には富士講中興の祖・身禄業者(1670年-1733年)の墓があります。
山門前で道は直角に左に曲がり、突き当たると団子坂通りに出ます。
突き当たったところに浄土宗・清林寺がありました。
文明十五年(1483年)の創建。江戸三十三観音霊場の第八番札所。祀られているのは聖観音です。
清林寺門前から100メートル足らず、浄土宗・光源寺があります。
天正十七年(1589年)に神田に創建され、慶安元年(1648年)に現在地に移転しました。
光源寺の観音堂と大観音。
元禄十年(1697年)に造られた身丈8メートルの十一面観音がありましたが、第二次大戦で焼失。平成五年に6メートルあまりの像が再建されました。
ここでUターンして本郷通りに引き返すことにします。
本郷通りに戻って地下鉄南北線・本駒込駅入口を過ぎると、浄土宗・天榮寺があります。
創建は元和三年(1617年)、場所は現在の本郷五丁目です。現在地に移転してきたのは万治三年(1660年)のことで、移転前は神田、千住と並んで江戸三大市場の一つだった駒込土物店(つちものだな)がありました。
天榮寺門前の石碑。土物店というのは大根、人参、牛蒡など土のついた根菜類を扱うことから……。
天榮寺から130メートルで浄土宗・定泉寺。十一面観音を祀り、江戸三十三観音霊場第九番。
定泉寺から出版社のビルを挟んで60メートル。天台宗・南谷寺。
元和年間(1615年-24年)、万行という僧が伊勢国赤目山で不動明王像を授けられました。その像を護持して諸国を巡ったあと、駒込村の動坂に庵を開き、赤目不動と号したのが始まりです。
寛永年間(1624年-44年)、三代将軍家光が鷹狩の途中で庵に寄り、目黒・目白不動に対して目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたと伝えられています。
江戸の五色不動の一つです。
目赤不動尊の隣には曹洞宗・養昌寺。
養昌寺にある半井桃水(1860年-1926年)の墓。
長崎県対馬の人。明治二十一年、朝日新聞に入社。新聞小説作家として活躍した人です。樋口一葉の師であり、一葉が想いを寄せていた人でもあります。
「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説で一世を風靡しましたが、いまでは読もうとしても手に入れるのは至難です。私も読んだことはありません。
目赤不動脇の幅が1メートルもないような小径をすり抜けて仙龍寺と龍光寺という臨済宗の寺を捜します。
これより多少広い径でも車はすれ違えそうもない。それなのに一方通行の標識はないようでした。このあたりの路地はまるで蜘蛛の巣みたいです。
小径をクネクネ曲がって辿り着いた臨済宗妙心寺派・仙龍寺。どうも無住のようでした。
臨済宗東福寺派・龍光寺。
創建は寛永九年(1632年)。開基は讃岐丸亀藩主・京極高知(たかかず:1619年-62年)と豊前杵築藩主・小笠原忠知(1599年-1663年)の二大名。なぜに二人の大名が協力し合ったのか、調べが行き届かず、いまのところは不明。
古丸一昌(1873年-1916年)といっても、ピンとくる人はいないと思いますが、「♪春は名のみの 風の寒さや~」という「早春賦」の作詞者だといえば、ピンとくる人も多いかもしれません。
大分県臼杵の生まれ。東京帝大に学ぶために上京した一時期、この龍光寺に身を寄せたことがあるのだそうです。生涯を終えたのも近くで、お墓はこのお寺にあります。
顕彰碑は長野県安曇野市にもあります。なぜかというと、詩は安曇野を散策したときにつくられたからで、そちらのほうが著名なようです。
安曇野では毎年「早春賦まつりコンサート」や「早春賦音楽祭」が開催されて何かと賑やかなようですが、こちら東京ではとくに祭りやイベントはないようです。
さてさて、このあとまた蜘蛛の巣のような小径を辿って本郷通りに戻り、吉祥寺へ行くことになりますが、眠っていると思い込んでいたところのちょっとした縁のある人が眠っているのは、実際は別のお寺でした。
吉祥寺に着き、お墓を探しあぐねた末、お寺の人に訊ねてそのことを知るのですが……。
蜘蛛の巣径を辿っているころの私はそんな結末が待っていようとは知りません。〈つづく〉
二十一日の土曜日、本土寺の参道入口に東京にある老舗葛餅店の臨時売店が店開きをしました。アジサイ(紫陽花)の花を観にやってくる観光客が増えるからです。
まだシャッターで閉じられたままだった店先に、二十一日に開店するというお知らせが出たとき、参道に植えられた紫陽花を見る限りでは、二十一日までにはとても咲きそうもない、と私には思われましたが、本土寺近くへ引っ越してきたものの、引っ越したのは紫陽花の花が散ってしまったあと、というにわか観察者の私とは違って、葛餅店は何年も前から毎年毎年店を出していて、花の咲く時節には精通しているのだから、いまは咲きそうにもないと思われる蕾もむくむくと大きくなって、咲くのかもしれないと思ったのでした。
そうして二十一日を迎えたのですが、私が危惧したとおり、花は咲きませんでした。よって、私が通りかかったときに見掛けた観光客らしき人は、参道に老夫婦一組、店の奥にやはり老夫婦一組という四人きりでした。
店内の左奥が形ばかりの喫茶室になっています。
様子を見に行ったのは日曜日でしたが、ほかに観光客らしき姿はありませんでした。
参道沿いの店も、黒門家は開いていましたが、客の姿はありません。
