昨日と今日、小学校で朝8:30から同じ話を語りました。
昨日は、4年生、今日は3年生。
今日は、とても反省の残る語りをしてしまいました。
集中力が何度も途切れ、言葉のとちりが出ました。
登場人物の鶴と亀を間違えてしまったところもあります。
心残りの気持ちが大きく、しっかり考えようと思いました。
私の、語りの未熟さを書いてもしょうがないのですが、このブログを読んでくださっている方の多くは、語りや絵本の読み聞かせを、様々な形でされている方だと思いますので、こんな経験を書くのも、子どもたちへの読み聞かせに良い形でいかしてもらえたらと思って書きます。
お話は、私のオリジナルの創作民話『かんねんかずら』でした。
話は充分入っていて、愛着のあるお話なのに、まずい語りになりました。
集中力が途切れてとちるのは、心を込めてないのと同じになってしまいます。
心に絵を描いてもらうように願っている気持ちと裏腹に、話だけは、途切れないように、鶴と亀の固いつながりを結びつけるのに自然な気持ちではなく、言葉をつなぐのに必死になってしまいました。
お話の内容を伝えることしかできなかったのではないのかと、今振り返っています。
子どもたちがまっすぐ私を見つめて、静かにじっと耳を澄ましている顔が浮かび、深く反省しています。
今回、身にしみたことがありました。
それは、お話をアレンジすることの難しさと聞き手との関わりです。
昨日は、大らかにのびのびと語れたように思います。
方言から伝わる土着性、亀と鶴の友情、自然の雄大さ美しさ、言葉の由来話、オリジナル通り25分間のおはなし。
今日は、時間とプログラムの関係で、10分縮少版です。
検討も重ね、文庫のお母さん方などにも聞いてもらい、短くしても、充分楽しめるものだと、こうしたのです。
ところが、私の心の中では、お話がぶつ切れになってしまっていたのでした。
私は、今まで、お話のことばは、心の中に描かれたメロディのようだと言ってきました。
語っている時、私は、お話の言葉を思い浮かべるのではなく、体の中に、風景や音楽が巡っているのを感じ、それに任せます。
音符で書かれるメロディではなく、想いで書かれたメロディを語っているという気持ちです。
だから、音楽と語りは響きという点で重なると思っているのです。
温かい声も、響きを意識すると、自然にそこに至る道を考えます。
もちろん未だ考え中ですが。
でも、今日は、巡る音楽も風景も途切れ途切れなのです。
お話に味付けをしていくのは、語り手なら当然のこと。
表面の言葉だけでしか追えませんでした。
オリジナルの源流さえ、しっかり見失わなければ、話も集中力も決して途切れなかったのだろうと思います。
もちろん、ギリシャ神話もシェークスピアの大作も、源氏物語も、竹取物語も、芥川も漱石もその他どんな物語も、脚本されて語られるのはごく当たり前のことです。
出版されている本でも、ショートのものが多数出ています。
でも、自身が創作した話を縮小した時、私は、切り取って短くしただけでした。
脚本に練り上げる作業をしませんでした。
メロディは、流れていませんでした。
自分の話も操れないとは、本当に、情けないことです。
また、今日は、聞き手のひとりに、神経を奪われてしまったのです。
お話しの最初の頃、私は、あろうことか、目の前の子に、気をとられないように語ろうと一瞬思ってしまったのです。
目の前、30センチのところにいる子に。
その子は、ととととっと歩いてきて、きちんと整列している中に入らず、目の前に座りました。
どんな状況でも、大きな心で、受け入れる、余裕の語りをするためには、
こんな時は、教室全体を一つの目だと思うことにする臨機応変さも必要だったと思います。
自分もその状況をつかむために、呼吸を整えたり、間をもったりして、しっかり落ち着くことが肝心でした。中途半端はダメです。
みんなが耳を傾けているのですから。
お母さん方の「もう少し配慮すればよかったです」と言う言葉に、私は、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいました。
「そばに行って寄り添う語り」「心をつなぐ語り」といつも心にあるのに、私は、何をしているのだろう。
その子のご機嫌な顔を見れば、それは、素直な楽しみの姿でした。
私は、いつものようにその笑顔や声を受け止めて迷わず語ればよかったのだ。
願いや希望があっても、こんなことでは、足もとがちゃんとなってないな思いました。
これから、12月にかけて、お話し会がたくさんあります。
その中には、予期せぬこともおこるでしょう。
でも、おはなし会に集っているみんなは、今日の聞き手のみなさん。
楽しい時間は、そこからしか生れませんからね。
語りは、聞き手の顔を見てできるのですから、それをプラスに考えなくてはいけないですね。
これからも、時間の関係で、長いお話はショートにすることもあるでしょう。
でも、その場だけのショートストーリーにならぬように、愛情をかけたショート版にします。
絵本読み、朗読とは、また違う語りの魔物は、慣れてきたときに、入り込むものみたいです。
オリジナルが出来た時、そこに作品の魂が宿る。
オリジナルに手を入れるとき、乏しい想像で、魂の抜け殻にしない。
作品と向き合い、対話する時間を、もっともっとかけなくちゃいけないです。
私は、アーティストではないから、作るセンスはまるでない。
ならば、アーティストもどきにならぬようこだわるだけです。
「やはり、私らしく、子守唄かわらべうたではじめればよかった。語りは、そこからスタートしているのだから。」
いきなり語れる人は本当にすごいです。
どしんと落ち着いているんですね。
まだまだです。
語りとはなんでしょうねぇ。
全部自分に跳ね返ってきます。
毎回、試されているようです。
