桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

春日部を歩く(2)

2012年07月25日 22時03分18秒 | 寺社散策

 春日部を歩く、の〈つづき〉です。



 古利根川を渡って訪れたのは仲蔵院です。真言宗智山派の寺院。永禄元年(1558年)の創建。


 仲蔵院から七分で東福寺。ここも真言宗智山派の寺院。



 珍しい八重の桔梗殿を見つけたので、記念撮影に及びました。近くには白い八重もありました。



 八幡橋で再び古利根川を渡って旧市街に戻ります。
 先に渡った新町橋からは1キロ下っただけですが、水量は一気にふえたように感じられました。



 八幡橋を渡り終えると、前方にこんもりとした杜が見えてきました。いかにもお寺か神社がありそうな杜です。
 
進むのに従って社殿の後ろ側が見えてきて、神社だとわかりましたが、私が持っていた地図には鳥居のマークがあるだけで、名称が記されていません。境内には横から入る形になりました。



 東八幡神社でした。祭神は誉田別尊。創建年代等は不詳ながら、岩付城主・太田氏の家臣・関根図書助が創祀したとも、元弘年間(1331年-34年)に宇佐八幡宮から分霊したとも伝えられています。




 御神木の大欅。樹齢約八百年と記されています。



 東八幡神社から二分で真蔵院。真言宗智山派の寺院。
「春日部市史」によると、宿(粕壁宿)の関根九左衛門の先祖が字新宿に建てた庵室が起源だということです。





 東陽寺。曹洞宗の寺院。真蔵院から四分。
 芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、江戸をあとにした最初に旅装を解いたのは粕壁宿で、泊まったのはこのお寺だったといわれますが、詳細は不明です。



 歴住の墓所は本堂横にありました。



 旧日光街道を挟んで東陽寺と向かい合わせに源徳寺がありました。承応年間(1652年-54年)の建立。
「新編武蔵風土記稿」には、本山は浅草の(東)本願寺とありますが、現在は浄土真宗大谷派。 



 旧日光街道の街並みです。



 旧日光街道沿いにはロビンソン百貨店があるので、このあたりの通りの名はロビンソン大通り。



 旧商家・東屋田村本店。土蔵造り二階建て。明治七年(1874年)年。通りに面し三軒、田村家がつづくがこちらはその本家。



 田村本店前、「南西いハつき(岩槻)」「北日光」「東江戸」「右乃方陸羽みち」と示す道標です。建てられたのは天保五年(1834年)。
 これにて春日部散歩は終了。

この日、歩いたところ

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春日部を歩く(1)

2012年07月24日 15時09分06秒 | 寺社散策

 春日部のお寺巡りをしてきました。
 かつては日光道中四番目の宿場町・粕壁宿のあった古い町です。
 地図を見ると、市内を流れる大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)という中川の支流を挟んで、いくつかの寺院があります。とくに著名な寺院はないようですが、歩いてみようと決めて庵を出ました。

 我が庵から春日部に行くのには二通りの経路があります。柏へ出て東武野田線で行くのと、武蔵野線で南越谷へ行き、東武伊勢崎線に乗り換える、という二つです。

 今回は武蔵野線の南越谷で降りて東武伊勢崎線に乗り換えるルートを選びました。

 東武線は真北に向かっていると思いこんでいましたが、春日部駅は地図で見ると、ほとんど真横です。出入り口は東口と西口と名づけられていますが、私が出た東口はほとんど北に向いています。



 春日部は何度か通り過ぎたことがあります。
 最近では今月の薬師詣でで大宮に行った帰り、東武野田線を利用して柏経由で帰ったときに通っています。しかし、頭を巡らせてみても、駅頭に降り立つのは今回が(多分)初めてです。




 まず駅近くにある「ぷらっとかすかべ」(観光案内所)を訪ねて、パンフレット類を手に入れることにします。

 駅から歩いて五分もかからないところを旧日光街道が走っていて、ここに粕壁宿があったのですが、本陣跡、脇本陣跡、高札場跡、問屋場跡……と跡ずくめで、実際に遺されているものは何もないようです。
 駅近辺にある、めぼしい文化財も碇神社に樹齢五百年超の犬楠(いぬぐす)だけ。

