今日は最低気温が14・7度と、今月になって初めて二桁に到達、最高気温も22・6度と今年一番の暖かさでした。天気もほぼ終日晴。
ミズキ(水木)の花です。
私が棲んでいるところ(松戸市)から富士川という川を渡り、対岸(流山市)に行くと、すぐ目測高さ20メートルほどの台地があります。その台地上を走る道路からの眺めです。
斜面に沿うようにして、斜面の下から生えているので、全体像を見ることはできません。この樹が何メートルの高さなのかわかりませんが、ミズキ自体成木は高さ10~15メートルにもなるという高木なので、ドローンかヘリコプターにでも乗らない限り、上から眺め下ろすという芸当はできません。
台地から見下ろす田んぼでは代かきたけなわです。
昨夕六時半過ぎ、我が地方では二度ほど雷鳴が轟いたかと思うと、雹(ヒョウ)に見舞われました。
当日、あまり当たらない天気予報で、雷雨があるかも、といっているのを聞いていたので、雷鳴が轟き、パチパチという音がし始めても驚きませんでしたが、パチパチカンカンという音の正体が、強い雨ではなく、まさか雹であったとは……。
六時半過ぎという時刻は、晴れた日であれば日没直後ですから、まだ窓のカーテンは閉めずにいたと思うのですが、当日はすでに暗かったので、カーテンを閉めていて、わざわざ外を覗く気にはなりませんでした。ただ、玄関ドアにカンカンと当たる異常な音がしていたのは記憶にあります。
知人からこんな画像がLINEで送られてきたので、カンカンパチパチという音の正体がわかりました。しかし、送られてきたのは雹が降った直後であったのですが、私の障害持ちスマートフォン(開いただけではダメで、電源を入れ、PINを入力しないとメッセージの有無が表示されない ― 一年前はそんなことはなかったのに ― にメッセージと画像が送られてきていた、と知ったのはおよそ二時間後だったので、懐中電灯を持って玄関を出てみましたが、前庭には雨の降った跡があるだけでした。
昼間であれば、前庭に植えてある斑入りのツワブキ(石蕗)が甚大な被害を受けているのを知ったはずですが、真っ暗闇では気がつきません。
そして今朝。
毎週土曜日はプラスチックごみの回収日なので、玄関を出て、初めてツワブキの痛々しい姿を知りました。まるで至近距離で散弾銃をぶっ放されたようです。直撃を受けたと思われる茎もあって、折れてしまっています。
普段でも虫に喰われたりするのか、葉っぱに穴が開いていることがありますが、こんなに大きな穴が、それもほうぼうに開けられるということはありません。
先の画像にあるように、直径2センチはあろうかと思われるような鉄砲玉がパンパン飛んできたとすれば、こんな被害を受けるのも当然かも知れません。
こちらは庭のほうの、斑無しのツワブキです。右半分ほどは雪柳の枝が傘になっているので救われましたが、雨が降れば直接打たれる左半分はやはり被害甚大です。
今日十五日は阿弥陀如来の縁日です。我が干支(亥年)の守本尊である阿弥陀如来を祀る東漸寺へ行きました。
昨日までの春嵐が治まって、穏やかで温かい日になりました。
まさか昼過ぎから夕方にかけて、再び春嵐が戻ってくるとは思ってもみませんでしたが、境内の青紅葉を愛でながら、参道を歩いて行きます。
仁王門です。
鐘楼塔横の青紅葉。
本堂に着きました。お賽銭をあげて、本尊の阿弥陀如来を拝み、先月十五日にお参りしてからの一か月間、曲がりなりにも無事に過ごすことができたことを感謝します。
今日十五日と二十七日は、本堂に参拝したあと、本堂左にある歴住の墓所に赴きます。
東漸寺開山・經譽愚底上人のお墓(中央の高い卵塔)にお参りします。
付属の幼稚園での預かり保育は四人だけ。まだ足許が覚束ないところを見ると、、四人とも年少さんのようです。
今日の最高気温は20度を上廻るかも、との予報でしたが、朝はまだ肌寒かったので、ラグビージャージの上に薄いウインドブレーカーを羽織って出かけました。
我が庵から東漸寺までは徒歩二十分強、帰りはスーパーに寄って買い物をしたので、戻ってくるまでに一時間近く要しましたが、その一時間の間にいっぺんに暖かくなって、汗を浮かべながら帰りました。
