比叡山延暦寺の東塔エリアにある
国宝殿に行く!!
訪ねた2021年秋のこの時期は
「法華総持院東塔」と「戒壇院」の特別拝観が行われていまして、その特別拝観券別途500円を購入すれば、この国宝殿にも入れるようになってまして
国宝殿では
2021年が元亀の法難(比叡山の焼き討ち)から450年の節目の年にあたるということで
比叡山延暦寺秋季特別催事
国宝殿特別展「戦国と比叡 ~信長の焼き討ちから比叡復興へ~」
が開催されてました…
1571年比叡山と対立した織田信長は山上の堂塔伽藍や坂本里坊や日吉社を悉く焼き払い、僧俗問わず多くの人々が犠牲になった「比叡山延暦寺焼き討ち」その後、1584年に山門再興の許可が下され、観音寺詮舜・施薬院全宗らによって復興事業が進められ、1642年、徳川家光の時に、天海大僧正の尽力のもと現在の根本中堂が再建された…
その戦国時代から江戸の山門復興に関わる資料及び文化財が65点、展示されていました…
展示構成は
第一章 戦乱期の比叡
・戦国武将と比叡山の関わり(織田信長・明智光秀・浅井長政)
第二章 比叡山復興へ
・豊臣秀吉による比叡山復興の認可
・観音寺詮舜・施薬院全宗らによる復興事業
第三章 徳川幕府と天海
・根本中堂をはじめ諸堂の再建、天海・家康に関わる文化財
これらは、すべて写真撮影禁止…
展示の目玉は、天海大僧正所用といわれている甲冑…
初公開だそうな…
兜に施されている装飾は、龍かなと思っていたら…「麒麟」でした…
某TV番組で天海大僧正のことについて「天海大僧正=明智光秀」説??が紹介されてたけど
まさに2020年NHK大河「麒麟がくる」…もう私の中では、この天海大僧正の甲冑を「生」でみたことで、100パーセント「天海大僧正=明智光秀」に思えてきて
織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを主導したのは明智光秀という説が有力ですが、その一方で焼けてしまった比叡山の麓、坂本里坊を復興させたのも明智光秀…
そのため坂本の地では名君とされて慕われている明智光秀…
明智光秀を慕う坂本の村人たちが明智光秀を匿って、その後比叡山にて天海大僧正になったに違いない??
天海大僧正所用といわれている甲冑をみて、天海大僧正は明智光秀だったんだと、決定的な根拠はなくても、そう思えちゃいました…
ただ、天海大僧正所用といわれている甲冑をみただけなのに…なんて単純な…苦笑
さてさて、比叡山延暦寺のお堂の印象が東照宮ぽいというか…なんか家光の影響を凄く受けているような…煌びやかな印象なんですが…
織田信長焼き討ち以前の伽藍はどうだったんでしょうね…徳川幕府が復興したから、焼けちゃう前の伽藍なんか意識せずに、復興しちゃっただろうし…
そんなことを思いながら、眺めた何点か並べられて展示してあった焼け焦げた、もはや炭とも思える仏像は、インパクトがありました…こんなふうに僧俗問わず多くの人々が焼かれてしまったんでしょうね…
思わず…エントランスに展示されている
平安時代にできたと伝わる1571年織田信長による比叡山焼き討ちの際に舟にのせて助け出されたという伝承をもつ
横川霊山院伝来の釈迦如来坐像に合掌
水難除けの仏様として信仰されている仏さまで、噂では、織田信長の焼き討ちの際、湖に投げ出され、自ら岸辺まで泳いだとか???
いやあ、ありえない!!なんてことはない…なんせ仏様ですからね…
さてさて比叡山延暦寺秋季特別催事国宝殿特別展「戦国と比叡 ~信長の焼き討ちから比叡復興へ~」の展示品とは関連のない…
伝教大師千二百年大遠忌記念企画展「伝教大師 最澄のみこころ―みんなが幸せにー」の展示…主にパネル展示が中心でしたが…
撮影可能でしたので……
平ぺったい最澄さん…
「いっしょに写真をとってね」とのことですが、立ち並ぶスペースがありませんでした…(笑)
立って一緒にとれるスペース確保の「おもいやり」が欲しかったかも???