 春日部というと……真っ先に思い出すのは「春日部の哲っちゃん」こと今仁哲夫(元ニッポン放送アナウンサー)さんです。



 そのあとは春日部共栄高校出身で中日ドラゴンズに入団した中里篤史投手。讀賣ジャイアンツに移籍したあともパッとしませんでした。
 私は細身で、ビシビシと投げるタイプのピッチャーが好きです。ただこの手のピッチャーは怪我をしやすく、長続きしない人が多い。ヤクルト・伊藤智仁然り。中里も中日~巨人在籍十年のうち、四年間は一軍での登板がなく、一軍での戦績はわずか2勝(2敗)。



 そういえば、こやつめも春日部だったか。いまでは今仁や中里を押し退けて、春日部を代表する存在になりました。



 最初に訪れたのは玉蔵院です。
 承久の乱(1221年)のころ、武蔵から信濃に移り住んでいた春日部刑部三郎貞季は北条泰時の京都攻めに途中から加わり功を上げたのですが、宇治橋の戦いで討ち死にしてしまいました。
 延元元年(1336年)、春日部左近蔵人家縄がこの霊を弔うため、館の東側・川戸寺地に僧俊栄に依頼して建立。




 妙楽院(真言宗智山派)。慶長十二年(1607年)の創建。



 たいそう立派な山門です。

 


仁王像。



 成就院。ここも真言宗智山派の寺院。「春日部市史」には「慶長十二年に順清が中興開山、古くは浜川戸耕地にあり阿弥陀寺と称す」とあります。



 四番目に訪れたのは最勝院です。



 山門をくぐると桔梗の花が咲いていました。



  ここも真言宗智山派の寺院です。
 本尊は千手観音で弘法大師の作と伝えられています。



 普門院。ここも真言宗智山派の寺院。
「新編武蔵風土記稿」には「同年(慶長十二年)
永智といへつ僧の起立と云、本尊阿弥陀」とあります。

  古利根川(右)と古隅田川の合流点に架かる新町橋を渡ります。橋上から上流の眺め。〈つづく〉

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2012年七月の薬師詣で・さいたま市大宮区

2012年07月08日 20時41分40秒 | 薬師詣で

 毎月八日の薬師詣で。
 昨年一月から始めて、今月が十九か月十九度目になります。これまで雨に降られたのは昨年十二月の一回こっきり。それも途中から雨……と、まあまあ天気には恵まれてきました。
 自分のことは祈らず、友人知人が息災でありますようと願かけをしてきましたが、利己ではない利他というその心がけが殊勝であると薬師如来様が愛でてくださったものかどうか、と思っていた矢先、昨日の天気予報ではどうやら雨を覚悟せねばならぬようで、朝方七時過ぎまでビチャビチャと雨の音がしていまし
たが、九時過ぎには熄みました。その後は曇りときどき雨ではありましたが、ときおり陽射しに恵まれるようにもなりました。



 常磐線→武蔵野線→京浜東北線と乗り継いで、大宮駅で降りました。
 大宮は何度も通ったことがありますが、特急で通り過ぎただけか、さもなくば乗り換えで構内を歩いただけ。降りて駅の外に出るのは、記憶に間違いがなければ、三十数年ぶりです。

 今日は西口に出ましたが、三十数年前は確か東口に待つ人がいて降りた、という記憶があります。しかし、相手が女性で、亭主が付き添いで同伴していた、ということは憶えていますが、名前も用件の細かなところもきれいサッパリ忘れています。彼女の事務所か自宅にお邪魔したという記憶はないので、喫茶店にでも入ったはずですが、そんなことどもも完全に忘れています。

 いつもの薬師詣でだと、訪ね歩く途中に寺社や文化財があれば寄り道をしつつ行きますが、今回は病み上がり、というか、大腸のポリープを切除して、術後まだ六日です。烈しい運動は控えるように、と釘を刺されているので、ゆっくり歩くのであればよいが、長距離を歩いては「烈しい」運動になってしまう。よって、極力寄り道は避けることにします。



 大宮駅から十五分強で普門院に着きました。
 月江正文(寛正四年=1463年寂)が応永三十三年(1426年)に武蔵一の宮氷川神社で祈願していたところ、領主・金子駿河守大成(永享七年=1435年寂)の寄進を受けることとなって、領主の居館を大成山普門院と号して開山しました。月江正文和尚は当寺の他、尾張国の楞厳寺、上野国の雙林寺を開山した名僧といわれる人です。



