桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

廣壽寺から前ヶ崎城跡へ

2010年08月30日 11時09分53秒 | のんびり散策

 日曜日は朝の散歩に出なかったので、夕方、少し涼しくなってから散策に出ました。廣壽寺を目指しました。



 庭に植え替えた桔梗殿が思い出したように、一輪ずつ花を開いています。
 その花の蜜を吸いに、シジミ蝶がきていました。桔梗殿は代替わりさせながら二十年も手許に置いていますが、蝶がきたのを見るのは初めてです。
 受粉して種ができるかもしれない。愉しみです。



 台地を下り、台地を上って下り、もう一度台地を上って、廣壽寺の山門まで千六百余歩。
 坂があるので、同じとは感じられませんが、前に勤務していた会社~最寄りの市川大野駅間とほぼ同じ距離です。毎日この距離を通勤していたのか、と思い返すと、ちょっとゲッソリし、二度と歩くことはないのだと思うと、幸せな感じがします。



 山門の
すぐ後ろにあった石蕗(ツワブキ)。



 廣壽寺御本尊の観音菩薩坐像。直接見ることができないので、説明板を撮影。

 廣壽寺のあとは清瀧院へ足を延ばすことにしました。



 廣壽寺と清瀧院の間にあった江戸川八十八か所第五十五番札所。
 祠が建っているだけで、見たところは何も説明がありませんが、木の村・コレクションというホームページの中の「江戸川四國札所」によると、この祠の名称は染谷大師。この近辺には「染谷」という苗字の家がたくさんありますが、それと関係があるのかどうか……。

 前後を挟む五十四番と五十六番、両方とも寶蔵院。これから向かう清瀧院が三十五番。金曜日、坂川を遡ってたどり着いた金乗院(こんじょういん)が四十九番。新松戸の旧庵から一番近かった正福寺が七十四番となっていました。



 畠の真ん中にポツンと建つ清瀧院。
 画像と違って、実際は左右に拡がる畠が視野に入るので、ほんの一瞬だけですが、奈良の西の京から斑鳩にかけての野にいるような気分になります。

 清瀧院の後背地は緩やかに下って谷になっています。川が流れているに違いないと思いましたが、道は清瀧院で行き止まりになっていて、下る道が見当たりません。 



 下る道を捜していたら、大きく迂回させられることになりました。おかげで名都借(なづかり)の香取神社を見つけました。このあたりの神社にしては杜も深く、なかなか荘厳な雰囲気がありました。

 


 香取神社の狛犬。



 すでに色づき始めている柿も見つけることができました。



 清瀧院から徒歩十一分。川があることはありました。しかし、用水路のような川で、橋には名もなく、川の名前もわかりませんでした。

 川を越えると柏市という標示が眼に飛び込んできて、ちょっと意表を突かれたこともあり、どのあたりを歩いているのかわからなくなってしまいました。

 このあたりで庵を出てから六千歩。
 六千歩を超えると脚に疲れを覚えます。一番いいのは歩くだけでなく、もっと総合的な運動をすることだと思いますが、いまのところは歩く以外に方法がありません。もっと歩いて鍛えておかなくては……と思いながら、まだ強い西日を正面から受けて、闇雲に歩きます。

 車が頻繁に通る道が見えてきたと思ったら、見覚えのあるフライイングガーデンの看板が眼に入りました。坂川に架かる富士見橋近くに出たのです。
 方向違いですが、外出ついでに行きたいところがあったので、これ以上足を延ばすのはやめにして、踵を返しました。



 前ヶ崎城跡。一度見ているので、通りがかっても通過していましたが、久しぶりに上ってみました。



 南北350メートルにわたる城郭だったようですが、いま、遺されているのは北端に位置するこの本郭跡だけです。



 土塁跡。土塁を越えると裏口がありました。出た道は寶蔵院につづく高台の道でした。



 再び寶蔵院にきました。前回きたときは早朝です。庫裡の門灯が点いていましたが、人のいる気配は感じられませんでした。まだ日暮れ前で充分に明るいのに門灯は点されたまま。やはり無住の寺のようです。



 寶蔵院前から富士川に下る山道。前回見つけて、恐る恐る下ってみたら、下の道路に出られることがわかりました。



 自宅には寄らず、違う道を通って本土寺の参道に出ました。雨のない日はすでに二週間を超え、十七日連続となりました。参道脇の紫陽花はますます悲惨な状況です。

 行こうと思っていたのは旧小金宿本陣跡です。
 標柱が建てられているだけで、痕跡は何もないとわかっていますが、所在がハッキリと知れず、機会あるごとに捜しながら見つけられなかったのです。
 旧水戸街道に遺されている玉屋という旅籠が本陣跡と思いこんでいる人もいるようですが、明らかに違います。インターネットをさまよっていて、ようやく場所が確認できたのです。



 旧水戸街道から本陣跡に入る路地の入口。入るとすぐ左手にあります。
 私が所在を知った地図と現実とでは入口に当たる店が違っていて、こんな路地を二往復半させられました。



 ようやく見つけました。確かに標柱が建っているだけ。
 説明には代々大塚家が経営に当たっていたとありますが、右に見える玄関には「大塚」さんの表札がありました。



 今週、といっても月が変わってからの週末ですが、土曜日曜と小金宿まつりがあります。本土寺参道にはこの夜から提灯が吊されました。


富士川を歩く(2)

2010年08月27日 21時11分19秒 | のんびり散策

 今朝、富士川のつづきを歩きました。
 朝、七時に庵を出ました。朝のうちはときおり薄日が漏れる程度の、うれしい曇り空でした。曇ってうれしいというのも妙ですが、これもひとえに連日猛暑がつづくせいです。
 アキアカネが舞っているのを見ました。暑いのはイヤですが、かといって秋の気配を感じ取るのは、ようやく……とホッとするのと同時に、一抹の寂しさを伴います。

 不思議なものです。春から暑い季節に移って行くのと、夏から涼しい季節に移って行くのと、同じように一つずつ移って行く季節の移り変わりであるのに……夏に向かうときは感傷的になることなどないのに……。

 

 前回散策を切り上げた羽中橋から下流に向かって富士川河畔を歩きます。

 
 

 今朝もウォーキングをしたり、犬を連れた人がたくさんいました。

 

 寶蔵院や廣壽寺に行くときに上って行く坂道を遠望。短いけれども、結構急坂です。

 

 羽中橋から500メートル。葉ノ木橋です。橋の上から下流を眺めました。

 

 葉ノ木橋から350メートル。富士川3号橋。
 富士川1号橋とは羽中橋、2号橋は葉ノ木橋のこと。富士川に架かる四本の橋のうち、一番交通量の多い橋なのに、3号橋だけ愛称がつけられていません。
 四本の橋があるのに、なにゆえ3号で終わりかというと、実際の最初の橋はもっと上流-平賀川との合流点に架かる仲田橋なのですが、富士川に架かっているのにもかかわらず、平賀川8号橋ということになっているのです。

 

 富士川3号橋から300メートル。富士川と坂川の合流点に架かる御體橋(おたいばし)からの坂川下流方向の眺め。

 

 富士川が坂川に合流するところ。左上方から右に向かって流れ込むのが富士川。ここで富士川は終わりです。
 ここから1キロほどの長さしかありませんが、画像の左に向かって坂川を遡ります。

 

 坂川越しに見る流山免許センター。左に見える台地は戦国期から遺されている前ヶ崎城跡です。

 

 御體橋から600メートル。上流から見た富士見橋。このあたりの坂川は新松戸で見慣れた坂川とよく似ています。

 
 

 富士見橋から370メートル。八木南橋と同橋から眺めた八木川(左)と坂川の合流点。

 坂川の放流口に着きました。前にきたとき(去年の体育の日)はここから滝のように水が流れ落ちていました。
 ここで坂川も終わり。この先は地下の導水管が利根川までつづいています。

 

