桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

相模台公園から胡禄神社へ

2010年06月30日 07時25分04秒 | のんびり散策

 昨日二十九日は雇用保険受給の認定日でした。
 体調がどうであろうと、何がなんでも行かねばならぬので、前日はできるだけ静かに過ごしておりましたら、幸いなことに可もなし不可もなしという体調で朝を迎えることができました。

 朝のうちは雨だったのに、いつの間にか陽射しが出たのでゆっくりと構えていたら、すぐに曇り空。雨に降られないうちに、と思って出かけました。
 先週、社会保険事務所に頼んでおいた年金記録が届いたので、ハローワークの前に松戸市役所に寄りました。

 市役所は根本城という城趾に建っています。松戸駅からはちょっとした坂を上らなければなりません。それほど急でもなく、それほどの長さでもないので、息の切れ具合がどんなものか、私の体調を測るバロメーターになります。まあまあ心臓に負担がかかるこ
ともなく上り切ることができました。

 


 市役所からハローワークへ行くために、常磐線を跨線橋で越えて行くと、ちょうど市役所の反対側に伽藍と墓地が見えたので、寄り道をしてみました。吉祥寺というお寺でした。
 ここも真言宗豊山派のお寺です。
 ここも……というのは、私がときどき行く北小金の大勝院、先日行ったばかりの松戸七福神のうち恵比寿神を祀る金蔵院(こんぞういん)、同じく寿老人を祀る日暮(ひぐらし)の徳蔵院……みなみな奈良の長谷寺を総本山とする豊山派のお寺なのです。
 松戸ではなく流山ですが、無患子(ムクロジ)の樹がある観音寺も豊山派のお寺です。

 千葉県学事課の宗教法人名簿を調べてみると、松戸市内には豊山派のお寺が二十三か寺もあって、松戸の仏教系法人では一番多い。千葉県が本場といってもいい日蓮宗のお寺より多いのです。
 市川市だけは中山法華経寺のお膝元のせいか、日蓮宗の寺院が圧倒していますが、近隣の船橋(二十五か寺)、柏(二十七か寺)とも豊山派寺院が多い。よほど熱心に教化に歩いたお坊さんがおられたのでしょう。

 吉祥寺についてはお寺の来歴を説明するものが何もなかったので、家に帰ったあと、インターネットで調べましたが、「松戸&吉祥寺」で検索すると、伊勢丹がヒットするばかりで、はかばかしくありません。
 結局、いまのところは何もわからずじまいです。

 ハローワークは何事もなく、短時間で無事終了。今日は求職活動ではなかったのですが、それでも一時間近く待たされました。これでまた一か月なんとか食い繋ぐことができます。



 空は厚い雲に覆われていましたが、まだ雨になる気配は感じられませんでした。再度跨線橋で常磐線を越えて反対側にある相模台公園へ。

 前回訪ねたとき(六月四日)、ここにも野良の猫殿がおりました。
 今日はミオを持ってきていたので、いてくれれば友誼を深めんものと上ってみましたが、午前中の雨で土が濡れていたせいか、姿を現わしませんでした。



 相模台城があった時代の登城口そのままと思えるような、急で曲がった坂道です。

 


 坂を上り切ると、左手に松戸中央公園がありました。
 ここは戦中まで陸軍の工兵学校があったところです。当時そのままの煉瓦造りの正門の門柱が遺されています。大正九年に造られたものです。
 画像下は歩哨哨舎跡。コンクリート造りですが、最初は木造だったようです。ここに剣付き鉄砲を持った歩哨が立っていたのです。

 もともとは中山競馬場の前身・松戸競馬場があったところです。官が接収して工兵学校を設置したのですが、その名残はいまも遺っていて、千葉地裁、千葉地検、最高裁松戸宿舎、松戸拘置支所などがあります。



 公園の花壇は色とりどりの花盛りでした。

 園内を突き抜けて松戸駅方面に歩くと、イトーヨーカドーの五階に直結しています。
 五階には生活用品売場がありました。ここでフライパンカバーをしげしげと眺めました。いま、私が使っているのは30センチ用のカバーです。ところが最近は20センチのフライパンを使うことが多いので、ひと回りも大きいカバーはどうにも大き過ぎて使い勝手が悪い。火にかけている間にズルッとずれたり、下手をすると床に落っことしたりします。
 引っ越しを控えている身で、否、それ以前に、これ以上モノは増やさないと心している身で、買うか買うまいかと逡巡した挙げ句、後ろ髪を引かれるような思いで踵を返しました。

 まだ雨にはなりそうもありませんでした。
 もう少し足を伸ばすことにして、また松戸中央公園を横切って国道6号線を突っ切り、岩瀬胡禄(ころく)神社を訪ねました。公園からは徒歩十分。



 この石段を上ると、台地を半周しながら上って行く形で参道があり、結構広い境内でしたが、ここも由緒書きのたぐいが見当たらず、社務所はあったものの、無人だったので何もわかりません。

 祭神は面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(あやかしこねのみこと)。
 本社は東京・南千住にある胡禄神社らしいので、調べてみると、名前の由来は胡粉という顔料のようです。
 現在の南千住ではとても貝などが採れるとは思えませんが、かつては直前が江戸湾であり、そこで採れた蛤や牡蠣の殻を石臼で挽いて人形の上塗り塗料として使っていたようです。
 それ以外には、「よくわからん」というブログが見つかっただけで、よくわからない。

 


 対になった左側、吽形の狛犬です。
 前から見たとき(画像上)は特段変わっているとも思えませんでしたが、横に廻ってみると、丸めた背中が愛嬌があって可愛いかったので、カメラに収めました。

 インターネットをさまよっていたら、狛犬には江戸型、出雲型、佐賀型、浪花型などといろいろな型があるのを知りました。それぞれの型にどのような特徴があるのか、知ったばかりなので、まだ把握し切れていませんが、この神社の狛犬は江戸型なのだそうです。玉取り、子取りという用語があるのも知りました。
 この狛犬は右前脚で玉を抑えています。これが玉取り。

 近場ばかりではありますが、二日か三日に一度は出歩く気になって、それも一万歩以上歩いている自分を振り返って、愕いています。
 ブログをつづけられぬかもしれぬと思った数週間前は非常に体調が悪く、本当に命も終わるかもしれないと思ったのです。
 ただ、瀕死の病人がある瞬間だけ、突然治癒したようにピンシャンする小康状態を迎えることがあるのを知っているので、だからといって安堵はできませんが……。

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善養寺の影向の松

2010年06月27日 20時33分21秒 | 寺社散策



 今朝、武蔵野貨物線をこんな列車が通って行きました。
 土日ともなると、いろんな団体列車が通ります。朝の九時前だったのに、早くもビールを呑んでいる客の姿が見えました。
 私は胃潰瘍を患って以来、炭酸系の飲み物、とくにビールは呑まないようにしているので ― 本当は呑みたくて呑みたくて仕方がないのですが ― 鼻の下を長くして眺めていました。

 旅心に誘われて、小旅行のつもりで東京・小岩へ行ってきました。

 

 この街に住んだことは一度もありませんが、二十代なかばという時期、勤め帰りに毎晩のように寄って、小岩ふう焼きうどんを食べ、当時はあまり呑めなかった酒を、呑めるふりして呑みながら、長っ尻をするという店がありました。
 長っ尻をして、帰りの電車がなくなってしまうと友達の下宿に転がり込む。翌朝、夜のとばりが降りるころまでは喫茶店に変わっている焼きうどんの店でコーヒーを飲んで出勤する。
 と、いうようなことで……半分住んでいたようなものです。

 その店に行くのが一週間に一度ぐらいだったものが三日に一度になり、やがて毎晩、というようになりました。タオルや歯ブラシを入れた湯桶をその店で預かってもらうようになって、勤め帰りにまた寄って銭湯へ行く。
 社会人になり立てで、まだ学生気分から抜け切れず、バカばかりやっていたころの話です。



 小岩ふう焼きうどんを食べさせてくれた店があったのは、駅の南口を出てすぐ右に折れた路地の中ほど。確かこのあたりだったはずです。
 が、すでにそれらしき店は見当たりませんでした。呉服屋だったか履物屋だったかがすぐ近くにあって、私と同年齢の二代目が常連で店にきていましたが、その店もなくなったようです。
 道はもっと狭かったような気もします。が、なにせ三十六、七年も昔のことです。すっかり変わっていても不思議ではありません。

 今回小岩を訪ねたのは「新日本名木100選」のうち、善養寺の影向(ようごう)の松を見るためです。100選 ― すなわち百本全部を見ることはとても叶わないでしょう。せめて一本でも二本でも、と思い、本八幡の千本公孫樹(センボンイチョウ)を見たあと、次に近いところが小岩。早速向かった次第です。



 小岩駅から徒歩二十分で善養寺仁王門前に着きました。想像していた以上に大きなお寺でした。
 仁王尊と背中合わせの格好で、土俵入り姿の栃錦の像と横綱(本物らしい)があります。栃錦は小岩の出身です。
 仁王尊、栃錦とも鉄線入りの防護ガラスが乱反射してしまうので、写真は撮れませんでした。



 仁王門をくぐると、すぐ目の前にあった、あった、ありました。

 まるで藤棚のように枝を張った影向の松です。樹種は黒松、東京都の天然記念物に指定されています。

「影向」とは神仏が一時的に姿を顕わすことです。大概は何かの物体を借りて(憑代として)顕われる、中でも松の樹を憑代とするという言い伝えが多く、奈良・春日大社、京都・北野天満宮、倉敷・不洗観音寺など各地に影向の松がありますが、枝が拡がった広さはこの善養寺の松が日本一です。

 樹齢は六百年。
 幹周り4・5メートル、幹の高さは平均3メートル、樹高は一番高いところだと8メートル。枝は東西30メートル、南北28メートルに拡がり、その面積は約900平方メートルといいますから、畳を敷いたらおよそ五百五十枚も敷けるという、愕くべき松です。
 それだけ拡がっていてはとても自力では支え切れません。枝を支える支柱が施されていますが、その数は全部で八十二本もあるのだそうです。



 根元までは近づけないようになっています。一番近いところまで近づいてカメラに収めました。
 樹齢六百年というだけあって、幹は苔むしています。

「新日本名木100選」は1990年、大阪の鶴見緑地で開かれた「国際花と緑の博覧会」(花博)に合わせ、花博協会と読売新聞社の共催で企画されたものです。
 恐らくいろいろな人たちが寄ってたかって、これぞ名木と呼べる樹を集め、その中から選んだのでしょうから、葛飾八幡宮の千本公孫樹とこの影向の松の二本を見ただけでも、さすがにすごいものだと感じさせます。



 善養寺の本堂。
 真言宗豊山派のお寺で、室町時代の大永七年(1527年)に山城の国・醍醐寺の頼澄法印が霊夢のお告げによって、この地を訪れ、堂宇を建立したのが始まりと伝えられています。



 小岩不動として信仰を集めてきた不動堂。手前に伸びているのは影向の松の枝先です。



 横綱山。右手にある石段を上ると、十段足らずで頂上です。
 昭和五十年代から平成の初めまで、境内で子ども相撲大会が開催されていました。栃錦がきて子どもたちを励まし、そのときの土俵でつくった山なので、横綱山と呼ぶのだそうです。



 善養寺のすぐ横に江戸川の堤防が迫っていました。対岸は千葉県市川市です。
 東京に住んでいたときは、小岩に入り浸るような時を過ごしたといっても、江戸川まできたことは滅多にありませんでしたが、まさか千葉に棲んで、向こう側から東京を眺めるようなことになろうとは思ってもみなかった。