仁王門前の赤門家は閉まっていました。
場所によりけりではありますが、紅葉は寺の外からも見える場所があります。しかし紫陽花は参観料を払って中に入らなければ見られません。
で、市としては松戸ではなく、隣の流山ということになるし、本土寺からだと歩いて十二~三分かかりますが、流山市前ヶ崎のあじさい通りと東部あじさい苑へ、紫陽花がどんな様子なのか、と見に行ってみました。
前ヶ崎城址を北端として、富士川右岸に延々とつづく台地の東斜面に紫陽花が植えられているところがあります。長さは250メートル。そこが前ヶ崎のあじさい通りです。
まったくといっていいほど咲いていません。250メートルにわたって、全体像としてはこのような感じでありました。
ひと口に紫陽花といっても、蕾の様子を確かめながら見て行くと、葉の形、色、蕾のつき方、形……実に様々な種類があるのがわかります。
何本も伸びている茎の中にただ一本だけ花の開きかけているものがありました。
よくよく見れば、また別のところにも……。
とはいっても、あじさい通りと東部あじさい苑を合わせて何百株とある中のほんの数株に過ぎません。
↓あじさい通りと東部あじさい苑の地図を載せてあります。地図中の1~2の間があじさい通り、3~4の間が東部あじさい苑で、2~3の間には花はありません。
http://chizuz.com/map/map90858.html
利根町の〈つづき〉です。
徳満寺がかつては布川城という城であった、ということを示す標識が建っているのは、徳満寺の本堂を正面に見る入口でした。
そこから出たところは、利根川を渡る栄橋から茨城県になるために、千葉県道から茨城県道へと名称を変える4号線の布川陸橋でした。
利根川堤からつづく道路は非常に高いところを貫いているので、町は遙か下に見えます。
利根川堤を下り、堤沿いに下流へ歩き始めたところに赤松宗旦の旧居跡を見つけました。
赤松宗旦、本名は赤松義知。民俗学の柳田國男がもっとも愛読したであろう一書「利根川圖志」の著者です。
文化三年(1806年)、現在の利根町布川(下総国相馬郡布川)に生まれましたが、八歳のとき、父親が亡くなったので、母方の実家(印旛村吉高)に預けられ、そこで医術と漢学を学びました。
天保九年(1838年)、三十三歳のとき、生まれ故郷に帰って医院を開業するかたわら地誌研究に打ち込み、安政五年(1858年)に完成させたのが「利根川圖志」でした。
あまり賑わいの感じられぬ道ですが、銀行があるところを見ると、利根町のメインストリートのようです。この銀行は郵便局を除くと、町内でただ一つの金融機関なのです。
左に見える青果店の一軒先が赤松宗旦の旧居跡。突き当たりに見える緑が利根川堤防です。
地図を手に入れられなかったので、適当に歩くほかありません。
布川横町というバス停がありました。取手駅から大利根交通というバスが走っているようですが、行き先はどんなところなのか見当もつかないし、日中は二、三時間に一本ぐらいしかないので、実際にバスの走っているところは見ていません。
適当なところで町中に折れて歩いていたら、布川不動堂に出くわしました。
扉が閉まっていたので見ることはできませんでしたが、入口に建てられた説明板によると、御堂の中には不動明王坐像と大日如来坐像が祀られているようです。
不動明王は南北朝時代、大日如来は鎌倉時代に製作されたと推測されています。開帳は毎年三日だけで、一月、五月、それに九月の二十八日。
御堂そのものはいつごろ建てられたものかはっきりしませんが、文政五年(1822年)の再建という説明がありました。
布川不動堂をあとにまた適当に歩いていたら、「しらさぎ団地中央」というバス停が目に入りました。利根川堤下で見たのと同じ大利根交通ですが、行き先が違うし、始発も取手駅ではなく、私が降りた成田線の布佐駅でした。
しらさぎ団地がいかなるところであるのか知るよしもありませんが、なんとなく町の中心を外れてしまっているという気がして振り向いたところ、伽藍の大きな屋根が目に飛び込んできました。運のいいことに、それが目指す曹洞宗の来見寺でありました。
来見寺の赤門と本堂遠望。赤門は宝暦五年(1755年)の再建。
来見寺本堂。
創建は永禄三年(1560年)。布川城主だった豊島頼継が創建したので、当初は頼継寺と呼ばれていましたが、徳川家康が立ち寄って以来、来見寺と名を変えることになったのだそうです。
きっかけは慶長九年(1604年)のこと。鹿島参宮のおり、家康はこの寺を一夜の宿としました。なぜかといえば、来見寺三世の日山という和尚が三河国岡崎生まれで、幼いころから顔見知りであったというのです。
で、自分がきた(来見)からには寺の名も変えてしまえ、ということだったのです。
また布川という地名も家康がくるまでは「府川」と記したのですが、上流に絹川(鬼怒川)があるのだから、という駄洒落のような理由で変えたのだとか……。
赤門や おめずおくせず 時鳥(ほととぎす)
赤門前に建つ一茶の句碑。文化十二年の句。門を赤く塗ることが許されたというのも、家康ゆかりの寺だからこそです。臆す、という言葉が使われているのはそのため。
来見寺を出たところで一人の老人と行き合いました。
布佐の駅を降りてから利根川を渡り、町役場を経てここに到るまで、そもそも人とはほとんどすれ違うことなくきましたが、初めてすれ違ったようなその老人が「こんにちは」と声をかけてくれたので、それに釣られて柳田國男記念公苑はどこかと訊ねてみると、わざわざ角まで戻ってくれて道を指し示し、ものの七~八分のところだと教えてくれました。