昨日はほぼ終日雨、今日は晴……と天候は異なっても、風の荒れ狂う日がつづきました。
富士川の土手はカラシナ(辛子菜)の花盛りです。
もう少し下流へ進むと、白い花が増えました。
川を渡ると、流山市です。我が庵があるのは松戸市の北の外れ。地図を見ると、頭に帽子をかぶったような形の流山市と接しています。したがって、西へ行っても北へ行っても東へ行っても流山市です。
東の方角にある寶蔵院。無住のお寺です。
本堂横に咲く八重桜。
日中であれば、大概境内にいて、私が境内に入ってくるのを見つけると、のそのそと歩いてきて足許にまとわりつき、伸びをしたり、ひっくり返ったりして親愛の情を見せてくれる野良猫殿、名前はママです。
寶蔵院へ散歩にくるのは参拝というより、ママに会うため。それともう一つは近くにあるこのミズキ(水木)を見るためです。
田んぼではそろそろ田植えの準備。
あたりはヨモギ(蓬)の宝庫です。
いつになったら新型コロナウイルスは終息してくれるのか。見通しも立たないうちに、やってきた薬師詣での日(八日)。体調があまりよくなかったので、当日は地元の慶林寺に参拝するだけにとどめ、いつもどおり少し遠出をする薬師詣では今日十二日に振り替えることにしました。
薬師詣で、と改めていっても、歩いて行けるようなところはもうないので、電車に乗らなければなりません。常磐線は少々混んでいることもありますが、武蔵野線に乗るとすれば、私が薬師詣でに出かけるような時間はコロナがくる前からガラガラです。とはいえ、乗ってみなければわからないので、手探りで出発です。
武蔵野線に乗り換えるためには北小金から新松戸まで常磐線に一駅乗るだけです。北小金~新松戸間は乗車時間わずか二分です。空いていても、坐ることはありません。扉口に立ち、つり革や手すりには触らないようにします。
今日、最初に訪ねるつもりの浄光寺の最寄り駅は北越谷です。
北越谷といえば、一昨年十月の薬師詣でで降りたところです。すぐ近くを歩いていながら、浄光寺という薬師如来を祀るお寺があったことは知りませんでした。
遠出をする前に、いつもどおり地元の慶林寺に参拝して行きます。
北小金~新松戸~南越谷と乗り継いで、南越谷(新越谷)で東武線に乗り換え。二駅目の北越谷に着いて、西口に出ました。
常磐線の乗客は私を入れて一車両に五人。武蔵野線は途中で増減がありますが、降りるときは同八人。東武線は同五人でした。
北越谷駅から五分ほどで浄光寺に着きました。
真言宗豊山派のお寺ですが、創建年代等は不詳とされています。
山門横には立派な松の樹がありました。
本尊は十一面観音です。
境内の西側に薬師堂がありました。
扉が閉まっていたので、薬師如来を拝むことはできませんでしたが、御堂の前に建てられた説明板によると、
「新編武蔵風土記稿」には「大同二年飛騨工が一夜に建立せしと云、さはあれ一夜に建しなど、妄誕論をまたず、古よりの像は先年賊のために失ひしかば、今の像を安ぜり、此薬師を押入の薬師と唱ふ、其義は知らず」
と記されています。
飛騨工とは左甚五郎のことですが、甚五郎は実在した人物であるという説と江戸時代の名工の総称であるという説があります。
五智如来堂。
五智如来堂に祀られた青銅の薬師如来像です。右は大日如来、左は阿閦如来。
この五智如来を鋳造した太田駿河守正儀という人については、東京・台東区のホームページに次のような紹介があります。
同区元浅草にある唯念寺の銅鐘を鋳造した人物に関する記述で、鋳造に当たったのは(ここにある「正儀」ではなく)太田駿河守「正義」であるとして、
太田駿河守を称する鋳物師には正義、正儀、政義などがいますが、いずれも音が通じていること、宝永五年(1708年)から天保五年(1834年)まで二十八件の作例が知られることから、数代にわたって活躍したものと推定されます。
と、しています。