 河川敷にラグビーのゴールポストが建っているのが見えたので、足を延ばしました。
 遠くにいても、黄色い声が聞こえます。もしかすると「男もすなるラグビーといふものを、女もしてみむとてするなり」か、と思って近づいてみたら、ラグビーには非ず。ラクロスをやっている人たちでした。



 小岩駅に戻ろうと住宅街を歩いていたら、カタカタと卒塔婆が風に鳴る音が聞こえ、塀越しに墓石が目に入りました。
 萬福寺というお寺で、ここも真言宗豊山派のお寺です。



 入ってみたら、栃錦(春日野清隆)のお墓がありました。あるとは知らずに入ったのです。

 ほかにはとくに見るべきところもなし、疲労感にも襲われていたので、これにて小岩探訪は終わりです。

 今日はデザートブーツを履いて行きました。この靴は足指が締め付けられず、自然に広がるので履きやすく、靴底も飴ゴムで薄く柔らかいので、右の小指が当たって痛むこともありません。が、難点は中敷き部分に土踏まずに当たる凹凸がないので、長距離歩くと疲れやすいということです。
 江戸川ラグビー場で踵を返すころ、脚の疲れが出ていました。それほどひどいものではありませんでしたが、偏頭痛も襲ってきました。

 陽気も、曇って蒸し暑い一日でした。
 じっとりと汗をかいた身体で電車に乗れば、私には少し強過ぎる冷房が効いていました。身体が冷え切ったところで西船橋で乗り換え。また蒸し暑いプラットホームで数分待ち、電車がくると、また強過ぎる冷房……という繰り返し。

 私は冷血動物の生まれ変わりなのか、お風呂に入ってもなかなか身体が温まらない体質なのに、冷房に当たるとすぐ冷えてしまうのです。
 総武線、武蔵野線、それぞれ十分程度の乗車で身体の芯から冷えてしまうようでは、とても新幹線に乗って京都まで……というのは無理なようです。第一、経済的な余裕もないし……。

 家を出て帰るまでピッタリ三時間でした。万歩計の表示は10974歩。偏頭痛もいつの間にか去っていました。少し疲れたな、と感じるあたりで帰るのがちょうどよいようです。

 この散策の行きも帰りも家の近くにある鐘の下公園に寄ってみましたが、二度とも野良殿はいませんでした。

↓今日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map71000.html

 今日歩いたところに添付した航空写真のうち、2が善養寺です。中心にくるようにスクロールして拡大していただくと、影向の松が丸く枝を伸ばしているのがよーくわかります。

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引っ越し

2010年06月26日 20時48分19秒 | 日録

 今日もまだ命があります。
 命があるからには、早晩引っ越さなければならなくなりました。仕事捜しが思うように任せないとなれば、もっと家賃の安いところを捜さなければならないからです。
 ちょうどそう思っていたところに、また廃品回収車がきました。相変わらず車をノロノロと走らせながら、耳障りなテープの音声を流し、ヤレヤレやっと遠ざかりおったかと思うと戻ってきおって、再びノロノロ……。
 我が庵周辺に定期的に出没する車は三台ですが、中でも一番むかつくヤツがきおったのです。♀の声で吹き込んだテープを流していますが、カマトトぶったモノの言い方で、「○○、デス、○○、デス」といちいち区切っていうのが耳障りで仕方がない。今日はなんと九時過ぎから十時半過ぎまで一時間半もうろついていやがりました。

 いまの住まいは3LDK。独り身なので、使っていないものでも置いておく余裕があります。箪笥、靴箱、テレビ台、畳一畳分もあるダイニングテーブル。
 靴箱とダイニングテーブルは部屋が広くなるからといって、新松戸に越してきたときに手に入れたものですが、わずか二年余で手放さなければならなくなりました。それからなぜか二台ある洗濯機と冷蔵庫、電子レンジ、プリンタの各一台も処分しなければなりません。

 これまでは人生の最期の時のことを考えて、少しずつ持ち物の整理を始めていたのですが、引っ越しとなると、思い切って処分しなければならないものがたくさんあります。しかし、処分は断固松戸市の粗大ごみにお願いすることにして、こいつらには出さないと心に決めています。



 これは永年愛用してきた有田焼の茶筒と清水焼の宝瓶です。高価なものではありませんが、それぞれ一応銘の入った桐箱に入っています。この種の茶筒や急須、湯飲み、ぐい呑み、抹茶道具など、まだまだたくさんあります。
 さらに、いまは亡き両親が結婚記念に贈ってくれた九谷焼の湯飲み茶碗、友人がくれた手作りのワイングラス、かつての相方(妻ではない)と旅行先で求めた会津塗の猪口、最近もらったキイロトリの縫いぐるみ、中日ドラゴンズ関連のこれまた縫いぐるみ……などなど。いずれも思い出の詰まったものなので、処分しようと考えたことはありませんでした。

 一つ一つは小さなものですが、いろいろあると、とても全部は目の届くところに置いておくわけにもいかず、だからといって、ダンボールや小物入れに整理するとなれば、他の荷物の置き場がなくなる。
 どうせあの世には持って行けないものばかり……とは思うのですが。

 引っ越し先を決めるのはこれからですが、多分植木類も処分しなければならなくなるでしょう。
 まさか打ち棄てて枯死させるわけにはいきません。近くの公園か空き地に持って行くにしても、車がないので、一鉢ずつ運ばなければなりません。そうなると、長期計画で臨まなければならなくなります。どうしようか、思案のしどころです。

 松戸市内に住みつづけることは変わらないと思います。ただ、新松戸とはお別れです。

 先日、ボランティアでハウスレスの人たちの支援をしている若い女性と知り合いになりました。余計な補足ですが、若いといっても、私と比較したら、ということです。
 話を聴いていると、そういう方面だけでなく、隣の市川市と較べても、我が松戸市はいろんな意味で遅れていると感じさせられます。市川に較べて税金が高いのにおかしなことです。
 たとえば外国人も多種多様な国の人が住んでいて、中には漢字が読めない書けないというだけではなく、日本語も満足に話せない人も多いらしい。
 そこで私の活躍する場があるかというと、せめて小学生新聞が読める程度に日本語の手ほどきをする寺子屋のようなものができないだろうかという話になりました。
 そういうことのお手伝いができたらうれしいことです。私の心もきっとハリを取り戻して、体調恢復が図れるかもしれません。

 今朝、近くのコンビニ(ローソン)へ公共料金を払いに行こうと思って、一階まで降りましたが、ふと思いついたことがあって、一旦帰宅しました。

 

 すぐ近くにある鐘の下公園という小公園です。前に通ったときに見かけた野良の猫殿がいました。一旦帰宅したのは、ここにいるかもしれぬと思って、ドライキャットフードのミオを取りに戻ったのです。
 一匹だけで生活しているようです。市川大野に棲むオフグの子どもたちとは違って、強い警戒心を持っています。植え込みの下に隠れたまま、ミオと私をじっと見較べながら食べようとはしません。

 私が立ち上がると逃げる素振りを見せました。「そうじゃないんだよ」と声をかけて少し離れると、やっと食べてくれました。
 偶然会えてよかった。帰りも通りましたが、すでにどこかへ行ってしまって姿はありませんでした。「劇団一人」と名をつけました。

 

 これも家の近くの空き地で見つけた桔梗の蕾。
 咲くまでまだしばらくかかりそうです。誰かが植えたのでしょうが、半野草化しています。もう一年も使ってきたのに、我がアザイ・パンタックスは使い勝手がよくありません。
シャッターを何度も半押ししてピントを合わせたつもりなのに、ピントは紫陽花にきてしまいます。

 

 夕方、食品の買い出しに出るとき、回り道をすることになりましたが、またミオを持って公園を覗いてみました。
 朝と同じ場所にはヌシが替わって、こんなんがいました。若草色のものは何かの蓋です。
 朝、「劇団一人」にミオを与えたとき、最初は砂地に置いたのですが、枯れ葉に紛れて食べにくそうだったので、なんだかわからないが砂場に落っこちていたのを見つけて、食器の代わりにしたのです。

 この野良殿も警戒心が強く、私が近くにいるうちは、植え込みから出てこようとはしません。
 野良殿の縄張りは厳然としてあるのでしょうから、同じ場所に出没するということは、二匹は兄弟なのかもしれません。しかし、オフグ一家が一斉に出てきて、一応は仲睦まじそうに食べてくれるのとは様子が違います。
 ともあれ、「劇団一人」は一人ではなさそうなので、最初につけた名は撤回して、別の名を考えなくてはなりません。この黒猫殿の名も……。

 猫を飼っている人が「○○(猫の名)は死ぬときに何も遺して行かないんだよ」といったことがあります。どういう話のついでにそんな話が出たのか記憶はありませんが、ほんに人間というものは持ち物が多過ぎます。
 死ぬときには旅銀といって、三途の川を渡るための小銭が少々あれば充分なのですが……。
 部屋の整理をしていて、あまりにも多くのモノがあるのに閉口しています。一つ一つ取り上げて、どうするかと思案を始めると、つい思い出に浸って、片づけの手が止まってしまいます。

 窓の外の欅の梢で、四十雀(シジュウカラ)と雀が交互に啼いています。
 そういえばこの鳥たちこそ死ぬときには何も遺して行かないのだ、としみじみと思ったりしています。



 新松戸のキョウチクトウ通りの夾竹桃です。二年前、引っ越してきて初めて見たのもいまごろの季節でした。
 この通りがユリノキ通りだと思ったものですから、これがユリノキという樹なのかと勘違いしていました。
 それぞれ樹の形を比較してみればまったく違うことは明々白々なのですが……。まだ一度二度と見る機会はあるかもしれないが、これも見納めです。

 スーパーで買い物している間はなんでもなかったのに、家に帰る途中で急に変調がきました。 甘いものが食べたくなってケーキを求めたのですが、それどころではなくなってしまいました。
 しばらく横になったうちにまた眠ってしまい、午後八時過ぎに目覚めてブログを更新しました。

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葛飾八幡宮の千本公孫樹

2010年06月25日 06時32分16秒 | のんびり散策

 二十二日火曜日。急な所用ができて本八幡まで行きました。ハローワーク行はまた日延べです。
 所用を済ませたあと、まだ午後三時だったので、やる気さえ残っていれば、隣駅の市川からバスで松戸駅まで出て、ハローワークへ行くこともできたのですが、このところは遠近を問わず出かけて、一つ用件を済ませると、ぐったりと疲れ、心の張りも失ってしまうのです。

 それに、出かける寸前の体調がやや悪でした。約束をしてしまっているので、よほどひどくない限り行かざるを得ませんでしたが、また軽いながらも偏頭痛があって、家を出て歩き出すと、胸焼けのような心臓の圧迫感に襲われました。おまけにこの日も好天で、カンカン照り。一歩家を出た途端に暑気に中てられたような感じです。
 通勤していたころ、最寄りの新松戸駅までは九分で歩きました。この日は余裕を持たせたつもりで十五分前に出たのに、駅に着いたときにはちょうど電車が入ってくる時間になっていました。
 自分では以前とは何も変わっていないつもりでおりますが、知らぬ間に足の運びがのろくなっているのです。
 ずっと家に引きこもって、パソコンと読書しかしていなかったせいか、眼にいっそうの衰えがきているのにも気づきました。

 日中の武蔵野線は十二分に一本しかありません。乗ろうと思っていた電車を逃したら遅刻ですから、走って大丈夫だろうかと危ぶみつつ、小走りに改札口を走り抜けて階段を駆け上がり、エスカレーターも駆け上ってなんとか間に合いました。
 空席があって坐れたからよかったものの、心臓はドクドクと高鳴り、呼吸も大乱れです。西船橋に着く直前でやっと呼吸が整いました。