途中に布川神社があるので、寄って行くように薦められました。
老人と別れて四分ほどで布川神社の前にさしかかりました。石段はかなり急な上に長いので、鳥居の左にある女坂を上ることにしました。
坂を上り切ったところは小学校の校庭でした。
平日でしたから授業があるはずなのに、いやに静まり返っていて、物音一つしません。校舎をよくよく見ると、人の姿というものがないのです。ちょっとゾクッとするようなものを感じて右手に廻ると、布川神社の社が見えました。
布川神社拝殿。
祭神は久々能智命(くくのちのみこと)と書かれていました。
久々能智命は伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた御子神の一人ですが、「久々」とは茎もしくは木々を意味し、森林業の神とされています。
この神社は寛元年間(1242年-46年)、豊島摂津守が建立したと伝えられていますが、森林とはあまり縁のないような布川になにゆえに森林業の神が祀られたのかは不明です。
誰でもいいから人がいればいいと思うのに、来見寺前で道案内を乞うた老人と別れて以来、人影を見ていません。拝殿の左背後が無人の小学校ということもあり、境内が薄暗いということもあり、なんとなく不気味になったので、そそくさと境内を出てしまいました。
あとで知ったのですが、小学校は別の小学校と統合されて、廃校になった跡でした。
布川神社から四分ほどで柳田國男記念公苑に着きました。
旧小川家跡という標識があるのは、柳田國男の兄・松岡鼎(1860年-1934年)がこの家の離れを借りて医院を開業しており、柳田國男はその兄を頼ってこの地にきたのです。
恐らく建て替えられているのでしょうが、小川家の土蔵の遠望です。
土蔵には柳田國男の好奇心をくすぐる本がたくさんあって、自由に読むことが許されていたのだそうです。「利根川圖志」もこの土蔵で見つけて貪り読んだのでしょう。
とはいうものの、柳田國男がここにやってきて滞在したのは十三歳の年から二年あまり。いまでいえば中学生時代を過ごしたことになります。並の少年であれば遊びたい盛りです。
→この日歩いたところ。布佐駅~利根町~布佐駅。
先日我孫子に所用ができたので行って、所用を済ませたあと、茨城県の利根町というところへ足を延ばしてきました。
利根町が民俗学者の柳田國男の「第二のふるさと」といわれている、ということは前々から知っていたのですが、利根町とはどこにあるのかと思いつつも、地図を見てみることもなく、イメージからして水上のあたり(水上は群馬県ですが)で、遠いところなのだろうと思い込んでいたのでした。
ところが、所用先を確認するために我孫子の地図を開くと、利根川を挟んだところに「利根町」とあったので、ゲゲッ、こんなところだったのかいと思うと同時に、早速足を延ばしたというわけです。
我孫子で成田線に乗り換えて、四つ目の布佐駅で降りました。
我孫子市は先の東日本大震災で大きな被害を受けたと聞いていました。
四月一日付の朝日新聞千葉版によると、我孫子市東端の布佐地区で液状化現象が起き、沈んだり、傾いたりした住宅は約二百戸に上った、とされています。
被害が集中したのは都交差点周辺。利根町へ行くのには逆方向になりますが、布佐駅から近いので寄ってみました。
このあたりは明治時代に利根川の堤が切れて沼となったところで、川砂で埋め立てられたあと、宅地化された地域なのだそうです。液状化したのはそのためかもしれません。
画像の中央を走る国道(356号線)は震災後二週間で仮復旧しましたが、家も電柱も軒並み傾いてしまったのですから、充分に手が回らないのでしょう。まだ傾いたままの電柱や街路灯が残っていました。
利根川堤を上流に向かって遡り、栄橋で利根川を渡ります。栄橋から上流方向を望んでカメラに収めました。この日は少し寄り道をしましたが、真っ直ぐ歩けば布佐駅から橋のたもとまでは約十分。
川はこの付近では両側に迫る台地の間を抜けて行くため、利根川下流に特有の広大な河原もなく、川幅は270メートルしかありません
栄橋を渡り始めると、利根町役場前に立てられたこんな看板が見えてきます。
私は茨城県の地図を持っていないので、手始めに町役場を訪ねることにしました。観光地図のたぐいが手に入れられるだろうと思ったのですが、何十種類というパンフレット類が集められたスタンドには利根町を紹介するものは一つもありませんでした。
辛うじて参考になりそうなのは国土交通省の利根川下流河川事務所が出している「利根川下流を知る」という小冊子だけでした。
利根川を紹介しよう(それも利水治水の観点から)という意図でつくられた冊子ですから、当然のことながら、利根町に関する記述はごくわずかです。私が見たいと考えてきたのは柳田國男の記念館と徳満寺、来見寺という二つのお寺でしたが、載っているのは利根町役場、琴平神社と「利根川圖志」を書いた赤松宗旦の旧居跡、それに柳田國男記念公苑だけです。
町役場はもはや用のないところとなったのだから、どうでもいいけれども、小さな地図がついているだけなので、どこがどこだかまるっきりわかりません。
で、まあ、適当に歩き始めるしかないのです。