 観音様ふうの立像ですが、ガラスケースに納められているので、乱反射してしまって、よく見えません。



 市街地にあるのに、別天地のような境内の林です。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を捜し、焼香しようと思いましたが、墓前まで行けないわけではありませんが、木柵が立てられていたので、足を踏み入れるのは遠慮して、拝礼だけしました。焼香も遠慮しました。



 歴住の墓所のすぐ近くには幕末期の外国奉行・小栗上野介忠順など小栗家代々の墓がありました。こちらも木柵の規制があったので、足を踏み入れるのは遠慮しました。

 普門院を出たあとは、偶然グーグルマップで見つけたのですが、「薬師堂」とあるだけで、名のわからない薬師堂を目指します。



 鴻沼川という小川を越えて行きます。



 小さな御堂がポツンとあるだけだろうと想像していたのですが、墓地の中にあって、なかなかどうして立派な御堂でした。
 屋根の形は確かに薬師堂。しかし説明板のようなものはなく、周辺に人影も見当たらなかったので、何もわからぬまま、ただ参拝。



 大宮駅を目指して戻り、手前勝手に歩き回るコンコースの人混みをすり抜けて、今度は東口に出ました。
 旧中山道が通っています。



 大宮駅から六分。東光寺に着きました。草創以来九百年近い歴史がある曹洞宗の名刹です。



 ここでも歴住の墓所を捜し、中央の開山大和尚の卵塔に焼香して三拝九拝。



 東光寺を出たあと、東に向かってまっすぐ歩いて行くと、武蔵一宮・氷川神社の参道です。



 亡くなった地井武男さんがテレビ朝日の「ちい散歩」に出ておられたとき、訪ねたのはこの団子屋さんではなかったかと思います。



 氷川神社拝殿。お初参りらしき人々が順番待ちの行列をつくっていました。

 

 大宮駅に戻ってまた人混みを縫って歩くのはうんざりなので、氷川神社の背後にある大宮公園を抜けて行きます。



 大宮駅に戻らずにどうするつもりだったのかというと、東武野田線の大宮公園駅に出て、柏まで一時間。各駅停車の電車にゴットンゴットンと揺られながら、ゆっくりと帰ることにしたのです。

この日、歩いたところ

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入院疲れ

2012年07月06日 20時48分09秒 | 日録

 わずか二日間の入院でしたが、すっかり疲れ果てて帰ってきました。とりあえず大事はなかったというので、気も緩んだのかもしれません。
 退院してきた四日の我が地方の最高気温は、今年初めて記録する真夏日で30・4度。翌五日は28・3度と下がりましたが、湿度が高かったので前日より暑い感じでした。 

 病院から帰ってくると、郵便受けに市役所からの封書が入っていました。
 中味は介護予防のための基本チェックリストなるもので、「バスや電車で一人で外出していますか」とか「日用品の買い物をしていますか」など、いくつかのチェック項目の「はい」「いいえ」いずれかに○をつけて返送せよという内容でした。
 あと三週間経つと、私の誕生日。一定の年齢に達するので、送られてきたようです。 

 幸いにして現在の私は市役所が危惧するような状態ではないので、全部「はい」に○をつけましたが、厳密にいうと、中には「はい」か「いいえ」という二者択一で答えてしまってはマズイのではないかという項目もあります。
 たとえば、自分で電話番号を調べて電話をかけますか、という項目があります。
 あるいは、友達を訪ねたりしていますか、という項目もあります。
 このリストを作成した担当者は、以上のようなことが「人の助けを借りることなくできているかどうか」を知りたい、と思っているということはわかりますが、現状そのものを答えよ、というのであれば、私には自分で電話番号を調べ、かけることができるとは思うけれども、電話をかけるような用件がないので、実際にかけましたかという念押しの意味が含まれていると解釈すれば、答えは「いいえ」となります。友達がいれば訪ねるかもしれないけれど、実際は友達はいないので、これも「いいえ」となります。 

 世論調査も同じようなことで、調査する側は項目の中に、結果的に意に反する答えをしなくてはならぬ場合があるとは考えてもみないようですが、実際はあるのです。ただ、あっても大勢には影響がないと考えているのでしょうし、事実影響はないのです。
 もろもろそんなことを思ううちに、さらにグッタリしてしまって、疲れが増幅されてしまったみたいです。 