 胃潰瘍で入院する直前は、とてもこんな離れ業を演じることはできませんでした。退院後は心臓が高鳴ることには変わりはなくとも、電車が次の新八柱に着くころには平静に戻りました。
 それと比較してみると、やはり一度よくなった身体の具合がまた悪くなっているみたいだナァ、と実感することしきりです。

 本八幡は久しぶりです。多分二年半ぶり。
 前の勤め先で社宅もどきのアパートに住んでいたとき、日用品以外は本八幡まで出ないと揃えられませんでした。ことに書籍、文具のたぐいは前の住居周辺には店そのものがなかったので、ひと月に一度は本八幡に出てきたものです。

 所用は二時間で済みました。
 初めて訪ねるところだったので、訪問先のホームページにあった地図をプリントして持って出ていました。そこに目印の一つとして八幡社と書かれていたので、小さな社かもしれないが、見るだけ見てみようかと思って足を向けました。

 うっかりしていましたが、そこは小社などではなく、下総の総鎮守・葛飾八幡宮でした。
 前の勤め先で横浜港へ貨物を取りに行くとき、市川インターから湾岸道路に入るために、この八幡宮の前に出て、京成電車の踏切を渡っていたのでした。
 東菅野のほうから入ってきて、ワゴン車では車体をこすらんばかりのクネクネ路地をすり抜け、90度曲がって踏切を渡るので、遮断機が上がるのを待っている間も奥のほうまで見たことがありません。

 初めて正面に立って奥まで見通しました。

 参道の中間に随神門があります。
 その下でハウスレスの女性が坐り込んで煙草をふかしていました。
 ハウスレスとホームレス……。
 ハウスレスだがホームレスではない人と、ハウスはあるがホームレスの私と、心寂しいのはやはり私のほうか、などと思いながら、そのかたわらを通り過ぎました。

 拝殿の写真を撮り、参拝していったん引き揚げかけましたが、拝殿脇に国の天然記念物にも指定されている千本公孫樹(正式な登録名は千本イチョウ)があるのを知って、再び戻りました。

 

 遠くから眺めたときは樹高が高く、枝ぶりも旺盛な樹だなと感じたぐらいですが、根元が見えるところまで近づいて、愕きました。これまでの私の見聞などたいしたことはありませんけれども、恐らく一番愕いたのではないかと思います。
 幹周りは10・8メートル、樹高は22メートル、樹齢は? というと、なんと千二百年以上と推定されています。
 主幹は落雷によって、6メートルの高さで折れてしまっています。代わりにその主幹を取り囲んで無数の幹が立ち上がっているのです。

 感動、といえば感動かもしれない。二の句が継げぬ、というのが正直な思いでした。
 この八幡宮が建立されたのは九世紀末の寛平年間(889年-98年)といわれています。樹齢千二百年以上ということは、その前からここにあったということになります。

「江戸名所図会」にも、

 神前右の脇に銀杏(イチョウ)の大樹あり神木とす。此樹のうつろの中に小蛇栖(す)めり、毎年八月十五日祭礼のとき、音楽を奏す。そのとき、数万の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす

 と記されています。

 本八幡まできたので、また弘法寺へ行こうかと思いました。
 私の気に懸かっているのはお寺ではなく、裏の駐車場で出会った野良の猫・虎千代殿です。
 虎千代とは私が勝手につけた名前です。私が通りかかったときに奥のほうにいたのを見つけ、足を止めると、近寄ってきてちょこんと坐ってくれました。
 ドライキャットフードのミオを持っていればよかったのに、その日に限って持っていなかったのです。そのことがいまだに心残りです。



 そのときに撮った画像です。出会ったのは去年の八月三十日でしたから、すでに十か月も経っています。
 私にはたったの十か月ですが、猫殿にとっては六倍か七倍、五年から六年に相当する年月が経っていることになります。
 むろん私のことなど憶えているはずがない。
 私のほうも一度見ただけで、それも仔猫の時代ですから、毛並みは変わらないとしても、風貌が変わっていて、わからないかもしれない。
 第一、まだそこにいるかどうか、保証の限りではない。
 それに、最寄りの市川駅まではわずか一駅ですが、そこから弘法寺まで二十分近く歩かなくてはなりません。いまの我が身にはちょっとこたえそうな強い西日でした。
 また近くまでくる機会はないかもしれないが、今日の日は諦めることに決めました。

 寺西化学工業という描画材メーカーが「巨樹と花のページ」というホームページを開設しています。

http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/mokuji/kyoju_and_flower.htm


 中に「新日本の名木100選」があって、葛飾八幡宮の千本公孫樹も選定されています。千葉県内では清澄の大杉(鴨川市)、賀恵淵の椎(君津市)と並んで三本。
 大きいもの好きの私としてはいずれも見てみたいと思いますが、上記二か所は同じ県内といっても、私にとっては遠いところです。むしろ他の都県ながら行けそうなのは、影向の松(東京都江戸川区)、牛島の藤(埼玉県春日部市)、与野の大榧(同さいたま市)ぐらい。
 見に行く機会に恵まれたらブログで取り上げようと思います。

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柏から小金原へ(2)

2010年06月24日 05時39分46秒 | 寺社散策

 またまた慌てて前後の見境をなくしておりました。
 履歴書が必要になるのはハローワークへ行って、求人先に連絡を取ってもらい、私の年齢、職歴など、相手が了解してからのことです。すなわち、面接してもらえることが決まったとき ― 。それなのに、どういうわけか動顛して、履歴書の用意がないので、ハローワークへ行くのは取り止め、と思ってしまったのです。

 で、月曜日(二十一日)はどこへ行ってきたのかというと、松戸市小金原にある萬福寺です。
 柏の長全寺を見たあと、長全寺と同じく廣徳寺五世・巧室梵藝大和尚による開山と知ったので、是非とも見ておきたくなりました。
 ただ、我が庵からは最短距離を歩いても所要四十分と、やや歩きでがあります。途中、少し寄り道すれば、馬橋の萬満寺と関係が深かったという普化宗(ふけしゅう)の一月寺跡も見ることができますが、病を抱えた身体でそんなに歩いて大丈夫かいな?

 小金原へ行くためには新松戸駅の東方にある台地を越えて行かなければなりません。真っ直ぐに走る道がないので、地図を携帯して行くだけではややこしくなりそうです。インターネットの地図でルート検索機能を用い、その地図もプリントして持って行きました。
 しかし、結構急坂のつづく道を上り切ったところで迷ってしまいました。昔からの小径を拡幅した道路なのか、このあたりの道という道は必ずどこかでカーブしているし、交差も十字ではなく、X字Y字という交わり方なので、いつの間にか方向感覚を失ってしまうのです。

 迷い始めたころ、真夏に近い太陽がちょうど中天にありました。
 帽子と扇子と、どこで野良の猫殿に遭遇してもいいようにミオと、それぞれ持って出ようと思っていながら、全部忘れていました。
 地図の上下をひっくり返し、南の方角に歩いていたつもりなのに、ふと気づくと、開いたまま手に持っていた地図に自分の頭の陰がある。つまり北を向いているのです。
 頭がボーッとして、同じところを二度三度と歩き、挙げ句は近くにあった中学校の校庭に迷い込んだりする始末。
 炎天下を帽子もなく歩いているので、身体は汗びっしょり。
 けれどもよいことが一つ。前日と同じ靴を履いてきたのに、何がどうなっているのかわかりませんが、右足の小指が靴に当たることがないのです。



 どれぐらい余分に歩いたものかわかりませんが、やっと辿り着いた一月寺跡の標識です。

 普化宗とは中国で興った禅宗の一派で、虚無僧宗とも呼ばれます。
 最近はすっかり見なくなりましたが、私が子どものころは深編み笠に尺八という虚無僧が托鉢に歩いていたものでした。
 江戸時代には幕府の庇護厚く、ために明治新政府に弾圧されて、廃宗というひどい目に遭いました。

 明治という時代がやってくるまで、この一月寺は普化宗大本山の一つでした。さぞ大きなお寺であったのだろうと思いますが、いまは馬橋の萬満寺に遺石が遺っているだけです。
 苦労して辿り着いたのに、見つけたのがこの標識一本だったというのはちょっとガッカリでした。
 この標識が建つところ、じつはいまでも一月寺というお寺が現存するのです。ただし、昔とはまったく関係のない日蓮正宗のお寺です。
 寺の名も、昔は「いちげつでら」と呼んだようですが、いまは「いちがつじ」と読みます。

 一月寺跡から二十分弱で萬福寺です。こちらはバスが通るような広い道がつづいていたので、迷うことはありませんでした。陽射しは強いけれども、サクラ通りの桜並木が遮ってくれるので、歩きやすい。

 


 萬福寺前というバス停が見えたと思ったら、コンクリート造りの建物が目に飛び込んできました。
 葬式などに使用される会館と本堂が一体になった建物でした。熱心な檀家も少なくなりつつあるご時世ですから、お寺の経営も何かと工夫しなければならないのはわかりますが……。
 形式主義にとらわれているかもしれませんが、お寺の建物がコンクリート造りというのは、どうもいただけません。

 


 巧室梵藝大和尚によって開山されたのは元亀二年(1571年)ですが、この本堂は昭和四十六年に新築されたもの。



 境内にあった公孫樹(イチョウ)の古木。



「今日こそは 愚痴をいうまい語るまい 唯ありがたく すごすよろこび」と示された標語。

 そのとおりです。語り合う相手のいない私には必然的に愚痴をこぼす相手もおりませんが、心の中で思えば、口に出すのと同じ。ブツブツいったところで、仏にはなれぬ。何も変わりはしないとわかってはいるのだけれど……。
 公孫樹の木陰になった墓参者用のベンチを借りて一休みさせてもらい、携帯してきたダカラで喉を潤したので、少し生気を取り戻しました。

 萬福寺をあとにしながら、なんとなく廣徳寺がミニ永平寺で、長全寺と萬福寺がミニ総持寺という感じがしました。参詣して心がしっとりと潤うような気がするのは廣徳寺だけのように思います。

 きたときと同じ道を戻ります。
 途中にユーカリ交通公園があります。行きはその前を通りつつ、帰りに寄れるだけの元気があったら寄ってみるが、多分無理だろうなと思いながら通り過ぎたものでした。

 


 園内にはこんなものが展示されていました。SLファンの間ではこのD51(通称デゴイチ)と貴婦人と呼ばれているC57が人気です。
 しかし、私はなんでも大きいものが好きなので、旧国鉄最後の蒸気機関車で、ガタイもデカイC62(シロクニ)に心惹かれます。
 特急「つばめ」などを牽引したエリート機関車ではありますが、電化の波の直前に咲いた徒花(あだばな)のような存在で、東海道から山陽、九州、最後は北海道と、活躍の場を次々と追われて行ったことも、物悲しく愛おしく思えます。実際は違うのかもしれませんが、私のイメージの中では戦艦大和とよく似ています。
 画像下は自衛隊で救難機として使われたシコルスキー62型。

 このあたりまで戻ってくると、常磐線の北小金駅が近くなりますが、まだ随分距離があります。
 汗みずくになって、心臓に少し負荷がかかっている感じもしましたが、偏頭痛もなく、何より足が痛くないのがありがたい。このまま歩いて帰ることに決めました。



 去年のゴールデンウィークも前を素通りしただけの光明寺。ここも本堂はコンクリート造り。今回も写真だけ撮させてもらって素通りしました。



 やはり去年五月に見た幸谷観音です。
 等身大(158センチ)の漆黒の十一面観音が祀られていることで、この付近では結構有名です。御開帳は午年の四月十八日だけ。すなわち十二年に一度で、今度は四年後です。私はとても拝むことはできないでしょう。
 背を屈めて覗き込むと、ガラス窓を通して辛うじて拝観することができますが、撮影するのは至難。コンパクトデジカメではなおさらです。