町役場のある高台と谷を隔てて鬱蒼と樹の繁る小山がありました。見上げると木々の間に由緒ありげな建物が見えたので、もしかしたら徳満寺か、と思って上り口を捜すと、琴平神社でした。
国交省の冊子によると、この神社に奉納する相撲大会が寛政年間からあり、それを見た小林一茶の句碑が境内にあるというので、石段を上ってみました。
琴平神社拝殿。
ありました。
べったりと 人のなる木や 宮角力
一茶の句碑です。
現在の利根町布川は一茶が俳句を始めたときに師事した今日庵元夢(森田安袋)の生まれ故郷でもあり、俳句仲間でパトロンでもあった古田月船が回船問屋を営んでいた土地でもあるので、四十九回も訪れ、延べ二百八十九日も宿泊したという記録が遺されているそうです。
徳満寺への石段と山門。十三段プラス五十八段の石階があります。
徳満寺の境内は琴平神社と繋がっています。神社から薄暗い径を辿れば、そのままお寺に行くことができたのですが、初めてのところだったので、私なりに礼を尽くすつもりで、山門を捜して上ることとなりました。
真言宗豊山派の寺院。寺伝には元亀年間(1570年-73年)に祐誠上人が中興とあって、創建の年代は明らかではありません。
山門をくぐると正面に客殿があります。
不鮮明な画像ですが、上の客殿廊下に掲げられている「間引絵馬」です。絵馬には、母親が必死の形相で生まれたばかりの子供の口を塞いで殺そうとしている様子が描かれています。水害と天明の飢饉に襲われた農民は子どもを間引きしなければ生きて行けなかったのです。
柳田國男は明治二十年、十三歳のときに布川に身を寄せ、二年あまりを過ごしました。その間に、「間引絵馬」を見たこと、「利根川圖志」を知ったことなど、布川における体験がのちに民俗学を志す原点になったといわれています。
絵馬の見学希望者は庫裡へ、という案内があるので、難なく見ることもできるようでしたが、近づけば硝子窓越しに見ることができたし、堂内では何かの集まりがあって大勢の人がいたので、庫裡へは行きませんでした。
十九夜塔(右)。旧暦十九日の夜は地区の女性たちが集まって、如意輪観音の前で般若心経や和讃を唱える行事がありました。十九夜講とか十九夜様と呼び、茨城や栃木などで盛んに行なわれた行事です。
この十九夜塔は、万治元年(1658年)建立のもので、発見されている中では日本最古のものだそうです。
左は時念仏塔(斎念仏塔とも)で、元禄十四年(1701年)の建立。
本堂の地蔵堂。本尊は木造の地蔵菩薩立像で、高さは7尺3寸(約2・2メートル)。毎年十一月下旬、一週間だけ開帳があります。
段々に 朧よ月よ 籠り堂
地蔵堂左奥、三峯神社を祀る祠の下にも一茶の句碑がありました。文化三年(1806年)一月の句と伝えられています。
徳満寺は元は布川城のあったところです。
野口如月という人が書いた「北相馬郡志」によると、布河(布川)は十三世紀なかばに摂津からきた豊島頼保が開いた土地で、十六世紀の初め、付近の村々を領するようになり、台上に城館をつくって小田原の北条氏に与力した、ということになっています。
豊島氏といえば、東京・練馬の石神井城を本拠とし、いまの豊島区の地名の元となった豊島氏がいます。
この豊島氏は泰経(生没年不詳)の代に太田道灌と戦って敗れ、滅亡しますが、その子だと称する豊島頼継という人物が登場します。
豊島氏の再興を図り、布河豊島氏の祖となったとありますから、どういう経緯で石神井から茨城県へ行くことになったのかはわかりませんが、摂津からきた豊島氏とは無関係ということになってしまいます。
来歴はともかく、豊島頼継という人がいたのは事実で、永禄三年(1560年)、利根町にある頼継寺(現・来見寺)の開基となっている、という記録があるそうですから、来見寺に行けば何かわかったり、閃くようなことがあるかも……。〈つづく〉
亀戸天神前にある老舗葛餅店が春秋の彼岸のころ、紫陽花(アジサイ)のころ、そして紅葉のころ、本土寺の参道入口に臨時の売店を開きます。
買い物帰りに、こんな案内が出されていたのを見たので、もう紫陽花の咲く季節か、と思い、待てよ、二十一日といえば今週ではないか、いくらなんでもまだ咲かぬであろう、と思いました。
本土寺参道に植えられている紫陽花を見ながら帰りましたが、蕾はまだ小さなツブツブができている程度で、とてもあと数日で咲くとは思えません。
しかし、家に帰ったあと、紫陽花の見物客がこないのに店を開くはずはないのだから、咲きそうもないのに、もしかしたら咲くのかもしれないという気になって、流山前ヶ崎のあじさい通りの様子を見に行くことにしました。
我が庵からあじさい通りの入口(北端)までは我が庵のある高台を下り、富士川を渡って前ヶ崎の高台を上って下る。歩けば十分ぐらいです。
私は普通の紫陽花のほかに萼紫陽花や山紫陽花があることぐらいしか知りませんが、蕾を見ながら歩いて行くと、素人目にも一株ずつ違いのあることがわかります。
蕾は随分大きくなってはいますが、やはりあと数日で咲くとは思えません。念のため、二十一日にはあじさい通りへきて、実態を確かめることに致しましょう。
あじさい通りを北から南へ通り抜けて、坂を上るとキウイ畑です。
キウイの花は大部分が散って、形を実に変えつつあります。
絹莢豌豆(キヌサヤエンドウ)の花と実。富士川沿いの畑で見ましたが、絹莢豌豆と空豆は結構いろんなところで栽培されています。
こちらは本土寺近くの畑で見たトマトの花と実。露地でトマトを栽培するのは珍しいようで、いまのところはこの畑で目にするだけです。