 野々下水辺公園。
 利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の水の一部がここで地表に出て、せせらぎとなって流れているはずですが……。今日は水が止められていました。
 庵を出てからここまで三十数分。朝の小散策のつもりでしたが、もう少し先まで歩いてみます。

 

 北千葉導水路の導水管を輪切りにしたモニュメント。

 

 野々下水辺公園の少し先。セブンイレブンが見えたので、飲み物を買おうと向かったら、台地の上に寺院を思わせる甍が垣間見えました。
 道を捜して上ってみたら、真言宗豊山派の金乗院というお寺でした。創建は江戸初期という説明書きがあっただけで、詳細は不明。流山・赤城神社の別当だった光明院の末寺です。いつもは無住のようです。

 庵に帰って知るのですが、このあたりまでくると、東武線の豊四季まで徒歩十分ぐらいです。随分遠くまできました。

 
 

 帰りはほんの少し足を延ばして幸田(こうで)湧水に寄りました。
 前に見たときは湧水量が少なかったので、この旱天つづきでは、もしかしたら涸れているのではないかと思いましたが、水位は変わっていないようです。
 本土寺参道の紫陽花など、すっかり萎れて元気をなくしているのに、この付近には地下水脈があるのでしょう。木々の葉はいずれも瑞々しい
のです。母なる大地はすごい。

 

 鶏頭を目にするのは久しぶりです。
 近ごろは朝顔を咲かせる家もなかなか見ないようになりました。私の子供のころは、夏休みというと宿題の定番-観察日記とも結びついて、朝顔だったものですが……。いわんや桔梗をや。

↓前回スタートした根木内歴史公園から今回の金乗院までの航空写真をつけました。
http://chizuz.com/map/map74057.html


富士川を歩く

2010年08月26日 09時51分51秒 | のんびり散策

 三日前のブログに、北小金には焼き立てパンの店がない、と書いたら、そんなことはないというコメントが早速ありました。
 ご教示たまわったパン屋さんは、ほとんど歩かない方向なので知りませんでした。で、昨日の朝、早速視察に行ってきました。

 家を出たのは朝六時半。曇り空で、涼しそうだったので、一か月ぶりに廣徳寺の作務に行こうと、軍手やら携帯用アースノーマットやらを持って出ました。
 当面はこれまで歩いていない道を歩こうと思って、本土寺の参道入口まで出ず、途中の道を適当に右に折れると、教えてもらったパン工房マキノという店の横合いに出ました。本土寺参道と交差している、通称まてばしい通りに面しています。

 六時半という時間は、新松戸でもサフランという店がようやく一軒だけ店を開ける時間ですから、開いているなどとは期待していません。今回は様子だけ確かめて、日を改めて行くつもりでした。

 


 遠目にもテラスがあるのが見えました。正面に廻ろうとすると、「本日は終了しました」という掲示が目に入り、とっさにこれは遅いなと思わせました。開店時間のことです。
 見ると案の定です。開店は九時。「焼き立て天然酵母パン」と店名と並べて標榜しているのに、開店時間が遅い。つまり、一般の勤め人は朝食に焼き立てのパンは食べられないということになるわけです。いまのところ勤めのない私にも九時という時間は遅過ぎます。
 問題は安価で、美味しければよいのですが……。

 写真を撮っているうちに、朝日が顔を覗かせました。まだ七時になっていないのに、かなり強い陽射しです。
 廣徳寺に行くためには、この陽射しを背中にもろに浴びて歩かなければなりません。涼しそうだと思って出てきましたが、一時間後、二時間後の暑さを考えると、脱水症状に見舞われたり、熱中症に罹りかねません。
 作務をしたいとご住職に申し出たとき、私の体調は現在よりよくない状況でしたから、ご住職が心配されたのもそのことでした。私が担当する場所は人の通らないところです。意識を失ってバッタリ……と行っても、気づく人はいない。
 バッタリ行くのは私自身は構わないけれども、お寺に迷惑をかける。作務は回避しておいたほうがよさそうです。

 松戸周辺ではこの十四日から雨がありません。十二日、十三日と雨は降ったものの、それぞれ2ミリ、1ミリ……。お湿りともいえません。
 ちょっとの外出でも汗グッショリになって帰って、洗濯をすれば、ものの数分で乾いてしまう、というのはありがたいことですが、ともかく連日暑いのです。



 真横から眺めた廣徳寺の本堂です。
 ここまでくるのに、心臓に結構堪える上り坂があります。ハァハァと息を整えたつもりでも息が上がっているし、肩から胸のあたりにかけて、早くもジットリと汗ばんでいます。やはり作務は見合わせることにしました。



 帰りは別の道を通ったら、香取神社がありました。

 


 香取神社の狛犬。阿形はスターウォーズのヨーダみたいです。



 小金北市民センターと廣徳寺への二股に建つ青面金剛と聖徳太子講の石柱。ここまで戻ってくると、本土寺の参道は目と鼻の先で、我が庵へも数分。

 お昼前、別の方からもコメントがありました。私がときどき行っていた新松戸のパン・デ・モルデよりマキノのほうが美味しいよ、というようなコメントでした。

 午後、根木内城址(歴史公園)へ散策に出ました。去年のゴールデンウィークに訪ねて以来、二度目です。
 新松戸からやってくるのではちょっとホネがありますが、新しい住居からなら徒歩二十分と軽い散策には最適です。

 


 去年は入口がわからず、ここでいいのだろうかと、半信半疑でこの坂道を上りました。
 確かこんな標識はなかったはずです。「入口がわからん」とブログに書いた(ほかにも書いている人がいました)のが要因で、この標識が建てられたとしたら、我がブログも少しは役に立っていることになります。
 さらに欲をいえば、道路からの入口の標識(画像上)ももっと前のほうがいい。北小金駅のほうから歩いてくると、ここに何かがあると予測して、横を見ながら歩く人でなければ、見過ごしてしまいかねません。



 大手口土塁跡。土橋の左右は空堀になっていて、深さは6メートルあります。
 根木内城は寛正三年(1462年)、高城胤忠(?-1517年)によって築かれたと伝えられています。曾孫の胤吉(?-1565年)が天文六年(1537年)に大谷口城(小金城)を築くまで高城氏の本拠でした。



 土塁を通り抜けると広場。郭跡です。



 根木内城東側の空堀跡。
 空堀ですが、湿地帯になっているので、水堀の役割を果たしたのだろうと思われます。去年はここに水の流れがありましたが、旱天つづきの今年はすっかり乾いてしまっています。



 根木内歴史公園脇を流れる富士川。草が生い茂って水面は見えません。
 あとで訪れますが、この先、平賀川と合流するまでの富士川は上富士川と呼ぶようです。



 県道261号線(旧水戸街道)に架かる根木内城址橋から見下ろした上富士川(下流方向)です。
 源流の一つはここから歩いて行くと三十分以上もかかる大清水湧水ですが、川沿いの道がありません。湧水には水車もあるようなので、日を改めて上流探索ということに……。
 ここから下流に向かって歩きます。

 


 根木内歴史公園の中に架かる霜田橋とそこから見た上富士川(下流方向)。



 国道6号線をガードでくぐった直後 ― 川は左の柵の下を流れています。このあたりでは川幅は数メートルと狭まって、川というより用水路です。



 常磐線をくぐる砂尾ガード。上富士川も暗渠になってこの下を流れています。

 常磐線をくぐり抜けたところで、いったん
川沿いの道はなくなります。



 常磐線の砂尾ガードから迂回して約400メートル。仲田橋の上流で画像右手から流れてくる平賀川と合流。めでたく富士川となりました。

 


 仲田橋から川沿いの道が復活。すぐ先には富士川親水広場(画像下)があります。親水広場とはいっても、見渡したところ水辺には降りられないようです。



 仲田橋からおよそ550メートル。羽中橋まで歩き、上流方向を望みました。
 この羽中橋は寶蔵院や廣壽寺に行くときに渡る橋です。ここから1キロ下流で坂川に合流します。次はこの橋から下流に向かって歩きます。