 六実方面を残していますが、これにて松戸市内のお寺巡りは大体終えることができました。なんとなく自分でカタをつけておきたくて、無理を承知で出かけたのです。体調のよいときとまだ命に恵まれているときがあれば、見残したところも足を延ばしたいと思いますが、とりあえず私の中では完結したような思いがしています。

 昨日のブログに書いたように、このあと新松戸駅の裏手に出て野菜を買い、下手な横好きの料理をつくりました。

↓今回歩いた足跡。
http://chizuz.com/map/map70804.html

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ホームレス

2010年06月23日 06時39分03秒 | つぶやき

 まだ命があります。
 六月二十日日曜日、柏まで行ってプリンタのインクカートリッジを買って帰り、しばらくしたらまた胸焼けのような重苦しい気分に襲われました。
 柏駅(東口)はいつも人が多く、雑然としていて、好んで行きたいところではありません。人気(ひとけ)に中てられたのかもしれません。
 横になっていたら、やがて治まりましたが、朝が早かった(椋鳥の大群がねぐらへ帰るころでしたから、多分四時半)ので、そのままウトウト……。
 履歴書はインクカートリッジさえ取り替えれば、ものの数分で出来上がると思ったので、午睡から目覚めたあとも、履歴書のプリントにはかからず、ぼんやりして過ごしました。
 すぐ取りかかっておけばよかったのに、私はいつも打つ手が一手遅れて、あとで吠え面をかくことになるのです。

 翌月曜の朝、椋鳥たちの渡りより早く目覚めました。前日は午睡を取ったとはいえ、空がようよう白むころに起きてしまったので、寝不足気味でした。
 それにこのところ、右眼がおかしい。
 春に二度つづけて物貰いを患ったあと、目脂が多量に出るようになったのです。こびりついたようになっていて、さっと顔を洗う程度では取れません。ひどいときには目覚めた瞬間、眼が開かないことがあります。ところが顔を洗ったあと、鏡で念入りに見たつもりですが、腫れなどがあるわけでもなく、とくに異常は認められないのです。

 日中はなんの前触れもなしに突然痛みが襲ってきて、ボロボロと涙が出ることがあります。右眼だけです。右眼だけが泣いている。ひとしきり泣き終わると、とくになんでもない。

 入院した病院に通院していれば、眼科があったので、診てもらったかもしれません。しかし、新しく通院を始めたところは循環器だけの専門病院なのです。

 もう一つ厄介なのが、持って生まれた畸形の右足小指です。齢を重ねるのに連れて痛みが増すように思ってきましたが、去年までは気温の低い冬の間のことだけでした。
 冬場は靴の革が硬いことと関係があるのではないか、と独り合点していましたのに、今年はこの季節になっても靴に当たって痛いのです。
 毎日の痛みを記録しているわけではないので、確かなことはいえないけれども、去年のいまごろは城跡やお寺を巡ってズカズカと歩いていたことを振り返ると、痛みに悩まされていたとは思えません。

 去年初冬に入院したとき、血液関係の数値があまりにも低いと知らされ、医師からは最低二週間の入院が必要といわれましたが、自覚症状がひどく、二週間で退院できるとは思えませんでした。そのとき、ふと考えたのは、ついでだから入院中に足の小指を切除してもらうかということでした。
 若いころはほとんど気にならなかったのに、四十になるころから少しずつ違和感を覚えるようになりました。
 ちょうどそのころ、仕事で形成外科医にインタビューすることがありました。たまたまその医師とは酒を酌み交わすような仲になったので、相談を持ちかけてみたら、レントゲンを撮る、というところまで行きました。
 レントゲン撮影の結果、骨と神経には異常が見られないので、肉を削ぎ取って人並みの足に戻すのは簡単だろうという診断でした。ただ問題は、手術後は当然ギプスを当てなくてはならず、数週間は靴も履けず、松葉杖が必須ということです。

 その当時の私は人生で一番の働き盛りを迎えていました。
 テーマに最適な人を見つけ出してはインタビューにインタビューを重ねて行くという仕事をしていましたから、歩くのが仕事と言い換えてもよかった。
 それなので、わずか数週間とはいえ、自由気ままに歩けなくなるというのは致命的だと考えてしまったのです。
 結果、先送りにすることにして……そのままズルズルと現在に到っている、というわけです。

 私が入院した病院は丸い建物になっていて、一階と二階の中央が待合室、それを取り囲んで、各科の診療室がありました。ある日、注意深く見てみましたが、形成外科はないようでした。
 なぜ関係者に訊ねなかったのだろうと思います。長いこと雑誌でインタビューをして、その都度初めての人に会う、という毎日を過ごしながら、私は人と口を利くのが得手ではありません。
 それとも、痛みに難渋していながら、我が身に刃物を突き立てられるということが深層心理で嫌だったのかもしれない。

 退院後に通院していたとき、二階の目立たない場所に形成外科があったことを知りました。

 靴は四~五足を取っ替え引っ替えして履いていますが、特定の靴だと痛む、というものでもなさそうです。
 日曜日に履いたのは少し重めのホーキンスのトラベルシューズでした。柏のビックカメラへ行き、長全寺へ往復しただけですから、五千歩も歩いていません。それでもちょっと痛むことがありました。

 私は二日つづけて同じ靴は履かないようにしています。
 家に帰ると、明日履いて行く靴を出して、脱いだ靴にはシダーのシューキーパーか丸めた新聞紙を入れて靴箱にしまいます。何事においても、物臭で自堕落な性格ですが、これだけは律儀です。
 そこで、月曜日はハローワークへ行くつもりだったので、体調が悪くなければ、同じ靴を履いて、どこか散策し、足が痛むかどうか試してみようと考えました。

 ところが、です。おもむろにパソコンを開いてみると、保存しておいたはずの履歴書のシートが見つからない。顔写真も見つからない。
 顔写真はどんなタイトルをつけて保存したのか憶えがありませんが、履歴書は「履歴書」とタイトルをつけて、しっかと保存したはずです。ファイル検索機能を使いましたが、「見当たりません」とのメッセージ。うっかりしていて削除してしまったのかも……。
 そういえば最近ごみ箱を空にしたばかりです。

 なんというボケ茄子かと、自分に肚が立って肚が立って仕方がない。
 前日、インクカートリッジを買って帰ったあと、すぐやっておけばよかった、と激しく後悔しました。毎度毎度同じことを繰り返しながら、貴様はこの期に及んでもいまだに懲りぬのか、と。
 新しく作り直すのにそれほど時間は取られません。顔写真は前に撮影したあと無精髭を伸ばしたままなので、髭を剃らねばならないが、これもそれほど時間を取られるわけではない。
 しかし、自分の不注意さにすっかり嫌気が差してしまったので、ハローワークへ行く意欲を喪失してしまいました……。

※このときは自分でも愕くほど慌てていました。履歴書が必要になるのは、ハローワークで求人先が見つかってからのことです。求人があるかないかわからない段階では履歴書は必要ないのです。

 最後を思わせるブログを書きながら、のんきに更新をつづけているようですが、実態はそれほどのんきなものではありません。

 私よりずっと重い病で苦しんでいる人はたくさんおられると思いますが、
しつこい偏頭痛の来襲に晒されているとき、突如眼の痛みに襲われるとき、たまさかテーブルの脚に右足の小指をぶつけてしまったとき……、こんなに辛い思いをするくらいなら、生きているのはもういいか、と気弱な虫が出てくることが多くなりました。

 昨日、ひょんなことから自分はずっと前からホームレスだったのだと知りました。世間でいうホームレス(路上生活者)は、正しくはハウスレスというのだそうです。
 ハウスレスだが、ホームレスではない人もいます。
 天涯孤独(だ、とふんぞり返っているわけではありません)の私は棲む家はあっても、心の拠りどころである「ホーム」がない。よって、私のような者こそをホームレスというのだそうです。

 月曜日は結局ハローワークには行かず、別のところへ行っていました。別のところのブログはあと回しにしますが、そこからの帰り道、新松戸駅の裏手にある野菜直売所で隠元と胡瓜、青梗菜を買いました。
 これまでは、その店の前を通るとしたら日曜日しかなかったので、店が開いているのを見たことがなかったのです。

 


 家に帰ってつくったのが豚の角煮と青梗菜炒め、高野豆腐の炊いたんと隠元の塩茹でです。胡瓜は子どものころを思い出して、冷蔵庫でギンギンに冷やしたあと、塩揉みにして食べようと思います。

 何もかもおしまい。生きているのも、そろそろもういい……。
 そう落ち込んで最後のブログを書きましたが、できるところまでブログの更新をつづけます。体調が悪くて思うに任せないときは「体調不良」という一行だけでも書こうと思います。

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柏から小金原へ(1)

2010年06月21日 19時27分40秒 | 寺社散策

 日曜日(六月二十日)の朝、ハローワークのインターネットサービスを視ていたら、一件だけでしたが、私の狙うべき求人がありました。土曜日、ハローワークへ行って検索しているのに……。土日に新しい求人を受理することはないでしょうから、多分見落としていたのです。

 早速履歴書を……といっても、エクセルでつくって保存しておいたものをプリントアウトし、セルフタイマーを使って撮ってある顔写真もプリントアウトして貼るだけですから、明朝できるだけ早く行くべし……。
 そう思ってプリンタの電源を入れたら、パソコンの画面にはブラックとライトシアンのインクが残り少ないという表示が出ました。一通つくるだけですから、なんとかなるだろうと印刷実行をクリックしたのですが、プリンタがガーガーガチャガチャとひとしきり音を立てたあと静まり返ってしまいました。いつもなら、そのあとに紙を引っ張るローラーが動くのですが、動く気配がない。

 うにゃ? と思って見ると、プリンタのディスプレーには、インクの残存量が限度以下なので、プリント不可能というガイドが出ていました。
 私のプリンタはエプソンですが、エプソン製品でなくとも新松戸にはインクカートリッジを売っているような店がありません。家電販売最大手の量販店がありますが、スペースは狭く、パソコンと携帯電話が同じ売場になっているのですから、行ったところで、ないことは明々白々です。

 となると、柏まで出かけなければなりません。ここ数日は体調がそれほど不全ではないのが幸いですが、頭の重い感じは相変わらず。ヤレヤレです。

 ビックカメラでインクカートリッジを買って、柏へ出てきた用件は済みましたが、あっという間に引き返してしまうのも味気ない。前から柏に行くようなことがあれば行ってみようと思っていた長全寺へ足を延ばすこととしました。柏駅から歩いて十分足らずです。

 そごう前の階段で駅前のデッキを降りると、三井ガーデンホテルの前を通ります。
 季節はすっかり移ろっていますが、ここに投宿した友に会いにきたのはわずか四か月前のことです。
 直後から連絡が途絶えました。当初は何があったのだろうと心配しました。やがて多分二度と会うことはないのであろう、と自分を納得させるようになりました。
 しかし、縁のあった場所にくれば、私の身体をいろいろ心配してくれていたころの思い出が甘酸っぱい香りとともに甦ってきます。

 そんなことを思い返しながら歩いているうちに長全寺に着きました。
 手前に通用門があって、そこから境内に入ることができますが、私はほんの少し足を延ばして山門から入りました。

 


「開創天正二年(1574年)四月二十五日」と彫られた山門前の石柱と山門です。
 ところが、寺の略縁起には開創は弘治二年(1556年)とあるのだそうです。実際はもっと古く(年代未詳)、それまでは天台宗寺院であったのを、廣徳寺五世の巧室梵藝大和尚が曹洞宗に改めたのが弘治二年だというのです。よくわかりません。