 入院に備えて冷蔵庫は整理しておいたので、お米やふりかけのたぐいを除くと、食べるものは何もありません。
 退院後しばらくは消化のよい食事をすること ― お粥やうどんがベスト ― といわれたのをよいことに、朝昼晩とお粥づくしです。永谷園の「松茸の味お吸い物」や「1杯でしじみ70個分のちから」があったので、それらで味を整えて食べました。
 退院当日の朝、五分粥を食べさせてもらった以外、入院中は点滴だけだったので、わずかの間に胃がすぼまったようで、毎食お粥一杯だけでも充分でした。

 今日になって気力も恢復してきたし、それにともなって食欲も増進してくるような気配です。

 となると、食べ物の補充もせねばならぬし、毎月恒例の薬師詣でに出かける八日も迫ってきているので、足慣らし身体慣らしもしておかねばならぬ。
 で……、いつもの散歩コースを、時計回りに三分の二だけ歩き、ついでに買い物も済ませることにしようと朝六時過ぎに庵を出ました。北小金駅前にあるスーパーのイオンは朝七時から店を開けるようになったのです。 

 庵を出るとすぐに住宅地が切れ、畑の中の径を歩きます。左前方に本土寺の森があり、そこへ向かって進んで行く形になります。森の切れるところで比高10メートルほどの台地が切れます。その台地が本土寺があり、我が庵もある平賀中台という高台です。
 急坂か急な石段を下ります。下り切ったところは住宅地ですが、かつては川が流れていたのだろうと思わせる地形です。町名が整理される前は平賀谷川という字だったことからもそのことがうかがえます。



 そのうちの一軒で飼われている谷之丞(たにのじょう)です。右下にいるのはつい最近見かけるようになった福郎(梟に似ているので命名)。
 私に慣れた猫殿は声の大小や鳴き方に違いはあるものの、私を認めれば、大概は鳴き声を上げて歓迎の意を表してくれます。何度も会って、私が危害を加えるような人間ではないとわかっているはずなのに、私が少し距離を置かないとおやつを食べないという猫殿もいます。

 この猫殿たちと私の間には、この家の低い塀があります。おやつは私の手の届くところ ― 猫殿たちからは遠いところに置くしかありません。谷之丞は私と目が合うと身を乗り出します。
 しかし、出会ってからそろそろ半年になろうというのに、鳴き声を上げたことがありません。私が見ている前で、私の置いたおやつを食べたこともありません。家の周りを半周して、背後からこっそり近づくと、身を屈めておやつを食べているのを見ることができますが、じつにじつにこっそり近づかないと、気配を察して振り向き、おやつを食べるのをやめてしまいます。



 雨上がりの今朝の富士川上空です。
 今朝は六時ごろまで雨でした。雨が上がるとすぐ青空が垣間見えるようになりましたが、富士川を望むあたりまでは陽射しがあったのに、川岸に着くころには空は雲に覆われてしまいました。

 


 野薊と赤詰草。

 


 いまの時期はピンク色をした花が目立ちます。
 季節のうつろいに合わせて、普段はあまり歩かない道を歩いてみるものです。これまで見たことのない花に出会ったりします。上は牡丹臭木(ボタンクサギ)だとわかりましたが、下はまだ不明です。



 富士川土手で見つけた悪茄子(ワルナスビ)の花です。
 古来、「悪」という字には「強い」という意味がありました。ただし、そういうときの読みは「あく」。「わる」と読むときは単純に「悪」なのでしょう。
 この「悪」はアメリカ原産の外来種で、外来生物法により要注意外来生物に指定されています。除草剤も効かず、地下茎でグングン成長するそうで、一度生えると根絶させるのはむずかしいそうです。
 地下茎で勢力範囲を伸ばすところはドクダミと似ていますが、ドクダミがお茶などにして利用できるのに対して、悪茄子は百害あって一利なし。発見者であり、命名者である牧野富太郎博士も「悪草」といっています。



 無患子(ムクロジ)の花はすでに散って、小さな実を結び始めていました。



 帚木(ホウキギ)。
 秋になると真っ赤に紅葉します。



 香取神社横の道を画像の手前のほうに向かって歩いていたら、後ろで猫殿の鳴き声がしました。
 振り向くと、久しぶりに見かける濱吉(私の勝手な命名)でした。濱吉の家の前を通ったとき、どこかから見ていて、私を追いかけてきてくれたのです。
 右上に写っている石垣は香取神社。濱吉の家はこの神社の裏側にあります。
 猫の縄張りは500メートル四方と聞いたことがありますが、このあたりは縄張りが重複しています。