でも、迷ってはいけないですね。
昨日は、4年生、今日は3年生。
今日は、とても反省の残る語りをしてしまいました。
集中力が何度も途切れ、言葉のとちりが出ました。
登場人物の鶴と亀を間違えてしまったところもあります。
心残りの気持ちが大きく、しっかり考えようと思いました。
私の、語りの未熟さを書いてもしょうがないのですが、このブログを読んでくださっている方の多くは、語りや絵本の読み聞かせを、様々な形でされている方だと思いますので、こんな経験を書くのも、子どもたちへの読み聞かせに良い形でいかしてもらえたらと思って書きます。
お話は、私のオリジナルの創作民話『かんねんかずら』でした。
話は充分入っていて、愛着のあるお話なのに、まずい語りになりました。
集中力が途切れてとちるのは、心を込めてないのと同じになってしまいます。
心に絵を描いてもらうように願っている気持ちと裏腹に、話だけは、途切れないように、鶴と亀の固いつながりを結びつけるのに自然な気持ちではなく、言葉をつなぐのに必死になってしまいました。
お話の内容を伝えることしかできなかったのではないのかと、今振り返っています。
子どもたちがまっすぐ私を見つめて、静かにじっと耳を澄ましている顔が浮かび、深く反省しています。
今回、身にしみたことがありました。
それは、お話をアレンジすることの難しさと聞き手との関わりです。
昨日は、大らかにのびのびと語れたように思います。
方言から伝わる土着性、亀と鶴の友情、自然の雄大さ美しさ、言葉の由来話、オリジナル通り25分間のおはなし。
今日は、時間とプログラムの関係で、10分縮少版です。
検討も重ね、文庫のお母さん方などにも聞いてもらい、短くしても、充分楽しめるものだと、こうしたのです。
ところが、私の心の中では、お話がぶつ切れになってしまっていたのでした。
私は、今まで、お話のことばは、心の中に描かれたメロディのようだと言ってきました。
語っている時、私は、お話の言葉を思い浮かべるのではなく、体の中に、風景や音楽が巡っているのを感じ、それに任せます。
音符で書かれるメロディではなく、想いで書かれたメロディを語っているという気持ちです。
だから、音楽と語りは響きという点で重なると思っているのです。
温かい声も、響きを意識すると、自然にそこに至る道を考えます。
もちろん未だ考え中ですが。
でも、今日は、巡る音楽も風景も途切れ途切れなのです。
お話に味付けをしていくのは、語り手なら当然のこと。
表面の言葉だけでしか追えませんでした。
オリジナルの源流さえ、しっかり見失わなければ、話も集中力も決して途切れなかったのだろうと思います。
もちろん、ギリシャ神話もシェークスピアの大作も、源氏物語も、竹取物語も、芥川も漱石もその他どんな物語も、脚本されて語られるのはごく当たり前のことです。
出版されている本でも、ショートのものが多数出ています。
でも、自身が創作した話を縮小した時、私は、切り取って短くしただけでした。
脚本に練り上げる作業をしませんでした。
メロディは、流れていませんでした。
自分の話も操れないとは、本当に、情けないことです。
また、今日は、聞き手のひとりに、神経を奪われてしまったのです。
お話しの最初の頃、私は、あろうことか、目の前の子に、気をとられないように語ろうと一瞬思ってしまったのです。
目の前、30センチのところにいる子に。
その子は、ととととっと歩いてきて、きちんと整列している中に入らず、目の前に座りました。
どんな状況でも、大きな心で、受け入れる、余裕の語りをするためには、
こんな時は、教室全体を一つの目だと思うことにする臨機応変さも必要だったと思います。
自分もその状況をつかむために、呼吸を整えたり、間をもったりして、しっかり落ち着くことが肝心でした。中途半端はダメです。
みんなが耳を傾けているのですから。
お母さん方の「もう少し配慮すればよかったです」と言う言葉に、私は、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいました。
「そばに行って寄り添う語り」「心をつなぐ語り」といつも心にあるのに、私は、何をしているのだろう。
その子のご機嫌な顔を見れば、それは、素直な楽しみの姿でした。
私は、いつものようにその笑顔や声を受け止めて迷わず語ればよかったのだ。
願いや希望があっても、こんなことでは、足もとがちゃんとなってないな思いました。
これから、12月にかけて、お話し会がたくさんあります。
その中には、予期せぬこともおこるでしょう。
でも、おはなし会に集っているみんなは、今日の聞き手のみなさん。
楽しい時間は、そこからしか生れませんからね。
語りは、聞き手の顔を見てできるのですから、それをプラスに考えなくてはいけないですね。
これからも、時間の関係で、長いお話はショートにすることもあるでしょう。
でも、その場だけのショートストーリーにならぬように、愛情をかけたショート版にします。
絵本読み、朗読とは、また違う語りの魔物は、慣れてきたときに、入り込むものみたいです。
オリジナルが出来た時、そこに作品の魂が宿る。
オリジナルに手を入れるとき、乏しい想像で、魂の抜け殻にしない。
作品と向き合い、対話する時間を、もっともっとかけなくちゃいけないです。
私は、アーティストではないから、作るセンスはまるでない。
ならば、アーティストもどきにならぬようこだわるだけです。
「やはり、私らしく、子守唄かわらべうたではじめればよかった。語りは、そこからスタートしているのだから。」
いきなり語れる人は本当にすごいです。
どしんと落ち着いているんですね。
まだまだです。
語りとはなんでしょうねぇ。
全部自分に跳ね返ってきます。
毎回、試されているようです。
でも、迷ってはいけないですね。