弘法寺から下総国分寺へ

2010年08月24日 21時45分42秒 | 寺社散策

 今日はハローワークの認定日でした。
 およそ一時間待って無事認定を済ませたあと、また坂川河畔に出て、旧松戸宿をブラブラと流していたら、市川駅へ行くバスがきたので、ついフラフラと乗って……。
 乗ってしまってから、サ~テ、どこへ行くかと自問自答して、市川の弘法寺(ぐほうじ)へ行くことにしました。去年八月三十日に訪ねているので、ちょうど一年ぶりです。
 前回は市川駅から真間の継橋、手児奈霊堂、弘法寺と巡ったあと、バス通り沿いに和洋女子大前を通って里見公園まで歩いていたので、たった二度目でもなんとなく土地勘がありました。今日は真間の継橋まで前回とは逆に歩きます。

 真間山下というバス停で降りると、弘法寺裏から下ってきた道はすぐにわかりました。



 去年、虎千代(私が勝手に命名した野良猫殿の名前です)のいた弘法寺裏の駐車場です。



 虎千代がいなかった代わり、こんなんがいました。
 少し変わった毛並みの野良殿です。濃い灰色にうっすらと紫が入っているような。僧侶の位でいうなら、
紫衣を許されるのは最高位なのですが……。



 建設中の祖師堂です。去年きたときは予定地と示されていただけで、何も建っていませんでした。



 樹齢四百年といわれる枝垂れ桜・伏姫(ふせひめ)桜。



 鐘楼堂。明治二十一年の火災で伽藍のほとんどは喪われましたが、この鐘楼堂は山門とともに焼失を免れました。



 山門(仁王門)。掲げられた「真間山」という扁額は空海の真筆だと伝えられていますが、もしそうだとすれば、国宝ものでありましょう。



 真間寺で 斯う拾ひしよ 散紅葉

 仁王門前にある小林一茶の句碑です。
 寛政十年(1798年)の十月、一茶は馬橋の大川立砂と連れだって真間の手児奈霊堂から弘法寺に紅葉狩りにきています。
 翌十一年、立砂は生涯を終えます。その十三回忌に当たる文化八年(1811年)に再びやってきて詠んだのがこの句です。



 真間の継橋。二度目なので、カメラのシャッターを押しただけ。



 継橋のたもとにある話飲(ワイン)茶屋・つぎはし。
 入ってみたかったのに、前回きたときは台風が近づいていて雨模様だったので、おちおちしてはいられないとパスしましたが、今日は時間は充分にあり。コーヒーを飲みながら、しばし休息。



 手児奈霊堂。ここも二度目なので、カメラのシャッターを押しただけ。

 


 手児奈霊堂から約600メートル。徒歩八分。郭沫若記念公園と記念館。
 郭沫若(1892年-1978年)は1928年、蒋介石に追われて日本に亡命しました。そのとき、居を構えたのが近くにある須和田公園内の家です。老朽化が進んだため、現在の場所に移築修復されました。入館無料。

 市川市内の史跡や文化施設は
曲がり角にくると案内標識があるので、迷うことはありません。



 郭沫若記念館から約500メートル。徒歩七分。かなり急で長い坂を上って下総国分寺に着きました。



 丹色も鮮やかな南大門。
 何度も火災に遭い、宝暦年間(1751年-63年)に再建されましたが、明治二十四年十一月の火災で焼失。昭和五十三年に復元されたものです。

 


 明治の火災のとき、阿形像は火の中から救い出されましたが、痛みが激しく、吽形像は完全に焼失。南大門の再建に合わせてそれぞれ補修復元されたものです。



 新しい本堂ですが、なんとなく天平の香りがします。
 歴史の通は京都より奈良や飛鳥を好むといいます(私がいっているだけかもしれない)。それは天平白鳳の時代が、隠されている混血日本人のDNAを呼び覚まし、落ち著かせるからなのだろうと思います。



 国分寺東門の真ん前にあった寶珠院。



 本堂前には巨大な薬缶がありました。どういういわれかと思いますが、たまたま居合わせたのが工事の人では判明しませんでした。




 寶珠院本堂。



 寶珠院境内の水子地蔵尊。
 私には水子はおりません(と、思います)が、ほどなく生まれるというので、とびっきり素敵な名前を用意していたのに、この世の生を承けられなかった娘がいました。
 生まれて恙なく成長していれば、今年三十八歳。カリスマ主婦といわれるような美人になっていたかもしれない、と親バカチャンリンはいつまでも死んだ子の年を数えるのです。
 供物は、お祭りで売っているアンパンマンのお面やらドラえもんやキティの縫いぐるみやら、夥しい数で、供えた親たちの気持ちを思い遣ると、目がウルウルッときてしまいます。



 寶珠院から約200メートル。徒歩三分。日枝神社があり、隣接して龍樹院がありました。

 


 日枝神社の狛犬。
 目尻の下がった、ちょっと情けなくも、親しみの持てる表情でした。



 龍樹院本堂。すぐ左が日枝神社です。

 龍樹院から約300メートル。徒歩四分で国分というバス停に出ました。今日も猛暑だというのに、まったく日陰のない道です。
 時刻表を見ると、この系統の松戸駅行のバスは一時間に二本。その貴重なバスがなんと四分前に行ったばかり……。なんたるアンラッキー、と思ったら、数分遅れていました。こういうラッキーなこともあるのです。

↓この日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map73798.html


北小金駅南口散策

2010年08月23日 20時59分37秒 | のんびり散策

 今朝は四時半に目を覚ましました。
 廣徳寺へ作務に行こうか、と思いましたが、ここ数日の暑さを振り返ってみると、朝夕は涼しくなったものの、明るくなるとすぐに暑くなる。
 作務に出るのはもう少し涼しくなってから、と思うと、そろそろ一か月以上の空白をつくることになりますが……。
 可燃ごみを出したついでに近隣の散策に出ました。



 常磐線を渡るためには、北小金駅のコンコースを抜けるか、駅の少し東側にあるこの跨線橋を越えなければなりません。
 新松戸の場合も、線路の向こうへ出る道は限られていましたが、向こうへ行く必要はあまりなかったので、特別不便だとは思いませんでした。
 ここでは繁華街が常磐線の向こう側にあるのです。

 


 またハワイ通りを歩きました。先日行った郵便局から100メートルほど歩くと、棕櫚(シュロ)の樹が見えてきました。これがハワイ通りと名づけられた名残です。残されている樹は六本。ここだけ建物がセットバックされ、歩道が幅広くなっています。



 交差する道路の右手坂上に妙典寺という日蓮宗の寺院がありました。本土寺に近いので、本土寺の末寺かと思えば、本寺は中山法華経寺。

 


 本堂正面にある芭蕉の句碑。

 志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈

 芭蕉の年譜を調べると、この句が詠まれたのは貞亨五年(1688年)春、蕉翁四十五歳のとき。
 裏側に何か彫られていますが、植え込みが邪魔をしていたので、よくわかりません。
 碑が建てられたのは文政八年(1825年)三月五日。
句の脇には松朧庵探翠建之と彫られています。
 松朧庵探翠は小金在住の人で、今日庵元夢の弟子。今日庵元夢は小林一茶が俳句の道に入るきっかけをつくった大川立砂の師です。



 妙典寺前にプロテスタントの教会。いま、読んでいる隆慶一郎の「風の呪殺陣」にも、叡山の僧侶と聖母マリアに憧れる美少女との絡みが出てきます。



 妙典寺からは近いので東漸寺に参詣。

 


 仁王門前に黒の野良殿がいました。私が近づくとサッと逃げましたが、腰を下ろしてミオを取り出すと、ちょっとだけ戻ってきて尻尾を振っていました。



 中門を望む参道。佳い雰囲気です。



 本堂前、左手にある観音堂です。聖観音を祀っています。



 本堂前に到ると、ちょうど読経の最中でした。蝉の声が高かったので、はっきりとは聞こえませんでしたが、「ナムアミダーブー、ナムアミダーブー」というのが何度も聞こえたような気がします。阿弥陀経だったのでしょうか。