 廣徳寺は我が庵から近いので、よく足を運ぶお寺です。
 およそひと月前、写真に撮ってきた歴住碑。
http://blog.goo.ne.jp/aguis57/e/81c8b26bfa279fc341284cc418bc482f

 改めて見てみると、確かに巧室梵藝大和尚は廣徳寺の五世で、長全寺と小金原にある萬福寺の開山(1571年)と記されています。

 もう一つ、境内に弘法大師を祀る大師堂があったのも理由がわかりません。
 馬橋にある萬満寺は臨済宗のお寺ですが、臨済の教えとは関係がないはずの不動明王を祀り、弘法大師にまつわるものも遺されています。元が真言宗のお寺だったからです。

 それはともかく、最初に長全寺が開かれたのは現在地ではなく、少し離れた戸張村(柏市戸張)というところでした。寛永年間(1624年-44年)に現在地へ移転。
 私はまだ訪ねていませんが、戸張には千葉氏の流れを汲む戸張氏の城館跡があり、大永年間(1521年-28年)までは同氏の菩提寺として栄えたようです。
 ところが、重要な史料とされている「本土寺過去帳」に再三登場していた戸張氏の名が、大永五年(1525年)以降プッツリと消えてしまうそうです。消えたあと、現在の埼玉県吉川に居館を移していたことがわかるのですが、なんらかの事情があって隠居させられたのだろうと推測されています。隠居状態では有力な檀越の勤めは果たせず、よって寺も凋落し、三十年後に曹洞宗の寺院として再興された、ということなのでしょうか。



 山門の後ろに咲いていた紫陽花。紫陽花の花をとっくりと眺めるのは今年初めてです。



 仁王門。まだ真新しいと思えば、昭和四十九年の落慶とか。

 


 吽像(画像上)は穏やかな表情をしておられます。

 


 仁王尊とは背中合わせ、本堂を向いて立っている四天王像。
 持ち物から推し量るに、画像左の左は持国天、右は多聞天、右の左は増長天、右は広目天だと思うのですが……。

 


 本堂。これも真新しく昭和四十一年の落慶。
 画像は割愛しましたが、金比羅堂(昭和三十一年)、鐘楼(同四十三年)と新しい伽藍ばかりです。年代物と思えるのは山門と大師堂だけではないかと思えます。火事にでも遭ったのではないかと想像したくなりますが、ホームページには手がかりになるようなことは何も書かれていません。



 仁王門のかたわらに聳える椎(シイ)の古木です。柏市の保護樹木に指定されていますが、どれほどの樹齢なのか、詳細は不明です。

 新しい伽藍ばかりだったせいか、しっとりとした潤いが感じられず、のっぺらぼうな印象を受けたお寺でした。

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翁草

2010年06月19日 22時57分34秒 | のんびり散策

 一昨日十七日、一万歩以上も歩くという、最近では珍しいオーバーワークをしているのに、昨日今日と体調はさほど悪くありません。そこでハローワークへ行ってきました。平日に較べると、業務は限られていますが、土曜でもやっているのです。
 しかし、結果はまたも空振り。ないだろうなと危ぶみながら行ったものの、実際に「求人ゼロ」という現実に接すると、背中も肩も一層丸くなるようです。

 長居をしていても詮方ないので、歩いて数分の松戸市立図書館を覗いてみました。「翁草」という江戸時代の書物に田沼意次のことが(好意的に)
書かれていると知ったので、借りに行ったのです。
 これは森鷗外も愛読していたという本で(「高瀬川」もここからヒントを得ています)、私も自分の書架に加えたいと思いながら、諸事情これあり、叶わないままになっていました。

 事前にWebで調べたときは、吉川弘文館版(全六巻)の所蔵
があり、貸出可能とありました。
 ところが、実際に図書館へ行って、書架のどのあたりを捜せばいいのか、と館内備え付けのコンピュータで検索してみたのですが、あるはずのものがないのです。
 不思議に思って訊ねたら、場所の離れた倉庫にしまってあって、すぐには借りられないということでした。おまけに二十一日から月末までの十日間は休館となるので、借りられるのは来月になってからだという。
 ヤレヤレ。松戸に住ませてもらっているのに悪口をいってはいけないと思いつつ、松戸の公共施設にはいつも隔靴掻痒の思いをさせられます。
 わざわざやってきたのに、とついムカムカときてしまったので、早々に退散しました。

 蒸し暑い。
 家に帰っても蒸し暑いだけなので、近辺を散策してから帰ることに決めました。



 図書館の近くには、去年も訪ねた平潟神社と平潟遊郭にまつわる来迎寺があります。この来迎寺には遊女を弔った墓があるらしいのですが、去年と変わらず柵があって、境内に入ることはできません。簡単に跨ぐことのできる柵なので、入ろうとすれば入れるのですが、柵が置いてある、ということは、入るな、ということなのでしょうから、入るのは遠慮するのです。

 旧平潟地区は鉄道が通るまで水運の街として栄えたところです。遊郭があったのもそのため。
 いまはマンションが建ち並んで、その当時を偲ばせるものは皆無ですが、坂川、新坂川、樋古根川、六間川という四本の川が「土」の字を形づくって流れているのを見ると、小舟の行き交う賑やかさが目に浮かぶようです。
 猪牙舟に乗って郭を廻る芸伎がいたかもしれません。

 足の向くまま気の向くまま歩き出しました。
 六間川に沿った道路は松戸三郷道路です。江戸川を越すために徐々に高架になって行きます。その下の道をしばらく歩くと、圓勝寺という案内板が目に入ったので寄ってみました。

 


 真言宗豊山派のお寺ですが、浄土宗のお寺を思わせるような大きな甍です。
 境内はいつも私が行くお寺がそうであるように、まったく無人。物音一つしませんでした。
 帰宅後、Webで調べてみましたが、ホームページもなく、関連したブログもなく、お寺の由来などはわかりません。



 鵜森稲荷神社。
 圓勝寺の少し先、江戸川に向かったところにありました。
 境内にあった由来書きによると、昔は江戸川のほぼ中央にあって、森に数千羽の鵜が住み着いていたことから、名前がつけられたようです。「ほぼ中央」というのは中州なのだろうかと思います。
 現在地に移転、ともありましたので、間違いないようですが、あった場所が中州とは書いてありませんでした。

 天気予報ではやがて雨になるようだったので、折り畳み傘を携帯していました。
 肩から提げたトートバッグには、ダカラを入れたマグボトルとバイブル手帳、地図、財布、カメラ、携帯電話を入れているだけですが、折り畳み傘一本を余分に持っただけで、バッグはずっしりと持ち重りがします。

 曇って、一層蒸し暑くなったと思った矢先、太陽が顔を覗かせてカンカン照りになりました。そこへ恒例の偏頭痛が来襲しました。
 これはいかん、と思って腰を下ろせるところを捜したけれども、適当な場所がない。途中でぶっ倒れてもいいと覚悟を決めて、江戸川まで小走りに歩き、松戸三郷道路の橋の下にもぐって身体を横たえました。

 微風ながらも少しは涼しい川風に吹かれたのがよかったのでしょうか。
 やがてダカラを口に含む元気が出て、ダカラで湿したハンドタオルを頭痛のする場所に当てていたら、いつの間にか来襲は陰をひそめました。



 また聞くとは思っていなかった行行子(ヨシキリ)の啼き声が聞こえたので、しばし河原に降りたあと、あとはぐずぐずしている場合じゃないと松戸駅目指して戻りました。幸い空は再び曇り、特別いぶかしいような体調でもありません。
 急ぎ足(自分でそう思っているだけで、じつはのろいのです)で帰る途中、小さな森が見えてきました。



 我が庵の近くにあったのと同じ女躰神社でした。祭神も同じ筑波女大神、つまり伊弉冉尊。
 腰を下ろせる場所でもあれば小休止させてもらおうと立ち寄ったのですが、緑には恵まれているものの、小さな社で、もちろん無人。腰を下ろせるようなところはありません。裏手から入って通り抜けただけです。

 


 すぐ隣には大乗院。ここも真言宗豊山派のお寺です。
 女躰神社、大乗院ともかすめるように通過したので、手早く写真を撮っただけです。家に帰ったら詳細を調べてみよう、と思ってWebをさまよってみましたが、いまのところは詳しく触れたブログやホームページがありません。
 また体調がよくなったら(そういう日は望めないかもしれませんが)、ゆっくり調べるつもりです。

 私が読みたいと思った「翁草」には次のようなことが載っているそうです。

 田沼意次が松平定信と一橋治済によって失脚させられたとき、当然のことながら、家臣の大部分(二百七十人だったといわれます)に暇を出さねばならぬことになりましたが、意次はそれぞれの役職に応じて、破格の手当金を渡しているのです。
 地位の高かった者には数百両、武士の中では最下級の小徒士並にも五十両。
 この時代、一般庶民なら十両あれば一年間の暮らし向きが立ったといわれています。五十両はいまの貨幣価値からいうと、最低でも一千万円。それぐらいは渡していたことになります。
 田沼意次は五万七千石という大名にまで出世しましたが、もともとは貧乏人の小倅です。貧乏人が成功すると、苦労した時代を忘れて尊大になることが多いようですが、意次はそうはならなかったのです。

 意次に代わって老中首座に就いた松平定信が行なった寛政の改革は、一口でいうなら奢侈を禁止することです。贅沢を摘発しようと、密偵にご婦人の下着まで調べさせたといわれます。
 ところが、その密偵が賄賂を掴まされて、案件をうやむやにしていまうこともないとはいえません。松平定信という人は密偵が賄賂を掴まされていないかどうか監視するために、さらに密偵を監視するための密偵を使った、という念の入れ方をした人です。
 念には念を入れるというのは何事においても常套手段かもしれませんが、ここまでくると、愉快な話ではなくなってしまいます。

 以前のブログで松平定信や田沼意次を取り上げたとき、とくにどちらかに思い入れがあったわけではありません。しかし、意次の面倒見のよさ、定信の疑り深い性格……と知識が一片一片と増えて行くのにつれて、私は徐々に意次贔屓になって行くようです。単純単純。                          

 

「幻十郎必殺剣」(テレビ東京・画像も同ホームページから拝借)という時代劇がありました。
 同僚を殺害し、本来なら死罪になるはずだった主人公(北大路欣也扮する元南町奉行所同心)が、かつての権力者の思惑で、名前を変えて生き残ることになり、代わりに現政権を担っている者の悪を暴く、という筋立てのドラマです。
 かつての権力者とは松平定信。
 失脚後、隠居したあと、という設定なので、松平樂翁です。
 どこまで史実に基づいているものかわかりませんが、幻十郎が首尾よくことを終えたあと、人けのない屋敷の暗がりからヌッと顔を出すのが中村敦夫演ずるところの樂翁です。
 人目を憚って現われるところがいかにも陰湿で、悪巧みを隠しているという風情があって、役どころとしては的を射ていますが、はっきりいって悪役です。役者は割り振られた役を演ずるのが仕事、とはいうものの、我が青春時代、「木枯らし紋次郎」で胸をワクワクさせてくれたのが中村敦夫だったのに、です。

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ひと月ぶりの通院

2010年06月17日 17時00分52秒 | 寺社散策

 ひと月ぶりに湯島まで通院しました。
 本当は二週間に一度、というのが決まりなのですが、東京までとなると、私にはひと月(四週間)一度でもシンドイのです。

 例によって長い待ち時間のあと、検査と診察を終えて、また大量の薬をもらうのを待っている間、同じように薬が出てくるのを待っている女性がいました。年のころは三十代なかば、か。
 私と薬剤師との間で、前に薬を処方してもらっていた新松戸の薬局の名前が出たのが聞こえたのでしょう。私が長椅子に戻ると、「松戸の方ですか?」と話しかけてきました。
「ええ」
「もうお帰りですか。よろしければお送りしましょうか。車できていますので……」
 これはラッキーと思いましたので、喜んで同乗させてもらうことにしました。