とっくに季節は終わったと思っていたのですが……。本土寺近くの竹林で。
庵を出るとき、実に久しぶりにこの猫殿を見かけました。まだ私には親しんでいません。
こちらは親しみ過ぎといわねばならぬほど慣れている小春。
同じ家の飼い猫だと思われますが、いつも家の前にいるのは下のペルシャふう潰れ顔のブサ猫殿だけです。私を見ると、必ずニャーと一声鳴いて近づいてきてくれます。
上の猫殿を見るのはまだ二度目なのに、同僚であるブサ猫殿の友達(私のこと)のようだと親近感を覚えたのか、物怖じせずに近づいてきてくれました。
今朝の散歩時、我が庵から富士川に向かって五分ほど歩いたところのクリーニング店脇で、サイベリアンのような猫殿に出会いました。
今日は夕方近くなってやっと晴れ間が出ましたが、朝のうちは曇。
雨でない限り散歩に出て、この店の前は一日一度は通るのに、初めて見た猫です。
今朝の富士川上空です。
富士川右岸(流山市)の田んぼ。富士山でもあれば逆さ富士……と、なるところですが……。
田んぼはすべて田植えを終えたようです。あちこちで蛙が鳴いています。
上の画像の田んぼの後ろに写っている高台に上った眺め。田んぼの向こうが富士川で、その彼方が本土寺があり、我が庵のある平賀の高台です。
キウイ畑の脇を登校して行く女子中学生。
右手にカーブしながら下り坂になります。この坂道を下り切ったところから流山市前ヶ崎のあじさい通りが始まります。
あじさい通りの紫陽花です。蕾は日増しに成長しています。
前ヶ崎の高台ではジャーマンアイリスを栽培するのがブームでもあるのか、ブルー、黄色、紫と結構いろんなところでお目にかかります。
ここまでが朝の散歩。以下は夕方近く、再度散歩に出たときです。
じゃが芋の花です。
前ヶ崎の香取神社から国道6号線まで、常磐線に沿ってつづく小径。
雨が上がったばかりだったせいか、朝は姿をみせなかったのに、夕方にはきっちりと姿を見せて、相変わらず食欲旺盛な小春です。
我が庵から歩いて十五分ほどのアパートの前です。
小春がいたところからは五分ほど。小春やうさ伎(うさぎ)たちの様子を見に行くついでに、できるだけこのアパートの前も通るように心がけています。
一所懸命に食べてくれるのをうれしいと思いながら見ていたら、もう一匹のマダラ(中央)がひょっこりと出てきたので、少し場所を移して餌を置きました。
上の画像の左と右が早速引っ越してきました。
こちらは我が庵から北小金駅に向かって七分ほど歩いた民家の庭先。
二日に一度ぐらいですが、私が通るたびに見てくれるので、写真を写すことにしました。通る時間によって、小屋に入っていたり、寝そべっていたりしますが、何度かカメラを構えるうち、寝ていても私のほうに向き直ってポーズをとってくれるようになりました。
小屋の中にいるときに通ったりすると、ガチャガチャと鎖の音を立てて、わざわざ出てきてくれます。しかし、まだ尻尾は振りません。
同じ家の庭です。
上の画像のラブ君を望遠で撮影しているときに、バサバサと音がしたと思ったら、左のほうから出てきたのがこのゴールデン君でした。
昨日の午後は胃潰瘍の診察で、以前に入院した病院に行ってきました。電車なら一駅。近いので(といっても二十分かかりますが)歩いて行きました。二種類もらっていた薬が一種類だけになりましたが、近いうちにまた内視鏡を飲まなければなりません。
二週間後は湯島のほうに通院。両方とも木曜日になったのは偶然ですが、しばらくは二つの病院を掛け持ちで通わなくてはなりません。
我が庭を見ていると、いまの時期は植物の成長がことのほか著しいようです。
散策中に見る花々や樹々の様子も、二日か三日に一度ぐらいしか通らないと、すっかり変わってしまっていることがあります。
とくに今日のように雨が降って上がったあとなど、前日まで緑一色でしかなかったところに鮮やかな花が咲いている、ということがよくあります。
我が玄関先に自生している茗荷(ミョウガ)です。
今月初め、一つが芽を出したのを認めたと思ったら、まるで雨後の筍さながらに、次々と芽を出しました。
野の花を眺め、ときどきしゃがみ込んでカメラに収めたりしながら散策しています。
ハルジオンとかヒメジオンとかいう花の名を耳にすることはあっても、どういう花なのか知りませんでした。
音だけで聞いていると、「ハルジョーン」と聞こえる場合もあるので、外来植物で、漢字表記などとは無縁の花だと思い込んでいましたから、「春紫苑」と書くのだと知って、妙に感慨深いものがあります。
マーガレットを小ぶりにして、花弁を糸のように細くしたこの花なら、ずっと名前を知らぬままでしたが、何度も見たことがあります。
これは少し離れた場所。幅50センチもないような小川(用水路か?)のほとりに咲いています。
春紫苑の説明に、ピンク色の花を咲かせる、と記す図鑑もあります。
私が持っている図鑑には「白い花を咲かせる」とあります。なぜ色の異なる花があるのか。どちらかが変種ということになるのでしょうか。
最近名前を知ったシラン(紫蘭)。名前を知ったのに「知らん」とは……。
まだ名前の調べがつかず、不明の白い花です。
非常に小さな花です。咲いているのは我が庵の近辺では一か所だけ。湧き水のあるところで花を咲かせています。
これも一か所だけですが、畑一面に咲いていました。……というところからすると野草ではないのかもしれませんが、これも名は不明です。
浜昼顔(ハマヒルガオ)。
野罌粟(ノゲシ)?