 竹内兄弟の墓。
 元治元年(1864年)三月、水戸の武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が挙兵しました。小金の郷士だった竹内廉之助、哲次郎兄弟も天狗党に参加しましたが、同年九月、哲次郎は戦死(二十四歳・右の墓)。廉之助は薩摩藩邸の浪士隊(のちの赤報隊)に加わりました。しかし、赤報隊は偽官軍と見なされて、やがて壊滅。このときの戦いで廉之助も戦死(三十一歳・左)。銘を刻んだのは渋沢栄一。



 縄文前期(六千年前)と後期(三千五百年前)の貝塚・境外(けいがい)遺跡と六地蔵。

 
 


 小金道を歩いたときに見つけた鐘楼脇の小径を下りました。びっしりと落ち葉です。熊手でゴッソリとかき集めたくなります。



 小径を下って車の通行量の多い道路を横切り、再び坂道を上ると、八坂神社の前に出ました。
 小金一帯の鎮守で、元はサティがある場所に祀られていましたが、昭和四十七年、市街地再開発に伴って現在地に遷座されました。



 一風変わった手水舎です。真ん中の簾を上げると、柄杓があります。

 


 随分顔のほっそりとした狛犬です。

 


 こちらは拝殿右にあった小社の狛犬。多分昔からある狛犬です。阿吽の配置が一般とは反対。 

 


 北小金駅南口・サティ前の交差点に建つ八坂神社跡地の碑です。
 裏を見ると由来が彫られているようですが、まったく読めません。とりあえず撮影しておいて、あとで拡大、と思ってカメラに収めましたが、うっすらと「天文年間」という字が読みとれる以外、結局読めません。



 南口デッキにある史跡の案内板。旧水戸街道旧屋敷、東漸寺と一緒にマツモトキヨシ発祥地(上から四つ目)も標示されています。うーむ、マツモトキヨシ発祥の地もすでに史跡のうちか。



 北口にある鹿島神社。小さな社で社務所もありません。もちろん無住。



 電車で一駅なのに、北小金が新松戸と違う一つは焼き立てパンを標榜する店のないことです。
 絶無というわけではありませんが、旧宅近くにあったパン・デ・モルデのように、朝早くから店を開け、そこで食べることもできる、というような店はありません。
 鹿島神社の入口に、「あった!」と思ったら、いまは製造とパン教室を開いているだけのようでした。


寶蔵院まで

2010年08月21日 10時50分27秒 | のんびり散策

 転居して初めて朝の散策に出ました。
 まだ部屋の片づけが終わっていません。積んだままだったダンボール箱はかなり空けましたが、これ以上空けても、部屋には収まらないということがはっきりしてきました。あとは厳選に厳選を重ねて、棄てて行くしかありません。

 ここ数日暑かったので、心持ち涼しい感じです。転居したあと、最初に行った寶蔵院というお寺まで行くことにしました。



 松戸市と流山市の境界を流れる富士川です。場所を限定して写真に撮ると、涼しげな清流という感じがします。
 川沿いの道には犬を散歩させる老夫婦、ジョギングする人……。朝、六時を過ぎたばかりでしたが、結構人出がありました。

 そうか、と刺激を受けて、できるだけ早足を心がけて歩き始めましたが、いつの間にか、のったりまったりとした足取りに戻っていました。



 稲穂も色づいてきています。半月前に散策で通りかかったときはまだ水が張ってあって、緑一色でした。



 寶蔵院のある高台です。標高差は10メートルほどですが、まっすぐに上る坂道なので、息が切れそうになります。



 寶蔵院手前に根が剥き出しになった奇っ怪な樹がありました。道は鬱蒼とした木立に囲まれているので、薄暗く、なんの樹だかわかりません。



 我が庵から1キロちょっと。十五分で寶蔵院に到着です。
 境内は蝉の声が聞こえるだけで、静かな佇まいです。ときどき犬を連れた人が門前を通り過ぎて行きますが、境内に入ってくる人はいません。



 前回も見た八十八体の弘法大師像。
 八十八体とは四国八十八か所のこと。それぞれの像の下、長方形をした石には一つ一つ八十八か寺の名が彫られています。



 本堂前に植えられた百日紅(サルスベリ)の樹です。
 六時過ぎという時間はお寺にとっては決して早い時間ではないはず。無住とは思えませんが、お寺に人が住んでいるような気配は感じられませんでした。



 寶蔵院の寺域なのかどうか、微妙なところにあった栗の樹です。栗は……しばらく食べていません。今年は桃も梨も食べませんでした。



 帰りがけ、流山市から松戸市に戻って見た民家の桔梗殿です。まだ蕾もたくさんあって旺盛です。



 寶蔵院の百日紅の種子をいただいてきました。もちろん地面に落ちていたものを……。芽を出してくれるかどうかわかりませんが、鉢に埋めてみようと思います。


本土寺界隈から

2010年08月19日 12時01分21秒 | のんびり散策

 一昨日、パソコンの帰省先から電話がありました。お盆休みが終わって、いよいよ戻ってくるのかと思ったら、戻らないという連絡でした。
 何がどうなっているのやら、私にはまったく理解不能でありましたが、ハードディスクが修理不可能という状態に加えて、CDを読みとるセンサーも不良、モータも不良。そのほかにも、もろもろ不具合があって、修理というより取り替えねばならぬパーツが多過ぎるようなのです。直して直せないということではないが、つまるところ、新しいパソコンを買ったほうが安いのではないか、という宣告の電話だったのです。
 またしてもヤレヤレ、です。当分見づらいノートパソコンで凌ぐしかありません。

 暑いのでやる気が出ないといいながら、転居して半月も経過してしまいました。それなのに段ボール箱の数が減りません。一日じゅう家にいるので、いつでもできると思うせいか、集中力が欠如しています。
 開けるのをあと回しにしている段ボールは部屋の隅へ隅へと追いやられて行くので、必然的に風のこない場所に置かれることになります。そこに坐り込んでいると、何もしなくても、ただ坐っているだけで、見る見る汗が浮かんできます。

 廣徳寺の作務も先月の二十五日に二回目を果たしてから、ひと月近く経とうとしています。於京(おけい)も見ていません。

 市役所へ転居届を出すのも忘れていました。
 市役所支所に転居届を出したあと、郵便局へ……。
 先週、ハローワークで見つけた求人先へ、履歴書に併せて職務経歴書を送る必要があったので、80円切手一枚では料金不足かもしれぬと思ったのと、ゆうちょ銀行の口座の住所変更届を出すためです。



 カンカン照りの日射しの下、車の排気ガスに煽られながら、ハワイ通りと名づけられた道を歩きました。
 誰がなんの意図を持って名づけたのか。昨日のような日は「ハワイ」という字を見るだけで、汗が二倍になるように感じます。
 松戸市のホームページによると、通りの名の由来は、昭和三十七年ごろまでシュロ(棕櫚)の並木があって、南国のおもむきがあったので、ハワイ通りと呼ばれることになった……ということらしい。
 いまは一部だけに棕櫚の並木が残されているようですが、昨日は残されているところまで行きませんでした。

 


 郵便局まで行く途中に、清閑院という和菓子屋がありました。京都南禅寺近くに本店を構える店です。東京にも本店があって、鎌ヶ谷、船橋……と千葉県内には結構出店しているようです。
 下の画像は「朝摘みとまと」。一つ¥241。いまの季節はこんなんが涼しくておいしそうです。お菓子の写真は京都の和菓子☆ドットコムから拝借。