「正義」作として著名なのは、中山法華経寺の通称・中山大仏、江戸六地蔵などがありますが。中山大仏が鋳造されたのが享保四年(1719年)、江戸六地蔵(別の文献では鋳造者は「正儀」となっています)は宝永五年から享保五年(1720年)にかけて、ということを考えると、この五智如来像はまったく同じ時代につくられた、ということになります。
どういう理由かわかりませんが、同一人物が正義と正儀を使い分けていたのか。それとも本家・本舗・元祖などと使い分けて、結局はどれがおおもとであるのかわからないまま、お互いを立てながら、技を競い合った、ということだったのでしょうか。
五智如来堂に相対する浄光観音像。
浄光寺参拝を終えて北越谷駅に戻り、くるときに乗り換えた新越谷を過ぎて、一つ先の蒲生駅で降りました。
蒲生中央通り商店街を歩いて行きます。
蒲生駅東口から900メートルほどもつづく、非常に長い商店街です。
日曜日だというのにまったく人出が見られず、閉めている店も多いのは新型コロナウイルスのせいか、と思ったのですが、あとで調べてみると、もともと寂れてしまっている商店街のようでした。
蒲生駅から二十分近く歩いて、報土院に着きました。浄土宗のお寺です。
本尊は阿弥陀如来。
ここも創建は不明のようで、「新編武蔵風土記稿」によれば、中興開山は聞秀善教という僧侶。示寂したのはいまから四百三十八年前の天正十年(1582年)十月十五日とあります。
真新しい薬師堂がありました。堂内に祀られている金色の薬師三尊ときらびやかな十二神将です。ガラス窓越しの撮影なので、少し曇ってしまいました。
本堂前に居並ぶ五百羅漢像。
帰りは武蔵野線の南越谷駅から。
今度も電車はガラガラ。ことに新松戸で乗り換えた常磐線で、私が乗った車両(9号車)の先客は二人だけ。私も含めて三人とも北小金で降りてしまったので、午後一時過ぎという時刻にもかかわらず、車内は無人となりました。
この日、至近距離(2メートル以内)で向き合った人はただ一人。擦れ違ったり、すぐ後ろを歩く形になった人は二人。向き合ったただ一人は北越谷のファミリーマートの女性店員でしたが、私は無言で緑茶を買っただけ。
さて、今月はどうやら無事に薬師詣でを済ませることができたみたいですが、来月になればコロナが下火になっている、という可能性はなさそうです。
今日の行程についで近いのは川口市の東光寺ですが、ここは今日よりほんの少し先まで武蔵野線を利用しなくてはならず、さらにバスに乗らなければならないので、あたう限り初めての薬師如来を訪ねたいと思ってはいるものの、情勢次第では人に会うこともなく、歩いて行ける、地元の慶林寺参拝だけにとどめなくてはならないかもしれません。
恒例の薬師如来の縁日です。
このところ、体調のいい日がつづいています。
とはいっても、身も心も軽やか、という体調のよさではなくて、目覚めると、わりと早く空腹を覚えているのです。
数日前までは、朝五時六時という時刻に目覚めても、腹が減ったな、と感じるようになるのは九時ごろ、へたをすると、十一時ごろまで食事を摂ろうという気が起きませんでした。ところが、このところは、起きて布団をたたみ、ごみ出しの日であれば、出す用意をしていたりする間に、ふと気づけば、腹が減っている。
薬師詣でのこの日も、目を覚ましたのは六時半。携行して行く握り飯を握らねば、と思っているうちに空腹を覚えたので、買って冷凍しておいた鮭の切り身と鱈子を焼いて、朝食用と弁当用に二つずつ握るそばから、二つを食べてしまいました。
九時半過ぎ、薬師詣でに出発しました。地元の慶林寺に参拝して行きます。
境内にある梅の樹に小さな実がつき始めていました。
参道では白い花水木(ハナミズキ)の花がほころび始めていました。
……と、ここまではよかったのですが、参道をあとにして、電車に乗るべく駅に向かって歩き始めると、頭に蜘蛛の巣が張ったようになってきました。
この日、行こうと考えていたのは埼玉県の越谷です。
新型コロナ禍が本格化する前は、陽気もよくなるころだから、熊谷か佐原へ、と考えていたのです。しかし、折からの新型コロナウイルスの拡がり方を考えると、長いこと電車やバスに乗るのは避けたほうがいいだろうと考えて、乗車時間がわりと尠なくて済む、越谷へ、と考え直したのでした。