さてさて、ここでは伝教大師の生涯を知ることができます…大講堂へ向かう参道のパネルでも生涯を知ることができるので、ここでは復習の意味もこめて…
これからのパネルを眺めれば、熱く30分ほどは最澄(伝導大師)について語れるに違いない…
なんなら最澄(伝導大師)について語る最澄時間…もとい…最長(さいちょう)時間に挑戦してみてくださいな…
まずは伝導大師の理念
12歳で仏門に入り14歳で得度、名を「最澄」に
比叡山にこもる
「世間から離れ自分自身をみつめよう」…これ大事かも知れないなあ…私なんか、俗世間に揉まれちゃてますからね…
修行の決意
「私はおろかな人間である」ことは間違いないけど、私が修行しに比叡山に行ったら、きっと永遠に山を降りられないような…だって、心が澱んじゃってますからね…
法華経…お釈迦様の教え
一乗止観院(現在の根本中堂)を建立
この時灯明(不滅の法灯)を供えたんですね
経蔵を建立
桓武天皇の信頼を得たんですね…裏切ったら…おかんむり(お桓武り)…なんてね!
唐の天台山へ
そして天台宗開宗(かいしゅう)へと…今、根本中堂は改修(かいしゅう)…私のところは、火、金曜日が、ゴミかいしゅう(回収)日ですけどね…なんのこっちゃ!
六所宝塔の建立へと
大乗仏教と小乗仏教との論争
要望は聞き入られず
養成方法を定める「山家学生式」の制定
12年間、山(ヤマ)を降りずに、学問と修行
そう思うと、私の職場の机上のヤマなど、なんてことないかも
56歳で、ご入滅
お亡くなりになった後、戒壇院が建立されたり、延暦寺という寺号を授かったり、伝導大師の号を授かったり
「日本仏教の母なる山」として各宗が開祖していったとのこと
そんな仏様の教えもパネル展示されてまして
仏様の心ってなあに…の問いかけに
この下のパネルで気に留めたことは一つ
パネル右下の赤い服着た女の子
「でも苦しいことがいっぱいある」って言ってるけど、若すぎるやろー!!
「誰かの役に立つことをすればいいのですよ」
の下に描かれている「仏様」の絵をみて
まずは「コックリ」♪??…ウトウト昼寝かよー!!と読み間違えてしまった私…
もう目が近眼に老眼が伴い…勤労感謝の日…ならぬ…「近老眼者」の日になってますからね…
ラストのパネルは
「一隅を照らす」
そんな伝教大師からのお言葉
「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」
「それぞれの立場で精一杯努力する人はみんな、何者にも代えがたい大事な国の宝だ」という意味…
はい、今の立場でも、腐らずに…言葉が滲みますなあ…
「己を忘れて 他を利するは 慈悲の極みなり」
自分のことはさることながら、他の人のために尽くすことが最高の慈悲である…う~ん、言葉が痛く沁みますなあ…
「道心の中に衣食あり. 衣食の中に道心なし」
道を求めて努力を重ねる向上心があれば、その目的を達成するのに必要な衣食住は、十分とはいえないまでも、おのずとついてくる、お金のことやら衣食のこと、物質の充足のことを中心に考えているところには、道心というものは全くないと同時に仏法もありません…という意…
欲で澱んだ私の心には痛いほどありがたいお言葉…
いやあ、比叡山延暦寺にきてよかった…
「参拝」よりも「散財」やがな!と思った煩悩だらけの想いを心から反省しつつ仏様の絵を眺める…
仏様シリーズ…薬師如来さま
観世音菩薩さま
常不軽菩薩は、人に嘲られ石を投げられて迫害を受けながらも人々を礼拝し続けた菩薩
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」…この詩が書かれた手帳の数十ページ後には、「不軽菩薩」の詩が記されていて…この菩薩は法華経に登場し、法華経を厚く信仰する賢治にとって特別な存在だったようで
説法図
そして最澄こと伝教大師
そして、仏様大集合の図
そんな展示画やパネルに囲まれて
もう、この展示室がパワースポットであるかのよう…
さてさて最後に紹介するのは
比叡山に住んでいた鬼「酒呑童子」
「童子」というからには子供の鬼???子供のくせして酒呑はあかんやろ!!というツッコミはともかくとして
この鬼も、ひょっとしたら1571年におこった織田信長の「比叡山焼き討ち」で…焼けてしまったのでしょうか…
この鬼にとって、火攻めを行った織田信長こそが、「鬼」にみえたに違いない???
おそらく「酒呑童子」にとっては織田信長というよりも、「おに信長」だったに違いない…
「酒呑童子」と「おに信長」…鬼はどっちだ???
「酒呑童子」のいたずらに…「おに信長」の火攻めに
「ひえー!!」と逃げ回ったから「ひえー山延暦寺」???
さてさて、
国宝殿をでて「ひえー山延暦寺」の東塔地域をぐるっと廻っただけ…この時点で、そこそこ足が棒になってるんですが…
西塔地域と…横川地域が残っているので、まだ3分の1
この山全体をすべて火攻めにしたなんて、織田信長もさぞ大変だった??だろうな…と心底思いながら???
西塔地域へと…続く