 清閑院という名前は涼しそうですが、つづけて書こうと思いながら、私には荷が勝ち過ぎて中途半端で終わっている清閑寺のブログを思い出してしまいました。



 北小金駅交差点にある「右水戸道中、左なかれ山(流山)へ」の道標。旧水戸街道を挟んで、マツモトキヨシ発祥の地の前にあります。



 本土寺参道の碑。いまは常磐線で分断されてしまっていますが、昔はここから本土寺の参道だったのでしょう。



 北小金駅を通り抜けて、駅から200メートルで参道の入口です。本土寺へはここから500メートル。

 


 お寺に向かって参道の左側。参道を入ると一番最初にある店・さくら茶屋。
 松戸市内八ヶ崎というところにある、びわ亭という料理店の別館です。しゃぶしゃぶと会席料理の店と銘打ってあります。本土寺の法事で利用する人が多いみたいです。 

 


 参道左側。手打ち蕎麦の草木庵。
 蕎麦粉は信州開田高原産を使用。上の画像で真ん中の光っているところがガラス張りになっていて(下の画像では暖簾の左)、店主が蕎麦打ちするのを見ることができます。

 


 参道右側を少し入ったところにある割烹料理店・大門。
 地元の野菜を使った料理が人気のようです。

 


 途中までは両側に遊歩道があります。



 遊歩道にはこんな古株や石などを使った腰掛けがあります。歩き疲れたり、荷物が重いときは、ここに坐って、しばし蝉時雨に打たれながら……。



 参道右側。花屋……かな? と訝りつつ前を通っていました。縁台のようなものがあって、ときおり花が並べられているのを見ることがあるので、花屋だろうと思うのですが、いつも売り切れ寸前に通りがかるからか、二~三人分が残っているだけです。この日も首を傾げながらカメラのシャッターを押しました。
 店の名もありません。店の中には絵や西洋ふうの陶器人形が飾ってありますが、売り物ではないようです。



 去年に較べると、今年の夏は暑いけれども、暑さそのものは例年と変わりがない。特徴は雨が少ないこと。参道脇の紫陽花もこんなふうに萎れかけです。



 参道に入って300メートル足らず、道はYの字型に分かれます。左手の暗がりに向かうのが参道、右に曲がって行く道が私の新しい庵への帰り道です。



 庵には遠回りして帰ることにして、左の道を進みます。
 参道の右側。クリーニング店(手前)と美容室。両店とも夏休み中でした。



 参道の左側。あじさい鍼灸整骨院。
 こちらは営業していましたが、休憩時間中でした。

 


 参道左側。かふぇどえんで。
 Cafe de Endeというアルファベット標記がありましたが、「de」を「ど」(より原語に近く表記すれば「どぅ」と発音するのはイタリア語でもなく、スペイン語でもなく、フランス語だけですが、Endeというフランス語はないので、どういう意味なのか。エンデさんという人でもいたのか。いつも香しい薫りを嗅いでいるだけで、まだ入っていないので、詳細は不明です。



 参道左側。漬物の黒門家。
 新松戸にいたころ、ときたまくることがあっても、開いていたり閉まっていたり。営業しているのか、いないのかわからなかった店。この日は店を開けていました。



 参道左側。漬物の赤門家。
 こちらも私には気まぐれに営業しているように感じられる店。こちらはお休み。



 仁王門前に着きました。


栃木・蔵の街探訪記(2)

2010年08月16日 15時43分58秒 | 歴史



 八重葎の庭に移し替えた桔梗が一輪だけ開花しました。買ってきたとき(四月四日)の花が終わったあと、七月十八日につづく第三陣です。

 さて、蔵の街・栃木市探訪の〈つづき〉です。

 内陸にありながら栃木が栄えたのは、巴波(うずま)川を利した水運で、直接江戸と繋がっていたからです。同時に、日光例幣使街道の宿場町でもありました。
 この街道は中仙道の倉賀野宿(群馬県高崎市)から日光西街道の楡木宿(栃木県鹿沼市)までを結ぶ街道で、間には十四宿あり、栃木宿は十二番目の宿に当たります。

 


 蔵の街大通りは拡幅されて車の通行量も多いので、旧街道の面影はまったくありませんが、万町交番のある交差点を鍵型に曲がると、クネクネと曲がる道が北に延びています。



 二階にバルコンのついた舘野家店舗。
 いつごろ建てられたものか、何を売っていた店なのか、史料がないのでわかりませんが、石岡で見たような看板建築です。



 雰囲気のある理髪店。
 栃木では一番古い理髪店だそうですが、すでに閉鎖されています。店内には当時の理髪用具が保存、展示されていて、見学できるようですが、この日は開いていませんでした。

 

 岡田記念館。
 栃木市内屈指の旧家・岡田嘉右衛門邸です。江戸時代初期、この地に移住して荒れ地を開墾し、徳川家康じきじきに嘉右衛門新田村という名を賜り、いまでも町名は嘉右衛門町。



 畠山陣屋跡石碑。
 元禄元年(1688年)、奥高家・畠山家は都賀郡内に拝領した一千石の領地を管轄するために、岡田邸内に陣屋を構えました。岡田家当主が代官を兼ねました。

 


 翁島。
 大正時代に建てられた岡田家の別邸です。釘は一本も使われていないそうです。杉、檜、欅などの銘木が用いられ、とくに廊下には長さ六間半、幅三尺、厚さ一寸という欅の一枚板が使われています。

 


 翁島から巴波川に沿って下って行くと、薄緑色の洋館が見えてきました。栃木市役所別館です。
 栃木町(当時)は明治二十六年まで栃木県の県庁所在地でした。その跡地に建てられた(大正十年)町役場です。建物の周囲には県庁堀と呼ばれる堀が巡らされおり、巴波川から舟で乗り入れることができました。



 このあたりを入舟町といいます。町名は舟が入ってきたという名残でしょう。次の横山郷土館の荷揚げ場であったようです。

 


 横山郷土館。
 明治期の豪商の建物。両袖切妻造りといって、中央の建物(画像下)を挟んで、左右に切妻造りの石蔵があります。右半分は麻問屋、左半分は共立銀行の店舗に使われました。



 塚田歴史伝説館。
 江戸末期創業の木材回漕問屋で、ここから江戸の木場まで木材を運んでいました。八棟の白壁土蔵を遺しています。



 蔵のまち直売所。



 右から人形店、不明、紙店。

 まあ、確かに蔵のいっぱいある街でした。博物館や美術館のようになっているところもいっぱいありましたが、一つ一つ見て行くには時間が足りなかったし、入館料としておおむね五百円~七百円見当が入り用と、全部見た日には出費も莫迦にならない。
 私が写真を撮ったところだけでも、あだち好古館、山本有三ふるさと記念館、蔵の街美術館、岡田記念館、横山郷土館、塚田歴史伝承館の六館がそのたぐい。



 カフェなずな ― 。
 蔵の街大通りに出て、駅へ戻ろうと歩いていたら、こんなカフェが目に入りました。
 なずなは春の七草の一つですから、食べ物屋や喫茶店にこのような名がついていてもとくに感ずるところはなかったかもしれませんが、店名に加えて猫のシルエットがあったので、感ずるところがあってカメラに収めました。

 去年、であったか、今年になってからか。
 通りすがりのどこかで棲息する野良の仔猫殿に「なずな」という名前をつけた憶えがあります。が……ハテ、どこだったか? と思い出そうとしても思い出せない。
 市川大野のオフグ、フキ、ツワノを初めとして、新松戸の於京(おけい)まで、野良の猫殿に滅多矢鱈に名前をつけるので、いつも見る機会のあった猫殿たちは姿と名前が一致しますが、「なずな」とはどこの誰であったやら、記憶は茫漠としておりますが、こういう名をつけた憶えがあります。

 足早の探訪でありましたが、グルッと一巡りして、栃木駅に戻るまでにふと懐いた感想……。

 この街は「小京都」とも「小江戸」ともいわれています。
 いわれています、というより、そう呼んでほしいと思っているのです。
 しかし、人間に喩えるなら、有名な誰かに似ている、といわれて真底うれしいのだろうか? と、私は思います。
 若いうちなら、美人女優や美男俳優に似ているのはうれしいかもしれないし、得をすることもあるかもしれない。けれども、いつも有名な誰かに似ている、といわれつづけることは、アイデンティティがない、ということではないか。

 小京都とも小江戸とも呼んでほしがっているこの街で生まれた、山本有三の「路傍の石」に次の有名な言葉があります。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を……」

 蔵のあることが、たとえば江戸の蔵前あたりと似ているので、「小江戸」というのであれば、それは全然違う。歴史を感じさせる巴波川が、京都の鴨川を思い起こさせるので、「小京都」と呼んでほしい、というのであれば、これも全然違う。
 よそ者だから思うのかもしれません。私は栃木は栃木であり、小さな京都でも、小さな江戸でもない、と思うのですが、どうでしょうか?