慶林寺から北小金の駅は歩いて三~四分です。途中には腰を下ろせるような場所がありません。喫茶店でもあれば、腰を下ろしてしばらく様子を見るのだが、と話しかける相手もいないのに独り言をつぶやきながら歩きましたが、駅が近づく数分の間に、どうにもいかんという状況になってきました。
まだ十時過ぎという時間だったので、いったん帰ることにしました。これまで、体調が芳しくない薬師詣での日は何度もあって、そんなときはほとんど昼、という時刻に出かけたこともあったのですから、出直すとしても、行く先が越谷ならわけのないことでした。
昔むかし、まだスイカという便利なものがなかったころ、切符を購入しないことには電車に乗ることはできなかったころは入場券を買って入場するという手がありました。いまはあるのかどうか。とりあえず改札を通ってみて、もし耐えられないという体調であれば、引き返すことにすればいい、と考えもしましたが、先に参拝を済ませた慶林寺では、香炉の後ろにある鐘を撞いて、お賽銭もあげたのですから、縁日のお参りは済ませたことになります。やはり無理はせず、いったん帰ることにしました。
結局、この日は再度出かけることは叶いませんでした。この日、行くつもりだった越谷は四日後、十二日の縁日に日延べすることにしましたが、それまでに体調は持ち直してくれるでしょうか。
昨夜、眠りに就く直前だったと思いますが、そういえばそろそろ……と思ったことがありました。桜も散り始めたので、梨の花が咲いているだろうと思ったのです。
一夜明けて、七時半過ぎという早い時間でした。最近は朝早く散歩に出るということは尠なくなっていたのですが、なぜか今朝はソワソワしていて、梨の花を観に行きました。
富士川を渡ると流山市です。川に沿って田んぼがつづいていますが、田起こしが済んだばかり。
川面も静かです。
ムクロジ(無患子)です。紫陽花などはすでに新しい葉を出しています。高木なので近寄って確かめてみることはできませんが、まだ葉は出ていないようです。
最初に出会った梨畑。花期は終わり始めていて、花萼が散乱していました。
二つ目の梨畑。こちらは早くもネットで覆われていました。
歩いてきた道が常磐線の線路に突き当たるところに香取神社があります。
桜の花も散り始め。
境内に一本あるだけのソメイヨシノ。広く枝を張っているので、満開のときは見ごたえがあります。
かつて付近にいた茶虎猫の小春におやつを置いた拝殿横です。
小春に出会ったのは十年前です。当時、小春が何歳であったかわかりませんが、仔猫ではなかったので、十年経てば天国に招かれたのかもしれません。
香取神社前にある梨畑。真冬の数日、梨畑の遥か彼方に富士山を望めることがあります。
子どもの日まではまだ一か月もありますが、もう鯉のぼりを立てている家がありました。
北小金駅前へ足を延ばして、食料品などの買い物を済ませました。
外出を面倒臭がっていると、知らず識らずのうちに引きこもりになる可能性がある、と考えているので、できるだけ買い置きはしないように心がけてきました。出かけるのはかったるいと思っても、食料の買い置きがなければ、買い物に出なければならないので、引きこもり予防になると考えているからです。
白い花の枝垂れ桜がありました。
いまの住居に転居して十年。九回目の春です。日課にしている慶林寺参拝や買い物ですぐ近くを通っているのですが、いまの季節にこの桜の前を通ったのは初めてです。
先月二十七日から毎日雨か曇、やっと晴れたかと思えば風が強い……という無粋な天候つづきでしたが、八日ぶりに温暖な日を迎えました。
私のブログをフォローしてくださっている「梅ちゃん」という方が、先月二十四日のブログに「私の住んでいる柏市には、カタクリ群生地があります。今、カタクリの花が咲いているようです」と書いておられるのを読んで、そういえばそういう季節だったと気がつきました。