 ところが、家はどこかと訊いてみると、埼玉県の吉川です。まったくの方向違い、というほどではないが、松戸に立ち寄るためには、渡らなくてもいいはずの江戸川を渡らなければなりません。
 俄然恐縮して辞退しようとする私に気を遣わせまいとしたのか、知らない道をドライブしてみたいから、といい、何せ離婚して独り身、パートを休んでしまった今日はすることもないから、というのでした。

 名前はYさんといいました。
 私と同じようにリンパの循環に障害があって、一年以上も通院しているのだそうです。
 私の家まで送ってくれるということでしたが、私はこういう偶然の機会でもない限り行くことはないかもしれないと思ったので、同じ松戸市内ではあっても、私の家とはちょっと方向違いの、金蔵院(こんぞういん)という真言宗のお寺の近くまで乗せてもらうことにしました。
 ここは松戸七福神巡りで、私が一つだけ残した恵比寿神が祀られているお寺です。私の家から歩いて行くしかない三か寺の中では一番遠く、よって最後まで残っていたのです。

 新葛飾橋で江戸川を渡るころ、ちょうど昼時となりました。腹はまったく空いていなかったけれども、送ってもらったお礼に食事でもご馳走すべきかと考えましたが、つらつら考えてみても、私の腹はまったく減っていない。
 そうこうしているうちに、車は国道6号線から流山街道へ……。
 とくに話の接ぎ穂がないまま。
 初対面で、しかも私の息子と同年齢の若い女性と狭い車の中で隣り合わせ、となると、六十を過ぎても晩熟(おくて)な私が、よりによって七福神巡りの話を持ち出したのでは、弾む話も弾みません。同病相哀れむとはいえ、さぞかし退屈だったことでしょう。

 湯島からちょうど一時間。坂川放水路に架かる主水(もんと)大橋で車を停めてもらいました。
 Yさんの名前のほうは訊きませんでした。もちろん連絡先も……。
 それでも、また会うことはあるだろうか。
 通院日も訊かなかったけれど、今日一緒になったということは私と同じ隔週木曜日なのかもしれない。
 なんの下心もありませんが、無理をしてでも再来週の木曜日は通院するか、などと考えているうちに、そうか、私はコーヒーにして、食事をご馳走すればよかったのだと気づきました。車を降りてすでに十分以上も経ったころです。
 我ながらまったくトンマなヤツです。



 まさか「(あけち)みつひでけんせつ」と読むのではあるまい、と思いますが……。
 金蔵院を捜していたとき、門前手前で目にしました。


 


 金蔵院本堂です。寛永六年(1629年)の開創。本尊は不動明王。
 きれいに掃き清められた参道のかたわらには菖蒲の花。参道土塀横に写るスレート葺きの建物が多分「みつひでけんせつ」(?)。



 松戸七福神巡り最後となる恵比寿神です。
 私の七福神巡りは順番も適当、日時も適当、御朱印帳を用意しているわけでもないので、これで満願とはならないのでしょう。

 無患子(ムクロジ)の樹がある観音寺はわりと近いのではないかと思われたので、行ってみることにしました。
 植物図鑑には六月ごろに淡い緑色の花を咲かせる、と記載されていました。どんな花なのか見たことはないが、咲き始めているかもしれない。




 途中で見かけたじゃが芋畑です。
 ざっと見たところ、広さは七十~八十坪。物事は思いどおりに行かないのが常、とはいうものの、私の計画が順調だったならば、もっと広い百坪の畑に、私自身の手でこのように……と思いますが、いまとなってはみんな夢の中です。



 別の畑地に寝そべっていた黒の野良殿。
 日陰になっている上に土が湿っていたので、冷たくて気持ちがいいのでしょう。散策は突発的でしたから、今日はミオを持っていません。

 用水路で蛙の声を聞きました。
 家に引きこもり気味になり、息をひそめているうちに、完全に夏来たるらし、です。周りは畑地が多く、木陰がないので、シャツはすでに汗グッショリ。

 近いと思っていたのに、観音寺までは結構な距離がありました。
 野中の道ですから、バスの便もない。自販機もない。タクシーも通りません。ここまできたら歩き通すしかありません。

 Yさんが声を掛けてくれなければ、病院帰りに散策するつもりなどなかったのに、私はひと晩冷蔵庫で冷やしておいたダカラをマグボトルに携帯していました。途中、無人の社を見つけて休憩二度。
 給水はこれでよいとして、心配だったのは偏頭痛に見舞われるのではないか、ということでしたが……。
 せっかちなのは相変わらずなので、まだ汗が引かないうちに歩き出しています。

 


 金蔵院から炎天下を三十分歩いて観音寺に到着。
 無患子はすっかり葉を繁らせていました。下は五月初めに訪問したときの画像です。




 鈴なりの蕾をつけていますが、花はまだでした。



 掃き集められていた去年の無患子の実。
 そのほかにもまだたくさん落ちていました。四月初めに収穫したとき、十五個拾ったつもりが十四個しかなかったので、一つだけもらってきました。



 南流山駅近くの民家。玄関先に桔梗の鉢植えがあったので記念撮影。丈の高さからして種から育てたものと見えます。

 朝、家を出てから一万三千余歩歩いて帰宅。
 思ったほど疲れていなかったし、偏頭痛も出ませんでした。歩き始めこそ脚に不安がありましたが、結構健脚ぶりを発揮できました。汗をかいたせいか、汗が引いたあとはサッパリした気分です。

 私の身体に不足している鉄分増量には、ヒジキがいいだろうと信じているので(実際に効果は高いようですが)、昨日からヒジキの五目煮をつくり始めました。蓮根と蒟蒻は買い忘れたので入れません。
 小鉢一杯分程度、ささやかにつくるつもりでしたが、炒めたあと、煮汁を飛ばすために煮込んでいると、ヒジキの量に較べて、どうも油揚げや人参が少なく、バランスが悪いように思えたので、油揚げと人参をもう少し……と。
 そうするうちに、今度はヒジキのほうがまばらになってきたように思えたので、ヒジキをもう少し……と。




 テナ具合で、こんなに大量になってしまいました。
 見た目ではわからないだろうし、画像ではなおさらですが、色取りのつもりで、のげのり(千葉県銚子の特産品です)とあまっていた高野豆腐一丁を入れたので、ますます多量です。
 冷蔵庫で保存するとしても、暑くなってきていますから、一体全体食べ切れるのかと思いながら、小鉢に取って写真を撮り終えたら、また軽い偏頭痛……。
 今日は食事をする前にやってきたので、セットになっている胸焼けと吐き気がなかったのだけは幸いでした。

 食べたのは二時間後でした。
 味付けは最初から目分量です。途中、具材を継ぎ足すごとにまた目分量でしたが、ちょっと砂糖が多かったかなと感じるものの、まあまあの味に仕上がっておりました。

 薬はまた紙袋にいっぱいになったけれど、明日の体調が少し心配です。

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栗花落と白滝姫

2010年06月15日 18時31分22秒 | 歴史

 最後を臭わせるブログを書いたというのに、二度目の更新です。

 昨日、関東地方は梅雨入り。前日からの雨で、肌寒く感じる気候であったのにもかかわらず、わりと調子のよい目覚めを迎えることができました。
 昨十四日は明智光秀公の祥月命日でした。例年なら髪を洗い、斎戒沐浴したあと、新しい下着に替え、水をお供えし、お線香をあげるところですが、少し涼しかったので、風邪をひいてはいけないと警戒して、斎戒沐浴は取りやめにしました。

 雨が熄むのを待っていても、一日じゅう降るという予報だったし、強くはなかったので、昼過ぎに買い物に出ました。相変わらずフラフラと覚束ない足取りです。
 数日前、テレビの料理番組で視た豚の角煮と青梗菜炒めが美味しそうだと感じたので、つくろうと思ったのです。肉を食べたいと思うのは久しぶりです。
 豚の角煮は自分でつくろうか、出来合いを買うかと逡巡ののち、出来合いのものを買いました。

 家に戻って下ごしらえにかかったら、偏頭痛に見舞われました。両耳の上のあたりが両側とも痛むときと、どちらか片側だけ痛むときがあります。
 昨日は最初右側。
 とても我慢できない、という痛さではありません。しかし、ドーンと居座ったようにいつまでもシークシークと痛みます。
 何かほかに熱中できるようなこと、たとえばテレビで秀逸なドラマをやっているとか、インターネットを視ていて、思わず惹き込まれるような記事を見つけたときなどがあると、痛みを忘れることができ、やがてふと我に返ったときには消えているということがあります。

 が、昨日のテレビは私にはまったく興味が持てないのに、サッカーのワールドカップ一色。NHKなんぞは試合開始は日本時間で夜中だというのに、昼間からカメラを入れて、誰もいないスタジアムを映し出したりしている。呆れて物が言えぬと思っているうちに、左側も痛み出しました。
 処方されている薬の中には痛み止めなどないので、服んでいいのかどうかと思いながらバッファリンを服んで、しばし横になりました。
 まるで緊箍児(きんこじ)を填められた孫悟空のようです。

 偏頭痛の来襲がたまさか食後だったりすると、まるでセットになっているように襲ってくる胸焼けと吐き気……。危惧したとおり、昨日もやってきました。
 嵐が過ぎるまで身を竦ませて、ただただ耐えるほかありません。



 気を紛らわそうと倉嶋厚さんの「日和見の事典」(東京堂出版)を読んでいたら、「栗花落」と書いて「つゆ」、あるいは「つゆり」と読む、珍しい苗字があるのを知りました。
 当てずっぽうでもなんと読めばいいのかわからないのに、とても「つゆ」とは読めません。

 この姓が生まれたのはかなり古く、八世紀のことです。
 そのいわれは、というと ― 。
 兵庫県立歴史博物館の「ひょうご伝説紀行」に説明がありました。

 昔、六甲山の北にある山田の里(現在の神戸市北区山田町)に、山田左衛門という男が住んでいましたが、京の都に上って御所の庭仕事に雇われることになったそうです。
 ある日、御所の庭を掃いていると、いつもは中が見えない御殿の簾(すだれ)が上がっていました。そっと覗いてみると、大層美しいお姫様が坐っています。右大臣藤原豊成(704年-66年)の娘・白滝姫でした。

 豊成の娘ということは、当時都で一番美しいと評判だった中将姫と姉妹ということになります。さぞ美しかったことでしょう。左衛門はすっかり一目惚れしてしまいました。
 以来、左衛門の心は白滝姫のことでいっぱいになってしまうのですが、想う相手が右大臣の娘ではあまりにも身分が違い過ぎます。けれども、諦めようとすればするほど白滝姫を思う気持ちは強くなるのでした。
 左衛門は切ない心を歌に詠んで姫に贈ることにしました。

 水無月の 稲葉のつゆも こがるるに 雲井を落ちぬ 白滝の糸

 このような歌を詠めるとはたんなる鄙の男ではありません。ところが、姫からの返歌は、

 雲だにも かからぬ峰の 白滝を さのみな恋ひそ 山田男よ

 お前には私は高嶺の花だよ、というわけです。しかし、左衛門は諦め切れません。もう一度歌を贈りました。

 水無月の 稲葉の末も こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水

 この話を知った天皇(淳仁天皇)が左衛門と夫婦になるように姫に勧めたのです。
 こうして左衛門は白滝姫を妻に迎え、山田の里へ帰ることになりました。

 都から下って、現在の神戸市兵庫区都由乃町(つゆのちょう)あたりで一休みしていると、里の人たちがひどい旱魃で困っている様子です。それを聞いた白滝姫が杖で地面をつつくと、見る見るうちに清らかな水が湧き始めたので、里の人たちは大変喜びました。弘法大師みたいです。