 最近は引きこもりになったようなので、なかなか出会うことはありませんが、かつて小春はここまで出張していました。左上の青いネットはうさ伎(うさぎ)の出没する梨園です。
 またフウという名の、ここから500メートルも離れた家の飼い猫が歩いているのを見たこともあります。



 合歓(ネム)の花が咲いていました。これもピンク色。



 病院からは退院後一週間程度は烈しい運動は控えること、アルコールやコーヒーは飲まぬこと、刺激の強い食べ物は避けること、消化のよいものを食べること……などという注意事項がありました。

 で、消化のよいレシピを捜していたら、山芋と海老のあっさり煮(右)があったので、つくってみました。
 とっておきの九谷の小鉢に盛りつけると、まるで料亭で出されるような……と自画自賛。

 画像左はとくに消化がよいわけではありませんが、血液中の鉄分が不足気味にならぬよう、ときどきつくって食べるひじき料理のうちの一つ、ツナとひじきのうま煮です。

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入院の朝から退院の朝まで

2012年07月05日 19時41分33秒 | 日録

 七月二日、大腸のポリープ切除手術を受けるために入院しました。
 約一か月前の五月三十日に受けた検査で見つかっていたポリープは二つ。悪性ではないという診断でしたが、入院が何日間になるかは切除後の出血の有無などによって決まる。それでも長くて四日 ― そう聞かされていたので、いちおう四日分の着替えやタオルなどとノートPCをトートバッグに詰めたら、バッグは二つになってしまいました。



 入院を控えた朝、今年二十輪目の桔梗殿が花を咲かせました。それまでずっと紫桔梗ばかりだったのに、初めて白色が咲きました。
 ずっとマンション住まいでしたが、狭いながらも庭を持ち、地植えできるようになって二年目の夏です。勢いのある枝が伸びたら、挿し芽に挑戦してみようと思います。

 前夜は夕食まで普通の食事をして、夜九時にアジャスト錠を200ミリリットルのピコスルファートナトリウム溶液で服んでおきました。両方とも排便を促す薬品です。

 朝、目覚めるとスクリットという粉末の腸管洗浄剤を2リットルの水に溶かします。
 これを朝八時から十時まで、二時間の間に服まなければなりません。海水を薄めたような味で、一口二口ならなんら抵抗はないのですが、ただ淡々と2リットル服む、というのは非常なる苦行です。

 2リットルのペットボトルにこしらえたスクリット液を500ミリリットルのボトルに詰め替え、「よ~し、これを四回!」と自分に言い聞かせて服み始めました。

 一か月前、検査のときにも同じことをしているのに、空にして取っておいたペットボトルの容量は1・8リットルだと勘違いしたので、2・2リットルもこしらえてしまいました。

 前回も今回も、検査が始まる時刻は午後二時と変わりませんが、今回は入院手続きをしなければならないので、午後一時に病院に行くことになっていました。


 腸管洗浄剤を服み始めてしばらくすると、トイレに駆け込まなくてはなりません。

 初めて服んだときは興味もあったので、何回トイレに行くことになるのだろうかと数えていましたが、用を済ませてトイレのドアを閉めた途端に再び催す、というようなこともあって、いつの間にか回数はわからなくなってしまいました。

 朝食を抜いて、ひたすら腸管洗浄剤を服みつづけます。トイレから出てきては服み、服んではトイレに駆け込みます。
 十時目前に2・2リットルを服み終えました。あとはトイレに行くのを繰り返すだけで、排便感がなくなるのを待ちます。
 腸の中がすっかり空っぽになったかな、と思えるころ、病院へ行くために腰を上げる時間が迫っていました。

 入院するのは胃潰瘍のアフターケアで通っている新松戸の病院です。電車だと一駅ですが、駅を出たあとは我が庵のほうへ戻る形になるので、いつも歩いて行きます。今回は荷物が重いので逡巡しましたが、結局歩くことにしました。



 朝、音声だけ聴いていたテレビのニュースでは、鎌倉・長谷寺の紫陽花(アジサイ)はまだ見ごろ、といっていたのに、本土寺の紫陽花は一足早く終焉を迎えたのか、土地勘のない車が右往左往して近所迷惑だった参道はほとんど人通りも絶え、駐車場も閉鎖されていました。

