私は「トロツキーの音楽論」という論文をロシア文学者の先生から送られてきた夢をみたことがある。革命家の音楽論か、妙だなと思った。ちょうどその頃、ロシア・フォルマリズムとハイデガーの詩論を結びつけ、「世界を見慣れないものに還元して生まれたままの眼で見るのが詩の技術」と位置づけ、そのうえにバシュラールの「詩人のイメージが生まれる瞬間を追体験しよう」という詩学を論じ、さらにエリアーデの「聖と俗」を読んで、宗教的人間の覚醒と詩人の共通点を探ろうという、無謀な論文を仕上げている最中だった。そのイメージが「トロツキーの音楽論」というかたちで夢に出てくる。夢はひょっとしていたずら者ではないかとさえ思う。
詩情というとりとめのないものを理論づける詩学の分野は、アリストテレスの「詩学」まで遡れるが、古代の修辞学者たちは競って「詩学」に挑戦したものだ。それは詩を書く技術を教えます、といった物で古代にはウェルギリウスの「農耕詩」とかオウィディウスの「恋の技法」とか、何かの技術を教える本が盛んに書かれていて、「詩学」もまたその分野の一つなのだった。
現代ではソシュールとローマン・ヤコブソンの言語学・記号学を基にした詩学が盛んで、そこから村落や入れ墨の模様の構造を読み解く、レヴィ=ストロースの構造主義とか、ジャック・ラカンの病理のレトリックを読み解く記号論的精神分析とか、いろいろ面白いものが出てきた。といっても人類学の構造理論は調査の内側からライデン学派が導きだしたことが再評価されてりして、言語学一辺倒ではない。
ガストン・バシュラールの詩学は現象学に基づいていて、意識に物事が立ち現れてくる瞬間を先入観なく記述しよう、というフッサールの考えに沿っている。
ハイデガーの詩論は独自の「存在の立ち現れを事象の根源とする」という哲学から生まれたもので、言葉とは、存在の家である、言葉は相反するものを影として含みこむ、といった考察から展開する。
エリアーデの宗教現象学は、人は聖なるものの立ち現れに直面して、聖なるものを中心としてその周りに世界を築く、といった原初の宗教の出現の瞬間を、比較文化論的に、見てきたように再現して見せる。
そのように詩的発見のような「驚き」が宗教の始まりなのだが、時と共に宗教は制度化・硬直化する。そうすると預言者やイエスのような者が現れて、硬直言語に、詩的な揺さぶりをかける。その辺は高尾利数「ソシュールで読む聖書物語」に詳しく書いてある。
ファリサイ派やサドカイ派の学者たちは、制度化した網目で人々を縛っている。その囚われから、イエスは詩的な仕方で連れ出そうとした。
そんな話を美大で書いたことがある。その他詩学関係の本を訳したりして、センチメントを論理的に語るという課題に取り組んではいるのだが、そこからすり抜けてしまうものは、当然、無数にある。
(I’d love to turn you on).
初出コラボブログ http://blogs.yahoo.co.jp/soularjp/58715209.html
If you become naked
言葉の行方探って
言葉の体触って
言葉の裏をかいて進むか
鳥かごの言葉
蒸発者の言葉
廃人の言葉響くか
胸に解き放ってへたな決まり外して好きに取り替えて
胸に焼きついたあの日だけ探してもう取り戻せなくたって
変化にはいい機会
僕の受けた仕打ちは善人を悪人に変えてしまう
でもその一行は書けるかもしれない
If you become naked
友人とコラボレーションをしている関係で、久しぶりに詩を書いた。友人が言葉を操る難しさを語ったので、前半はその反響。「鳥かごの言葉 蒸発者の言葉 廃人の言葉 響くか」、というのは寺山修司的な語彙であるが、テレビで使えないような禁句である。「胸に解き放って~」は詩の作り方の復習、「胸に焼きついた~」は歌の歌詞的な青春感情の吐露。「変化には~しまう」までは頭に流れてきたドリームアカデミーの「プリーズ・プリーズ・プリーズ」(モリッシー作)の一節。でもその一行は書けるかもしれない、は鈴木慶一の「黒いシェパード」の影響。If you become nakedはビートルズのレボルーション#9の断片でオノ・ヨーコがつぶやいていた言葉。詩は難しい。