我が庭の摘み菜(ツミナ)の花期は終わりましたが、大根と同じ仲間だと知って以来、大根の花を見てみたいものだと思っていました。
周辺には畑がふんだんにあるので、簡単に見られるものと思っていたのに、意外や意外、大根を栽培する農家がなかったのか、あってもすべからく収穫されてしまうのか、なかなか目にする機会がありませんでした。滅多に通ることのない道を通って見つけました。
キャベツの花。
梨畑にはネットがかけられました。
シラーの花。
地下茎が有毒。ギリシャ語で有害という意味の「skyllo」が語源だそうです。シラーの仲間は百種類ほどあるそうですが、これはシラー・ペルビアナという種。原産地はポルトガルやアルジェリアなど地中海沿岸です。
ときどき訪れる寶蔵院の境内で見つけましたが、寶蔵院は無住の寺です。なにゆえにそんなところにあったのか、謎。
こちらは同じシラーでもカンパニュラータのほう。
冬が舞い戻ってきたか、と思うような日がつづいたあと、昨日は今年初めて真夏日になりました。
昨八日は薬師如来の縁日でもありました。今月は縁日がようやく日曜日と重なったので、柏の布施薬師堂へ行くことに決めていました。
今年一月、布施弁天へ行ったとき、薬師堂があるのを見つけて、いつか縁日の日にお参りにこようと考えていたのですが、柏か北柏からこの薬師堂へ行くバス便は一日五便しかありません。日曜日と重なるのを待ったのは、土日に限ってバス便が一時間に一本と数が増えるからなのです。
北小金から常磐線で三つ目、北柏で電車を降りました。この階段を降りてきて目の前の道路を渡ると、布施弁天行のバス停があります。
終点までは行かず、一つ手前の寺山坂下という停留所で降りました。
バスを降りるとすぐ左手に四つの御堂が見えます。入口に近いほうから不動堂、大師堂、大日堂、そして薬師堂です。
この日、薬師堂は扉が閉じられていました。一月にきたときは扉が開けられていて、暗いので定かではなかったけれども、厨子の中に三体の立像が祀られているのが見えました。
薬師堂の前には香炉がなかったので、扉の開いていた大師堂の香炉に焼香しました。
お寺を巡るときは八十本ほどのお線香を一束にしたものを携帯することにしていますが、うっかりして忘れてしまうのがライターです。煙草を吸っていたときは持つのが当然だったので、持ったかどうか、改めて考えてみることもなかったのですが、煙草をやめたあとは、改めて意識しなければ忘れてしまいます。
それでも、線香は持ったのにライターを忘れるというボケをいつも繰り返し、その都度駅の売店で買う始末です。この日も電車に乗ったときにライターを忘れていることに気づいて、北柏の売店で購入したのです。こうして煙草を吸わないのに、百円ライターが着々と貯まって行きます。
庵には阿弥陀如来が祀ってあって、時に応じて水をお供えし、焼香するので、ライターは必需品ではありますが、着々と貯まって行くと、置き場がありません。
薬師堂から布施弁天東海寺まではほんの二~三分です。
文化九年(1812年)建立の楼門・最勝閣。
開創は弘法大師といわれますから、千二百年も前のことですが、伽藍は戦火に遭ったりして何度も焼けていて、本堂は享保二年(1717年)の再建。
堂内は撮影禁止とありました。その注意書きに気づいたのはこの扁額を写したあとでしたが、この扁額も堂内ということになるのでしょうか。
本堂のある丘と相対峙するような小高い丘(亀山と呼ぶようです)があって、そこには妙見菩薩を祀る妙見堂がありました。
布施弁天のある一帯はあけぼの山農業公園でもあります。一面の菜の花と雛罌粟(ヒナゲシ)の花畑が拡がっています。
蓮池には蓮と睡蓮があるそうですが、画像は両方とも睡蓮。
蓮と睡蓮はよく似ているので、素人にはどっちがどっちだかわかりませんが、見分ける方法はいくつかあるのだそうです。
その一つが葉に切れ込みがあるかないかということ。切れ込みのあるのが睡蓮、ないのが蓮とのことです。よって、これは両方とも睡蓮。花を管理しているおじさんが教えてくれました。
前にきたときには回っていた風車ですが、この日は止まっていました。
利根川の堤防が間近に見えたので上ってみましたが、川はまだまだ先(水辺までは800メートル以上)で、川面を見ることもできません。
真っ直ぐ行ける道もないようだし、帰りのバスの時間も迫っていたので、行くのは断念。
今年の二月なかば、柏市立高校へ行ったときも北柏駅を通ったので、妙蓮寺(日蓮宗)と東陽寺(真言宗)という二つの寺院を巡りました。今回も北柏駅の一つ手前のバス停で降りて、両寺を巡ることにしました。
妙蓮寺に寄ったのは、ただただ無患子(ムクロジ)の樹があるからです。
我が庵近くの民家に植えられている無患子は去年の実をつけたまま若葉を繁らせていますが、こちらはすっかり実を落としていました。
妙蓮寺から東陽寺までは150メートルほど。
北柏駅までほど近いのに、両寺とも所在は我孫子市です。東陽寺にはホームページがありますが、お寺の由来については何も書かれていません。少なくとも明治七年、このお寺を仮校舎として根戸学校が開校しているのですが……。
柏の観光協会が発行している「かしわ観光マップ」の中に「かしわフラワーマップ」という地図があって、市内十五か所+周辺二か所の花のスポットが掲載されています。
我が庵があるのはこのマップの左下・アジサイ(本土寺)とあるあたりです。そこから真横に目を転ずると、東武線の逆井駅近くに観音寺というお寺があります。ボタンの見所とあって、わかりやすい道がほぼ一直線に走っているようでもあり、いかにも簡単に行けそうです。
ボタンの見所は柏市内にはもう二か所 ― 地図の左上のほうに載せられています。船戸の医王寺と大室の吉祥院です。ボタンの季節ではありませんでしたが、私は両方とも参詣しています。
先にボタンを観に行った篠籠田(しこだ)の西光院は、このフラワーマップには載っていません。