 午後時に入院受付を済ませ、すぐに内視鏡検査の受付も済ませ、服を着替えると、前処置室に入って点滴を受けます。蒸し暑い中を二つのトートバッグを担いでエッチラオッチラやってきたので、汗が止まりません。点滴の針を固定すべく腕にテープが貼られるのですが、噴き出す汗ですぐに剥がれてしまいます。

「こんなに汗をかく人は初めて見た」とナースにいわれてしまいました。

 ベッドに横たわって検査を受けながら、いつくるかいつくるか、と緊張しています。腸の襞を伸ばすために空気が送り込まれるのですが、前回の検査では、腹が爆裂するのではないか、と思うほどの圧迫感に嘖まれることが何度かあったのです。

 プクップクッとその予兆のようなものがきて、思わず身体を強張らせましたが、爆裂を感じさせるほどのものではありません。
 そのうち、「一番苦しいところは過ぎましたよ」「もうすぐ終わりますからね」という医師の掛け声があって、痛みもないうちに終了かと思ったら、そのころはまだ道なかばでした。
「これかな?」「あれッ、どこだっけ?」「そこじゃないですか」「あった、あった」という医師とナースと検査技師(?)の掛け合いの声が聞こえます。ちょうど私の頭の上にモニタがあるらしいのですが、私には見えません。

 ひと月前、生まれて初めての検査を終えたあと、大腸.COMというサイトがあるのを知りました。そこには、私にとってはあれだけ苦しかった検査が、経験豊かな専門医にかかれば少しくすぐったいと感じる程度だ、とありました。
 NHKの「梅ちゃん先生」を視るまでもなく、医師個々に技量の差、経験の差があるのは当たり前のことで、私の二回目の体験は爆裂感に見舞われることもなく終わりました。



 病室は東向き。
 向かい合わせに三つずつ並んだベッドのうち、私には窓側が当てがわれました。行き交う常磐線の電車が見えます。

 内視鏡検査室に入ると、持ち物はすべてロッカーに預けるので、どれほどの時間が経過しているのかわかりませんが、点滴の針を射されたまま、じっと順番を待ち、やがて処置室に入って、上記のような体験を経たあと、車椅子の人となって病室に入ったときは、病院にきてから三時間 ― 午後四時になっていました。



 前回、胃潰瘍で入院したとき、知人がくれた守護神ミカエルのフィギュアです。
 いつもはパソコン机の照明灯に吊り下げてあります。
「神仏は恃まぬ」主義の私ですが、それは「私」が恃まないということであって、他者が私の病気平癒を願ってくれたものなら、と素直に受け入れておけばいいのではないか、と思って持ってきました。

 

 左手には点滴の針がブスリ。右手には、病院では患者誤認防止のリストバンドと呼んでいますが、私にとっては囚人の「人別標」としか思えないようなものをはめられています。

 血圧は下が102、上は150を超えていました。ナースが「高過ぎますね」といって、もう一度測ってくれましたが、同じ値しか出ません。



 私の部屋とは反対側を向いているデイルームからの眺め。
 紅い車体の流鉄が走っています。

 病室は六人部屋で、私が入るまでは四人の患者がいるだけでした。様子をうかがっていると、四人ともかなりの高齢者で、いずれも寝たきりのようです。

 点滴スタンドを曳きながら歩かねばならぬので、自由自在に、とは行きませんが、自分の意思で行きたいところへ行けるのは私だけ……。

 腹痛があったり、出血があったりしなければ、明日退院と聞かされました。四日分もの着替えを持ってきているので、拍子抜けしたような感じです。

 そのせいでもないでしょうが、お腹に疼痛が出ました。耐えられない、という痛みではありませんが、奥深いところでチクーリチクーリと疼いています。

 それからしばらくして、点滴が空になって、血が逆流し始めたので、ナースコールのボタンを押しました。
 痛みのある場所は肋骨のすぐ下 ― 肝臓のある場所です。ナースは大腸とは関係がなさそうだといいながら、「起きていないで横になってください」と言い置いて部屋を出て行きました。

 横になった私はいつしか眠ってしまったようです。外は薄暗くなっていました。

 医師の声で目覚めました。すでにお腹の痛みは引いていました。触診してもらいましたが、痛みの原因がなんであったのか、もうわからなくなっていました。
 ただ、退院が一日延びました。




 退院の朝の食事は五分粥(左下)が出ました。
 中央はそぼろ卵とシラスとカットトマトの炒め物、右下はチョッパーで砕いた何種類かの野菜を混ぜ合わせたような調理で、酸っぱい味がしました。

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