 山田の里に着いてみると、左
衛門の家は白滝姫がこれまでに見たこともないようなあばら屋でした。夜になると、屋根の隙間から月の光が漏れてくるほどです。
 ちょうど梅雨に入ろうとする季節で、山田の里は栗の花の真っ盛りでした。

 やがて二人は男の子に恵まれます。しかし、白滝姫にとっては慣れない山里の暮らしです。次第に身体が弱り、とうとう病気に罹って、ある年の梅雨のころ、幼い子を残して死んでしまったのでした。

 左衛門は姫を手厚く葬りました。すると、その墓の前から清らかな泉が湧き出し、水面に栗の花が散り落ちたそうです。
 それから毎年、白滝姫が亡くなったころになると、泉には清水が満ち溢れ、決まって栗の花が散り落ちるのです。
 そこで左衛門は姓を栗花落(つゆ)と改め、泉の脇に御堂を建てて姫を祀りました。やがてその泉も、栗花落の井戸と呼ばれるようになりました。

 この井戸はいまでも左衛門の子孫が祀っているそうです。白滝姫が杖で泉を湧かせたところは栗花落の森と呼ばれ、こちらも大切に守られているそうです。

 別の伝承では男の名は左衛門ではなく、左衛門尉真勝(さえもんのじょうさねかつ)とされていて、夫婦になる経緯は前の話とほぼ同じですが、山田に帰るとき、歩き疲れた自分を背負う真勝の優しさに、思わず零した姫の涙が白水川という川となって流れた、とあります。

 一方、兵庫県からは遠く離れた群馬県にも白滝姫の伝説があります。現在の桐生市、太田市あたりはその昔山田郡といわれたところです。
 場所が異なるだけで、左衛門と白滝姫が夫婦になるあらすじは大体同じ。異なるのは、白滝姫が井戸を示す代わりに京織物の技術を伝え、それが「東の桐生、西の西陣」と賞されるほどの絹織物の産地となった、という伝承です。



 その桐生には織姫神社という社があり、御神体はこのような白滝姫なのだそうです。御開帳は五年に一度。画像は桐生ファッションウィークのホームページから拝借しました。
 なんとなんと織姫神社があるのは織姫町という典雅な町名です。桐生市役所も同じ町内。
 桐生市中央とか桐生市なんとか台とか、無粋な町名変更など決してせず、どうかどうか末永くこの典雅な町名を守ってもらいたい、と無関係者ながら祈る思いです。

 桐生に程近い栃木県足利市も古来織物の町であり、織姫神社がありますが、こちらは祭神が別なので、白滝姫とは関連がないようです。

 そろそろ野辺でも桔梗の花が咲く季節になりました。去年と較べると、今年は気温が低めだったので、蕾の具合はどうでしょうか。
 去年、二度見に行った茨城県取手にある高井城址の桔梗の群落、まだ見たことのない新鎌ヶ谷駅前の花壇……行きたいけれども、いまの体調では叶いそうにもありません。
 それから、是が非でも見たいと思っているのは、京都・智積院、同・東福寺天得院、同・廬山寺、さらに明智光秀公所縁の亀岡・谷性寺……それぞれの庭に咲く桔梗です。
 何事もなければ、今年のお盆休みに京都へ行くつもりでしたが、叶わなくなってしまいました。

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最後のブログを書いたけれど……

2010年06月12日 17時37分03秒 | つぶやき

 最後になるかもしれない、とブログに書いたあと、切々たる思いがこみ上げてきました。書いて遺しておきたいことがいっぱいある、という思いにとらわれたのです。
 ただ、体調が思わしくないこと、ほぼ万策が尽きていることには変わりがありません。

 夜中、非常に気持ちが悪くて目が覚め、戻しに起きようと思うのですが、嘔吐するのを我慢しているより、立ち上がるほうが辛い、というときがあります。枕許に洗面器を用意しておけばよかったと後悔しながら、仰向けになったまま、手を口に当て、思わず流す涙に泣き濡れて必死に堪えています。

 時間は午前二時過ぎ。
 夕食を取ったのは六時間ぐらい前です。知らず知らず変なものを食べたのが原因だとしたら、時間が経過し過ぎています。
 医師から指摘を受けている病のほかに、何か得体の知れない病が発生したのではないか、と思う。むしろ食中りであったほうが安心です。

 そのうち、気持ちの悪さは少しずつ去り(私には数分と思えても、時計を見ると一時間近く戦うのですが)、いつしか眠りに落ちています。
 朝、妙な夢を見ていると思うと、目覚めを迎えていて、夜中の出来事は幻ではなかったのか、と思います。しかし、口腔に残っている胃酸の苦々しさに気づいて、あれは確かに現実であった、と思い返すのです。
 眠ったのに疲れていて、起き上がるのが少し辛いけれども、起き上がれない体調ではない。

 散策に出ようか、という気になる日もあります。
 食欲は乏しいとはいっても、何も食べるものがなければ、買い物に行かなければなりません。しかし、昨日は普通に歩けたから今日も普通だろう、という保証はないのです。
 机に向かって坐っていると、とくに変わったことはなく、それじゃあと服を着替え、玄関まで廊下を歩いている(そんなに長い廊下があるのではありませんが)うちもなんでもない。ところが、外に出て歩き始めた途端、さして暑くもないのに頭がボーッとして脚がギクシャクしてくる。

 かと思うと、後頭部から両耳の上にかけて偏頭痛のような、シクシクとする痛みがあって、とてもではない! という日があります。
 私の抱えている病には偏頭痛のようなものを伴うこともある、と聞かされているので、取り乱したりはしませんが、非常に不快です。

 こんな状態では、日を決めて東京まで通院するのは不可能なように思え、そういうことに備えて多めにもらってある薬は継続して服んでいますが、どうも効いていないのではあーりませんか、と疑う毎日です。
 以前からの胃潰瘍関係、鉄分とヘモグロビン増量の薬に加え、リンパの流れを正常に保つ薬など種類と量が異様に増えて、一か月分などというと手提げの紙袋がいっぱいになります。
 規則正しく食事を摂らぬ、というより摂る気にならぬというのも要因かもしれませんが、毎日薬を多量に服用しても、一向に改善される気配がない。
 それで意を決して、最後になるかもしれぬ、とブログを書いたのでした。

 枕許に置いていたノートパソコンが完全に壊れてしまったので、ふらつく身体をなだめすかしながら、デスクトップパソコンを枕許に移動させました。
 これで、起きるのが辛い日でも、しばらくブログをつづけることができる。そう思い直して移動に踏み切ったのです。

 前のように気易く出歩くことはできないので、おのずと心象風景ばかりのブログに変質してしまうかもしれません。
 大体横になっていなければならないような日は退屈でしょうがない。昼間下手に眠ってしまったら、夜中は悶々としながら起きていなければなりません。時間潰しも兼ねて、です。

 ただ、ある日、パソコンの電源すら入れられないときが忍び寄る、という可能性は消えていないので、最後になるかもしれないと書いたブログに遺した挨拶はそのままにしておきます。

 体調がよくない日でも、トイレと喉の渇きだけは我慢して済む問題ではありません。ヨロヨロと立ち上がって用を済ませた帰り、本を持って布団に戻ります。しばらく仰向けに寝て呼吸を整えてから、一大決心をしてヨッコラショと腹這いになり、読書します。

 多くを処分してしまったので限られた数の本しかありませんが、いまは読書だけが楽しみであり、時間潰しです。

 引きつづき水上勉さんの「醍醐の櫻」を読んでいます。
 これは1986年から92年にかけて発表された短編七編を収めた本で、多くは心筋梗塞後の療養生活をテーマにしています。
 89年、水上さんは心筋梗塞に見舞われ、救急車で運ばれましたが、道路が混んでいて、やっと救急処置を受けられたときには心臓の三分の二が壊死してしまっていたそうです。
 そんな小さな心臓でも、リハビリによって一万歩歩いても平気という状態にまで戻ったのです。私はいまのところ心臓に病はありませんが、とても一万歩は歩けません。

 小説ですから登場人物はアルファベットであったり、別名であったりするのでしょうが、地名だけは実際に即しているようです。京都の地図を持ってきて、確かめながら読むのも愉しいものです。

 志賀直哉の「ある一頁」という初期の短編も京都を舞台にしています。読んで行くと、どうも地図どおりではないと思われるところがありますが、明治四十四年の作品なので、移転した建物があったりして、いまとは違っているのかしれませんが……。

 調子が悪いといっても、なんとか耐えられるのは、胃潰瘍で入院する三日ほど前から当日にかけて、本当に死ぬのではないかと思った、体調の悪さを思い出すからです。あのときの辛さ、絶望的な思いを思い返すと、多少のことなら耐えることができます。

 直接耳にした話ではないのですが、末期癌の宣告を受けた人が、私が胃潰瘍で「輸血」を受けたという話を聞いて、「それは大変な病気をされた」という感想を漏らしたそうです。末期癌の人が「大変」という病がこの世にあるものだろうかと思うと、前に較べれば平気だとはいっていられないのかもしれません。

 明日は松戸市長選挙の投票日です。昨日の夕暮れあたりから選挙カーの声が実に喧しい。それに加えて、竿竹売りと網戸の張り替えと廃品回収の声。
 とくに頻繁なのは廃品回収です。
 新松戸はマンション街で、一般の住宅地に較べると効率がいいと思うのか、取り分け訪問回数が多いようなのです。
 声を聞いていると、我が庵周辺によく出現する廃品回収の車は三台です。「当社担当ドライバーが……」といかにも一定規模の業者であると臭わせるところがちゃんちゃらおかしいし、一か所に腰を落ち著けて、延々とテープの声を流すのが耳障りで敵わない。
 後頭部に痛みのある日など、真下に停まられでもしたら、私の憤りは半端ではありません。
「生ごみ以外、なんでも……」といっていますが、もし出すとしたら、何か家電製品らしきものの奥に、ヌメヌメの生ごみを隠して出してやりたいと思います。

 無料だと喧伝しておいて金を取る輩もいると聞くし、まるで振り込め詐欺のように、高齢者だと足許を見る輩もいるそうです。
 部屋の整理を始めたので、いずれオーディオコンポやパソコンを処分する日がくるかもしれない。しかし、私はお金を払っても、市の粗大ごみに出そうと思います。

 はるじさん、千保さん、うー太さん、コメントありがとうございました。
 すでに親もなく、兄弟もない私には、お釈迦様と阿弥陀様が一緒におわしますだけです。ただ、決して敬虔な仏教徒とはいえないので、いて下さると思うお釈迦様や阿弥陀様はいないのかもしれません。現実問題として立派な天涯孤独です。



 鉢植えの桔梗が一輪だけ花を咲かせてくれました。わりと体調もよい日だったので、植木類に水遣りをしながらカメラに収めました。

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多分(?)最後のブログ

2010年06月08日 11時17分38秒 | つぶやき

 私はベジタリアンではないのですが、体調を崩して以降、わりと好きだった魚にはあまり食指が動かぬようになり、肉に到っては食べたいとも思わなくなりました。
 滋養のあるものを食べて、一日も早く体調を元に戻さねば、とは思うのですが、身体が欲していないものを無理に食べると、胸焼けを起こすのです。
 で、自然とおかずの中心は野菜類、豆類、海藻類になります。
 野菜サラダや野菜の煮っ転がしのたぐいをつくっていると、食器の脂汚れが少ないので、片づけも楽チンです。