片栗(カタクリ)の群生地があるのは、柏市の逆井(さかさい)というところです。柏と船橋を結ぶ東武鉄道野田線に乗ると、柏から三つ目。
初めて見に行ったのは九年前、2011年三月二十八日。そのときはまったく咲いていませんでした。
それほど遠いところではありませんが、何度も出直すのは億劫なので、あと数日、と思いながら、その年はパス。翌年、さらに翌年もパス……。
先月二十日ごろ、柏市観光協会のホームページを視ると、三月十七日の日付で、「まだまだつぼみの状態です。お彼岸をすぎるともう少し咲いてきて、二十八日ごろには見ごろを迎えるのではないでしょうか」と、ありました。
ふむふむ、二十八日の天気がよきことを祈りましょう、と待っていたのですが、当日の天気はあいにく曇。前日午後から強くなっていた風が未明までボウボウと吹き荒れ、昼ごろにはいったん静かになりましたが、午後はまた強くなるという、春特有の天気でした。そういう天気では、さて、出かけますか、と腰を上げる気にはなりません。
じゃあ、仕切り直して明日、と日延べしたら、日付の変わる直前から雨になって、翌日午後も雨……。
三十日、三十一日と無粋な風は治まったものの、一日じゅうほとんど陽射しのない曇。四月一日はまた雨……。
天気はよくなかったけれど、カタクリは咲いているのかどうか、と柏市観光協会のホームページを視ると、更新されず、三月十七日のままでした。で、花は終わってしまっているかもしれないと考えて、今年もパス。
私と片栗は縁がないのかもと思い、片栗粉はたまに使うけれども、いまの片栗粉の原料は片栗に非ず、じゃが芋だし……。
せっかくホームページをつくっているのだから、もう少しこまめに更新したらいいのに、と思うのですが、柏市というところは史跡とかちょっとした観光スポットの紹介には熱心ではない、と私には思えます。
で、代わりに、というと、そういえば新坂川の桜も、流山・東福寺の桜もしばらく見ていない、と思いました。
新坂川から東福寺までは歩くと四十分ぐらいかかります。せめて七~八年前、いや、五~六年前ぐらいであれば、掛け持ちで見て廻る脚力があったのですが、最近はそれだけの距離を歩こうという気力も実力もありません。
そこでしばらく考えた上、まずは新坂川の桜を見に行き、数日後に天候もよく、気力もあるなら東福寺へ、と決めました。
出かける前に日課の慶林寺参拝を済ませておこうと本土寺参道を歩いたら、山吹が花盛りを迎えていました。
慶林寺参拝を終えて、北小金から新松戸まで一駅だけ電車に乗ります。昼時でしたが、電車は拍子抜けしてしまうほど、ガラガラでした。
新型コロナ騒動がなくても、もともと学校は春休みではありますが、これまでいかに不要不急のヤカラが電車に乗っていたか、同時に、そのおかげで発生していた、電車賃という経済活動がなくなっているのだと思わされました。
新松戸駅から常磐線の線路伝いに歩いて行くと、七~八分でゆりのき公園という小公園に突き当たります。そこを右に折れてしばらく進むと、流鉄の踏切があり、桜の花が目に飛び込んできます。
本土寺参道の桜の花はかなり乏しくなっていたので、花見にはちょっと遅いかも、と思っていましたが、まだ充分に見応えがありました。
踏切の先につづく押出橋で新坂川の対岸(右岸)へ渡り、下流に向かって歩きます。
対岸(左岸)には新坂川さくら通りという遊歩道が整備されています。
こんな階段があって、川の近くまで降りられるようになっていますが、散る花びらを肩に載せて歩いてみましょうか、という酔狂な人はいないみたいで、ほぼ草ボウボウ状態で、人に踏まれればできるはずの途がありません。
ダンボール箱やらレジ袋やらが流れのところどころに引っかかっていますが、極力目に入れないようにして歩いて行きます。
町田橋まで歩いて、左岸に戻ります。
新坂川さくら通りの眺めです。
流鉄が走り去って行きました。
最初に渡った押出橋まで行って再び渡り、右岸に沿いに新松戸駅へ戻ることにします。
右岸にある桜は二本だけ。二本とも白っぽい花なので、染井吉野(ソメイヨシノ)ではないようです。
これが右岸最後の桜です。