西光院には結構な数のボタンがありました。そこを見所として載せずして、観音寺というお寺を載せているからには、西光院を凌駕するだけのボタンの花があるのだろうと思います。
インターネットの地図で最短経路を検索すると、6キロをオーバーする距離でしたが、歩けない距離ではないと考えて、行きだけは歩いて行くことにしました。
我が庵から一時間半かけて到達しました。
わかりやすかった代わり、単調な道で、道の両側にはとくに見るべきものとてなかったのに、不思議なことに疲れたり、脚も痛くなったりせず、一時間半も歩いたという実感のないうちに着いてしまいました。
西光院より少し多いと感じる人出でした。
門は二か所ありました。私はこの門の右にある門から入りましたが、山門があり、その奥に本堂が望めるところを見ると、こちらが正式な山門のようです。
観音寺本堂。創建は文禄四年(1595年)。観音寺という名であるのに、本尊は不動明王です。開山は不明とぞ。
観音寺の風鐸(ふうたく)は飛鳥型の変型です。
西光院より数日遅かったせいか、どの花も少し元気がありません。
私の想像(期待)に反して、花の数も西光院のほうが多いようです。素人目には観音寺をボタンの名所として取り上げるのであれば、当然西光院を取り上げてしかるべし、と思うのではありますが、どうも柏という市がやることは松戸以上にわからないところがあります。
天明二年(1782年)建立の観音堂。
覗こうとしましたが、御堂の中は見えず、お寺のホームページにも記載がないので、どういう観音様が祀られているのか不明です。
境内の各所に石蕗(ツワブキ)がありました。すべて花を咲かせる株であれば、晩秋はかなり壮観な眺めが期待できそうです。
うっかり見逃すところでありましたが、境内の片隅に無患子(ムクロジ)がありました。「ムクロジ」という札が提げられているだけで、樹齢や樹高など何もわかりませんが、幹の太さ、高さから推し量ってみるところ、百年は超えているであろうと思わせます。
北上尾の龍光院、流山の観音寺を手始めとして、これで無患子のある寺院を訪れるのは七つ目となりました。
帰りは東武線の逆井駅から電車に乗るつもりでした。
門前の道をしばし歩くと、高架になっている東武線が見えてきました。逆井駅は東西両側に駅の入口があるので、線路の手前に西口に到る道があると思ったのですが、見逃したものかどうか見当たりませんでした。高架をくぐって歩いて行くと、見覚えのある場所に出ました。
ほぼ一か月前、片栗(カタクリ)の花を観にきたのに、早過ぎてまだ花がなかったので、近くのお寺を巡ることにしようと切り替えて、坂を下って出た場所でした。予期せず片栗の群生地を通ることになりました。無論のことながら、すでに花はありません。
帰り途、本土寺の参道を通ったら、まだ小さいのですが、紫陽花(アジサイ)に蕾が出ていました。
今日は暦の上では立夏。ところが、昨日今日と朝の散歩では手袋がほしいと思うような寒さです。寒いだけではなく、風も強く、陽射しもありません。
家を出るときはとくに寒いとは感じなかったので、Tシャツの上に薄手の春用のセーターを着ただけで出ました。しかし、富士川べりに降りたとたん、五月のそよぐ風、という風流な気分をせせら笑うような、強く冷たい風が吹いていました。
富士川べりの田んぼではすでに田植えが終わっていました。
去年、この地域に田んぼがあるのを初めて知って、稲刈りの様子を見てみたいと思いながら叶わず、田植えを見てみたいと思いながら、それも見逃してしまいました。
田んぼを取り囲む林ではまだ鶯が鳴いています。燕の姿も見かけるようになりました。雲雀(ひばり)の囀りも聴きますが、とにかく寒い。
田んぼの片隅に、植え切れなかったのであろう一塊りの苗が残されていました。この苗はどうなるのでしょう。このまま放置されるのでしょうか。変化があるようなら、おりおり定点観測して行こうと思います。
富士川を越えて右岸の高台に上ると、猫のうさ伎(うさぎ)の棲息する梨畑があります。
梨は花期が終わったと思っていたら、もう直径1センチほどの青い実をつけていました。別の梨畑ではすでにネットが被せられていました。
梨畑の向こうにはキウイ畑があります。
これまでキウイの花は見たことがありませんでした。五月に咲くと聞いていたので、五月に入ってそろそろかと期待しながら見ていましたが、一向に咲きそうな気配がない。五月といっても先は長いのだから……と思っていたら、いっぺんに咲き出しました。
キウイには雄株と雌株があるそうです。
畑の持ち主に聞いたのではなく ― 梨畑では持ち主が手入れしているのは毎日のように見ますが、キウイ畑では人を見たことがありません ― 図鑑で調べたので間違っているかもしれませんが、雄花は蘂(しべ)がグッと固まったようになっている上に花弁が黄色をしています。写真に撮ったのはどうやら雌花のようです。
このキウイ畑の横の坂を下ると流山のあじさい通りです。
花が咲く季節になったら、しばしばその坂を下ることになりますが、まだしばらくはここで引き返して、ムクロジ(無患子)の樹を眺めに行きます。
すっかり葉の出た無患子です。
散歩の途中、ちょくちょく前を通って見かける柴犬と正体不明の猫(飼い猫ですが、首輪はありません)。両方とも爆睡中。家の中ならいざ知らず、戸外で爆睡する猫は初めて見ました。
犬は眠るときはそれこそ正体をなくすほど熟睡するので、人間ほどの睡眠時間を必要としない、と聞いたことがあります。この柴犬は私が通りかかるときは十中八九眠っています。
我が庭ではローマンカモミール(上)とチャイブスの花が咲きました。チャイブスのバックグランドの白い花々はコデマリ(小手毬)。
流山七福神の一つ・弁財天が祀られている成顕寺から大堀川沿いに十五分ほど歩き、新橋という橋で川を離れて、緩い上り坂を上って行くと、前方に交通量の多そうな道路が見えてきました。そろそろ目指す西光院へと曲がる道があるはずだが、と思った路地の入口に案内標識を見つけました。
ははぁ、こういうことなら柏市文化財マップに載っていたなと思ったのですが、あいにくこの日は携帯していませんでした。