 昨日は根深汁をつくりました。
 具は5センチほどの長さに切った長葱と白玉だけ。お椀によそったあと、白胡麻と七味唐辛子をかけます。
 本来味噌汁は煮立ててはいけないものですが、これは熱々にして、葱がニョロッと出てくるのに、口をすぼめてホッホッと舌を火傷しそうにしながら食べるのがよいので、充分煮立てます。
 江戸庶民が好んで食べた料理の一つだそうです。好んでというより、実際はこんなものしか食べられなかったのです。

 味噌は信州味噌が基本ですが、私は学生時代から仙台味噌です。
 ダシは煮干しを開いて取ります。江戸庶民はダシガラを棄てたりはせず、葱と一緒に食べたのだろうと思います。
 煮干しは買っておいても使うことがなく
、結局は湿気させてしまうか、黴を生やすのが関の山なので、私は市販のアゴダシを使いました。
 白玉をつくるのは少し手間がかかるので省くとして、葱だけではいくらなんでもエネルギーの素にならないので、浅蜊の剥き身を葱の下に隠してあります。
 しかし、浅蜊などを入れては根深汁落第です。



 根深とは長葱の別称です。土中深く育った根を食すのでこの名がつけられたとか。反対語は浅葱(あさつき)。

 結構美味しく出来上がりました。付け合わせに茄子のみぞれ炒め(右)もつくりました。これも我ながら美味しくできました。

 午後、近辺の地図を見ていたら、ほんのすぐ近くなのに、死角のような場所に女躰神社という社があったので出かけてみました。
 流山方面へ散策に行くときは必ず坂川を渡らなければなりません。行く先に橋の架かっていない道は歩かないので、我が庵から徒歩十分強という至近距離にもかかわらず、今日まで気がつかなかったのです。

 


 小さな神社です。
 もちろん無住。祭神は筑波女大神、すなわち伊弉冉尊です。
 入口に建てられた石柱には、この地区(横須賀地区)の鎮守として崇拝されてきたが、歴史は不明と彫られていました。



 拝殿右手に社務所のような建物があったので行ってみると、合祀されている三峯神社など五つの神社の神棚が祀ってありました。硝子越しに見ることができます。

 


 一番右。これは神棚形式ではなく、御札もなかったので、どこの神社かと思いましたが、梅鉢の社紋からして天満宮だと思われます。
 天満宮といえば有名なのは太宰府、北野、湯島です。三社とも社紋に梅の紋を用いているのは共通ですが、形が少しずつ異なっています。ここと同じ梅鉢紋を用いているのは湯島天神です。

 


 祭礼が行なわれるのは私の誕生日で、神棚と同じ場所に飾られていた神輿も出るようです。その日まで生きていたら見にこれるだろうかと、そのときはわりと気楽に考えて家路に着きました。ちょっと蒸し暑い日だったので、三十分程度の散策でも、かなり疲れて帰りました。

 gooにブログを開設して一年と十か月が経ちました。
 突然ですが、これが私の最後のブログになりそうです。

 昨夕、万策尽きたことを知らされました。
 友達がいれば、それとなくお別れを臭わせる電話をかけるところでしょうが、友達もおらず、天涯孤独な私には連絡すべき人もおりません。

 さて、万策尽きたとわかった暁には何をするかと考えた挙げ句、しばらく絶っていた煙草を買いに行き、プワーッと紫煙をくゆらせ、涙を流すほど咳き込んだあと、七時という早い時間から酒を呑みました。

 改めてパソコンに向かっている今朝は少し落ち著きを取り戻していますが、昨夕は素面(しらふ)ではとても耐えられなかったので……。
 早々に酔っ払い、九時前には高鼾でしたが、十一時、二時過ぎ、五時過ぎと三度も目を覚ましました。その都度妙な夢を見ていましたが、夢を見ていたという記憶だけがあって、内容は目覚めたとたんに忘れています。

 いままでお付き合いをして下さった方の多くは、私にとっては見ず知らずの方々ですが、つまらないブログに長々とお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
 できることなら、明日も明後日も更新をしたかった。
 が、どうやら無理なようなのです。
 更新できるかどうか、私をしてさせてくれるかどうかは神のみぞ知ること。

 とはいいながら……、一縷の希みにすがるような思いでおります。
 明日の朝を迎えれば、事態が好転していて、「最後」などと書いたのは少し早まったかな、と頭を掻くのではないか、と……。
 あるいは一定期間休むけれども、またいつの日か再開できるのではないか、と……。

 しかし、とりあえずはお別れを申し上げておかねばならぬと思います。ありがとうございました。

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根本城址から相模台城址、浅間神社へ

2010年06月05日 09時12分04秒 | 城址探訪

 シャツの袖口のボタンを留めようとして、手首がすっかり細くなっているのを実感しました。体重は量っていないけれど、おなか周りの肉の落ち方からして60キロは切っているだろうと思われます。
 85センチあったウエスト(というより腹周り)は70センチ台に落ちました。連れて、十年ほども行方不明だった腰骨が現われるようになりました。ダイエットに苦しむメタボさんには羨ましいかもしれませんが、私は逆に深刻です。

 一昨日から初夏らしい暑い日になりました。
 五月三十一日からの三日間、最低気温は10度を割って、夜になるともう一度ストーブを出そうかと考えるほどだったのに、一転、いきなり暑くなって、私の体調は悲鳴を上げています。
 しかし、市役所と社会福祉協議会へ行かなければならなかったので、鉛を巻きつけたような重い腰を上げました。
 前日の午後、行こうと思って一旦家を出たのですが、銀行と郵便局に寄って駅に向かう途中、必要な書類を忘れていることに気づいてUターンしたら、どっと疲れが出て、行くのを取りやめてしまったのです。

 昨六月四日は前日より暑くなったせいか、前日に増して体調がよくない。明日にするか、とサボリ癖が出かかったのを、今日行かなければ、月曜になってしまうと気づいて出かけました。
 食欲もなかったけれど、お茶漬けを無理矢理押し込んで、暑さに備えてマグボトルに冷やした烏龍茶を入れて……。
 家を出て数分歩いたところで、財布を忘れた、と思って戻りました。自分のうっかり癖にほとほと嫌気が差し、また気持ちが萎えかけましたが、二日もつづけて疲れたといってはいられません。
 家に戻って、財布はどこかと捜したら、なんと財布は持って出た鞄の中に入っていました。こういうことが段々頻繁になります。

 午後一時に市役所に着くように家を出たつもりですが、何を勘違いしていたのか、松戸駅に着いたときはまだ零時半前でした。
 前回市役所に行ったとき、担当者の身体が空くのを待つ間、待合の長椅子に坐っているのも退屈だったので、建物を出て近辺を徘徊、金山神社という小さなお社を見つけていました。お社そのものは小さいけれども、高さ15メートルという丘の上にあって、緑の多いところです。



 一時になるまで、そこで時間を潰すつもりで、確かこのあたりのはずだと道を折れると、岩山稲荷という別のお社がありました。
 古くは周辺の鎮守だったようです。伏見稲荷や豊川稲荷と同じように、岩山というのは地名か、あるいは岩でもあったので、単純に名づけたのか。

 松戸市役所周辺は小高い台地になっていて、戦国期まで根本城があったと考えられているところです。
 南北朝期、新田義貞がこの地に城を構えたのが始まり、という言い伝えがありますが
、城はそこまで古いかどうかは疑問。戦国期まで東葛地方を支配していた高城氏の支城だったというのが妥当だろうと思われます。
 天正年間(1573年-93年)に高城播磨守という人物が岩山稲荷を再興している、と記録にありますが、この人は大谷口(小金)城主だった胤吉の三男(胤知)ではないか、といわれています。



 岩山稲荷の鳥居の隣にはソープランド。
 不似合いのようですが、神社とお寺の違いはあるものの、一遍さんが生まれた伊予松山にある宝厳寺の下は道後温泉の歓楽街です。一遍さんが出家の道を選んだのは、そこで苦界に働く女性たちを見たから、ともいわれますから、不似合いのようでいて不似合いではないのかも。

 


 ソープランドの前を通り過ぎ、新京成の踏切を渡って、常磐線沿いに少し歩くと、前回訪れた金山神社です。無住の神社で、由緒を記すものもないので、由来は一つとしてわかりません。
 全国に分布している金山神社の一つであるとすれば、祭神は伊弉冉尊の吐物から生まれたという金山毘古(かなやまひこ)と金山毘売(かなやまひめ)です。
 二神は鉱山で働く人たちが祀る神ですが、このあたりに鉱山があったとは考えづらい。鉱山転じて鍛冶師・鋳物師などの守り神でもあったといいますから、かつては鍛冶の作業場があったのかもしれません。

 市役所で用を済ませたあと、ハローワークを覗くつもりで、真っ直ぐ南下。
 ハローワークは常磐線を挟んで、市役所とは反対側にあるので、駅のコンコースを横切ろうと思いましたが、ふと思いついてそのまま駅前を通り過ぎ、相模台公園の下に出ました。

 


 市役所からここまで徒歩十分ちょっと、という近い距離ですが、ここも相模台城という城のあった趾です。かなり急で長い石段があります。



 昔からあったものかどうか、階段を上り切ると、土塁を掘り下げたような地形につくられた広場が現われました。本郭があったと考えられるところはもっと先で、広場を突っ切り、一度階段を下らなければならないので、今日はパス。遺構らしいものも遺っていないようです。
 この城は北条長時(鎌倉幕府第六代執権)の築城になるという文書(岩瀬村誌)がありますが、それを確かだと裏づける史料はないようです。
 標高25メートルと、周辺では一段高いので、眺望はよかっただろうと思われます。

 長時の時代から約三百年後の天文七年(1538年)、足利義明(小弓公方)が後北条氏と戦ったときには足利の軍兵がこの台地に陣を敷き、後北条軍が江戸川(当時は太日川)を渡ってくるのを見張ったと「国府台戦記」には記されていて、これはどうやら史実の裏づけがあるようです。
 むろんいまはビルやマンションに視界を遮られて江戸川を見渡すことなどできません。

 ハローワークは相変わらずの人、人、人でした。
 最近、家でインターネット検索をしていなかったので、パソコンを借りて検索してみましたが、新しい求人はありませんでした。
 仕事を選んでいる場合ではないけれども、いまの私には重労働や長時間立ちっ放しという仕事は冗談ではなく死を意味します。それを除外してしまうと、仕事は……ない、のでした。
 一日も早く体調を元に戻さねば、と思うのですが、どうしようもないディレンマ。これでハローワークは四連続三振。金田と長島の対決もかくや。




 社会福祉協議会への行きはバスを利用しましたが、帰りはまた歩き。もう一度浅間神社に寄ってみました。
 カメラに収めると、こぢんまりとして見えますが、実際はかなり大きな小山です。



 石段(左手)の上り口に建つ極相林を示す石柱です。



 前回は雨雲が出て急に暗くなりましたが、今回は晴天の昼日中です。木漏れ日がありますが、やはり森の中は暗い。
 狛猿にカメラを向けると、オート発光モードにしてあるストロボが光ります。



 浅間神社にはどこも富士塚があります。
 大概は石を積み上げただけのものですが、この神社では標高18メートルの丘全体が富士塚です。社殿に到る石段の脇には高さを示す(これは二合目を示す標識)石柱が建てられています。

 外に出るのが稀になってしまった間に紫陽花(アジサイ)の季節です。
 かつての通勤路では紫陽花の花が咲き始めているでしょう。けれども、私がその群落を訪れることは二度とありません。
 ただ、野良のオフグ一家に会えないのだけは心残りです。

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