ハイデガーの「ニーチェ」を途中まで読む。先取りすると、情動的な、存在者の本性としての力への意志は、存在の発露であり、存在性の主体性への転化だというのがハイデガーの意見である。
「力への意志(生成)=永劫回帰(永遠)」と結びつけたのがニーチェ哲学独特のくふうと言える。
永劫回帰は歴史上同じパターンが繰り返されるというような比喩ではなく、文字通り今ここの同じ瞬間が過去も何回となく繰り返されてきたし、未来も全く同じ瞬間が幾度となく無限に繰り返されることなのだ。
永劫回帰は証明できるような命題ではなく、君は永劫回帰に耐えられるか、と問いで語られるニーチェの反復観念的ヴィジョンである。
ハイデガーによればテクネーとしての芸術はピュシス(自然)を呼び来たらし、招き入れる技ということだ。
力への意志はなかったものを存在のなかに招来する芸術家という存在によく見てとれる。ショーペンハウアーにとって芸術は鎮静剤(ダウナー)だが、ニーチェにとって芸術は興奮剤(アッパー)である。
ニーチェの芸術観はプラトニズムの転倒である。超越的真実在の美の幻視を重視したプラトニズムに対し、ニーチェはこの現実世界の感覚的な美を作り出す芸術家を新しい哲学者と重ね合わせた。
この世を天界より低く見るプラトニズム、キリスト教を弱者による価値観の倒錯だとニーチェは考え、そのような価値観の根底からの転覆のかなめに力への意志を置いた。
力への意志と言うと人間的な特徴に思えるが、ニーチェは自然をはじめ森羅万象に力への意志を見ていた。
ハイデガーはニーチェを最後の形而上学者だと言い、存在忘却だと言うが、詳しく読んでみるとニーチェの思索が形而上学に躍入せざるを得なかったのは、存在が固有の本質を力への意志として映発させたからだと言う。ハイデガー的にみると人間にできるのは存在の片鱗に触れ、存在の恩恵に思いを巡らせることのようだ。
ハイデガーの存在は人間にとって他力であり、ニーチェの力への意志は各々にとって自力である。
力への意志を存在が立ち現われる潜勢力として見ると対決が回避できるように思える。
存在と意志のきずなを見出すことが必要だ。
ポーセリンとタスマニア交響楽団のベートーヴェン全集を聞いて眠る。(ピアノ伴奏つき)
無垢な児がまっすぐ立つと決めたとき 野の花たちに笑みがこぼれる