路地の入口から山門前まで150メートルほどあります。私が入ったのとは逆方向から向かうのがメインの通路らしく、帰る人やこれから参ろうとする人影の行き来しているのが見えました。
帰ってから調べたのですが、西光院というこのお寺の由来はまったくわかりません。山門脇の石柱によって真言宗豊山派の寺院だと知れるだけです。
山門横に説明板が建てられていたので、万事において説明の行き届かないことの多い柏市にしては珍しやと思って近づいてみたら、篠籠田の三匹獅子舞の説明に終始していて、お寺については何一つ触れられていませんでした。重要なのは獅子舞であって、お寺のことはどうでもいいようなのです。
獅子舞を奉納するというのは利根川流域に数多く見られる風俗で、松戸にも流山にも残っていますが、奉納されるのは大部分が神社であって、寺院というのは珍しいようです。
篠籠田と書いて「しこだ」と読ませるのも、いわく因縁があるように思わせますが、インターネットで調べた限りではどのようないわれなのかわかりません。
角川書店の日本地名大辞典によると、大治五年(1130年)、下総権介だった平経繁という人が伊勢皇太神宮に寄進した土地の南限の地名として「志子田」という名が出てくるのが初めのようですが、志子田がいつごろから篠籠田と転ずるようになったのか、いまのところは何もわかりません。
牡丹(ボタン)の見ごろなので、そこそこに見物客はいるのだろうと想像してきましたが、私の想像を上回るほどの人出でありました。
境内にはたこ焼きと地元産野菜の露店が出ていましたが、私がいた間、営業成績はあまり芳しくなかったようです。
西光院の風鐸(ふうたく)です。先に見た正満寺と同じく、こちらも飛鳥型の変型。
本堂の左手から後ろにかけて墓所と庭園があり、無数の牡丹が咲き誇っていました。
とりあえず花々をカメラに収め、図鑑で名前のわかる花があれば……と思ったのですが、ひと口に牡丹といっても、たとえば福島県にある須賀川牡丹園のホームページを見ただけでも百五十種以上あります。
にわか牡丹評論家の手に負えるものではないので、数多く写したカットの中から、花が瑞々しい上に、カメラのピントがきているものだけを選んで載せることにしました。
牡丹のみならず紫陽花(アジサイ)の花でも著名なスポットだそうです。
本堂裏にはひっそりと佇む大師堂がありました。
日本では牡丹の栽培は八世紀ごろから行なわれていたというのが通説のようですが、弘法大師が中国留学から帰朝するとき(806年)に持ち帰ったという説もあるそうです。
大師堂の後ろも牡丹園で、こちらのほうが広く、花の数も多いのですが、「→大師堂」という標識しかなかったためか、足を延ばす人は数少ないようでした。
西光院を出て、くるときに上ってきた坂を大堀川まで下ります。川を挟んで向こう側に当たる台地を上り詰めたところに聖徳寺がありました。
門柱によって西光院と同じ真言宗豊山派の寺院とわかる以外は何もわかりません。
西光院にせよこの聖徳寺にせよ、歴史がないはずはないので、松戸市内や流山市内であれば、どんなお寺なのか、形ばかりとはいえ、説明板の一枚もあるのですが……。
帰りは再び大堀川沿いの遊歩道を歩き、豊四季駅まで戻って電車に乗りました。
柏市に西光院というお寺があって、どうやらこの連休中が牡丹の花の見ごろらしいと知ったので、訪ねてみることにしました。
地図を見ると、最寄り駅は東武野田線の豊四季(とよしき)ですが、そこから二十分ほども歩かねばならないようです。
豊四季駅なら我が庵から歩けない距離でもないし、一度だけですが、現実に歩いたこともあります。いっそのこと、行きは歩いて行くことにして、帰りは電車、と決めて庵を出ました。
途中まで坂川を遡って行きます。
野々下水辺公園にある坂川の放流口です。我が庵を出てからここまで三十分。
連休中で、まあまあの天気だというのに、公園にはほとんど人影がありませんでした。
坂川の噴き出し口です。印西市付近で取り入れられた利根川の水が延長28・5キロの導水路を通って、ここで再び日の目を見るのです。
我が庵を出てから四十五分で豊四季駅に着きました。改札は線路の向こう側にしかないので、電車に乗るためにはこの自由通路で線路を跨がなければなりません。野田・大宮方面に行きたいときは、改札を入ってもう一度跨線橋で線路を跨がなければなりません。
自由通路を渡って駅前に出ると、家並みの向こうに正満寺のこの大きな甍が見えます。
浄土真宗本願寺派のお寺です。一昨年の十月、諏訪神社を訪ねたときは前を通過しただけだったし、風鐸(ふうたく)が見えたので境内に入らせてもらいました。
正保三年(1646年)の創建。創建の地は江戸とされていますが、江戸のどこであったのかは不明。明治九年にこの地に移転とされていますが、なにゆえに移転したのか、これまたいまのところは不明です。
正満寺の風鐸(ふうたく)。飛鳥型の変型です。
正満寺のあと、成顕寺(じょうけんじ)に寄って行くことにしました。豊四季駅からは歩いて十三分ぐらいです。
去年の十一月、流山七福神巡りをせんものと、このお寺に祀られている弁財天にお参りにきて以来二度目です。日蓮宗のお寺なのに、二度も訪ねようという気にさせるのは参道に趣があるからです。
創建は大同年間(806年-09年)という非常に古いお寺で、当初は真言宗だったと伝えられています。
流山七福神の一つ・弁財天が祀られています。
成顕寺に到る直前に渡った大堀川まで戻り、しばらく川べりの遊歩道を歩きます。この川は行く行くは手賀沼に注ぎます。
このあと、目的の西光院を訪れるのですが、牡丹の花の画像をたくさん添付したい(大層な画像ではないのですが)ので、ブログを二分割して、西光院とそのあとに寄った聖徳寺は明日に廻すことにします。
↓我が庵を出て、羽中橋で富士川を渡るところから、帰りの電車に乗った豊四季駅まで。
http://chizuz.com/map/map89421.html