 帰りは東武線で新越谷へ出て、武蔵野線に乗り換え、南越谷~新松戸~北小金と乗り継いで帰ってきました。
 武蔵野線の南越谷~越谷レイクタウンの間で夕暮れの富士山を見ることができました。夏に見えるのは非常に珍しいことです。


栃木・蔵の街探訪記(1)

2010年08月13日 10時19分18秒 | 歴史

 パソコン(デスクトップ)がひと足早く夏休みに入ってしまいました。
 九日の月曜日、郷里(メーカーの修理部門)に向かって出発。命の洗濯をして、帰ってくるのは来週なかばになりそうです。
 で、ほとんど壊れかけたノートブックパソコンを引っ張り出しました。しばらくお蔵入りさせておいた間に、液晶画面がめっきり薄くなり、動作も鈍くなったようです。四苦八苦しながらブログの更新に挑んでいます。

 昨日、四週間ぶりの通院でした。八時に病院に着くように、またラッシュアワーの電車に乗りました。新松戸から北小金に転居して、東京方面へは一つ駅が遠くなっただけですが、武蔵野線への乗り換え駅で、そこそこ乗り降りの烈しい新松戸の手前で乗ることになるので、シルバーシートに坐ることができました。早速「隆慶一郎全集」を開いて読書。

 八時。到着して診察カードを出すと、すぐ採血室へ。
 採血をする技師(♂)は結構歳が行っていて(といっても、私よりは若い)、昔、引っ越しのサカイのTVCMで「ベンキョーしまぁっせ、引っ越しのゥ……」とやっていた俳優にどことなく似ています。
 もう三~四回目になるので、私には毎度お馴染みの人ですが、向こうは毎日何十人という人に対処しなければならないからか、血管だけを見て人の顔を見ている暇がないのか、私の腕にゴム管を巻きつけ、アルコール消毒をしながら、「アレルギーはありませんか。少しチクッとします」と同じことをいっています。
 採血そのものは五分程度で終わります。

 診察は九時からで、いつもならそれまでの一時間を潰すのが苦痛なのですが、本を持っていたので、あっという間に診察の時間がきたという感じでした。

 松戸市役所の直前にある、さして急でもない坂を上ったり、跨線橋の階段を上るときなど、まだ息が切れるような感じがあって、体調は十全ではないと思わせますが、五月、六月の相当ひどかったころと較べれば、身も心も天と地ほどに違って軽やかになりました。しかし、数値のほうは先月とほとんど変わりがない。

 で、また同じ薬をひと月分。
 処方箋が出てくるまでの三十分ほど、それをもらって薬局に行き、薬が用意されるまでのまた三十分ほど。二か月前に偶然会って、家の近くまで車に乗せてもらうことになったYさんを捜しましたが、いないようでした。

 先月は病院を出たあと、急に遠くへ行きたい、という思いに駆られて、茨城県の石岡まで行きましたが、今日は最初から遠くへ行こうと思っていました。前回は手提げ袋いっぱいの薬に閉口したのに懲りて、リュックザックを持ってきています。

 また不忍池畔を通って、上野駅には十一時前に着きました。朝、食べていなかったので、コーヒー屋に入って、種類の違うホットドッグを二本、アイスティ(大)にたっぷりのミルクを入れて、昼食も兼ねました。

 栃木県南の栃木市に江戸時代の土蔵がたくさん遺されている一画があると知ったので、そこを訪ねるつもりです。
 上野発十二時六分の宇都宮行に乗って、栗橋着はちょうど一時間後の十三時六分。ここで東武線に乗り換えました。
 ところが間合いの悪いことに、栃木へ行く電車は六分前に出たばかり。次の電車まで四十四分も待つ、という幸先の悪さです。待っている間に上野からくる電車は四本もありました。



 栃木駅着は十四時十九分。



 市の中心部を貫流する巴波(うずま)川。渡良瀬川に合流し、利根川に合流して太平洋に注ぎます。
 橋の上から見ただけですが、かなり澄んでいて、川底がハッキリと見えました。市内流域では到るところに錦鯉が棲息し、その数数万匹といわれます。

 天台宗定願寺。
 駅でもらったパンフレットでは、駅から一番近いところにあった卍の印だったので寄ってみました。創建の地は現在の大平町。天正年間(1573年-92年)、現在地に移転。



 真言宗満福寺。
 弘長二年(1262年)、大平山麓に創建。やはり天正年間、現在地に移されたといわれています。

 

 近龍寺。
 山号を三級山といいます。三級とは、三段になった高い滝のことで、それを上り切った鯉は龍になるという「登龍門」の言い伝えに因んでいます。
 創建は応永二十八年(1421年)。天正十六年(1588年)に現在地に移されました。山本有三のお墓があります(画像下)。山本有三は私と誕生日が一緒。

 あだち好古館。
 江戸末期から呉服問屋を営んでいた安達幸七が集めた浮世絵や古美術品があります。

 あだち好古館入口に接してある好古壱番館。
 そばもあり、焼きそばもあり。コーヒーもあります。
 栃木の焼きそばはじゃが芋入りが定番。じゃが芋好きの私としては是非とも味見をしたいところでしたが、上野でホットドッグを二本も食べていたので、残念ながらパスすることに……。

 蔵の街美術館。
 善野(ぜんの)家という江戸時代の豪商の蔵を改造した建物です。
 画像手前から西蔵、中蔵、東蔵。別名おたすけ蔵。江戸時代末期、困窮した人々を救うため、蔵にあった銭や米を供出したことに由来します。
 建築年代は文化年間(1804年-18年)初期から天保十一年(1840年)にかけて。蔵の街に現存する土蔵の中でも最古の建築物だそうです。

 栃木は蔵の街としてだけでなく、鯉が泳ぐ街としても著名なのだそうです。

 丸三家具店。

 焼きそばとハヤシライスとコーヒーの店。
 この店の焼きそばはニンニク入りのようです。栃木の人は一軒でいろんなものを食べさせる店が好きらしい。

 阿部呉服店。

 

 山本有三ふるさと記念館。
 記念館の隣が山本有三の生家(呉服店)跡です。

 古久磯(こくいそ)提灯店見世蔵。
 梁の墨書から弘化二年(1845年)の上棟であることがわかっています。いまは別のところで営業しているようです。

 下野新聞栃木支局。
 肥料と麻芋の豪商だった毛塚家の蔵屋敷を修復したもの。建築は文久元年(1861年)。

 

 万町という交差点にある交番も蔵の街を意識したつくりになっています。自販機もこんな感じ。かなり意思統一されています。
 駅前からつづく蔵の街大通りもこのあたりで終点です。〈つづく〉


松戸宿坂川献灯まつり

2010年08月09日 21時49分10秒 | 風物詩

 ハローワークには最低月に(正しくは四週間)二回行って就職活動に意欲あるところを見せなければいけないので、今日、ノルマを果たしに行ってきました。
 事前にインターネットで検索しましたが、例によって私が希望する職種では求人なし。
 私が着いたときには二十四人が相談待ちという状況だったので、二時間は待たなければいけないと覚悟して、いったん外に出ました。

