子ども達が終業式を迎えた夜、実家から悲しい知らせが届きました。
この猛暑の中、祖母が、一人娘の母の目の前で、静かに永遠の眠りにつきました。
今日は、祖母の思い出を書きたいです。
祖母が滋賀から栃木に来て、18年。
突然倒れてから、7年、寝たきりの日々でした。
祖母は、8月生まれで、もう少しで86歳のお誕生日を迎えるところでした。
知らせを受け、朝一で、祖母に会いに行きました。
こんなことしか出来ませんでした。
滋賀よりずっと近くなったのに、こんなに大人になったのに、祖母の介護を手伝ったのは本当に数えるきりでした。
中学になるまで、家業の忙しさもあって、春、夏の休みは、ほとんどの日を私は滋賀で過ごしていました。
そこは、比叡山の麓、山間の村。
私には、そこで過ごした優しく厳しい祖母との思い出がいっぱいです。
私のおはなし好きも、祖母からきっと受け継いだものです。
夏の夜は、蚊帳の中で添い寝してくれ、私が寝るまで、ずっとうちわを仰いでくれていました。
そして、毎日、怖いおばけの話や彦一話、沼のかっぱや天狗のおはなしをしてくれたり、子守唄を歌ってくれました。
それは、何年経っても耳に残り、今ここに私が在ります。
栃木の母と暫く離れていてもちっとも寂しくありませんでした。
料理上手な祖母。
春・夏野菜と近江牛を使ったいろいろなお料理はとても美味しかったです。
その中でも、春先の山椒昆布、山椒ちりめん、夏の琵琶湖のごりの佃煮の味は、生涯忘れられない祖母の味です。
美味しい近江米と一緒に、たくさん食べていた記憶も豊かな思い出です。
祖母は、大正生まれの女性としては大柄で、とても色白で豊かな胸をしていました。
お風呂に一緒に入り、時に、抱っこされたりすると、なんとも居心地がよく、やっぱり、そこでもよくお話やわらべ歌を歌ってもらいました。
でも、厳しいところもいっぱいでした。
朝は、6時起床、土間や庭先の掃除、廊下ふき。午前中に、勉強と読書。
だから、夏の宿題は、すぐに終わってしまい、「もう、全部終わったからやることない」というと、「なんぼでも繰り返しい」と、漢字や計算ドリルを10回も繰り返すほどでした。
読んだ本は感想文にし、祖母の前で、音読させられました。ちゃちゃっと書いてしまうと、「書いたうちにはいらへん」と、よく、書き直させられました。
お昼を食べると、近所の子ども達が遊びに誘ってくれました。
祖母が、「孫が遊びに来るから、来たってな」と声をかけていてくれたのです。
夕方まで、汗だくになってめいいっぱい遊びました。
ラジオ体操もその子達と行きました。
夏の間、私は、その土地の子になり、隔てなく仲間入りできました。
毎日遊んだから、とても仲良しになり、その子達と遊べることも、私の夏の楽しみでした。
祖母の口癖は、「どもないどもない」。
痛いとこがあったときは、そう言いながら手でさすってくれました。
祖母は、手当ての名人でした。
祖母の声が聞えます。手の平の感触が甦ってきます。
休みのたびに、大きなリュックを持って祖母の家を訪ねると、
「のり、よう来たな。おばあちゃん、のりに会えるのを楽しみにずっと待ってたんやで」
と痛いほど私の顔や体をさすって喜んでくれました。
寝たきりになってから、私が顔を覗かせると、
「のりか、よう来てくれたな。おおきに。」
その声も体も、だんだん小さくなっていきましたが、祖母は、いつも私を待っていてくれました。
この山の麓で、祖母と最後のお別れをしました。
通学路から毎日見ていた風景。
涙が、後から後から溢れてきて、胸がとても苦しかったです。
実家宅での家族葬でしたので、最後は、ずっと傍にいることができました。
庭のさるすべりの、見事な薄桃色の花の束が太陽の強い光に輝いていました。
祖母もよく見上げていました。
この見事なさるすべりの頃が、おばあちゃんの命日の頃になるのだなぁとしみじみ思いました。
少し落ち着いたら、祖母が語ってくれたおはなしをまとめ、
おばあちゃんの名前から『繁野話』として、子ども達に語れるようにしたいと思っています。
語り伝えることは、おばあちゃんの残してくれた私への贈り物に息を吹き込み、その心に咲かせてくれたかわいい野の花を届けることになると思うから。
繁野原 野の花になり 帰り来る
おばあちゃんは、私の原風景に溶け込みました。
いつまでも心の中に。