 すぐ近くを流れる坂川では今日から明日にかけて松戸宿坂川献灯まつりが開かれていました。



 献灯というからには、暗くなってからが本番です。仮設舞台では何かの演目のリハーサル中でした。



 普段は参拝する人もあまり見かけない松戸神社ですが、今日に限って、数は少ないながらも参拝客が絶えませんでした。



 松戸神社からほんの少し坂川沿いを下ったところにある松龍寺では献灯まつりに合わせて、松戸四万六千日の「とうもろこし市」が立っていました。

 四万六千日といえば、なんといっても、かつて私が棲んでいた浅草・浅草寺のほおずき市が有名です。
 ほおずきと同じように、とうもろこしも赤く(昔のとうもろこしは赤かったのだそうです)種が多いことから、子宝に恵まれるようにと願う風習ですが、いまの時代、子宝に恵まれることがよいのかどうか……。



 松龍寺門前に並ぶ屋台です。



 とうもろこし市と謳っているのに、焼き鳥屋ばかりが目立って、とうもろこしを売っていた屋台はこの一軒だけでした。



 松龍寺境内。暗くなるとこの燭台に灯が入れられます。
 昔々光源氏というグループがローラースケートで、こんなような照明の間を縫って、踊り、歌っていたのを思い出しました。





 まだそぞろ歩く人はチラホラです。



 土手の柵にも燭台がズラリ。



 川べりにも燭台。

 


 まだ明るいのに、早くも酔っ払いが出たのか、と思いきや、川を清掃している人でありました。

 我がカメラで撮影可能かどうかは別として、本来なら燭台に灯が入る刻限まで待って撮影すべきだったのですが、今日は暗くなるまで待てない事情がありました。夕方、火災保険の契約で我が家を訪れる人があったのです。

 ハローワークでは職業相談のついでに転居の届け出を済ませました。
 そのときの雑談が弾んで、「北小金には本屋がない」という話をしたら、担当者が「どうせなら一駅先の南柏まで引っ越されればよかったですね」という。なんとなれば、南柏在住の人で、駅南口には結構大きな書店がある、ということでした。

 暗くならないうちに帰らなければならないが、南柏まで書店を探索に行く程度の時間はありました。
 南柏は北小金の隣、新松戸からは二駅と近いのに、書店があったとは知らなかったので、南柏で降りるのは初めてです。

 献灯まつりの本番を見ずして行った甲斐はありました。北小金はもちろん新松戸にもないほどのスペースを持った書店がありました。
 没後二十年を記念して、フランス装の新装版が刊行された「隆慶一郎全集」が揃っていて、第八巻を買うことができました。

 この巻には昭和六十一年後半、「問題小説」という雑誌に連載された「風の呪殺陣」が収録されています。比叡山を焼き討ちした仏敵信長を呪い殺そうとする叡山の僧(厳密にいうと、人を殺そうと思った時点で僧としての資質を喪っているので、僧とはいえない)を描いた小説です。
 信長の命令であったとはいえ、明智光秀公は叡山に実際に火をかけた張本人です。呪いをかけられ、亡者に怯える形で登場します。



 南柏は大きな書店があるという以外にも、北小金より新松戸よりはるかに都会でした。百円ショップのダイソーが二店舗もある、というのも愉しい。
 買い物はしなくても覗いてみるたびに、こんなものも百円でできるようになったのだ、と感心するものがふえて行くのを見つけるのは愉しいものです。

 大阪王将もありました。私はここの餃子が大好きなのに、近場では本八幡の店しか知りませんでした。市川市民であったころはたまに味わうこともできましたが、松戸の住民となってからは行けなくなりました。
 ただ今日は待ち人があったので、せっかく見つけたのに、味を愉しんでいる時間がありませんでした。



 確かに南柏で降りたのは初めてでしたが、北口に廻り、魚一商店(黄色の看板)というこの店を見て、初めてきた駅ではないと気がつきました。
 去年の十月、豊四季の諏訪神社という源義家公ゆかりの神社を訪ねたあと、前ヶ崎城址まで歩こうと思っていながら道に迷い、ヘトヘトになって辿り着いたのがこの駅だったのです。

 実際は歩き疲れたのが原因でヘトヘトになったのではありませんでした。それから一か月後、私は胃潰瘍が原因の多量の出血をみて、入院を余儀なくされたのでした。


八重葎の里から

2010年08月06日 21時41分45秒 | のんびり散策

 狭いながらも前後を庭に挟まれた我が新居。
 裏手だけ草刈りをしましたが、きた早々は草ぼうぼうだったので、八重葎(ヤエムグラ)の里と名づけました。

 一方、部屋の中は片づかない ― 正しくは、暑いので片づけようという気が起きない ― ので、片づけは放っておいて、近隣の散策に出ました。陽射しは強いけれども、段ボール箱の山に囲まれて、身動きの取れない家にいるよりは外に出たほうがマシです。



 我が庵を出て五分も歩くと、高台が切れて、道は富士川に向けて下って行きます。
 画像手前が下流。やがて私には馴染み深い坂川に合流して東京湾に注ぎます。この川を渡ると(画像では左側)流山市です。



 狭い谷ですが、あたり一面は稲田です。このあたりまで、歩いて十分ぐらい。
 秋の稲刈りと来春の田植えを見てみたい。



 こんな標識を目にすると、つくづく田舎にきたもんだと思います。



 徒歩十五分で寶蔵院というお寺に着きました。我が新居とは富士川を挟んで反対側の高台にあります。
 真言宗豊山派のお寺ですが、創建年代ははっきりしていないそうです。本堂の右手前は百日紅(サルスベリ)の樹で流山市の保護樹木。



 寶蔵院の本堂裏手。八十八体あるという弘法大師像。



 さらに歩みを進めて、寶蔵院のある台地を下り切ると、流山市立東部中学校前に出ました。名都借(なづかり)谷津と呼ばれる谷で、かつては川が流れていたのでしょうが、いまはわりと交通量の多い道路に変わっています。
 その道路を渡ると、道は緩い上り坂になり、左手に標高20メートルほどの大井戸根と呼ばれる台地が迫ってきます。戦国期までは名都借城のあった跡で、いまは廣壽寺というお寺があります。

 名都借城の築城年代および築城者について正確な記録はないようですが、大永七年(1527年)、古河公方・足利高基が小弓(おゆみ)公方・足利義明方に属していた名都借要害を攻めさせた、と記録にあります。
 このとき、高基が戦功を賞した感状が遺されているので、常識的には名都借城は高基側に下ったと考えられるところですが、その一方、大谷口城と名都借城は相反目していたという言い伝えも遺っているそうです。

 文亀三年(1503年)、足利義明を擁する武田信保に小弓城(千葉市中央区)を攻められ、高城胤吉は根木内に逃れます。ここで体勢を立て直し、大谷口(小金)城の築城に着手しますが、城が完成するのは名都借要害攻めより十年もあとの天文六年(1537年)です。言い伝えが確かなものだとすると、翌天文七年の国府台合戦で義明が討ち死にするまで、名都借城には義明方の誰かがいたのかもしれません。



 畑に分け入って急坂を上ると、廣壽寺の山門です。
 永禄五年(1562年)創建の曹洞宗の寺院です。開基は高城胤辰(1537年-83年)。嫡子・胤則(1571年-1603年)が開基という説もありますが、永禄五年の創建が正しければ、胤則が開基ということはあり得ません。



 この中に本尊の厄除け観音が祀られていますが、かすかに覗き見られるだけで、写真は撮れませんでした。



 これが名都借城の土塁跡らしい。



 廣壽寺から八分で清瀧院(せいりゅういん)に着きました。
 畑の中にスクッと建っているので、斑鳩の里を歩いているのかと錯覚を起こしかけました。ここも真言宗豊山派の寺院です。江戸時代は末寺五十三寺を擁する大伽藍だったようです。

 


 身丈2メートル20センチの金剛力士像。江戸末期の作と伝えられています。
 かつては仁王門があったそうですが、いまは御堂の中に……。辛うじてカメラのレンズだけが突っ込める隙間を利して撮影したので、阿吽同じようなバランスで、とはいきません。



 清瀧院に祀られている流山七福神の一つ寿老人。



 境内にある、樹齢四百年以上といわれる枝垂れ桜。樹高は10メートル。



 清瀧院から約十分。前(去年十月十二日)も訪ねた前ヶ崎城趾公園前に出ました。
 名都借城からは直線距離だとわずか700メートル、ゆっくり歩いても十数分しか離れていません。ともに大谷口城の支城だったとすると、あまりにも近過ぎるのではないかと思われます。やはり名都借城は一時期大谷口城と対立関係にあり、大谷口城の支配を受けるようになってからも、なんらかの利用価値があったので、そのまま遺された、と考えるべきでしょうか。

 


 我が庵の周辺には畑がいっぱいあり、ところどころにこんな無人の野菜即売所があります。
 流通経路を省いているので、一見安いと考えがちですが、中には??と首を傾げたくなるものも、なきにしもあらず、です。



 本土寺参道近く。農家の門先。
 周辺をすべからく観察したわけではありませんが、価格はここが一番安いみたいでした。

 


 本土寺の仁王門前。赤門家、黒門家と並ぶ漬物屋さんのうち、赤門家の店先にも野菜が置いてありました。
 左隅にあったトマトのうち、一番青っぽいのを買いました。三つで¥200也。



 本土寺山門です。
 新松戸に棲んでいたときから何度か訪れていますが、引っ越し後は初めてきました。毎朝毎夕、ここで鳴らされる梵鐘の音を聴いてしんみりとしています。

※後記。本土寺では鐘を撞きません。私が聴いていた鐘の音は東漸寺という別のお寺のものでした


転居とムクロジ(無患子)

2010年08月04日 14時46分22秒 | つぶやき

 七月三十一日に転居しましたが、折からの暑さに加え、荷物の多さにうんざりして、ほとんど何もしないまま、気がつけば早くも四日が経ってしまっています。

 二年半前の転居時とは違って、今度は勤めを持たないだけに、段ボール詰めにも余裕があるわい、とタカをくくっていたのですが、結局は同じ。
 当日は四時半に目が覚めてしまったので、いくらなんでも運送屋さんがくる八時には悠々間に合うと思ったのですが、八時直前になってもまだ詰め終わっていませんでした。
 すぐ必要になるもの-たとえば炊飯器、食器類、印鑑、パソコンや電話機のケーブル類-はひとまとめにして、運び終わったあとでもすぐわかるようにしておくつもりでいたのに、ドサクサに紛れて、どの段ボールに詰めたのかわからなくなってしまいました。

 おまけに段ボール箱の総数が五十箱をくだらないという多さ。
 部屋数は前と較べて一つ減っただけですが、一部屋の間取りがそれぞれ狭くなったので、広さは半分程度になってしまっています。
 それでも、なぜか二つずつあって使わないまま、後生大事に持っていた洗濯機、同冷蔵庫、同電子レンジ、同プリンタなど、結構場所をとる上に、重ねて置けないものを処分したので、狭くなってもなんとかなるだろうと思っていたのですが、いざ段ボールを積み上げて行くと、足の踏み場もないという有様です。

 運送屋さん四人は若い人ばかりでしたが、さすがに場数を踏んだプロでした。荷物を運び入れる前に部屋を見渡して、
「お客さん、どうします? 段ボールを積んじゃっていいんですか?」
 その時点では、私には何を意図して訊いているのかわからなかったので、
「構わず積んでください」
 と、あとで考えると、ノー天気な返辞……。
 終わってわかりました。
 段ボール箱を四段ずつ積んで三部屋いっぱいに収まりましたが、玄関から裏庭に面した窓際まで、身体を横にして通れるスペースが一筋空いているだけでした。 

 引っ越し当日はなんとか横になって眠る場所だけ。二日目はパソコンを置く場所をつくっただけ。
 三日目の昨日は電話工事があったので、とりあえず工事の人が歩くのに支障がない程度に荷物を動かしただけ。
 そして今日はとくに予定はないし、昨日以上に暑いので、溜め息をつきながら坐っているだけ、と……いつになったら片づくかと、なかば呆然としたまま過ごしています。



 引っ越し準備で大わらわだった七月三十日。
 ベランダに置いていた荷物が片づいたので、植木鉢を移動させながら掃除をしようと思って、ムクロジ(無患子)が芽吹いているのに気づきました。
 気づいた瞬間、思わず「おッ」と声を上げていました。いつ芽を出したのか、まったく気づかぬうちに、すでに5センチほどの高さに伸びていました。

 三百年前から繋がっている命がいま、私の目の前にある。そう思うと、ちょっとした感動に身体が震えるようです。

 埼玉県・北上尾の龍山院というお寺へ、樹齢三百年といわれる無患子を見に行き、種を拾ってきたのは約四か月前、三月二十八日のことでした。
 二つ拾いましたが、そのうちの一つはなかば土に埋もれていたので、その日のうちに植木鉢に埋めました。
「ここは、いつの日になるかわからぬが、無患子殿が芽を出すところであるぞよ」というので、斧を持ったサンタクロースのフィギュア(添付の画像では、無患子の向こうに隠れています)を目印に置きました。

 私が参加しているサイトでメールのやりとりをしているご婦人が、京都・永観堂でもらってきた紅葉の種が芽を出した、と公開日記に書いていたのは四月なかばのことでした。
 種を土中に埋めてから芽を出すまで、な~んと一年数か月と書かれていたので、草花とは違って、樹木というものは芽を出すのも悠長なのだと思い、我が無患子殿が芽を出すとしても当分先のこと、むしろ期待しないほうがいいと考えていたのでした。



 新居-とは名ばかりのボロアパートですが、利点の一つは家の裏に七坪ほどの広さの庭があることです。
 自由に動き回れない部屋の中とは違うので……肝心な荷ほどきは二の次にして、ザッと草刈りを致しました。

 借地でありますから、何もかも勝手気ままに、とは参らぬのでしょうが、ある程度の勝手なら許されるのではないかと思い、早速裏庭にツワブキ(石蕗)を植え替えました。左下の陰になっているところです。
 ベランダ園芸用の小さなスコップしかないので、わずか植木鉢程度の深さの土を掘るのが結構重労働でした。
 なんでもないような更地ですが、少し掘ると小石に当たり、何かの植物の地下茎が縦横無尽に走っていて、スコップを力任せに当ててもなかなか切れなかったりするので、結構難渋します。

 まあ、時間だけはたっぷりあることでもあり、周辺は畑が多いので、そのうち農家の人と友誼を深めて、鍬などを借りるということも夢ではない。そうなったら、一画は桔梗畑にしようかとも考えています。



 表。玄関のドアの前にも二
坪ほどの庭があります。前の住人が植えたものか、ミョウガ(茗荷)が育っています。こちらはどうするか、まだ思案中です。

 狭いながらも二面も庭があるのは今後の生活に愉しみを懐かせますが、立地上不便なのは、いまどきどこにでもあるようなコンビニが十分近く歩かないとないことです。
 スーパーも遠い、銀行も遠い、郵便局も遠い。本屋は……ない。
(北小金駅南口・サティの入っているビルの五階に本屋はありました。ただし、私が書店を本屋か雑誌屋か、と区別しているうちの雑誌屋のほうであります:八月十日記)
 飲み屋らしき店もスーパーの近くに一軒だけ。
 ただし、この手の店は身体を悪くしてから行っていないし、行きたいとも思わないので、不便という範疇には入りません。
 近いのは本土寺というアジサイ(紫陽花)と紅葉で有名なお寺だけ。



 どこかに出かけるときは本土寺の参道を通ります。いまの季節は別世界を思わせるような涼しさです。